テストは一瞬で終わってしまった。
と、思うほどに合宿での出来事が濃厚だったようだ。
初日にペンを握って現代文のテストに臨み──気づけば2-A全員、二日目の昼にタイムスリップしていた。
普段から悲鳴だの笑い声だの破壊音だので騒がしい劣等クラスが異様に静かだ。それに気づいた他クラスの生徒が入り口から中を見てみる。
「ヒッ」
覗き屋たちは思わずしりもちをついてしまった。
Aクラス総勢、二十四名プラス下級生一人、全員机についたままポカンと口を開け、天井を見上げている。
窓の外の痛いほどの青空をバックに、大量のマネキンが座っているようだった。
ホラー映画のワンシーンか、はたまた前衛芸術の展示か──と思われてしまうが、仕方ない。劣等児たちは頭の中身すべてテスト範囲に置き換え、それをすべて吐き出した。
レイジもカナタも、そしてルリコですら、疲労と虚脱感の中でたゆたっていた。
「おい、どけ、このっ!」
しかし、クラス入り口の人垣を力任せに掻き分けてきたザワちんによって、奇妙な静寂は破られることになる。
「結果、貼り出されてます!」
彼がそう叫ぶと、ゾンビの群れが一瞬で動き出した。
机を蹴倒しイスをひっくり返して廊下にあふれ出た彼らは、一塊の津波となって学食前を目指す。
毎回、テスト結果をそこに掲示することになっている。
彼らは血眼で人ごみを押しのけ────そして、残酷な現実を突きつけられた。
「うああ……こりゃあ、ゲロゲロだねえ……」
いっつもニコニコ飄々としたボタ子がうめくほど、結果は惨憺たるものだった。
五教科ほとんど壊滅状態。チーム上澄みの生徒たちも、チームバカに引っ張られる形で大きく順位を落とした。
もともと不純物の寄せ集めだった彼らは、まるで遠心分離機に掛けられたようにリストの最下層で団子になって連なっている形だ。
誰も彼もが肩を落とす。
しかし、彼らの間からにゅっと顔を出した小麦肌のギャルが、つかつかと掲示板に向かっていって、順位表を叩いた。
「何落ち込んでんスか。ここに、パイセンがたの名前がぜーんぶ載ってる。ってことは──」
彼女は満面の笑みを浮かべて、2-Aの生徒たちを見渡した。
「全員、名前載せていいくらいの点は取れた……ってことスよ!?」
静寂が訪れた。
「う」
そこで拳を振り上げたものがいた。
全員の視線がそこに集中する────それはなんと、レイジだった。
「うおおおおおお!!!!」
全校生徒が集まる場所でいきなり奇声を上げたので、みんなが一瞬面食らった。だが、すぐにレイジの興奮は伝染し、2-A全員が熱狂を共有することになった。
「レ、レイジ……!?」
「そうか。俺ら学校にいていいのか!」
「とりあえず二学期まではですが。けほ」
「こうしちゃいられないよ! ルリコちゃんはどこだい!?」
「いたぞ会長だ! 逃がすなよ、いけ皆の衆!」
「は?」
そこでいきなりターゲッティングされたのはルリコだ。
反射的に逃げようとした彼女だったが、すでにボードと生徒の輪にしっかり囲まれている。
じり……じり……とその輪が狭まっていく。
「いいな、ルリコ」
彼女の体をレイジがしっかり捕まえた。
「な、な、何よいきな────ひゃっ!? いきなり腰触ンな、ばか、レイジ!」
「いくぞ! わーっしょい!」
わーっしょい! 呼応したクラス全員に胴上げされて、ルリコの体が大きく飛び跳ねた。
購買に集まった生徒たちの頭よりもずっと高く。
大騒ぎするバカ学級を見てクスクス笑う他クラスも、眉をひそめる先生方も、すべてがよく見える。
そして、彼女を慕うA組の生徒たちの顔も。
「は────ははっ」
なすすべなく何度も飛ばされながら、ルリコは笑い始めていた。このままどこまでも飛んでいけそうだった。
どこまでもどこまでも高く、遠く。町を覆うドームすら突き破って、遥か天空までいけそうなほどに。
彼女の自由はここにあった。
「あ、あはは、もうヤケだ。ほらぼんくらども、まだ天井遠いぞ! もっとがんばれ、私を高く飛ばせてみせろ!」
「何アレ。生徒会長までバカに染まったの?」
それを引き気味に見ていた誰かの一言が、一滴の後味悪さを空気に落としてじわっと広げる。
この熱狂は彼らだけのものだ。
他のクラスの誰とも分かち難い。地獄のような合宿も、そこで起こったアレコレも──下駄箱、廊下、ベランダに屋上──彼らがひそかに流した涙のことも何も知らない。
落ちこぼれのアホどもが奇跡で首の皮一枚繋げて大騒ぎしている。他者の目に映るこの光景は、たったそれだけの一枚絵でしかない。
だからこそ、それらを共有できる者同士で全力で喜ぶ。それだけのことだ。
「カナタさん。ちょいちょい」
端のほうで胴上げに参加していたカナタは、ジャージの袖を引っ張る手に気づいた。
そこに長身の女教師が跪いている。
「あ、キリちゃ……センセー。どったの、そんな格好で」
「私デカいから、立ってると目立つんです。みんなの邪魔しちゃうと思って……これ、採点終わりましたよ。キミの分」
綺麗に爪の切りそろえられたキリエの手から、数枚の答案が渡る。キリエの手が離れてからも、カナタは裏返しの紙束を握り締めたままだった。
「アタシ、どうだった?」
「自分で確かめればいいでしょ」
くしゃっ。カナタの手に力が篭る。
頑張った。とにかく頑張った。勉強に関して彼女が言えることは、それに尽きる。
中学校を卒業したっきりだった『オモトカナタ』に代わってペンを握り、それなりにやってきたつもりだ。
合宿では寄せ集めクラスのサポートに回ってばかりだったが、影でマリコたちのサポートを受けながら、しっかり勉強してきたのだ。
だからきっと。頑張ったから、きっと──
「やっぱダメかな。アタシって」
それでも、どうしても弱気になる。
予想以上に自分が勉強できないのは分かっていた。連立方程式はおろか、グラフの書き方も怪しい自分に、カナタは正直絶望していた。
もっと勉強がんばっとけよ、と。
いくら努力を積み重ねても、変われないものは有る、と。
「ほら。どしたんですか。さっさと確認して。結果は変わらないんですから」
カナタが抱きしめたままのプリントをパンと叩いてから、キリエは天井を仰いだ。
「は。はは」
目元を覆った彼女の口元が笑っている。
呆れているのか、怒っているのか。聞いたこともない声で笑う彼女を見ていると、カナタはますます不安になってくる。
「キリちゃん。アタシ……」
「違うわよ。アル中はいっつもこう。気持ちが昂ると、涙チョチョギレって感じ」
愛すべき白髪少女の頭をわしわしなでて、きゅっとハグして額にキスまでしてから、キリエは去っていった。
おそらく白檀の、かすかながら爽やかな香水のにおいが漂う。
あとにはポカンと立ち尽くすカナタと、花丸だらけの答案が残された。
■
全員合格。それがすべてだ。
「カンペキです。言うことないです。夏を満喫なさい。まあ私はこのあと職員会議と残業と新学期の準備で休みなどありませんが。
みなさんお若い方々は、三十路前の女教師など忘れてけっこうです。ええ。きれいさっぱり……でもお土産は忘れないで。絶対に忘れないで。なるたけ肉系で……」
「先生、それまだ続くんですか」
「あったり前でしょ。バカなガキはすぐに物を忘れるんだから」
教卓前で生徒たちとやりあうキリエの後ろを、何食わぬ顔で一人の女子生徒がすり抜けていく。
廊下側に通じる戸の前で一度立ち止まった彼女は、午後の風に踊る黒髪を手で押さえて、ふっと笑った。
相も変わらず騒々しいクラスメートたちの姿を目に焼き付けるようにした彼女は、その場を去る。
「あんら、会長さんは?」
ルリコがいなくなったことにヨシが声を上げたのは、それから数分後。
原稿用紙三枚にわたる大人気ない大演説をかましたキリエが、ぜえはあと息を切らしている隣でだった。
「ンだよお。これから遊び行こうぜってハナシだったのにさあ」
「そうもいかんでしょ。合宿でムチャしまくったせいで、これから他の部活に申し開きだそうです。彼女、大忙しですよ」
ザワちんの言葉で、それまで騒がしかったクラスが一気に沈んだ。
そこで彼らが上目遣いに、救いを求めるように見つめる先がある。
「じゃ、ちょっくら頑張ってみますか。皆さん。ケガにだけは気をつけて。ではよき夏を」
珍しく背筋を伸ばして立つキリエは彼らに応えるように微笑んで見せた。
猫背が払拭されたせいで、秘めていたスタイルの良さがよく分かる。
文句のつけようがないほど洗練されたモデル歩きで彼女が教室を出て行くと、その場にいた二十四人分のため息がブハアと響いた。
「今日の先生かなり……ヤバかったな」
ホフクの姿勢で廊下に首だけ出したヨシが、去り行くキリエの引き締まったヒップを凝視している。
「キケンな香りがするようになりましたね」
2-Aの美形担当、ザワちんまでもが信じられないものを見た顔で佇んでいた。
その後ろからカナタ、レイジ、マリコにボタ子……串団子のように顔だけ廊下に出してキリエを見送る彼らのことを、通りかかった他のクラスの生徒が大回りで避けていく。
「においって。アル臭じゃなくて、かい?」
「いやそれがさ、さっきハグされたときスッゲーいいにおいしてさ」
「しかもあの髪、お高いシャンプー使ってやがる」
まるで世紀の大問題を前にしたような顔で、ヨシはあごをなでる。
あのキリエが。アル中の最低野郎がどうにか立ち直って、マトモになってしまおうとしている。
「このままじゃ世界が滅ぶっスよ」
「ありゃしばらく酒飲んでねえぞ……ほっといたら新学期の風紀はズンドコベロンチョだ」
「酒盛りでも開いて、もっかいダメにするかい」
「せっかく留年回避したのに、アルコールで停学になった水泳部の二の舞にはなりたくねー」
「…………じゃあ、仕方ないですね」
「だな……夏休みは長い。また、みんなで集まって、花火でもしながら相談すっか」
立ち上がったヨシは教室の後ろまで歩いていって、ペチャンコのかばんを手にロッカーを開ける。
半年も使っていないのに表紙のはげた教科書と、青かびが生えたプリントがドッチャリ。
それらのカモフラージュを手でどけていくと、パッキングされた銀色の包みが眠っている。彼はそれに触れ、パッケージ越しに樹脂製グリップのザラついた感触を確かめた。
「──んで。どうします。このテンションで解散はもったいない気がしますが」
「だよねえ。みんなもウズウズしてんだよ」
いつの間にか、彼の両脇の壁にザワちんとボタ子がもたれかかっていた。
バーコード付きのテープで厳重封印されたパッケージを見つめる彼らの目に感情は薄い。
これと同じものが教室にあと二つ。ザワちんとボタ子も隠し持っている。
できることなら、このまま使わず全てが過ぎ去ってほしい──儚い願いに思えたが、最近、その希望が見えてきた。
「なあお前ら、そろそろハメ外したっていいよなァ!?」
暗い目的を閉じ込めたロッカーから逃げるように振り返ったヨシは、廊下まで響くような大声を張った。
「まだまだもうちょっと、この開放感味わっていきてえだろ。打ち上げすっぞ!」
「「「おーっ!」」」
残っていた生徒たちが拳を突き上げる中、大柄な影がおずおずと、三人のところに向かってきた。
ヨシがあわててロッカーを閉める。
「な、なら、俺も……」
「アタシも行きたい!」
包帯まみれの手を元気よく突き上げたカナタと、そして──レイジは軽く俯いて、照れくさそうだ。
意外な人物たちがそこにいたので、みんな驚いた。だが、その空気はすぐに柔らかいものに取って代わる。
「マジか!? じゃあレイジ、カラオケ行こうぜ。お前が何歌うか気になってんだ!」
「カナタちゃん、前に話したスイーツバイキングいこうね」
「ダーメ。お二人さんはこれから大事なハナシがあんだから」
カナタたちの前に立ったボタ子が、二人をぐいぐい廊下の方に押しやっていく。
「最後にあたいが気合入れたげる。ほら……こうやって、さ」
カナタが声を上げる。
ボタ子が、とてつもなくさりげなく、レイジをきゅっとハグした。
「うお!?」
「あーっ、ボタ子、オマエ! なにしやがって!?」
「でかいおっぱいは人を素直にする。そういうことさ」
わななきながら指差してくるカナタを見て、彼女はウインクする。
「ふっふ。元気なカナタちゃんを見ときたかったし。あとはドサクサ」
「そそそそういうのやめろよなっ! アタシもドキっとするから」
彼女の背後から、クラスメートたちがはやし立てているのが聞こえる。
レイジは驚きで、カナタはプンスコと顔を赤らめて立ち尽くす。
彼ら二人の反応を見て楽しむような、それでいて慈しむような顔で、ボタ子は最後にもう一度、彼らの胸に触れて軽く押し出した。
「ここからだよ。レイジちゃんの最終決戦は。ケジメはちゃんと、つけなきゃね」
そう言ってウインクしてみせる彼女は、同い年とは思えないほど大人びて見えた。
■
「あーあ。合宿終わっちゃった。せいせい、ね」
部室棟に向かうルリコの足取りは珍しくノロノロしていた。これからの面倒臭い土下座行脚に向かう彼女の、気持ちの重さを物語っている。
どうしても、あの空気の教室に居続けることが難しかった。
馴れ合いが嫌いなワケじゃない。胴上げはやってみると案外楽しかった。あの場所を『居場所』と認めてしまうと心が弱くなりそうだった。それだけだ。
最強無敵の生徒会長とはいえ、今回はかなりギリギリの綱渡りを要求された。
ひょいひょい都合のいいことを吐き出す自分の口を縫い合わせようと思ったことも一度や二度ではない。
権限を振りかざしてもぎ取った合宿所。
権限を振りかざして捻じ曲げたルール。
いくら真面目に生徒会に勤め上げてきた結果通ったムリとはいっても、これだけやりたい放題して、ルリコの名誉に傷がつかないわけが無い。
「はん。いいじゃない。どうやって生徒会ヤメるか、ずっと考えてたし」
拳をぶんぶん大きく振って、ルリコは無人の渡り廊下を歩いていく。
彼女の母親は、とにもかくにも、外面を取り繕うことだけは上手だった。だから生徒会長の『顔』を傷つけたりはしなかった。少なくとも物理的には。
やっかいな肩書きだったが、生徒会という役職は確かに彼女を守ってきた。それを失って帰ってきた娘がどうなるのか、マリコの焼け爛れた頬を見れば大体察しがつく。
しかしルリコはいい気分のままだった。
何やってもダメ、と言われてきたつまはじき者たちの力を結集して期末テストを戦い抜いた。
なまくらの爪楊枝一本で世界をひっくり返してやったような、清々しい達成感があった。
彼女はふと足を止め、渡り廊下の外を見やる。
昼前まで晴れていた町の上空にはもこもこの乱層雲が垂れ込め、柔らかな雨を降らせていく。
それでいて雲間から差し込む、まるで宗教画のような色合いの黄ばんだ日差しが、近いうちの雨止みを予感させた。
ルリコには美しく見えた。たとえそれが、作り物の空だと知っても。
カラッ
窓を開け、窓枠に肘をかけ──しばらくボンヤリするつもりだったが、彼女は思い切って、上履きのまま外に飛び出してみた。
ドポッ
とたんに、ぬかるみに足首が嵌まり込んだ。
お構いなしに茶色い泥をハネながらグラウンドのほうまで歩いていく最中に、雨はどんどん小降りになってきていた。
職員用の車がよく通る道なので、地面がヘコんで小池のように大きな水溜りができている。
すまし顔の水面に映るのは、麦わら色に染まった西町の風景。ルリコはそこに、無遠慮に踏み込んでいく。
ぐしゃー。鏡像の町を蹴散らす。
もやもや立ち込める泥の中に町は沈み、見えなくなった。大怪獣ルリゴンだ。
イカれた町を踏み潰して、一切合財ぐちゃぐちゃにして。ひどい家から可愛い妹を救う、不死身の怪獣だ。強いぞ。がおー。
──バッカみたい。
そんな風にセルフツッコミしながら、ルリコは弱々しく笑う。
カフェオレ色に染まったソックスを見つめていると、水溜りはすぐに落ち着いて、何も変わらないねずみ色の町をそこに映す。
ルリゴンは悲しいほど無力な怪獣だ。
できることといえば、妹と一緒に傷つくという選択くらい。泥の町ひとつ、壊せやしない。
「ちょっとちょっと、会長さん。こんなところで発狂しないでくださいよ」
「あ?」
泥まみれのルリコが振り返ると、渡り廊下の柱の影からキリエが手招きしている。
「あら。キリちゃんもどう? 不本意なほどスッキリするわよ」
「恥を知るお年頃なのでやめときます」
「なにおう。この私が恥知らずってか。おらおら」
ルリコが水溜りの水を跳ね上げたので、町の鏡像は再び泥のもやの中に掻き消えた。
「ごめんやっぱ恥ずかしいわ、これ」
「でしょ。ホラさっさとこっちきてくださいって」
キリエの言葉が聞こえていないように、ルリコはその場で空を見上げるばかりだった。泥で水玉が描かれたスカートが、固く握り締められてくしゃくしゃになっている。
「ねえ、キリちゃん」
彼女は、雲間から差し込む光の筋を指でなぞる。
「あんなものまで作れるの?」
キリエは一瞬だけ言葉を選ぶように口を閉ざしたが、すぐさま「はい」と答えた。
「スクリーンに映した映像を下地にして、ドローンを使って凝結核──雨の素みたいなモンを散布してます。光のスジはもっとカンタンでして」
「きれいね」
途中までふんふん頷いていたルリコは、決してキリエの話をさえぎろうと思ったわけではない。
目の前の空が作られた鳥カゴだと知ってなお、荘厳さを覚える風景に声を上げてしまったのだ。
ただ、自然に。もしかすると、夢から醒めそうになる自分を繋ぎ留めるために。
「そうかもしれませんね」
「きれい……」
ルリコは自分に言い聞かせるように、もう一度その言葉を口にした。
「外に行って、本物と見比べてみるのも悪くないかもしれませんよ」
「…………私は、これで満足してる」
言っているルリコ自身、それが自分の本心かどうか分からない。
レイジたちと一緒に町の外に出て行って、本物の海を焼き付けてやろう──そんな意地のようなものが、まだ胸の中にある。
だがマリコの姿を思い出す。
彼女はけっしていい妹ではなく、おかげで散々な目にも遭ってきた。だけれど、ルリコはやっぱり姉だ。
見捨てることなんてできやしない。
「……満足、できる。うん」
小声で呟いて、改めてキリエに向き直る。
「それで、何? 私、これからほうぼう各所に土下座して回らなきゃいけないんですケド?」
「時間は取らせませんよ」
そういいながら、キリエは無造作に書類を取り出した。
それは明らかに“ちゃんとした”書類だった。いつもの生徒会に回ってくる湿っぽい藁半紙の束とは比べ物にならない。
そして一番目を惹くのは、中央に力強く押された市長の印。その印のすぐ上には、それよりも数倍大きなサインが、太いマジックで書き殴られている。
名前は──
「暮、文他……? これ、トンチキ親父の」
「頑張ったキミにごほうびです。本当に、よく戦いましたね」
■
「ンだよ。仲間はずれかよ……」
「ああ。残念だ」
ワイワイと騒がしいクラスを何度も振り返りながら、廊下を歩くカナタがレイジの背中をさする。
「せっかくレイジが勇気出したのにな。な?」
「でも正直俺、早くカナタと話しておきたくて」
「はは……そっか。アタシも」
こんな風に話すのは、ずいぶん久しぶりな気がする。
膝から先がうまく動かせない彼女に肩を貸して階段を下りながら、レイジは沈黙を強く意識する。
気まずい。次に何を言っていいか、分からない。
過ぎ去っていく生徒たちの無遠慮な視線なんてどうでもよくなるほどだ。かつて一緒に暮らしていたときは、こんなことはなかったのに。
「アタシたち……よいしょ……一週間話さなかったのか。ヤバいな」
一階まで降りたカナタは、さっさとレイジの腕を抜け出しながら下駄箱に向かう。
純白の姿でこの町に現れた彼女は、今では使い込んだ消しゴムのように黒く汚れてボロボロだ。
それでも、自分でやれることはなんでもやろうとする。あきらめない。
(やめろ。カナタを信じろ)
手を貸そうとする自分の一部を、レイジは叱り付ける。
力の入らない指からサンダルがすり抜けようと、下校でごった返す昇降口で他の生徒に肩を当てられようとサンダルを遠くまで蹴飛ばされようと、彼はじっと見守る。
「わり。待たせたな」
なんとか下足に履き替えたカナタが、レイジのもとにやってきて、袖を引く。
「アタシさ、久しぶりに映画見たくなっちゃった」
「今から帰って俺の部屋で……あっ」
穴の開いた壁を覆い隠すブルーシートと、引き裂かれたスクリーンを思い出してレイジは顔をしかめた。
家に乗り込んできた“つくり笑い”が暴れてから、ホームシアターは壊れたままだ。
「ちがーう」
立ち尽くすレイジの前で、カナタがちっちと指を振る。
「映画館いこ。大きなスクリーンで見る。自転車こぐゲンキ残ってるか?」
「任せてくれ……俺の体力を、甘く見るなよ」
一年の時から放置してきたレイジのママチャリが駐輪場にあったので、それに乗って二人は町へと向かう。
後ろに乗ったカナタに気を使ってスロースピード。もどかしいほどゆっくりギコギコ錆付いたチェーンを鳴らして坂を下りていく。
雨上がりで気温、湿度ともにバッチリ。しかしセミの声が聞こえない。
濡れたアスファルトのにおいを強く感じる、静かな日だった。
雨で洗われた灰色の町が近づくにつれ、レイジは腰に回ったカナタの腕に意識がいく。
「辛くない。だろうか」
包帯の巻かれたカナタの指が、レイジの腹筋をさすっている。
「あ?」
「……俺に、触ってるの」
「あのなあ。さっき階段でべちゃべちゃして、今イヤとか。ワケわかんねーだろ」
レイジは、ハンドルを握る手に無意識に力をこめる。
カナタは軽い調子で言っているが、触れただけで嘔吐するなんて相当だ。そこから立ち直ったことにも、自分とまたこうして触れ合ってくれることにも、彼は感謝を止められない。
「でも──そうだな。ありがとう」
「分かったらさっさと漕げったら。アタシ溶けてんだから。映画館つく前になくなっちゃうぞー」
彼女の体温を感じながらペダルを漕ぐ。
自転車は平地に降りてからグンと加速し、病院前のバスターミナルを通り過ぎる。遠くの交差点を横切るバスに、あの夏祭りの日を思い浮かべつつ、二人は中心街へ。
未だに再開の目処がたたない市民プールを右手に見ながら、レイジは背中に確かな重みを預けられる。
「レイジごめんな。アタシ、壊れちゃって」
「っ……壊れてなんかいない。謝らないでくれ。お願いだ」
「もらったブレスレットも、なくしちまった」
「思い出はこれから、いくらでも作れる。ここからだ。そうだろ」
レイジに頭をもたせかけたカナタは「うん……」と小さく呟いて、それきりだった。
曇り空から差した光で、映画館の周りだけが白く浮き出るように明るい。今日も今日とでガラ空きの駐輪場に自転車を停め、向かった先の入り口に──
「あー、そうくるかあ」
「閉館……」
最近の電力不足もあってか、映画館の入り口に張られた張り紙を見て二人は肩を落とした。
「困っちゃったな」
レイジを見上げてカナタが力なく笑った。
「ちょっと待っててくれ」
いたたまれなくなってレイジはスタンドを立てた。張り紙をされた入り口まで行って──そこで何か出来るわけではない。
ため息をついて、引き返そうとする。
「およ」
しかし今日はどうやらツイてるようだ。
映画館の裏手からゴミ袋を抱えて出てきた男と目が合った。その顔には大きなケロイドがあり、レイジと、カナタを見るなり彼なりに事情を察したらしい。
「入れよ。ご覧のとおりなんで、あんま冷えてないけどな」
■
「はいこれ。サービスね」
差し出された二本のビンが、照明が取り外されたホールの中で鈍く輝いた。
「ほら、カナタ」
「あんがと……うひゃっ、つめてー!」
コーラのビンを熱っぽいほっぺたに押し当てたカナタが、至福の表情を浮かべる。
レイジはカナタから、ケロイド男へと目を移した。
蒸し暑さの中でうちわを扇ぐ彼と、いろんなところで──本当にいろんなところで会ってきた。
園芸用品コーナー。ここ、西町唯一の映画館。祭りの真っ只中、軍用品の横流しまで、ありとあらゆる所でだ。
奇妙な縁だと、レイジは思う。
「ここは今日限りで──つーか昨日からだけど、閉館だ。最後のお客様には特別サービスで、なんでも見せちゃおう」
「マジ!? なんでも!?」
「いいぜ~。ここには何でも揃ってる。世紀末の大津波でハリウッドが押し流されるまでの全てが、な」
男のもって来たカタログを前にして、カナタは胸の高鳴りが隠せないようだった。
背伸びしてカウンターの上に身を乗り出す彼女の横で、レイジは埃っぽい天井を見上げた。
黄ばんだ天窓から差す光が、ふわりと漂っている。
ここは彼の人生の一部だった。映画というものに逃避路を見つけて以来、よく通ってきた場所だ。
そこが、なくなってしまう。
「さびしいな」
彼が何気なく漏らした一言に、ケロイド男がフッと笑った。
「そう言ってもらえて、映画館も喜んでるさ」
「ああ。最後にこうして、お別れを言うことができてよかった」
「アイサツは大事、だもんな!」
何重にも巻かれた包帯が顔に落とすかげりが消えるほどの笑顔で、カナタがレイジを見上げた。
「ほお……それは……」
彼女が指し示したタイトルを見て、男が無精ひげの生えたあごをさする。
「ムリっぽそう?」
「コアな趣味してんなと思ってさ。いいぜ。すぐ用意しちゃる」
「おっちゃんポップコーンまだ作れる?」
「お兄さんって呼んでくれたら機械動かしてやるよ」
カナタはポップコーンバケツと、色あせたパンフレットを二つ受け取ってレイジを呼んだ。
「いこっ。さあほら、オッサン待ってるぞ!」
遠くからの「オッサンじゃねえってー」という叫びを聞きながらパンフに目を落として、レイジは驚く。
それは映画“焼失”だった。
映画史にさん然と輝く大傑作──などではなく、見るものすべての首を90度真横に傾がせた、伝説の問題児。
かつては『二度と見ねぇかんな!』とまで叫んだカナタは、レイジの表情から戸惑いを読み取って、はにかむ。
「レイジの好きな映画、見たい。今度はエンディングまで、一緒に」
「二度目だろ? いいのか」
「ああ。見る。でもこれがラスト」
色あせたカーペットの敷かれた廊下をずんずん歩いて、カナタが遠ざかっていってしまう。
レイジはその場に釘付けされたように、頼りなく揺れる緑のジャージを見つめた。
「アタシには見たい映画が他にもたくさんある。だからこれで最後にして、そして、始まりにしよう」
コーラ、飲みすぎんなよ。振り向いた彼女はそう続けて、レイジを急かした。