夜空から降りしきる雨のひと滴が、レイジの意識を現実へと連れ戻した。
「あっ……」
痛いほど首を大きく反らせて夜空を見上げていたレイジは、頬に落ちた冷たい雨粒をぬぐいながら周囲を見渡す。
雨の中にぼんやり光を投げかける街灯が、見慣れた商店街の姿を闇夜に浮かび上がらせていた。
見慣れた町の見慣れた夜景。ここは、レイジの住んでいる廃墟マンションのある西三区からそう遠くない。
学校の傍のT字路を、いつも通りの方向に曲がればたどり着く。レイジの日常そのものだ。
ただ、『そうでない方向』の様子がおかしい。
鉛を注ぎ込んだように重い首を上げ、見ると、空は夜の雨に透けるように煙って、オレンジ色に滲んでいた。
手狭な通りは野次馬でごった返し、建物も道路も、その先に何があるのかを隠すブルーシートも、赤色灯に毒々しく染め上げられている。
「いったい……何、が」
彼は、座り込んでいた植え込みのブロックから腰を上げた。同時に、凄まじい目眩が彼を打ちのめす。赤色灯の回転に合わせて空が回り、道行く人々が、数時間分の記憶を抜き取られた空白が、頭の中でぐるぐる渦巻く。
「う──あ」
「ちょ、ちょっとアンタ、大丈夫!?」
思わず倒れるところで、レイジの手を捕まえた者がいた。
「う、お、重すぎ、なんだけどッ!!」
「ルリコ!?」
どう考えても、彼女の体でレイジを支えるのはムリだ。
「驚いてるヒマあんなら、さっさと自分で立ちなさ……っ!?」
巨体のほうへとじりじり引っ張られていく彼女の踵が、湿った地面から離れるまで、ほとんど間がなかった。
「おわ」
「ぎゃっ」
とっさにルリコを抱きかかえ、レイジは、植え込みのツツジをバキバキと軋ませながら倒れこんだ。
「くっ、相変わらず暑苦しいヤツね……!」
「す、すまん」
ルリコは、湿ったレイジの胸板に、顔をべちょりと押し付ける形になった。
「やめろ。いいから。マジ。体に触られンの、好きじゃないって知ってるでしょ」
起きるのを助けてやろうとレイジが肩に伸ばした手を邪険に払って、彼女は彼の胸板に手をついた。綿毛でも乗ったのではないかというほど希薄な重みが、レイジを不安にさせた。
「ほら。早くして」
植木に絡まってもがくレイジに向かって、ルリコは改めて手を差し伸べる。その華奢な手に、赤いささくれが目立つ。彼は一瞬、触れることをちゅうちょした。
「触られるのは好きじゃないって」
「人助けはノーカンでいいでしょ」
「どうしてこんなところに?」
「んっ──生徒会の仕事終わらせてきた。通りかかったらアンタがグラグラしてたのよ。ぐうぜん。本当に」
今度こそレイジを何とか起き上がらせてから、ルリコは腕組みした。
彼女とレイジが自然に目を向けた先では、厳重な交通封鎖が敷かれている。
「ようやく帰れるトコだったんだけど……サイアク。ママ、待ってるのに。嫌われちゃう」
通りの先はブルーシートで覆われ、警官とパトカーがバリケードを築いていた。これほどの騒ぎは、西町では珍しい。
ルリコと同様に思わぬ立ち往生をくらった通行人が警官に詰め寄っているのが見えるが、封鎖を敷いている彼ら自身もその理由が分からないようだ。
「あの先は」
「七区ね。私、たまにそっちでバイトする」
「バイトはウチの学校では──」
「生きるためにやむなしよ。それ以上口出したら、生徒会の権限でぶっ潰すから」
ルリコはそこで、昼のやりとりを思い出したようだった。
「ねえ。ところで早引けしといて何してるワケ? 病院は?」
「それは」
と口にしてから、レイジは口ごもる。
フミオと駐輪場で別れて帰る途中、ふらりと七区に立ち寄ったところまでは覚えている。しかし、なぜそんなことをしたのか、どうしてこんな時間に、こんな場所にいるのか──
レイジが眉間を押さえると、生徒会長がフンスと鼻息を吹いた。
思い出そうと記憶を探るたびに、そこだけインキをぶちまけたように、モヤがかる場所がある。とても重大な事件が起こった気がするのに、記憶が輪郭を失っている。誰かが、とんでもなく無造作で、無神経に、自分の一部を切り取っていったようだった。
「アンタそれ、どうしちゃったの」
ルリコがレイジのシャツの袖を掴んで、軽く引っ張った。
「ケガ? ずいぶん酷そうだけど……大丈夫?」
ルリコが顔をしかめて言う。
レイジがシャツの袖をまくって確かめると、右の前腕に、赤黒く染まったガーゼが一塊になって貼り付けてある。
「知ってるだろ。俺のケガはすぐ──」
「じっとしてて」
言葉を無視して、ルリコは迷いなく動いた。ビビィと悲鳴を上げたのはレイジではない。思いっきり引っぺがされたガーゼの方だ。
「──すぐに治る。が、勢いよくテープ剥がされるとけっこうヒリヒリする」
「あっそ。じゃ、これ、アンタが処置したんじゃないのね」
ひんやりとしたルリコの指が、血と消毒液で茶褐色に染まったレイジの肌の上を滑る。やがて、鋭利な刃物で斬りつけられたような傷跡を探り当てた。
「これなに?」
「分からない。ガーゼのことも。記憶が無い」
「アンタ、何度記憶喪失すれば気が済むワケ?」
「知らない」
「つくづく、何も知らないわね。アンタって」
「──だから、好きでこうなったわけじゃない!」
とっさに語気を荒げると、ルリコの眉がピクリと動いた。
「あ、すまん」
「へえ。アンタがそんな風に言い返すなんて、ずいぶん珍しいわね。なんかあったの?」
「それを覚えてないから困ってるんだ」
「まあいいわ。私も無神経だった」
傷跡に触れてみる。
今までの自傷でつけてきた傷は、まるで腕の先を油に浸して火をつけたように、彼の体を這い登る無数の足跡のようにして刻まれている。
だが、これは違う。
鉄骨をただ殴って、こんな風に傷つくはずが無い。
守った傷だ。何かの脅威から。彼自身か、あるいはもっと別の、大事なものを──傷口を掘り返すように強く擦った瞬間、生臭い香りが記憶の底から立ち昇った。それが一瞬で彼の鼻の中に満ち、彼の脳天めがけて巨大なカギ爪が振り下ろされる。
「ッ!?」
彼は反射的に飛び起きて、ルリコを背後に押しやった。
だが、身構えるレイジの前にいたのは会社帰りのスーツの男だった。彼は怪訝そうな目を一瞬向けて、足早に雑踏の中へ消えていく。
「ホントに平気?」
「ああ、言ったろ。記憶を無くすのは初めてのことじゃない」
「そういうんじゃなくて.アンタ、いつもに増してヘン」
「大丈夫だ。大丈夫。本当に」
ひどくなる一方の頭痛を抱えたまま、レイジはブロックの上に座りなおした。ざりざりとしたコンクリートを指でなぞり、考え込む。そのしぐさは、”大丈夫”とは程遠い。
記憶が、ない。
だが、一瞬見えたあの爪、あの、黒い怪物の姿は、彼の脳の奥底に、粘つく汚物のように引っかかって、へばりついている。
加えて、あの瞬間に感じた生臭さ。
いつの間にか、処置された傷。渦巻く汚泥、窒息感、全身を煮えさせるような水の壁。
視界の端で、何かが揺れた。
レイジが気づいて摘み上げる前に、ルリコの細い指が、彼の頭に伸びた。
「およ。アンタに
白い白い髪の毛だった。
自然と無言になって見下ろす二人の間で、白い毛が、銀の光を帯びている。ふっと吹いた夜風にさらわれて、どこかへ飛ばされていく。
都市の明かりに染め上げられ、浮き出すように漂う雲間にそれが消えていく刹那に、レイジの口から言葉が漏れた。
「青」
なぜ、そんなに脈絡の無いことを口走っただろうか。
今の彼の脳みそは、ありとあらゆる色相の黒が渦巻く混沌だ。そこに垂らされた一筋の光。銀色の髪をたどって、汚泥の中を掻き分けていく──と、その色が突然、彼の目蓋の裏に輝きだした。
「……海の青。カナタの、青だ」
「は?」
「どうしてこんな大事なことを」
眉をひそめるルリコの前で、レイジは下ろしたばかりの腰を持ち上げる。
のっそり背の高い彼が雑踏を見渡すと、夜の光の下でひしめく黒い頭の群れが見える。そこに、あの怪物たちの姿が重なる。
黒いさなぎの垂れ流す汚泥から湧き上がる、滑りのある皮を纏った黒い怪物。棘皮人間を。
「ルリコ、頼みが!」
頭痛も意識の混濁も、一瞬で霧散した。
棘皮人間、”つくり笑い”と”うそ泣き”という怪物、パワードスーツとサイボーグ忍者。
そして────カナタ!
「人を探さなきゃいけない。今すぐ、どうしても。力を貸してくれ!」
「い、痛いわよバカ!」
強い力で肩を掴まれ揺すられて、ルリコが顔を歪めた。
「ベタベタさわんないで……ホント……嫌だから……」
「す、すまない」
「……いい。特別許す。で、人探し? どんな人?」
「白い女の子だ。名前はカナタ。歳は、たぶん俺たちと同じくらい」
「おんなのこぉ?」
必死に語りかけるレイジを見つめていたルリコが、呆れた笑いを浮かべる。
「──ははん。心配してやってりゃ何よ、カナタって。白い女の子? なに、白って。何が白いの」
「肌も、髪も、教室の壁紙みたいに白くって……」
「ウチのクラスのはだいぶ黄ばんでるけどね。アンタの出す湿気と、センセーがバカスカ
「ふざけないでくれ!」
「どっちがよ。私、アンタに担がれるほどバカじゃない」
「本当なんだ。信じてくれないか……」
レイジはサイボーグ忍者と戦って、カナタが逃げるための時間を稼いだ。
だが、それで十分だったとは思えない。七区にはニンジャと棘皮人間のほかに、無数のパワードスーツが突入してきていた。
──あの場でカナタと別れて、果たして正解だったか?
彼女は、俺が想定した経路で、無事に逃げおおせたのか?
今、どこで何を?
こうしている間も、カナタの身が危険に晒されているかもしれない。見えない手に次々と頭の中に不安の種を植え付けられていくようだった。
焦燥に駆られるレイジの爪先が、忙しなく地面を叩く。ルリコは髪の先を指で巻きながら、彼を珍しそうに見つめた。
「アンタ、やっぱ頭診てもらえば」
冷ややかな言葉だが、彼女なりに驚いているし、心配している。
せわしなく目の前を行ったり来たりするレイジの姿は、これまで見せてきたボンヤリした彼とは似ても似つかない。
西高のミスター無表情がここまで取り乱すなんて、明日が雪でもおかしくない。
「ね。家まで付いてってあげよっか」
「ダメだ。俺は探さなきゃ。カナタを。この町にいるはずなんだ」
「カナタカナタって。いるわけないでしょ、そんな変なヤツ」
(こいつ、もうダメかもね)
話せば話すほど、わけが分からなくなり、彼と同じような頭の病気に冒されていく気がした。
ルリコはため息をついて、視線を雑踏のほうへと投げやる。
そこには人の群れ。黒い人だかりを見ているだけで息が詰まりそうになった。彼女の目は逃げるように、人のまばらな方、まばらな方へと走っていく。
「は?」
やがてたどり着いた、封鎖の端。そこにはパトカーが一台停められているだけで、傍に立つ警官が無線を手に、フラリとどこかへ歩いていく瞬間だった。
「ルリコ? どうした?」
「あれ……あそこ、見えるでしょ.」
彼女が指差す先で、目隠しのビニールシートが風にあおられて舞い上がった。
「もっとよく見て。ほら、シートの隙間」
ルリコの言うとおりに、レイジは更に目を凝らす。
そして分かった。あれは風で揺れているんじゃない。中から、何かがモゾモゾと這い出てこようとしている。明かりのない路地でも、闇夜にぽっかり浮き出るような、白い塊が。
■
二人の見ている先で七区からの脱出を果たし、”それ”が立ち上がる。
ちょうど、雲が割れる。おぼろに霞のかかった月が、その光で、濡れた町を照らしはじめた。
波打つ白い長髪を夜風になびかせ、白く澄んだ肌を輝かせて、青い瞳で月を見上げるその女は──
「驚いた。本当にいたわね……白い女が……」
「カナタっ!」
呆気に取られたように呟くルリコの横からレイジが飛び出した。
立ち塞がる雑踏の中をブルドーザーのように無理矢理掻き分けて突き進む。苛立ちと驚きの声、罵声が容赦なく浴びせられるが、気にしている余裕なんてない。
いたのだ、カナタが。
レイジの運命が、そこに。
「カナタ、カナタ、ケガはないか?」
「ああ──お前は?」
駆けてきたレイジを、彼女はぼんやりと見上げた。
「誰だっけ、オマエ」
「え?」
「何も覚えてねえんだ。どうしちまったのかな」
レイジは、はっとする。彼女の状態は、自分が町中で目覚めた時と一緒だ。
「思い出してくれ。一緒にバケモノの群れから逃げたじゃないか」
「バケモン……? 知らね。なにそれ……マジで、ワケ、わかんねー」
彼女はフラリと頭を振って、歩き出した。もはやレイジの姿など見えていないように、闇夜に溶けて消える亡霊のように。引き止めなければいけない。今、手をこまねいていたら、きっと取り返しがつかないことになる。
「待ってくれ!」
「あ?」
手を、つかんでいた。
ザラついた手の感触に、カナタの瞳がほんの一瞬だけ揺れる。だがそれだけだ。彼女を揺り起こすには、まだ足りない。
「もしかして、カツアゲ? アタシ、カネとか持ってないよ。お遣い、行かなきゃ……」
「カナタ! しっかりしろ。いいか、よく見ていてくれ!」
(何を見せるんだ、俺は!?)
彼の中の、比較的冷静な方のレイジがとっさに疑問を投げかける。知るはずが無い。完全に、引き止めるために吐いたでまかせだ。
レイジだって、どうやって自分が記憶を取り戻したのか分からない。だが、何かしないといけない。
あの出来事を、”海”で起こったことを思い出すような、何かを──
「ふんッ!」
気づいたら、シャツを力任せに引きちぎっていた。
きゃあ、と、雑踏の方から悲鳴が聞こえたような気がした。
「き」
カナタの白いおでこの上で、千切れたボタンが跳ねて飛んだ。
「き、き、き────」
あたりに何人もの警官がいるというのに、思い切った手に出たものだ。
だが、彼にできるのはこれだけだ。七区で、青林一丁目で、海の底で起こったことを物語るには、この方法しかない。
「き、きも……」
カナタは目をぐるぐるさせた。
「気ン持ち悪いマネしてんじゃねえよ! こっちはキオクソーシツで困ってんのに、なに、いきなり、脱いで……」
レイジの体は、どんな傷でもたちどころに修復する。ただ、そこに傷を負ったという事実は決して消えない。
岩盤のような胸板に刻まれた無数の傷跡を、月明かりが浮かび上がらせる。太い蛇が這った跡のような、銃弾にこそげられた傷。燃料を被って焼かれた時の白い跡。
すべて、一人の女の子を救うために負ったものだ。
焦点の合っていなかったカナタの瞳が次第に生気を取り戻していった。震える指を伸ばして、レイジの胸板に刻まれた傷の一つに触れる。
「無事でよかった…………レイジ」
三本の爪跡をなぞったとき、カナタの瞳の中には溢れんばかりの青色が満ちていた。
「俺は絶対にカナタを一人にしない」
「ッ、ちょっと腕、かせ!!」
彼女は強引にレイジの右腕を掴んで、まじまじと見つめた後、首を傾げた。
なんの異常もない腕だ。そして、異常がないのが異常なのだ。
それはサイボーグ忍者によって切断された。彼女は自分の目の前に転がってきたレイジの腕を見ている。
「なあ、腕、斬られてたよな。やっぱりオマエって」
「何かの……見間違いだろう……」
苦しすぎる言い訳だということは、レイジも承知していた。腕が飛ぶのも肌を焼き溶かされるのも平気なくせに、自分の体質のことをカナタに説明する勇気を出せなかった。
万が一、それを打ち明けた時……と、考えるだけで、彼は足元が崩れていくような気持ちになる。
「あの後、どうしてた?」
疑問をこれ以上挟まれたくなくて、レイジはカナタに聞いていた。
「ちゃんと、オマエの言うとおりに逃げた。でも、途中でやつらに囲まれて、んで空がおかしくなって……強い光を見てからのことは、覚えてない」
小脇に抱えても地面にこするほど長い髪をズルズル言わせて、カナタが通りに出ていく。
やはり、そこは彼女が知らない景色なのだろう。倦んだような日々に、飽きるほどレイジが見てきた古い商店の列を、カナタは目を輝かせて見つめた。
「遠くに山が見えるのって、なんか新鮮だ」
「カナタはどんな町から来たんだ?」
「忘れた。記憶がねえんだ。でも、そうだな、海が近かったかもな……」
海。
そうだった。
いろいろなことが起こりすぎて忘れかけていたが、カナタだけでなくレイジにとっても、それは大事な意味を持った言葉なのだ。
「カナタ」
レイジは、カナタの前にひざまずいた。
彼にできる最大限の誠意の表し方だが、そこに注がれるカナタの目は、ひたすらに厄介なものを見るようだった。
「海に行くなら今夜のうちだっていい。俺はいつでも出られる。カナタ、きみの望むままに」
「あ、あー……」
カナタが、言い辛そうに首筋を撫でさする。
「その話なんだが、忘れてくれよ」
「どうして。あれほど必死になっていたじゃないか。海に行くって」
「そうなんだが…………アタシはまだそのつもりだが……なんつーかさ……」
言葉に詰まりながら迷ったように爪先で地面をほじくっていた彼女は、レイジの顔を見て、決心したようだった。
「なんかムリ」
「ムリって、何が」
「レイジ、オマエが」
「は」
「やたら暑苦しいし。ちょっと、かなり、だいぶキモいし……」
いきなりトラックに撥ねられたような衝撃だった。再会の喜びも何もかもブチ壊すような言葉を投げつけられてレイジは固まる。機能停止寸前の彼の前で、カナタは言いたい放題だ。
「オマエが悪いヤツじゃねーってのはよく分かる。ウン。ぜったいイイヤツ。だからさ、気をつけろ。あんまり自分を出すな。いきなり人のにおいを嗅ぐな」
「え」
「ほんじゃ」
「ま待ってくれ。約束しただろ!?」
じりじりと下がっていくカナタの手を、我に返ってレイジが掴んだ。
「
「いい匂いだった! 嗅いだこともないくらい、いい匂いだったッ!」
「そういうところがキモいんだよ! フツー分かるだろ、なぁ!?」
「今後は絶対そういうことはない。確実に!」
「そうか。そりゃよかった。オイ、離せよ。レイジ、オマエ、力強いんだってば、無駄に……!」
「頼む。話を聞いてくれ!」
万力のような力だ。待ってくれなんてやんわり言いながら、逃がす気がまったくない。
レイジが服を脱いだあたりから、雑踏の注意のいくらかがこちらに向き始めている。足を止めてこちらをジロジロ見てくる通行人がどんなことを思っているのかは知らないが、カナタは思わず舌打ちを迸らせる。今日はつくづく災難ばかりだ。
起きたら海の中で、記憶は吹っ飛び、バケモノとブリキ鎧の集団に殺されかけたと思ったら、今度はニンジャがドロンと出てきてお命頂戴。廃墟にあちこち引っ掛けながら命からがら逃げてみれば、その先で二度目の記憶喪失。
「いい加減に、しろってんだ、この!」
そして、トドメがこれだ。知らない町の、知らない通りで、見世物のようになりながら手首を千切られる寸前だ。
「離さない。きみを行かせてたまるものか。きみは、俺の」
「だから何度も言ってンだろが。アタシは断じて──お前とは──なんでも──ねえ、って!」
手首の痛みが、そしてカナタの堪忍袋が限界に達した瞬間、彼女の手首がズルリと抜けた。
「あ?」
反動で尻餅をついた二人の視線が一点に集まる。
「は……はァ~~!?」
その悲鳴の大きさは、雑踏のどよめきを打ち負かすほどだった。
生魚の内臓をつかんだような感覚を残すレイジの手が、糸をひくぬめりに覆われている。そしてすっぽ抜けたカナタの手首から先は、ウロコとヒレが無秩序に絡んだ不気味な塊に変化していた。
「な、な、なんじゃこりゃあ」
冷や汗ダラダラでカナタが見つめる前で、塊はうねり、粘液を跳ねさせながら元の手首の形に戻っていく。まるで粘土をこねるような”変形”が落ち着くと、微細なウロコの生えた指先で、真珠色の爪が月光を受けて輝いた。
「どうなってんだァ……!?」
なおもカナタを混乱させるような現象は続く。驚愕に見開かれた彼女の目と鼻の先を、ズルゥリと白いものが抜け落ちていった。
それは、髪の毛だ。毛根ごと引っこ抜けた白い長髪が二人の間の地面にとぐろを巻く。
「う、うわぁぁっ? アタシの髪がああ!?」
「カナタ、落ち着いてく──」
「か、かゆい……なんか分からんけど、死ぬほどかゆい!」
頭皮と頭蓋骨の間を小さな虫が這いまわるようなゾワゾワとした感覚に、カナタの全身から脂汗が噴き出る。違和感をこらえきれずに彼女が頭を掻きむしりだすと、美しい長髪が、指に絡みついて更に抜けていく。
「おあああ、アタシ、ハゲちまう!? ハゲはいやだ! マジでヤだ!」
レイジの痴態とカナタの大声で、もはや群衆の興味は道路封鎖よりも二人の大騒ぎに向けられていた。どう見てもヒキ気味に皆がカナタを見守る先で、途方もない量の髪束が地面に積み重なっていく。銀の光が舞い散るほどに、彼女に残された白髪の輝きが増していくようにも見えた。
「れ、レイジ、今、アタシどうなってんだ。ハゲてないか」
「ああ。ハゲてはないな。ないが。なんというか――――散、髪?」
はあはあと息を切らしながら、カナタがおそるおそる顔を上げた。
その髪は、だいぶ短い。
「うう……ヘンなカンジする……」
もともと髪質がそうなのだろう。彼女がブルブル振って抜け毛を落とすと、彼女の頭のあちこちで、ピョコリと元気良く毛が跳ねて起きる。
「へェ。なんか知らねェけど……」
困惑を残した顔で、彼女は近くの呉服屋のショーウインドーに視線を馳せた。
白いドレスでショートヘアの美しい少女が、そこにいる。青い瞳が数度またたくうちに、彼女に、そして、レイジの傍のカナタに、朗らかな笑みが浮かんできた。
「悪くないじゃん。なあ、レイジ。オマエもそう思うだろォ?」
「あ──え、ああ?」
その瞬間、カナタの笑みが意地悪いものに変わった。
彼女は足元の髪の毛を一握り拾い上げると、レイジ目掛けて思い切り投げつけた。
「ぶおっ!?」
湿った毛束がレイジの顔面に絡みつく。
もがく彼の横をカナタが走り抜けていった。
「わあ!」
「わりい!」
ようやく追いついてきたルリコにぶつかりかけたカナタは、そのまま野次馬の中に飛び込んでいった。
レイジは髪の毛を握りしめたまま、雑踏に目を凝らす。少し離れたところに見える白い頭が、まるで黒い海の中に泳ぎ出していくようだった。
雑踏が動く。カナタの姿が消える。雑踏がまた動く、もっとずっと離れたところに、白いものが見える。
それを何度か繰り返し、カナタの姿が完全に消えた時、
「なんだったのよ、あいつ……ってうわ、レイジ!?」
もじゃもじゃの髪の毛まみれになったレイジが、心臓が引っこ抜かれたようにその場で崩れ落ちた。
「……きらわれた」
「あっそ。ハッキリフラれてよかったじゃん」
代わり映えしない現場の様子に野次馬の群れも飽きたのか、通りは次第に静まりつつあった。だが、そこにカナタはもういない。
「キッチリけじめをつけたら、後はシッカリ前向くだけよ。きっといつか、アンタの気持ち悪さを分かってくれる人が現れるから」
ルリコは言い終わってから、腕組みして考え込んだ。
「ゴメン適当言った。いるかしらね、そんな物好き」
そんな風に励ましているようで微妙に傷つくような言葉を投げかけたところで、ルリコは不意に、むき出しになったレイジの首元に鼻を寄せた。
「……ン、なんだろ」
「どうした」
「アンタ、クサい──ううん。クサいけど、ヤじゃないかな。なんだか古い家に来たみたいな、懐かしい感じ」
レイジには心当たりがあった。
「ああ」
深呼吸して、体に染み付いたにおいを嗅ぐ。
脳裏に浮かんだのは、見たこともないはずの────
「──きっと、海の匂いなんだろう」