海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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11.7月21日/キラー・カーズ(1)

「男の友情って、ワケわかんねーッスね」

「バカ同士の友情に理屈はないのよ。バカだから」

「仲いいならそれに越したこたねーけどな」

 

 勉強の手を止めた三人娘が、キッチンの奥を眺めている。

 ついにやってきた合宿最終日。

 前日にコンディションを崩すようなモン出すんじゃないわよ──と、ルリコの脅しに脅された当番どもが仕込みをしている。

 初日のメニューがそうであったように、最後の晩餐もカレーでシメる予定だ。

 しかもカナタ大先生監修、スペシャルカツ付き。

 

「カツカレー……あ゛……っ」

 

 テストに備えてゲン担ぎも万全の構え──なのだが、ここで折り悪く『勝つか0(レイ)』であることに気づいてしまったザワちん。

「どったの」と見つめてくるカナタに頭を振って見せ、彼は微妙な顔で単語カードに目を落とす。

 

「ぱいせーん。レイジさんって料理イケんスか?」

「うーん……卵焼きなら。塩効かせすぎだけどいいカンジだぞ……」

 

 料理上手のマリコとカナタから放たれるプレッシャーをバリバリに感じながら、レイジは背中を小さくしてジャガイモを切る。

 

「勉強以外もできる男にならないと、ね」

 

 午前中に実施したルリコ手作りの模擬テストで、彼の成績にはだいぶ不安が残った。

 しかし、ここまでの努力の甲斐あって複素数を雰囲気でふんわり理解できているようなので、思い切って任せちゃおっか、というルリコの判断だ。

 

「レイジちゃん。こうね、こうすんだよ。猫の手ってヤツさ」

 

 一緒に厨房に立つボタ子が、彼の手を取り足を取り、細かく指導してくれる。

 

「うわあ、おっきい手してるねえ。クマさんみたいじゃないかあ!」

「え、あ、ああ。ガサガサしてるから、そんなに、触らないほうが……」

「あたいも結構手アレしてるし。おそろっちだねえ」

 

 それだけならまだいいが、巧みにボディータッチを交えてじわじわ距離を詰めてくるので、見ているカナタは大変モヤモヤする。

 だがそれ以上に、ルリコとフミオ以外と話さなかった彼に新しい関係ができたことが、嬉しい。

 

「レイジに繊細な作業なんて出来ンのかあ?」

 

 撤収に備えてキッチンの荷物を片付けていた男子生徒が、作業の手を休めて、レイジの手元を覗き込んだ。

 そこには彼のこぶしと同じくらい不恰好なイモの断片が並んでいる。

 

「だいぶ小さく切っちゃってさあ……アゴ弱くても、食べやすそうだな……」

「ぶーぶー、いいじゃないかい。手じゃなくてイモ切れてるだけ、大進歩さ。ねえ、レイジちゃん」

「うん……挑戦するって決めたんだ。なんでも」

「そうかい。せいぜいがんばれデカブツ。料理できるようになったら楽しいぜ」

「楽しいぜって言うけどさあ、オタクなんか作れんのかい?」

「ぜんっぜんダメ! カップ麺に水入れてチンしたことある、俺!」

 

 レイジを挟んだ二人の能天気な笑い声が、食堂の方まで響いてくる。

 

「レイジくん、バンソーコー置いとくね。傷跡、増やさないようにしようね」

「あ、ああ……あり、がとう……」

 

 キッチンに出入りする生徒たちは、必ずと言っていいほど彼に声を掛ける

 ドカンと重たい音を立てて彼の前に徳用バンドエイドの大箱を置いた少女が「保険委員やってたので!」と言って胸を張りながら歩き去っていく。

 

「…………なんかにぎやかになったスね。レイジさんの周り」

 

 ネコのように大きな目をくるりと動かしてマリコが呟いた。

 同じテーブルについていたメンツが、同時にうなずく。レイジの纏う空気がほんの少しだけ変わったように見えるのは、みんな同じようだった。

 

「そりゃ興味持つでしょ。あんな面白いコトしたんだから」

「青アザだらけになった甲斐があったってモンだぜェ……いたた」

 

 分厚いテキストに目を落としたままのルリコの隣で、顔をパンパンに腫らしたヨシがモゴつきながら言った。

 彼の瞼の上には真新しい縫い痕がある。

 殴り合いの後『ホンキの男気見せてやるよ!』とカッターを取り出して血抜きを試みたところ見事にミスって大出血。

 滝のような勢いで噴き出す血が怖くなって救急外来に駆け込んだ成果だ。

 いきさつを聞いた当直の医師は、傷を縫いながら爆笑した。

 そもそもヨシ本人が話し始めから爆笑していた。

 なので二人の協力プレーで手元が狂いまくり、最後のほうは縫い目がねじれて、三浦半島のような形になっている。

 

「ヨシくん、自分の顔で半島の形カンニングできるスね」

「これがケガのミョーコーってやつかあ」

「……会長さん。どう思います、ヨシのセリフ」

「アンタ午後のうちにイチから国語勉強しなおしなさい。命令よ」

「なんで!?」

「────あ」

 

 声を上げたカナタの方に、みんなが注目する。

 じいっと見ていたので、とうとうレイジが控えめに手を振って寄越したのだ。おっかなびっくり、恐れてるんじゃないかと思うくらいの身振りだったが──

 

「がんばれ、ばかレイジ」

 

 カナタは笑って手を振り返す。

 

「やだあ、見せ付けすぎだよーッ!」

「ぐあーッ!?」

 

 それまで見守っていたボタ子がむずがゆそうにレイジの背を打った。

 巨大な板でブッ叩かれたようなベチンという音が空気を切り裂き、彼の巨体が床から十センチほど浮いた。

 

「お……おおおお……お?」

 

 ヨシの全力パンチを軽く凌駕する一撃だった。

 トラックに跳ねられたようなモンだ。いきなりとんでもない大ダメージを叩き込まれた彼は、そのまま床にうずくまる。

 傾いたまな板から硬いジャガイモがいくつも彼の頭に降り注いで音を立てる。

 それを面白がって、近くの生徒たちも笑いながらベチベチと彼の背を叩き始めた。

 

「や、やめてくれ、ちょっと、いて、いてててて……」

「ちょっとドヤしてやりますか」

 

 完全に楽しいことになってしまったキッチンを監督しに、鬼の生徒会長が席を立つ。

 学生生活、エンジョイ。大いによし。

 ただしこの瞬間は、まさに今後の人生が変わろうというテスト前の大詰めだ。落とせる雷を落とすのはルリコの仕事。

 疲労と覇気がごちゃまぜになったものを背から陽炎のように立ち上らせてルリコが歩いていくと、みんながモーセの海割りのようにイスを引いて道を開ける。

 

「アタシ、やっぱりレイジと話がしたい」

 

 その後ろについてきたカナタが、小さく囁いた。

 

「ひでー破局が待ってるかもよ?」

「ハキョク?」

「なんもかもメチャクチャになって終わりってこと」

 

 足が不自由なカナタのために、ルリコは少しだけスピードを落とす。

 

「いいよ、そんでも。二人で話し合って、やっぱりそれがいちばんってなったら──辛ェけど、アタシは納得する」

「……強いわね。カナタも、レイジも」

「それに、モンクのひとつも言えねーでサヨナラ、とか。アタシらしくねーもんな」

「カナタらしく、か」

 

 カウンターに辿り着いたルリコは口を大きく開け──怒鳴らなかった。

 ちょっとしたリンチ大会になっているキッチンから、もといた席のほうへと目を移す。

 ヨシ、それにザワちんと姉の様子を見守っていたマリコが、急に見据えられてビクっとしたのが分かった。

 

「私も向き合わないと……」

「ルリコはずっと戦ってきたろ。マリコと、それに家と」

「どうかな。人に偉そうなことばっか言っといて、実際はゼンゼンダメダメよ。

 あの時アンタが言うとおり、一緒に風呂入って体を見ておけば、妹の顔に一生モンの傷を残さず済んだかもしれない。

 面倒くさがらずに立ち向かってれば、もっといい姉になれてたかもしれない」

 

 ルリコは語りながら、どんどん眉間にしわを寄せる。

 そんな目つきで見つめ続けていられると、何もしてないのに悪いことをしでかしたような気になるものだ。

 おののいたマリコが、反射的に隣に座るヨシの腕にすがりつく。

 

「アア──ッ、おっ、おっぱァ!?」

 

 不意に押し付けられた巨乳が思春期真っ盛りのエロボウズを暴走させた。

 全身痛むだろうに、彼はロケットのように席から飛び上がる。衝撃でひっくり返るお盆。きれいな弧を描いて飛ぶ、四人分の麦茶。

 

「ぎゃあーッ!? この野郎ーッ!!」

 

 そして頭から茶を被って水浸しになるザワちん&彼の単語帳。

 ジャンプでどこかの傷口が開いて床を転げ回るヨシと、その胸倉をつかんで追い討ちビンタをお見舞いするザワちん。

 そこでマリコは笑っている。自分が騒ぎの爆心地ということも、姉に怯えていたことも忘れて、取り出したケータイで動画を撮りはじめた。

 

 叫び、悲鳴、笑い声──

 

 カナタの目に、西日が黄金に輝いて見えた。

 その、焼けるほどの(ゴールド)を浴びたマリコは、心の底から幸せそうに見える。

 

「どうせテストが終わったら地獄に帰らなきゃ。って考えちゃうの」

 

 ルリコには別のものが見えているようだった。

 マリコの顔には、まだ傷をつけられる余地が残っている。ルリコの心も、何度だってへし折ることができる。

 

「夏の始まりに全てが戻る前に、マリコと向き合わなきゃなのに……」

「ルリコ。なあ……」

 

 カナタが半分も言わないうちに、話を打ち切るようにルリコが首をぶんぶん振った。

 うなじにこもった熱を解き放つように髪をかき上げ、キッチンの中を睨めつける。

 

「ほらアンタら、時間ねへのにあにやっへ……」

 

 ひゅう。おかしな呼吸音を漏らしたかと思うと、ルリコの頭がクラリと回った。

 

「あ。やば……なんか懐かしい感覚」

 

 その全身から、一瞬で力が抜ける。崩れる。

 

「ごめん倒れる」

 

 今のカナタの体では、何もしてやれない。

 

「ル──レイジ!」

 

 とっさに彼女が彼を頼ったとき、その姿が一瞬で霞んだ。

 風圧でジャガイモが舞うほどだった。

 この場の誰よりも鋭敏に、誰よりも早く動き、レイジの巨体は解き放たれた猛獣のように、カウンターの上をしなやかに飛び越える。

 スライディングで滑り込んだ彼の上に導かれるように──ルリコの体が倒れこむ。

 

「お、おい! ルリコ!?」

「あんがとレイジ……でも……」

「で、でも?」

「すっげえ汗クセ……」

 

 その一言ですべての力を使い果たしたように、クタリとルリコの首が落ちる。

 近くでよく見ると分かる。コンシーラーでごまかしているだけで、目元は真っ黒だ。

 この一週間、寝る間も惜しんでみんなのために働きづめたのだ。当然だ。

 昨日食堂にいたのも、ただの偶然ではなくおそらくレイジと話すため──この合宿で一番ギリギリだったのは、他でもない彼女だった。

 熱っぽいルリコの体を抱えたまま、彼はぎゅっと目を瞑った。

 ルリコの姿を見て、食堂に徐々にざわめきが広がっていく。レイジの元に、さっき絆創膏を差し入れてくれた女子生徒が小走りにやってきた。

 

「あっ、アクション映画みたいだったあ……それで、ルリコさんは?」

「だいじょうぶ。疲れがひどそうだ。ひとまず──」

「おねえッ!!」

 

 悲鳴のように甲高い声を上げて、マリコがレイジを押しのけた。

 

「おねえ。おねえ──ごめん。ごめんね。ウチが無理させたから……」

「マリコだけのセキニンじゃねえ。アタシらみんな、ずーっとルリコに頼りっぱなしだ」

 

 ぎこちなくこわばった掌が、床にヘタりこんだ彼女の肩に触れる。

 カナタはマリコの瞳を覗きながら頷くと、レイジに目配せする。

 

「分かった」

 

 それで彼女の意図を全てを理解したレイジが、軽々とルリコを抱いて立ち上がる。

 

「マリコ、付き添ってくれるか」

「うす。もちのロンす」

 

 レイジとマリコの背中が廊下の暗闇に消えていくまで、みんな、じっと見守った。

 

「なんか、恩返ししてあげたいねえ……」

 

 ボタ子の漏らした呟きが大きく響き渡り、みんなが同時に頷く。

 合宿はすでに最終段階だ。

 ルリコの仕事はすでに終わり、ここからは彼女に代わって、みんなが舵取りをする番だ。

 

「ザワちん!」

「はい。すでに」

 

 カナタが叫ぶより早く、ザワちんが窓際にホワイトボードを運び込んでいた。

 緊急ミーティング、開始だ。

 

 ■

 

「やーれやれ。私、クラスでいっちばんタフな自信あったんだけどなあ」

 

 冷房が効いた女子部屋の布団に寝かされたルリコは、保健室から拝借した風邪薬をラムネのように噛み砕いた。

 

「うス」

「なによ」

 

 マリコは姉の額に手を乗せる。ほんのり熱がある。軽い眩暈もしているようだし、なにより話しているだけでダルそうだ。

 過労。そして典型的な夏カゼ。

 テスト前日にとんでもない不運を呼び込んでしまったが、ルリコに悲壮感はない。ただ、面倒くさそうに顔をしかめるだけだ。

 

「レイジ、あんたも。ジロジロ見てくれちゃって」

「クラスで一番頑丈なのは俺だ。が」

 

 レイジが意を決して軽口というものを叩いてみると、ルリコは軽く目を見開いたあと、力なく肩をすくめた。

 

「あーら。みんなの前でベソかいてた弱虫コムシが何言ってんのかしら」

「う……みんなの前では泣いてない。だろ」

「おやおや。前で“は”あ?」

 

 とてもささやかなやり取りだったが、マリコは決して聞き漏らさない。

 なんとなーくイイ雰囲気を漂わせる二人の間にぐりぐり頭をねじ込んでくる彼女のことを、無言でルリコが押し返す。

 

「ねェ~、なにかあったんスか? そういうの、二人だけの秘密ってヤツ~?」

「そうね。昨日の夜のことは墓場までもってく。レイジ、アンタも命が惜しかったらそうなさい。いいわね」

「ああ……そ、そうだな」

 

 思わせぶりなことばかり言う姉。そして、やたらと気まずそうなレイジ。

 二人が今まで見せたこともない顔をしているのを前にして、マリコはますます気になったようだ。

 

「ええぇ~!? ちょ、めっちゃエロじゃねえスか? それ!?」

「茶化さないの。私にとっては大事な思い出なんだから」

「だってェ」

 

 十分前にブっ倒れたばかりというのに普段の調子を取り戻しつつある彼女を見て、レイジは静かに安堵の息を漏らす。

 人前で顔を緩めることが出来るようになったレイジのことを、ルリコの方も満足げに見守っていたが──やがて表情を引き締める。

 

「ねえマリコ」

「ん?」

「大事なお話。今からしていい」

「う、うす……」

 

 いつになく改まった様子で姉が言ったので、マリコはおずおずと、畳の上に正座する。

 レイジは何も言わずに立ち上がる。

 この姉妹の苦しみを、ずっと傍で見てきた。だとしても彼はあくまで他人で、この部屋の中にいるべき場所はない。

 彼女たちの人生に、立ち入る隙はないのだ──

 

「アンタさ。ちょうどいいから、立ち会ってよ」

 

 ──と、思ってるのは彼だけのようだった。

 

「マリ……」

「ウチも……おねえと二人だと、何つったらいいか、わかんなくなっちゃうんで。お願いしたいな……」

 

 マリコまで、不安そうな顔で頼んでくる。

 座布団を手に立ち上がったレイジは落ち着かなく寝室を見渡し、やがて、窓際に腰を下ろす。

 いるが、いない。見て、聞くだけ。

 灰色のカーテンの向こうから差し込んで、ぼんやり背中を暖める日差しを感じつつ、レイジは膝の上で手を組んで見守る。

 

「──ごめんね。私アンタのこと、好きにも嫌いにもなれてない」

 

 第一声から、ルリコは本音で、本気だった。

 

「好かれてるなんて、都合のイイ頭してないスよ、ウチ」

 

『夕焼け小焼け』が遠くから聞こえる。

 校舎のコンクリート壁で反響して、広がって……郷愁(ノスタルジー)を誘う戦慄が、どこか遠い土地からの便りのように合宿所まで漂ってくる。

 

「でも、嫌いでもないんスか」

 

 座布団の上で背中を丸めたマリコは、幼い子供のように見えた。

 

「そうね。私はアンタに無関心。ずっと変わらず、この瞬間まで」

「じゃ、どうして合宿にウチのこと、呼んでくれたんスか」

「アンタが助けてって言ったから。そして、死んだら寝覚めが悪いと思った。家には置いとけない。かといって、アウトドアで生きてけるほど、アンタは強くない」

「姉さん、だから……?」

「しいて言えば」

「うっ……く」

 

 泣きそうな目で、マリコがレイジにすがるような視線を投げた。彼は黙って首を横に振る。

 どれほど手を差し伸べてやりたくても、彼は応えられない。

 見届けてと言われた。それ以上は求められていない。

 辛いのはマリコだけじゃない。厳しい顔つきで心の中身を打ち明けるルリコも、楽しくてそうしているわけじゃない。

 向き合うと決めたからだ。

 自分たち姉妹がどうなるのか、まず見届けて。それからカナタと向き合え──横顔だけを見せるルリコが、そう囁きかけてくるような気がした。

 

(俺は、都合のいいことを考えてるかもな)

 

 レイジは考えを振り捨て、二人に向き直る。

 間を取り持ってくれるような『夕焼け小焼け』の演奏はもうすぐ終わる。この部屋は静かだが、沈黙を許しはしない。

 夏は短い。合宿はもっと短い。足踏みしているヒマなんて、コンマ一秒も許されないのだ。

 

「そりゃ、嫌われてないだけ御の字スけどね……ウチ……」

 

 自嘲と、かすかな怒りを滲ませて、マリコが口を開いた。

 彼女はそこで、ふいに沈黙した。スンと音を立て、鼻から息を吸う。もうレイジは見ない。

 息を吐く。また息を吸う。

 これほどまでに自分と真正面から向き合って話してくれる姉のために、仮面を脱がなければいけなかった。

 呼吸を止めて一秒。

 ルリコが真剣な顔で見ている。

 そこから何も聞けなくなりそうになる──姉を恐れるあまりバカを演じて逃避してきたアグリマリコという役を、押さえつける。

 

「私は姉さんのこと、憎く思ってきました」

 

 “トリガー”ではなく、“マリコ”でもない。

 一人の妹として、彼女は背筋を伸ばした。

 

「……うん。そうよね」

「姉さんが目障りだった。ウチ──私がどれだけ頑張っても、いつでも上に姉さんがいる。私が死ぬ気で積み重ねた努力を飛び越えていく。よりによって、努力で。私の頑張りを、頑張りで否定される」

「それは」

「まだ終わってない。逆だったらよかったと鏡を見るたびに思う。少なくとも私が上だったら、顔を壊されなくて済んだのにって」

 

 お前が代わりにそうなってくれれば──そんな含みすら隠さずに、マリコはぶちまける。

 ルリコは、ぎゅっとタオルケットを握り締める。

 真っ白に染まった彼女の指の関節に、レイジは深い後悔を見て取る。

 姉の眺める風景の一部でいいから、見ていてほしかった。と、かつてマリコは打ち明けてくれた。

 

「私はマリコのことが、好きでも嫌いでもない」

「私は姉さんのことが、憎いし…………大好き」

「その顔の傷、私の居場所を白状するように言われて付けられたって」

「覚悟してたし、ジコマンだったし──あいつが呼んできたパパがスプーンとライター取り出して……右側の三つが終わった後は、打算で耐えてた」

 

 マリコは猫ヒゲのように頬に張られた絆創膏を撫ぜる。

 その下には楕円形の惨い火傷がケロイドになって潜んでいる。そして、これからもきっと、ずっと。

 そして、たとえ傷を消せたとしても、事実は残り続ける。

 いつだってなんだって、取り返しはつかない。

 

「どうあれ、私はずっと後悔するわ」

「それが狙い。姉さんは義理堅くでクソ頑固。だから、どれだけ私に興味がなくっても、罪悪感として一緒にいられる」

 

 マリコは顔を覆う。

 

「……こんな自分が、嫌いで憎い」

「私はアンタのこと憎んだりしない。どんなことがあっても。アンタが私のために、走ってくれたのは変わらない」

「でも……」

 

 マリコがルリコの背に手を添える。

 いくらなんでも、病体に無理をさせすぎた。

 火照った姉の体は驚くほど軽い。弱々しく抵抗してくるのを無言の力でぐいぐい押して、横たえる。

 

「でも、好きではない。んですよね」

「そうね」

 

 ケットを引き上げてルリコの腹にかけてやる手つきは、心の底から姉を敬愛して、慈しんでいるように見える。

 マリコはこれほど姉を気遣って、ルリコもまた、妹の身を案じ続けている。

 レイジの目から見る彼女たちは、本人たちが思う以上に愛し合っていて、通じ合っている。

 どうしてこうも、辛くなってしまうのだろう──彼が顔を伏せようとしたとき、ルリコと目が合った。

 彼女は、いたずらっぽく笑って見せた。

 

「そこの置き物と、知り合ったときのことなんだけど」

「う、うえ?」

「レイジね。そいつとフミオ──アンタの言うバイク先輩。ボコボコにブン殴って、骨折って、レイジに至っては脳挫傷。体育館は血まみれで、私も病院直行」

 

 マリコが信じられないものを見るような目つきを向けてくる。

 

「マジ……ですか……?」

 

 いきなり名前を出されてレイジも驚いていたが、おずおずと、頷く。

 

「そいつが不死身でよかったわ。じゃなかったら今頃、生徒会どころじゃなかったろうし」

「なんで友達やってんですか。そんなんで」

「わかんない。こいつ、バカだから──ううん。ゴメン。違う」

 

()()()()()()なのよ。

 

 ルリコの声が、よどんだ寝室の空気をスッと換えた。

 

「そういう、もん、ですか?」

「愛してるとか、憎んでるとか。殴ったとか殴られたとか、殺したとか死んだとか、そういうんじゃないのよ。すべては」

 

 マリコはレイジを見つめた。

 体ばっかり大きくて、何を考えているか分からない……いや、今は彼女にもよく分かる。彼は戸惑い、たじろいでいる。初めて『焼失』の話を振ったときと、同じ顔だ。

 彼はあの壮絶な殴り合いを経て、変わった。

 一ヶ月前まで、彼はただの学校の上級生で「顔はいいからツバつけちゃおっかなー」と思っていた相手でしかない。

 そんな彼の機微を読み取って、進歩に気づけるほど、気づけば彼との絆を感じている。

 

「スイカ……」

 

 マリコが無意識に呟くと、今まで岩のように固まっていたレイジの口元がわずかに綻ぶのが見えた。

 

「私が本当に苦しいときに、スイカを差し出してくれたヒトがいたんです」

「うん」

「体ばっかデカくて、ヘンなことばっかしてて──でも、ほとんど他人みたいな私に、優しくして、助けてくれたんです」

「カッコいいヤツだった?」

「うス……あ。ちがう。ええと……それは、今話すことじゃない。と、思うんですけど」

 

 どこかスネたような調子で返すマリコに微笑んで、ルリコは目を閉ざした。

 

「で……なぜかレイジの話に戻るんだけどね。な・ぜ・か」

 

 さっきから話の中心にされたレイジは気まずくて仕方がない。

 彼はずっと、黄色く焼けた畳の目を指先でなぞっている。彼は見届け人だ。どれだけ好き勝手言われようと、ただここに座って、全てを心に焼き付けるだけ。

 

「どういうワケか、私と友達ずーっとやってくれてる。そういうもんなのよ。

 たとえ肉親でも、アンタと私はこれから先、どうなるか分からない。このまま平行線かも知れない。殺しあうほど憎むかもしれない──世界で一番仲のいい姉妹になれるかもしれない」

 

 すべては『運命』がきっかけを運んできてくれるかどうか。それはそれで、素敵じゃない――そう言って、ルリコは息をついた。

 

「でも目を逸らすのは、この先に待ってる可能性を全部捨てる(スポイルする)ことになる」

「本気で向き合う……ああっ」

 

 思わず声に出してしまって、レイジが顔をしかめる。

 

「すまん。忘れてくれ、俺は石ころだ。ここにはいないから」

「いいのよー、別に。言いたいコトあるなら?」

「そうでスよ。私たちからしたら、もう、ただのトモダチじゃないですし」

 

 そう言ってクスクスとマリコが笑う傍で、ルリコは静かにケットを引き上げる。頭の先までスッポリ覆うように。

 その顔を見せないように。

 

「私は人生の半分、マリコから目を逸らして生きてきた。でも」

 

 ルリコが、毛布の中から手を差し出した。

 

(ルリコ、その手……)

 

 レイジはかすかに目を見張る。あんなにフミオが「細い」と言って心配していた腕に、少し筋肉がつき始めている。

 遠巻きに見守る彼の前で、マリコがおずおずとその手を握ろうとする。

 

「いいの?」

 

 ルリコの指が、マリコのネイルに施されたストーンをなぞる。

 

「え?」

「私、アンタのこと、うまい言葉で丸め込もうとしてるだけかも」

「それでも私は、ウチは、これからもずっとおねえが憎くて、でもって大、大好きなので……ッス」

 

 マリコはレイジに向かって手招きした。

 おずおずと、彼は向かっていく。姉妹の間に踏み込んでいっていいのか──と思うが、彼女たちはとことんオープンだ。

 

「レイジさん」

「うん」

 

 おずおずと隣に立ったレイジのスラックスを握って、マリコがブーっと鼻をかんだ。

 一瞬、彼の空気だけが止まる。

 

「──は?」

「ウチ。もう迷わないスよ!」

 

 呆然とするレイジのズボンからツーっと引いたハナをチョップでスパっと切り捨てながら、マリコの口調はかつてのものに戻っていた。

 そして今までより遥かに力強く、頼もしい。

 

「これがウソでも、ウチはおねえと離れない。ずっと傍にいて、いやってほど焼付けてやる!」

「マリコが一緒にきてくれるなら、私は──ううん。そこのレイジみたいに、私も変えたい。マリコと一緒に変わりたい」

「おねえ……」

 

 いつの間にか、マリコは顔じゅう涙と鼻水でびちゃびちゃだった。

 彼女の顔は秋の空のようにコロコロ変わる。笑って、怒って、呆れて……それでも、人前で泣くなんて滅多にない。

 顔を焼かれても悲鳴を漏らさなかったほどだ。

 ルリコは頭まで毛布を被ったまま、芋虫のようにぎゅっと体を丸めた。まるで、何か大切なものを胸に抱こうとするようだった。

 

「……すこしねる」

 

 マリコと結んだ手を、彼女はパっと離した。

 

「ほら。やること終わったから。暑いから早く出てけ。私のニヤケ面は高いんだから、待ってたって見せてやらないわよ」

「じゃあ、レイジさん」

「あ、ああ……そうだな。ルリコ────おやすみなさい」

 

 モゾっと毛布が動いた。

 

「ッ…………すみ」

 

 言われるがままに、二人は部屋を後にする。

 彼女たちが寝室のドアを閉めるまで、ガーッ、ゴーっ、という、わざとらしいルリコのいびきが見送ってくれた。

 

 ■

 

 無人の廊下は茜色に染まっていた。

 女子部屋を後にした二人は、舞い上がるカーテンを映したリノリウムの上を歩いていく。

 レイジが先で、マリコが後。

 部屋を出るなり彼女が後に続いたので、自然とそういう形になる。

 なのでレイジは、勉強合宿のラストスパートがデッドヒートしている食堂の前に辿り着いた後も、そこをスルーして歩き続けた。

 マリコのために、そうしよう──彼の小さな配慮が通じたのかどうか。

 かまれたハナが体温と日光で温まってサイアクなことになっているスラックスの尻をつかんで、彼女はついてくる。

 

「やっ~~~~っ!」

 

 下駄箱に至り、もうこのまま外に出て行くしかないか……とレイジが腹をくくったとき、いきなりマリコが飛び上がった。

 

「ったァ~~~~ッ!!!」

 

 そして、レイジの背中を、思い切り平手打ちする。

 バッ……チーン! といい音が奏でられる。

 

「あいた」

 

 レイジはそこで立ち止まる。今日はよくよく背中を叩かれる日だ。妙な感慨にとらわれつつ、彼の気分は決して悪くない。

 

「よかった。な」

「うス。うすうすうす……うス!」

 

 ぺちぺちとレイジの背中を何度か叩いて、とうとうマリコは小躍りまで始める。

 今の感情を言葉にすることすらできないのか、風の吹き渡る廊下に、彼女の軽やかな足音だけが響く。

 

「本当に、本当によかった」

「うへへ。えへへへへ。これから、頑張らなきゃス」

 

 感動で映画『焼失』、ラストシーンに登場する要塞での殺陣の再現まで始めたマリコを見つめながら、レイジは近くの窓辺にもたれる。

 カーテンを揺する風がやわらかく、湿り気を帯びて涼しい。

 緊張を乗り越えて汗ばんだ彼の背中をゆっくりと冷やしていく。

 

「マリコ──」

「はえ?」

 

 つかの間太陽が雲に隠れた。

 あたり一面がふっと薄暗くなり、日差しが和らぐ。

 作り物の夏がほんの一瞬息を潜め、その中でマリコの表情だけが光を帯びている。セミも太陽も、彼女の独壇場を譲ったようだった。

 

「なんで……しょうか?」

 

 首をかしげる彼女の顔が、ずっとずっと大人びて見えた。

 

「ちゃんと向き合って、ちゃんと傷つく。ヨシと殴りあった後にいろいろ話した。そうしたら、前に進めると」

 

 一瞬きょとんとしたマリコの顔に、じわじわと笑みが戻ってくる。

 

「へへ。へへへ……ウチとおねえも、そうだったらいいスね。これで何かが変わったら、うれしいな……」

「きっと変わる。現実は映画じゃない。変えていくことに意味がある。んじゃ、ないか」

 

 半分は励ましで、半分は願望だ。

 

「ダメな結末が見えてたら、自分の力で変えたらいい。痛みに立ち向かう強さがあれば、マリコたちみたいに、幸せになっていける」

 

 ルリコとマリコは、立派に示して見せた。

 向き合ったら、どんな結末でも納得できる。目を逸らさず、逃げずに話し合って、彼女たちは新しい可能性を手にした。

 さあ、アンタもいけるスよね──はじけるようなマリコの笑い声が、レイジに問いかけてくるような気がした。

 

「俺も、きっと」

「うす。みんな、幸せになれるスよ。最後はハッピーエンドが待ってるス」

「そうだといい」

「大丈夫────ウチとおねえ、お騒がせしたケド、いい感じに収まったし」

 

 窓辺で目を細めるマリコが逆光を帯びる。

 ルリコと同じなのに、ルリコと違う顔つき──レイジはこの瞬間、それが決定的になったように感じた。

 青い光の中で、彼女は白い歯を見せて笑う。

 

「みんなでハッピー、掴み取るスよ!」

 

 ようやく心が動き始めた彼が面映さを覚えるほどに、その笑顔は可憐で美しい。

 頬に刻まれた傷跡も絆創膏も、その輝きを曇らせることは出来ない。

 

「……なら。まずは、マリコたちのハッピーからだ」

「ウス」

 

 彼の言葉の意味を察したマリコが、スカートのポケットを探る。

 

「ハイこれ。女子高生のぬくもりでホカホカの二十万ス」

 

 ズルリと細長い茶封筒を取り出して、彼女ははにかむ。その厚さは相当なものだ。決して、ハンカチのようなノリで持ち歩いていいものではない。

 

「ずっと持ち歩いていたのか……」

 

 大金である。

 

「ウス。トップセキュリティーゆえ」

 

 それは逆に危ないだろうと言ってやるべきかどうか悩んで、レイジはやめる。

 細々したことよりも、今は考えておくべきことがある。

 

「どうせ持ち帰っても、いずれ鬼ばばあに見つかって取り上げられるのがオチすからね。派手にパーっといきましょ」

「“おねえ”を笑わせる……か」

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