海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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7.ナイス・ドリーム(1)

『それ』は歌う。

 中央のマリコが歌うと、彼女の下半身が埋め込まれた肉塊が震え、数多の声で追従する。まるでスピーカーのように喉を振動させ、とある一曲を再現する。

 

「Nice dream ──Nice dream」

()()()、へっどだ……」

 

 ルリコと共に地面で腹ばいのカナタが、呆然と呟いた。

 瓦礫の山に降り立った黙示録の怪物が歌うのは、Radioheadの『Nice Dream』だった。マリコが、彼女に教えてくれたグループ名。

 残酷なまでに美しい旋律で、マリコの死体がカナタに語りかけてくる。

 

If you think that you're strong enough.(もしあなたが過去を越えられたと思うなら)

 

 かつてマリコと共にラジオ放送に聞き入ったことを、カナタは思い出す。

 こんな風にやさしい光の差す午後のキッチンで、レイジのために卵焼きを作っていた。不安なことばっかりで、体はぐちゃぐちゃで、痛くて辛くて──

 

If you think you belong enough.(もしあなたが新しい人間になれたと思うなら)

 

 カナタの指先が、床に撒き散らされた小片を握り締める。

 辛いことしかなかったはずなのに、満ち足りて、幸せだった合宿の一週間のことを思い出してしまう。

 クラスのみんなが周りにいた。

 大きな家族みたいに過ごせた。そして──みんな死んでしまった。

 

Nice dream.(それってとっても、素敵な夢ね)

 

 怪物は天を仰いで、歌う。

 

「サイアクね、こいつ」

 

 ジャリッ──瓦礫を踏んで立ち上がるルリコが、カナタを引っ張りあげる。

 彼女も、気づいている。マリコの声に追従する十八人分のコーラスは聞き覚えのある声で構成されている。

 シンイチ、ダイスケ、トモユキとエリ、サオリに──とりわけ特徴的な、滝沢牡丹(ボタ子)のハスキーボイス。

 

「あのドロドロの中から、わざわざA組のヤツだけ選んでつれてきたってワケ? マジで吐き気する……」

 

 妹の死体を冒涜されて、当然だがルリコは激怒していた。静かに、しかし、フミオを刺した時以上の激しさで、彼女の怒りが燃えている。

 見上げるルリコと、首をかしげながら、それを見下ろすマリコ。緊張が徐々に満ちていく。

 

「Nice dream」

「あれ、マリコなんじゃないのか。ホントに」

 

 カナタは、自分が何と向き合っているのか、分からなくなってくる。

 十九人分の死体を繋ぎ合わせたヘドロの怪物。それは理解している。何か、途方も無い偶然と悪意がそれを生み出したであろうことも、分かる。

 だが彼女を苦しめるのは、アレが「らじおへっど」を歌っていることだ。

 

「あの歌、マリコと一緒に聞いたんだ。だから、それ覚えてるってことは──」

「ダメよ。惑わされちゃ」

 

 ルリコはそう言って、床の上に視線を走らせる。数メートル離れた場所に拳銃を見つけて、彼女の目が細まる。

『マリコ』の瞳は姉に対する興味を失ったように虚空をさまよった後、今度はカナタの眉間に定まる。

 金色の目が、わずかに細まった。まるで──カナタを、トモダチのカナタとして認識しているようだった。

 

「マリ──」

 

 その目がいやらしい三日月形に歪められた瞬間、びゅうっと空気を切り裂いて、細く鋭いものが飛んできた。

 

「ちっ!」

 

 千切れそうなほど強く、カナタは腕を引かれる。舌打ちはルリコのものだ。

 彼女といっしょになって再び床の上に転がりながら、カナタは、自分の頭があった空間を貫いたものを見る。

 結晶化したヘドロだ。太い、杭のような形になった凶器は、もはや黒曜石のような光沢を放っている。

 

「ら ら ら ら──」

 

 瓦礫の上で前足を持ち上げた『マリコ』が、それを勢いよく振り下ろす。シャフトがグラグラ揺れ、彼女の進入口となった大穴から大量の残骸が降り注ぐ。

 

「ヤル気マンマン、ってことね……」

 

 巨体の表面がボコボコと盛り上がり、尖った杭の先端が現れる。このままではカナタともどもハリネズミだ。

 何か、隠れられるような場所はないかとルリコが視線を走らせると──

 

「おい、こっちだ、バケモン!」

 

 薄幕のように張ったホコリのカーテンの向こう側から、フミオの声が迸った。それはひどく震えて、聞くだけで、彼をさいなむ苦痛と恐怖を感じ取れる。

『マリコ』の体をダラリと揺らして、怪物が振り向く。

 

「アイツ、なにしてんの……」

 

 舞い散る塵の中に、フミオのシルエットが現れる。血まみれの顔で、砕かれて刺された右腕をダラリと下げ、残った左腕に何かを掲げている。

 黒い、楕円形の何か。表面には規則正しくスジが彫られており、どことなく板チョコを想起させる。

 

「ルリコ、行け! ここは俺がなんとかする!」

「アンタ……」

 

 彼が勢いよく噛んで引きちぎったピンが、差し込む光の中で鮮やかに反射する。

 ルリコは悟った。あれは手榴弾だ。炸裂すれば手どころか全身ズタズタに引き裂かれるようなものを持って、彼は怪物の前に姿を晒している。

 

「な……なにやってんだ、オマエ!?」

 

 ルリコの理解と驚愕は、すぐカナタにも伝染した。

 なまじレイジと見てきた映画で学習した分、こっちのほうが状況に対する理解が深い。これは俗にいう『ここは俺に任せて』というヤツだ。

 概して勇敢なヤツがこのセリフを言って──たいていは、そのまま死ぬ。

 

「見りゃわかんだろ。俺がコイツをひきつける!」

「アンタね、そんなコトしたって許してあげないんだからね!?」

「わあってるよ! 俺はひでえことばっかした。嫌われたって恨まれたって、もうモンクはねえ!」

 

 ゴトリ。怪物がフミオの方に一歩踏み出し、瓦礫の山の上から、子供の頭ほどある塊が転がってきた。

『マリコ』の足元にあったとき、それはまるで砂粒のように見えた。あまりにも巨大な怪物相手にケンカを売ろうとしていることに、フミオは足が震えそうになる。

 いや、すでに膝ガックガクだ。

 頼みの背骨子も、なんの音沙汰もよこさない。彼は見捨てられたのだ。

 だからなんだ。彼はくじけそうになる心を一喝する。もう選べない男なんて、卒業してやる。人生唯一『俺が選んだ』と言えるもの。好きになった女のために、決断を下す。

 

「何度も言うけどな──ルリコに幸せになってほしいってのはマジなんだ。こんなトコでくらばらせるかよッ」

 

 それを受けて走り出すかと思われたルリコは、そうしない。できない。

 彼女は確かにドライな人間だ。使えないやつ、会わないやつ、全部切り捨てる準備は、とっくの昔に済んでいる。

 だが、彼女にも好きなものはある。()()()()()()()()()()()()だ。

 レイジが『変わりたい』と言ったとき心がはじめて動いたように。こんな土壇場でフミオが見せた暗夜に針の先が輝くほどのきらめきが、彼女をこの場に釘付けにしてしまった。

 不幸なほど、最悪のタイミングで。

 

「カナタ」

 

 うつろな声で、ルリコがささやきかけてくる。

 

「私が合図したら、アンタは走って。レイジ掘り返して、クスリも手に入れて、あとで合流する。それに──フミオも連れて」

「ダメだ!」

 

 カナタは叫ぶ。

 怪物の注意がわずかに彼女の方に逸れ、あわてたフミオが手榴弾を振りかぶったのが見える。

 

「ダメだ。ダメだダメだ。ルリコが残るならアタシも残る。みんな放り出して一人でいくなんてできるハズねえよ!」

「おい、デカブツ!」

 

 脂汗を流してカナタと見詰め合っていたルリコは、そこでハっとなる。

 未知の兵器を手に大声を張り上げてくる人間を前に、『マリコ』は興味津々だ。瓦礫を突き崩しながら降りてくると、光を背負った荘厳さは薄れ、むっとくる臭気が鼻をつく。

 十九人分の死体。十九人分の絶望。すべてがフミオにのしかかってくるようだった。

 だがフミオはそれを断ち切る。贖罪ではない。カッコつけようとか、そういうのではない。

()()()()のだ。()()()()、オトナになりたいのだ。

 彼はピンの抜けた爆弾を、怪物の顔面、つまりマリコの体めがけてブン投げる。

 

 痛みと過呼吸のせいで脈打つ視界の中で、時間の流れが鈍化する。

 

 手汗まみれの彼の指から解き放たれ、手榴弾は放物線を描く。

 

 10センチ、20センチ……彼からゆっくりと離れていくのが見える。悪くないコントロールだ。その先に、怪物がいる。

 素直な軌道で胸元に飛んでくる手榴弾を見て、思わずマリコも手を伸ばしてしまうほど────

 

『はい、ダメー』

 

 それがピタリと『止まった』。

 

「……は?」

 

 フミオはわが目を疑う。胸の縫い目がジリジリと熱い。埋め込んだ背骨が、激しくのたうっているのが分かる。

『終結因子』だ。

 こんなワケの分からない状況を作り出すものがあるとしたら、それしかない。

 フミオは鼻の先三十センチで完全に停止した爆弾を見つめることしかできない。それに、運動エネルギーは残されていない。

 爆発しないし、落下することもない。完全に空間に対して固定されている。

 ──何も選び取れず、停滞する彼をあざ笑うかのように、爆弾はただ、そこにある。

 

『フミオ。インガオーホーって知ってるでしょ』

 

 彼の胸を突き抜けるようにして、少女の幻影が頭を現す。

 鼻から上だけの姿でニンマリ笑ってくる顔は、さっきマリコが浮かべた笑みとまったく同じ質のものだ。

 かいぶつが、にんげんのマネをしている。

 

『じゃ、吹き飛ぼうか。レイジとカナタちゃんの恨み、しっかり味わってもらうよ』

 

 コトリ。

 

 手榴弾は見えない支えを失い、その場にまっすぐ落下した。フミオの爪先から、わずか数十センチの距離。彼の心臓が、鼓動を忘れる。

 

「死……」

 

 フミオは呆然と呟く。舌の上がピリピリして、鼻を通る息が冷たい。

 

 ■

 

 その瞬間、ルリコが駆け出した。

 何か不可思議な力が働いて、手榴弾が落下して『ああ、フミオ死んじゃうわね』と理解したと同時に、体が勝手に動いたのだ。

 

「ルリ──」

 

 カナタの声が聞こえなくなる。怪物の攻撃から、身を隠す時間は無い。ムナカタに仕込まれた知恵が、彼女に告げてくる。あのタイプの手榴弾はピンを抜いてから爆発までの遅延時間が4.5秒しかない。

 

 パシュッ

 

 彼女の動きを見た怪物もまた、脊髄反射で迎撃を行う。

 体表に埋没した無数の黒杭を発射し──そのことごとくが外れる。体をひねってネコのように飛び上がったルリコは、また、ネコのようにしなやかに着地する。

 フミオとの距離は五メートル。彼女の右手は、重厚な鉄扉の取っ手にかかっている。邪悪な研究に使われた棺のフタだ。今回はこれが、彼女とフミオの生命線になる。

 

『──ふえ?』

 

 死の予感に押しつぶされていくフミオを見てせせら笑っていた少女が、ここで始めて、ルリコの接近に気づく。

 

『どう、して』

「どうして、かしらね」

 

 ルリコには、少女の存在を知覚する方法がない。この場で偶然にも会話が噛み合ったのは奇跡でしかなく、ルリコの放った言葉は、自分に対する問いかけだ。

 

 どうして? 

 

 鉄扉を掴んだ手首の関節を軋ませながら再度駆け出したルリコは、レイジの背中を思い出す。

 あの場は、フミオを撃つのが正解だった。今だって、彼女はそれは間違った判断ではないと確信している。

 

 残り0.5秒。いつ爆発するか分からない手榴弾のタイマーを、彼女は仮定する。彼女はいつでも他人と、何より自分に厳しい。

 

 レイジの最後の言葉。『()──』

(よかった、だったのかしら)

 

 うなりをあげて鉄扉を振りかざすルリコを見つけて、フミオが目を剥く。今にも炸裂しようとする爆弾の上にそれを叩き付けながら、ルリコはまだ、頭の片隅で考えている。

 なにが、よかったのか。

 どうして彼がふっと笑ったとき、自分も『ああ、救われた』と思ったのか。

 ルリコの体が飛ぶ。爆弾の上に伏せた鉄扉に覆いかぶさって、全体重で押さえつける。あとは運を天に任せるのみ。

 

(なんとか無事に切り抜けられたら、あの言葉の意味────)

 

 ルリコの耳の奥で、自分の心臓の音が爆弾のカウントと同じ速度で刻まれているのが分かった。

 

「ゴッ」と地鳴りのような音が聞こえた直後、

 

 炸裂。

 

『ルリちゃんっ!』

 

 爆発の瞬間、彼女はとても近いところで、少女の叫び声が聞こえたような気がした。

 

 ■

 

 ズドムッ

 

 くぐもった爆発音が響き、鉄扉と床の隙間から暗い光と土ぼこりが噴出した瞬間──ルリコの細身が、軽々と宙を舞った。

 爆発の衝撃を鉄扉が吸収したはいいものの、ルリコの体重では、扉を押さえ続けるのはムリだった。

 

 彼女は二メートルほどきりもみで飛んだ後、近くの瓦礫に背中から叩き付けられる。

 

「ぐえっ」

 

 どこかコミカルな叫びを上げながら、ビリっという音を聞く。衝突の拍子に、尖ったもので制服を破いたようだ。

 

(あーあ。やっちまったわね)

 

 ママの目を盗んでコツコツ貯めたカネで買った制服がオジャンだ。町の外がどれほど荒れ果てて、たとえ文明不毛の荒野だとしても、ボロを着てウロつくのはルリコの美学的に絶対ノーだ。

 ズルズルと瓦礫にもたれながら、彼女は安堵した。

 

(ま。いいわ。こうして服のこと心配できるのが、なによりの──)

「ルリ、コ……」

 

 カナタの声で、彼女はハっとなった。

 包帯ぐるぐる巻きで見えづらいことこの上ないが、彼女の顔はいつもの白さに輪をかけて真っ白だった。

 そして、血の気のうせた顔で見つめてくるのは、フミオも同じだ。まるで、目の前でだれかが死に掛けているような表情を浮かべている。

 さっきまで銃を向け合っていた相手とは思えないわね──ふと視線を上げると、怪物まで動きを止めて、じっと彼女を見つめてくる。

 

「ああ……」

 

 金色に輝く怪物の瞳が、ふと細く揺れる。

 割り切ったつもりでも、やはりルリコは、そこにマリコを見てしまう。

 

「ごめんねえ、マリコ。守ってやれなくて……」

 

 そして最後に彼女は気づいた。立てない。体に力が入らない。

 視線をマリコから下ろしていって、ようやく己の体に起きた異常を見て取る。右脇腹を貫通して、折れ曲がった茶色い鉄筋が生えている。

 腹の穴から引きずりだされて、鉄筋の先端に引っかかっている白いヒモのようなものは、おそらく腸だ。

 ズタズタに引き裂かれ、ピンク色の裂け目から血をにじませる自分の内臓の艶かしさに束の間心を奪われ──ルリコは、瓦礫の上で昆虫標本のように磔になった自己を認識する。

 

「なによ、もう。これからって、ときに……」

 

 彼女の意識が急速に遠ざかる。

 もう、なにも見えない。柔らかな光も妹の顔も、楽しかった夏の思い出の数々も。ただ、そこに、死という名の暗闇があるだけだ。

 

 ■

 

『なんで。なんで、なんで、そんなことしたの!?』

 

 今やルリコは二度と口を開かず、カナタもフミオも、同じ沈黙の中に身を浸している。いななきのような声を上げた怪物が静かに姉の体へと向かっていく。

 

『憎いでしょ!? だって、フミオを殺したくなるはずじゃない!? なんでよ。分からない。どうしてこんなヤツのために──!?』

「やってくれたな、クソガキ……!」

 

 静けさの中で一人取り乱す少女を、カナタが一喝した。

 

「誰がここまでしろっつった。こんな風になる必要はなかったッ!」

『だって。きみをそんな体にしたヤツだよ?』

「それが?」

 

 カナタはまっすぐ、少女の下に向かってくる。

 肩をいからせ、無事なほうの瞳は血走っている。そこに怪物がいるということすら、今の彼女には見えていない。地響きを鳴らす蹄の間をすり抜けてカナタが近づいてくると、少女が後ずさる。

 

『憎くなったら、殺すしかないじゃない……』

「何抜かしてんだ、オマエ」

 

 少女の隣で、フミオは立ち尽くしている。彼が命がけで助けるはずだった少女は、代わりにその命を賭けて彼を救ってくれた。

 今は柔らかい光の下で串刺しになって、マリコの姿をした怪物が頬に触れている。足を伝って床に垂れる赤い血が、彼女の終焉を物語っている。

 

「ら ら ら ら」

 

 十八の喉とマリコの歌声が、静かなハーモニーを奏でる。

 目を閉じた姉の頬を、彼女は何度も何度も優しく撫でる。死んだことを悼むだけの『マリコ』が、まだその中に残っているのか。それとも偶々、彼女の死が怪物の興味を惹いただけか。

 

『ルリコさんが……かってに……私、フミオ殺したら、みんな喜ぶと……』

「そこまでするほどじゃない。だってのに、オマエが全部……」

『勝手に動いたのルリコさん、だもん』

「だから?」

『フ、フミオが死んだらレイジは喜ぶよ!』

「レイジはそんなんじゃ喜ばない」

『私、わるいこと、なんて、私悪い子じゃ、ちが……』

 

 カナタに詰め寄られ、少女は声に涙を滲ませる。胸の前で組んだ手が細かく震えている。

 その輪郭が崩れ始めていた。

 自分の『よかれ』がすべて裏目に出て、オマケに大好きなカナタがブチ切れている。もはや、幻影としての姿を保つような余裕は、彼女には残されていない。

 

「人間はな『にくい。ころそう』じゃねんだよ。そんなコトも知らねえのか」

『だってわたし、「にんげん」じゃないから……「にんげん」の気持ちが……あっ、ああ、あああっ……』

 

 

 ……あーん

 

 

 あーん

 

 

 うあああああーん

 

 限界が来た。

 壁際にまで追い詰められた少女は、大声を上げて泣き始めた。大粒の涙が落ちた床に、黒いヘドロの塊が浮き出る。彼女はあくまで、幻影だ。そんな形で痕跡を残さなければ、自分が『いた』という証拠を残せない。

 孤独で、哀しい、子供なのだ。

 

「……くそっ」

 

 ワンピースをくしゃくしゃに握り潰して泣く姿が、カナタの吐き気を誘う。

 気分が悪い。湿って暗い部屋の片隅まで子供を追い詰めて、怒りに任せて叱責している。それでルリコが戻ってくるワケでもないのに。

 

(これじゃ……父さんと一緒だろ。しゃんとしろ、イスルギカナタ)

 

 背後でフミオが崩れ落ちる音を聞きながら、カナタは目を瞑る。眉間を、げんこつで何度も叩く。

 レイジが撃たれて、フミオが自爆特攻しかけて、ルリコが死んで──いったい何を、どこから手をつけていいのか分からない。

 泣きたいのはカナタも一緒だ。そうしないのではなく、できないのだ。あれほど一緒にすごして遊んで笑ってきたルリコがいなくなってしまった。脳が受け止め切れてない。

 

『カナタ、ちゃ……カナタさん。やだ。捨てないで……』

「あのな。いいか……」

 

 カナタは、少女の前にひざまずく。

 頭の中はぐちゃぐちゃなのに、彼女を見捨ててしまうことが、どうしてもできなかった。

 

「オマエがアタシらのこと助けようって気持ちは、よくわかる。でも……」

「ら ら ら ら ら」

 

 低く、腹の底に響くような合唱だった。今まで慈しむように姉の体に触れていた怪物が、頭を抱えて苦しみ始めた。

 シャフトが激しく振動し、瓦礫の山が音を立てて崩れ始める。

 床に敷き詰められたタイルの隙間から、黒いヘドロが湧き上がってくる。怪物を中心に、間欠泉のように黒い柱が吹き上がる。

 

「ら ら ら ──」

 

 怪物は慟哭していた。

 マリコの目からとめどなく流れるタールを見て、カナタは悟る。あれの中には、まだマリコがいる。

 

「マリコ、アタシを見ろッ!」

 

 この悲劇の連鎖を、ここで終わりにしたい。その気持ちが、カナタを奮い立たせた。あたりをめちゃめちゃに踏み荒らし、タールの飛沫を巻き上げる怪物に、近づいていく。

 死臭が強くなる。十九人分だ。きっとその頭として接がれたマリコは、彼らすべての悲しみを背負わされている。

 きっと──助けられる! 

 

「ルリコが……そんなコトになって……でも。やめにしよう、もう」

『カナタ……やだあ……』

 

 少女が、手にすがりついてきたのが分かる。しかし今はそれどころじゃない。彼女のことを意識の外に追い出すと、とたんに、その存在感が薄れていった。

 

「こんなの悲しいだけだ。アタシらだけでも」

 

 ズンッ

 

「うっ」

 

 豪風が体のすぐ横を通り抜け、カナタはゴロゴロと転がった。イラ立った怪物が瓦礫を蹴り飛ばし、それが掠めたのだ。

 

「う……くそ……」

 

 暴れ狂っていた怪物の動きが、ピタリと止まる。今まで意識すらしていなかった羽虫を、部屋の中で見つけたようだった。

 邪魔。始末。無造作に部屋を踏み荒らしながら向かってくる巨体に対して、カナタは何もできない。

 

「フミオ、逃げろッ!」

 

 彼はうなだれたまま、動かない。再起不能だ。肩の傷から腕を伝って滴る血が、床に水玉を描いている。

 カナタは立とうとしてもがきながら、叫びたくなる。あまりに無力だ。レイジが撃たれたときもルリコが死んだときも、何もできずにいた。

 やったことと言ったら、子供を怒鳴って泣かせたことくらい。

 レイジのそばにいると言いながら、やってることはいつでも添え物。こうして一人で放り出されると、何もできない。

 

 ズンッ──怪物の足取りでシャフトが揺れる。ヘドロから蹄を生やした醜悪な塊が、こちらに向かってくる。

 瓦礫の山がひとりでに振動している。怪物の足取りとも、コーラスが生み出すものとも違うリズムで、力強く脈打っている。

 

 ドクン、ドクン──

 

 鼓動だ。カナタが一番よく知る命のドラム。なんども抱かれて、守られてきた、彼だけのリズムだ。

 

「助けてくれ……レイジ」

 

 彼女がその名を呼んだ瞬間、部屋の重力が裏返った。ゴウッ、とうなりを上げ、積みあがった瓦礫が浮遊を始める。

 髪の逆立ったフミオが、軽く顔を上げる。撒き散らされた血と薬きょうが頬を掠めて浮かび上がる中で、彼の視線は空虚そのものだった。

 怪物が、身じろぎする。

 重力反転は瓦礫の山に近づくほどに強まる。爪先の浮いた怪物は地面を求めるように激しく四足で宙を掻く。それでいて、マリコの体はキョロキョロと興味深そうに辺りを見渡している。

 そして、

 

 

『断絶』が起こった。

 

 瓦礫の中から黒い光の筋が現れて空間を一閃した直後、すべてが切り裂かれた。空気も時間も空間も、すべてが『彼』の敷くルールに従ったように両断される。

 内部にいるカナタには知る由も無いことだが、全長数百メートルに渡るA-6500シャフト自体が、今や唐竹割りのように引き裂かれていた。

 無論、それは髪の毛ほどの厚みの筋でもってだ。

 反物質の刃による切開は、かつて無いほど精密に、そして大規模に成し遂げられた。

 

 ズパッ──怪物の胴が黒い血を吹く。それまで元気にもがいていた後ろ足が、急に動かなくなる。

 

「ら」

 

 マリコは首を180度回して、ズルリと滑って地面に落ちる、自分の後ろ半身を不思議そうに見つめる。

 彼女はバランスを崩して倒れていく。「ら、ら、ら」という歌うような驚きの声が、どこか間抜けに響き渡る。

 ボテボテと床でバウンドし、マリコはその手で地面をかく。その動きに、自分の後ろ足がなくなってしまったという緊迫感はまったく感じられない。

 砂遊びに興じる子供のような動作を繰り返す彼女の前に、彼が現れる。

 

「ッ……」

 

 カナタが息を呑んだ。

 

 瓦礫が穿った穴の底から這い上がってきた男には、吹き飛ばされた頭が再生していた。

 しかしその目に宿る光はない。死人そのもののような目をしている。彼の視線は固唾を呑んで見守るカナタを素通りし、ブロックの上で磔になったルリコに留まる。

 

『……私、触られンの好きじゃないのよね』

 

 男の顔がピクリと動く。近くで、彼女の声がしたような気がした。その匂いも、かすかな笑い声も。

 軽くウェーブした自慢の黒髪が、視界の端を掠めて舞う。

 彼はそれを追ったりしない。グズグズに砕けたのを直したばかりの脳が見せる過去の残像で──彼のむなしい願望だ。

 

『見んな。悪趣味』

 

 でも、焼き付けておかなければ。覚えていると、約束したのだ。

 彼は分厚いコンクリートの外壁を貫通してシャフトの外まで聞こえるほどの音を立てて、拳を握りこむ。骨と皮と肉が潰れ、それは瞬く間に再生する。

 たった30分。こうして立ったままでいる間も、彼の命は燃やされ、尽きていく。

 それでもルリコから目を離すことができない。

 

『アンタが責任感じる必要はない』

 

 やめろ。男は首を振る。都合のいい言葉ばかりをリフレインして、俺を慰めようとするのはやめろ。

 向き合うんだ。

 彼はほんの数秒、目を覆って天を仰いだ。彼の髪から、乾いた血糊がパラパラ剥がれて風に舞う。

 傍では彼女の妹の姿をマネする怪物が、バコバコゼエゼエと騒々しくやっている。彼は反物質の薄刃を軽くスイングし──静かにしてやった。

 

「フミオ……俺は死にかけて、理解したことがある」

 

 彼は、レイジは、歩き出した。崩れ落ちたままだったフミオの目に、ようやくひとつの感情が宿る。恐怖だ。

 認めたはずの罪を撤回したくなるような、おそろしいものが、彼の元に向かってきている。

 

「俺の抱えていたものは、『憤怒』じゃなかったんだ」

 

 両断された怪物をまたぐ時、レイジの顔に憂いが浮かんだ。マリコを避けてやったつもりだったが、へその辺りが切り開かれ、赤い筋が浮いている。

 彼のガサガサとした掌がマリコの見開かれたまぶたにかかり、それを閉じる。おやすみマリコ。悪い夢を、もう見ないといいんだが。

 

「ずっと、俺も不思議だったんだ。こんなに静かで激しいものを『憤怒』と呼んでいいのか。俺の『憤怒』は本当にみんなの感じる『憤怒』と同じなのか」

 

 お前は勘違いしてるぜ──ヨシとの殴り合いの中で、レイジは疑念を抱いた。そして、悪夢に出てくる少女がかけた言葉で確信した。

 

『レイジ、だめだ……』

「なぜ? だって、きみがくれた、最初の感情だろ? 俺に、そうなってほしかったんだろ?」

 

 泣きはらした顔の少女に首を傾げて見せると、彼女はビクリと震えて動かなくなった。気味の悪い毒虫が、自分のベッドの裏でさなぎを突き破っている姿を見つけたような表情だった。

『憤怒』じゃない。レイジの結論だ。

 胸の中でチラつく炎は、あくまで輪郭だ。彼の反物質が光を呑むとき端が光るように、彼のあらゆる感情を吸い尽くして虚無に返す、恐ろしいものがその奥に控えていた。

 カナタに穏やかな顔で笑いかけながら、レイジの足はフミオに向かっていく。

 

「あ」

 

 カナタが、声を上げた。その理由はレイジにも分かっている。

 彼を背側から照らす照明が、かげった。巨大な怪物がゆるりと首をもたげ、寸断された体で立ち上がろうとしている。

 マリコの悪夢は、まだまだ終わらないようだ。

 

「それはな、フミオ──」

 

 その夢が(ナイス・ドリーム)今度こそ終わることを祈って、そして自分が掴んだ感情の真価を確かめるように、レイジは右手の上で反物質を燃え上がらせる。

 物言わぬ無数の刃が、音もなく彼の背後に飛んだ。

 

「──『憎悪』(ヘイトリッド)だ」

 

 ビシャッ。一ミリ刻みで切断された怪物が、黒いペーストになって飛び散った。今度こそ、マリコの体まで跡形もなく刻んだ彼は、その体液で顔が真っ黒だ。

 その中に、白い半月のようなひずみが生まれる。

 レイジは歯を剥いて笑っていた。果てしない憎悪と踊る彼は、フミオに向けて反物質の刃を振るう。

 

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