海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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10.深夜/ア・ラック・オブ・オキシジェン(2)

 ぬるい空気が充満した廊下に、一人分の足音が響く。

 着古したタンクトップに白いタオル一枚ひっかけて、レイジが歩いている。

『決闘』のあと、興奮冷めやらぬヨシや他のクラスメートたちと長々語り合ったが、みんな、日付が変わる頃にはそへんに転がって雑魚寝を始めていた。

 そしてレイジはまたも部屋を脱走した。

 

 ギッ──ギイイイイィィィ……

 

 寝室をコッソリ抜け出てきたはいいが、彼は不器用で、おまけに疲れている。

 食堂のドアを開けるとき、あまりに大きな軋み音を出してしまった。

 

 彼は音に合わせて、天井に頭が着くほど大きく飛び上がった。

 それを、監督役のマリコや、大ボスルリコに見つかれば、ただではおかれない。普段でもジメっとしている背中に脂汗を浮かべながら、辺りを見回す。

 

「ふう……あぶなかった……」

 

 胸を撫で下ろした彼が漏らしたタメ息の方が遥かに騒々しかったのだが、そんなことにも気づかないまま、半開きのドアから食堂に這い入る。

 

 キッチンの奥に銀色の業務用冷蔵庫が、まるで洋館に飾られた甲冑のように静かに佇んでいる。

 

 レイジは脇目も振らずに歩いていって、取っ手に手をかけた。

 熱気の中にひやりと冷気が漏れ出てくる。

 冷蔵庫の中に灯ったライトが、月光と陰に彩られた食堂の中に、暖かいオレンジの筋を描く。

 

 そこに、最後の一切れの卵焼きが──あった。

 

「ラップしといてあげたわよ。感謝してよね」

「おわっ!?」

 

 背後から声が掛かったとき、驚いたレイジは、危うく皿を取り落とすところだった。

 卵焼きをささげ持つような奇妙なポーズのまま、彼がぎこちなく振り返る。

 窓辺でカードを握っていたルリコが、それを見てくすくす笑った。

 

「な、な、な……にを、して、るんだ……?」

「ただ、ぼんやりしてたダケ。しいて言えば、ウノでタワー作ってた」

 

 ルリコを包み込むように、テーブルの周りは窓から差し込む青い月光で濡れている。彼女が指し示すカードのタワーにも光が差して、幾何学的な模様を天板に描いていた。

 

「ルリコ、ひとりで、か?」

「うん。ひとりで」

「どうして?」

「イイ女ってのはね、1人でバカみたいなコトする時間が必要なのよ」

 

 立ち尽くすだけのレイジと言葉を交わす間も彼女の手は休まらない。

 ヨレて折りグセのついたカードをものともせずに工作機械のようにテキパキカードのタワーを建築していく。

 出来上がったら、土台の部分から無造作にカードを抜き取る。

 

 パシャリ。

 

 カードのタワーはそれでおしまい。

 そしていちからやり直し。ルリコは散らばったカードを掻き集めながら、目の前の席を目で示す。

 

「座れば?」

 

 ピアノを弾くような流麗な手つきでルリコはカードを滑らせる。

 規則的で、機械的なリズムに促されるように、レイジは皿を持って、ルリコの向かいに座る。

 あいかわらず不器用な手つきで破り取るようにラップを剥がしていくレイジを見ながら、ルリコはタワーの土台を作り始めた。

 

「──アンタが『終わりにする』って言った時。さすがに、もうダメかと思った」

「あれで、カナタも『終わりだ』って思ったなら……」

 

 卵焼きの断面を見つめながら、レイジは続けた。

 

「……それも、受け止める。辛いけど。頑張る」

「話し合って、それから。って決めたんでしょ」

「ああ。ヨシが、向き合えって言ってくれた」

「だったら希望を捨てるのは、もう少し後でもいいんじゃない」

 

 ルリコは、レイジの前の皿を顎でしゃくった。

 

「冷めるわよ。というかキンキンに冷えてるけど」

「どれだけ冷えてしまっても、カナタの料理はおいしい」

「ハイハイ。でしょうね。早く食べなさい」

 

 卵焼きはたった一切れしかない。

 ヨシに情け容赦なく貪り食われ、残ったものはたったこれだけ。

 レイジは指でつまんで、まずは半分だけ。

 

 よく噛んで、よく味わって────甘くて、しょっぱい。

 

 ただの卵焼きだ。

 傷ついて『いつも通り』ができなくなってしまったカナタが、血を滲ませながら『いつも通り』のやりかたで作って、『いつも通り』の関係に戻ろうと、差し出してくれたものだ。

 

 たった一週間離れていただけなのに、レイジは懐かしくて仕方がない。

 この小さな小さな卵焼きは、レイジにとって、あまりに大きすぎる。どれだけ噛んで小さくしても、なかなか喉を通らない。

 

「──どう?」

 

 ルリコが、小首を傾げて窺った。

 

「…………ああ」

 

 震えながら息を吸ったとき、口の中に花と潮の香りが満ちた。

 カナタの香りだ。

 レイジは彼女のことを強く感じた。

 身も心も砕けて散らばってしまった彼女が、これをどんな気持ちで作ったのか。

 トモダチと呼んで信じていたレイジから「終わり」を叩きつけられて、どれほど歯を食いしばって笑顔を見せてくれたのか──

 

 想像して、レイジはうつむく。

 

「すごく……」

 

 レイジはそこで、大きく肩を震わせてしゃくりあげた。

 

「すごく。おいしい、よ……」

 

 目元を押さえる手が、濡れている。

 

「アンタ──」

 

 我知らず、ルリコは手を止めていた。

 彼女は目を疑う。

 ほんの一ヶ月前の自分に話したら、絶対に信じないようなことが、目の前で起こっていた。

 

 あのレイジが、涙を流してすすり泣いているのだ。

 

「────アンタ、いいわね」

 

 柔らかなルリコの声が、深夜の食堂に響いた。

 

「なにっ、も」

 

 何もよくはないんだ──と、返すことすらできず、レイジは嗚咽を必死にこらえる。

 

 目をほじくられたわけじゃない。

 

 近くで工事をしているわけでもない。

 

 だが喉は苦しいほど絞まり、眼はヒリヒリと熱い。

 からっぽになった皿に落ちていく涙を見つめるルリコは、とてもうれしそうに目を細めていた。

 

「いいじゃない……アンタはそうやって、大人になっていける。

 そうやって後悔して、傷ついて、涙を流して……みんなの前で弱いトコを打ち明けながら、ちゃんと変わっていけるんだ」

「こんなに」

 

 レイジが強く鼻をすすり上げる音が響く。

 

「こんなに、辛いのか。大人になるって」

「きっとそう。醒めて諦めることを大人になると勘違いしてた私には、想像もできないくらい。ね」

 

 それからレイジは、気が遠くなるほどの時間をかけて卵焼きを食べていった。

 ルリコはカードを手に、何度もタワーを崩しては、また立ち上げる。その合間合間に、泣き続けるレイジを見ては、そっと微笑んだ。

 

「ごちそう、さまでした」

 

 こうして、世界でただひとつの卵焼きは、レイジの胃袋に収まった。

 彼は手を合わせたまま、空になった皿をじっと見つめる。

 すっかり泣きはらした目元は、彼の異常な再生力によって、まるで最初から何もなかったように消えていく。

 しかし、ルリコを見据えて口を開いた彼の声には、まだ涙が絡んでいた。

 

「頼みたい、ことがある」

「言うだけ言ってみて。私、今すっごく気分いいから」

 

 ポケットから出されたレイジの手に、四つ折りにされたハンカチが握られている。

 ところどころに黒いシミのついたそれを開いていくと、現れたものが月光に透かされて青い影を落とす。

 いくつもの、バラバラになったビーズの珠だった。

 傷だらけになったカナタを抱えてA-6500シャフトから引き返してくるとき、必死に掻き集めて持っておいたものだ。

 

「カナタの宝物なんだ。直してほしい」

「かして」

 

 一粒ビーズを拾い上げて、ルリコは月にかざしてみる。

 

「きれいね。だけど安モノじゃない?」

 

 そういう問題じゃない。というのを、彼女の手つきがもっとも雄弁に物語っている。

 

「新しいの、買えばいいでしょ。それで解決」

 

 世界でもっとも高価な美術品ですらそうは扱わないだろう、というほど丁寧に丁寧にビーズをあらためて、ルリコはそれを返す。

 レイジはなんともいえない顔で、彼女を見つめ続けた。

 

「待ってて」

 

 中途半端でタワーが崩れるのもお構いなしに席を立ったルリコが、キッチンの戸棚を漁り始める。

 

「えーと……ここらへんだったのよねえ。初日の大掃除で見かけたんだけど……」

 

 ハサミをショキショキ鳴らしながらアチコチ引っ掻き回すパジャマの背中を、レイジは見守り続ける。

 ルリコは首をかしげ──そして、テーブルに戻ってくる。

 

 コトリ。

 

 彼女がビーズの横にハサミを置いた。

 

「アンタ、都合よくヒモかなんか持ってない?」

「もってる」

 

 間髪入れずに答えて、レイジはもう一度ポケットに手を入れた。

 モソッ……と音を立て、丁寧に折りたたまれた油紙が姿を現す。

 

「うわ、え……アンタ、それ。いやウソでしょ、さすがに……」

 

 包まれていた銀色の繊維の束を見たルリコが腕を鳥皮のように粟立てる前で、レイジは顔を逸らした。

 

「ずっと持っていた。髪の毛だ……カナタの」

 

 カナタと出会って間もない頃、レイジにドン引きしたカナタが逃げ出した時に残したものだ。

 長い髪の『オモトカナタ』を脱ぎ捨てて、『カナタ』に生まれ変わった瞬間。

 ハデに顔をひきつらせたルリコも、その場に居合わせた。

 

「キッモ」

 

 一ヶ月の時を経て、ルリコは奇しくも、あのときのカナタと同じセリフをレイジに叩き付けた。

 しかし、その顔は笑っていた。

 カナタの髪の毛保管という、かなりアウトめの奇行はひとまず置いておくとして──修理用の道具がついに揃った。

 

「じゃ、やって見せて」

 

 ほっと、安堵に肩を下げるレイジのもとに、ルリコがすべてを押しやる。

 彼は一瞬で、その意図を察した。

 

「無理だ。俺には──」

「無理じゃない」

 

 短く返しながら、ルリコはカードの山から一枚引いた。

 

「できるよ。今のアンタなら、きっとできるから」

 

 リバース。青。

 今日はやたらとこのカードに縁がある。

 それをバラけた山と混ぜて図柄を揃えはじめたルリコは、すでにレイジの方を見てはいない。

 

「よし……わかっ、た」

 

 レイジが髪の毛とビーズを手にする気配を感じて、ルリコが頷く。彼はできる。だから、いちいち心配してやるのは、逆に失礼だ。

 

「今度、アンタの作った卵焼き、食べさせて」

 

 パチリ。コロコロ……

 

 レイジが何度も糸通しをしくじってはビーズが転げる音を聞きながら、ルリコはカードをシャッフルする。

 

「俺の? カナタ……いや、マリコに頼んだほうが……」

「レイジが自分で作れるようになった卵焼きが食べたいの」

「なんでわざわざ……」

「さあね────アンタはもう、なんでも出来るって証明しちゃったのよ。だから、ブレスレットもきっと直せる。直せなくちゃおかしい」

 

 レイジの深呼吸が響き渡る。

 人間ポンプが巻き起こした気流でウノの塔が揺らいだが、持ちこたえる。

 タワーが崩れようが、完成しようが、ルリコは気にしないようだ。カードをテンポよく積んでいく手つきはとことん無造作だった。

 

「あ……くそ……!」

 

 レイジはビーズ取り落とし、思わず悪態をついた。

 テーブルの下に転がっていったビーズは、彼の太い指をすり抜けて、どんどん奥に転がっていってしまう。

 

「うおッ……!?」

 

 くぐもった音が響く。レイジが思い切り、頭をテーブルにぶつけたのだ。

 パラパラと、タワーが崩れ去る音が聞こえる。

 

「ルリコ、すまない」

「いいのよ」

 

 彼の前で、スリッパをひっかけたルリコの足が静かにリズムを刻んでいる。ショートパンツの柄は、夕焼けを思わせる茜色のアジサイだった。

 

「大丈夫だから」

 

 透き通るように白い太股が、レイジに話しかけてきた。

 

「え?」

「そうやってイラ立つのも、アンタが変わった証拠じゃない。楽しみなさいよ」

「……ああ。頑張ってみるよ」

「その意気」

 

 リバースのツーペアを投げ捨てて、ルリコは山札を掻き集める。

 満月に見つめられた彼女の顔には苛立ちも落胆もない。何度タワーが崩れ落ちようが、手札がある限り、メゲずに一段目から組みなおすだけだ。

 

「ね──入学式でのこと、覚えてる?」

「は、はは……手元が狂う。笑うから、やめてくれないか。今は」

「動じない心を鍛えてあげてるの。ふふふー」

 

 伸びてきた前髪をかき上げて、レイジは右のこめかみをさする。

 とてつもなく重い岩石が衝突して砕いていったような、太い傷跡が残っている。ルリコが撫ぜる左手の薬指にも、半月型の縫合痕が浮かび上がっていた。

 

「……脳ミソ出るほど殴られた女と同じクラスとか。ふつー、ご免でしょ。よくガマンしたわね、アンタ」

「あれはそもそも俺が悪かったし、それに」

 

 そこで一度、レイジは言いよどむ。

 

「それに?」

「それに、あんなことされても、俺、ルリコのことが好きだよ」

「…………そうね。私もアンタのこと、嫌いになれなかったから、こうしてる」

 

 ルリコは静かに目を伏せた。

 

「あと、好きとか、もう軽々しく私に言わないで。いいわね」

「なんでだ」

「アンタが大人になってきたからよ。そういうの困るから……分かるでしょ」

 

 しばらく手を止めていたルリコだったが、やがてカードを二枚手にして、積み上げる。

 ルリコの息遣い。カードの崩れる音。控えめに自己主張する冷蔵庫のうなりと、糸でつながったビーズが擦れる涼しげな響き。

 静かに、ことさら静かに、深夜一時の静寂が深まっていく。

 

「ヨシって、いいやつよね」

 

 さっきの見ごたえあるファイトを思い出して、ルリコがまた、クスクス笑った。

 

「きっとアンタ、あいつと気が合うわよ」

「卵焼き、食われたけどな」

「あんくらいされなきゃ、アンタ必死になれなかったでしょ」

「うむ……」

 

 肩にかかったタオルで、レイジは額の汗をぬぐった。

 投げ渡されるままに、誰のものかわからないタオルを持ってきてしまった。ほのかに宿った日焼け止めの香りに覚えがある気がしたが──よく思い出せない。

 

 パタン。

 

 五段目まで積み上げたタワーを崩したルリコが、カードを押しのけて、テーブルの上に突っ伏した。

 腕をまくらにして、彼女は小さなあくびをした。

 

「アンタって我慢強いけど、本当は一番の痛がり屋さん……ヨシが言っててハっとした。苦しいなら苦しいって、ちゃんと言いなさいよね」

「かなりきまずい」

「いいじゃない。おかげでもっと。もっともっと、好感持てたわよ。よかったわね」

 

 レイジの見据える先で、ルリコの瞳が微かに鋭さを帯びる。

 

「……アンタが勇気を出したご褒美に、ひとつ。私の考察を聞かせてあげる」

「考察?」

「この町に養豚場はない。たぶん、フミオはウソをついてない」

「どういうことだ」

「四人でシャフトに行ったときのことを思い出してみて。あのブタは、コンテナの列は、いったいどこから運ばれてきてたのか」

 

 強化ガラスで補強された連絡通路と、遥か下方に通された何本ものレール。

 絶え間なく流れる貨物車は、いつでも同じ方向からやってきていた。上流から下流へ。途中で枝分かれ。

 だが、源流はいつだって一本だ。

 

「前にキリちゃんと、輸送網を歩いたって言ってたわね」

「あ、ああ……クモの巣みたいになってるって」

「レールの起点も町の中央かしら? でも、あそこって地上は水族館やら映画館だし、地下はシャフトでいっぱいのはずよ。つまり……」

「つまり?」

「どこか、私たちが知らない秘密の場所に通じるルートがレールの先にある。私はそう考える」

 

 ほんの一瞬、冷蔵庫のうなりが止んだ。

 わずかな間月の光さえ消えて、地下都市は完全な闇に包まれる。だが、それは本当に一瞬。

 うなりが戻ったとき、ルリコはまた、テーブルに顔を伏せていた。

 

「あれを辿っていけば、町に収まりきらなかった工場があるセクターに行けるんじゃないかしら」

「つまり、町の外が……?」

「断言はしない。保障もできない。レールを遡ってたどり着くのが、ただの巨大なブタ小屋ってオチもありえるし」

「十分だ。ルリコ、あの」

 

 また眠たそうになった目を上げて、ルリコはレイジの手元を見た。

 

「見てくれ。どうだ?」

 

 彼が差し出してきたブレスレットを受け取って、彼女はもう一度月光に掲げてみる。

 レイジの腕が悪いのは当然として、カナタのクセっ毛を使ったのもマズかったか。完成したブレスレットは盲腸のようにねじれている。

 

「ぶっさいく」

 

 顔に青い光を落としながら、ルリコの声は弾んでいる。

 

「そんなにか」

「うん。アンタそっくりね。でも──」

 

 口惜しそうなレイジとブレスレット、それらを見比べて、彼女は穏やかに微笑んで言った。

 

「──これもらったら、きっと嬉しいでしょうね。()()()()()()は」

 

 ビーズのブルーに、カナタの白。

 雲と水平線がいつでもそうあるように、まるで海とカナタがひとつに混ざり合ったようだ。

 ルリコはブレスレットを握り締めてみた。

 指の腹にすれて、微かに音がする。鼻を寄せて、においを嗅いでみる。

 

「……ルリコ?」

「あっ」

 

 潮に似たレイジのにおいを吸い込んでいたルリコは、そこではっとした。

 レイジが、不思議そうに首をかしげている。

 自分で感じていたよりも、ずっと長い間ブレスレットを握り締めていたようだ。

 ビーズが食い込んで赤くなった手からレイジにブレスレットを返しながら、ルリコは不意に、寂しくなる。

 こんなに不恰好で安物なのに、手放すのが惜しくなっていた。

 

「その」

 

 レイジが、重々しく切り出した。

 

「うん?」

「海、一緒に行かないか。なんなら、マリコも連れて、みんなで外へ」

 

 沈黙がルリコの答えだった。

 レイジには、家族がいない。だからこそ、マリコのために何かしてやりたいルリコの気持ちもよく分かる。

 ただこのまま、地獄のような家に戻ってしまったら。

 

「レイジ」

 

 考え込んでしまった彼を、ルリコの声が連れ戻す。

 彼の顔を照らす月が、かげった。席から立ち上がったルリコが軽やかに躍り、テーブルの上に乗った。

 彼女の動きで散らばったカードが舞い上がる。

 ゆっくりと自分のもとに向かってくる素足が、白い。

 

「ちゃんと見て」

 

 とっさに目を逸らしたレイジにそう言って、彼女は彼のすぐ目の前に正座した。

 

「今からちょっと、気まずいことするから」

 

 レイジの手を取って、彼女は迷うことなく自分の頬に触れさせた。

 干ばつ地帯の地面のようにささくれてめくれ上がった手で、絹のように滑る素肌を感じながら、レイジはそれが信じられない。

 ルリコは、触れられることを何より嫌う。

 たぶんそれが彼女の抱える地獄で、トラウマなのだろうが──普段、そんなことをすれば大爆発してあたりを火の海にするような彼女が、レイジの掌で頬をなぞらせている。

 

「マリコの顔の傷、見たわね」

 

 彼女はじっくり時間をかけて瞼、鼻、唇──顔のパーツを、焼き付けるように触れさせる。

 

「考えたくもないけど、私、これから同じ目に遭うかもしれないから。記念かな。記録かな。でも、写真に残しとくと、ぐちゃぐちゃの顔で見返した時に辛くなるでしょ。だから――」

 

 やがて、髪に触れる。

 彼女が一番大事にするパーツだ。

 その感触を。波打つようなキューティクルと、石鹸の香りをレイジに染み付けてから、彼女はもう一度立ち上がり、席に戻っていく。

 

「やらし」

 

 わずかに染まった頬を隠すように腕枕に顔をうずめた彼女は、今まで見たことがないような、少女らしい気配を漂わせていた。

 

「たぶん今の私が一番きれいな私。だから、代わりにアンタが覚えておいて。忘れないでね」

「ルリコ……」

「ん」

 

 やりきった顔で振り向いたルリコは、言葉を失った。

 

「親、俺が殺してやろうか」

 

 血が滲むほど噛み締めた彼の唇を見て、恐ろしくなった。

 そして、心臓が止まるほど嬉しくて──切なくなる。

 レイジは変わったのだ。

 彼がこれまで『憤怒』と呼んできた、胡乱で散漫な感情とは違うものが、琥珀に輝く瞳の中に燃えている。

 僅かな、本当の怒りの兆しが見えた。

 

「そっか……『うん』っていったら……アンタ、本気で殺しちゃうんだ……」

「町から出れば、おそらく戻ってこれない。だから、最後に。ルリコが、これからは、笑って暮らせるように」

 

 ────あーあ、私がもっとバカだったらな。

 

 ルリコは思う。

 レイジと一緒に、殺っちゃおっか。それも悪くない。

 そのまま、二人で町を出るなり、地の果てまで逃げるなり。

 気の向くまま、風の吹くまま逃げ続けて──それはきっと、長くはもたないだろうが。全部が全部ダメになってのたれ死ぬまで、二人で逃げ続ける。

 なんて破滅的で、ロマンチックな逃避行なんだろう。

 道徳も倫理も及ばない、まるで重力のようにルリコの心を惹きつけるアイデアだ。

 

「ダメよ。やめて」

 

 だからこそ彼女は、持ち前の理性を働かせる。

 

「アンタにはカナタがいるでしょ」

 

 ほんの一瞬でも、それを忘れるほどにレイジが怒ってくれただけで、ルリコは十分だった。

 

「それでいいのか。ルリコは」

「いいワケないでしょ!? でもアンタが殺人犯になる方が、もっとサイアク!」

 

 夜の静寂に、いつものように元気な怒鳴り声を響かせてから、ルリコは、柔らかく、優しい、儚げな笑みを浮かべた。

 

「……あーあ。疲れちゃった。合宿が終わったら、もう、こんなヘンなことに突き合せないでよね」

 

 彼女はまた、うつぶせに戻る。

 冗談でもごまかしでもなく、彼女は眠そうだった。

 ただでさえ疲れているルリコをこれ以上消耗させるのも忍びないので、レイジはカラの皿を持って、静かにイスを引く。

 

「──まだ怖い夢、見るの?」

 

 小さくてかわいいつむじを見せたまま、ルリコが聞く。

 レイジは小さく頷く。

 

「ああ。ルリコは?」

「しょっちゅうよ。アンタなら想像つくでしょうけど」

 

 強くて疲れた女でいたかった。

 何者にもナメられないほど頑固で、何も感じないほど麻痺していたかった。

 そんなアグリルリコという偶像は、痛みに立ち向かうレイジとヨシの戦いのさなか、粉々に崩れ去ったのだ。

 

「アンタとフミオが校庭燃やしてたのね、しょうじきぜーんぜん役に立たなかったわよ」

「う……やっぱりか……」

「面倒増えただけでクソむかついてたわ。でも……認める。なんかやろうってアホがいたら、少し気楽になるものね」

 

 もちろん、気休めだ。

 母親からの理不尽な要求と暴言に耐えるうちに、眠れなくなった。

 寝ている間に流れ出た小便のにおいでむせ返りながら目を覚まし、死んだ目でシーツを洗う日々。

 どこだってそんなものでしょ、という自己催眠が解けた時には全てが手遅れだった。

 

「アンタが毎晩悪夢にうなされるって打ち明けてきたときは嬉しかったな……私だけじゃなかったんだって」

 

 悪夢を見るレイジに、ルリコはシンパシーを感じていた。

 

「普通の家の子はね、悪い夢を見ないおまじないを言ってもらえるんですって」

「それは?」

「おやすみ──大事よね。挨拶って」

 

 しばらく面食らったレイジは、やがてきびすを返した。

 

「おやすみ。ルリコ」

「……うん。おやすみ、レイジ。なんか、ちょっとだけ、普通って感じしたわ」

 

 しばらくして、彼女は寝息を立て始める。その顔には、穏やかな微笑が浮かんでいた。よけいな世話とも思ったが、レイジはタオルを彼女の肩にかけてやった。

 ヨシと殴りあった直後から、ずっと彼の汗を吸い込んできたものだ。

 

「ふふ。あせくさ」

 

 狸寝入りを決め込んでいたルリコが笑った。

 レイジもクツクツ声を漏らして笑った。

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