海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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2.新しいきみとのリバイバル(2)

『最後の特別上映』は、二人の想像以上のVIP待遇で幕を開けた。

 よく冷房の効いた劇場に入って中央ド真ん中に座った直後、いきなり本編が始まったのだ。きっと、映写室のケロイド男が気を利かせて予告編を抜いてくれたのだろう。

 ポップコーンバケツを抱えるように座席の上であぐらをかいたカナタは、既に画面にのめりこんでいる。ハンパにポップコーンを持ち上げたまま、その手がなかなか口に向かわない。

 冷房の風にそよぐ彼女の髪が、スクリーンの光の中で銀の糸のように揺らいでいる。

 

 無限の暗闇の中で、空間に舞い散るホコリはまるでマリンスノーのようだ。

 束の間レイジは、まだ自分が水の底にいるような気持になる。夏の始まりの日から水の壁の中にいて、ずっと映画を見ている。

 カナタという一人の少女がスクリーンを駆け抜ける、長く、一度きりの映画を。

 

 謎めいた少女が現れ、世界の片隅の町で腐っていた男に声をかける。「私を海に連れて行って」。男は彼女のためにもう一度立つことを決める。

 彼女を助けるため──なにより、『にんげん』らしさを取り戻すために。

 

「ふふ──はははっ」

 

 カナタが幽かな笑い声を漏らす。

 画面ではサボテン男と主人公・ジャックとのギャラクティック・テコンドー演武対決の真っ最中だ。

 荷物を全部失って喉カラカラで砂漠の真っただ中。だというのに惜しげもなくスイカを粉砕し、砂に吸われていくスイカを前に成し遂げた顔で佇む男たち。

 このイカれきったシーンを生み出したのは、はたして脚本かアドリブか。そのことにツッコむのはジャックの妹であるローズだけ。

 

 砂漠の彼方にチャカチャカポコポコとディスコミュージックと一緒にフェードアウトしていくサボテン男withバックダンサーズを見送りながら、カナタは思い出したようにコーラを口に運ぶ。

 

 一か月もの間一緒にいるのに、カナタのことは分からないことだらけだ。

 死んだ『オモトカナタ』の身にどんな奇跡が起こって、七年もの時を経て『カナタ』に生まれ変わったのか。彼女がどうしても行きたいという海に、いったい何が待ち受けているのか。

 

(そして────俺にまだ、カナタと一緒にいる資格はあるのだろうか)

 

 宇宙麻薬王マルデロと側近たちのコントじみたやりとりの最中に、カナタがレイジの肩に寄り掛かった。

 

「コレ、いい映画だとは思うぞ。でも──」

 

 中盤に差し掛かり、映画の雰囲気が変わる。

 孤独で苦痛に満ちた、ジャックの妹ローズの死のシーン。一発の銃声が鳴り響いた後、その余韻をかき消すように暗闇と雨とがスクリーンを覆いつくす。

 管楽器の奏でる妖しく、それでいて哀愁を漂わせるBGMの中で、カナタがポツリとつぶやいた。

 

「でも……レイジには悪いけど、ハッキリ言ってラストの展開は嫌いだ」

 

 キッチュで騒々しい歓楽街の風景は、まるで墨を流したような色調へと変わる。

 暗闇の中からヌっと現れたジャックは、鹿の頭骨を思わせる防護マスクをかぶっている。場末のサルーンにたむろしていた悪党たちは、怒りに駆られた死神の登場に対応できない。

 

 ズドン。

 

 ジャックが持つ散弾ブラスターが光を放つたび、黒を基調とした画面の中に鮮やかに彩色された血糊が飛び散る。

 真っ黒な作り物の中で、赤だけが嘘を言わない。

 右斜め上──ジャックの頭上と、その足元で虫の息となった悪漢を映し出すカメラアングルが、レイジの中で現実と映画の境目をあいまいにする。

 彼もまた、怒りに任せていろいろなものをブチ壊しにした。トイレの流しに始まって──鉄柱──そして最後はカナタ。

 彼女のウロコが手のひらに突き刺さる感触を思い出して、レイジは拳を握りしめた。

 

「実は俺もだ」

「うん?」

「俺も、この映画のラストは好きになれない。最悪の部類と言ってもいい」

 

 カナタは驚いた。

 レイジはこの映画で知育され、情緒を取り戻した。キリエが姉だとするなら“焼失”は親のようなもので──そこに否定を差し込む余地などないと思っていたからだ。

 

「なんだよ。オマエ、この映画大好きなんだろ? 怒られるのカクゴで言ったんだぞ?」

「ああ。好きだ……けど、ダメな部分だってたくさんある。そういうもんじゃないか。なんだって」

 

 □

 

プリンセス・ゴールデン

『アナタも来てくれるのよね?』

 

 二人乗りの宇宙船の中から青白い光が差している。

 麻薬王マルデロ秘密の工場に隠された、脱出用のシャトルベイだ。

 ジャックがプラントに仕掛けた爆弾は激しい火災を引き起こし、ここにまで被害が及んでいる。

 

プリンセス・ゴールデン

『ね。来てくれるんでしょう? 早く行きましょうよ』

 

 ハチの巣のようにハデな髪型、金色肌のプリンセス・ゴールデンが、不安そうに手を胸元に当てる。

 彼女は麻薬の流通を拒否したオリオン王国から、マルデロが誘拐してきた人質だ。このまま彼女を連れて王国に帰れば、豊かな暮らしと平穏が手に入る。

 しかしジャックは彼女をちらとも見ずに、シャトルのロックを外していく。

 業火で赤鬼のように染まった彼の形相にはただひとつ。妹を殺された怒りと復讐心だけがある。

 ジャックは子供の胴体ほどもある鋼鉄製のロックを、紙細工でも引きちぎるようにして剥がしていく。

 人知を越えた彼の怪力にも疑問が沸かぬほどの鬼気が、彼の全身から立ち上っていた。

 

ジャック

『さあ。行くんだ』

 

 四つあるロックの最後を取り外したジャックは、搭乗口のタラップに手をついて、肩で息をする。

 

プリンセス・ゴールデン

『こっちは準備万端よ。あとはアナタが乗るだけ』

 

ジャック

『いや。やめだ。オリオン王国へは君一人で帰ってもらう』

 

プリンセス・ゴールデン

『ダメよ。だって、どうして。アナタ、(わたくし)の騎士になってくれるのでしょう? 運命だって、言ってたじゃない』

 

ジャック

『それは──』

 

 ジャックが口ごもる。

 宇宙船の中でドレスの裾を握り締めるプリンセス・ゴールデン。そして、彼女を業火の中で見上げるジャックを遠くから映したカット。

 ごうう、と音を立てて落ちてきた燃え上がる梁が、観客と彼らを隔てるように横たわる。

 煤で頬を黒く染めたジャックは、燃え上がる工場を振り返る。

 麻薬の原料も、そこで働く人々も、この星ごとすべてが灰になる。マルデロの帝国は今日限りで滅びるだろう。

 しかし彼には、まだ仕事が残されている。

 

ジャック

『いいかプリンセス。運命なんてない。運命なんて、クズな賞金稼ぎのまやかしだ』

 

 彼の一言でプリンセス・ゴールデンは絶望する。

 

ジャック

『大人になろう、プリンセス。もう恥ずかしい時代は終わりにしよう』

 

 プリンセス・ゴールデンはガラスから離れ、ジャックに背を向ける。

 カメラを向いていることで観客には彼女が必死に涙をこらえていることが分かるが──ジャックから見えるのは、彼女の背中だけだ。

 ジャックはシャトルのパネルを操作する。

 行き先はオリオン星雲。オーロラのように輝くM42のヴェールの向こうに、プリンセス・ゴールデンの故郷オリオン王国がある。

 航路をセットし『Launch』の赤いボタンに手を伸ばしたジャックは、一度プリンセスを見上げる。

 震える背中があるだけだ。

 

 ジャックは決断する。

 

 ゴッ──

 

 シャトルの下部に、イオンジェットの青白い光が灯る。

 勢いで後ずさったジャックは、裸の上に羽織ったベストの裾を噴射炎に巻き上げながら、目の前に手をかざす。

 彼女と会うことは、きっともうないだろう。

 たとえ後姿でもかまわない。いっそ、後姿だからこそ、痛みも無く心の中に焼き付けておけるのかもしれない。

 

 彼は最後にもう一度、シャトルに目を凝らす。

 

プリンセス・ゴールデン

『ジャックー!』

 

 彼女はガラスにすがりついて嗚咽をあげる。

 

プリンセス・ゴールデン

『運命なんてどうでもよかったの。私、アナタを愛してるの! 愛していたのよ!』

 

ジャック

『ああ……知ってたとも。俺も、愛してるよ』

 

 目を細めるジャックの前でシャトルはフワリと浮き上がり── 一瞬後にはくぐもった轟音とともに空間跳躍を開始する。

 もはやシャトルは金色の点となって、遥か数光年後の距離を飛んでいる。

 彼女の名前と同じ色の光が涙のように瞬いて遠ざかって……見えなくなって、ジャックは呟いた。

 

ジャック

『愛していたから、こうするしかなかったんだ』

 

 ベイの扉がゆっくり閉じて、広がる暗黒の宇宙はシャッターの向こうに消える。

 ジャックの顔から穏やかな微笑が消え──そしてそこに、憎悪が宿る。

 彼を待つのは地獄だ。プリンセスの抱擁じゃない。

 床に放り出された巨大な銀のブラスター銃を拾い上げて、彼はきびすを返す。妹の命を奪ったマルデロに償いをさせてやる。

 一面の赤の中に歩みだした彼を、業火が優しく迎え入れた。

 

 ■

 

 ジャックは豹変した。

 地獄と化した工場の中で、動いているもの、いないもの、燃えているものにも命乞いするものにも、容赦なく風穴を開けていく。

 炎と共に歩む彼は、いつしか炎そのものだった。

 

『気づいていなかったのか? 私に懸賞金を掛けたのは、何を隠そう──』

 

 巨大パワードスーツに乗り込んだ麻薬王マルデロが、ジャックの目の前に降り立つ。

 彼らの決戦の舞台となった麻薬プラントは激しく炎上し、丸腰のジャックの肌が、いつも以上にギトギトと光っている。

 

「オマエさ」

「うん……」

「この映画で言葉覚えたんだろ」

「なんでそれを…………ああ、くそ、キリエ先生か」

「ハハ。あのレイジくんが人前で『くそ』とか言うようになったぞお?」

 

 苦々しげな顔を背けるレイジを見る時ですら、カナタは楽しそうだ。

 

「アタシに出会って初めて言った『運命』も、ここからだったんだな」

 

 まるで目の前で炎が燃えているかのようだった。

『焼失』に使われている火薬の量はハンパではない。パンフレットによれば、どこかの自動車会社が倒産して、その工場で撮影して、実際に爆破までしたという。

 古き良き、すべてがイカれていた映画の時代の産物──というわけだ。

 

「ジャックはプリンセスのこと、その……スキだっ、たんだよな」

 

 レイジがうっすら汗をかくのは、火薬もりもりてんこ盛りの映像風景のせいではない。

 ものすごく恥ずかしく、ものすごく気まずいことに、カナタが気づいてしまったからだ。

 

「それは」

「レイジが知ってる中で、一番キレイな言葉をアタシにくれたんだな」

「なんか、恥ずかしいな」

「いいじゃねえか。ジャックはあんなコト言ってやがったが……恥ずかしいって、そんなに悪いコトじゃねえよ」

 

 地下道を歩きながら、キリエが「『運命』の由来は自分で聞きな」とはぐらかした理由もよく分かる。

 彼女はカナタに、レイジのこの顔を見せたかったのだろう。

 

「イキなつもりかよ。センセー」

 

 カナタの呆れた呟きは爆音にかき消される。

 復讐の化身となったジャックの強さは恐るべきものだ。しかし、マルデロのパワードスーツは軍用グレードのものだ。

 砂の惑星の軍隊は、もともときな臭い動きばかりを続けてきた。

 麻薬密造を見過ごし続け、高額な懸賞金で賞金稼ぎを送り込んで次々始末──ジャックを狙う大口径フルオートブラスターのフラッシュの中に、恐るべき陰謀の数々が浮かび上がる。

 

「なァ」

 

 次々と弾け、蒸発していく鉄骨を眺めながら、カナタはキャラメルソースが絡んだ指をしゃぶった。

 

「アタシってさ、死んでんだろ」

「カナタはこうして今を生きてる。死んだのは……過去の『万年青彼方(オモトカナタ)』だ」

「気ィ使うなってば。レイジはずっと前から知ってたのに。どうしてアタシに話してくれなかったんだ?」

 

 カナタは、包帯の端を掴んで解いていく。

 現れたのは名残雪のように残った皮膚の切れ端と、黒いタール状の肉と、白い骨の突き出た腕だ。どうして動いているのか分からないほどにぐちゃぐちゃの手を、カナタは胸の前で組んだ。

 ポタ、ポタ──握りしめる力の強さに、体液が滴ってジャージの膝に染みを作る。

 

「…………信じられなかった、か? アタシって、そんなに頼りなかったか?」

 

 傷口に触れぬようそっと手を取って、レイジは包帯を巻きなおす。指先から丹念に、ていねいに。

 彼女を傷付けるものも、彼女が自分を傷付けるのも、もう許しはしない。

 だからこそ彼は次の言葉を慎重に選んだ。カナタを一番傷付けるのは、ウソだ。

 

「悲しませたくなかった」

 

『命乞いしろォッ! カウボーイ!』

 

「アタシ強いぞ。そんなことで騒いだり──泣いたりしないぞ」

 

『復讐だけだ。俺にはもう、お前しかいないんだよ、マルデロ!』

 

「カナタと会うまで俺には何もなかった。家と呼べるようなものも、家族も。何もなくて空っぽなのは本当に悲しくて辛くて……それだけは理解している。つもりだ」

 

 スクリーンの中では宇宙賞金稼ぎvs麻薬王の戦いがクライマックスを迎えていた。

 激しく火花が散る麻薬プラントの中で、全身傷だらけのジャックが宇宙戦闘機用の爆雷を抱えて巨大ロボに突っ込んでいく。

 燃え上がる炎。弾ける汗。躍動するマッスル──売れないハリウッド俳優、ジャック・ブレイザーが活躍すればするほど、現実のレイジは自分の体がしぼんでいくような気がする。

 

「カナタには明るい顔がよく似合う。から……」

「そっか」

「いや違う。そうじゃない」

「あ?」

 

 しっかりしろ。彼女にウソをつくな。レイジはピシャリと音を立てて、自分の頬に手を当てる。

 

「ただ俺が、怖がってたんだ」

「レイジが?」

「『オモトカナタ』のことを話すことで、カナタと深く向き合うことから、俺は逃げていた。

 カナタを傷つけたくない。カナタの傷つくところを見たくない。

 カナタが折れてしまったとき、俺にはなすすべもない──そんな風に心の中で弱いカナタを勝手に作って、逃げていた」

 

 自爆覚悟のジャックの突撃が功を奏した。

 ガチガチに武装されたスーツの中で、なぜか一番大事なコックピットだけがガラス張りだ。そこに、ジャックが放り投げた爆雷が突き刺さる。

 

『ウワアーッ!』

 

 悲鳴。閃光。

 四カメラ別々のアングルから、ド級の爆発が四度リピート。

 最後は正面から。跡形も無く吹っ飛ぶパワードスーツの爆発が、ジャックのシルエットを黒々と浮かび上がらせる。

 ハデな爆発音におびえたように肩を縮めるレイジに、そっとカナタの手が触れる。彼女は何度も何度も、彼の背中を優しくさすった。

 あまりにも軽く、温かい手だった。

 

「ばかだな……アタシはどんなことでも乗り越えられるぞ……レイジと一緒、なら……もっと心強い。けど」

 

 照れてそっぽを向くカナタの仕草は、二人が出会ったときから何も変わらない。

 夕焼けの町の中を、彼女はぎゃあぎゃあ言いながらレイジを退け──でも決して、落ち込んでいる彼を見捨てなかった。

 

「ん……」

 

 さする手をそっと取ると、彼女はそれをレイジに委ねる。

 包帯のザラつきを親指でなぞりながら、彼女の体温を感じる。彼女も同じように、レイジの古傷を指先で数える。

 

「泣かせてすまない」

「泣いてねえよ。バァカ」

 

 ドス。レイジの手を振りほどいたカナタが、彼の脇腹を殴りつけた。

 それまで穏やかだった彼女からは、見慣れたトゲトゲしさと、少しの居心地の悪さが漂っていた。

 彼女は座席にヒジをつき、ふんすと鼻息を吹く。

 

「……泣いてねえよ。マジで。ゲロったときちょっと涙が出ただけだ。

 アタシ、レイジごときに泣かされるほど弱くねーし。今だってこうしてバリバリげんきだし。

 だから……だからあんま気にすんな」

「だが。俺はカナタを」

「アタシの涙のことなんて、キレイサッパリ忘れちまえ。アタシはカナタだ。オマエが笑ってんなら、アタシはいつでもどこでも笑ってられる」

「ン……」

「映画、見るぞ。いよいよラストだ」

 

 □

 

 星々が闇の中でかすかに輝く宇宙。

 宇宙空間にぽっかりと浮かぶドックの端に腰掛けて、宇宙服を着た男が燃え上がる星を見ている。

 金色のバイザーに隠されて、彼の顔は見えない。無重力の静寂があたりを支配する中、真鍮色の光を帯びた影がゆっくりと彼に近づく。

 それは、砂埃を被った旧式のオートマトンだった。

 プレーティングにはいくつもの弾痕が見え、そのせいか、後ろ足がうまく動いていないように見える。

 彼は関節をきしませて、もどかしいほどの時間をかけてジャックの真後ろに立つ。

 彼は背中に荷物を満載している。

 ブラスター、その予備弾、食料と水は今回のピンチを踏まえてちょっと多めに。寝袋と──その隣のランタンに、ローズのペンダントがひっかけてある。

 彼はまだまだ、旅を続けるつもりらしい。

 

トリガー

「おいおいカウボーイ。もしかして、旅を終わらせる気になったんスか?」

 

 男は答えず、ただバイザーを上げて、彼のいる方に目を向ける。

 

 ジャックだった。

 

 視線に殺戮者の気配はなく、ただただ、彼は笑みに疲れた色を滲ませる。

 忠実な相棒は、彼が悩んでいるのを見て、かすかにいななくと、冗談めかして彼の背中に前足をかけた。

 

トリガー

「なラ……押してやろうカ?」

 

 ジャックは顔を上げる。

 目の前には燃える星。砂と麻薬と暴力ばかりだったのに、一度火がつくと呆れるほどよく燃えるものだった。

 彼が深く息をつくと、ヘルメットのバイザーが白く曇る。

 その霞のなかに彼は思い描く。愛した女、プリンセス・ゴールデンと──ほかでもない無二の妹のローズを。

 ぎゅっと目を瞑り、彼は考えているようだった。

 ローズのことばかりを想う。マルデロに復讐し、なんの罪も無い住人ごと彼の星を燃やしつくし、それでも、彼女の死に顔と怒りがなくならない。

 怒りのまま駆け抜け、怒りのまま燃やし、そしてゴールを迎えても、冷めない炎が彼をさいなみ続けている。

 

 ジャックはもう一度深呼吸する。

 

 息を吸う。息を吐く。怒りはなくならない。

 

ジャック

「────じゃあ、頼む」

 

 年老いたオートマトンは少しだけ驚いたが、すぐにうなだれ、そっと、男の背中を押す。

 彼は重力のない闇に飛び出し、宇宙空間に放り出される。

 その体はすぐ、目の前で燃え盛る星の引力にとらわれ、ゆっくりと引き寄せられていく。

 しばらくして、トリガーの荷物に入った通信機からジャックの静かな声が聞こえてくる。

 

ジャック

「いつかどこかで、また会おう」

 

トリガー

「期待しないで待ってるスよ」

 

ジャック

「その時こそ、ロング・ライフ・ウイスキーをおごってやるよ──じゃあな。相棒」

 

トリガー

「約束スよ……相棒」

 

 通信が途絶えた。トリガーが軽く地面を蹴り、ドックの闇に消えていく。彼の背後では男が、ゆっくりと、焼け付く炎の中に落ちていくのだった。

 

 ■

 

 そこで映画は終わった。

 長い長いジャックの墜落をバックに、スタッフロールが流れていく。

 重厚なホルンと包み込むようなサックスの中に、どこかノスタルジーを思わせる旋律が浮かび上がる。

 

「なんも残らない。ぜーんぶ燃えちまった。楽しい旅も、思い出も、なんもかも」

 

 それまで背筋をピンと伸ばして観ていたカナタが、座席の上にズリ落ちた。

 

「どうしてこうなっちまったんだろ。な」

 

 レイジがおもむろに口を開いた。

 

「ローズの復讐を果たしたとき。プリンセス・ゴールデンに愛してもらえたとき……いくらでも止まるチャンスはあった。それができなかったのは……『憤怒』とそして、憎しみと手を切れなかったからだ」

 

 夏の始まりから、その言葉は彼らと共にあった。

 映画は映画の中だけのもの。スクリーンを飛び出してくることは無い。だが『憤怒』だけは──ジャックの計り知れない『憤怒』は、確かにここにある。

 カナタはコーラのビンを傾けた。

 中身はとっくにカラで、炭酸もへったくれもない最後の一滴が、あまったるく彼女の口の中に広がる。

 

「レイジは、ずっと『憤怒』と歩いてきたんだな」

 

 暗転の中で巨大なレイジがうなずくと、闇そのものが動いたようだった。

 

「俺はからっぽな人間だ」

「もうからっぽじゃない」

 

 間髪いれずにカナタが否定してやると、レイジの体がわずかにこわばった。

 彼女が見ると、彼は笑っている。これまでにないほど弱々しく、崩れ去る一歩手前の砂山のような、そんな顔だった。

 彼は軽く、眉間を押さえる。

 

「楽しくないから笑わないんじゃない。痛くないから苦しまないんじゃない。どうしたらいいか分からないから──でも、怒るときだけは俺でいられるんだ。百パーセントの俺で。作り物じゃないイスルギレイジで」

 

 レイジがスクリーンを指差した。

 

「俺は、ジャックになれる」

 

 それがいいことなのか悪いことなのか、カナタは口出しできない。

 二人が話す間もずっとずっと重力に引かれ続けたジャックの姿は、もはやスクリーンのどこにも見つからない。

 燃え盛る火の玉があるだけだ。

 

「ジャックは、映画の人間だ。ジャックに俺を重ねても文句は言わない。俺が『憤怒』の隣にいることを咎めたりしない」

 

 レイジの体も、シートの上で焼け焦げるように前に折れて、小さくなっていく。

 

「カナタと会うまで、ジャックだけが俺を『いい』と言ってくれたんだ……」

「だからこの映画を見ンのか。何度も何度も」

 

 ジャックという哀れな復讐者は、ここで終わる。

 憤怒すら燃やし尽くして、あとには燃えカスひとつ残らない。最後は自分を焼却し、すべてが終わる。

 だからこの映画の邦題は"焼失"なのだ。

 

「この真っ黒な画面を眺めていると、ちょっとだけ慰められる」

 

 宇宙の虚無のような黒を前にレイジは体を縮めた。

 スタッフロールを眺めるその横顔が、どうにもさびしかった。

 

「レイジ……」

 

 おずおずと手を伸ばして、カナタがレイジの頬に触れた。腐臭はもうしない。懐かしい波打ち際の花の香りが彼の鼻をくすぐる。

 

「すげーことしてやる。スペシャルだかんな」

「なっ──もがあっ!?」

 

 レイジの顔面を、暖かでやわらかいものが包み込んだ。

 いきなりで、乱暴で、思いやりしかない抱擁だった。

 

 ……というよりは、力任せに胸に顔を押し付けた、の方が正確だ。

 

「何を隠そうアタシのおっぱいはトクベツだかんな。ふつーよりデカめだ」

「う、うう……?」

「だから……ふつうよりデカいお前を抱きしめるのもラクラクだ。ありがたく思え」

 

 拍子で彼の手をすり抜けたコーラのボトルが、ゴロゴロ……と音を立てて座席の下を転がり落ちていく。

 あのケロイド男が善意で貸切にしてくれてるのに大変もうしわけねーと思いつつ、カナタはレイジの頭を体ごと、ぬいぐるみのように抱き寄せる。

 彼の頭をなでると、光すら吸い込むような彼の黒髪が、ちくちくと刺さった。

 

「くさく、ないか」

「ん?」

「ほら、アタシ……腐ってるから」

 

 抱きしめてから気づいたことだ。彼女の体はヘドロで出来ている。

 暖かい暗闇の中で、レイジの顔が少し動いた。

 

「花と……潮のにおい……」

「それっていいのかあ?」

「ああ。なんだか懐かしい」

「そか。オマエの汗も、海のにおいがする」

 

 レイジは静かに深呼吸した。深い深い、海の底にゆっくり沈んでいくような気がした。汗ばんだ頬を抱きしめたまま、カナタは彼の髪と、ガッシリした体を感じ続ける。

 

「マエオキしとくけど、これは男と女のめんどいあれこれとはムカンケーだからな…………ここ来る前にボタ子が、でかぱいは人を素直にするよって……落ち着くか?」

「めちゃくちゃ、やわらかい……」

「まだ何かに怒ってたり、するか?」

「今は……あんまり……」

 

 カナタの目に、レイジはさっきより安らいでいるように見えた。

 このままずっとこうして、あの男が困り顔で入ってくるまでひとつの塊のようになっているのも悪くない気がする。

 

(ダメだ)

 

 カナタは下唇を噛んだ。話しておかなくてはならない。

 向き合う勇気を持って、この暗闇の中にやってきた。心地よくあって、安らいで、うやむやにするためじゃない。

 レイジと、そして『オモトカナタ』と向き合わなければいけない。

 

「だいたいハンブン。手ごたえで、そんくらい、今のアタシの中に記憶が戻ってる」

 

 思い出したくも無い出来事のせいで、思い出したくも無い記憶を蘇らせた。

 酒を見たらキリエの唾が止まらなくなるように──同じようなことをたくさん押し付けられてきた『オモトカナタ』がいるから、彼女はシャフトの底で自分の最低最悪を取り戻した。

 男に、力で体をぐちゃぐちゃにされる。

 自分がこの世で一番みじめで汚くて、死んだものだと思わせられる。

 レイジがどれだけ『いいにおい』といってくれても、彼女は自分に腐臭を感じた。

 

「……これから、アタシのこと、話す」

 

 カナタの声が震えていた。抱きしめる手も、その息も。

 レイジの中に眠る怒りと同じくらい大きく、おぞましい怪物をこれから解き放つように。

 

「いいかレイジ、アタシのホントを教えてやる。マジびっくり仰天だ。クソ映画の結末よりも予測不能な大発見だ」

 

 そこでカナタは黙った。

 長い長い、長い時間が過ぎた。

 カナタの胸に顔をうずめたレイジには、彼女の鼓動も、息遣いも、伝わってくる。彼女が一際大きく息を吸い込んで、ひどくかすれた声で搾り出した。

 

「父さんと毎晩寝てた」

 

 レイジは仰天しなかった。

 ビックリでも、世紀の発見でもない。ずっと彼女の傍にいれば察してしまうようなこと。そして絶対、どんな人間でも認めたくないようなこと。

 ニブいレイジですら──心のどこかで「そうじゃないか」と気づいてしまっていた。

 彼は心臓を握りつぶされたような気持ちになる。

 

「は、はは……アタシばかじゃないから。父親とそういうのがヤバいってのは、気づいてたからな」

 

 彼女がそれを認めてしまったこと。

 それを彼女の口で言わせてしまったこと。

 レイジは、気が遠くなる。カナタと、そして『オモトカナタ』の負った傷は、彼の自傷なんかとは比べ物にならない。

 

「ゲロまみれになってるとき、思い出した」

 

 しゅるり。カナタが、首の包帯を解く。ウロコが剥がれた痕が痛々しいが──それより悲惨なものがそこにある。

 まるで大きな蛾が張り付いたような、大きな手の形のアザだ。

 カナタはそっとレイジの手をとり、そこに触れさせる。ハネて起き上がりそうになるレイジの頭を、彼女は押さえる。

 

「さいしょ、懐かしさがあったんだ。まだ思い出せないところもあるケド、この町に来る前のアタシは幸せではなくって──いや、ちょっと違うかな。あれはあれで居場所だから、安心はしてたのかもな」

 

 レイジはカナタの苦しい呼吸音に耳を澄ませ、抱きしめ返した。彼の左手は、カナタの震える手を少しずつ包み込むように握っていった。

 

「汗がひどい」

 

 じっとり湿ったカナタの指が、絡んでくる。

 

「トラウマってやつなんだろ。アタシが忘れても、呪いみたいに体に染み込んでやがる──いや、いい。離すな。このままがいい。いやじゃ、なければ」

「カナタ」

 

 胸に顔を埋めたままの姿勢で、レイジが聞いた。

 

「なんだ」

「カナタの父親……俺に、似てたか」

「は。ぜーんぜん。これっぽっちも」

 

 鼻をすすりながらキッパリとカナタは言い放った。

 掌を通して感じる彼女の脈は落ち着いてきていた。

 その呼吸だけは、震え続けていたが。

 

「レイジの方がデカいし、強いし、ベタベタ触ったりもしねえ。それに、なにより…………アタシの作ったメシひっくり返さずにうまいって食べてくれる」

 

 ちょうどその瞬間、スタッフロールがドジャーンと派手なドラの音をきっかけに終わり、二人だけの劇場に、彼女の最後の言葉が妙に大きく響いた。

 

「でもな。どンだけ幸せでも、アタシはレイジの中に、父さんを探しちまう。レイジのせいじゃない。アタシがそうなっちまってんだ。それで全部台無しになる……メンドくせーよなあ」

 

 突然、レイジを突き飛ばすように離れたカナタは、頭を乱暴にかきむしった。

 

「あー、くそ! くそ! アタシのバカバカバカなに言ってんだ!」

 

 おずおずとレイジが伸ばした手を振り払って、彼女は叫んだ。

 

「カナタ……」

「悪い……ジコケンオってやつ」

 

 カナタは後ろを仰いで映写室から漏れ出る光を見つめた。漏れ出る光が彼女の頬に影を落とし、まつげの先に小さな雫が光っているのが見えた。

 

「おっかしいな……オッサン、寝落ちしてんのか?」

 

 映画は終わった。

 しかし館内には照明が灯るどころか、なぜかいまさらスクリーンで予告編が始まっていた。

 それは、名前も知らない映画のワンシーンだ。フィルムの耐用年数を遥かに越えて酷使され、それはほとんど焼けたようなぼやけた色彩と、くぐもった音声の濁流の連続でしかない。

 光り輝く湖畔を、線路に沿って歩く子供たちの姿がかろうじて見える。

 映像も、線路も、旅も続く。まだ映画館を出なくていい。もう少しだけ静かな闇の中にいることを許されているような気がした。

 カナタは、吐息を闇に溶け込ませる。

 

「とにかくアタシ、こんなんだから…………イヤだったらイヤって言ってくれよ」

 

 カナタは膝の上で拳を握り締めた。

 

「家、出てく。から」

 

 自分の空っぽさを、レイジはここまで呪ったことはなかった。

 

「アタシはどこでも生きてける。強いから。アタシがいないほうがレイジが幸せってんなら、それがアタシの幸せ、で……す」

 

 俯いて小さく震えるだけになったカナタに、なんて言葉を掛けてやればいいのか分からない。何で空っぽなことが辛いのかも分からない。なぜ自分の空洞がこれほど痛いのかも。

 

「カ──」思わず声に出したが、名前を呼ぶことすらつらかった。

 

 出て行けだなんてとんでもない。ずっといてほしいのだ、レイジは。カナタに。

 ただ、そんなことを言ってもカナタを救ってやれるのか、わからない。

 張り裂けていこうとする胸を繋ぎ止めるように握り締めた指の先が、偶然ポケットの中にあったものを探り当てた。

 軽い音が響いて、カナタが顔を上げた。

 

「それ……」

 

 灰色の瞳が見開かれた。レイジの手にあった物は、かつてその瞳に映したものと同じ色をしたビーズのブレスレットだった。

 

「どうして……だって、あそこで壊れたまま……」

 

 やはり、レイジは言葉を持たない。

 

「直してくれたのか?」

 

 無言のままカナタの手を取って、不器用に繋ぎ直したビーズ細工を握らせる。

 カナタは無言でそれを見つめ、ゆっくりと顔の近くに持ち上げた。スクリーンの光を受けて、淡く揺らいだ青色が彼女の頬に落ちる。海の青、カナタの青だ。

 彼女は失った自分の色を思い出すように、震える両手でブレスレットを抱きしめた。

 

「ありがとう────ありがとう。レイジっ」

 

 レイジはカナタを抱き寄せていた。

 そうしたいとか、そうしようとかじゃない。彼の空っぽの中に小さく芽生えたものが、小さくささやいてきたのだ。

 好きな女の子にはホンキになりな、と。

 胸の中で「うあ」と小さな声を出したカナタは、そのまま彼の胸板に顔を埋める。

 

「カナタを傷つけたことを、俺は忘れない」

 

 きれいなものばかり詰め込んでも、きれいな『にんげん』にはなれない。この苦い思いも、レイジは己の一部として連れていく。

 

「カナタが一番辛いときに傍にいられなかったこと。守れなかったこと。その首を──絞めたこと」

 

 このつたない言葉がどれだけの意味を持つのか、レイジ自身でも分からない。

 起こってしまったことは、変えようがない。過去に戻ることは出来ない。そして過去は、ずっと付きまとう。

 地獄はどこにでも潜む。

 レイジとカナタの間にですら。

 

「それでも俺は、カナタと一緒に旅がしたいんだ」

 

 キモいな。レイジはこの夏、何べんといわれてきた言葉を自分に使う。

 

「許されるなら、旅をスタートからやり直したい。今度は一歩目から、二人で」

 

 まっこと勝手だ。お前を傷つけて立ち上がれなくしたが、それでもまだ傍に置いてほしいなどと。でもそれが、偽らない彼だった。

 レイジはカナタと一緒にいたい。どこまでも。どれほど遠い海までも。その底までも。

 

「オマエは……父さんとは違う」

 

 もういいよ、大丈夫、という風に、カナタはレイジの胸から顔を上げた。

 自分の顔の形を彼の胸元に残す汗とよだれと──濡れた跡を、乱暴に揉んで、消す。もう涙の時間は終わったのだ。

 あらゆるものには終わりがある。夏という短く暑い命の時間を、足踏みで過ごしたくない。

 

「やっと分かった。レイジは、アタマの先からケツまで全部レイジだ。バカで何考えてるか分からなくて──でも、アタシと一緒にいてくれるアタシの『運命』だ」

 

 カナタはブレスレットを撫でる。

 これが大事なのは、レイジが大事だからだ。彼がくれたもの、一緒に過ごした時間。どれほど体が踏みにじられようと、決してその輝きを損なうことは無い。

 過去は断片化される。過去は最果てへと流れていく。

 それは死者と、過ぎ去った季節のためのものだ。カナタたちは生きている。生きているなら、笑って、太陽に手をかざして先に進むしかない。

 

「レイジ。アタシと海にこい。海にいって、楽しいこといっぱいしよう」

 

 クヨクヨしているヒマはない。

 

「アタシとオマエで、今を最高の連続にするんだ」

 

 立ち上がり、手を差し伸べるカナタの首から完全に包帯が解ける。

 もはや隠されなくなった古いアザは、少しだけ色あせたように見えた。

 

 ■

 

 半分以上剥がされたカーペットの上を、カナタがずんずん歩いていく。

 かなりのペースだ。キリンのように歩幅が大きなレイジですら、置いていかれるほどだ。

 

「よーゥ。どうだった、稀代のクソ映画は」

 

 ケロイド男がモップにもたれて、廊下の中ほどで待っていた。

 カナタはつと考えて──少し、気まずそうに男を見上げる。

 

「ごめん。よっく考えたら映画館でイチャついたかもしんない。はずい」

「そりゃ結構。セーシュンしてるじゃないのよ、おたくら」

 

 カナタは振り返る。ゆるやかに湾曲した廊下の向こうから、足音が響いてくる。レイジのものだ。ケロイド男もそちらに目を向けながら、モップの柄に顎を預ける。

 

「一部の野郎はこう抜かしやがる『ガキは恥ずかしい。だからオトナにならなきゃだ』ってな。でもそんなのインチキだ。聞くな。代わりにツバを吐け」

 

 暗闇に、虚空に、男は言葉を並べるように喋る。

 

「手を汚さずに絵を描くことなんてできない。選択せずに得たものは結果じゃない────恥かかないでオトナになる方法なんて、どこにもないのにさ」

 

 ケロイド男は白い痕の残る指で胸ポケットからタバコを取り出して……やめる。

 足元に放り投げたタバコのパックをまるごと、モップで掃いたゴミの山に合流させる。それに何の意味があるかカナタには理解できないが、喫煙者にとって偉大な一手だ。

 

「姉御も禁酒頑張ってるし。俺もしばらく、踏ん張ってみっかね」

 

 そうしてライターをしまって、男はカナタに向き直る。

 

「俺ァ正直ガキが好きじゃねえ──が、オトナの階段をガキが転げ落ちるトコも見たくねえ。

 だからアドバイスだ、眩しいほど素敵なお嬢さん。短い夏で恥ずかしいこといっぱいやっとけ。でもって、さっさとガキを卒業して、もっと素敵な女になりな」

 

 やがて、カナタに押し付けられたゴミを抱えてレイジが追いついてくる。

 彼が会釈すると、ケロイド男も軽く手を挙げて応じて見せた。

 

「キチンとオトナになってみろ。きっと、新しいところで、新しい人たちと会えるから」

「もしかして、だけどさ……」

 

 カナタが軽く首をかしげた。

 

「オッサンもしかして、アタシらにめちゃくちゃ気ィつかってくれた?」

「あーもー感謝してんなら一度くらいお兄さん呼びしろや……んじゃな。またどこかで、また会う日まで」

 

 そう言ってヒラヒラ手を振った瞬間から、彼はもうカナタもレイジも見ちゃいない。

 ガランとした廃墟に『DREAMS COME TRUE /朝がまた来る』のサビ部分を口笛で高らかに響かせながら、モップをかけはじめる。

 やがて顔を見合わせた二人が歩き出して、男の姿が見えなくなってからも、口笛だけは見送りのように聞こえ続けた。

 そんな中で、この建物は死んでいく。

 廊下の照明は来たときより薄暗い。中身の取り外されたカラのポスターフレームが壁に並ぶ。物販のガラスケースがさびしい中身を見せる隣の壁が、自販機の形に日焼けしている。

 

「あのときのジコショーカイ、やりなおしたい」

 

 レイジの先を歩いていたカナタが振り返る。

 差し出された右手は包帯まみれだ。その手首を飾る不恰好なブレスレットが、シャラリと涼しげな音を奏でる。

 白い髪の少女は、照れくさそうに笑って見せた。

 

「アタシはカナタ。ずっとたくさん、時間が経ったけど……やっぱりただのカナタのままだ」

 

 薄闇のなかで彼女の目が開かれる。その色は──アズールだ。

 もう彼女は迷わない。

 死んだ闇のグレーを乗り越え、あの日レイジの心を揺らした究極のブルーすら超える。とうとう世界の根幹に焼け付くような青を宿した彼女は、揺らがず、逸らさず、レイジを見据える。

 

「アタシには差し出せるモンなんて何もないけど、海に行きたい。まだ名前も知らないオマエと一緒に」

 

 レイジはその手を取る。

 

「何のために?」

「海へ行ったらアタシの記憶が全部戻るかもしれない」

「つらい記憶だ」

「アタシは全部と向き合いたいんだ。立ち直って、前に進む。アタシの夏は、そのためだ」

 

 カナタがレイジの手を力強く握り締めた。

 

「オマエはどうだ」

「オレはレイジ。イスルギレイジだ。体が大きくて……力が強い。海に行きたい……」

 

 なんのため? さえない紹介に、カナタの燃える青が聞いてくる。

 急かさないでくれ。レイジは苦笑で答える。前よりもっとずっと美しく、そして怖くなったカナタの前で、停滞など許されない。

 

「俺の望みは、カナタの傍にいること(スタンド・バイ・ミー)だ。

 カナタは俺の運命で、俺はカナタの運命の先にあり続ける。海の果てでも、空の果てでも。俺はカナタと共にある」

 

 相乗り(タンデム)はもうやめだ。

 この瞬間から二人はひとつの生き物だ。カナタの行く先はレイジの行く先で、レイジが望むことに、カナタも全力になる。

 

「そっか。タイヘンだな、アタシたち」

 

 カナタは笑って、レイジの手を握ったまま歩き始めた。

 そのスピードがどんどん増す。やがて二人は映画館の出口を目指して、翼が生えたように駆け出していた。

 

「一緒に歩いていこう、レイジ。アタシたちで、どこまでも、いつまでも」

 

 その先に待つのは、目がくらむような青空だ。

 

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