「あら……こりゃあ……」
ボタンは、意外そうに辺りを見渡した。
「マイったね。勝っちゃったよ……」
暮酒店を中心に、何十人もの『銀合羽』で死屍累々の風景だった。
腹を吹き飛ばされたまま奮戦したボタンもそれなりの手傷を負っていたが──ともかく、生きている。
彼女がそれまで握っていた鉄パイプを手放すと、黒い雨に霞む町に、ガランという音がやけに大きく響いた。
アドレナリンが醒めつつあった。薄らいでいた痛みのツケが押し寄せて、彼女は体を折る。
「いっつつ……早いとこ、ナントカしなきゃだね……」
孤児だったボタンはムナカタによって、兵士として育てられた。彼が西町を脱した後に潜伏し、こういう時に地下都市を引っ掻き回すための便利な手駒だ。
使い捨てとしての運命を呪ったこともあったが──おかげで簡単な外科手術くらいはできる。
店内に入っていったボタンは雨合羽を脱ぎ捨てる。
彼女と同じくらいボロボロになったバンがひっくり返ってお出迎えだ。
『よ、もう終わった?』──なんて能天気に語りかけるような丸ライトをポコンと叩いて、ボタンは土足のまま居間へ。
向かう先はキッチンだ。フミオとブンタ、二人の男が七年暮らし続けたむさくるしい家の中を歩いていく。廊下に脱ぎ捨てられたパンツが落ちているのに気づいて、彼女は苦笑する。
「そっか。あたい……まだ続けていいんだ」
こうして何気ないことで笑えるという事実に、ボタンは生まれてきてはじめて感謝する。
『代理』に内臓をチンされて、たくさんの兵隊に囲まれた時は、さすがに死を覚悟した。
だが生きている。生き抜いて、まだ先を見つめる権利をもらった。腹の痛みと出血は気が狂うほどだが──ここを切り抜ければ、また、あの子に会える。
名前を、呼んでほしい。
彼女は廊下の壁にもたれて進む。赤い筋が、キッチンに伸びていく。
「あーあ、やれやれ。これ麻酔ナシかあ、考えるだけでワクワクしてくるよ」
電気コンロでキッチンナイフを熱しながら、ボタンは左手を見た。薬指が第一関節の辺りまで真っ黒なタールと化している。激戦のさなかに雨水で汚染されたのだ。
腹の傷より、こっちを優先しなくては。ボタンはマナ板の上に左手を置いて、ナイフを手に取る。
ためらいは、当然ある。だが、怪物に成り果てるわけにはいかない。
「にしても左手の薬指なんてねえ。なんでよりによって、こんな大事なところ……」
お嫁さんいけなくなっちゃうよ。そうボヤきながら、彼女は指を────
バコッ……
物音。
ふと手を止めて、彼女は今しがた歩いてきた廊下を見た。
パンツが落ちている。白と青のストライプのトランクス。たぶんフミオのだ。汚れたパンツが闇を遠ざけて境界線を引いたように、そこから先は漆黒だ。
何も見えない、無間の闇が広がっている。
バコッ……バコッ……
何かが、いや、
「わあってる。そんなの、でも……」
ナイフを逆手に構えながら、彼女は呟く。
異様なものがこちらにやってくる。それはいい。敵だ、自分を察知している。それも別にいい。
敵なら戦って、勝てばいい。マトモな敵であるのなら、だが。
バコッ
最大最悪の問題から目を背けるわけにはいかない。その足音だ。まるで
厚底のスニーカー。コンバースの、黒。
ボタンは、とある後輩の姿を脳裏に思い描く。まるで、猫のように目の大きな少女。ウルフカットの黒髪を涼しげにそよがせながら、人懐っこく見上げてくる。
『ボタ子パイセン!』
肌は小麦色。よく焼けている。頬の絆創膏をカリカリかくしぐさも、やはり猫に似ている。
『ウチ、おウマさんになりたいんスよ~』
バコッ
そんなこと、あってはいけない──
ボタンはえぐれるほど強く腹の傷を押さえる。激痛が現実感を取り戻してくれる。パイセンと呼んで慕ってくれた後輩、アグリマリコは死んだのだ。
ほかでもない、『代理』と、ボタンたちの起こしたテロによって。
殺したのだ。しっかりと。
歩くための両足を腐らせ、タールの塊に変えて、地獄に突き落とした。
「……マリちゃん」
「ああああああううううううらららららららららららら」
呼びかけるんじゃなかった。暗闇から返ってきた声を聞いて、ボタンはひどく後悔する。マリコの声だ。ひどくしわがれて、ごぼごぼという痰が絡んだような声だが、間違うはずがない。
バコッ、バコッ、……ズ、……バコ……バコ……
足音が奇妙に引きずる音に変わった。何かが潰れ、湿った音も混じる。
そして、パンツが。
黒くねじくれた『それ』が硬質な爪先でフミオのパンツを踏み潰した瞬間、暗闇の中から、ぬうっと、マリコが姿を現した。
裸の、彼女の上半身。痛いほどの小麦色。胸にはいくつもの、引きつってテラテラ光る古びたやけどのあとがある。
壮絶な虐待の痕跡が、それが間違いなくマリコであることを物語っている。
「ああ、そっか……あたいのオチは、こういう感じか……」
蹄の音を立てて歩いてくるマリコを見て、ボタンはナイフを手放した。
ズッ……ズルッ……バコ……バコ……
よく整えられていたウルフカットは、濡れそぼって彼女の顔に張り付いている。そこにどんな表情が隠されているのか、ボタンにはうかがい知る由もない。
マリコの顔を追って、ボタンは徐々に首を上げる。
ずるずるびちゃびちゃバコバコと湿った音を立てる水死体が目の前までやってきたときには、ボタンは、ほとんどのけぞるようにして見上げていた。
「しゃあないよね」
ぎこちない動きで首を直角にかしげるマリコを見据えたまま、ボタンは口の端を歪める。
「ら ら ら」
ここで終わりだ。そう悟った、寂しい笑顔だった。
「最初にカマしたのはあたいだからね。今度はそっちの番でいい。さ、マリちゃ──」
パキョッ
骨が砕け、肉がちぎれる湿った破裂音。キッチンの壁に、鮮血が飛ぶ。
『それ』の腹が大きく縦に裂けるなり、鋭いキバの生えたアゴがボタンを噛み砕いたのだ。速やかで、容赦のない捕食だった。
もぐもぐグシャグシャと、『それ』はむさぼり続ける。その間上半身に接合されたマリコの体は、人形のような動きで揺れ続けていた。
■
対爆扉をくぐってしばらく非常灯の下を歩くと、階段があった。
巨大なトンネルの壁面に作られた階段を下りた先には、一台の軍用ジープが停車している。
「テンチョーのマイカーか……」
もはや自発呼吸が不可能になったレイジを支えて助手席に乗せてやりながら、カナタが呟いた。
暮の字が入った前掛けが、後部座席に放り捨ててある。
「商店街ナナフシギのいっこが解明されちまったな」
「なあに、それって?」
運転席に飛び込んだルリコが、ミラーの位置を調整している。彼女は眉間を指先でなぞった。バカげた出来事の数々で、しわが寄りっぱなしだ。
「酒屋のオヤジがイキナリ消えたり現れたり。ネタがバレちまうと、そんなたいしたこと──」
「そうね、大したこと……」
ルリコとカナタは、ずっとまっすぐに伸びる道の先に目を馳せる。どこまでもどこまでも、鬼火のように幽かな非常灯の下に、直径数十メートルのトンネルが続いている。
「ぜんぜんあるわね、大したこと」
巨人の消化管に紛れ込んだ虫けらのような気分で、ルリコが呟いた。
「こんなでけートンネルで運ぶモンってなんだよ……」
ルリコはハンドル横のカバーを開け、配線の具合を確かめる。バッテリー駆動特有の、簡素なものだ。
ハンドガンの薬室を確認するのと同じくらいの手間で、このジープは彼女の手足となる。
問題はいつ、どこでこの知識を仕込まれたか。
その答えを握るザワちんはどこかへ行ってしまった。しかしルリコは深く考えず、ジープを始動させる。できるに越したことはない。『なぜ』は後で考えればいい。
アクセルを踏み込んだ。もう、迷う余地などなかった。道は一本。向かう先は一つ──中心街の直下、A-6500シャフトだ。
「レイジ、ちょっと顔触るぞ」
「あ……う……」
レイジは朦朧とした意識の中で、唇にやわらかいものを感じた。カナタの燃えるような青の瞳がすぐ傍にある。
「わあ。大胆ね」
呆れたような、面白がるようなルリコの声が、水面を通して聞こえる音のように彼の耳に届いた。
花と潮、そして腐臭。カナタのほっぺが軽く膨らむと、わずかな唾液といっしょに彼女の息が吹き込まれる。
屍蝋のように固まっていたレイジの喉が、ごくりと動く。一ヶ月越しの、人工呼吸だ。
「ぷ、はっ……これ、オトコとオンナの間のアレコレとは違うから。な」
口を離したカナタが、包帯で唇をぬぐう。その頬がほのかに赤い。胸いっぱいの空気をレイジに送り込んだせいなのか、それともやっぱり照れくさいのか──それは、本人にもよく分かっていない。
確かなのは、彼女がレイジの命に精一杯だということだ。
「レスキュー。ラッキーでアタシとキスできたこと、ありがたくおもっとけ」
そうして息を吸って、もう一度。
たいへん仲むつまじくやっていらっしゃるお二方めがけて、凄腕ドライバーから一言。
「大変そうねえ。私もやったげよか」
「やめろよ!」
すぐさま叫び返すカナタは、とっても必死な顔だ。ルリコはくつくつ笑って退屈な運転に戻る。ずーっとまっすぐ。ずーっと、ずーっと。
「たく……ルリコが出てくると、シャレにならねえんだよ……」
「なによそれ」
「一年分の、アタシとの差……はぷっ……」
髪をかき上げたカナタが三度目の口付けをレイジと交わしていた。
肺が焼け落ちたレイジに、人工呼吸がどれほど役立つかは分からない。それでも彼女は、彼の命に全力を尽くしたい。
家族だからだ。自分の息が切れるのも忘れて、彼女は懸命だ。
「も……だいじょ、ぶ……」
レイジの手がゆっくり背中を撫でる。カナタは、その口をもう一度塞ぐ。
ふーっ。自分の命を吹き込むように、彼女はレイジの体を抱きしめる。それからしばらくして、彼女は、はあはあと息を荒げたまま微笑んだ。
「な……少しは上手くなったかな。あの時より」
レイジがかすかに声を漏らして笑ったのが分かって、カナタも笑う。
その様子をミラーで見ながら、ルリコは乾いたコンクリートのトンネルをジープで飛ばし続ける。中心街と暮酒店の距離は直線でおおよそ二キロ半。そこから更に地下を目指す。
地上で繰り広げられている虐殺と混沌がうそのように、静かな旅路だった。
途中、防衛局の人間はおろか、ドローンすら見かけなかった。三人を残して世界が滅んだような静寂だけがあった。
小さく赤字で『A-6500』が刻印されたドアの前で三人はクルマを降り、そこからはしばらく歩きで階段を下りることになる。
レイジがよろめいて崩れそうになるたび、カナタが支える。ルリコも手を添える。
「だいじょぶか?」
カナタは聞きながら、自分を見返すレイジの目が軽く泳いだのに気づいた。
朝起きたら知らない町のド真ん中で目覚めたような混乱──それはものの数秒で落ち着き、彼は弱々しく頷いてくれる。
「よかった。さ、いこう」
彼から見えないよう、カナタはルリコと目配せする。彼女も沈痛な面持ちで頷き返してきた。
レイジが朦朧としてきているのは、脳にたどり着いたナノマシンが破壊を開始した証拠だ。
猶予は残り少ない。レイジがレイジでなくなる前に、『中和剤』を手に入れなければいけない。
果たしてそんなもの、まだ残っているのだろうか──弱気な考えが頭に浮かぶたび、カナタはブンブンと白髪頭を振り乱して弱った心を追い払う。
「よかった。リフトはまだ動くみたい……ますます、誘われてる気がするけど、ね」
斜行リフトの床にレイジを座らせて、カナタは鉄製の手すりから下方の様子を伺う。そこにはただ、底の知れぬ闇が淀んでいるだけだった。
ルリコの操作で、リフトは降下を始める。
先行きの見えない闇の中に呑まれながら、カナタはレイジの声を、ただ一言でも、もう一度聞きたくてたまらなかった。
■
「夏休み中はケガにだけは気をつけて……って、言ったはずなんですがね」
暗闇の都市に雨が降りしきる。
抜き身のブレードを手に、暮酒店の前に佇むサイボーグニンジャの表情は、白いヘルメットに覆われて見えない。
髑髏を模したフェイスガードの眼窩から、真っ黒なタールの雨が垂れている。
泣いているのか……それとも、怒りか憎悪が溶けて流れ出てきているのか、誰にも推し量ることはできない。
《身元の照合、終わったとのことで……》
「死体は?」
《いえ。遺留品です。あの場にいては、助からないかと》
近くに立つパワードスーツが、緑色のセンサーを点滅させた。それに合わせて、サイボーグの目が何度か瞬く。
暗闇で、彼らは交信する。
物言わぬ冥界の使者のように立ち尽くす彼らの周りを、銀色の合羽を身に着けた死体が埋め尽くしている。
サイボーグニンジャ──キリエの網膜に映るものも、死体の山だ。
サトウ ヒロシ
タカハシ ケンタ
ヤマモト シンイチ
イノウエ ダイスケ
コバヤシ ユウジ
オオハラ ケンゴ
ハヤシ トモユキ
イシカワ ユウト
タナカ アヤカ
サカモト ミホ
ヤマザキ サオリ
カワムラ エリ
シマダ ヨウコ
オオタ アスカ
ミウラ ナオコ
フクダ ミユキ
キクチ ユカ
イシダ サチコ
アグリ マリコ
十八人。プラス、下級生が一人。
この日中心街にいた人間たちの名簿から、キリエが教え子をピックアップしたリストが、次々と赤文字に変わっていく。
バカで向こう見ずで、必死だった生徒たち。みんな死んでしまった。みんな、もう会えない。
残る六人の死亡は確認できていないが──おそらくこの先で、そのうち一人が待っている。
《これだけの数をたった一人で……生身の、それも女の子が……》
「中に入る。誰かついてきて」
「ほんじゃ。俺ですねえ」
スーツのパイロットが漏らしたうめきには答えず、キリエは店の中に入っていく。
三メートルの機体では狭い暮酒店の入り口をくぐれないので、ここから先は兵士が一人、同行する。
彼は消防士の防火服に似た、白い装備を身につけている。
キリエが髑髏なら、こちらはのっぺらぼうだ。体つきで男だということは分かるが、フードの下に被ったマスクに目鼻を出す穴はない。
ひたすら白い、卵のような表面を、黒い雨がぽつぽつと滑っていく。
「何か言ったらどうですか」
キリエはバンの車内を照らした。すべてのガラスが吹っ飛んで、エンジンは裏返り、モノとしての寿命が尽きた彼女の愛車。
ルーフに撒き散らされた夥しい血液を見ても、彼女は身じろぎひとつしない。防衛局の切り札──サイボーグ忍者としてあるとき、キリエは昆虫になる。
心のない、機械の兵士だ。
「嫌味、皮肉、憎まれ口──なんでも歓迎しますよ」
「パス。俺、ヤなんですよね。どんなコト言ってもヘマこく状況って」
「私とトメさんの仲でしょう」
「だからですよ」
顔のない男は、頬骨の辺りを指でかく。古傷か──ケロイドが不意にうずいたような、そんなしぐさだった。
「姉御のとこの坊ちゃん嬢ちゃんと、さっき会ったばっかでね。映画館で……入ってきたとき微妙な空気だったのが、最後はすげー幸せそうで……」
彼は割れて砕けたビンを拾って、見る。香りばっかりしっかりした、度数はそれほどでもない安酒。
一気にあおってひっくり返れば、次の日には名前を忘れているような代物だ。
「そんな子たちが、溶けたり死んだりして……頼まれて気休めなんて言いたくないんですよ。気の弱い大人にだけはなりたくないですからね、俺」
彼の手元で、安酒のビンが砕ける。そのくらい簡単に、今、町中で命が奪われている。
「ふん」
キリエの反応は、淡々としていた。
それまで切断されたシートベルトを指先で弄んでいた彼女は、ランプを掲げて店の奥を照らす。汚染は先に進むにしたがって、ひどくなっていく。
何かに誘われたように歩き出すキリエを追って、男も歩き始めた。
「局長のシュミすかあ? 普段は居心地のいい店なんでしょうねえ。これが収まったら通っちゃおうかな」
「だったらブーツ脱いだらどうですか。とろけるほどくつろげますよ」
奥の座敷にベットリなすられた汚泥を見て、男は辟易した様子だった。
「いやマジで溶けるでしょ。これ、猛毒なんだから」
「そうなんですか」
「そうなんですよ。脳みそ以外全部機械にとっかえた
からっぽの店内に、二人の軽口とランプの光だけが漂う。
壁にかけられたカレンダーがヘドロで真っ黒だ。ここに侵入してきた怪物が、ぶるぶると自分の体を振りながら歩いていく姿が思い浮かぶ。
当然、床にもヘドロがうずたかく積もっている。防護装備がなければ、十秒とヒトの形を保てまい。
「これ、なんですかねえ」
畳を覆うヘドロに、男が目を凝らす。
「さあねえ。私も見たことありませんよ、こんなの」
歪んだU字の形が、廊下の上にいくつもスタンプされていた。
明らかに棘皮人間のものとは違う。アレはヒトを小ばかにするためにヒトの姿を取っている。扁平で水かきのついた痕跡が残るはずだ。
「アレっすよね。ウマのやつ」
「蹄鉄ですか。こんな町中で乗馬してるバカが?」
二人は顔を上げる。暮酒店──フミオの家は局長ブンタの趣味で昭和風の一軒家にデザインされているが、強烈なLED灯の白光で切り取られると、とたんに廃墟めいて見えてくる。
廊下の先で、窓が割れている。黒いまだら模様に染まったカーテンが舞い上がっている。
その先はキッチンだ。ふと、男は視線を感じ、
「うっ」
防護服をガチャリと鳴らして、彼は後ずさった。
彼らのほうを、女の子が見ている。
台所のドアの隙間。床に片耳つけるようにして、横になった少女の鼻から上が覗いている。端正な顔立ちだ。少年のように短くカットした髪が印象的だった。スポーツをするのかもしれない。
濃厚な血のにおいの中に薄っすら漂う日焼け止めの甘い香りは、彼女が放つものだろう。
瞬きをやめた目が、彼らの掲げたランタンの灯をテラテラと反射している。
「大丈夫。私の教え子ですよ」
シャアッ──冷血なサイボーグがブレードを鞘に収めて歩いていく。
「……どったんですか、ボタ子さん。人んちで横になったりしちゃってえ」
その口調が、一瞬で教師、樋口キリエのものに戻っていった。
「ああ、そっか。これじゃ分かりませんよね、私ですよ、わーたーし。キミらの担任のキリちゃんです」
男からは、キリエの後姿しか見えない。
彼女がヘルメットの隙間に指を差し込むと、充填されたガスが排出され、メットのロックが外れる。
腰まである黒髪をなびかせながら、彼女は──ボタンの顔の前に、膝を並べてしゃがむ。
「ほら。傷つけたりしませんよ。外しますね」
ブレードを収めた鞘を床に置くとき、彼女の手が軽く震えた。
「あのバカ話覚えてます? 教師が副業で……っての。私の本業はこっち。言ってみりゃロボコップみたいな……カッコよく登場して、みんなのために戦う。そんな」
「姉御、もうそのへんで」
中途で舌打ちして、男は俯いた。何も言ってやれない。俺は気の弱い大人になれない。キリエの前にいる少女、あの様子は間違いなく──
「ちょっと目離したスキにテロたあ。面白いことしやがりましたねえ……取り締まらなきゃ。私、一応正義のミカタだし……」
遠目で分かるほどハッキリと、キリエの肩が震えている。彼女はカーボンとチタンの冷たい指先で、そっとボタ子を
「ああ……なんですか。おしりぺんぺんで済ませてやろうと思ってたのに……これだから、子供ってやつは……」
それを胸に抱いて──キリエは天井を仰いだ。一瞬、何かを飲み込むように喉を鳴らした。けれど、もう声を閉じ込めておけなかった。
「あ──ああ────あああああああッ、うああああああああああああッ!!!」
ガラスがビリビリ震えるような大声で、彼女は泣いて、叫ぶ。
「……少し、人を遠ざけておいてくれ」
周囲に展開した部隊にショートメッセージを送り、キリエの副官たるケロイド男は廊下を後にした。
悲しい咆哮が、ずっと彼の背中にへばりついてきた。
彼の姉御は、子供が好きだ。無関心気取ってるうちにそれを忘れて麻痺したのを、ほかでもない彼女の教え子たちが思い出させてくれた。
キリエは昔みたいにいい教師に戻りつつあって──それが、こんな形の報いで返されるなんて。
「クソだろうが、マジで……」
防護服のポッケから、男はタバコを取り出した。
彼だってさっきの、名前も知らない少女と二、三言葉を交わしたことがある。花火の夜だ。ハキハキして、姉御肌の、気持ちのいい子だった。
「美人が、死んでんじゃねえよ」
タバコでも吸わなきゃ、やってられない気分だ。およそ一週間という過酷な禁煙に終止符を打つべく、彼は一本口に咥えてライターを探す。
「……あ?」
そこで彼の口から、ポロリとタバコがこぼれた。
例のU字の足跡が彼の足元を通って、キッチンから店の中に引き返していっている。
(外に出て行ったのか? いや……)
彼は、それを追って歩き出す。
足跡はまっすぐだ。店の外ではなく、カウンターに向かっていた。その裏手には地下に通じるハッチがある。さらにその先には、西町の根幹に直通する輸送網が。
ヘドロにまみれた鋼鉄製のハッチはひどくねじれて、外れかけていた。まるで得体の知れない怪物が巨体を無理やりひねって押し込んだようだ。
「何が、いたんだ。ここに……」
彼の足元のヘドロの中に、絆創膏が漂っている。そこにプリントされた市のマスコット『ニッシーくん』が、黒く汚れた歯を剥いて、笑いかけてきていた。