海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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2.新しいきみとのリバイバル(3)

 

 ──即時親権停止。

 ルリコの手で風になぶられている書類は、まさしくジョーカーだ。

 しかもこれはまやかしのヘアピンとは効果の規模がまったく違う。キチンとした大人が、キタナイ手でひねり出してきた、正真正銘の切り札だ。

 市長ホニャララという署名の上から暮文他の名前がアイドルのサインのように書きなぐられている。

 ハンコも形式もヘッタクレもないが──そこがかえって、あの破天荒ハゲ親父のものであることを証明している。

 

「防衛局の親玉が、何考えてるのかしらね」

 

 めんどうな性格してるわね。頭の中でもう一人のルリコが囁きかける。

 いちいち噛み付かないで、さっさと書類受け取ってやりゃいいじゃん。ホラよく見てよ、マリコの名前もそこにあるのよ。

 アンタらふたりとも、これでアガれるのよ。

 

(そうかもね。でも)

 

 ルリコは、自分の中に巣食う楽観を睨む。

 キリエが裏返してきた弱さを目の当たりにして、ルリコは彼女のことがすっかり好きになっていた。しかし──オトナに裏切られるのも、利用されるのも、もうたくさんだ。

 

「なぜ。今まで私を──私たちをほっといたアンタが、どうして今更?」

「私はルリコさんに幸せになってほしいんです」

「ありがとう。私のほかにも地獄で泳ぐやつがいるの。そいつらも助けてくれない」

 

 あーあ、言うのね。それ言っちゃったら、アンタ……

 

(黙りなさい)

 

 楽観という座布団の上に居座るルリコはそれで静かになった。

 後に残されて、キリエと向き合うのは生徒会長としてのルリコではない。合宿の中で生まれた新しいルリコだ。

 どんな学校の片隅にも潜む地獄を、彼女は目にしてきた。

 家で父親に殴られるヨシ、全身が腫瘍と置き換わりつつあるザワちん。そして、壊れた体で生きていかなければいけないカナタ──

 

「ムリです。すぐには。この書類だって……」

「分かってる。そうよね。つまりこれって──」

 

 自分たちは助かる。それを喜べばいいのに、ボートに乗れない人間たちの顔を思い浮かべてしまう。

 

「──フェアじゃない」

 

 あんな合宿しなければ。そう強く思う。

 足を引っ張るだけのバカタレどもをさっさと切り捨てて、脱出ロケットで宇宙の彼方に出発だ。

 あとは後塵を吸い込んでむせこむA組の連中に中指でも立てて、スカッと爽やかに新天地に行けたのに。

 

「そう。フェアじゃないからキライよ、それ。私、ただでさえ睡眠ガッタガタなの。その上寝覚めの悪さまで欲しくない」

 

 みんなが好きだ。

 バカみたいだと自分でも思うが、ルリコはそうなってしまった。

 泥の水玉でオシャレになったブラウスを見下ろして、ルリコは「あーあ」と呟いた。ままならないものだ。

 ふと目を、キリエの背後に続く廊下に向けた。

 そこには、すっかり気安い仲になったクラスメートたちの顔が──いや、気のせいだ。雨上がりの青空と、ひとつまみの気後れと、気高いまでのガンコさが、ルリコに見せた幻覚だ。

 

(安心なさい。抜け駆けなんて、してやらないわよ)

 

 瞬きの後に、彼らの姿はもうない。

 幻の消えた後も、ルリコは日差しに切り取られた廊下を見据えていた。そっと息を吸い、覚悟を決める。

 

「私はいい。マリコだけ。何も言わず、勝手に、強引に手続き進めて。私はこれからも、公園でキノコでも摂って楽しく愉快に生きるから」

「認めてください。キミは強い。でも、生き抜くための強さはキミにはない」

 

 キリエが、渡り廊下の支柱に背中を預ける。

 300キロをゆうに越えるサイボーグボディを受け止めて、鋼鉄の柱は大きく軋み、それだけで廊下が校舎ごと傾いていくような錯覚をルリコに与える。

 

「分からないでしょ。私、公園の才能あるわよ」

「それがどんなブットビ技能かは知りませんが──すでに何件も通報されてますよ。私のほうで有耶無耶にするにしても、限界がある」

 

 分かったようなことばかり言うキリエに向けて目を尖らせていたルリコだったが、法律の話を出されると、どうしようもない。

 開き直って好き勝手してるだけで、彼女は不法占拠者で、おまけに未成年だ。それはよく分かってる。

 そのうちどこにも居場所がなくなって……流れ着く先は、結局、あの家か、もっとヒドい場所か。

 

「負い目、ですか」

「そうかもね。あんな合宿しなければ、今頃喜んで飛びついてたんだけど」

「いい生徒会長ですね」

「そう思ってるのはキリちゃんだけよ。私がもっとちゃんとしてたら、アホのA組なんて集団イジメはなかったし。それに、ボタ子がクラスに来たのも……」

 

 バレー部の元エースのことを考えて、ルリコの顔が曇る。

 彼女には、もっとちゃんとした学園生活が待っていたはずだ。

「違うよルリコちゃん。そういうのやめてよお」と彼女の困り顔が思い浮かぶようだが、彼女の腿に残る太い縫い目を見るたび、苦々しい記憶が蘇ってしまう。

 ルリコは、ますますA組が嫌いになっていた。自分の無力が生んだ罪だからだ。

 レイジは合宿を通して異物から愛すべきミステリアスボーイへと進化した。

 だがルリコは? 彼女の自己認識は、異物だ。最悪の異物。獅子身中の爆弾。

 

「私がちゃんとしていたら、みんな、もっと幸せだった」

「おこがましいですね」

「オトナの優しさね、そういう言い方」

「だったらコドモのニブさで受け止めておけばいいでしょう」

「そのはずなんだけどね。私……最近、ちょっとオトナ、かもよ」

 

 私はルリコです。長所は理性的なところです。

 私はルリコです。短所は理性が働くところです。

 私はルリコです。たぶん、チャンスをフイにしようとする大バカかもしれません……

 

「キミのそういうガンコさ、好きですよ。だけど……」

 

 静かに腕組みするキリエを見て、ルリコはふと、覚悟が揺らぎそうになる。

「あ、やっぱなし!」そう言って書類を持ってニコニコ教室に向かって、マリコと逃げる。

 ……それができない。

 ルリコは大好きなシャンプーで洗った、大好きな自分の髪を梳く。最近流行りの低刺激性、植物性とかいうやつだ。

 家に帰ったら全部取り上げられて丸裸にされて、ママの気の向くまま中指でほじくられるだけの穴ぼこに逆戻り。この香りとも、指通りの滑らかさともさようなら。

 それでもルリコは揺らがない。

 きゅっとスカートを握り締め、唇を噛み締め──必死に耐えるルリコを見て、キリエはさも今思い出した、というように切り出した。

 

「ああ、そうだった。その『みんな』ですがね」

 

 支柱にもたれたまま、キリエは体をゆする。

 彼女はどこか、愉快そうだった。

 

「悪の帝国の支配者のハゲでも、なんも無しに親権剥奪なんて簡単にはいきません。要るんですよ。大量の証言ってヤツが」

「え。じゃあ、これ、どこからそんなに──」

 

 強い風が吹いて、書類の端がめくれた。

 ホッチキスで留められたコピー用紙の束があらわになると、キリエがそこに向かってあごをしゃくる。

 促されるままルリコが目を通した──

 

 ■

 

 児童保護関連 証言集(ルリコ・マリコ関連案件)

 管理番号:H-2007-07-001

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【証言1】

 証言者:石動 黎時(いするぎ れいじ)

 記録日:2007年X月X日

 

「※原文一部抹消。要約。

 長い間ルリコさんと遊んでいるが、よく倒れてしまい心配している。

 筋肉がついておらず、それも心配。

 昼をガム一枚ですごしているのを見たこともある。

 電話でひどく怒鳴られていた」

 

【証言2】

 証言者:相沢 礼司(あいざわ れいじ)

 記録日:2007年X月X日

 

「私服は持っていない様子です。制服はほつれています。倒れていることが多く、ごはんも食べられていない様子です」

※1 本証言は本人にはなるべく見せないでください。

※2 王族のように頑固で気位の高い方なので、そのほうが良いと考えます。

※3 ただし、必要な場合は本人の意志に反しても利用してください。

 

【証言3】

 証言者:二階堂 ヨシ(にかいどう よし)

 記録日:2007年X月X日

 

「水着を見たことがありますが、あまりにも細すぎます。素材はいいんですが。ヒステリーを起こしているのをよく見ますが、単純に栄養が足りてなくてカリカリしているのだろうと思います。

 同じ境遇の人間として言いますが、あれは確実に家で何かがあります。

 妹のマリコちゃんについては※別紙参照」

 

【証言4】

 証言者:石動 彼方(いするぎ かなた)

 記録日:2007年X月X日

 

「とても優しい。私がひどい怪我をしたときも、面倒をよく見てくれた。

 家出をよくしています。公園で暮らしていますが、この町の大人は誰もおかしいと思わないのか。そもそも、

※原文一部抹消(不適切表現および罵倒・説教部分を削除)」

 

【証言5】

 証言者:匿名(バレーボール部関係者/原本以外での匿名希望)

 記録日:2007年X月X日

 

「私が男性教諭と問題を起こしたとき、とても真摯に話を聞き、対応してくれました。

 新クラスへの配属についても私の意見を尊重してくれました。

 素直で、問題を起こすような方ではありません。眠れていないという話を聞き、家庭での過ごし方を心配しています。

 妹さんのケガも気になります」

 

 ■

 

「ウソ言っちゃダメでしょ、ルリコさん。こんなに慕われてるじゃないですか」

 

 レイジ、カナタ、ザワちんとヨシ、名前は分からないがバレーボール関係の何者か──そのほかにも、何人も。

 無言で証言のコピーをめくるルリコを、キリエは極力見ないようにする。目の置き場として選んだ空からは雲が去り、いつの間にかいい青空だ。

 すがすがしい夏の音。木ずれとセミの鳴き声の中に、震える手で書類をめくるカサカサという音が響いていた。

 

「どうして」

 

 ルリコは軽く目をつぶって、こめかみを押さえる。自然と、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。

 

「どうして、アンタたちはここまでしてくれるの。赤の他人のために、こんな損しかないようなコトするなんて。やっぱりバカじゃないの」

「まーったく。おっしゃるとおり、みんなバカなんですよね」

 

 それまで体を預けていた支柱から反動つけてキリエが立つと、誇張無しに廊下全体がグラグラ揺れる。

 自分の前までやってきたキリエの顔を、泥だらけのままルリコが見上げた。

 

「でも、会長さんがいっちゃんバカですからね。だって2-Aに人サマのために必死になるブーム巻き起こしたの、キミなんですから」

「え」

「合宿、忘れちゃったんですかあ? 自分の順位でっかく落としてまで、あの子らの留年回避のために死に物狂いになってくれたでしょ?」

「その場しのぎの付け焼刃よ。もっといい方法だって、たくさんあった……」

「だとしても、みんなはあなたに救われたと言ってます。関係ないんでその書類には残せてないですけど──みんな、口々に言ってました」

「あ、う、え?」

 

 キリエはちょっとだけ、酒が呑みたそうだった。

 だって教え子の大成長だ。祝い酒のいっぱいくらいは許されるだろう。

 みんなが合宿の中で『大人』に近づいたように、ルリコだって変わらずにはいられなかった。

 醒めて諦めてばかりのハイティーンは、あの日深夜の食堂で、テーブルから飛び降りた瞬間死んだ。

 ここにいて、みんなから寄せられた溢れるほどのリスペクトに戸惑っている彼女は、自分が成長したことに気づいていない。

 ルリコ・バージョン2.0だ。彼女はより凛々しく、そして(つよ)い。

 

「正直、うじうじしてるカナタさんのコトをビンタしたのはスカっとしたし。あのファイト・クラブごっこは遠くで見ていて爆笑しました。

 そんで最後に、オマケオマケで、私がちょっとしたおせっかいを焼いただけです。この書類は、この結果はキミの手で掴みとったものです」

「は、はは……やっぱり、ウチのクラスって変人ばっかり……」

 

 フラフラと後じさりして、今度はルリコが壁にもたれる番だった。

 言葉が詰まる。秘密のインタビューで勝手に人のことを言いたい放題してくれた連中に憎まれ口のひとつでもかましてやりたいが、できない。

 疲れて強い女であろうとした。現実をそのままスクリーンの中にブチ込んだように、アグリルリコという役を演じてきたつもりだった。

 世界の片隅の高校を牛耳る生徒会長というデタラメなキャラ。

 そのデタラメなキャラを、ルリコが自然体のデタラメさで追い越してしまった。赤の他人のために、真っ赤な血を流す──

 

 その結果であるみんなの証言を、ルリコは抱きしめる。

 

「カナタにね、言ったことがあるの。『私の居場所は家だけ』って。でも」

「今は違うみたいですね」

「うっさいわね。いいオトナのくせに、私にきめぜりふくらい言わせなさいよ」

 

 いいオトナではありませんがね──目を真っ赤にして、泣きそうで泣かないルリコをじれったくも愛おしく思いながら、彼女は考える。

 パチン。キリエが無意識にルリコの頭に伸ばした手を、彼女が叩き落とした音だ。スキが無い。

 この紙切れで救えるのはたった二人。他は地獄残留。それは変わらない。すべてルリコの言うとおりだ。これはオトナコドモの独善だ。

 

「……少なくとも先生、破滅願望持ちですから。この切り札を覆すようなことが起こって、全部しくじって地獄に落ちるにしても、最後までお付き合いはしますよ」

「じゃあキリちゃん。約束。これっきりにしないで」

「はい」

 

 キリエは、即答する。

 ルリコはそんな彼女に歩み寄って、泥だらけのハグをする。八年ぶりにランドリーに行って洗ってアイロンを掛けた彼女のブラウスに、顔型を残す。

 やくそくの証だ。

 

「私と一緒にがんばりましょ。ヨシにザワちん、それにボタ子にサトウにヨーコにユウト。そして大好きなカナタと、もっとたくさん。みんな助けてハッピー・エンドよ」

「はい」

 

 恭しく。まるで執事のように。キリエが体を折って深々と礼をすると、「安請け合いねえ」とルリコは困ったように笑う。

 クラス全員、みんなを地獄から救い出す──そんなふうに途方もない約束を交わしながら、彼女たちは同い年の少女のように笑みを交わす。

 

「ルリコさん」

「ん?」

「この空は、まだきれいだと思いますか?」

「そうよ。ほんとうに綺麗な夏空。でも──」

 

 セミの声がピタリと止んだ。

 風がそっと吹く。青い光をバックに、逆光を浴びた泥だらけのルリコが、白い頬をほんのり染めてキリエに笑いかける。

 困っちゃうわよねえ、という、彼女らしいやり方の笑顔で。

 

「でも、一度、違う空と見比べてみるのもいいかもね。みんなが私に『生きろ』って言ってくれたワケだし。さ」

 

 しばらくキリエと二人で空を見上げていたルリコだったが、ふと思い立ったように制服のポケットを探りはじめた。

 キリエの前で型落ちの、二つ折りケータイが引っ張り出される。

 そっけのない銀のボディを両手で握って、彼女はロックを解除する。液晶に並ぶ、何百件もの不在通知。

 見慣れた彼女の地獄。

 

「ルリコ、さん?」

「最後にママに……ママに掛けさせて」

「そんなことをする必要は」

「おねがい」

 

 そうしたいのなら、そうさせる。それ以上キリエは口出しせず、彼女を見守ることにした。

 

「あ……ママ……あの……」

 

 しばらくコールして、電話がつながった。

 通話口から聞こえる、真綿のように柔らかな女の猫なで声。それが一瞬で、突き刺すようにヒステリックな声色に変わった。ルリコの肩が跳ねる。

 

「う、ううん。違うの。そんなことないよ。ママのことは大好きだよっ。ホント。今でも、そう」

 

 口元をかすかに震わせ、視線を下げながら、ルリコは小さな声でつぶやいた。額には冷や汗がにじみ、舌がもつれて、言葉がうまく出てこない。

 

「ルリコさん、そのあたりで」

 

 思わず端末を取り上げようとしたキリエを、ルリコは震える手で、しかし、はっきりと制止した。

 

「好き。大好き。でも、でもね、もう────アンタの傍では息したくないのよ」

 

 シン、と何も聞こえなくなった。ケータイの向こう側からの声も、聞こえなくなった。

 今まで噛まなかったペットがいきなり牙を剥いて首筋に噛み付いたのだ。相手が受けたショックは大爆発級だろう。

 隣で聞いているキリエが小さくガッツポーズするのを見て、うっかり口元を緩めたルリコはすぐに顔を引き締める。

 

「私の心も、マリコの体も、これ以上アンタらの自由にさせないから」

 

 ルリコ・バージョン2.0は、遥かに反抗的だ。

 鼓膜をつんざくほど怒鳴られても、顔色ひとつ変えない。目は据わり、心拍数はいたって正常値。

 自分と、かわいいマリコを侵す怪物を相手に、絶対退いたりしない。大怪獣ルリゴン、リニューアルして大進撃だ! 

 

「わた、私はアンタの恋人じゃない!」

 

 吠えろ! 

 

「ストレス解消のおもちゃじゃない!」

 

 とどろけ! 

 

「ほらどうだ、悔しいだろ。ばかみたいに黙っちゃってさ。なんか言ってみろよ、しわくちゃブスのクソばばあ!」

 

 がおー! 火をはけ! こわせ! 救え! 

 

「お前が主役の時間はもうとっくに終わったんだ!」

 

 世界の果てに轟く咆哮──それから、本当に静かな時間がやってきた。

 

「ママのトコなんて二度と帰ってやらないから! 私も、マリコも絶対。それじゃ──サヨナラ。じゃあね、ばいばい」

 

 そう言い切った瞬間、ルリコはケータイを握り締め、渾身の力でグラウンドに向かって投げつけた。

 砂利道で鈍い音を立てて一度跳ねたケータイが水溜りに沈むと、その途端に通話が切れ、あたりに静寂が満ちた。

 ぜえぜえというルリコの喘鳴だけが渡り廊下に木霊していた。

 爽やか過ぎる空。宙をさまようキリエの左手、静かに木陰から様子を見守るウグイス。

 

「やりましたね」

「い」

 

 ミイミイとなくセミの声が帰ってきて、ルリコは糸が切れたようにその場にへたり込んだ。

 

「いいい勢いですごすごすごいことをしてしまった」

 

 ルリコは自分の手を見つめる。

 

「きききキリちゃん、みみ見て、人間マナーモードよ……」

「ケータイがもったいないです」

「そそそうね。思い切りよよ良すぎるのもか考えものねねねねね……」

 

 深呼吸を繰り返すルリコの傍で端末を取り出し、キリエはどこかに電話をかけていた。しかし、スピーカーから漏れ出てくるのは、呼び出し音だけだ。

 キリエは首をひねった。

 

「あらま。電話にでんわ」

 

 少し落ち着きを取り戻してきたルリコが、うんざりした顔でダジャレ好きの長身女教師を見上げた。

 

「マリコさんにも同じことをお伝えするつもりだったのですが。どうやら取り込み中みたいですねえ」

「ああ……アイツ、今頃A組の連中と一緒になってパラパラでも踊って浮かれてんじゃない」

 

 ルリコは、はきっぱなしの上履きを脱ぐ。

 中身は泥でいっぱいだ。茶色の塊になったシューズをしばらく見つめてから──それを、近くのゴミ箱に突っ込む。

 洗えばまだ使えたろうが、ここに捨てていく。

 クツ下もクルクルポンと丸めてゴミ箱に。キリエの目に映るルリコは、古く、弱かった自分の体を脱ぎ捨てていくようだった。

 

「いいニュースだし。私、直接行って伝えてくるわね」

 

 ペタペタ裸足を鳴らして校舎に入っていって、数歩のところでルリコは立ち止まった。

 気持ちよく脱ぎ捨てたはいいが、後の事を考えていなかった。

 

「胸張ってあの家出てくのはいいとして──今日からどこに住もう」

「しばらくはウチでどーぞ」

「え、キリちゃんのトコ?!」

「なあに。少しきっちゃないですが、すぐ西町がヤサを用意してくれるので。ちょっとの辛抱ですよ。ちょっとの」

 

 数日前まで元気にアル中やってた人間が、どれほど凄まじい家に住んでいるのか、ルリコには想像もつかない。

 こりゃちょっと困ったことになっちゃったわよ──と白目を剥きかけたところで、もうひとつ、問題に気づく。

 

「待ってよ。先生のとこってあの廃団地……」

「言い方は気になりますが、つまりレイジくんたちとご近所さんになります」

「ふ、ふうん……へんなの」

 

 ペタ──泥の足跡が廊下に残る。

 他でもない彼女の命令で生活委員に作らせた『ローカはきれいに』のポスターを見上げ、彼女は苦笑する。

 仕方ない。許せ。ルリコはスマンと手のひらを立てる。人間が生きていく限り、汚れと恥からは逃れられない。

 

「ま、あの廃墟を私たちで騒がしくしてやるのも、悪くないかもね」

 

 預かった書類を抱え、ルリコは素足でぺたぺた音を立てて歩いていく。

 すれ違う生徒たちは一瞬驚いた表情を浮かべ、思わず振り返る者もいた。いろいろと吹っ切れてしまった彼女にとって、それはもはやどうでもいい。

「ははっ」と笑いながらスキップしてみると放課後の人ごみは自動的に左右に分かれ、もはや彼女を阻むものは何もない。

 いい気分だった。

 

「あのさ、マリコ……あれ?」

 

 教室の戸を開けて中を見てから、ルリコは外に出てプレートを確認する。間違いなく2-Aだった。中はもぬけの空だった。

 明かりの消えた教室の中で、空の青を天板に映した机が、ただ列をなしている。

 夏真っ盛りだというのに、冷え冷えとした空気をルリコは感じていた。

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