海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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6.豚の鳴かない町(1)

 住めば都、という言葉がある。

 そのマンションは明らかに周囲の景観から浮いており、外壁はヒビ割れ、雑草があちこちから顔を出し、駐車場に至っては片隅に水が溜まって小さな池がある。

 そんな場所でも、とある男子高校生にとっては、ひとつの居場所なのだった。

 

「いかん……寝過ごした…………」

 

 たとえば、彼のほかに住人がいないこと。

 爆音で映画を上映しようが、八十キロのバーベルを床に放り投げようが──枕元で()()()目覚ましを昼近くまで放置したとしても、怒鳴り込まれることが無い。

 

「寝過ごした? 俺が?」

 

 すえたにおいが充満する廃墟の一室で目覚めたレイジは、昨日の疲れでまだダルい体で時計を拾い上げ、文字盤を確認する。六月二十一日、金曜日。午前十時。

 

 レイジの数少ない取り柄の無遅刻無欠席が破れた瞬間であった。

 

 まだ夢を見ているような気持ちで歩いていって、カーテンを開け放つ。夜半の雨は過ぎ去り、じわりと蒸れるような大気を透かして見上げる空の青さと深さが、夏の気配を強く感じさせる。

 

 同時に途絶えた連続記録がもうひとつ。彼の悪夢だ。

 七年間に渡る泥沼のような不眠と少女の溺死が、ここで絶たれたことになる。

 

 トラだのウマだの克服だの──理解できるほど、レイジは頭がよくない。そして、この状況について説明すべきである少女の声も、ずっと聞こえないままだ。

 それでも、何か大きな変化が自分に起きたということだけは明らかだ。

(学生としての義務をブン投げていること以外)特に急ぐ理由も無かったので、レイジはゆっくり準備を始めた。

 久しぶりに炊飯器を動かした。いつ買ったか分からない納豆を拾い上げてかき混ぜた。インスタントの味噌汁を作る。これまでになく、丁寧な朝食だった。

 ボタンがいくつか迷子になったシャツを引っ掛けながらゴミまみれの廊下を歩いていく途中で、転がっていた位牌を蹴っ飛ばした。彼は黒地にはっきりとホコリの跡が浮いた位牌をしばらく見つめた後、

 

「じゃあ……いってきます」

 

 なんとなくだ。

 特に理由はない。顔も知らない両親と姉に、聞こえるはずも無い言葉をかけたのは、本当に単なる気まぐれだ。

 なんでそんなことをしたのか自分で分からないまま小便臭い階段を下りた彼は、駐車場に出て、いつもの鉄骨に触れてみる。

 赤錆の塊が皮膚を削る。何も感じない。

 

 彼の中にずっとあった憤怒は、胸の片隅にうずくまって、じっとしている。

 久しぶりに穏やかな気持ちだった。

 

 カバンを持って歩き出したレイジは、昨日の大暴れでところどころが破けたスニーカーに目を落とす。くたびれた靴紐に、銀色に光る髪の毛が絡みついていた。

 それを握り締めて、カナタのことを思う。

『きめえ』と言って髪の毛を投げつけてきたカナタに、きっと未練は無いのだろう。だがレイジは違う。

 カナタは彼を救ってくれた。その礼が、まだ済んでいない。

 なんとしても彼女と再会しなくてはならない。それが、どれほどの犠牲を払うことになろうとも。

 

「よし。やるしかないんだ。俺は」

 

 レイジは気合を入れてみた。

 真珠の肌に白い髪、瞳は透き通るように青くて──そんな、特徴まみれのカナタだが、捜索は、間違いなく難航するだろう。

 放課後、とりあえず昨日通った道を辿るところから始めてみるつもりだった。

 

 ■

 

「よお、遅いんじゃないか、でかいの!」

 

 いきなり、いた。

 

「昨日ぶりだな。机、借りてるぞ」

 

 教室の戸をくぐった瞬間に吹き付けた風が、忘れもしない潮騒と花の香りを運んできた。同時に、少年を思わせるハスキーな声も。

 

「え、ああ……なんで……別に、かまわないが、机は。それはいいんだが……あの、ええと、どうして……」

「グチグチ言ってねえで入ってこいよ。オマエもやるか、カード?」

 

 登校したら、いきなりカナタがいた。

 アルティメット重役出勤をかましたレイジにクラス全員の視線が集中する先で、彼は油の切れたロボットのような動きで片手を上げて応じた。

 分からない。何も分からない。

 自分を突き放して逃げてしまったカナタが、自分の学校の、自分の席に座っている。

 さらに状況をとっ散らかしているのが、すっかりクラスに馴染んだカナタが、クラスメートたちとポーカーに興じていることだった。

 

「うぐああああ! ンだよこの下振れはよォォォォォ!」

 

 放られたカードが舞う。

 すべてを失ったフミオが、イスごと後ろにひっくりかえる。一緒に机を囲む背の高い短髪の女子生徒──ボタ子が、彼のバッグをゴソゴソ漁る。

 

「悪いねフミオちゃん。これ、ゲームだから。ルールのやつだから。ね。情けは無用ってことで」

「お……俺のささやかな反抗心のシンボルが……!」

 

 そして取り出されたのは数本のライター、そしてタバコのカートン丸ごと。

 

「ほいよ、カナちゃん」

 

 彼女が差し出したものを、カナタが満面の笑みで受け取った。

 

「ん。あんがとな、ボタ子」

「何言ってんのさァ。最後はあたいが、身ぐるみ引っぺがしてやるんだからねえ」

「おいおい俺を忘れちゃ困る。気、抜いてたら泡吹かせてやっからな」

 

 そう言ってヨシがボウズ頭をかいた。先日、レイジに足を取られてプールダイブを決め込んだ男子生徒だ。

 ”ヨシ”と”ボタ子”が不敵に笑う。カナタも負けじと、攻撃的な笑みを浮かべて迎え撃つ。

 オケラになったフミオが、彼らの足元であえいでいる。

 柔らかな日差しを纏って翻るカーテンと、カナタの白いドレスの裾。

 チョークの香りを孕んだ風が吹き渡る下に広がる光景はひたすらに爽やか──であるはずが、実際繰り広げられているのは、生き馬の目を抜くような鉄火場だった。

 

「レイジぃぃ……金かしてくれェい……」

 

 ナメクジのようにズルズルと床を這ってフミオがレイジの元までやってきた。

 

「……とりあえず、やめておいたらどうだ。たぶんフミオに、賭け事は向いてない」

「なんだよォ……俺に何が欠けてるってんだよォ……」

「決断力でしょ」

 

 分厚い書類の束で、レイジの背中をドス、と小突いたものがいた。

 ルリコだ。その目が険しい理由は、出入り口に立ち尽くし、広い肩幅で道を塞ぐ大男の存在によるものだけではないようだ。

 

「あそこ間違いなくフォールドだったなあ……でも『もしかして』って思うじゃん? ……んで選べなくなるじゃん? 様子見してグダついてたらこの始末よ……」

 

 大男をどかして入ってきたルリコは、這いつくばるヨレヨレの金髪男を醒めた目で見下ろす。そして次に、その視線をクラスの中に放った。カナタがこちらを見ている。

 

「アレ部外者でしょ。なにやってんのよ、ホント……」

「おーいフミオ、俺らまだ続けられっけど、どうする!?」

「アンタら学校で堂々と賭け事してんじゃねーわよ!」

 

 ここでルリコの怒りが小爆発。ヨシはというと、悪びれた様子もなく、舌をペロリと出して見せる。

 

「へへ、おっかねー。じゃ、今朝はこんくらいにしとくか」

「今朝だけじゃない! 放課後も、明日も、金輪際カード触んなバカ!!」

「ほんじゃカナちゃん。ルリコちゃんいない時に、また遊ぼうねえ」

「えー、もう終わりかよ……」

 

 ヨシたちが立てた掌で謝りながら席に戻ると、カナタだけが残った。

 彼女はゆっくりとレイジに向き直った。

 

「とりあえずおはよう、レイジ」

 

 そして微笑むと、周りは静けさに包まれる。

 向き合う、白いドレスのミステリアスガールと、クラスで一番浮いてるエキセントリックボーイが次にどう動くのか──何が起こるのか──を、みんなが遠巻きに見守っていた。

 

「おはようって……もう、昼だろ」

 

 カナタの元に歩いてくレイジの足取りは、雲でも踏んでいるようにおぼつかない。

 

「じゃコンニチワだな。なんにせよ、アイサツは大事だ。そうだろ?」

 

 そして、彼女に向かって歩いていくレイジの様子を、興味津々で見守っている。

 

「あ、ああ……こん、にちは?」

「ウン。昨日ぶり。逃げて悪かったな。わり」

 

 カナタが、そこにいる。

 何度自分にそう言い聞かせても、そのことが信じきれない。

 青い壁の中で出会った、青い瞳の白い女。それが、倦むほど見慣れた自分のクラスの中に立っているのを見ていると、コラージュ写真でも見ている気分になる。

 

「あ、そーだ。オマエには助けられた。今はこれしか手持ちがないけど、お礼」

 

 そんな、御伽噺の妖精のような格好のカナタが差し出してくるのがタバコのカートンだというのだから、ますます彼の現実感がぶち壊れていく。

 

「タバコはやらん」

「そりゃ、学生はやらんでしょ。教室でご禁制のブツ振り回してンじゃないわよ」

 

 いつのまにかレイジの傍に立っていたルリコも呆れ顔だ。

 

「そっか……じゃ、これ元手に使ってカネに変えるか……」

「だから、学校で、賭けを、するな」

 

 いちいちぐちゃぐちゃと口を挟んでくるルリコのことを、カナタは怪訝そうに見つめた。

 

「なによ、アンタ」

 

 ケンカ売るなら買ってやるわよと言わんばかりにカナタを睨み返しながら、ルリコが組んだ腕を解く。

 

「このエラそうなやつ、なんだよ」

「だって、ホントにエラいもの」

 

 顔を指差されて、ルリコはあっけらかんと言い放つ。

 教師殺しのルリコ。クマ狩りのルリコ。阿宮梨と呼ぶと死ぬほど殴ってくるルリコ──様々な二つ名なんだか蔑称なんだかを持つ、西高の最高権力者が、顎をしゃくる。

 

「ここにいるのは学校(ウチ)の生徒会長……だから、実際すごいんだ、ルリコは」

 

 レイジが耳打ちしても、カナタは不思議そうに小首をかしげるだけだった。

 

「セイトカイチョーってのは、そんなエラいモンなの?」

 

 今度はルリコが素っ頓狂な顔をする番だった。

 

「そりゃ生徒会のリーダーだもの。最強よ」

「生徒会……って、学校のやつ、だよな」

「カナタ、あまり学校のこと詳しくないのか?」

「──もういい。やめにしましょ」

 

 ルリコは急に会話を打ち切るようにして、カナタをじっと見つめた。

 

「これが、昨日の?」

 

 今度はルリコが自分に向けてきた人差し指を、カナタが捕まえようとする。それをひょいとかわして、彼女はしげしげとカナタの容姿を観察した。

 

「……何歳?」

「十六か、七くらい。はっきりとは覚えてねえ。記憶がねえ」

「アンタ”も”記憶喪失ってやつ? へえ」

 

 ルリコの視線が一瞬レイジを捉える。つられてカナタは振り向くが、その意味を、彼女は知らない。レイジも、知ってほしくない。

 

「アンタ夢の女ってやつ?」

「ンだよ、その気色悪い呼び方」

 

 カナタが目つきを尖らせるのをよそに、レイジはかぶりを振った。

 

「そうなの。まあいいや、じゃあ、とりあえず。はい」

 

 ずい、と。カナタの前にルリコの手が差し出された。

 

「あ?」

 

 バンソーコーまみれの手を見て、カナタは不思議そうにルリコを見やる。

 

「私、ルリコ。昨日は挨拶できなかったから。ほら、握手しよ」

 

 ルリコは真顔で、さらに一歩踏み込んだ。

 

「別に取って食おうってわけじゃない。友達になろうって言ってんの」

 

 中途半端に手を持ち上げて──カナタは応じることができない。それを、無理にルリコも取ったりはしない。

 

「あの、レイジ……これ……アタシ、触っていいのか……?」

 

 あれほど奔放に振舞っていたカナタが助けを求めるように見上げてくる。レイジは、軽く肩をすくめて見せるだけだ。

 

「いいも悪いもない。カナタ、君が好きなように……」

「いいも悪いもないわよ。ま、アンタがイヤなら────ちょっと。言葉の先読みするの、やめてよね」

 

 ルリコは笑いながらも、軽く呆れた様子でその手を引っ込めようとした──瞬間、カナタがルリコの手を静かに掴んだ。

 

「ちがう…………ちょっと、びっくりしただけ。アタシ、カナタ」

 

 少し驚いたように目を見開いたルリコだったが、すぐに優しげな笑みを浮かべて、繋いだ手を軽くシェイクした。

 

「これでトモダチね。よろしく」

「ああ、うん。よろしく、ルリコ」

 

 カナタはしばらく、握手の余韻に浸るように自分の手を見つめていた。ルリコは満足げに手を引っ込め、レイジの脇を小突く。

 

「感じ悪いと思ってたら、結構いいコじゃん」

「俺の時は蹴られたけどな……」

 

 苦々しい顔でレイジが呟くと、ルリコが声を上げて笑った。

 

「なにそれ、初対面でこのゴリラをキックしたの? 気合入ってるわね」

「こいつのは握手なんかじゃねえ。いきなり手のニオイ嗅いできたんだぞ」

 

 その笑みが消えるのは、一瞬だった。

 

「アンタ……」

 

 そのまま、レイジからカナタを庇うように立ち塞がってくる。

 

「アンタ、シンプルに気持ち悪くて最低」

「それは……思わず……あの時はおかしかった。妙に興奮していたというか」

「興奮してたのね。へえ。そう。ふうん」

 

 ささやかな弁解は、余計にクラスメートからの軽蔑を買っただけだった。

 

「ま待ってくれ──」

「いいわよ、待ってやるわよ。ほらほら、どしたの」

「さっさと何か言い訳しろってんですよ」

「お前って焦ると顔赤くなるんだな」

「レイジちゃん、アンタ思ってたよりヤバいね」 

 

 ズバズバとクラスメートたちが切り返してくと、レイジはどんどんしどろもどろになる。言い訳──しようがない。実際レイジはカナタの手を捕まえて匂いを嗅いで、コメントまでかました変態である

 

「俺、あの時、嬉しかったんだ……だから、よく分からないことも、して、しまった、かもしれなく、て……」

 

 レイジの歩みに合わせて、クラスのみんながザザザと波を引くように離れていく。

 彼らはほとんど、レイジの反応を面白がっているだけだ。いつも何を考えて何をしているのかも分からないミスター岩男が、こんな風に慌てているのは珍しい。

 ──確かに少し、気持ち悪いなー、とも思っているようだが。

 

「緊急事態だったし。アタシ的にも、もういいけどな……」

 

 つーか人工呼吸(キス)しちまったし。ここでそんな特大級の爆弾を投下したら、冗談抜きでレイジの学園生活が終わってしまいそうだ。面白そうだが、カナタは胸の内にしまっておくことにした。

 

「で、そもそもアンタ、どうやってここにたどり着いたわけ?」

 

 ルリコが首を傾げた。

 

「それは、ですねえ、俺様のおかげなんですねえ……」

 

 全員の視線が一点に集中した。

 そこにはフミオが、せんべいのようになって床に張り付いている。

 

 ■

 

 遅刻したのはレイジだけじゃない。

 今日も今日とでご機嫌ナナメの電動バイク。愛車にやる気を出させるために、フミオは最初の授業をブッちぎるハメになった。

 決死の覚悟で心臓部に手を突っ込んで、あちこちスパークを散らして、ようやくモーターが動き出したまではいい。が、今度は笑っちゃうほど速度が出ない。

 ゴロゴロとタイヤで地面を舐めるようにしてやってきたフミオが、高架の近くの路肩に座り込む白い物体を見つけたのは、ほとんど偶然だった。

 目を凝らすと、どうやらそれは人間だ。

 

「ヘイ、ナウでヤングなそこのガールちゃん」

「ンだよ、お前」

 

 近くにバイクをつけて顔を覗き込んだフミオのことを、カナタは胡散臭げに見上げてくる。

 

「お、見ない顔。カワイ子ちゃん、今ヒマ?」

「ヒマっちゃヒマ。ま、トホーに暮れてるだけなんだけど」

「へえ。何か飲む?」

「いらね。ほっといて」

 

 何も聞かずにフミオが隣に座ってくる。そいつが何も言わずにオイルライターをカチカチ言わせ始めると、カナタの目に宿る警戒はますます強まる。

 

「今クッタクタなんだけど」

「俺も空気は読みたいけどさ、困った様子の女の子がいたら、ちょっとムリして頭突っ込んじゃうの」

「ンだそれ」

「こんな俺でも何か力になれたらな……っていう。つまりナンパ」

「結局ナンパじゃん」

「俺はただの親切マンだよ。あくまで、打算を狙っているだけ」

 

 もうこれ以上着崩せませんよというレベルまで崩れた学ラン。裏地から漂う、タバコの煙と制汗剤がミックスされた香りに、カナタはしばらく顔をしかめていた。

 

「オマエ、ガクセー?」

 

 そういえば、昨日彼女を助けてくれた気持ちの悪い大男も、同じデザインのジャケットを身に着けていた。怪物に引き裂かれて丸裸になるまでだったが。

 

「おいおいなんだその質問。お嬢さんも学生だろ」

「アタシ……アタシは……どうなんだろ。ところで、同じガッコーにデカいやついない?」

「デカいって……どのくらいデカい?」

「超デカい。ゴリラみたいな。岩山みたいな。ゴリラ山?」

 

 フミオの顔が、奇妙に引きつった。

 

「そのゴリラ山、レイジっていう?」

「ああ」

「乗りなよ」

 

 ■

 

「朝っぱらからナンパ。たいそうなご身分ね」

「けど、おかげでカナタはレイジに会えたんだぜ」

 

 床の埃がこびりついた学ランを、フミオが叩いている。それを顔のすぐ近くでやられるルリコは、迷惑そうだった。

 

「どうしようかしらねえ」

 

 カナタに目を戻してルリコは考え込んだ。

 

「なんか問題あんの?」

「アリアリ。あんた部外者だし。さすがに先生もなんか文句のひとつくらい……というか、今って二限目でしょ。あの人何してんの?」

「ぶええええええ、うええええええん」

 

 そこで教室を見渡したルリコが、教卓に突っ伏してオイオイ泣いているキリエの姿を発見した。いつからそうしていたのか。無意識に目に入れないようにしていたのか。

 

「カナタ……いいジャケットね」

 

 ルリコは、いままでカナタが座布団代わりにしていたものを指差す。

 

「先生の一張羅でしょ、それ」

「賭けでボロ負けして、手持ちがもうねえからって。アタシは止めたかんな」

「返してえ、私のジャケット、返してよお」

「ホントにダメなヤツしかいないわね、このクラス」

 

 忌々しげにルリコが吐き捨てた。

 

 ■

 クラスがだいたい落ち着いた頃、いつもの三人はカナタを囲んで座った。

 

「名前はカナタ。女。あとは記憶喪失で全部わからん。よろしく」

「すっごい雑な自己紹介ね」

「カナタはあの後、海へは行けたのか?」

 

 机の上に積み上げられた賭けポーカーの戦利品。その中に手を突っ込んだカナタは、紙パックのジュースを取り出した。

 

「いんや。一晩中歩いてみたけど、同じところグルグル回って終わった」

 

 まばらな通行人を捕まえて道を聞いてみてみた。みんな丁寧に教えてくれたが、どうしてか、町の外の道のことについては、誰に聞いても要領を得ない。

 仕方ないので外に向かって一直線に歩いてみたが、どうやっても元いた場所に戻ってきてしまう。まるで見えないロープが自分の足首と町を結んでいるかのようだった。

 

「んで、疲れて座り込んでたら、フミオにちょっかいかけられたってワケ」

「お前ってスゲー方向音痴なのな」

「昨日も同じ場所を何度も回ってた。だが問題ない。俺さえいれば──」

「だからアレは土地勘ないからで……うるせえ男どもだなあ」

「そもそもアンタ、どうして海へ行きたいワケ?」

「行かなきゃいけないから行くんだよ」

 

 そんな当たり前のことを聞くんじゃねえよとばかりに首を傾げたカナタを見て、フミオとルリコは顔を見合わせることしかできない。

 そうしていると、分厚い胸板を叩いてドムンと音を出した男がいた。

 

「俺に任せてくれ」

 

 レイジだった。

 

「それ実際にやるヤツ初めて見たわ」

「きみは俺が絶対に海まで連れて行く。約束したからな」

「いいよ。たのむ」

 

 てっきりレイジ相手だと渋ると思われたカナタが、あっさり承諾した。

 

「悔しいけどアタシ一人じゃどうあがいても海には行けそうにねェ。道案内が要る。少なくとも、地図読めて、まっすぐ歩けるようなヤツが」

「俺はいつでも準備できている。それこそ、今からでもいい」

「ガッコーはどうすんだよ?」

「カナタが最優先だ。サボる」

「は!? アンタ──」

「ちょ、待てよレイジ。いくらなんでも今日はきちーって!」

 

 何か言いかけたルリコよりも早く、机を蹴倒しそうな勢いで立ち上がったのはフミオだった。もともと海行きの話を持ち出したのは彼だ。それを目の前でホイホイ勝手に進められて、口出ししないわけにはいかない。

 

「それなら、フミオとは後でだ。これから俺とカナタだけで海に行く」

「なんだそりゃ……俺のアイディアだぜ……!」

「それは分かってる。だからフミオとも行く。いいだろ、それで」

 

 前に『なんなら一人で行くさ』と言っていた時の涼しい顔はどこへやら。

 ギリリと、歯を軋ませてレイジを睨み付けるフミオの手元に、カナタの目が行く。爪の間に挟まったモーターオイルのカスがはっきり見えるほどに、彼の拳が白く染まっていた。

 ちゅぽ、と音を立ててカナタの口からストローが離れた。

 

「フミオは、レイジと海に行きたいのか?」

 

 オレンジ色のジュースが、その中をゆるゆると戻っていく。

 

「っ、いや。こいつはどうでもいい。ただ、分かるだろ。こういうのムカつくだろ、なんか」

「そろそろ邪魔していいですかあ?」

 

 ガックリ落ちたフミオの肩越しに、目元を赤く泣き腫らしたキリエが手を伸ばしてきた。彼女が彼らの前に放り出したのは、ホッチキスで綴じられた数冊の紙束だった。

 

「あ、こないだの模試じゃないの」

「モシ?」

「テストってことよ」

「……あー、テストな」

 

 またもや、学校のことになると、カナタはいまいちよく分かっていない様子で頷いてくる。やはり今回も、問い質そうとするレイジをルリコが睨んで黙らせた。

 

「なんスか先生。俺ら今、仲良くギスギスしてたとこなんだけど」

「いいですねえ。衝突もまた、アオハルですからねえ。もうパチンコ玉みたいにぶつかりまくってくださいよ。結構結構」

「ルリコ、センセーは何言ってんだ」

「頭おかしいオトナのたわごとなんて、私が知るはずないでしょ」

「希望とロマンに満ち溢れた夏休み。ひと夏の冒険。それもたいへん結構。ですがね──おたくら、その前に大事なこと、忘れていやしませんかね」

 

 キリエから放たれるアルコール臭に、無言の圧迫感が混じっていた。

 

 

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