──約束は要らないわ。
──果たされないことなど大嫌いなの。
カーステレオが大音量での宇多田ヒカルの名曲『MOVIN’ON WITHOUT YOU』をタレ流していた。
今ルリコが操るバンは衝動に突き動かされる一匹の獣だ。右に左に、荒れ果てた都市風景のなか、迷宮に出口を探すイノシシのように首を振る。
「うげェーッ!?」
ルリコがハンドルを切ってドリフトする。
バンの車体は黒い土砂降りの中で横滑りし、炎上する装甲車を取り巻く棘皮人間の群れをよけて直角にスライドする。
その瞬間、カナタのひしゃげた悲鳴が迸る。
彼女の隣にはレイジ。その更にとなりにはボタ子。カーブの際、窓際にいるカナタには、二人分の体重が押し付けられることになる。
プレスされてペチャンコになったカナタを見据えながら、ルリコは手を休めない。
「カナタ、ちょっと目を離したら……おっとと」
古びたタイヤは悲鳴を上げ、タールで溢れる路面をかき回す。
ルリコが魔術師のような手さばきでサイドブレーキを操作すると、クソみたいなクリーム色のバンは大きく転回した。
くるくる回って怪物たちを跳ね除ける。遠心力。ボタ子の筋肉質な体。レイジの冷や汗まみれの上半身──それらの重みがすべて、一点に集中する。
「おげーっ!?」
ぺちゃんこに押しつぶされたカナタが、元気いっぱい悲鳴を上げる。
遠心力でキリエが車内に呑み捨てたカンやビンが飛んでくるので、本当に危ない。
リアタイヤをロックしたバンはドギツいUターンをかまし、ついでに車体の尻に取り付いた怪物たちを振り払う。
タールのぬかるみにタイヤをとられつつも、バンはそのまま急発進。
投げ出された怪物たちは、それをボーっと見送ることしかできない。
「ちょっと見ない間に元気になったね。よかったじゃん」
「い、今しにそう、だけどな……」
ガラスにへばりついたカナタがキュキュキュ……と音を立ててはがれるのを見ながらルリコは笑う。
一方で、調子の悪そうな男がいる。彼の目はうつろだった。クルマの動きに合わせて上半身はガクガク揺れて、千切れてしまいそうだ。
「そっちはヤバそうね。すっごくすごく」
レイジはグッタリしたまま頷いた。
彼の上腕で圧殺されかかったカナタも、今ばかりは彼の顔を覗き込んで、心配そうにしている。
その腕にかけられたブレスレットを見つけて、ルリコはカースタントの最中にも関わらず微笑んでしまう。
しかしルリコの表情は、一瞬で生徒会長のものに戻った。
「ボタ子」
「うん」
いつになく神妙な顔をしていたボタ子は、直後バンが急制動を行ったのであわててレイジの体を押さえた。
パパパ、とバンのフロントガラスに弾痕が走る。撃たれたのだ。
「うざったいわね!」
致死ナノマシン弾が顔のすぐ横を掠めてシートに命中したにも関わらず、ルリコの顔に焦りは見えない。
かわりに、ハチ切れんばかりのイラ立ちをもって歩道に展開した『銀合羽』の集団を睨む。
ロックオン完了。アクセルベタ踏みレッツゴー、だ。
「ボタ子……アンタの話をまとめるわよ。まずアンタはこいつらの仲間」
「だった。だよ」
「あーそうだったわね。アンタが皆殺しテロに加担してたことは置いといてあげる。今は」
「うわルリコ、ちょっ、待ッ──!」
歩道に向かって、ルリコはバンを突っ込ませる。
植木をなぎ倒し、不法駐輪の自転車の列をひき潰し、クリーム色の猛牛が『銀合羽』たちの前に降り立つ。
「ヨシもザワちんもミスターXの手先ってことね。しかも、あろうことか、狙いはレイジ。いい年こいた大人が、男子高校生の体目当てって。終わってるわね」
車体は激しくバウンド。旧式の電気自動車はブルドーザーのように作りが堅牢だ。分厚いグリルとボンネットの上で銃火が火花を踊らせるが、ものともしない。
そしてバンは一人の『銀合羽』に狙いを付けると──
ゴッ、トン。バンが何かに乗り上げた。カナタが青ざめ、ボタ子が「うええ」と顔をしかめ、レイジが力なく首をもたげる。
甲高い悲鳴が聞こえた。運悪くバンに両足を踏み砕かれた『銀合羽』の一人が、バックミラーの中でブレイクダンスを踊っている。
「レイジの体がこんなになってるのは、ナノマシンを撃ち込まれたから。よね」
「そうさ」
ガッ──モーターの回転数が上がるときの、獣の猛りにも似た駆動音。
バンはグンと加速し、歩道に展開した残りの『銀合羽』の列を丁寧に丁寧に蹂躙する。
戦闘不能者を大量生産すると、ルリコは鋭くハンドルを切る。バンは満足したようにうなり、木製のベンチを踏みつけ、再び道路へ。
車内はロデオ。レイジはグッタリ。カナタはゲロゲロ。ボタ子は半笑い。スカッとした顔をしているのは、ハンドルを握るみんなの規範、ルリコちゃんだけだ。
「それを戻すのが『中和剤』と」
「ああ」
真昼の暗黒に赤いテールランプを尾のように引いて、バンは包囲網を抜けて走り去る。
気持ちがいいほどのやりたい放題、暴れたい放題だった。
「つまりアンタらの計画は、このドサクサの中でそれを手に入れて、町とオサラバ──これで間違いない?」
「ああ……うっ、ごほっ……そうだ」
レイジが吐血した。
彼のタンクトップの胸元が赤く染まり、車内に立ち込めた血錆と膿のにおいでルリコは顔をしかめる。
驚くことだ。あのレイジが、まったく使い物にならなくなるとは。
「なんとかならないのか。レイジが辛そうだ。もう、みてらんない」
「あたいもさ……」
二人に手を握られたレイジと、ルリコはルームミラー越しに目を合わせる。
彼は断固として、首を横に振る。
いつもなら『私、エスパーじゃないんですケド』と切り捨てるところだが、今のルリコのは彼の考えていることが分かる。
「──『中和剤』が手に入らなくても、俺はかまわない」
断末魔の苦しみが永続しても問題ないと、彼は言ってのける。
「そうもいかないんだよ、レイジちゃん」
悲痛な表情でボタ子が首を振った。カナタが彼女のほうに身を乗り出してくる。ルリコが静かにカーステのボリュームを絞った。
低いノイズとエンジン音と、レイジのうめきの中にボタ子は取り残される。
彼女は殺戮者のうちの一人だ。尋問されるいわれは、十分にある。
「さっき『死ぬよりひどいコト』になるつってたよな」
「そうさ。中和剤の投与にはタイムリミットがある」
ガタン。
横倒しになった標識の支柱に乗り上げ、バンが跳ねる。
ワイパーで切り取られた黒景色の向こうにルリコが目をやると、中心街のビル郡はかなり遠くに離れてしまった。
ルリコが運転するバンは、猛獣のように暴れまわりながら、郊外に向かっていく。町の出口から遠ざかっていく形だ。
この状況が続くのはマズい。
「時間が……関係、ある、のか?」
「ん」
苦しむレイジの頬に手をやって、ボタ子は彼の瞳を覗き込む。
眼球が揺れている。ひどい熱病に冒されたように、彼の意識は朦朧として、ろれつがうまく回っていない。
「ナノマシンは強力だけど──レイジちゃんを殺すほどじゃない」
「そうなのか!? だったら」
つかの間顔を輝かせたカナタは、ボタ子の纏う重苦しい沈黙を見て、口を閉ざす。
彼女は死刑宣告をするかのように、一言一句、ゆっくり、はっきりと告げ始めた。
「レイジちゃんの体は、最終的に壊れた部分を全部放り出して、新しく作り直すことを選ぶはず。つまりナノマシンに侵された脳や脊髄の一部──それを切り離して、ゼロからやりなおすんだ」
「それの、なにが……」
「記憶。でしょ」
ぽつり。怪訝な顔のカナタを差し置いて、ルリコが口を挟んだ。
「『レイジをレイジにしているもの』がポイ捨てされる──それがアンタの言うタイムリミットってことでいいかしら、ボタ子」
「ああ。そうだよ」
落ち着いて、抑揚のない声だった。
ルリコは正面に広がる住宅地と、緑色のライトで照らされた商店街の看板を見据えたままだ。
表情には、凄まじい険がある。
レイジがこうなってること。彼が取り戻し始めた『にんげん』がまたしても失われようとしていること。
ボタ子は、やる瀬のないルリコの怒りが運転席のシートを着きぬけ、自分に突き刺さってくるのを感じる。
「俺が、カナタのことを……みんなのことを、忘れる?」
レイジが呆然とつぶやいた。
「そうだね。それが真のゲーム・オーバー。レイジちゃんはまた、まっさらな男に戻るんだろうね。この夏に起こったことも、あたいたちのことも、カナタちゃんのことも、全部なくして、取り戻せない」
レイジはボタ子の言葉を聞きながら、口元を押さえた。
吐きそうだった。失うことが怖かった。ボタ子の思いやり、ルリコの本音、フミオへの憤り。卵焼きの作り方に、カナタの笑顔──すべてをなくしてしまう。
「レイジちゃん……」
肩にかかるボタ子の手の感触も、棘皮人間をハネ飛ばして揺れるバンの動きも、今の彼にはとことん遠い。
からっぽに、戻りたくない。
せっかく取り返した『にんげん』をなくしてしまうのが、怖くて、切なくて仕方がない。
「カ」
隣のカナタを見て──レイジは言葉を詰まらせる。
彼女は頭を寄せ、無精ひげが生えた彼の顎にオデコをぐり、と押し付けた。膿と海、血と花の香りがする。
そのにおいは彼の『にんげん』の香りだ。
これを呼吸しても何も思わなくなってしまう。レイジは冷たい氷風呂に突っ込まれて、自分がバラバラになっていくような感覚を覚える。
「カナ……ぶおあっ!?」
脳をじりじり焦がすナノマシンの動きを感じていたさなか、パンと快音を響かせてカナタの平手がキマった。
「おいレイジ。アタシをよっく見ろ」
えぐれたレイジの頬を両手で抱き、カナタは自分に向ける。
彼には、カナタの青い瞳とうねる白髪しか見えなくなる。彼をいざなうもの──そして、彼の
「アタシのこと、忘れるなんてゆるさない。だから、アタシがぜったいにオマエをたすけてやる。シャフトにいってクスリを手に入れて、一緒に海に行く。これだけ考えてろ」
「そうね」
ルリコが、うなずく。
「私も手伝う。アンタたちの旅についていってあげる。でも──」
彼女はミラーを見た。
その先は、カナタの手元だ。外の黒い雨を吸ってぐっしょり湿ったぬいぐるみたち。そして、彼女の手に握られたケータイへと、ルリコの視線が向けられている。
「忘れんじゃないわよ。クラスのみんなのこと。そしてマリコのこと」
路上に転がったサナギをよけて、ルリコが急ハンドルを切る。
慣性。カナタの首が横に転げ、窓ガラスでゴチンと音を立てる。
「あ、ごめん。痛かった?」
くすくす笑うルリコに、カナタは答えられない。彼女のゲンコツを食らって、問いただされている気分だった──どうして黙ってるの。いつまで、あのことを隠しているつもりなの。だってトモダチでしょ、私たち。
「そのケータイ、どうしたの?」
「マリコが……くれた」
「ギャルの魂を? まって。私、あの子置き去りにしちゃった?」
「あ、あの、マリコはな……もう……」
「ルリコ」
うなされるような声で、レイジが体をもたげた。しなだれかかるように彼が運転席のシートに体を預けると、ルリコがちらりと彼を見る。
「運転中。カナタの前で私とイチャつくと、殺されるわよ」
ルリコは冗談めかして笑うが、レイジは付き合ってやれない。
重苦しく押し黙る後部座席をよそに、ルリコは笑いながらハンドルを操る。彼女は知らない。心をつないだAクラスが全滅してしまったことも――妹のマリコが暗いロッカールームの隅で眠っていることも。
その夢の終わりが、目の前に来ていることも。
「こんな町にいたんじゃ死んじゃうかもだし。いっそクラスのみんな引っ張ってってビーチで豪遊ってのも──」
ルームミラーを覗きながら、ルリコは口を大きく開いて笑う。
そこに、カナタはマリコを感じてしまった。
「あ……」
「ん。なあに?」
カナタは言いたいことが言えなくなってしまった。
妹。マリコの死。クラスみんなが黒い水に呑まれて死んでいったこと。カナタとレイジ、そしてボタ子の共有する沈黙が──ルリコにブレーキを踏ませた。
キイーッ
しぶきを上げながら、バンは前にのめって停車する。
「ああ…………そういうコト……?」
下唇を噛むカナタを見て、ルリコはカーステの電源を切る。
――とまどいながらでも愛してほしい。
――そんなこと言わなくても、分かって――
歌姫の声は余韻すら残さず消え、天井を打つ黒い雨の音だけが、クルマの中に響き続ける。
だれも何も言い出せない車内で、室内灯の暗いオレンジにルリコの肩が照らし出されている。
彼女は天を仰ぐように大きくのけぞり──ハンドルに、頭からぶつかる。
ビ────ッ
甲高いクラクション。長く、長く、彼女が押し殺し続けた悲鳴の代わりのように、地獄の町に鳴り響く。
ルリコは突っ伏したまま、ハンドルを叩く。何度も何度もゴツゴツと振り下ろされる握りこぶしを止めることは、誰にもできない。
レイジは、ほっそりとしたルリコの背中を見つめる。
彼女は仲たがいした妹と向き合い、分かり合い、そして、三日とたたず彼女を失ったのだ。
「レイジ、手」
ルリコに言われるがまま、彼が太い腕を差し伸べる。
彼女はその手のひらを握って、抱いた。骨が折れるくらい。本当に折れたかもしれない。だがレイジも、ルリコも、何も言わずにじっとしていた。
雨が、強まる。
バタタと天井を叩く死の水の中に、あまりにも弱々しく、ルリコの吐露が混ざりこむ。
「みんなで頑張って平方完成覚えたのに……ムダになっちゃったわね……」
搾り出すように言った彼女の顔を確かめることはできない。