海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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9.7月20日/マイ・アイアン・ラング(2)

 

「どうやら……ヨシに嫌われてるな」

 

 チャレンジャー・レイジが八度目のダウンから復帰したとき、とうとう喝采が起こった。

 彼は奇妙な感覚を味わっていた。

 殴られて蹴られて投げられているだけなのに、一年ものあいだ馴染めなかったクラスが、彼を称えている。

 

「バカ言うなよ。マジで嫌いなら、こんなまだるっこしいコトするかってんだ」

 

 ピンク色の痰を吐くレイジに向かってヨシは構えなおした。

 

「俺はキレてるだけなんだよ。ケジメから逃げてる、イスルギレイジにな」

 

 夜の風のように、ヨシの体が前に出る。

 激しい攻防を繰り広げる中で、彼の足は血を滲ませている。赤い跡を描く足裏は吸盤のように地面に吸い付き、音をも殺す。

 

 ──ガツッ

 

 レイジの防御をすり抜け、彼はボウズ頭を相手の鼻面に叩きつける。

 

「信じちゃくれないかもしれないけど……俺さあ」

 

 もはや何度潰したか分からない鼻から垂れる血を頭皮で感じていると、レイジの前蹴りが、腹に突き刺さる。

 

「う──っチィッ!」

 

 さすがのヨシも、ここでうめいた。

 浅いが、危なかった。レイジと違って彼は当たり前の体を持つ、当たり前の人間だ。イイモノをもらえば、一瞬でゲーム・オーバーが待ち構えている。

 

「俺、さあ……お前のダチに」

 

 ヨシは己の言葉を飲み込んで、レイジの軸足を取りにいく。

 狙いは右膝。唐竹だろうが粉砕するような踏み潰し。オブリークキックだ。

 

 ──さあ、どうするレイジ。膝が折れちまうぞ。

 

 無限の再生力があったとして、膝が壊れれば体が沈む。レイジが体を折れば、天の高みにあるような、彼の首がヨシの目の前に降りてくる。

 掴んで、絞めて、叩いて、KO。

 

「ああ──」

 

 レイジの右膝に土踏まずを乗せながら、ヨシは声に失望を滲ませた。

 お前は結局、その体に頼りっきりなのか。レイジ、お前はあんなにステキな師匠に仕込まれてんのに、この程度なのか──

 

「ンッ!」

 

 その失望の大きさが、ヨシに致命的なスキを生み出した。

 膝にばかり気を取られ、レイジの両手がダラリと下がったことに気づけなかった。蹴ってから浮いたままだった左足が、もう一度跳ねたことにも。

 

 パキッ────音が立ち、ヨシの首が真上に弾かれる。

 

(あ……?)

 

 理解が及ぶ前に、彼の背骨が軋み、両足が地面を離れる。夜景、空、月、星──すべてが上下逆さまになって、脳の表面を残像が滑り落ちていく。

 

(やべ……こいつ、ボクシング、やめやがった……ッ!)

 

 そう思ったときにはすでに、ヨシは重力という最強の暴力に晒されていた。

 

「しいッ!」

 

 ヨシは体をムリにひねり、踏ん張る。

 むちゃくちゃな姿勢から両足を出す。背中から無残に叩きつけられて、粉々になるエンディングだけは回避する。

 まだ立っていなければ。その執念だけで空中の彼は体をひねり、ほとんど無意識に四つんばいの姿勢で着地する。

 

 勢いで彼はゴロゴロ転がって、屋上のフェンスにぶつかって止まる。

 

 ガッシャ──

 

 吹きすさぶ風を切り裂くフェンスが、彼の踏ん張りに合わせて鳴った。

 

「フー……やべえ、なんだそれ」

 

 思い切り蹴り上げられた顎をさすりながら、ヨシは笑った。笑ったつもりだったが、上手くできたかは分からない。

 得体の知れない技術を目の当たりにしたという衝撃が、残響となって彼の脳裏にへばりついていた。

 

「オイオイそんな構え、あるもんかよ」

 

 月の光の下でヨシが見るレイジは、身長が半分になったように見える。

 それは、特異すぎる構えのせいだ。

 まるでクラウンチングスタートのような前傾。それを作り出すのは、ほとんど爪先だけで地を捉えるような、後ろ足だ。

 そして、危うくヨシの意識ごと顎を打ち抜きかけた左脚──敵対者の人体の中央に集中する弱点を一刀両断するかのように、まっすぐ向けられた足先が剣呑だ。

 

猎户星跆拳道(ギャラクティックテコンドー)……という」

 

 もう一度、左腕をダラリと垂らしながらレイジが言った。

 それはかく乱する。蹴りの起こりを隠蔽し、相手の攻撃を絡める盾にもなる──というのが彼の元師匠、樋口キリエがワンカップ焼酎片手に語った、この構えの『合理性』だった。

 つまり、何もかもが出任せのファイト・スタイルだ。

 

「キリエ先生が教えてくれた」

「は、センセーが!?」

 

 それまで固唾を呑んで見守っていたクラスメートの輪から、声が上がった。

 

「あの酔っ払い先生が……ケンポーを、レイジくんに? なんで?」

「なんでだろうな」

 

 レイジだって分からないコトを聞かれても困る。

 樋口キリエはテキトー人間だった。この構えに、意味なんてものはないのかもしれない。それをどうして今この瞬間に持ち出したかといえば──

 

「とにかくこれは、強い構えだ。だから師匠も、強い」

 

 何もかも無くした自分にずっと寄り添ってくれた彼女の存在を、この孤独な戦いの中で思い出したかったから、なのかも知れない。

 

 ジャリッ。砂粒を踏みしめ、彼はさらに体を沈める。奇妙な構えの全身に、力が漲っていた。

 

「ハハハ……楽しいなあ。殴り合えてよかったぜ」

 

 ヨシは余裕ぶって屈伸した。

 まだ、立てそうにない。たった一発もらっただけで、だいぶ膝に来た。

 そんな無様を好敵手に晒したくない。この会話は強がりで、そして、彼なりの、レイジに対する敬意だった。

 

「こうしてケンカしなきゃ、卒業までツラ合って会釈、くらいのカンケーで終わってたろうしなァ」

 

 レイジは気を抜かない。構えたまま、ヨシの言葉に耳を傾ける。

 

「ウチの親父の暴力じゃこうはならねえ……アイツが腹立ててんのは俺じゃないし。だからただ、殴るだけ。蹴るだけ。あいつの暴力はいつだって、漫然として退屈だった」

 

 そんな状況で、レイジは目の前のヨシではなく、コンクリの地面にぺったりと座り込んだボタ子を見据えていた。

 

「あ……へへ。ファンサービスかね。がんばりなよー。負けたらギュってしたげるかんねー」

 

 ノー天気に手を振る彼女に軽く頷いて、レイジはヨシに、目を戻す。

 

「なんでだろうな。俺は、どうしてここまで、知らないんだ」

 

 レイジの呟きは風音にかき消され、誰の耳にも届かない。

 よろめきながら立つヨシを見据えながら、レイジは恥じ入る。何も知らない。

 ボタ子がどうして足を引きずるのか。俺のことをこれだけ気に掛けるヨシが、どうして殴り合いを仕掛けてきたのか。

 ザワちんはどうして俺をここまで嫌うのか。どうしてルリコは俺を見捨ててくれないのか──

 

「俺がオヤジにボコられて、なんでやり返さなかったのか。って話になるけどよ」

 

 ヨシは肩をすぼめ、とっておきの自虐ジョークを打ち明けるように、困った笑顔をレイジに向ける。

 

「ま、色々あんだけど、お前に打ち明けるようなコトじゃねえな。それが俺たちの友情の軽重を決めはしねえ。そういう距離感のが気持ちいいだろ。俺たちみたいのにはな」

 

 レイジは、口元を拭う。

 混じり合った汗と血が、彼の腕に細く長い模様を描く。

 今夜の記憶。痛々しく、壮絶に殴りあった夏の夜の、確かな証だ。

 

「さっきのことだがヨシは──おれ、の、トモダチ、で、あってくれるのか」

「あったりめえよ!」

 

 会話の間に、攻防が再開される。

 

 ズゴッ

 

 ヨシがレイジの腹に容赦なく前蹴りを叩き込むと、彼は体をくの字に折る。ちょうどいい位置に降りてきた頭めがけ、ヨシは肘を叩き落す。

 レイジは赤い涎の糸を夜気にそよがせながら、自分の肘を上げてヨシの攻撃を受け流す。

 

「俺はヘタれんなって言ってるだけだ」

 

 読めている。

 ヨシは落ち着き払って、レイジが延髄めがけて放ってきたハイキックをブロックする。

 サンボだ──俺はサンボでいく。

 脳から全身に告ぐ。全身全霊、全力で自分の技術を、この愛すべき大男に使用せよ。

 

 彼は再び大蛇になる。

 蹴ったままのレイジの右足に絡み付き、今度こそ軸足を払う。

 そうすると、レイジは立っていられない。

 足をいただきに行く瞬間、ブロックに使った右腕は折れたんじゃないかってほど痛むが、これで終わる。

 空中で体をひねり、レイジの頭に両手を添える。このままヤツの後頭部を、硬い硬い、コンクリートに叩き付けて────

 

「──おおおおおおッ!」

 

 レイジが叫んだ。

 まるで舞踏会で抱き合う恋人のように、レイジもヨシの頭を両腕で包み込む──ただし、その先にあるのはキスではなく、地獄の一撃だ。

 

 メギョッ

 

 そのままレイジの後頭は地面に。そして、彼は頭蓋を砕くような落下の衝撃を、そのままヨシの頭に叩き付ける。

 

「がッ──あああッ!?」

 

 たまらずヨシは手を離し、転げて、その場に這いつくばった。

 額が完全に割れた。

 

「ハ──ハハッ、ハハハハハッ!」

 

 愉快だ。彼は苦痛にのたうちながら、笑う。こんなスゲー男に手をつけないまま、一年も同じクラスにいたことを、心の底から後悔する。

 同時に、山盛りのケーキを食べ終えた瞬間に皿にイチゴを放り込まれたような感動がある。これほどの怪物。これほどの手練れが、倦んだ夏の夜に舞い降りた。

 

「いってえええ、今のすげえ効いたッ!」

 

 どくどくと血を垂れ流しながら、ヨシはなおも笑って立ち上がる。

 

「あいつら、あんな強く頭打って。ますますバカになるじゃない」

 

 給水タンクに寄りかかったルリコが、大きなため息をついた。

 その音が響き渡るほど、屋上は静まり返っていた。

 ギャラリーは圧倒されていた。地面に転がって、死に掛けのセミのように手足をもがかせる二人の男の、壮絶な姿を前にして、何も声が出ない。

 

「いやあ……お前が、あんな大声上げるなんてな……!」

 

 血生臭い声で呟いて、ヨシがごろりと仰向けになった。

 こんなゆうちょうにしてる場合か? という考えが彼の脳裏を掠めたが、耳を澄ませると野太いうめき声が聞こえてくる。

 

「お前も怒るんだなあ。なあ、レイジよお!?」

 

 そういって頭だけ起こして、ヨシは相手の姿を探した。

 レイジは咳き込みながら、地べたにはいつくばっている。さすがの彼でも、今の自爆ヘッドバットは危険な賭けだった。すぐには立ってこれない。

 

「俺には……『憤怒』が、あるんだ」

 

 地面に手をついて、彼は荒く息を吐く。

 後頭部から、髪の合間を這って、温い血が流れてくる。コンクリートに落ちるいくつもの赤玉を見つめていると、あの凄惨な現場を思い出してしまう。

 

「ずっと。ずっと消えないんだ。上手くいったと思っても……それで最後は、いつも台無しになる……」

 

 怒りに任せて暴れ回り、カナタの首を絞めて、ボロボロにした。

 レイジは、地面についた手から力が抜けるのを感じた。彼女を傷つけたことを思い出すと、立ち上がる気力がなくなっていく。

 

「そりゃ憤怒ってのとは違うな」

 

 相変わらず、愛想のいい犬のような笑顔を浮かべたまま、ヨシは顔を拭う。

 

「きっとお前、本当の怒りってやつを今知ったんだぜ」

 

 まだやりたい。まだ、目の前にいる男が、一人の男として完成していくところを見ていたい。だが、体がついてこない。

 こめかみが冷たい。疲れは泥のようで、膝は大爆笑。

 まっこと、慙愧の極みだぜ──攻防の中でベロリとめくれた親指の爪を噛んで千切りつつ、ヨシは精一杯笑みを浮かべる。

 

「今のお前のままでいけ。燃やせ、その怒りだ。その温度だ。忘れてくれるなよ。お前は激怒(レイジ)だ。湿ったみじめな憤怒(フューリー)じゃない」

 

 事実、レイジがようやく見せてくれるようになった感情の熱量は、ヨシが想像していたよりもずっと壮絶だ。

 

「この俺が実在を信じる数少ない才能ってヤツがあってな──」

 

 パキョッ

 

 かろうじて先に立ち上がったヨシが、レイジの顔面に蹴りを叩き込んだ。

 乾いた、いやな破砕音を奏でながら、血まみれの瞼の奥で、レイジの瞳がヨシを捉える。

 顔面に爪先をめり込ませたまま──その足を取り、力任せに引いて倒す。

 

「ぐあッ……いるんだな。たまに、消えない傷を残せる才能ってやつ、が……!」

 

 無様に背を打って転げつつ、ヨシはもう片方の足でレイジを蹴りつける。危うく、掴まれたふくらはぎを握り潰される寸前で脱出する。

 

「中身、腐らせることができんだ。殴る必要すらない。息遣い、言葉、目線──そういうので、一生モンの傷を刻める……うおっ」

 

 槍のような前蹴りが迫り、ヨシは間一髪、上体を逸らすスウェーでかわす。

 かすめた胸元が摩擦で熱い。熱した鉄の棒が通り過ぎたようだ。

 

「体の傷はいくらでも治るだろうな……でも、そうじゃない傷は腐るだろうよ」

 

 二人が、同時に走り出す。

 二人の足が空中で交差し、すね同士がぶつかり合う。バキョッ──骨の芯まで貫くような衝撃で、両者の身体が弾かれた。

 よろめいた姿勢から、反動を活かしてヨシが体をひねり、切り裂くようなミドルキックを放つ。

 レイジは肘を使って迎撃する。

 ギャラクティックテコンドーのスタイルをなぞり、その足を絡め、引き寄せ──反撃の寸前、ヨシの肘打ちがレイジの額に突き刺さった。

 

「ちッ──」

 

 思わず顔を押さえたレイジの力が緩む。

 体をひねったヨシが脱出し、跳躍して距離を取る。泥臭くも鮮やかな一連の攻防を目にしたギャラリーから、おお、と声が上がる。

 ヨシとレイジは相手を見据えたまま、額をぬぐった。もう、お互いぐちゃぐちゃだ。

 

「治らない傷がある」

 

 唇の端に白く残る古傷をなぞりながら、ヨシが続けた。

 

「そういう傷は、ダメなんだ。どれだけ時間があっても、どれだけブ厚い皮が張っても、破れて、黒い汁が流れ出すんだ」

 

 レイジは、傷だらけの腕を握り締めた。

 ヨシが語ってくれているのは、カナタのことだと気づいている。皮がはげた彼女の体に刻まれていた無数の傷は、オモトカナタという一人の少女の記憶だ。

 彼女はそれをすべて一人で抱え、誰にも打ち明けられず、弱音も吐かない。

 

「それが『才能』だ。この世で一番唾棄すべき、クソの才能だ」

 

 引き裂けそうになる胸をぎゅっと握り締めるレイジの姿を、背後の給水タンクの影から、カナタ本人が見守っていた。

 

 ■

 

「……ところでさあ。ハナシはぜーッんぜん変わるんだけどよォ!」

 

 息が落ち着いてきたヨシが、屋上じゅうに響き渡るような声の大きさで叫んだ。

 

「お前さ、どうしてカナタちゃんと離れたいんだ?」

 

 あえて、その名を出す。

 この瞬間も息を殺して戦いを見守っているだろう彼女に、しっかり届いて、納得できるように。

 

「悪いな。俺デリカシー無いから。こういうこと大声で聞けちゃうの」

 

 集まったクラスメートたちは、顔を見合わせた。

 拳で始まったはずの男二匹のコミュニケーションが、言葉での戦いにシフトした。

 さっきの『才能』の話もそうだったが、ヨシが語る言葉、その一つ一つが大きな石を池に放り込んだように、レイジの心に波を立てる。

 

「マジで無神経かもしんないスね。ヨシくん」

 

 隣に立つカナタの手を取りながら、マリコが言った。

 カナタがあまりに強く己の傷口を握り締めるので、新しい包帯に、黒い手形がクッキリ浮き出てしまっている。

 

「イヤだったら、いいんスよ。これ、ホントに荒療治、ってやつなんで」

 

 代わりに、自分の腕を握らせながら、マリコは優しく語りかけた。

 

「アタシ、ここにいたい」

 

 短く、はっきり、カナタが告げる。

 

「ホント、マジでバカみてーなケンカだけど。見届けたい。アイツが言う『いっしょにいたら幸せになれない』って、どういうことなんだ」

 

 彼女は歯を食いしばって、生徒たちの輪の中を見つめる。

 

「だってアタシ、もう、ずっとずっと前から……!」

 

 そこではまさに、月の光に照らされた男たちが動き始めたところだった。

 

 ■

 

「ケンカなんかするタイプじゃねえ。そんなお前が、よりによって最強無敵番長ヨシくんを殴るほど、あの卵焼きは大事なモンのはずだ」

「それは……」

「言えよ。どうせ明日には忘れてる」

「これ以上、カナタを傷つけたくない」

 

 レイジは自分の両手を見つめた。

 

「詳しくは聞かねえし、聞けねえ。でも……大変なことがあったんだよな」

「ああ」

 

 大変なんてもんじゃない。

 今でもカナタのざらついた鱗の感触を掌に感じる。あの淀んだ褪せた瞳と、そこに浮かぶ恐怖の感情。彼女の魂が磨り減る音。

 嘔吐の瞬間を、覚えている。

 彼女が笑って過ごせる暖かい世界がすべて砕け散ったとき、目の前にいたのはレイジだった。

 

「カナタはあんなことがあった後で、こんな俺に手を差し伸べてくれる」

「優しい子じゃねえか。おまけにツラもいい」

 

 ヨシが手招きして、再びフットワークを刻み始める。休みは終わりだ。

 

「俺は怒り狂って、暴れて、全部、ブチ壊しにするだけだ」

 

 ヨシが距離を爆縮する。

 レイジはタイミングを合わせてガードする。右ストレート。恐ろしい切れ味だ、受けた手首を吹き飛ばされそうになる。

 

「カナタちゃんはそんなお前の隣にいてくれる。何が悪いんだ?」

「たとえ許されても、きっと何度でも俺はあの子を裏切る。裏切って裏切って、その度に許されて。カナタは、いずれすり切れてしまう」

「なに抜かしてんだ、このバカ!」

 

 とうとう我慢できなくなって、カナタが叫んだ。

 辛抱しきれなかった。

 

「あ、やばいスー!」

「オマエ、バカかよ! アタシそんなんじゃ絶対もががが!」

「ちょちょちょちょ、バレちゃう、バレちゃうからね、やめようね。カナタちゃん!」

 

 レイジの身体がぴたりと止まる。涼やかな響きが特徴的なカナタの声が聞こえたような気がして、闘争のリズムを寸断していた。

 戦いの最中だというのに振りかえって給水タンクのあたりに目を凝らす彼を見て、ヨシが声を殺して笑っている。

 

「ぶはあっ、なん──なんだよ、オマエら!?」

 

 マリコとボタ子によって物陰に引きずられていったカナタは、口を塞ぐ手がどけられるなり大声を張り上げた。

 

「ボタ子パイセン、どしまス?」

「ごめんねえ。手荒なこたあ、したくないんだけど……」

 

 ボタ子が、丸めたタオル片端を彼女の口に突っ込んだ。

 それっきり、カナタはフスフスもがもがという、くぐもった不平と息の漏れる音しか出せなくなる。

 取り押さえられた格好のままジタバタ暴れるカナタの耳元に口を寄せて、マリコが囁いた。

 

「せっかくじゃないスか。搾り取れるだけ搾り取ろうス。レイジさんのホンネってやつ」

 

 鈍い音が響き、三人がそちらに目をやる。

 レイジのガードは惨憺たる結果に終わった。クロスした腕をスリ抜けて、いい蹴りがレイジのみぞおちを貫いた。

 不死の怪物だろうがなんだろうが、内臓に浸透する打撃を受けて、無事に立ち続けることはできない。

 涎の糸を引きながら転がったレイジの胸板に、ヨシは遠慮なく爪先を叩き込む。

 その威力で、レイジの巨体が軽く宙に浮く。

 

「よう考えてみれば──」

 

 ヨシは蹴るのをやめない。フェンス際までレイジをドリブルするように転がしていく彼をよけて、ギャラリーが真っ二つに割れる。

 

「──お前はこの2-A(掃き溜め)にすら、うまく馴染めなかったな」

 

 耳をつかんでレイジの頭を持ち上げ、ヨシはささやいた。

 

「当然だろ。俺に」

 

 容赦なく、ヨシは話している最中のレイジの顔面にパンチを叩き込んだ。

 

「ぐっ……俺なんかに、友達ができるはずもない」

 

 眩暈と後悔に顔を歪ませながら、レイジが答えた。

 

 ルリコには軽蔑された。

 

 フミオとは敵になった。

 

 そしてカナタを失った。

 

 レイジにとっての世界のすべてが崩れ去った。這い蹲る手から力が抜ける。

 

「俺が気持ち悪いって言われるのは、そういうところなんだろうな」

「ええい──ッ! グチグチグチグチ、煮え切らないわね、このバカッ!」

 

 よろめきながら立ち上がったレイジに、今までで一番大きな罵声が浴びせかけられた。

 

「ヨシぃ! 殺ッちまいなさい、そんなヤツ! 顔潰して土下寝させて、カナタの前まで引きずってくわよ!」

 

 何を隠そう、それはルリコである。

 完璧に私情バリバリの野次を飛ばしてくる彼女のヤバさに、みんなはすっかりドン引きだ。

 あとずさった生徒たちをルリコがにらみつけると、皆、いっせいに顔をそらした。

 

「…………あいよ。そうだな、会長(クイーン)

 

 距離をとったヨシが、レイジを見下ろす。

 彼の本能が囁いてくる。この楽しく、苦しい戦いはもうすぐ終わる。

 

「何か、言い残したいことはあるか?」

 

 レイジは少し、考えるそぶりを見せた。

 立ちふさがるヨシを見、じっと見守ってくれるクラスメートたちの姿に視線を馳せる。

 レイジは一瞬、夜空を仰いだ。

 息を吸い込んで、静かにタンクトップに手をかける。

 最後の最後に、少しだけ、知っておいてほしいことがあった。

 

「俺は……つまらない、やつだ」

 

 薄汚れたタンクトップが地面に落ちた。

 むき出しになった彼の体を見て、誰かが押し殺した悲鳴を上げた。

 鍛え上げられた肉体は激闘の中で熱を持ち、血を被り、彼が七年使ってそこに刻み込んだ無数の古傷を白く浮かび上がらせていた。

 無数に線虫がたかったような、爪痕だらけの古びた木材のような。この世のものとは思えない地獄を、レイジは初めて衆目に晒した。

 

「自傷癖のマッチョは笑えない。ずっと前にルリコに言われた」

 

 特に腕。

 

 太い筋肉の筋の上に傷が茨のように絡みついている。

 彼のことをよく知っているはずのカナタですら言葉を忘れるほど、彼の体はひどく引き裂かれていた。

 彼の治癒能力は傷を塞ぎ、折れた手足を繋ぎ合わせ、失われたパーツですら、どこかから材料を調達して再生させる。

 それでも、傷を負い、体が損なわれた事実までは無かったことにできない。

 

「全部自分でやった」

 

 彼の心はとっくの昔に限界を迎えていた。

 止まってもどうしようもないから、自壊しながら駆け続けていただけだ。

 

 誰も声を出せなかった。

 かといって、目を逸らすこともできない。

 今まで誰とも分かり合おうとしなかった、何を考えているのか分からない異物。彼が抱え込んだ痛みをさらけ出しながら語る姿には、惹きつけるものがあった。

 

「カナタはこんな俺に、意味を与えてくれた」

「アンタ、馬鹿じゃないのォ?」

 

 クラス全員が固まったように動けない中で、一人、朗々とした声を張り上げたものがいた。

 その姿は、給水タンクの上にあった。

 

「私、レイジの事情とか、()()()()()()()()()()の」

 

 闇夜に黒髪をはためかせ、月をバックに腕組みをかました生徒会長の姿は、まるで悪の組織の女幹部のようだった。

 

「分からない私に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()説明してみなさい。なによ、意味って。ただ生きてくのに、そんなん要るわけないでしょ?」

 

 昼間、ブンタに食って掛かりながら「アンタの苦しみ少しは分かる」と言っていたルリコは、きっと誰よりもレイジの痛みを知っている。

 なににどうしてわざわざそんなことを聞くのか──彼女の気持ちが分からないまま、レイジは口を開いた。

 

「少なくとも俺には理由が必要だ。こんないびつな人間がここにいていい、生きていていいと思える理由が」

 

 血を吐き捨てて、レイジは珍しく笑った。痛々しい笑みだった。

 レイジの目がルリコを離れた。

 そうして、ヨシと──この場にいるクラスメートたち全員を見渡した。

 生徒たちは夜の闇に立ち並んでいるというのに、どうしてか誰も彼も、いままでにないほどハッキリと顔が見える気がした。

 

「ほんとうに何も無い、空っぽなんだ。ゴミみたいな食事を取って、悪い夢を見るのが怖いから、朝までずっと起きてる。辛い日は映画を見て、現実から逃げる」

 

 レイジは給水タンクの上に目を戻した。

 その影に隠れ続けるカナタは、一瞬彼が自分のことを見つけてしまったような気がして、身を固くした。

 

「カナタは、腐っていた俺に食事を用意してくれた。服を洗ってきれいにしてくれた。映画を見るときはいつも隣にいて──ルリコや、フミオと一緒にいる時間を作ってくれた。それに甘えて、俺は変われると思ってしまった。もっとマシな『にんげん』に」

 

 ──幸せだった。

 

 レイジは声にしなかったが、束の間目を伏せて心の中で呟いた。

 

「でも違う。俺は、『にんげん』をカナタに貸してもらっただけだ。カナタがいなくなったら、俺はまた、空っぽに戻ってしまう。それが怖かった」

 

 これは、賭博(ゲーム)だ。

 少なくとも、ここに居合わせたクラスメートたちにとってはそうだ。

 だというのに、攻防の手を止めて語りつづける彼のことを非難するものは、ここにはいない。

 

「やっと手に入れた居場所をなくしたくない。これいじょう、自分を失うのはごめんだ。だが──」

 

 2-Aは落ちこぼれだらけの、居場所をなくした生徒ばかりのクラスだ。だからこそ、一度手に入れてしまった安らぎに執着するレイジが抱える痛みは分かる。

 その痛みすら振り切るように頭をふって、レイジは続けた。

 

「だが、カナタを傷つけるくらいなら、俺は『にんげん』なんて要らない。一生からっぽな怪物のまま、一人で生きるほうを選びたい」

「レイジちゃん、あんな喋れる子だったんだねえ……」

 

 いつの間にか給水タンクの上に登ったボタ子が、ポツリと言った。

 彼女はふと地面を見下ろし、タンクの影に身を寄せるカナタと目を合わせた。レイジの深い苦悩を噛み締めるように、彼女は首の包帯をさすっていた。

 

「惚れ直しちゃった。かもねえ」

 

 ボタ子はカナタに軽く笑いかけると、前に進み出て、全員に聞こえる声で言い放った。

 

「あんさあ! インターバルっぽいから、質問コーナーいってみようかあ!」

「わ。ボタ子、そこで何してんだ!?」

 

 呆れ顔で見上げてくるヨシを無視して、彼女はその手をピンと挙げた。切れた唇からにじみ出る血を拭こうともせず、レイジは疲れた顔でうなずいた。

 

「からっぽだの何もないだの。どうしてそんな自分をサゲちまうんだい!」

「事実だからだ。マジ、ってやつだ」

 

 その表情を見ていてカナタは心がざわつく。

 彼が一度も浮かべたことのない顔。自嘲だ。

 

「記憶喪失なんだ。十歳になる前の思い出が何も無い」

 

 彼のカミングアウトに、あたりがざわつく。誰かが「ウソ……」と小さく呟くのが聞こえた。

 レイジはその中心にいながら、足元がフワフワしているような気がした。

 

「頑張って言葉を覚えた。トイレの仕方からはじめて、常識を勉強し直した。だが、やはりボロが出る。無口でスカしてると思われてるかもしれないが──ただ、何を言ったらいいか分からないだけだ」

 

 ──そうか。俺が今まで興味すら持とうとしなかったクラスメートたちは、こんな顔をしていたのか。

 レイジは朦朧とした頭で、自分をまっすぐに見下ろすボタ子の、スラリとした姿を見つめた。

 

「ハイ」

 

 生徒の列の後ろから、手が上がった。

 とはいっても、それは賭けに使う青いボウルを握ったままの手。顔も見えない生徒の細い腕は、小銭の重みにすら負けるほど、頼りない。

 

「イスルギ…………いや。レイジ」

 

 彼は長い間を置いて、言い直してから続ける。

 

「お前、正直俺たちをコケにしてると思ってたんです。同じ穴のムジナのくせして、周りがクズばっかだと思って、お高くとまった涼しい顔」

「そう見えたなら……」

「待った。まだ質問は終わってない。あわっ、おっとっと」

 

 短い間にプルプル震え始めた手を、周囲の生徒が慌てて支え持つ。顔の見えない質問者は、数度咳払いをして、続きを口にした。

 

「誤解してました。ごめんなさい。とんだ口下手ヤロウだったんですね。どうして俺たち(ムジナども)に、少しでも打ち明けてくれなかったんですか」

「…………どうしてだろう」

「嫌い、でした?」

「いや」

「信頼できなかった?」

「そうじゃない。このクラスに俺の居場所はないが──好きだ」

 

 レイジは、体に溜まった熱が少しずつ夜気に溶けていくのを感じた。

 ずっとずっと前の彼だったら、こんな問答、心の底から避けたいもののひとつだった。

 まともな人間と会話していると、イカれた自分が浮き彫りになってしまうからだ。

 黙って席に戻ってダンベルを抱きしめていれば、それで終わりにできる。分厚い筋肉の殻に篭って、他人と自分の関係にピリオドを打てる。

 生暖かい肉の鎧が、痛みも苦しみもリアリティも、すべてを遠ざけてくれる。

 

「ああ──」

 

 そして唐突に、彼は答えに行き当たった。

 

「そうか。俺が体を鍛え続けた本当の理由は──壁を作るためだったのか」

「なんだよ。タフガイ気取って、本当は痛がりなんだな」

 

 黙って聞いていたヨシが、ボウズ頭をボリボリかいた。

 

「ちょっとオマエのこと、分かってきたよ。俺も、こいつらも」

 

 満月の光に照らされたクラスメートたちは、言葉を失ったようにレイジを見つめていた。

 ちょっと、だ。

 あくまで、ほんの一歩。

 

「チッ」

 

 誰も彼もが、レイジの深淵を覗けるわけじゃない。鼻つまみ者の公開処刑に来たはずが、ふざけた開示ショーに巻き込まれて、顔をしかめているものもいる。

 それでも、彼の言葉は静かに、大多数の心に届いていた。

 

「ヨシ……何がしたかったんだ、結局」

 

 語ることはすべて語り終えたレイジが、最後にひとつだけ、という口ぶりで聞いた。

 

「あ? 俺はお前に恥かかせてえだけだ。

 レイジがどれだけ情けなくて、どれだけ痛がりで、どれだけ人間くさいやつなのか。みんなと、そこのカナタちゃんに見せつけて、大恥かかせてやりたいのさ!」

「あんバカ。アツくなっちゃってえ! マリちゃん!」

「おまかせ!」

「も、もごーッ!?」

 

 マリコがカナタの頭を押さえつけた。

 カナタは口にタオルを突っ込んだまま、目を白黒させる。

 おかげで、クラスメートたちの顔を焼き付けるように見渡す最中のレイジに、彼女の姿は見つからなかったようだった。

 

「ぶははははは! ま、カナタちゃんがこんな情けねえヤツから俺っちに鞍替えしたら、それはそれでハッピーエンドだけどさ!」

 

 ヨシは夜の西高全体に大笑いをとどろかせて、夜空を仰いだ。

 

「……悪ィなレイジ。俺、こういう助け方しか知らなくって」

 

 そして、二人は同時に構えた。

 

「よっしゃ。明日は合宿の最終日。そろそろ終わらせねえとな」

「さすがにルリコに怒られる。な」

「その通りよ。さっさとケリつけなさい」

 

 そっけないが鋭いルリコの声が、屋上に漂う緊張を一気に引き締めた。

 レイジもヨシも、相手のことを睨み付ける。

 ここから先の数秒間、すべてが思い出になる。

 視線を外せば、二度と相手に向き合えなくなる。一度ガードを固めれば、飛んでくる拳が怖くなる。

 レイジが一歩踏み出す。それに応じてヨシも一歩。

 向こうが一発打ち込めば、こちらも一発打ち返す。

 二人とも、殴られることを初めて恐ろしいと感じていた。

 ジェットコースターだ。頂点まで登りつめたとき、そこから始まる直滑降を想像する。

 顔を引きつらせながら、これから鼻面に突き刺さるストレートの痛みに思いを馳せる。

 冷や汗を垂らしながら、膝が突き立った腹の中で内臓がどんな風に身をよじるか妄想する。

 それでも、不思議な高揚感が二人を包み込んでいた。

 相手の攻撃により身体が壊れる。それは副次的な問題にすぎず、もし痛みさえなければ、延々と殴り合いを続けるのも悪くないと思えるほどだった。

 ヨシの拳。レイジの拳。

 擦り傷、打撲、痣、眩暈。ちょっぴりの嘔吐。

 そうした応酬を繰り返しながら、ふとレイジは気づいた。

 

(フミオとは、こんなふうにケンカをしたことが一度もなかったな……)

 

 あのとき向き合って、胸ぐらをつかみ合うケンカでもしていたら、もう少しマシな結末があったのではないか──そう思わずにはいられなかった。

 

(カナタ……)

 

 月が、電灯の光が、ディレイした視界の中で光の筋になる。

 ヨシに頬を打ちぬかれ、ほとんど霞の中にいるような気持ちでレイジが給水タンクの傍に目をやると──あわわと口に手をやるマリコの隣に、銀の輝きが見えたような気がした。

 

(俺は、カナタのことが──)

 

 それは、もうろうとした意識が見せる幻影だったのかも知れない。

 だが、レイジは強く思う。彼女と、カナタと宙ぶらりんで終わりたくない。

 

 ──そして。

 

「うわ、ちょっと……おたくら、よくもまあ……」

 

 顔をひきつらせたマリコの言葉で、はっと我に返る。レイジは、呆然と立ち尽くしている自分に気づいた。

 

「はあ……ひい……さすがに……ぺっ、しんどいなあ……」

 

 ヨシは陽炎のように左右にふらふら揺れながら荒く息をついている。

 目は晴れ上がり、唇の古傷は引き裂け、むき出しの上半身はアザまみれだ。

 それはレイジも変わらない。パンチの応酬を続けようとして──危うく、顔面から倒れそうになった。

 

「は……ははは、ダセえなあ……いくぞ、レイジ、マジで……あー、なんかもう、話すこと無くなっちゃったな……」

「俺もだ……話を聞いてくれて……嬉しかった……」

「はは……まだ、終わってねえかんな……」

 

 ふらつきながら、二人が駆け寄る。

 レイジは途中でヨシが白目を剥くのが見えた。直後、彼の視界もひっくり返り、腰が砕ける。

 渾身の拳は空を切り、そのまま膝から崩れ落ちて、ドサリとお互いに身体を預け合う。あたりに、呼吸だけが荒く響く。

 ゴチンと音を立て、すぐ横にあるボウズ頭に、レイジが頭突きする。

 

「ここで、やめたり、しないだろ……せっかくだ、ものな」

「当たり前だろが。もっぺん、もっぺん距離とって、それで、なんかいい感じにして、終わろうや……」

「よし。いち、にの、さんでいこう。いち、にの──」

「待ってくれ『さん』で離れりゃいいのか。それとも『さん』で殴るのか」

「それは、ええと……じゃあ、俺が押すから、そのタイミングで、ヨシにパンチ合わせてもらって……」

「急にグダグダしてんじゃないわよ! ほら! 早く! 時間おしてんのよ!」

 

 相変わらず容赦のないルリコの声が、二人に降りかかる。

 もはや殴られていない場所が無いような満身創痍を引きずりながら、彼らは何とか離れて、呻きながら、立ち上がる。

 ありとあらゆる脳内物質がジョバジョバ出ているせいか、軽く振り仰いだ群青の空は作り物と思えないほど美しかった。

 向かう先のゴールで、焼けるような色の月光を背負って、ヨシが待っている。

 

 世界がクリアで、ひとつに見えた。

 

 いくぞ、という言葉は必要ない。

 まるでそれがはじめから決められたように、同じタイミングで二人は駆ける。

 

 ヨシが、まるで破城槌(はじょうつい)のような腕を振りかぶってくるのが見える。レイジも全身もって、パンチの予備動作に入る。

 

 相手が避けることは、ハナから考慮していない。

 受け止めてくれると信じている。だから全力でぶつけることができる。痛みに、恐怖に向き合うことができる。

 

 バキッ────という音が響いた。

 

 不恰好な、クロスだった。

 

 ■

 

 お互いの頬を打ち抜いたまま、前衛彫刻のようなポーズで固まった二人を、取り巻く生徒たちが固唾を飲んで見守っている。

 

「ぶおっ」

 

 空気が抜けるような音を立てて、ヨシが仰向けに倒れていく。

 が、レイジがそれを最後まで見届けることはできなかった。いくら無尽蔵の再生力を誇ろうが、気力体力、すべてが限界だ。

 

 地響きを立てて二人の大男が同時にひっくり返った瞬間、水を打ったような静けさから一点、溢れんばかりの歓声に屋上が包まれた。

 

「よくない。ぜんッぜんよくない」

 

 なんだか分からないが、とにかくすごいものを見てしまった。と、謎の熱狂に浮かされたアホたちの間で、ルリコだけが半目で、倒れたままの男二人を睨んでいる。

 

「なによダブルノックアウトって! 賭け無効じゃん! おら立て無能ども! もっぺん沸かせてみろ!」

「はは、はは。無茶言いやがる。これ確実に明日に響くぞ……」

 

 転がったまま、ヨシが乾いた笑いを漏らした。

 

 なんだかんだで、1番ストレス発散を楽しんでいたのはルリコなのかもしれない。

 

 男が這いつくばってるところが好きって、冗談じゃなかったのかあ……と思いながら、ヨシは首だけ起こしてレイジの様子を見る。

 

 彼はとっくの昔に起き上がって、自分の腕を見つめていた。そこに刻まれた青あざが、目の腫れが、激しい戦いの痕跡が、見る間に回復していった。

 

「レイジ、いいよなあ……傷、すぐ治って」

「傷が消えても忘れない。ヨシとこうして殴り合ったこと──正直頭を殴られすぎてモーローとしてる部分がほとんどだが──ヨシが俺に気づかせてくれたこと」

「なんかあったかねえ、そんなイイこと」

 

 打ち身と切り傷で今も見えない小人たちに全身を叩きのめされているように痛かったが、土がついたとは元無敗の帝王。転がったままでは格好がつかない。

 そろそろ起きようかね、と呻いたヨシに、レイジは手を差し伸べてきた。

 

「カナタと話してみる。もう逃げたりしない」

「辛ェぞ、それ。きっと」

 

 掴んだ手の熱さに、お互いに驚く。顔色は変えない。

 

「こんだけこじれたトコからキレイに着地とか、マンガやアニメじゃねえからな」

「嫌われても、拒絶されても。ちゃんと話し合った結果を頑張って受け入れる。それがカナタのために。そして、ヨシに真剣になるってことだと思う」

 

 手を借りて上体を起こしたヨシの隣に、レイジが座り込む。

 

「ところで最後のパンチ……どうだった……?」

「あ?」

 

 擦り切れたあごをさすりながら、ヨシが首をかしげた。

 

「ちゃんと、痛かったろうか」

 

 ヨシは呆れて笑った。

 

「ぜーんぜん。何もかも、楽しいだけだったあ」

 

 七月にしては、異様なほど風が涼しい日だった。

 こうしてボンヤリ座っていると、戦いの熱狂も痛みもすべてが風にさらわれて、後には体の芯にまとわりつくような、心地よい疲労が残される。

 レイジは隣に座る、最強無敗のケンカ番長をチラリと見やった。

 

「気になったことがあって……」

「おうよ。何でも聞いてくれや──もうダチだろ、俺ら」

 

 ヨシは、少し照れくさそうに鼻の下をこすった。

 

「無敗って、ホントに負けたことないのか。ただの一度も?」

「いや、それ聞かれると気まずいんだけど……」

 

 困り顔のヨシが頭をかくのも、レイジにとってはもう、見慣れたものだった。

 

「実は仮免のミホってやつがいてさァ」

「すごい二つ名だ……」

「あろうことか軽トラで突っ込んできやがってよ。それで全治二週間よ。そのせいでヤツも免許取り消し食らったんで引き分けみたいなモンだが。なんとそれから俺とミホは半年ばかし──」

 

「やー、いいモン見せてもらっちゃった。ほんじゃ、あたいらも戻って勉強がんばっとするかね」

 

 誰かの呟きが、ルリコ以外全員の意見を代弁していた。

 放られてきたタオルが、レイジたちの肩にかかる。爽やかでどこか懐かしい甘さの、日焼け止めの香りがした。

 その場からぞろぞろと去っていくクラスメートたちにうまくまぎれるように、マリコはカナタの手を引いて、その中に混じった。

 

「おカネ返すの面倒くさそうスね」

 

 ルリコが持つボウルの底に溜まった小銭とゴミくずを見て、マリコが呟いた。

 

「アホ二人の殴り合いを見せられただけじゃん。物足りないわね。マリコ、ザワちん、代わりにこれから殴り合いなさいよ。賭けてあげるから」

「おねえ……」

「鬼ですかアンタ」

 

 屋内に入ったカナタは、緑色の非常灯に染められた暗闇の中で一度振り返る。

 フェンス際で、こちらに背を向けたレイジとヨシの姿が見える。

 あれほど激しく拳を交えていた二人は、今は仲良く並んで座って、何事か、楽しそうに話している。

 

「行くッスか?」

「やめとく。今出てったら、邪魔しちまうし」

 

 カナタが、小さくかぶりを振った。

 

「アタシも、アイツの言ってたとことを噛み締めてえから」

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