海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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5.たった一度の、ささやかな夢(ロマン)(1)

 割れて砕けたフロントガラスが、天井を覆っている。

 ルーフに溜まった細かなガラスはうっすらと緑色を帯び、遠い海を思わせた。カナタはイカれた状況の中で、少し、思いをはせてしまう。

 

「ねえ、カナタ……生きてるって、不思議なことだと思わない……?」

 

 出し抜けにルリコが切り出した。

 

「ンだよ。マジでいきなりだな」

 

 返すカナタは、どこか不機嫌だ。頭に血が昇らざるを得ない状況にあるせいだろうか。とにかく二人とも髪の毛を逆立てたまま、話は続く。

 

「マリコがあんなコトになったってのもあるケド。一番そう思うようになったのは、アンタがもう死んでるって聞いたとき」

「アタシじゃねえ。死んだのは『オモトカナタ』だ」

「それよ」

「どれだよ」

「アンタは昔のアンタ──つまり『オモトカナタ』を他人のように語るワケだけど、認識としてはご本人さまなんでしょ?」

 

 カナタの答えはイエスでも、ノーでもない。

 ルリコの言うとおり、自分は『オモトカナタ』だと感じている。父親にブチのめされ、どっかでのたれ死んで、気づけばこの町に移動していた。

 だが、カナタの脳裏によみがえったかつての自分は、もっと卑屈で内気な少女だった。

 とてもじゃないが『オモトカナタ』には、マリコのほっぺたをパンチする勇気なんて持てそうにない。

 今の彼女は明確に違う。独立した、何かになりつつある。その道の途上だ。

 

「とにかく死んだらそこで終わり」

 

 肩に食い込むシートベルトに顔をしかめながら、ルリコは続ける。

 

「アンタが昔の自分を気に入ってようがいまいが──『オモトカナタ』はそこで終わった。アンタは『イスルギカナタ』として生きるべき。じゃないかしら?」

 

 後部座席でブラ下がったカナタから、ルリコの表情は伺いがたい。

 それでも自分を刺してくる水銀のような眼光で、彼女がこちらを見ていることは分かった。

 手向けのようにTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT(ミッシェル)の曲を唄っていたときのにぎやかさは、彼女にはもうない。花火のあとの余韻のような静けさを纏って、語りかけてくるだけだった。

 

「ああ。アタシは『イスルギカナタ』。オモトカナタはもう死んだ」

「そう。アンタは『イスルギカナタ』。そこでブラ下がってるデカブツの家族」

「……あのおう」

 

 ボタ子が、言い辛そうに話に割り込んできた。

 

「もうそろそろ、降りないかい?」

 

 彼女は三日経ったイカスミスパゲッティのように伸びきり、絡まったシートベルトの塊と格闘していた。

 カナタもルリコも哲学的な話に夢中で意識の外だったが、そこに、レイジがグルグル巻きになって吊られている。

 商店街の店を次々ブチ抜き、とうとう暮酒店に突き刺さったバンは見事に横転してついにエンスト。ここまでのやり取りは、すべて死んだ巨獣の腹の中での出来事だった。

 

「よっこら……せ!」

「カナタ。年寄りクサい」

「しゃあねえだろ。アタシってじっさい二十四歳なんだぞ。オマエの年上だぞ」

 

 それからどうにかこうにか、西町ガールズたちは車内から脱出を果たした。

 壁から突っ込んできて酒満載の陳列棚を粉砕したバンは、腹を見せて転がっていた。エンジンは死んでいるが、かろうじてライトの光が残っている。

 

 すっかり破壊された店内の床に、色とりどりの酒が水溜りを作っている。

 むわっと立ち上るアルコールの香りは、カナタがメイド服を着てバイトしていた時によく嗅いだものだ。

 酔っ払いのにおい。日常の香り。

 もう────おそらく、戻ってくることはない。

 

「連中、見失ったみたいだねえ」

 

 割れたショーウインドーと酒瓶の残骸で悲惨なことになった窓際に立って、ボタ子が外の闇に目を凝らす。

 例のジェットエンジンが発する暴力的な低音は、遠い。

 中心街の空が橙色に明らんで見えた。火だ。戦闘はまだ続いている。

 

「ボタ子、手貸してちょうだい。この大荷物出さなきゃ」

「あいよ」 

「レイジぃ、生きてっかァ」

 

 それからまた、三人で重労働だ。

 ダッシュボードに入っていたキリエの缶切りにはナイフがついていたので、それでギコギコやってレイジに絡んだベルトを切断する。

 レイジは昆布巻きの寿司みたいになっていた。彼としてはまったく笑えた状況ではないはずだが、カナタは少し面白くなってしまう。

 

「だい……じょぶ……」

 

 昆布巻きがサムズアップで答えた。

 しかし、その指は震えている。息もうまく、吸えないようだ。彼に撃ち込まれたナノマシンは侵略を続けている。

 完膚なきまでに彼の脳髄が破壊され、記憶を失う前に『中和剤』を見つけなければいけない。

 

(心配するな)レイジの唇がそう動いたのを見て、カナタは表情を和らげた。たいした強がりだが、彼女を心配させまいという心遣いだ。

 

「心配なんかしてやんねーよ。だって、オマエ、無敵で不死身でサイキョーだろ」

 

 ガラスをものともせずカナタがひざをついてレイジを起こし始めると、反対側からボタ子が支える。

 ルリコはペンライトを手に、先に立って暗闇に沈んだ暮酒屋の奥を目指す。

 

 おじさん──暮文他──防衛局局長──クソハゲ──総理大臣──いくつもの名前を持つタコ坊主の城は、悲惨な有様だった。

 

「ごめんね。おじさん」

 

 それを作り出した張本人、ルリコは、カウンターの壁に半分めり込んだタイヤを見て、小さく謝る。

 親子ともども不快にさせやがったことは忘れないけど、彼は彼女の世間で数少ない『マトモな大人』だった。

 ここに一礼を残していくのは、町を去るルリコなりの餞別だ。

 

「……まあ半分くらいはアンタの自業自得。もう半分は私とキリちゃんのせい。っていうか、キリちゃんがキチンと監督してればこんなことには──」

「すげえな、アイツ。センセーのクルマパクって勝手に店に突っ込んどいて」

「しっ、刺激するとあたいらシメられるかも」

 

 ルリコの後ろでヒヤヒヤしていた三人だが、彼女がカウンター裏のハッチを開けて地下に降り始めたのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。

 

 ■

 

「アンタ、どう思う?」

 

 ルリコの声が、地下に反響する。

 棺おけのように並ぶセラーの奥で、扉は開いていた。町の機密にアクセスするドアはだらしなく内側の闇をさらけ出している。

 

「ワナだろ」

 

 カナタの返事に、ルリコは大きくうなずく。

 こんな状況で、こんな場所のトビラが開いているのは、どう考えても偶然ではない。何者かが、ここを訪れる者のために仕組んでおいたようにしか見えない。

 

「それでも、いくしかない」

 

 誰が? 何のために? 

 レイジがトドメに放った言葉が、それらすべてに対する回答だ。彼らには選択肢がない。

 故郷にはもう何もない。彼らは海に行くのだ。

 

「ン──」

 

 カナタがルリコから受け取ったライトを手に、ドアの中を覗き込んだときだ。

 ボタ子が、ふと顔を上げた。

 

「どった?」

「いや……ちょっと酒でも持ってこようかなって」

「はァ!? アンタ生徒会長の前で堂々そういうこと言う!?」

 

 久々に、ルリコの元気なツッコミが冴えた。カナタが肩をすぼめ、当のボタ子はヘラヘラ笑っている。

 

「だって考えてごらんよ。外に行ったらコンビニとかないかもだ。それに、ビールひとケース持ってけば、世紀末でも元気に暮らしてるモヒカンの原住民と物々交換できるかも……」

「飲酒の上に窃盗じゃない! ダメよ! ダメダメ!」

「ぶー。いぢわるすると犯罪のハナシしちゃうよ? ルリコちゃんなんて店ブッ壊してんじゃないか。あたいにダメ出しするなら酒、ぜんぶ弁償しなきゃだけど?」

「ぐ……それ持ち出されると何言っても負けるわ、私」

 

 珍しく言い負かされたルリコがぶつぶつ言うのを聞きながら、ボタ子はふと足を止めた。

 レイジのところにやってきて、そっと、彼の手に触れる。

 

「ボタ、子?」

「うん……アイサツって大事。そんなこと、みんな言ってるからね」

 

 困惑して首をひねるレイジに、ボタ子は『ほかになんて言ったらいいか分からないから』と笑って、頭をかく。

 その目が、次にカナタを見つめる。

 優しい優しい目。初めて彼女がクラスにやってきたとき、やわらかく笑って受け入れてくれたときと、同じ表情だった。

 

「カナタちゃんも。せっかくケガよくなってきたんだから。これ以上レイジちゃんのこと心配させちゃダメだかんね~?」

 

 手をとってもらう。ボタ子のパワーでぶんぶん振り回されると血液が逆流するようだ。でも、離してはいけない気がする。

 カナタは、言いようのない、悪い予感に囚われていた。

 一階に上がるハシゴにボタ子が足をかけたとき、止めなきゃいけない気がした。

 

「ボタ子。ちょっと」

 

 カナタより早く、腕組みしたルリコが、彼女を呼び止めた。

 

「なんだい?」

 

 ボタ子は笑みを浮かべたまま、振り返る。

 ルリコは口を開けたまましばらく言葉を選んでいた。外からは銃撃戦の遠鳴り、レイジの体、半開きの対爆ドア。彼女に与えられた猶予は、あまりに少ない。

 

「妹をね、なくしたばっかなの。十分くらい前」

「うん」

「だからこれ以上、この私に悲しい思いさせないで。いいわね。約束」

 

 返事はなかった。ボタ子は困ったように笑って何度かうなずくと、そのままハシゴを上っていってしまった。

 

 ゴン、ゴン──縫い目のある太腿がついにハッチの向こう側に消えたのを見送って、ルリコはきびすを返す。

 

「さ。いくわよ。まずはシャフト。クスリを手に入れて、町から脱出」

「ボタ子を……待たなくては……」

 

 熱のせいか? 

 レイジは自問する。ルリコの顔が、どことなく苦しげに見える。カナタが押さえてくれる腕は握り締められすぎて、感覚がない。

 彼だけ。たぶん、とんでもなく大事な瞬間が過ぎ去ってしまったのに、彼だけそれを実感できてない。

 

「ボタ子、を」

「レイジ。あの子の名前、知ってる。本名のほう」

 

 レイジはうつむき、思いをめぐらせる。

 電源が落とされたセラーの中では、高価な酒が刻一刻と腐り果てていく。レイジの脳細胞もそうだ。ナノマシンに汚染され、灰色に染まった部位から切り離され、記憶が消えていく。

 それでも、とある夜の出来事を鮮明に覚えている。

 合宿所。カナタが家出した日。ボタ子とみんなに呼ばれる少女は、ソファの上に捨て置かれた自分が目を覚ますまで付き添って、待っていてくれた。

 彼がケジメをつける──そのためだけに、彼女はずっとずっと、傍にいた。

 

滝沢(タキザワ)……」

 

 ボタ子の苗字を口にした瞬間、食い込むカナタの指の力がいっそう強くなった。

 彼女はうつむいていた。小さい嗚咽が、聞こえてくる。

 

滝沢、牡丹(タキザワ ボタン)……だったな……」

 

 あたいの名前なんて覚えちゃいないだろ? ──夜中の別れ際に聞いた言葉の寂しい響きで、レイジは『やっちまった』と思ったのだ。

 名簿で調べて覚えて、結局最後まで呼んでやれなかった彼女の本名を思い出す。

 

「ああ──」

 

 彼女が去っていった地下室の中に日焼け止めの残り香を嗅ぎ取って、レイジは息を漏らす。そしてすべてを理解した。

 ケジメとはおそらく、彼女にとって途方もなく大きな意味を持つ言葉だ。

 そしてボタ子もまたケジメをつけにいった。2-Aを裏切ったケジメ。そして、『ムナカタおじさん』と『代理』を裏切ったケジメ。

 

「覚えておいてもらえるって、とても優しいことよね」

 

 ルリコはすでに歩き出していた。カナタの手がレイジの背をぺち、と打ち、彼も足を引きずりながら暗がりに入っていく。

 もう、あの子とは会えない。

 

 ■

 

《滝沢牡丹》

「うん」

 

 暮酒店の正面。

 黒い雨の中で、背の高い少女は二機のパワードスーツを見上げていた。

 一向に止む気配のない汚染水の土砂降りは、この町が失ってきた水源の多さを物語っている。

 

《きみには今回のテロに加担した容疑が掛けられている》

「したよお。加担。認めるよお」

 

 雨は、ボタ子──滝沢ボタンの合羽の表面を滑り落ちていく。

 生臭い水の中で、ダクトテープで補修された裾が頼りなく揺れる。

 

《認めるんだな》

「うん」

《きみは子供だ》

「うん。でも、テロリストで、大量虐殺の犯人だよ。ごめんよ」

 

 スピーカーからほとばしる音声は無機質で事務的な印象を受けるが──ボタンには分かる。低く、押し殺したうなりが聞こえる。

 その正体は途方もない怒りだ。

 名前も顔も知らないパイロットのことを、彼女は考える。彼はこの町を愛する人間で、きっと家族がいる。

 この雨の中で身をよじり、沸騰して死んでいったはずの親や兄弟、そして子供たちが。

 

《おとなしく投降してもらえるか?》

 

 向けられたオートライフルの銃口から、止め処なく雨水が流れ落ちている。彼らの、憎しみの涙だ。

 きっとあのスーツの冷たいツラの下には、歯を食いしばって、憎悪を必死に押さえ込む男の顔がかくれているんだろう──ボタンはその忍耐に、敬意すら感じる。

 せめて捕まった先で何をされようが、文句をたれるまいと覚悟した。

 

「……うん。煮るなり焼くなり」

 

 両手を差し出し、ボタンは微笑んだ。

 なるべく憎んでもらえるように。もし引き金を引くことを迷っているなら、これで決心がつくように。

 

 しばらく、雨の音だけがすべてだった。

 

 長い長い時間、ボタンはそうしていた。

 

「あ」

 

 しかし、彼女はスーツたちの背後を見て、気づいた。

 雨の中から、歩いてくるものがいる。棘皮人間たちに対応するため、生体感知のセンサーを満載したパワードスーツが見落としてしまうような存在。

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ぬめるような光沢を持った黒いブーツが水面を叩くたび、水滴が舞い上がる。その動きは不自然極まりない。

 黒い水の粒は重力を忘れたように浮上する。まるで水底から浮かび上がる気泡だ。

 

《何────》

 

 距離を開けて立っていたほうのパワードスーツが、その接近に気づいた。

 女。跳ねクセのある黒髪を、雨の中で微塵も乱すことなく、漆黒のドレスを着た女が足元に立っている。

 彼女の周囲で雨粒は浮かび上がり、振動する。

 水滴は身をよじりながらやがて光を放つ。粘りつくような紫色が、あたりの闇を侵食する。

 

 バジィッ

 

 いっせいに水滴が弾け、高温の水蒸気がボタンの元まで漂ってきた。

 二体の巨大兵器が警戒してゆっくり後ずさる中、ボタンは独特のにおいを感じ取る。テレビ(ブラウン管)を切った直後のような、オゾン臭。

 

 引き裂かれ、裏返る空気が放つ断末魔のにおいだ。

 

 

 それは、プラズマ。

 

 

「ふ」

 

 笑う黒いドレスの女は、単独で周囲の物質をプラズマ化させている。

 おおよそ、人間業を超えた物理現象の操作。絶滅を前にした種のみが目覚める切り札──『終結因子』だ。

 

《うごあっ!?》

 

 女と目が合った瞬間、一機のパワードスーツの眼光が消灯した。

 フレームはその場にひざをつき、ガクガク震えたと思うと──死んだように動かなくなる。いや、死んだ。

 コックピットを覆うブロックが、倍近く膨張している。

 中で何かが起こった。そして、女の力は気体を超過熱して『チン』するプラズマだ。考えるだけでおぞましいことが、あっさり行われてしまった。

 装甲の隙間から『元人間』の白煙を噴く機体から、もう一機へ、女が振り向く。

 

《貴様ァーッ!》

 

 ブーッ、と音を立て、途方もない発射レートを誇るオートライフルが女の体に叩き込まれる。

 たちまち足元をうずめるほどの薬きょうが吐き出され、ボタ子はそれを避けて店内に引っ込む。

 網膜に焼きついたのは、ただ、紫色のリップを纏った女の唇。

 それが消し飛ぶ。防衛局が採用しているライフルの銃弾は40mmだ。巨人の指のような弾を滅多撃ちされ、女の体は周囲の風景ごと消し飛んでいく。

 僚機を葬られた怒りか、それとも純粋な恐怖か、一切の手心がない。ポスト、電柱、マンホール──女の体はジャムとなって、あらゆるものと混ざり合う。

 

 しかし、ボタンは女の恐ろしさを知っている。

 カナタと同じ顔をした女──つまり『代理』は不死だ。しかも、レイジ以上の。

 

「ふむ」

 

 地面に撒き散らされたスライムが、男とも女ともつかぬ声で喋った。

 

「防衛局のスーツで私を止めることはムリ、か」

 

 ザキュッ

 

 鉄板を、ナタで引き裂くような音がした。

 

《な……に……?》

 

 パワードスーツの胸から、何かが生えている。

 枝、ではない。もっと人工的で、邪悪な構造。海から遠い地下都市の住民たちにとってなじみが薄いものだが、この場にカナタがいれば、即座に叫んだろう。

 

『おさかなだ!』

 

 の、骨。

 しなりのある長大な金属製の脊椎が、パワードスーツを背中側から貫通していた。肋骨を模した無数のブレードが、その表面をゆっくり回転し始める。

 チェーンソーだ。聞くに堪えない音を立てながら、パワードスーツの特殊装甲を切り裂き、黄色い火花を散らす。

 ついで、赤い飛沫。中に乗っていた人間を粉々のペーストにしながら、回転力で外に撒き散らす。

 

 ガガガッ、と鳴るブレードの音が、一瞬だけボタンの耳に「やめて」「許して」のか細い声が聞こえた気がした。

 寒気がした。それは敵の悲鳴ではなく、あの脊髄そのものの声だ。あれに、何かが埋め込まれている。『代理』はそんなものを平気で運用している。

 ボタンは思わず顔をしかめた。あの女の戦い方はあまりに醜悪で、グロテスクすぎる。

 

「こっちは済んだ。あとは、きみだけだな」

 

 隠れても無駄。

 棚の影から長身をあらわしながら、ボタンは足がすくみそうだった。

 店の前では二機の鉄塊が、倒れて死んでいる。その前で『代理』が再生を始めていた。バニラと鉄のたまらない香りを漂わせるゼリーが地面の上で震え、寄り集まる。

 一塊の山になった肉塊の表面に、女の顔が浮かび上がる。それは言うまでもなく『オモトカナタ』のものだ。

 

「よくやった。きみのおかげですべては大成功。想像以上だ。貴重な『中和剤』をくれてやっただけはある」

 

 顔、胴、そして手足──肉のペーストから、『オモトカナタ』の体が生えてくる。

 豊かな胸を持つ黒髪の美女はそうして再生を遂げると、全身に黒い雨を浴びた。彼女に変異が起きないことは、ボタンにとって大きな驚きではない。

 変異は人間にしか起こらない。あれは人間ではない。

 レイジとカナタが必死に取り戻そうとするのをあざ笑うかのように、『代理』は全力で人間をやめている。

 

「あたいは好きにしただけだ。あんたが呼びつけて、あたいに命令したとおりにね」

「そうだ。おかげでいい思いができただろう」

 

 倒れたパワードスーツが放つライトの中に、何人もの人影が浮かび上がる。背丈も性別も年齢もバラバラの『銀合羽』の残党たちだ。

 いつから潜んでいたのか、暮酒店の屋根からボタンを見下ろしているものまでいる。彼女は思わず笑いそうになった。

 

「つまりあたいがレイジちゃんに愛の告白して特効薬渡して裏切るトコまで、ぜーんぶ手のひらの上ってことかい」

「全部ではない。私はギャンブルが好きだ。コントロールできる範囲で不確定要素はどんどん取り入れたい。きみの大立ち回りは本当に見ごたえがあった」

「ハッ……」

 

 かつてないほど、ボタンは頭にきていた。

 本心隠すのがそこまでうまいタイプとは思ってないが、レイジのことが好きなのはガチのマジだ。

 それを利用してうまいこと自分の野望を叶えてやろうという『代理』も『ムナカタおじさん』も、虫唾が走る。

 

「あんたさ、勝ち誇ってるけどなにそれ。ボロ負けでしょ。レイジちゃんはナノマシンの攻略法を見つけた。町の出口も。あんたが、あの子の体を手に入れることはできない」

「このゲームに勝ち負けはもとからない。きみが裏切らなければイスルギレイジの体を取り戻せる。そして、ルートは別の方向に分岐した」

「外に、海にあの子たち行かせるのがあんたの狙い?」

「『それも面白いな』という程度だがね……どっちに転んでも面白くなる。私は見届けたいだけなんだ」

 

 耳障りな音を立ててパワードスーツから刃を引き抜いた脊髄が、ふわりと空を漂いだした。

 水族館の魚のように『代理』の周りをゆるやかに泳ぐ姿は異様だ。ドローンの類ではない。それはただ、一本の脊髄に無数のブレードを取り付けただけの兵器。

 浮く機構というものが、そもそもあれには搭載されていないのだ。

 

「海にとある生き物がいてね。それに会わせてみたい」

 

 本人は壮大な実験を語っているつもりのようだが、ボタンには違うものが見える。子供だ。この女は『カエルのケツに爆竹突っ込んでみようぜ』とはしゃいでいるクソガキと何も変わらない。

 それも、人類最高峰の力を持ったクソガキだ。

 

「あれとイスルギレイジが接触したとき、何が起こるのか……なにより気になるのはオモトカナタの残滓だ。あれが、どう認識されるのか」

 

 裸の『代理』が手招きすると、空飛ぶ脊髄がそっと触れた。

 様子を伺うような、おびえているような──こんな怪物じみた兵器のクセに、そのしぐさに、どことなく卑屈なものをボタンは感じる。

 

「私の仮説どおりなら……おやっ」

 

『代理』が目を戻すと、ボタンはもう、暮酒店の中に体半分引っ込んでいた。

 退却の構えだ。しでかしたことの責任を取るつもりでここまで出てきたが、計画変更だ。

 この『代理』はキケンすぎる。何をやってもボロ負けするギャンブルを、カナタたちに押し付けようとしている。

 

 知らせなくては。

 

「じゃ、あんたが思ってた以上にロクでもないの分かったことだし、あたい──」

 

 パンッ

 

 ゆっくり後ずさるボタンの腹の辺りから、破裂音が聞こえた。

 

「……あ」

 

 タラ……合羽の下から白い太腿を伝う血が、そこに刻まれた縫い目の輪郭をなぞる。彼女は何が起こったかわからず、その場に膝をつく。

 

(撃たれた……? おなか、熱…………)

 

 銃弾をも目視で避けるボタンだ。直撃なんて、万に一つも起こりえない。徐々に力の抜けていく体でざっと見渡した『銀合羽』たちの中にも、発砲の気配は見えない。

 

「きみの小腸だか大腸の辺りの水分を超加熱して、吹き飛ばした」

 

『代理』が人差し指と親指を広げて見せる。紫色のプラズマが、クモの糸のように二本の指を橋渡しする。

 

「は、マジか。そういうグロいの、やめてよねえ……」

 

 ドシャッ。

 

 ボタンはタールが溜まった地面に手をつく。雨具の中にタールが進入することだけは防いだが、腹の傷が恐ろしく深刻だ。

 ほんの数立方センチメートルの内臓と腹筋が蒸発しただけで、こうも動けないか。彼女は歯噛みする。

 

「排除しなければ。きみがあの二人に警告すると、よくない」

「はっうう……理由、は……?」

「イスルギレイジと、彼と心を繋いだカナタ。二人が海に行かず、人類はタイムアップを迎える。これが一番面白くない」

「それも……不確定……要素、だろお?」

 

 赤い血だまりを残しながら、ボタンが立ち上がる。そこに無数の銃口が向けられた。ベラベラ話す悪役は生かして返す気がない──ドラマの鉄則だ。

 それはボタンも知ってることだが、まさか腸を爆弾に変えられるなんて。

 

「きみの死に様も面白いだろうが……私はそろそろ行く。残念だが、もっとたくさんの驚きが、今日はあるはずだから」

 

 体に脊髄を巻きつけながら、『代理』が歩き去っていく。

 あれだけバラバラのグチャグチャにされても元通り復活するはずの彼女だが、ひとつだけ、完璧なはずの肉体に傷跡が残っている。

 背筋──うなじから尻の割れ目まで走った巨大な傷跡が、黒雨と遊ぶ髪が舞うたび、ボタンの目に映る。

 

(まるで……中身を、詰め替えたみたいな……)

 

 ──ボタンはそれ以上考えるのをやめた。もっと巨大な問題が転がっている。それも、目の前に。

 それは彼女をこれから待ち受ける鉛弾の雨と、死だ。

 

(でも……)

 

 ボタンは運命と戦いたい。

 不確定要素は、彼女だって大好きだ。ここを生き抜いてレイジちゃんともう一度会って……一度くらい、名前で呼ばれたい。

 小さな小さな夢(ロマン)を手に、彼女は立ち上がる。それがたとえ、どれほどか細い希望であっても。

 

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