海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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4.雨に唄えば(3)

「まったく。無理しちゃダメだよお」

 

 閉鎖されていた市民プールに、彼らは逃げ込んでいた。

 塩素と水気と暗闇。

 湿ったロッカールームの片隅で、レイジは壁際に座り込んでいる。

『ちょっと痛むけど』と言いながら、ボタ子は荷物から取り出した金属のシリンジを彼の心臓に突き立てた。

 

「ごほっ……これ、は……?」

 

 思わず聞いて、レイジは気づく。声が出る。呼吸ができる。

 

「レイジッ!」

 

 固唾を呑んで見守っていたカナタが飛びついてくる。

 レイジは彼女を抱きしめ返しながら、緩やかに再生を開始した肋骨でその体を傷つけないようそっと体を離す。

 

「これは中和剤。レイジちゃんに注入されたナノマシン──Nullifier(ナリファイアー)404の働きを抑えて……そう。抑えて、楽にしてくれる」

「なのましん?」

 

 カナタは首をひねる。

 これもまた、どこかのSF映画で聞いたかもしれないが、よく覚えていない。

 そんな彼女に向かって、ボタ子は微笑みかけた。

 

「ちっこい兵隊みたいなヤツさ。そいつらがレイジちゃんの体の中で暴れて、食い荒らして、治す力を止めている」

「ンだとお? 許せねえ、このやろ! このやろ!」

 

 カナタが「このへん」と目星をつけて、レイジの体をぺちぺち殴る。

 胸板に赤い手形を浮かび上がらせながら、彼は微妙な表情だ。

 血管を流れるサイズの微小機械をどうにかするなら、叩くよりレイジの体を一ミクロン圧にプレスしたほうが確実だ。

 その場合、もっと大変な問題が浮上するが。

 

「あっはっは。そうそう。叩いて叩いて。叩くとお肉柔らかくなるしね」

 

 ボタ子は豪快に笑うが、レイジはまだ、具合が悪そうだ。

 再生力はいつもの一パーセントといったところ。体は重く、めまいもひどい。なにより全身を内側から焼く炎の熱が、さっきの中和剤の量では不十分だということを伝えてくる。

 レイジは依然として重傷者だ。

 

 そして──彼よりも、もっと酷い重症患者が、彼の真横に寝かせられている。

 

「レイジちゃんがいきなり走り出した時はびっくりしたよ」

 

 ボタ子に抱えられて戦場を移動していた彼は、ビルの隙間にあるものを見つけた瞬間、破壊された体がうそのようにもがき、体を降ろさせた。

 呆然とする彼女たちの元に彼が戻ってきたとき、その腕の中には一人の少女が抱えられていた。

 

「ひゅうう……ひゅうう……」

 

 それはマリコ──のはずだ。

 中途半端に雨を浴びたせいか、体の変異も半分で止まっている。苦しげに呼吸を繰り返す彼女は、顔半分を覆う黒い薄膜の下で眼球を動かし、レイジの姿を見た。

 レイジは彼女の手を取る。

 脈を感じない。どうして生きているのかも分からない。

 それでも、彼女は手を握り返してくる。黒い血管の浮かび上がった手の甲を親指で撫ぜると、弱々しい笑みを浮かべてくる。

 

「レイ……さ……きて……くれた……」

 

 それから彼女は湿った咳をして、いくつか黒い泥の塊を吐いた。

 レイジはジャケットを脱いで、彼女の足にかけてやる。膝から下がない。彼女は奇跡的にヒトとしての原型をとどめていたが、それも時間の問題だ。

 切断面からじわじわと黒いもやが、そのスカートの中に伸びていく。

 手の施しようがない。この場の全員がそう思って、そして口に出さないだけの優しさを持っている。それが、この暗いロッカールームに漂う空気のどうしようもなさに拍車をかける。

 

「ウチ……おウマさんに、なりたかったんス……」

 

『大規模消去まで、残り一二〇秒──』

 

「映画に出てくるステキなおウマさんで……」

「マリコ、しゃべる、と──」

 

 カナタはその先を続けられない。

 それはもうじき死ぬ人間にかけてやる言葉だ。

 

「おねえを背中に乗せて、どこまでも。本当に本当におねえが行きたいって思う場所まで、ひとっとびに……ばかだな。ウチ、もう、走ることもできないのに……」

「マリちゃん」

 

 カナタに導かれてマリコの手を握ってやりながら、ボタ子にはかける言葉がない。

 この状況を作り出したのは彼女だ。

 時折、銃撃の音が遠くから聞こえてくる。パラパラとした軽い音がビルの合間を縫って届くたび、どこかで何かが壊れ、そして殺されていく。

 消去二分前にして棘皮人間の数はますます増していく。たまに、ロッカールームの曇り窓の外を、黒い人影がヤモリのように這っていく。

 ここにずっといるわけにはいかない。

 

「レイジちゃんの症状なら、治す手立てがある」

 

 その言い方が()()()()()()()()()に対する残酷なほのめかしだと気づいて、ボタ子は顔を歪める。

 幸いなことに、マリコは眠りについていた。

 生と死の境で彼女の意識は夢うつつを反復横飛びしている。カナタはレイジから離れて、マリコをきゅっと抱きしめる。

 少しでも安らかに眠っていてほしい。

 

「……この中和剤は『ムナカタおじさん』が用意したもんだ」

 

 その名前を聞いた瞬間、レイジが顔を上げた。

『施設』での記憶がフラッシュバックする。白髪の、初老の科学者。偏屈そうな顔だったが、いつもにレイジに笑って接してくれた。

 

「ムナカタ、おじさん……」

「レイジの体をこんなにしたっていう、悪いヤツ?」

 

 カナタの方も聞き覚えがある。サイアクなことに、ナノマシンなんかよりもずっと馴染みのある名前だった。

 レイジの頭を切り開いて、ミキサーを突っ込んで、十年分の記憶をまるっと溶かしてシンクに投げ捨てたマッドサイエンティストだ。

 

「あたいが会ったのは『代理』って名乗る女だったけどね」

 

 レイジは戸惑い、カナタは怒りを顔ににじませる。

 

「つまり防衛局にいけば、レイジの中和剤のストックがまだあるってコトだよな?」

「そゆこと。つっても七年間のイカれた研究の産物だからねェ」

 

 場所とか心当たり、ある? 目で聞いてくるボタ子を前に、レイジたちは顔を見合わせる。

 A-6500シャフト。ムナカタの根城だった場所だ。

 

「場所の目星がついても……イヤんなっちゃった局長が火曜日にゴミ出ししてないことを祈るっきゃないねえ……」

「テンチョーは片付けへたっぴだし。ダイジョブだろ。アタシが働きはじめの酒屋すげかったかんな。ゴミの万国博覧会」

「俺は……」

 

 レイジが不意に口を挟んできた。

 マリコを除いた二人が、彼を見つめる。彼はようやくふさがった胸を、じいっと見つめていた。

 そこに、かすかな決意を見て取れる。

 

「俺は、このチャンスに町を脱出するべきだと思う」

 

 ピチャッ──文字通り水を打ったような静けさの中に、蛇口から滴った黒い水の音が大きく響く。

 

「おねえ……」

 

 マリコは彼の手を握ったまま、なにか夢を見ているようだった。

 

 ■

 

「いっ──ったああ!?」

 

 背後から首筋にズブリと太い針を刺されて、ルリコは飛び上がった。

 

「すません。急いでたもので」

 

 小型の注射器が、キリエの手に握られている。

 鋭利な先端から滴る青色の薬剤が、マンションのベランダに落ちて、コンクリに染みをつくる。

 

「ぶ、ぶぶぶ、ぶっころ……それ、ヤク、ヤク、ヤクじゃない!」

 

 いきなりヘンな薬をブチ込まれたルリコは、首を押さえてその場にへたり込む。

 おかしなことになった空をあほうのように見上げていたところを、いきなりだ。

 キリエのゴミ屋敷とはいえ、いちおう屋根のある新居での生活ということもあって、完全に気が緩んでいた。

 

「記憶消去の効果を打ち消す薬剤です。取り急ぎ、念のため、ズブリと」

「はあ? なんでンなもん……」

 

『大規模消去まで────残り、三〇〇秒』

 

「っ」

 

 空を睨む、キリエの目つきが変わった。

 ぽつり。はるかはるか上空、ドームの天井から滴った一滴が、二人の間で小さく広がった。

 黒い、ヘドロのような雨。

 それが、ナメクジのように地面を這う。キリエは勢いよく足を振り下ろし、それを踏みにじった。

 

「ルリコさん、中へ!」

「あっ、ああん、もう、なんなのよ!」

 

 キリエの足の形に陥没したベランダに思うところはあったが、とりあえずルリコは従う。

 ピシャリとキリエが戸を閉め切った瞬間、本降りが始まった。

 白昼から暗闇へと変わった世界。赤いメッセージの羅列が見下ろす空の下に、タールの雨が降り注ぐ。

 

 ザ────ッ

 

 光はなく、ガラスと外壁を叩く雨の音だけがゴミ部屋に響く。

 詰まった配水管のせいで、上階から滝のように水が流れ落ちる。その色も、黒だ。途方もない死の色が、マンションの外に広がる風景を押しつぶしていく。

 

「ルリコさん」

 

 はっとなってルリコが振り向いたとき、キリエはそれまでのダルダルスウェットから着替えを済ませていた。

 ハーネスにいくつもの武装が吊るされた、黒いボディーアーマーだ。

 彼女は左腕を覆うグローブを外し、機械のボディを教え子の前にさらけ出している。

 彼女はホルスターごと、一丁の銃を彼女に手渡した。

 

「部屋から出ないで。雨には触らないで。じっとしていて。これは念のため。いいですか、念のため、です」

「ふゥン……」

 

 どことなく必死な様子のキリエから銃を受け取って、ルリコはホルスターから抜く。

 不思議と女性的な印象を受ける、小ぶりのハンドガンだ。黒光する金属製のスライドにWaltherの文字が刻印されている。

 ルリコは片手で銃を持ってスライドを引く。そうすると薬室内の銃弾がコンニチワだ。正常に弾が入ってる。この銃は撃てる。

 不自然なほど手馴れた動きでチャンバーチェックをする教え子を、キリエが複雑な表情で見守っていた。

 

「これやると、いいんでしょ」

「はい」

 

 キリエは何か言いたげだったが、それを飲み込み、ルリコに背を向けた。

 

「私は出ます。どうかバカなことだけは──考えないでください」

「はいはい。キリちゃんもね」

「私はこれまでバカしかしてませんよ。今日だって、きっとそんなんです」

 

 それは祈りに近い気持ちだった。

 キリエは玄関を開ける。一面の黒が彼女を出迎えた。

 ゆっくり閉まりゆくドアの向こうで、彼女が手すりを乗り越えるのが見えた。ここは五階だというのに。

 そうしてルリコは部屋の中に取り残される。

 ここは安全なのだろう。なんだかんだで子供たちを溺愛するキリエが一人残していくというなら、それなりの理由があるはずだ。

 現に、窓から見える町並みは暗闇に飲まれていても、この部屋には電気が通っている。

 バッテリーか発電機か、独自の電力源があるようだ。

 となれば、行動開始だ。

 

「さあて、と……」

 

 雑多に脱ぎ散らかされ、床に撒き散らされたキリエの『抜け殻』を指でつまんで、どかしていく。

 その奮闘がしばらく続いた後、まるで白亜紀の地層から化石が見つかるごとく、据付の電話機が姿を現した。

 大量の留守電がそのままになった電話から靴下をひっぺがし、彼女はマリコの電話番号を必死に思い出す。

 先生はバカなことをするなと言った。

 かわいい妹を思って動くのは、決してバカげたコトではない。

 

 ■

 

「これから、シャフトを目指してもう一度地下に潜る」

 

 棘皮人間に気づかれぬよう、レイジは声を潜めて話す。

 

「んでもってムナカタの作った『中和剤』をイタダイて──」

 

 カナタが腕組みする。このドサクサに紛れて町を出て行くのは気が引けたが、確かに今は防衛局も大忙し。コトを起こすなら絶好のチャンスだ。

 

「あたいらはルリコちゃんの教えてくれたルートで脱出、と」

「う……おねえ……?」

 

 ボタ子の口から出た名前に、マリコが反応した。

 彼女の状態はどんどんひどくなっていく。彼女からは致死性の液体が染み出し始めており、ただの人間のボタ子ではもう、近づくこともできない。

 

 ゴツッ……

 

 外につながる廊下から物音がした。

 かたいカギ爪が、床を削る音だ。音は徐々に連なり、彼らは、ひしめく怪物たちの気配すら感じ始めた。

 無数の足音が廊下に反響するのは、なんだか教室移動でごった返す五限目をカナタに思わせたが──錯覚だ。ここは地獄で、あの日常にはもう戻れない。

 

「アタシ、ルリコを残してくなら反対だ」

「ああ。俺もだ」

 

 うなずきを交わす二人を見て、ボタ子は考える。

 

(美しい友情だけど──そううまく、いくかねえ)

 

 町は大混乱。ルリコの居場所はようとして知れぬまま。

 加えてここは、中心街だ。彼女を探すために遠くに足を延ばせば延ばすほどシャフトから離れ、混乱は収束に向かう。

 理屈で考えれば、大人しくついてくるかどうかも分からないルリコのために『中和剤』から遠のくのはノーだ。

 だが、

 

「あたいもそう思う。ルリコちゃんが何つっても、引っ張り出して、外見せたげようよ」

 

 彼女が不敵に笑う。

 リスクがなんだ。ルリコちゃんはあたいらの落第阻止のために人生投げ出してくれたんだ。デカすぎる恩をチャラにできるいいチャンスじゃないか。

 三人は改めて顔を見合わせ、力強い頷きを交わした。

 

「これ……もってって……」

 

 そこに、一台のケータイが差し出される。

 

「ウチにはもう、いらない……から……」

 

 今にも折れてしまいそうなほど腐食した手を取って、レイジはケータイを見つめる。

 

「あきらめ、ないでくれ」

「ふふ……もういいスよ。助からないって、分かってるスから……」

 

 死の間際だからこそ、だろうか。

 それまで朦朧としていたマリコの意識は、これまでになく鮮明だった。おウマさんにはなれなかった。姉を乗せて飛ぶことはできなかった。

 でも、最後に託すことはできる。

 

「これで、おねえを、外に連れて行って」

「マリコ。オマエ……」

「カナタぱいせん。レイジさんのコトよろしく。んでもって、ボタ子センパイ……」

「ん」

 

 どんな恨み言を言われるだろう──そう思って跪いたボタ子に、マリコはただ、笑みを向ける。

 いいよ、許すス。だってトモダチすから。カナタの目にもレイジの目にも、彼女の目がそう言っているように見えた。

 

「最後に、レイジさん……ありがと。やっぱ、ウチのヒーローは……一番辛くて悲しいときに駆けつけてくれるのは、レイジさんだった……」

「お……俺は、俺は何も!」

 

 ヒタ──レイジの頭を抱き寄せ、マリコは彼の眉間にキスをした。

 

「全部うまくいって、幸せになれるおまじない……」

 

 レイジの顔に、タールにまみれたマリコのキスマークが残る。

 この先果てしない雨と涙によって、すぐ洗い流されたとしても、彼の心にずっと刻まれる。祝福で、これ以上ない呪いだ。

 

「最後にひとつ、頼みがあるスよ」

 

 棘皮人間たちの足音は、すぐそこまで迫っていた。

 

「出て行って……しばらく、耳をふさいでいてほしいス。ウチ、前も言ったけど、クズなんで。死ぬって思ったら何叫ぶかわかんない……」

「マリコ。俺は見捨てない。最後まで──」

 

 マリコはレイジにケータイを押し付ける。

 その隣で何か言おうとして、涙ぐんでいるカナタを見て、彼女は冷え切った心が温まるのを感じる。

 

「ウチはここがゴールでいい。重荷を背負わせるくらいなら、その力で、もっと遠くまで飛んでほしい。バッドエンドなんて、ウチはもう、たくさんス」

 

 マリコはへその辺りまで上ってきた汚染が腹の中をかき回すのを感じながら、息を吐く。

 トリガー。クソ映画のバカ馬。予算の都合で飛べなかった、哀れなオートマトン。

 自分も一緒だ。彼女は考える。幸運(よさん)が足りなかった。だからウチの人生を見る観客は、きっと『ああ、やっぱクソ映画だったな』と言うはずだ。

 でも分かってほしいス。ウチだって、飛びたかった。

 

「くやしい、なあ……」

 

 ああこれ言っちゃダメだったな──そう思った瞬間、マリコの呟きを、怪物たちの足音がかき消した。

 

「マリコ。これ……」

 

 折りたたまれた布を渡してくるカナタを見て、マリコはつい、笑ってしまうそうになる。

 泣くまい、だせーところを見せるまいという頑張りが、そうさせてしまうのだろう。整った顔立ちをパグのようにぐしゃぐしゃにシワ寄せして、彼女はしゃっくりをする。

 

「これ、アタシがキツい時、ルリコに巻いてもらった……オマエに、返しとく。から」

 

 うっすら黒いシミが残るスカーフだった。

 カナタが首のアザを隠せるようにと、ルリコが渡してやったものだ。震える手でそれを掴んだマリコは、ほとんど塞がった鼻に当て、吸い込む。

 ルリコのにおい。そして、カナタの残り香。これから先、ずっと彼女たちが傍にいてくれる。

 

「じゃあマリ……」

 

 ぐじゅっと、カナタが鼻をすすった。

 

「……ああああ! やだあああ!」

 

 堰を切ったように彼女が泣き出したので、マリコも泣きそうになる。

 

「アタシらが何したってんだよ! アタシらが幸せになっちゃいけねーってのかよお!」

「センパイ」

 

 でも、泣くわけにはいかない。死ぬのが怖くて、感情にフタして、ようやくマリコは笑っていられるのだ。

 アイサツは大事──楽しい時間が終わるなら、笑って送り出さなきゃいけない。

 カナタの両肩を掴んでそっと離すと、マリコの胸との間にカナタの鼻水がつーっと糸を引いた。マリコは崩壊した顔で笑う。もう大丈夫、ウチはないたりしないから。

 

「ありがとう……ほら。しんみりおしまい。ばいばい、三人とも」

 

 レイジはそれからも頑固だった。

 踏ん張る彼を、カナタとボタ子が掴んで、引っ張っていく。

 

「おして……やろうカ」

 

 その背中に、マリコがつぶやくと、彼の体が軽く震えた。映画『焼失』の別れのセリフだ。

 燃える星に落ちる男にかけてやるセリフが最後だなんてつくづく不吉だが──マリコは旅の無事を、心から祈っている。

 

「じゃあ……頼む」

「いってらっしゃい」

 

 それから彼は俯いて、二度と振り返らなかった。

 彼らの姿がロッカーの影に消えて、足音がどんどん遠ざかっていく。その代わりに怪物たちの気配を強く感じた。

 彼らのさきぶれのように、ドロリとした黒いタールがロッカールームに流れ込んでくる。

 指の股に触れるタール感じながら、マリコは夢想する。

 トリガーに翼があったなら。あれのボディーが金色なのは、宇宙の闇を駆け抜けるためだ。まさしく彗星のように。

 滅びに向かうジャックに、ピンチに駆けつけた相棒の姿がよく見えるように。

 

「ア……んんっ……『ヘイ、なんてツラしてんスか。冗談スよ、ジョーク』」

 

 □

 

 燃える星が、遠ざかっていく。

 これまでの戦いで致命傷を負ったおんぼろオートマトンが、満載した荷物と、自らの部品をバラ撒きながら飛んでいく。

 彼には翼がある。

 彼はどこまでもいける。

 

トリガー

『冗談スよ。ジョークジョーク。ほら、いつもみたいに俺のジョークで笑って、泣いて、でもって旅を続けるっス』

 

 ジャックは彼に襟を噛まれて、なすすべもなく運ばれていく。

 信じられないものを見た顔をしていた。彼の相棒はアホでバカでどうしようもないヤツで、おまけにドライだ。

 最後の最後に、とんでもない動作不良を起こしてしまったのか? 

 

ジャック

『離してくれ、俺はもう──』

 

トリガー

『忘れてないスか。プリンセス・ゴールデンのこと。きっと今でも泣いてるス』

 

ジャック

『あの子はもう、俺を忘れてるはずだ』

 

トリガー

『ちょーっと違うんじゃないスか。それは、あんたが忘れてほしいだけス』

 

 金色の彗星は、宇宙の無限にいななきを轟かせた。

 

ジャック

『俺は疲れたし……どのツラ下げて会えばいい。そんな恥ずかしいことはしたくない。終わりにしたいんだ』

 

トリガー

『醒めて諦めることは、大人になるのとはぜんぜん違う』

 

 ジャックは、トリガーに別の何かが乗り移っているような気がする。

 半分は彼の相棒のまま、もう半分は──少女、のような姿が被って見える。短く切った黒髪を宇宙風に揺らしながら、小麦肌の少女は白い歯を見せて笑う。

 

トリガー

『最後の最後に想いを伝えないままなんて、クソじゃないスか。さあ、オリオン王国まではたったの1000光年。このスピードで飛べば、ウチがバラバラになる前に──』

 

 ■

 

「まえに……」

 

 マリコは夢から醒める。

 塩素と、ロッカールームが彼女の前に広がる。

 ヘドロは床一面多い尽くし、彼女の腰から下の感覚はすでにない。ゆっくりゆっくり黒いタールに飲み込まれながら、マリコは理解する。

 ここに、クラスのみんながいる。

 

 このヘドロは、人間を溶かしてひとつにするものだ。

 何もかも溶かしてひとつに。別のものに作り変えやすいように、それを粘土のようにこねてまとめる。

 心も──彼女にとって実在が疑わしいものだが、きっと魂も。

 

「ああ……おねえ……」

 

 声に出してしまった瞬間、のどの奥で何かが決壊したような気がした。

 

「おね……おねえーッ! 姉さん! ウチ、私、いやだ……! いやだよお、死にたくないよお!」

 

 太く、黒い足の列がマリコの元に向かってくる。

 はじめて間近で見る棘皮人間ははるかにおおきく、そして恐ろしかった。

 

 

「まだ楽しいこといっぱいしたい! これからなのに! これから最高の連続なのに! いやだ! いやだーッ!!」

 

 彼女を取り込み、ひとつになろうと。そこにきっと、苦しみはない。喜びも、彼女がようやく手に入れたほのかな恋心ですら。

 無がくる。無が待っている。

 

「レイジさ……!」

 

 外の豪雨の中を駆け抜ける彼に、その叫びは聞こえない。

 降りしきる黒いタールが、彼の頬に涙の筋を描いていた。

 

 大規模消去が始まる。

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