1.さらばノスタルジア
よく晴れた空の下を一台の軽トラックが走っていく。
周囲は見渡す限りの田んぼの緑が映え、抜けるような夏空と遠くの山並が薄紫を世界に落とす中、白い軽トラは強烈なコントラストを生んでいた。
『店酒暮』──荷台の横に飾り気の無い文字列が黒で踊る。
農業用道と呼ぶにはあまりに整備されたアスファルトの畦道を通って、トラックは町の外殻へと向かっている。
なんてことはない。『彼』のいつもの出勤風景だ。
窓枠に右ヒジを掛けるようにしてハンドルを握ったブンタは、明らかに寝不足だった。
自慢のスキンヘッドの後頭にも、無慈悲なカミソリを逃れた剃り残しがぽやぽやと生えている。
『ねェ』
町の外周、地下に埋め込まれた原発のうち三基が水没でダウン。
なんとか夜中のうちに電力を取り戻したが、浸水した原発は依然として復旧中。今はジワジワ貯金を食いつぶしている状態だ。
この後は会議して会議して会議からの会議──現場主義のブンタにはたまらない、素敵な仕事のオンパレードだ。
素敵すぎてありもしない生え際が後退しそうだ。
『ねェったらー』
彼が気晴らしに、カーステレオのスイッチに手を伸ばした時だった。
ガッツン。
「あ」『あ』
タイヤが何かに乗り上げ、そしてイヤな感触を覚えた。
後続車なんて通りかかるはずもない道なのに、ブンタは路肩にトラックを寄せ、降りる。
とたんに振り注ぐ日光が彼の無防備な頭皮を焼く。
頭の上に手をかざしながらトラックの下を覗き込み──「ゲッ」とブンタは顔をしかめた。
『だいじょぶそ?』
荷台の上から垂れてくる二本の素足を邪魔そうにのけて、彼は右後ろのタイヤを揉んでみる。柔らかい。パンクだ。
スライムのようにつぶれて萎んでいくタイヤから、彼はトラックの後方に目を移す。一機の農業ドローンが墜落していた。
見事『殉職』し、ここで息絶えた機体が回収を免れて墜落したままだったようだ。
その上をトラックが通過したせいで白いプラスティック製のカバーは砕け、干からびたカエルか何かの轢死体そっくりだ。
「こりゃアチャパだな」
イカツいハゲ男は腕組みしたが、これはもしかしてしめたものかもしれない。
「あー俺サマ。ちょっとパンクしたからねえ。遅れる。マジでギリギリになるから──いや、迎えとかいいから。俺サマの代わりに万事がバンバンジーでいい感じにしといて。じゃ」
向こう側で通話を受けたヤツが何か文句言っていた気がするが、セミの声と稲のせせらぎでよく聞こえなかったことにする。
彼は一方的に通話を切って、端末を助手席のシートに放り込む。これで午前中は無敵だ。
あとはダラダラして昼過ぎに行けば、みんなメシの後で眠くなって、彼が言うことにコックリコックリ頷いてくれる寸法である。
とうとう総理大臣になってしまった酒屋の大男はこんな風にまじめな仕事ぶりで評価されていた。
「あー、つくづく出来る男だねえ。俺サマ」
『ずるだ』
車体の下から引っ張り出したタイヤを傍に置いて──それで交換作業を始めるかといえば、やらない。遠くからドローンで監視されたときのイイワケ用だ。
作業一割、タバコが九割──
ボディを軋ませて荷台に寄りかかる。タバコのパックを叩きながら空を見上げる。西町のお日様は今日も元気だ。
ひとつで原発二基分のエネルギーを吸っていくところに目を瞑れば、ブンタにとって最高の同僚といえる。
「ふう」
タバコをくわえ、彼は大食漢の太陽を睨む。
このまま電力不足が続けば、西町はいままで取り繕ってきた仮面を脱がなければいけなくなる。
そうすれば夏も、九〇年代もおしまいだ。
そして世界が壊れている原因────彼がアレコレと言い訳して避けてきた『終わり』との対峙を余儀なくされる。
過去に残留することを選んだ彼として、それだけは避けたい。
『はい。どーぞ。火ですー』
「おお、ありがと────」
ボンヤリ考えながらポケットにライターを探していたブンタの前に、手が翳される。彼はとっさに反応してしまった。
「…………こほん。足元を──アリが……
『もういいでしょブンちゃん。ずーっと私のこと見えてんでしょ』
カバンの底に丸めて隠しておいた赤点テストが親に見つかったような顔をして、ブンタは荷台の上を見やる。
灰色のワンピースを身につけた少女がそこに座っている。
彼の前に投げ出された二本の足も、ライターを持つ手つきをマネする両腕も、フジツボに覆われている。
その侵食は顔にまで及び、波打つ黒髪の下からジトーっとブンタを睨んでくる目元も例外ではない。
『七年前のツケ。そろそろ徴収しようと思ってさ』
それだけあっても、美しかった。
七年前にブンタが見かけた時はモヤの塊のようだったが、今ではピントが合ったように彼女が像を結ぶ。
軽トラの荷台の上で夏の妖精のようにくるりとスカートを翻す彼女は、あの頃からずっと成長して、大人びたように見えた。
■
第五章・最果ての断片/最高時列化
■
『ブンちゃん』
青空の下で、少女は荷台の上に寝転がっていた。
空に向かって差し伸べられた彼女の両足が、ぱたぱた動いてはぐれ雲を追う。
『お前のムスコ、マジでサイアクだよ』
「人んちのせがれを悪く言うんじゃねえよ」
シュボッ──
「ゴメンな嬢ちゃん。ガキの前でタバコ吸ってよ」
『いいよ別に。私の本体、クソフミオの冷蔵庫の中だし』
「だからあいつを悪く言うんじゃねえ」
『へえ。ブンちゃん基準だと女の背中踏むヤツは悪人にならないんだ』
「…………だけど。捨てたモンじゃねえよ」
『捨てたモン、か』
少女が太陽に手を翳すと、その顔に確かなかげりが落ちる。
あくまで彼女は一部の人間にしか見えない幻覚に過ぎず、手のひらの影ですら『そこに女の子がいたらそんな形の影が落ちるのだろう』という認識が生む錯覚でしかない。
『てーのひらをーたいようにー、すかしてみーれーばー』
「まーっかーにながれーるー」
『ぼくのちーしー……無いな。血潮ないな、私に』
「お
『お骨っつーな。死んでるどころか生まれてすらいねーんだぞ、こっちは』
二人は目を合わせず、話し続ける。
核心から逃れているような。お互い旧友として、この時間を苦しみながら楽しんでいるような、おかしな空気がトラックの近くに渦巻いていた。
『ブンちゃんさっき、ちょっとアレンジしたでしょ。真っ赤に流れるあたり』
「したっけなあ」
『したした。まーっかーにながーれる、でしょ。ながれーるつってた。ヤだなあオジンは。すぐ勝手に曲をいじくるんだから』
「いいだろ、オジンなんだからよ」
『いいけど若い子とカラオケする時は気をつけなね。嫌われちゃうよ』
「もうやらねえよカラオケ。キリエが俺にゲロぶっかけて暴れたせいで、いきつけの店に二度と来るなって言われちまった」
『はは』
「ふっ」
そして、二人とも黙った。
ゴーっという飛行機のエンジン音が、彼らの頭上を掠めて響き渡る。稲は風にそよぎ、陽は肌を焦がす。
ここに立って話をしていると、まるで本当に地上で、平和な世界に生きているような気分になってくる。
「お」
一匹のシオカラトンボがブンタの目の前をよぎり、手元から立ち上るタバコの煙をかき混ぜていった。
ここは穏やかで静かで────そしてすべてが、下品なほどの『懐かしさ』でわざとらしく味付けされた作り物だ。
『ノスタルジーに……ええと……なんだっけな』
ごろりと寝返りを打って、少女がブンタの背中を見つめる。
「ん?」
『レイジの映画であったんだけど……ノスタルジーが……』
「どんな映画だ?」
『男の子とおじいさんがいて、映画館があって、それで、神父が怒ってキスシーンを切り取らせる……』
「ああ。ニュー・シネマ・パラダイスか」
ありゃ俺も好きだ。俺にきれいなカミさんがいたら、一緒に──余計なことを言いかけて、ブンタは笑いでもみ消した。
「ノスタルジーに惑わされるな」
彼は焼けたタバコを見つめる。
「故郷には何も無い」
夏の暑さの中で、指を炙る火の温度が心地よかった。
「もうツラを見せるな。お前の噂を聞きたい。ローマに行け」
『よく覚えてんね』
「ふんわりだよ。なんとなく、だ……」
『ノスタルジーに惑わされてはいけない。か』
ブンタは次のタバコを手に取らなかった。マイセンのパッケは彼のポケットの中でぐしゃぐしゃに握り締められている。
『私たちを
「ダメだ」
ブンタのポケットの中で完全にタバコが潰れた。
『レイジたちが海でアレと出会ったら、この時間が終わっちゃうから?』
「…………」
彼は長い長い時間を掛けて、一本のタバコを取り出した。ほとんど直角に折れ曲がったタバコの先に火を点すとき、彼の手元は僅かに震えていた。
『九〇年代はもう終わったんだよ』
「終わってねえ。戦争はしねえ。俺は……シンプルなタイムアップで人類の大団円を迎えてえんだ」
『そんなものは映画にならない』
「現実は映画じゃない」
『ブンちゃんのための現実でもない。好きな
「るせえ」
『ツケが溜まってる』
「お前さんが勝手に言ってるだけだ」
『あの時フミオを選ばせてやった大きなツケ。代わりにレイジを地獄に叩き落したツケ。シャフトの底で七年待ってやったツケ。おかげであんたは借金漬けだ』
だから返済だ。海に行かせろ──少女はそう繰り返すが、ブンタは頑固だった。
うつむき加減に立ち尽くすブンタは、夏の空を支えるアトラスのようだった。彼は世界の自転を止め、独善で人類を九〇年代に縫い付ける一本のピンだ。
『私には、頼むことしかできないけど』
少女は、そのピンを引っこ抜きたい。
「ならもひとつオマケに借金だ」
『ふざけんな』
「フミオを傍で助けて、支えてやってくれ。あの時俺サマにそうしたように」
『は────なに、言ってんの』
今度こそ完全に少女は立ち上がった。
『あいつがカナタちゃんに何したか』
「分かってる。あの野郎も気に病んでる」
『ウソウソ、そんなのウソだね! だったらどうして謝らないんだ。あんたに頭下げさせて、勝手に一人でたそがれて、どうして平気でいられるんだ!』
マシンガンのようにまくし立てた後、彼女は、はあはあと息を荒げていた。
幻影に肺なんてものはない。冷蔵庫の中の脊髄は疲れたりしない。
それでも彼女がここまで怒り狂って見えているのは──そうなるだけの理由があると、ブンタの認識が認めてしまっているからだ。
「あいつはまだ、自分が何してえか分かってないだけだ」
『十七歳だぞ……それだけ生きる時間をもらえたのに……』
「人間が大人になるには、時間が要るんだ。途方も無く長い時間が」
『分からないよ。私、にんげんじゃないもの』
「だがお前さんの死体の鑑定結果は──」
『それを言ったら』
ゾっと、刃物のように冷えて殺意をみなぎらせた言葉がブンタの耳に差し込まれた。
『それを誰かにバラしてみろ。許さないぞ。お前の息子の口から『生まれてこなきゃよかった』って言葉が聞こえるまで拷問してやる』
ただの幻覚の言葉に、風の動きも虫の声も、死んだように止んだ。
「…………言えるかよ。そんな残酷なこと」
『レイジを捕まえたとき、上手くはぐらかしたことだけは褒めてやろう』
幻覚の像が、ゆるやかに変形していく。
少女だった姿は背筋を突き破って柵状の巨大なエラが現れ、木の枝のように日差しの中に伸びる。
全身から鋭いウロコが生え、目は沸騰するように飛び出して複眼を成す。その姿はぐんぐん大きくなって、ブンタも、トラックも覆うほどになった。
獣じみた呼吸音が、焦げるような大気を揺らしている。
「そのカッコ、似合ってないぞ」
『黙れ』
それだけの異形を見上げて顔色ひとつ変えないブンタの体をなぎ払うように、巨大なカギ爪がすり抜けていった。
『お前はたいした『人間』だ。尊敬に値する部分もある。だが、私はフミオが憎い。オモトカナタ──いや。カナタを傷つけた。二度目の死を、あの子に与えた』
「分かってる」
『父親だ。親だ。なら私の気持ちも分かるだろう』
「アイツはこのままだと突っ走って、大人になる前に死ぬか殺される。特に、レイジくんだ。あの子はひどく怒ってると思う」
『当然だろ。短くても生きられただけありがたいと思え』
「そうもいかん。正常な親っていうのは、ガキの先行きまで面倒見るモンだ」
少女の──深海の怪物の咆哮がブンタの意識を揺さぶった。
今やトラックをひと呑みにできるほど巨大化した口を大きく開けて、ブンタの前に見せびらかしてくる。
子供だと、ブンタは思う。
わざわざ怪物になって見せるのは、怖がらせたいからだ。怒っていることを知ってほしい。大事なカナタを傷つけられた憤怒と憎悪をブンタに伝えたい。
つまるところ彼女がさっさと消えずにここに居座っているのは、対話を捨てきれないからだ。
寂しがりの、途方に暮れた、ただの子供だ。
「たった一度でいい。たった一度、俺のせがれがピンチのときに傍にいてやってくれ」
少女は長い間沈黙した。
砕けた複眼を忙しなくギョロギョロ動かし、それはブンタと、背景の青空を行ったり来たりする。
その巨体が、ほんの少ししぼんだ。
『────どんな世界の』
「あ?」
『どんな町の、どんな学校の、どんな家庭にも、地獄は潜んでいる』
魔獣はその間もしぼみ続け、やがて、少女の姿をとる。
『ブンちゃんずっと言ってるけど。これは、なんの映画のセリフなの?』
「実感。俺サマのオリジナル」
フミオにも言われたことだが、この地下都市が万人のユートピアなんて、ブンタは自分でも認めていない。
ひどい扱いを受ける人間をたくさん見てきた。
「この町任せられていろいろやったが、成功なんてほとんどなかった」
ある家庭を助ければある会社が破綻し、ある子供助ければある学校が破綻する。
そんな風な堂々巡りを何度も繰り返した結果──今の彼は『だいたいの人間の幸せ』だけを追うようになっていた。
「せめてフミオには、地獄にいて欲しくねえ」
『勝手だね。そのためにカナタちゃんたちの夢を踏み潰すくせに』
「そうだな。そしてお前さんの夢も」
『保障はしないよ』
少女はくるりときびすを返し、トラックの荷台に飛び乗った。
『言葉のこと、教えてくれたお礼。私はバカタレクソアホフミオの傍にいるだけ。そこが一番野次を飛ばしやすいし、アイツがおかしなことする時止められる』
ブンタはその後を追っていって──立てかけていたスペアタイヤに手を伸ばした。
『傍にいて、見て、言うだけ。ブンちゃんの時みたいなミラクルは約束できない』
「ああ、十分だ。ありが──」
工具箱を取り出したブンタが顔を上げたとき、すでにそこに少女の姿は無い。
彼はため息ついてから、すっかり汗だくになったシャツの胸元を扇いだ。
ややあって、前掛けのポケットから一枚の紙を取り出した。何度も何度もためらって仕舞い込んだように折りたたまれた一枚の同意書は、タバコのパックと一緒に握り締められて、くしゃくしゃだ。
「いいんだよな、これで」
一枚の手術同意書には、すでにフミオの名前で署名と印がなされている。
巨大な怪物の姿が消えた空は落ちてきそうなほど青く、遠くからはテスト最終日の終了を告げる西高のチャイムが聞こえてきた。