ズ──シャアッ!
一閃。
天井の大穴から飛び込んできた襲撃者が、レイジの腕を切断した。
反物質の膜を纏った己の右腕が棒切れのように宙を舞うさなか、彼の瞳は頭上を跳び越していくサイボーグ忍者を追っている。
「……ああ。お前か」
さして興味を惹かれた様子でもなく、レイジが呟く。上腕の辺りで切断された腕をキャッチして、彼は断面に押し当てる。それで元通り。
ニンジャの握るブレードには細工があるのだろう。追い打ちで注ぎ込まれたナノマシンに骨の芯を焼かれる感覚を覚えているが、今の彼にとっては無問題だ。
暴走寸前まで引き出された再生力の前では、極悪の二文字を具現化したようなNullifier404でさえ、海の塩味を涙で薄めるような、むなしい破壊を試みることしかできない。
「思えばお前とは長い付き合いだ。七区。町の外──ほかにももっと、いろんな場所で戦ってきたような気がする」
トッ──軽い音を立てて、三百キロのサイボーグがフミオの真横に着地する。自然と、カナタもその背後に庇う形だ。
レイジは少し苛立つ。まるで自分が、彼女の脅威になるとでも言われているようだ。
その体はクモが地を這うように低く、左手でブレードを逆手に構えている。髑髏のマスクの奥から放たれる緑の眼光は、彼を探るように、疑うように揺れている。
「驚いた。キミは本当に……イスルギレイジなのか」
「そうだ。俺は
レイジの呟きにあわせて、世界が静粛する。
俺の言葉、微塵でも聞き逃せば貴様を殺す──憤怒と、憎悪でもって。
おそらく西町で最強の存在であるサイボーグ忍者を前にして、レイジは悠然と構える。彼が見つめるものは、ニンジャではない。
ニンジャも彼の視線を先を目で追う。そこにあるものは、眠ったように動かない、ルリコの体だ。
「あれは……ルリコ、さん、か」
分厚いフェイスガードの下から吐き出されるニンジャの声は、かすれていた。
レイジは答える代わりに目を瞑り、彼女のために祈る。きみと、きみの妹の眠りが、安らかであるように──
「フミオくん。バッグ。『中和剤』、まだありますね」
そんなレイジを警戒したまま、ニンジャは傍らのフミオに声を放る。
「えっ、あ、はい」
彼は、全身の痛みに顔をしかめながら床からバッグを拾い上げた。
その中に収められた数々の銃器と手榴弾に混ざって、数日分の着替えや食品も混ざって見える。ただ、親友と決着をつけるのにそんな雑貨は必要ない。
サイボーグ忍者、樋口キリエはマスクの下で目をぎゅっと瞑る。
(この子は、また何も選べなかったのか)
彼女は目の前の怪物を刺激しないよう、そっと振り返る。
「カナタさん。私といっしょに来てくれますね」
「──おい」
レイジのまぶたがゆるやかに開かれる。ルリコの死を想うときは穏やかな顔をしていたのに、カナタの名前が出ると、その表情が途端に悪鬼のように変貌する。
彼に見据えられた瞬間、キリエは、アーマーの下で皮膚が粟立つのを感じる。ほぼ全身をシリコン製の人工皮膚に取り換えた彼女にとって、それは起こりえないことだ。レイジの憎悪は、彼女に忘れていた身体反応をフラッシュバックさせるほどに色濃く、鋭い。
「カナタをどうするつもりだ」
「いっしょに、連れてきます。今のキミは危険ですから」
「いきなり人の腕を切り落とすやつが、そんな言葉を吐くのか」
『レイジ……』
子育て失敗。
泣きはらした顔でオロオロと手を伸ばしたり引っ込めたりする少女を見ていて、カナタはそう感じる。
レイジが拷問のような人体実験を受けている最中も、彼女は傍にいたのだという。彼がそのことを忘れてからもずっと、善き人になるように見守り続けた。
彼女は自分がにんげんではないと言うが、レイジに向ける気持ちは、間違いなく愛だ。
「誰であれ、カナタに指一本でも触れてみろ。死んでもらう」
その結果、レイジは『憎悪』を知ってしまった。
彼は右手を掲げる。白い火の粉がいくつも宙に舞う。ほんの数グラムで都市を消し飛ばす対消滅を引き起こす微粒子が彼の足元に降り積もって、侵食を開始する。
反物質を纏うレイジは、周囲に存在する万物をスポンジ状に侵してしまう。分厚い陶製のタイルは、彼の歩みに合わせてサクサクと音を立てて崩壊する。
「──死んでもらう、と来たか。できるんですかね、キミに。私を殺すなんてコト」
サイボーグ忍者の声に緊張感が混じる。とてつもない場数を踏んできた彼女だからこそ、分かる。レイジは怪物だ。
『にんげん』をかなぐり捨てた彼はあまりに恐ろしく、悲しい。
「はい。ええ。そうだ……どのみち、フミオはここで落とし前をつけてもらう。そして、あんたにも色々邪魔されてきた恨みがある」
「レイジ、俺──」
「黙れ」
思わず前に進み出たフミオを、レイジの声が突き刺す。反物質と戯れる滅びの王は、いまや、言葉ですら人を殺せる。
彼はフミオに弁解なんて求めてない。黙って首を差し出すことだけが、彼の憎悪を鎮める唯一の方法だ。
「お前だ……お前が余計なコトばかりするせいで。ルリコは今でも生きているはずだった。笑って、冗談言ってくだらないことでキレて……なのに、お前のせいで」
『やだよお……こんなの、レイジじゃないよお……』
「焚きつけたのはオマエだろうが」
叩き潰すようなカナタの言葉を浴びせられて、少女が押し黙る。
陽炎のようにゆらめきながら歩いてくる彼は笑っているが、それは憎しみと怒りのあまり、笑うことしかできないからだ。
レイジはまだ、炎の中にいる。
それも以前の『憤怒』なんかよりもずっと熱く、どうしようもないほど暗い炎の中に。
「──オマエらだけで行ってくれ」
カナタの言葉が信じられないという風に、フミオとニンジャが振り向いてきた。
『カナタ、ちゃん?』
少女も同じ顔で見上げている。
レイジは危険。カナタにも分かる。正直、ニンジャの手を取ってしまいたくなる気持ちは彼女の中にもある。
彼の反物質は、近づいただけですべてを壊してしまう。
おそらく人体も──レイジは他者を認識しているように見えるが、実際は憎悪のままに荒れ狂っているだけだ。
その歩みを妨げた瞬間、パイ生地のように砕かれて踏み潰される自分の姿が、彼女の脳裏をよぎる。
「アタシはいつでもレイジと一緒。そう決めたんだ」
カナタは弱気になりかけた自分を笑い飛ばすように言った。
「……正気ですか」
「ああ。行くなら早くしてくれ。レイジが辛そうだ。傍に行ってやりたい」
ニンジャの言葉にどちらとも答えぬまま、カナタはレイジを見つめた。
「向き合うって、きめたんだ」
「では止めません。ここでひとまず、おさらばです」
樋口キリエではなく、防衛局の兵器としての決断だった。フミオのバッグを投げ捨てた彼女の手には、二本の注射器がある。
『中和剤』──ゆっくりと死に向かっていくレイジを救うための最後の希望を、彼女は掲げる。
ロマンも怒りも、大事なことは
彼の憎悪が向かう先を、せめて、設定しておく。
「シャフトを登ってリフトを戻りなさい。すぐレールが見える」
「うっ、ぐ……」
その肩に担がれたフミオが、うめき声をあげた。傷口を引き裂いて流れ出る鮮血が、ニンジャのボディに赤い筋を描く。
「……レールを辿れば、すぐにターミナルにたどり着く。町の出口だ。私は『中和剤』を持って、そこで待つ」
「逃がさん」
レイジが腕を持ち上げる。
ニンジャが飛びのき、空間を、反物質刀が切断する。薄刃の通り道に舞ったフミオの血滴が、ジュっと音を立てて蒸発した。
『あ、ああ……わた、わたし……』
少女が、カナタとフミオの間をウロチョロしている。
彼女だってレイジと一緒にいたい。だが結果的にルリコを殺して、レイジの憎悪を解き放ったのは彼女自身だ。
途方も無く涙を流しながら、彼女は何も言えない。何を言ってもカナタが怒ると思っているからだ。
「だいじょうぶだ」
彼女の傍らに膝をついて、カナタは触れられない頭を撫でてやる。
「アタシもごめんな。オマエ、いっつもアタシらのこと考えてくれてたのに」
『カナタ……ちゃん……』
「フミオ」
スーツの脇腹に大きな裂け目を作ったフミオが、力なく顔をもたげる。彼の体に残る生々しい手術痕は、少女の脊髄を埋め込んだものだ。
「あとでオマエをけちょんけちょんにしてやるコトは変更ナシだが──今は、そいつを頼む。なんか、甘いもんでも食べて、元気付けてやってくれ」
少女が見えないニンジャは怪訝そうにしていたが、やがて駆け出す。
次々と遅い来る反物質をかわして走る背中で、フミオが、折れていないほうの手で少女に手招きする。
『か、カナタ、ちゃん……!』
少女の体は、否応無くそちらに引っ張られていく。
「オマエはイヤかもしれないけど──フミオと仲良くな」
今の少女には、レイジやカナタ以外にも寄り添える相手がいる。決して孤独じゃない。それを、カナタは教えてやりたかった。
見えない手に引きずられていくようだった少女がイヤイヤする姿が、白煙の中に覆い隠される。
反物質の刃が煙幕を削り取って消滅させたとき、すでにニンジャたちは離脱していた。
ガラン。切り刻まれた配管が床に転がると、その音を最後に部屋は静寂に包まれた。
今はもう、レイジとカナタ、二人っきりだ。
無表情のまま手を振るって部屋を刻み続けたレイジは、ゆるやかに動きを止めた。じっと、右手を見つめる──
ジュバッ
その手首が、勢いよく血を吹いた。
役立たずの手とはオサラバ、というわけだ。もはや視線だけでモノを切断できるようになったレイジは、その手を振りかぶり、思い切り壁に投げつける。
パアンッ──彼の肉体だったものは、壁で水風船のように勢いよくはじけて、灰色と黒の破壊だけが渦巻く部屋に鮮烈な赤をぶちまける。
レイジの顔は変わらない。
激しく上下するその肩と緩慢に盛り上がる手首の断面の蠢きだけが、ブーストされた彼の再生能力が既に弱り始めていることを物語っていた。
「おい、そーいうのやめるって、約束したよな」
シャフト下部の冷気で白い息を吐くレイジが、ゆっくりと振り返る。
「……『にんげん』らしくするんだろ。『にんげん』になるんだろ」
レイジは答えず、薄氷を割るような音を立ててカナタの元に向かってくる。
彼の体の回りには微細な反物質が漂っており、空気中の粒子が常に対消滅の火花を散らしている。彼の足元で床は光り輝き、崩れていく。
すべてを憎んで無差別に壊す──まさに憎悪の権化だ。
向かってくるレイジの巨体を見つめながら、カナタは数日前のことを思い出す。レイジが暴走して、彼女の首を締め上げた日だ。
状況はなにもかも同じ。ただ、もしかすると今回はもっと悪いかもしれない。
「ほら。戻ってこいって。アタシのレイジに」
それでも彼女は両手を広げた。
あちこち解けた包帯がスルリと剥がれ落ち、痛めつけられた彼女の体があらわになる。
黒いタールの塊になって、あちこち骨が露出している。到底、人間とは思えない体の中に詰め込んだものは、胸いっぱいの勇気と希望と、そして愛だ。
破壊を振りまきながら向かってくるレイジを前に、それはちっとも揺らがない。
「カ」
硬く閉ざされていたレイジの口が、ほどける。
「カナタ……」
全身がグズグズに分解されて砕かれる瞬間は、カナタがいくら待っても訪れなかった。何かが崩れるような音とともに、レイジの両膝が地面に落ちる。
そのまま肩、両手。
彼女のすぐ前で巨体を折った彼の体から、反物質の膜が消えていく。
「こわかった……」
彼はもう、ただのイスルギレイジだった。
彼は、あれだけの恐怖と破壊を振りまいておきながら『怖い』と言う。それを『おいおいどっちが』とツッコむほど、カナタは彼に対して無理解ではない。
レイジは、優しい男だ。
「オマエにああいうキャラ、似合わないぞ」
「ああ……すまない」
彼が『怖い』のは自分自身だ。
「ばかでぶきっちょで、優しいのがオマエだろ。アタシとおそろだ」
静かに嗚咽するレイジの頭を抱いて、カナタは少し逡巡する。そして、咳払い。
「あ……ン、ンンッ」
右頬ごと裂けて耳まで繋がった口がモゾリと動いて、懐かしいメロディーを奏で始める。マリコが歌ってくれなかった部分を歌って、このひどい『夢』を終わりにしてやりたかった。
「
床一面を覆うヘドロがうねる中で、彼女はリズムを取ってレイジの背を叩きつづける。
「
「俺たちは、家に帰れるのかな……」
レイジが涙の狭間から差し出した問いは、かつてカナタが彼に投げかけたものだった。
町に死の雨が降って、みんなが死んだ。
マリコはぐちゃぐちゃの怪物になり、ルリコはそこで、穏やかな顔のまま串刺しになっている。
フミオは──レイジは再び湧き上がる『憎悪』を必死に押しとどめる。
この町にはもう、何もない。そう分かっていても、レイジの心はとある廃墟の一室に舞い戻ってしまう。
朝起きるとカナタの鼻歌が聞こえる。卵が焼けるにおいがして、薄曇りの空から射す光が台所のスリガラスを通して白い光で部屋を満たしている。
戻れない。戻りたい──
「……アタシらのいる場所が、アタシらの居場所だ」
顔を上げたレイジと、カナタは額を触れさせる。
「少なくともアタシは、オマエが戻ってきてくれてうれしいよ。レイジ」
「ああ……」
「あのおー、もしもーし」
壮絶で、しかし穏やかな時間。そこに波紋を広げるような死人の声が聞こえて、二人はギョっとした。
繋いでいた二人の手に脂汗が湧き出す。かいぶつになりかけたレイジと向き合っている時以上の恐怖を覚えて、カナタは彼を見つめる。
彼もまた、救いを求めるようなまなざしを彼女に向けてくる。
「カ、カナタ」
「う、あ、アタシにも聞こえた……」
「幻聴じゃないから。イチャついてるとこ悪いけど、ちょっとこっち」
ぎぎぎ……と二人がぎこちなく首を動かした先で、白い手のひらがヒラヒラ揺れている。
「一人じゃ立てないのよ。助けて。さっさと」
「ルリ……」
レイジの口から漏れた名が、途中でつかえる。言葉にならない。
そこには真っ赤に染まったコンクリートのブロックと、柔らかな光。
貫かれた腹から花束のようにカラフルな内臓が飛び出したままの姿で、ルリコが微笑んでいた。二人の顔に喜びの色が浮かんで──すぐ消える。
どう見ても手の施しようが無い。彼女は致命傷だ。