海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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9.7月20日/マイ・アイアン・ラング(1)

「え?」

 

 カナタがたった一言を搾り出すまで、長い間があった。

 

「これで終わりだ。俺はもう、カナタには関わらない」

 

 それからレイジが返事をするまで、更に長い、永遠のような間。

 彼の前で卵焼きは湯気を上げ、ゆっくりゆっくり冷めていく。

 最後の別れのようにその香りを吸い込んでから、ゴツい両手を、静かに皿の両側に下ろす。レイジが再び顔を上げたとき、二十余人分の敵意が彼に突き刺さった。

 

「俺のことは放っておいてほしい」

 

 カナタの背後に集まったクラスメートたちが、その肩越しに一斉にレイジを睨みつけた。

 何を考えているか分からない男が、本当に、何を考えているのか、予想も理解も及ばない怪物になってしまった。

 

「いやだ」

 

 カナタの震える声を聞きながら、レイジはまた、うつむく。

 そんな彼はここ数日で一番「にんげん」らしい、自然な微笑を浮かべていた。

 

「いやだ。やだやだ。何言ってんだ。アタシ……アタシ、レイジと一緒にいるって決めたんだ」

「大丈夫、だ。カナタはきっと、幸せになれる」

 

 敷地の外から響く都市の騒音が、いやに近く感じる。

 

「そのためには、俺と一緒じゃダメなんだ」

 

 壁掛けの扇風機のうなり。ブラウン管が吐き出すノイズ混じりの地域探訪。ザワちんの咳。声にならないボタ子の呟き。苦しげなカナタの呼吸。

 すべてが響きすぎる。食堂は、静かな地獄だった。

 

 ギシッ──イスの上で身じろいだヨシが、大きな音を立てた。

 

 こことA-6500シャフトとの間に、違いはない。

 カナタはかつて自分の心を手折られた場所の空気を、もう一度吸っていた。

 彼女は裏切られ、痛めつけられ、震えて怯えて崩れかけ────

 

「おいおい。いつアタシが幸せになりたいなんて言った?」

 

 そして一瞬で立ち直った。

 

「でも、そうだな。今日はちっとばかし、急ぎすぎた、かも」

 

 壊れた腕を無理やり折り曲げ、彼女は腰に手を当てる。視線の先には薄汚れた卵焼きがある。彼女はハンと鼻を鳴らし、少年のように歯を見せて笑った。

 

「よく見たらなんだよ、失敗作持ち込むなんて、アタシらしくねえ。こんなん出されても、キモチ悪ィよなあ」

「カナタ、せんぱ……」

 

 とっさにマリコが伸ばした腕を、彼女は振り払った。

 

「そんな顔されたら、アタシがかわいそうなヤツみてえじゃねえか。いいから覚悟しろよ、作り直し、手伝ってもらうからな!」

「でも。これだって、パイセンが何度も何度もリテイクしたヤツじゃないスかあ!」

 

 逆だ。カナタはひたすら笑って、泣きそうになっているのはマリコだ。

 これは、この黒染めの卵焼きは、笑い飛ばしていいような代物ではないと知っている。一緒に作ったから分かる。味見したからよく分かる。

 この一皿に至るまでに積み上げてきた無様な失敗作たちにすら──レイジと向き合いたいという彼女のひたむきな心が詰め込まれていた。

 

「フフン。アタシ、もうダセーとこ見せないって決めたから」

 

 しがみついてくるマリコを何度振り払ってもムダだと知ったカナタは、彼女の頭を静かに撫でる。

 

「出直しだ! レイジ、アタシのシツコさ、甘く見ンじゃねえぞ!」

 

 そして、もう折れないと告げるのだ。

 

「ムダだ。俺は、もう……」

 

 ゆっくりと、しかし決定的に──言いかけたレイジの言葉を、カナタが笑い飛ばす。

 

「ハハハハッ、知るか知るか、オマエじゃねえ。ぜーんぶアタシのジコマンだ。最後まで付き合ってもらうかんな!」

 

 背後でレイジが何を言ってもムダだ。

 カナタはスリッパの底をパカパカ小気味よく打ち鳴らしながら、すでに食堂の出口へと向かっている。

 その背中がドアの向こうに消えた後もしばらく、元気な笑い声が聞こえてきていた。

 

「どうしてスか……このバカ」

 

 取り残されたマリコが、キっとレイジを睨みつける。

 両手をついたときのままの姿で、彼は目の前の卵焼きをじっと見つめている。怒りを滲ませたマリコの困惑も、全方位から放たれる剣呑なオーラにも動じず、ただ、じっと。

 

「こないだもそース。カナタ先輩のためって言って、どうして遠ざけて、傷つけるようなコトしかできないんスか……」

「マリコちゃあん」

 

 今まで黙っていたヨシが発した声音は、とても柔和だった。

 聞いてる誰もが背筋を毛羽立った布でこすられる錯覚を覚えるほど、不気味で優しく、そして嵐の前の空気のように不穏だ。

 

「カナタちゃんをね。捕まえておいてほしいんだよねえ」

「え?」

「このままなんてさあ。イヤだろ、みんな」

「は──ああ、なるほど」

 

 何かを納得したようにポンと手を打ったあと、マリコの目はヨシから、レイジへとスライドする。

 彼は卵焼きを目の前に置いたまま、顔を額を覆っている。

 マリコはそこに恨み言の一発でも吐き捨ててやろうとして──やめた。これから始まることを思えば、むしろ、つかの間の静けさをやろうという気持ちが勝つ。

 

「ケリ、つけんスか」

「最後の荒療治だな。どうなるかワカんねーけど。屋上で、ヨロしく」

 

 彼女はスリッパをパタパタ鳴らしていって、すぐに食堂から姿を消す。

 この場に残されたのは息をしているだけで鼻の奥がツンとするような張り詰めた緊張感と、レイジに対する敵意と憎しみだ。

 レイジはふっーと長いため息を吐いて、卵焼きを見つめる。ここでの彼はもう、理解不能の怪物だ。

 ミサイルや機銃をいくら浴びせかけられてもビクともしないゴジラのように、相変わらずの無表情で、卵焼きに手を伸ばす。

 

「おーっと。コレは俺ンだ。触るんじゃねえよクソレイジが」

 

 そんな彼の前から、皿が掻っ攫われた。

 

「あっ」

 

 生々しい切り傷の跡が残る唇に、卵焼きがひとつ、放り込まれる。

 

「うん──ウン。うん、うめえ!」

 

 ふたつ、みっつ。黒い体液が染みたものすら、何の躊躇もなく頬張ったヨシが、百点満点のスマイルを投げかける。

 

「ヨシ、やめろ……」

 

 呆然と、まるで自分の体の一部が食われていくような顔で、レイジがそれを見る。

 ヨシはテーブルに片足かけて、卵焼きを食べ続ける。

 よっつ、いつつ……口の端から卵のかけらが零れ落ちる。ヨシは笑っていた。大口を開け、見せ付けるように、レイジの目を見たまま。

 

「これ絶品だぜええ! やっぱ心が篭ってるメシってのはうめえモンだなあ、なあレイジ! ありがとなあ!」

「返せ──それ──俺の──!」

「あんだって。聞こえねえよ、図体ばっかのゴリラが」

 

 またひとつ、そしてもうひとつ。見せ付けるように。

 カナタが一生懸命作った卵焼きが、ヨシの大口の中に消えていく。なくなってしまう。彼女がレイジに向き合おうとした気持ちすら。

 失われて、なくなる。

 レイジが心に抱える虚無の中で、一筋の稲光が閃いた。

 

「返せよ」

「はは──なんで?」

 

 レイジを、じりじりと焦燥が苛む。

 

「お前がどんなヤツか、俺分かってんだぜ」

「あ?」

「お前にとってカナタちゃんは綺麗でいい匂いがする女の子なんだろ。今のあの子は、お前にとっちゃ違う何か。言葉飾っちゃいるが、お前──」

 

 ゴッ

 

 鈍い音が食堂に鳴り響いた。

 何事かと全員がそちらに目を向けた先で、ヨシが吹き飛んでいた。

 彼の体は向かいにあった列のベンチをなぎ倒し、重みで足が折れたテーブルが、沈み行くタイタニックのように傾いていた。

 インパクトの衝撃で彼の手から離れた卵焼きは皿ごとクルクル宙を舞い──ルリコの手元に、自然に落ちてきた。

 

「あらま。私ったらナイスキャッチ」

 

 気の抜けた彼女の呟きを聞きながら、レイジは自分の拳を、信じられないように見下ろす。

 殴ってしまった。

 とっさに、全力で。その事実をいくら頭の中で否定しようとしても、そこにまだ、ヨシの頬骨を打ったときの生々しい感触が残っている。

 

「あ、ヨシ、今のは。すまな──」

「は。ハハハ、ハハハハハッ! やっぱこうでなくっちゃなあ!」

 

 レイジがヨシの方に目を向けたとき、顔の前に、きれい二つ並んだ足の裏があった。

 ズグムッ。鼻の軟骨がへしゃげて顔の内側にめり込むのを感じながら、レイジの視界がブラックアウトする。

 

 ガッ────シャアアアアン

 

「ぐおおおおッ!?」

 

 レイジを食堂の端まで吹き飛ばしたのは、助走付きの顔面ドロップキックだった。

 ヨシの足。食堂のベンチ。調味料の醤油と誰かの参考書。あらゆるものと絡み合いながらテーブルをなぎ倒し、レイジの意識が一瞬薄れる。

 

 重い重い、一撃だった。

 

「おいコラ、寝てんじゃねーぞ」

 

 彼の目の前に、影が立つ。

 テーブルをまたいでやってきたヨシを、レイジは見上げた。鼻がひどい。

 折れたか砕けたかして、血が止まらない。

 

「これで終わりなんて言わねえよなあ もっとハデにやろうぜ。俺、懐かしくなっちまった」

 

 ぐらつく視界の中、床を這うレイジの顔面に、ヨシのスリ切れたシューズが振りかぶられる。

 爪先が叩き込まれた瞬間、レイジの頭蓋骨が、まるで開戦のゴングのように甲高く打ち鳴らされた。

 

 ■

 

「なんか……交通事故みてーな、すごくイヤな音が……」

 

 食堂から離れゆくカナタは、背後から響いた物音で振り返った。

 

「お。さっそくおっぱじめたみたいスね」

 

 彼女に肩を貸していたマリコがヒュウと吹いた口笛が、静まり返った廊下に大きく響き渡る。

 

「はじめる? 何をだ?」

「いいからいいから。センパイ、早くいこっス」

 

 音の正体を確かめにいこうとするカナタの背中を軽くたたいて、半ば強引にマリコは誘導していく。

 その行き先は、明らかに女子部屋とは違う方向だ。

 

「勉強前には息抜きが肝心。早く行かないと、特等席、逃がすッスよ」

「特等席? 行くって、どこに?」

 

 カナタは訝りながらも、とりあえずマリコについていく。

 

 ■

 

 滝のように流れる鼻血がシャツの胸元を染め上げていく。

 血まみれでようやく立ち上がったレイジは、驚愕していた。彼は七年間、ずっと鍛えて、キリエのもとで格闘の手ほどきまで受けてきた。

 にも関わらず、ただの喧嘩番長に一瞬で床に転がされていた。

 

「わからない……どうして……だ」

 

 相変わらず、彼にはわからないことばかりだ。

 

「このクソボケが」

 

 そう言って指を鳴らすヨシが、どうしてここまで強いのか。

 全部諦めるつもりでカナタを突き放したはずの自分が、どうして未練がましく卵焼きにこだわり続けているのか。

 わからない。わからない。

 

「おめえ、こうなったからにゃ、もう進むっきゃねえぞ」

 

 何も分からないが──なにか重大な事件が始まってしまった。

 

「なにをだ。どこへだ。卵焼きを、返せ」

「ああ~、あのおいしいおいしい卵焼きねえ。でもなあ、ここでホイと返すのもなァ」

 

 ヨシは、食堂に集まった生徒たちを見回した。

 みんな何かを期待するように二人を見つめている。ここは2-A。学校でも指折りの鼻つまみ者たちが押し込められるサーカスだ。

 檻に押し込まれた猛獣が、鎖を引きちぎって暴れ出す──そんな瞬間を、みんな息を殺して待っている。

 

「俺と一緒に、少年漫画みたいになろうや」

 

 ピっと伸びたヨシの人差し指が、天井を指す。

 

「屋上、行こうぜ」

「ガチンコファイトよーッ!!」

 

 そこで思いっきり叫んだのは、あろうことかルリコだった。

 彼女の声で火がつけられたように、それまで静かに成り行きを見守っていたクラスメートたちがガチャゴチャと騒がしくイスを引いて立ち上がる音が鳴り響く。

 

「ホラホラ、ケンカと祭りは夏のなんたら! 部屋で伸びてるヤツら叩き起こして! ガス抜き、大爆発! 特別イベントよ! 分かったら屋上集合!」

 

 ルリコの号令で、彼らはスクランブル要請がかかったように食堂から飛び出していく。

 無駄なく、分担して、すべての部屋のドアを開けて叫んで回る。

 そこで放たれる言葉は、こんな感じだ。

 

「レイジのバカとヨシのアンポンタンが決闘だってよ!」

 

 数十人分の慌しい足音と叫び声は鉄筋コンクリートの壁を貫き、屋上にまで届いて響き渡る。

 それは当然、カナタたちのもとにも聞こえてきた。

 

「は、はあ!?」

 

 包帯の切れ端をいじっていたカナタは仰天する。

 決闘なんて聞き慣れない言葉もそうだが、よりによって合宿の大詰めという時に、さっきまで自分と話していたレイジが、あのヨシと大激突。

 オマケに決戦の場はまさにここ、屋上でという。カナタの耳に入ってくる情報のすべてがムチャクチャだ。理解不能だ。

 

「何でだよ!? どーしてだ!?」

 

 あたりまえに、カナタは目をぐるぐる回す。そんな彼女がとっさに飛び出していこうとするのを、隣にいたマリコが腕をホールドして離そうととしない。

 

「ま、マリコ、はなせっ、どけっ、ととと止めなきゃとりあえずッ」

「ダメす。ヨシくんから任されてんで。ウチらもハラくくって……ここで隠れて、見届けるっスよ」

 

 見る見る間に、満月が照らし出す屋上に人が集まり始める。

 これから始まるのは、楽しい楽しい公開処刑だ。

 みんな先の見えない勉強合宿に、そして初日から問題を撒き散らしまくってきたレイジに、鬱憤がたまりまくってる。

 自然と円を作り、バトルの舞台を整えた彼らの期待は、屋上の入り口に二匹の獣が姿を現すと同時に渦を巻く熱狂へと変わった。

 歓声がビリビリとカナタの鼓膜を震わせた。とても、二十数名分の声とは思えない。

 

「会長が号令かけたんだ。やっちまってイイってこったよなあ!?」

 

 入り口に立ち尽くすレイジを押しのけて、ヨシが円の中央に躍り出る。

 諸手を広げ、まるで謁見するローマの剣闘士のように、いつの間にか給水タンクの上に乗ったとある人物を見据える。

 

「許す」

 

 サムズアップ。女王(クイーン)の返答に、場は更に沸き立った。

 

「でもアンタら、テスト前だってこと忘れんじゃないわよ。バカにならない程度に殴り合う。それが条件」

 

 ルリコに向かって恭しく礼をしたヨシが、レイジに手招きする。

 もとはといえばこの状況を引き起こしたのはレイジなのだが、彼はまだ、屋上の入り口でまごついていた。

 

「ルリコ……」

「気安く私の名を呼ばないでちょうだい」

 

 彼が救いを求めるように見上げた先で、いつになく冷酷に、彼女は顔をそらす。

 

「今のアンタはただの闘犬(ピットブル)。いいわね」

 

 引き返そうにも、クラス全員で作り出したリングはすでに彼の背後に回りこみ、退路を絶っていた。

 背後で誰かが無言のまま肩を押した。壁のような生徒たちに追いやられ、レイジはよろめきながら、円の中央へと歩を進める。

 歓声と熱気がうなりとなって全身を打ち据え、彼はくらくらする。

 その輪の中に、カナタは見えないと知って、彼は密かに胸を撫で下ろした。

 

「ちょっとムカつく形だけどよ──」

 

 靴も靴下もスポン! と脱ぎ散らかし、ヨシは裸足だ。彼はとうにウォームアップしており、夜風の中で彼の刻むフットワークが冴える。

 

「──俺、お前といっぺんやってみたかったんだよね」

 

 レイジはファイティングポーズを取る。いつものボクシングの構えだ。

 

「俺は強い。やめておけ。ケガするぞ」

「うおおおおおーいッ!?」

 

 しぶしぶ靴を脱ぎ始めたレイジの言葉を、ヨシの大声が掻き消した。

 

「聞いたか聞いたか、こいつヤる前から勝てるつもりでいやがるぜ! てめーら、俺の暴れん坊伝説忘れちまったワケじゃねえよなァ!?」

 

 スゴ腕のエンターテイナーと化したヨシが、既にこの場の空気を掌握している。

 シャツの下から後背筋が山脈のように主張する背中を無謀に晒して、彼がクラスメート全員に促すようにぐるりと屋上を見渡す。

 爆発するように歓声が上がり、レイジの立ち位置は完全にチャレンジャーに堕ちる。

 

「おい頼むぞケンカ番長、ダセーとこ見せんなよ!」

「あの野郎をスクラップにしちまえ!」

「かーっこいいわよ、ボウズあたまーッ!」

 

 スクリーンに映る夜空を仰いだヨシが、音を立てて鼻から息を吸い込む。

 彼の強さを称える声が、粒子となって空気中を漂っているようだった。彼の粘膜でパチパチ弾け、彼の意識を、テンションを、肉体を、往時の姿に戻していく。

 

「いいねえ……ここにウソは、なんもねェ」

 

 彼は鋭い犬歯を輝かせる。実に一年ぶりに訪れる闘争の舞台。彼の味わう陶酔は、ひとしおだろう。

 決戦を前に、すでに会場のボルテージはマックスまで登りつめている。

 ヨシはこの瞬間を楽しむように、ゆっくりゆっくり、レイジに向き直っていく。

 

「ちょっと悪いコトしましょ」

 

 二人の闘士を見下ろしていたルリコが、ふいに給水タンクから飛び降りた。

 彼女の前には、もはやおなじみとなった顔ぶれが集結している。

 その中でも特に線が細い、まるで女性のように美しい男子生徒が、不敵な笑みでルリコに応じる。

 

「いいですとも! ンンっ」

 

 そうしてザワちんは喉を調律するように軽く咳払いする。

 ハウスダストに打ち負かされてカーペットの上をはいずり回ったのも、まるで使えないポンコツとして背中を丸めて帰路についたのも、もはや過ぎたこと。

 病に侵された肺をねじ伏せて、彼は月下の狼のように吼える。

 最強のケンカ番長の帰還を称えるため。そして無二の親友の晴れ舞台を飾るため。

 

「さあ────お前ら張った張ったッ!」

 

 奉納演舞を踊るときとは別人のように猛々しく、彼の両手が宙に放り出される。

 そこに握られた赤と青。食堂から持ち出されたプラスティックのボウルが、満月の光を受けて淡く輝く。

 

「有り金全部ブチ込んでけ! 日和ったヤツはリングに立ってもらいますよ!」

「はいはーい。じゃあ私ね。ヨシに突っ込むわ」

「おっ、ルリコちゃんが一番乗りたあ。こりゃ歯止めきかなくなるねえ」

 

 ルリコが赤いボウルに500円玉を放り込んだのが皮切りになって、クラスメートたちが殺到する。

 彼の掲げたボウルには次々と小銭やらキャンディーやら王冠やらが投げ込まれ、隣ではルリコが賭けの内容を手際よく手帳に書き付けていく。

 

「ウチ、レイジさんに」

「俺はもちろんヨシですね」

 

 赤のボウルに、ザワちんが。青にマリコが百円を放り込む。

 

「あらら~ん? いいんスかあ? レイジさん、めっちゃ強いスからね。初日にサメだってぶっ飛ばしちゃったし」

「確かに。あのバカのパワーは侮れませんがね……」

 

 含みのある笑顔を浮かべて、ザワちんはリングを見据える。そこでは獣が対峙し、相手の出方を伺いつつ、ゆるやかに円を描いていた。

 

「あたいはレイジちゃん」

 

 ボタ子が、小銭の隙間に千円札を差し込んだ。

 

「うわお、ボタ子パイセンお大尽! 悔しいスけど、あの人の圧勝っスよねえ」

「んー……こりゃ、あたいのレイジちゃんへの気持ちみたいなモンだからさ」

 

 古傷のある足がうずくのか、その場で屈伸するボタ子は苦々しい笑いをマリコに向けた。

 

「そうねえ。応援頑張ったトコでレイジが勝てるかどうか。って感じ」

 

 その笑顔の意味をルリコが解説していると、両雄を包む輪から、おお、と声が上がった。

 レイジがわずかに呼吸を乱した瞬間、それまでアップライトだったヨシの構えが、奇妙に変化した。

 背筋が、ぐにゃりと崩れ落ちたように沈む。

 腕は肩の高さで開かれ、まるで何かを抱きとめるような形──それは、打つ姿勢ではなく、絡めるためのスタイルだ。

 彼はそのアグレッシブな構えのままに突っ込んでいって、レイジの右頬を打ち抜いたのだ。

 

「ぐっ」

 

 攻撃はそれで終わらない。

 レイジがカウンターをするより早く、懐に入ったヨシの腕が、大蛇のようにレイジの腕に絡みつく。

 右が大蛇なら、もう一方の腕は鎌だ。鋭く折りたたまれた彼の肘が、レイジの首を引き裂くように迫る。

 凶悪なコンボを警戒したレイジが、ほとんど後ろに転げるように、強引にヨシを振りほどく。音速の肘は彼の顎先をわずかに焦がし、夜の空気を貫くに終わった。

 

「おい、でくのぼう、逃げずにやりあえ!」

「ちゃんと血流せェ!」

 

 無様によろめいて退がったレイジに、ギャラリーからブーイングが浴びせられた。

 

「ぺっ」

 

 一発目から口の中を切ったようで、レイジが吐く唾は赤い。

 これで済んで幸運だ。彼は濃厚な鉄を味わいながら考える。後一歩遅ければ、今頃彼の顎は千切れて、胸の辺りまでブラ下がっていたかもしれない。

 

「──うっわ。エゲつないわね。ボクシングはフリだけか」

 

 いー、と顔をしかめてルリコが呟く。

 ヨシがつかの間見せた構えはボクシングに似ているが、よりスタンスは広く、その殺意の高さを喧伝するかのような前傾が特徴だ。

 ボウズ頭の不良が、ケンカの中でサッと持ち出す技術としては高度すぎる。染み付いた殺しの技法は、彼が熟練の兵士であることを物語っている。

 

「あれ、サンボでしょ。コマンドサンボ」

 

 攻防に目を向けたままルリコつぶやくと、ボウルで小銭を受けながら、ザワちんが頷いた。

 

「アイツ、たまにボタ子にも勝つんですよ」

「でもあたい、ケガさせられたことないし。負けたってワケじゃないしい」

 

 その横にドッカリ座りこんで見物していたボタ子が、こともなげに言う。

 

「お前がズ抜けてタフなだけです。マジで人間の腹から生まれてきたんですか。オニと巨人のハーフって言われても、驚きませんよ」

「しっつれいだねえ! あたいカワイイ女の子! 次あたいの体バカにしたら、町の外まで殴り飛ばすかんね!?」

「……アンタら三人でよく固まってると思ったら、何。隠れて殴り合ってたワケ?」

 

 ザワちんも、ボタ子も、返事はなかった。彼らはただヨシの背中に目を注いだまま、ニヤリと口の端を吊り上げただけだ。

 フンと鼻を鳴らして、ルリコは背後を見やる。

 

「アンタはどっちにベットするか決めた?」

 

 カナタがいた。

 レイジがクラスメートと殴り殴られするのを止めるどころか煽るルリコを、彼女は信じられないような目で睨みつけていた。

 

「オマエ、フザけてんのか!」

「はいはい、大声出さない。しーッスよ。しー」

 

 アタシが止めなきゃ、と、飛び出ていこうとするカナタのことを、マリコが必死に取り押さえている。

 それを前にして髪を風に遊ばせながら、ルリコはいたって涼しい顔だ。

 

「ケンカも夏の思い出、でしょ────アンタ、これ見ときなさい。命令よ」

「はあ!?」

「見れば分かる。なんか、プロレスの宣伝文句みたいだけどね。

 これは膿出し。すべてが良くなるかもしれない。全部ぐちゃぐちゃになるかもしれない。でも、ずっと苦しい今を続けるよりずっといい。

 ……さ、どっち選ぶの? ヨシ? それともレイジ?」

 

 いまだにカナタは敵意むき出しだったが、その手がジャージのポケットに伸びる。

 やがて取り出した100円玉を迷いなく青いボウルにトスするのを見ると、ルリコは頷いた。

 

 ■

 

「鍛えてるな」

「まあな。我ながら恐ろしい話だが、俺はとあるデカ女以外、負けたことがねェ」

 

 かりそめのアップライト・スタンスを保ったまま、ヨシはブラブラ手を振った。

 

「とある施設でバッチリ仕込まれたよ……お前も心当たり、あるだろ」

「施設──」

 

 レイジの脳裏に、ステンレスの冷たさとカラフルな錠剤の味が舞い戻る。A-6500シャフト。ムナカタの実験。彼の失われた「にんげん」。

 

 びゅっ、と音を立てて飛んできたパンチが、足を止めたレイジの頬を掠めた。

 

「大変。レイジのタマが潰れるわね」

「おねえ、何言ってんの?」

 

 音も無く、意識の隙に付け入るような動きで、ヨシが距離をつめた。

 

「シッ」

 

 レイジが反応する前に、ヨシの爪先が布越しに股ぐらをなぞった。

 その位置は右股関節。当たればただごとでは済まない部位から十センチほど逸れたが、決してヨシがしくじったわけではない。

 

「ちゃんと守れ。不死身の体でも、痛いものは痛いだろ」

 

 挑発するような笑みを浮かべてヨシが退がっていくところだ。

 

「ちょっとお! こちとら賭けてんのよッ! 本気でブっ潰しなさいよ、ママゴトやってんじゃねーわよ!」

 

 ルリコが物騒なヤジを飛ばすと、意気揚々レイジの元に向かうヨシの背中がずっこけた。

 

「なんでヨシくんがやること分かったんスか?」

「避け。パンチ。腕を取って、ノド、からの関節技……はやらないか。レイジの怪力でつねられたら、怖いしね。次、肘落とし」

 

 縦肘打ちがレイジの鎖骨を捉える鈍い音。

 普通の人間なら苦痛にうめくが、相手はレイジだ。ヨシもそのことを知って、かなり慎重に攻めている。

 ムリ押しはせず、ダッキングした彼の頭上をレイジの両腕がすり抜ける。

 次の瞬間、既にヨシはレイジの射程外だ。

 

「ふー……ヤッバ」

 

 臨場感を噛み締めるように、ヨシがほくそ笑んだ。唇の端が、アドレナリンの作用でヒクついている。

 ヨシは、この場の誰よりも戦いの恐ろしさを理解している。

 血の滲むような努力を積んできた男が、不運な場所に一発もらっただけで卒倒する。

 数秒前までピンピンしていた男が、急にグラリと崩れて動けなくなる。そして栄光と、尊厳をすべて剥ぎ取られるのを何度も見てきた。

 

「レイジ。どうだ。泣いてギブするか」

 

 まずはジャブと爪先に仕事をさせる。石垣の隙間に付け入る隙を捜す蛇のように、肉体という城砦への入り口を探るのだ。

 ヨシはそれがうまい。

 絶え間なく攻撃を繰り出し、レイジの脛、外腿、上腕──隙をつぶす様に徹底的に打ち続ける。

 もちろん相手は無限の再生力を持つ怪物だ。ヨシもどうやら、そのことをよく知っている。

 しかし、精神までは不滅ではない。

 

「ぬ、う──!」

 

 焦れたレイジが、ヨシを捕まえようと手を伸ばす。しかし大振りだ。

 ヨシはまたもや体を沈めてそれをかわし──腕に絡みつく。それが初撃の再演であることに気づいたレイジが下ろうとするが、二度も三度も許すほど、相手は甘くない。

 ヨシの足が影のように這い、レイジの軸足を捉えて引き倒す。

 バランスを完全に崩したレイジが仰向けに倒れるのに合わせて、ヨシは彼の上に体を投げ出す。絡める腕が再演なら、そこから繰り出す肘の一撃も同じだ。

 容赦なく、全体重をかけた肘をレイジの首めがけて叩き込む。

 巨体が崩れる。風圧とともに、砂煙が跳ね上がる。

 

「ぐお、あっ」

 

 肘が首に沈む鈍音。喉の中で空気の塊が潰れる音が響き、レイジの口からはっきりとした苦悶が漏れた。

 物言わぬ男が、ただそこに転がった。

 

「フーッ……」

 

 大の字に倒れたレイジの上から、ヨシが立ち上がる。

 

「どうだお前ら! これが俺だッ!!」

 

 不死身の怪物を打ち倒してヨシが叫ぶ。一瞬の静寂を置いて、割れんばかりの歓声が沸きあがった。

 無敗のケンカ番長──それは決して、ウワサの一人歩きが生み出した幻影ではない。ヨシは強い。格闘者としても規格外のレベルにある。

 

「なんだアレ。キリちゃんより強ェじゃんか……」

 

 カナタが呆然としていた。

 

「さすがにアレとやったらヨシのボロ負けでしょうよ。先生、人間ヤメてますし」

 

 苦笑を漏らすザワちんは、キリエの異常性を把握している様子だった。

 

「人間やめるって。文字通りやめてるわよね、あの体」

「あらまあ、ルリコちゃんも知ってるんだねえ」

「ボタ子もね……ま、ともかくヨシはかなりのモノよ。レイジだってただのパワーバカじゃない……でも、明らかにあっちが格上」

「な、なんだよ。三人とも、訳知り顔で……」

 

 カナタが困惑していると、ギャラリーの間にどよめきが走る。

 ノドを潰され、二度と立ち上がらないと思われたレイジが、巨重を軋ませながら体を起こしはじめた。

 それまで勝ち誇っていたヨシが振り向き、たぎる戦意に再点火する。

 

「いいねェ──」

 

 こんなこと、間違ってる。

 カナタは声を上げようとするが、できない。

 ヨシが戦っている理由も、レイジがまだ立とうとする理由も、分からないからだ。

 

「まだやんの? お前さ、実力差くらいワカるだろ?」

「たまご、やきだ……!」

 

 卵焼き――レイジが途切れ途切れに発した言葉が、カナタの脳裏に食堂での一件を描き出す。

 

「まさかアイツら、アタシの卵焼きなんかでケンカしてるワケ……!?」

「どうかしらねェ」

 

 はぐらかすように、ルリコが肩をすぼめた。

 その目つきが少女から、生徒会長に変わっていく。より密接に、より狂気を増してレイジとしのぎを削りはじめたヨシを見つめつつ、彼女は腕を組んだ。

 分からないことだらけなのは、彼女も一緒なのだ。

 

「なんで私、ヨシの動きが分かるのかしらね」

 

 ルリコは己の拳を見つめた。あかぎれだらけの拳に、何枚も絆創膏が貼ってある。

 これが突然現れたのは、あの豪雨の中、海に向かった日の後だ。まるで何発も何人も殴って絞めて、ブン投げたようにすりむけた拳。

 病院で出会った、覚えもないのにルリコにブチのめされたと抜かすケロイド男。

 カナタを再起不能にした直後のフミオと一対一で向き合っても揺るがなかったド根性。

 物置になった新聞部。公園でサバイバルして生きていける技術。工事現場。粉塵。シリコーシス。そして今。

 

「おねえも、ああいう風に動ける?」

 

 知らない間にインストールされたプログラムの多さに辟易していると、マリコがブラウスの袖を引いてきた。

 

「あそこまではムリ。たぶん、不意でも打たなきゃ一発目からレイジに顔面入れられて、鼻血がブーよ」

「じゃあ不意打ちアリなら?」

 

 ルリコは愉快そうに口元を緩めた。

 

「それなら面白い賭けになりそうね」

 

 レイジのタックルを受け止めて、ヨシが彼の胸倉に膝を叩き込む。それで岩の塊のようなレイジにダメージは入らない。だが、わずかに彼の上体が反れる。

 

「肘」ルリコが百円を取り出す。

「耳で」ザワちんも、指に挟んだ百円を見せる。

 

「ぐお」

 

 レイジの、くぐもった叫びが聞こえた。

 ヨシが躊躇なく両耳を打った音が、ムチのように空気を切り裂いた。レイジの目がブレる。平衡感覚が崩れる。

 たまらずよろめくレイジの頭を捕まえ、その顔面に容赦なく膝蹴りが打ち込まれ、ると、彼の巨体が再び地面に転がった。

 

 わっ、と、見物人たちが沸く。

 

「お、おい! もういいだろ、とめろよ、さすがにこれで終わったろ!」

「ここからでしょ──おっかしいわね。ここまで完ペキに読めてたのに」

 

 カナタの叫びには取り合わず、ルリコはザワちんの手に小銭を押し付けた。

 

「同じOSでもバージョン違いで動作が変わったりするじゃないですか。それでは?」

「へえ……私とアンタら、どっちが最新型?」

 

 ザワちんは、半笑いで肩をすぼめるだけだ。

 

「あたいは別にいいとおもうよォ。旧式ってのも、手がかかる分アジがあってさあ」

「だから。そりゃ、どっちよ」

 

 青筋をうっすら浮かべて問いただすルリコを前にして、ボタ子はカラカラ笑うだけだ。

 バカにされてるような、取り残されたような気分で、彼女はリングに目を戻す。

 レイジは立ち上がる。

 口から赤い筋を垂らし、割れた額から滴る血で顔半分ベットリ染めながら、たった一切れの卵焼きのために、何度でも。

 その執念に感化されたように、この嫌われ者の哀れなチャレンジャーがダウンから立ち上がるたび、ギャラリーからまばらに拍手が起こり始める。

 

「この合宿終わったら、絶対ネタバラシして」

 

 ルリコの言葉に、軽く咳き込みながらザワちんが答える。

 

「いいですよ。じっくり話す必要がありますね」

「別にショックってワケじゃないけど、なんだかシャク」

「おねえって怖いスね」

「ははん。私もたまに、私が怖い。──いったい、なにを仕込まれてんだか」

 

 明々とした月の光が、交錯する二人の影を長く長くコンクリートに刻む。

 涼やかな七月の夜の風に血飛沫が漂い、汗が輝く。鉄錆の香りを纏った青春の夜は、まだまだ続く。

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