海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

123 / 158
12.深夜/ドント・ダイ・オン・ザ・モーターウェイ(2)

 レイジとカナタはそれきり押し黙った。

 真夜中のグラウンドに、パチパチ弾ける音を立てて、紫の花が咲く。

 それはヨシだ。火のついた手持ち花火を二刀流した彼が、興奮したサルのような奇声を上げながらザワちんを追いかけ始める。

 真夜中のグラウンドに響き渡るみんなの笑い声、ヨシの絶叫と、ザワちんが煙に咳き込む音。

 ヨシは面白がってどんどんスピードを上げるのだが──彼は気付いていない。彼のすぐ後ろに、発射二秒前の打ち上げ花火を手持ちしたボタ子が迫りつつあることに。

 

 パスッ、と銃声のような音が響き、ヨシの「ぎええええ」という甲高い悲鳴がその後に続く。

 

 背中に花火を突き刺されたヨシを見たザワちんが、せせら笑うがそれは一瞬の表情。

 バチバチ弾けながら突っ込んでくるヨシと、まだまだ大量の打ち上げ花火を抱えているボタ子の姿が見えてしまった。

 

 そして。

 

 パァーッン──土曜朝のスーパー戦隊ノリの大爆発で三人が火花と爆発の中に消え、あたりにもうもうと火薬の煙が立ち込めた。

 それをずっと見ていたカナタが、決意を固めるように深呼吸する。

 

「ごめんな。アタシ、夢ブンなげようとした」

 

 一瞬でいろんな考えがレイジの胸の中を埋めた。

 

「……ああ。知ってる。町、出ようとしたんだろ」

 

 言うべきこと。言うべきでないこと。すべてがぐるぐると渦巻いて混ざって、ようやく出てきたのは、素気のない一言だった。

 

「ま、そうだよな。アタシのこと、助けに来てくれたし」

「覚えがない」

「パンツ一丁だったことも?」

「ズボン脱がされたところまでの記憶なら……」

 

 花火の音色にかき消されるほど小さな声でカナタが笑う。

 グラウンドのあちこちで花火が始まっていた。

 もうもうとした煙が校内全体に漂いだしていた。霞のように立ち込める白いスクリーンの中で、赤、緑、黄色──色とりどりの火花が散る。

 光で浮き上がったクラスメートたちのシルエットを見ながら、レイジは次の一言を考える。

 

 ──海に行く。

 

 それはカナタの夢であって、レイジのものではない。

 因縁のニンジャと、そしてキリエの言葉を認めるようで悔しいが、彼はカナタの夢に相乗り(タンデム)しているだけだ。

 自分で夢を持つことができないから、他人にすがって『にんげん』のフリをしてきた。

 

「カナタの願いは、カナタのものだ。俺は口出しできない。だけど──」

 

 ひゅるる。打ち上げ花火が昇っていって、桃色の炎を夜空に散らせた。

 

「別れも言えずに、カナタと離れたくない」

「ああ──そんなの寂しいよな。アタシら家族なのによ」

 

 枯れ木のように細った足で立っているのが辛くなってきたので、カナタは軽く体を傾け、レイジに預ける。

 岩山のような彼がビクっと震えたのが分かった。しかしカナタは花火の風景を見据えたまま、揺るがない。

 恐怖も、嘔吐も、今の彼女にはない。

 見上げる瞳と視線が合ったとき、灰色の中にかすかな青が差した。だがそれはすぐ、また深く沈んでいった。

 花火の光が見せたイタズラだったのかもしれない──だが、それは紛れもなく、夏祭りの帰り道に目にした彼女の輝きだった。

 

「カナタ」

 

 彼女の体温を感じながら、レイジは口を開く。

 

「話をしておきたい。テストが終わってからでいい。俺は、もう一度カナタと向き合いたい」

「アタシもたくさん話したいことがある。『オモトカナタ』のこと。そして、アタシと──父さんのこと」

 

 二人は頷きだけを交わし、またグラウンドに目を向ける。

 厚底スニーカーの底をバコバコパカパカと、まるで馬の蹄鉄のように騒々しく鳴らしながら、マリコが駆けてくる。

 

「パイセン──およ。もしかしてお邪魔したスか?」

「そういうのいいから。逆に気まずいだろ」

「へっへ。お二人も花火、いかがスか? あのおっちゃん、キリエ先生にコッテリ絞られたみたいで。超サービスしてくれたスよ」

 

 彼女は腕いっぱいに、色も種類もさまざまな花火を抱えている。

 マリコの笑い方は変わった。見る人の心を軽やかにする、スッキリとした笑い方だ。彼女に抱かれた沢山の花火が、まるで花束のように見えた。

 

「ヨシくん、またレイジさんと勝負したいって。殴ると痛いから今度は花火で。って言ってたスよ」

「花火で勝負って。どうすれば?」

「面と向かって撃ち合うのが一番盛り上がるんじゃねースかね」

 

 大きな金属バケツの近くで、ツルっとしたボウズ頭のシルエットが手を振っている。

 その隣はボタ子とザワちん。少し離れたところから、ルリコが控えめに掌を見せる。

 

「ヨシって、いいやつだな」

 

 ルリコが言っていたことを、レイジも口にしてみる。

 フミオとの決別が予想外の形で訪れたように、彼には予期しなかった友人たちが増えた。

 彼が全力のパンチで殴ってくれたから、レイジはカナタに向き合う勇気を持ってここに立っている。

 汗でジットリ濡れた丸刈りに花火の光をミラーボールのように反射させるヨシに向かって、レイジは頭を下げた。

 相手が気付かないほど小さく。

 きっとヨシはハッキリ感謝を伝えられても困るだろうと、今の彼は知っている。

 

「────すまない。少し遅れる。そう、伝えておいてくれ」

 

 微笑を浮かべたまま静かに言い放ったレイジの前で、マリコとカナタが顔を見合わせた。

 

「あ? ジブンで言やいーじゃないスかあ」

「ある人をずいぶん待ちぼうけさせている」

 

 レイジは背後にそびえる合宿所を仰ぎ見た。

 裏山に日差しを遮られ、濡れて腐った落ち葉を彼らの足元まで広げてきている。

 日中でさえジメっとした建物は、今や暗闇の中にうずくまる濡れた巨人のようだった。

 穏やかだったレイジの声に、僅かな鋭さが混じる。

 

「ケジメをつけなきゃいけないんだ。俺が、失望させた人に」

 

「ふーん」と、よく分からない様子で首を傾げたマリコだったが、すぐにカナタの腕を掴んで、微笑みかけた。

 

「ほんじゃ楽しい楽しい花火、ウチらダケで楽しんじゃいますか!」

「おう! レイジもなるべく早く来ンだぞ!」

「わかった────カナタ!」

 

 マリコに手を引かれていくカナタが、足を止めて振り返った。

 

「卵焼き、うまかった。本当に。涙が出るほど、うまかったんだ」

「…………うん。食べてくれて、ありがとな」

 

 今度こそカナタを見送りながら、レイジはポケットに拳を突っ込んだ。

 ポケットの中で、ブレスレットが沈黙していた。

 カナタの宝物を、まだ返すことができていない。

 

 ■

 

「────あなたの答えは見つかりましたか」

 

 いつの間にか、レイジの背後の闇に立つものがいた。

 

「答え」

「キミの欲しいもの。キミの『からっぽ』を満たすもの。幻想(ドリーム)でも、願望(ウィッシュ)でもない。キミだけの『夢』」

 

 昏く、そして熱い声だった。

 振り返ることもなくレイジは己の拳に目を落とす。古木のようにたくましく、傷だらけの指をそっと握り締める。白く染まった彼の手に、積み重ねてきた自傷の痕がおぞましく浮き出る。

 

「キミはずっと、カナタさんの夢に相乗り(タンデム)してきた。それはキミのものではない。ニセモノの夢です」

 

 闇と一体化したような大きな影が語りかけてくる。

 お前が見つめるその拳に、どれほどの価値があるのか。力だけでは何もできないと悟ったお前は、それで何をするのか──と。

 

「俺は今まで、カナタを海へ連れて行くことが、俺の運命だと思ってました」

 

 ──運命。

 

 運命のカナタをゴールに連れて行けば、自分を苦しめる悪夢にもケリがつく。

 梅雨の真っ只中に、洗いざらいの空をカナタと見上げながら感じた予感はあまりに初々しくて、今になって思い出すと、レイジは胸の中が甘酸っぱくなる。

 彼とカナタはそれからたくさん傷ついて、汚れた。

 レイジはカナタの願望を処刑し、カナタはレイジの幻想と共に崩れ落ちた。

 

「前に言われたことは、とことん正しかった。

 俺はカナタの後ろで、手を引っ張ってもらってただけだ。自分をどうしたいとか、どうなりたいとか、そういうのじゃない。ただ苦しみを手放して楽になりたいだけだった」

 

 レイジはひざまずいて、靴の具合を確かめた。靴ヒモがひどく緩んでいた。一旦解く。

 もともと純白だった靴ヒモは黒くくすんでいた。

 最後に洗ったのはいつだったか……くたびれたコンバースのマークをなぞりながら、彼は考える。

 

「それは夢じゃない。逃げだ。やっと分かりました。師匠の──キリエ先生の言ったこと」

 

 意を決して振り向く。

 

「それでも俺は海に行きます。カナタと」

 

 影の中に、巨大な壁のように、キリエの長躯が(ソビ)えていた。

 レイジの右手の中に灯った黒い炎も、周囲の影と同化したように冷え切っている。

 

「結局最後まで相乗り野郎のまま、ですか」

 

 昆虫じみた緑の双眸が、レイジを睨めつける。

 

「なんと言われてもかまわない。俺はカナタが笑うところを見たい」

「あの子に何したか覚えてますか────私はドン引きです。どんな事情があれ、女に手上げるとか」

 

 ヨシとザワちん、そしてボタ子。そこに混ざったルリコ、マリコ姉妹と──カナタ。

 グラウンドから聞こえてくる歓声と閃光、そして火薬がくゆらせる煙は、まるで映画のスクリーンの向こう側の景色だ。二人のいる暗いところには、この世に存在する一切の熱が伝わってこない。

 無限の暗闇の中、レイジは黙って右手を見つめた。

 

「俺はこの手でカナタを傷つけたことを。カナタが忘れていた苦しみを掘り起こしたことを。絶対に忘れません」

 

 キリエがフットワークを刻み始める。

 レイジも構える。

 

 

「向き合って、話し合います。俺は……ルリコを見て、そしてマリコを見届けた。

 きれいごとばっかりじゃなくて、飲み込めないことも、片付かないこともあって──でも、ちゃんと見詰め合って、ちゃんと傷ついたから、あの二人は先へ進めるんです」

 

 長い長いキリエのため息が、夜闇を切り裂く。

 

「だからキミらにも、同じことができると?」

「いいえ。分かりません。俺はもう助かりたいわけじゃない。希望があるから進むわけでもない」

「理解できませんね。今まで誰かの夢や希望にたかる羽虫のようだったキミが、今度は先の見えない道を進みたがるのか」

「カナタにしたことの責任を取りたい。会って話して謝って、ちゃんとしなければいけないんです。怖いけど──足がすくむほど怖いですが、もう運命から逃げたくない」

「『怖い』、か」

 

 キリエの目に、つかの間深い感慨が走る。

 だがそれは一秒にも満たない間のこと。感情の揺らぎをもみ消すように左手のグローブを鳴らして拳を握り締めると、彼女は構える。

 ファイトスタイルはボクシング。レイジに合わせてくれている。

 

「からっぽの癖に、ベラベラと。口だけ達者になりましたか」

「こんな風に喋るのは今夜限りです。あとは、すべて行動でお見せします」

「きっと辛いですよ」

「覚悟の上です」

「来なさい」

 

 レイジの姿が霞んだ。

 腐葉土を大きくハネ上げた彼が、閃光のようなスピードでキリエに迫る。

 選択はなされた。突き上げ、貫く、アッパーカットだ。

 反物質の輝きを帯びた彼の爪が、闇夜に光る軌跡を描く。そして、それはキリエを捉えられない。

 必殺拳は彼女の顔の右側、五ミリの位置を通り過ぎる。

 僅かな首の動きだけでレイジの攻撃を避けた彼女は、耳元をスリ抜けていくレイジの左腕を取り、躊躇なく極める。

 

 ゴギュッ

 

 鈍い音が響き、それで彼の左はおしまいだ。

 

「ふんッ」

 

 そのまま、上腕から先がダラリと折れ曲がったレイジの腕を思い切り引く。

 体勢が崩れたレイジの顔面を、反対側の肘で粉砕──完了。

 

 まるで解体工事のように手際よく体を破壊されながら、レイジもやられっぱなしではない。

 顔面を深々と陥没させた彼は、それでも無事な右腕でキリエの肘を取っていた。

 

 これを見越して自分から当たりに行ったのだ。そのため僅かにインパクトのタイミングがはずれ、キリエの肘は、レイジの意識までは刈り取れなかった。

 

「うおおッ!」

 

 自らの噴いた血で顔を染め、赤鬼のごとき形相になったレイジが、渾身の力で腕を絡め取る。そこから力任せの一本背負いだ。

 まさしく破壊的。

 レイジが振りかぶったとき、キリエの肘は地面側──つまり投げのピークに至った瞬間、テコの原理で二人の全体重が掛かる場所にある。

 確実に自分の体が破壊される、というにもかかわらず、円弧を描くキリエはそれでも涼しい顔をしていた。

 

 ────くにゃり。

 

 空中でキリエの体が頂点に達した瞬間、レイジが感じたのは肘の靭帯を引き千切る確かな手ごたえなどではない。

 階段の一番上の段をあると勘違いして足を踏みおろした時のような、身の毛のよだつような肩透かしだった。

 レイジは、キリエの部屋にあるヌンチャクを振り回した時のことを思い出した。

 電撃のようなスピードで視線を動かす。空中でキリエの肘が、反対側に曲がっている。

 いや、曲げている。

 

 ────残念。先生、ロボットアーム(スジガネ入り)なので。

 

 およそ、正常な人体の構造では不可能な空中回避。

 おそらくルリコが見ていたら「ボクシングに投げも義手もナシだっつってんでしょ!?」と拳を振り上げるに違いない。

 

 だが、これはヨシとの殴り合いとはまったく別種のものだ。無機質な死合だ。

 

 レイジもキリエも、硬直した時間のなかで悟っていることがひとつある。

 キリエが着地をした瞬間、ケリがつく。キリエの勝利という形で。

 しかし、それはマトモな形での着地を許したら、という場合だ。

 徐々に近づきつつある地面を視認していたキリエの瞳孔が開く。違和感。ほんのわずか、制動がきかない。

 レイジは彼女を逃さない。さっき靴をいじると見せかけて抜いた靴紐が、二人の手首を結んでいる。

 

「どこで、こんな小細工……!」

「手芸を、少々」

 

 キリエにとって徹頭徹尾意味の分からないことを抜かしながら、レイジはグンと靴紐を引っ張った。

 馬鹿げた質量を持つキリエの体を支えきれず、古びた紐は、張り詰めた瞬間千切れてしまう。

 しかしそれで十分だ。

 

「ぬ」

 

 キリエが着地した瞬間、紐一本分、その体幹がブレた。そして、そこはよく滑る腐葉土の上。

 先に体勢を立て直したレイジのタックルを正面から受けて、彼女は今度こそ、踏ん張りきれない。

 黒い長髪を夜風に躍らせ、身長200cm、体重は異様に重く100kg超の彼女の体が一瞬宙を舞い、ドッサリ積もった腐葉土の上に叩きつけられる。

 

「かッ」

 

 激しく泥を巻き上げ、キリエが、息の塊を吐き出した。

 はじめて手応えがあった。

 レイジはキリエの腕を掴んだまま、じっと彼女を見つめていた。

 鼻の奥をかすめる血のにおいをかぎながら、彼は夏のはじまりを思い出す。ゴム底サンダルで頭を叩かれ、何度もアスファルトに倒された記憶。

 あの痛み、あの衝撃。

 キリエと拳を交える時間はいつだってグチャグチャで、血と苦痛にあふれていた。

 しかしすべてを忘れたレイジにとって、他人の体に触れられる大事な瞬間だった。人の温もりを思い出せる時間だった。

 

 それを今、卒業した。

 

「……ああ、ホラ。ダメですって。そうやってボーっとしないの!」

 

 立ち尽くすレイジに向かって、キリエが手招きする。

 

「ブッ倒したら間髪入れずにボコボコにする! キホンのキでしょ、もう……」

 

 そう言っているヒマがあるなら立ち上がればいい。

 だがキリエはそうせず、地面の上で笑っているだけだ。自分の体の形に腐葉土を陥没させて見上げてくる彼女は、満ち足りた様子だった。

 レイジもまた、初めてマトモに一撃入れた感覚を味わうかのように、震える手をじっと見つめて、そして──

 

「ありがとう、ございました」

 

 十秒にも満たない、本当に本当に短い攻防は、レイジが頭を下げた瞬間に終わりを告げた。

 頭を深々と下げられたキリエは、目を瞑った。そして、喉の奥を鳴らす。

 それがやがて、押し殺した笑い声になったかと思うと、すぐに彼女は堰を切ってガハハと豪快に笑い始めた。

 

 笑って笑って。グラウンドの反対側にいるカナタたちのところでも聞こえるんじゃないかと思うほど大声を上げて……彼女はふっと小さく、満足げな息を吐いた。

 

 

「いやあ。師匠って呼ばれるのハズかったですけど……こうして一本くれてやると、なんか、イイモンですね。弟子ってのも」

「免許皆伝ですか?」

「ちょっと驚いただけ。全然本気の負けじゃないですから」

「二重関節まで仕込んどいてそういうの、カッコ悪いですよ」

「フツーだったらあんな手に引っかからないの。いっつもまっすぐ突っ込んでくるばっかだったキミが、コスくてずる賢い工夫なんてするなんて夢にも思って────ああ、そうか」

 

 そこでキリエは目を見開いた。

 いきなり遠くの景色が見えたような顔をレイジに向ける。血だらけの顔で、精悍な顔つきの青年が静かに立っている。

 鳶色の瞳は闇夜に光を投げかけるようで、きゅっと結ばれた唇の奥に覚悟が秘められているのが分かる。

 それはもう、かつての木偶ではない。

 

 

「──成長したのか。キミは」

 

 

 レイジはこびりついた血をぬぐう。

 彼の前でキリエはようやく立ち上がって、ストレッチした。動きにダメージを感じない。むしろ、さっきの一投で、エンジンがかかり始めた雰囲気だ。

 抜き身の刃を向けられたような気配に身構えてしまったレイジの前で、彼女は肩から力を抜く。

 

「でも、まあ。今日はこのくらいにしといてやるか……」

 

 今の彼女からは、殺気が感じられない。

 いつもの酒臭さもダレた雰囲気も息を潜め、むしろセッケンのいい香りまで漂わせている。

 

「あーあ。せっかくお洗濯したのにな」

 

 と言って糊のきいたブラウスの背中を払う彼女を見て、レイジは無言のままショックに打ちひしがれていた。

 暗いせいでずっと分からなかったが、あの樋口キリエが靴下を履いている。

 サッパリした顔で、おまけに髪もモジャモジャではなく、信じられないことに下着も────

 

「おほん。女の子の体、ジロジロ見てると第二ラウンドが始まりますよ」

「あっ、す、すみません……」

 

 キリエはそれから、空気を仕切りなおすように何度か咳払いした。

 アルコールが抜けてすっかり赤みの引いた顔でじいっとレイジを見据え──その肩に、静かに手を置いた。

 

「このキリちゃんの全力のホンキの1パーセントとはいえ、よう倒して見せました。そこで、イイコトを伝授しちゃいましょう」

「デンジュ?」

「必殺技です」

「は?」

 

 黙りこくったレイジが作り出した沈黙に、鈴虫の声が涼やかに鳴り響いた。

 

「恥ずかしいですよ、そういうの。格闘技にはないです。必殺とか」

「いいところでいきなり常識見せてこないで!」

 

 かなり冷静なツッコミを弟子に浴びせられたキリエは、また雰囲気をリセットするために十回ほど咳払いしなければならなかった。

 さて──と改まったようすで再び彼女が切り出した頃には、レイジはすっかり呆れ顔だ。

 

「夢を追いなさい」

 

 キリエは必殺──技、というよりは、生き方のようなことを口にした。

 

「キミの旅路は、きっと辛く長いものになるでしょう。最後まであの子を連れて行くには、夢が要るんです」

幻想(ドリーム)や、願望(ウィッシュ)のような……?」

 

 キリエは首を横に振る。どちらも彼女の求める答えからは遠い。

 カナタを乗せたイスルギレイジという巨大ロケットで遠い海までたどり着くには、もっともっと荒唐無稽でイカしたパワーが要るのだ。

 彼女はそれを伝えるために、この場にいる。

 

『夢』にはまだ、もうひとつ呼び方が残っているのだ。と。

 

浪漫(ロマン)ですよ、レイジくん」

「ロマンって……ロマンチックの、ロマンですか?」

「叶うかどうかも分からない、とてつもなくデカい、でたらめな夢」

 

 実の弟にそうするような手つきで、キリエはレイジの頭を撫でる。

 くしゃっと掌を擦る髪の毛の感覚を味わえるのは、きっとこれが最後だ。レイジが師弟を卒業したように、キリエもまた、義理の弟がくれた心地よさから卒業しなければならない。

 もう彼は一人の男で、大人だ。

 その頭に手を置くことは、何者にも許されない。

 

「極限まで夢を鋭くなさい。大事なのはゴールを見つめること。何者になって、どこに、誰と一緒に行きたいか──それを定めて駆動する技は、すべてが星をも砕く必殺になります」

 

 手が、レイジを離れる。キリエは楽しい七年間だったと思う。

 

「キミの『終結因子』は終わりに立ち向かうため、人類という種が勝手に押し付けられた力」

 

 戦いの余熱が冷めても、レイジの右手はまだうすぼんやりとした燐光を帯びていた。

 キリエはそれをちらりと見やって、続ける。

 

「でもそんなの、くだらねー研究者が勝手に抜かしたゴタクに過ぎない。

 キミはその光に、キミだけの意味を与えてあげなさい。キミが自分自身にそうしたように、今度はキミの力を再定義して産みなおしてあげるんです」

「でも俺の力は、ただ壊すことしか……」

「壊し、殺し、犯して奪う。力とは結局、そこに終始する。だけど──それをゴールのド真ん中に据えてはいけない。

 道を阻む敵がいる。だから倒す。好きな女の子を救いたい。だからことごとくを壊す。なんのために、どこに向かうのか。

 キミの光(反物質)がいつも散弾になって飛ぶのは、まだ十分に焦点が合っていないからです。さっきそこでキミが脱ぎ捨てた、かつてのキミと同じだ」

 

 静かに、しかし赤く熾った鉄のように熱を持ったキリエの言葉を聴きながら、レイジはかつて『海』と空を割った日のことを思い出していた。

 水の壁を割り、カナタの命を救った瞬間────荒れ狂う反物質が手綱を彼に預けていた。

 その、長大な光の帯が、瞼の裏に蘇る。

 あの光は夏の始まりからずっと彼の心の中に突き立ち、解放の時を待っているのだ。

『にんげん』として歩みだした彼の旅路で、杖として再び握られる時を。

 

「バカげた夢で世界を貫きなさい。レイジくん。

 ロマンがあれば、力に方向と勢い(ベクトル)が生まれる。つまるところ、怪物(バケモン)人間(にんげん)に違いがあるとすれば、ロマンのために何かをできるか否かでしかありません」

「浪漫……」

「キミのロマンチック。止めないでくださいね」

 

 夜空で弾けた一発の花火をバックに、彼女は肩をすくめ、トボけたように笑った。

 

「でもまあ────果たして、カラッポレイジくんごときに持てますかねえ。燃え盛るような男のロマンってやつが」

 

 それは師匠からではなく、対等な相手としての挑発だ。

 悔しかったら空っぽを満たして見せろ。お前の中身をきれいで美しくてかけがえのないもので一杯にしてみせろ、と、生意気な少女のような笑みが叩き付けてくる。

 やりたい放題、言いたい放題の姉だ。と、レイジも負けじと彼女の長身を見上げた。

 

「そういうキリエ先生にはあるんですか。ロマン」

 

 呆れた様子でレイジが問いかける。

 

「ありますよ。もう叶ったんで、燃えかすみたいなモンですけど」

 

 そして彼女はゆっくりと、レイジを指差す。

 

「キミの存在です。イスルギレイジくん」

「お、俺ですって?」

 

 あまりに突拍子もない返事に、思わずレイジが声を裏返した。

 

「いったい俺が、先生の何だって──」

「む」

 

 面白いくらい戸惑うレイジでもう少し遊んでいたい気持ちもあったが、キリエの鋭敏な感覚は、和やかな雰囲気の中で線香の煙のように細く漂う殺気を捉えていた。

 合宿所の屋上。そこに、無数の黒い人影が見える。

 

「部外者入れるなって……まったく」

 

 言うが早いか、キリエはブラウスのボタンを外しながら合宿所に走っていった。

 入り口を頼りなく照らす非常灯の明かりの下で、グローブが外され、彼女の異様な左腕があらわになる。

 左肩甲骨から腕全体にかけて、黒光りするカーボンスチール製の義手で置き換えられている。

 彼女が階段を駆け上っていく寸前、鋭利なチタンの爪が、見覚えのある反射をレイジに投げかけてきた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。