湿気の一切無い、乾いた無機質な空間だった。
分厚いブーツの底があわただしく鉄床を叩く音と、昇降リフトの駆動音。オレンジ色の光を薄暗闇に投げ打つ回転灯の下にフミオはいた。
手すりにもたれた彼のすぐ目の前を、パワードスーツが歩いて発進する。冷却系から勢いよく吐き出された噴気が、シャツの袖をバタバタと揺らした。彼は動かない。
足はへし折れ、右腕は使い物にならない。カナタといい勝負できそうなミイラ男となった彼は、ルリコを殺したときのことを、ずっと考えている。
ナイフで突き刺すほどの『敵』として自分を認識した彼女が、どうして手榴弾の上に身を投げたのか。
どうして、身代わりに死ぬような目に遭って、あそこまで穏やかな顔をしていたのか。
彼は顔を覆う。手のひらには、乾きかけの血がそのままだ。瞼を閉じると、串刺しになった彼女の姿が浮かぶ。
『名前を……つけてほしかったんだ』
彼のすぐ傍に少女が座り込んでいた。淡く光る幻影の少女は、うつろな目で通路に投げ出した足を見つめていた。
『名前があれば、こんな私も『にんげん』に近づける……名前がほしかった。レイジに名前をもらえたら……』
彼らの頭上で無機質な白色灯が小刻みに揺れている。西町では大量の怪物が暴れ、ついに地下施設にまで侵入してきている。
発進のために慌しく駆け回るパワードスーツのパイロットたちが、少女の足を踏みつけていく。
彼女は幻影だ。痛みなんて感じない。誰にも認識してもらえない。
どうしようもなく『にんげん』ではない……それが突きつけられる気がして、彼女は膝を引き寄せて、抱える。
『ばかだよねえ。名前があったって、『にんげん』になれるワケないのに……』
「笑ったりしねえよ」
フミオが暗闇に吐き出した言葉で、少女は顔を上げた。
「俺のもともとの名前は、フミオじゃない。クソみてえな実の親、
『そっか……ブンちゃんが』
遠い遠い七年前の記憶に、少女は思いを馳せる。
血まみれの子供を差し出して、ブンタが「頼む」と懇願してきたときのこと。彼が──少女を使ったこと。
『
「俺は
フミオはスダレのように垂れてきた前髪を乱暴にかきあげた。彼の目つきはネコ科の肉食動物を思わせる鋭さだ。
しかし、そこに光はない。
いつしか立ち上がった少女が隣で柵にもたれているのに気づいて、彼は顔を背けた。
「……ムナカタは……なんつーか、一応父親だったけど。俺を野菜みたいに育ててた」
ルリコと比べれば、はるかにマシな生活だったと感じる。
父も母もいない家に毎日帰ってきて、惣菜パンをかじって、寝る。父親と顔を合わせることよりテーブルの上にコップを文鎮代わりに置かれた夏目漱石の顔を見ることのほうが多かった。
太いヒモで首からブラ下げた家のカギを、ぎゅっと握り締めたときの感覚を、強く思い出す。
「愛がなかった、ワケじゃない……でもあいつは俺を捨てて……クソ。なんつったらいいか……」
頭をガリガリ掻き毟って必死に言葉を探すフミオを見ていて、少女は分からなくなる。
彼女はフミオを、明確に殺そうとした。
手榴弾を目の前に落として、肉と内臓をズタズタに引き裂いて──打ち上げられた魚みたいに口パクパクして苦しむ彼を見せれば、カナタとレイジの溜飲が下がると思って。
実際は違う。彼らに拒絶され打ちひしがれた彼女のことを、フミオは必死に慰めようとしている。
彼女は困惑する。
「……オヤジから名前を貰ったとき『生まれた』って感じた。だから俺は、お前のことを笑ったりしない。お前は好きじゃないけど、これはマジだ」
『うん……』
絆されるまい。そう、少女は肝に銘じる。
彼女は憎悪だ。レイジに自分の心の一部をちぎって分け与えた後でも、果てしないほどの怒りと憎しみで満たされている。
フミオは敵だ。それも、強く意識する。それでも──
ドン、と突き飛ばされ、フミオの体勢が大きく揺らいだ。
彼に気づかず通りかかった数名のパイロットが、少し離れた場所で振り返る。フミオは彼らを、野良犬のような目で睨む。
「……局長のご子息と聞いたが」
目深に帽子を被ったパイロットが口を開くと、すかさず隣の男が「やめろよ」とたしなめる。
それでも彼は睨みつける目を逸らすことは無く、フミオもまた、敵意で応じる。
「……ンだよ」
「やはり実の親のほうに引っ張られたか。何もできずに尻尾巻くのが、お前の仕事か」
『なんだよ、こいつら……気分わる』
ブーツのかかとを鳴らして、彼らは去っていく。
残されたフミオに、もはや威勢はない。フミオはしょせん、もらわれてきた子だ。ブンタのような決断力も豪胆さも、彼には無い。
そして彼は、町を裏切ったムナカタの実子。友人たちに背を向けるようにやってきた防衛局でも針のむしろだ。
局長の身内ということでみんな表面上は普通に接してくれるが──クズの息子。人の目に映る色を読む術に長けたフミオは、それがよく分かる。
『いくらなんでも、あんまりだろ! 確かにこいつの父親はサイアクだけど──!』
「いい。ホントのことだ」
ムナカタのことが話に出れば、フミオは自動的に負けるしかない。
タバコをくわえた彼の手元でライターの火が小刻みに揺れる。ズン、と尻を突き上げるような衝撃が走った。
格納庫にいた誰もが、激しく明滅するライトを見上げる。
爆発だ。それもかなり大きい。
「原発──」
誰かがそう呟いたとたん、全員の顔がこわばった。
その言葉が意味する“最悪のシナリオ”が、誰の頭にも同時に浮かんだからだ。
その中で平然としているのは、感情がふれきって無になってしまったフミオと、幻にすぎない少女だけだ。
『……フミオ』
少女が、口を開く。
『ルリコさんのことは、気に病まなくていい』
「あ?」
何を言ってるか分からない、という顔でフミオが少女を見た。
『あれは……私がやったんだ。きみはみんなを助けるために戦おうとして……私が水を差した。だから……』
「やめろ。やめてくれ──」
フミオは金髪を振り乱して、激しく被りを振る。
「全部俺だ。俺がやったんだ!」
彼の前を通って地表に向かうパワードスーツが、センサーの光を巡らして彼を見る。傍目には、彼は一人で叫んで頭を振っている狂人でしかない。
級友、そして元交際相手をその手で殺した、イカレポンチだ。
「頼む──俺から、ルリコを殺した責任を負う選択まで、奪わないでくれ……」
『フミ……くそ……なんだよ……』
少女は頭を鉄柵にたたきつける。痛みはない。手ごたえもない。
幻影の体はすり抜けて、額を柵の手すりが貫通したような形になる。フミオがぜいぜいと息を切らす横で、彼女は考えた。
(どんな世界にも、どんな町にも、地獄は潜む──)
フミオは、地獄を押し付ける側だと、少女はずっと思っていた。
そんな彼もフタを開ければ地獄の底を這いずり回る人間の一人で──カナタのこと。ルリコのこと。レイジのこと。憎いが、憎いだけでは、すでに片付けられないほど彼を知ってしまった。
彼女は『憎悪』だから、憎む他に何もしてやれない。
だけど、フミオにも救いがあっていいはずだと思ってしまう。
「フミオくん。私はターミナルに向かいます」
巨体をきしませて目の前にやってきたパワードスーツの肩に、キリエが乗っている。
彼女の頭はこの西町全体よりも激しくふらふら揺れている。
「禁酒……じゃ、なかったんすか」
《そうだぜマジで! もっと言ったれ、このクソ酔っ払いに!》
「ハッ──」
器用に肩をすぼめてみせるパワードスーツの顔面で、ビンが弾けた。
腹心の部下をそうやって黙らせた彼女は、もう片手に持っていたウイスキーの大瓶をラッパ飲みする。
ガポン。
ゴボ
ゴボゴボゴボ
琥珀色の液体が渦を巻いて、彼女の体に吸い込まれていく。後に残されたのは胸の悪くなるようなアルコール臭と、気まずい沈黙だった。
「こォれが……飲んでねえで、やってられっかってんだ……オエエエオロロロびちゃびちゃ」
そう言って彼女は、パワードスーツの上で吐いた。
禁酒生活四日目にて早々終了。その間それなりにイイモノを食べていたようで、栄養価タップリのクラムチャウダーみたいなゲロが、装甲板の上を流れていく。
生徒を皆殺しにされて、レイジが『転ぶ』ところ見て──彼女はもう、限界だ。
《姉御、これ一応精密機器。あねごー》
「だまらっしゃい……フミオくん。わ、私はレイジくんを止めます。彼は、このお、『中和剤』ナシではこの町を出られない」
あのバカタレ合羽軍団には、そこだけ感謝ですね──小刻みに震える手で、キリエは二本の注射器を掲げて見せる。
頼りない照明の下で、対ナノマシン用の特効薬が黄色い光を投げかける。
昏く、濁った光だった。まぶしくも無いのに、フミオは目を細めてしまう。
「ガキはガキらしく大冒険、じゃなかったんすか」
「はい。やめにしました」
あっけらかんと言い放って、キリエがピタリと言葉を止めた。
彼女の頭がクワンクワンと円を描いて揺れる。見えない羽虫を、照明の周りに追っているようだった。
「子供はすぐ死ぬ。オトナがキチンと閉じ込めて守らないと。やっぱダメだわ、ガキって」
《姉御……》
スーツの中の男はそこで言葉を切ったが、フミオたちにも彼が言わんとすることが分かる。
もう彼女はムチャクチャだ。
あまりに多く失ったせいで母性で狂ったようになっている。彼女は、いなくなった子供の名前を呼び続ける母親と同じだ。
おまけにサイアクなことに、西町で彼女を打ち負かせる存在などいない。彼女は頼れるキリちゃんから、最低の暴君に成り下がろうとしている。
そんな女の前で口を開くことすら忌まわしかったが、フミオは──
「先生」
「はい」
「そのクスリ、一本くれませんか」
彼は無事な左腕を差し伸べる。
キリエは、迷ったようだった。
「レイジくんのナノマシンを完全無効化するには、一本じゃダメです……それの片割れをキミが持つ意味、分かってますか?」
「はい。おそらく……」
「いいでしょう」
暴君は中和剤を、まるでジャンクフードでも投げるかのような手つきで放ってよこした。
「……レイジくんは私が止める。たとえカナタさんを殺してでも。キミが二本目をどうこうする出番はこない。それじゃ──お元気で」
《じゃあな、坊や。こっちはまあ、うまくやる。養生しろよ》
パワードスーツが、彼に背を向ける。
ゲロの臭いが染み付いた装甲板の上で、キリエがヘルメットを被る。髑髏のマスクは彼女から人間性をそぎ落とし、機械にしてくれる。
一機と一人の死神が格納庫を出て行ったのを最後に、あたりは静かになった。
数名のメカニックがパイロットたちの無事を祈る暇も無く作業に戻り──フミオは注射器を見つめる。
今の彼とレイジを繋ぐ絆は、この『中和剤』だ。
これがあるところに絶対レイジはやってくる。そして、フミオも逃げるつもりは無い。今度こそ。
『ね、クソフミオ』
彼の背中に、少女の声がかかる。
迷いが聞き取れる。彼女は子供だ。これから自分が言おうとしていることの矛盾にも気づいていて……それでも、感じた『正しい』のために、自分で選んだ道を信じようとしている。
フミオはただ、脇腹に埋め込まれた彼女の背骨を撫ぜる。
『……きみが夢を持てたら。何かを選んで、何か捨てるってことができたら……今度こそ一度だけ、力を貸してあげる』
「俺を殺そうとしたお前を信じろってか」
『そもそも私は『人間』が好きじゃないんだ』
すでに歩き出したフミオの背に向けて、彼女は言葉を発し続ける。
硬質な床を這う彼の足音は淀まない。迷ってないわけじゃない。ただ、立ち止まれば今度こそ、二度とまっすぐ歩けない予感があった。
『それでも『にんげん』は好き。レイジにカナタちゃんに、ルリコさんと、クラスのみんな、それに先生──フミオのコトは憎いけど、すごく『にんげん』だと思う』
背後からフミオの小指が引かれる。
錯覚だ。しかし少女の背骨を移植して、一部の神経を繋いだ彼には分かる。彼女はやくそくをしたいのだ。
『にんげん』らしくあるために。彼女の好きな『にんげん』の気持ちを知るために。
格納庫の最奥までたどり着いて、フミオは振り返る。そこに少女はもういない。
「ゆびきり……」
その呟きを呑み込んだ空間に、別の気配があった。彼の目の前に、一機のパワードスーツが佇んでいる。
先ほどまでこの空間を満たしていた機体たちとは明らかに雰囲気が違う。より鋭角的で、ガラスの破片のように研ぎ澄まされた装甲の色は赤く塗られている。
血のような赤ではない。嵐とともに訪れる夕空のような、
「飛びそうだ。な」
実証試験機をあらわす大量の黄色いテープで封印された機体の後部には、二対の巨大な翼がついている。
「よく飛びますぜえ。
近くでシートの上に几帳面に工具を並べていたメカニックが、顔を上げて言った。年かさの──年齢で言えばブンタをはるかに上回る、女性だった。
「それ、すごいんすか?」
「すごいすごい。こんなデカブツ、浮かせるだけでも大変だかんね」
フミオのことを知っているのか、場違いな高校生について何か聞いてきたりはしない。彼女はただ話したいのだ。わが子のような、カリッカリに仕上げたピーキー試験機を。
「で……サマナ。ってなんすか?」
「『
ハナの下をこすってオイルの汚れを広げる彼女と、フミオは『サマナ』を見上げる。
「これ、誰が乗るんだ?」
「乗りませんぜ」
「あ?」
年かさのメカニックがタバコを咥えたので、フミオはとっさにライターを取り出す。彼の手で火をつけてもらいつつ、彼女は「ども」と短く言った。
薄暗い格納庫の中で、白髪とその瞳が火に照らされて、どこか陶然ときらめいた。
「サマナはねえ、選べなかった機体なんですわ」
「選べなかった?」
思わず、フミオの心臓が跳ねる。さっきまで少女と交わした会話を、この老婆に聞かれていたのかと考えてしまった。
広大な空間の中で、ここだけ時間が止まったようだった。
老人の吹き上げるタバコの煙だけが、いたわるように『サマナ』の装甲を撫でつける。頭部を覆うバイザーの下に鬼面のような素顔を隠した試験機は、困ったように産みの親を見下ろしている。
「戦闘機のように飛び、戦車のように耐える。こいつに搭載された新型ナパームは1,500度で燃焼し、その極限環境下でも平気のへいちゃらで稼動を保障するインテリジェント装甲がある。自己修復、自己進化を繰り返し、得た『教訓』を他の機体にも共有する」
「完璧超人じゃないすか。それの何が」
「だからですぜ。なんでもできるってことが、なにもできない悲劇をこの子に呼んだんだ」
技術がどれだけすばらしくとも、兵器としてあまりに歪で、どっちつかず。
このカーマインの全能神は、自分を規定できなかった。
だからここでホコリを被り続けている。すべてを持ち合わせるがゆえに、永遠の未分化に苦しみのたうつ機体──フミオはそこに、どうしても自分を重ねてしまう。
彼は無意識に、ジャケットの胸ポケットにしまった父の拳銃を握り締めていた。
■
「──はっ」
ルリコは目覚めて、あたりを見渡した。全身が気だるく、重い。
地面は絶えず動いており、目の前には生暖かいレイジの背中がある。彼はフミオが荷物ごと残していったシャツを着ていた。
気絶の寸前「ナマでアンタの背中とか、イヤだからね」と言ってムリヤリ着せたのを思い出す。
「ここ……は?」
「降りてきたときに使ったリフト。今は上がって、ターミナルっつートコを目指してる」
傍らに立ったカナタは、ルリコの手を掴んだままだ。気絶している間もそうしていたせいで、すっかり汗ばんでいる。
血の気の無くなったルリコの体の中で、熱を持つのはそこだけだ。
「手当てしてくれたの?」
ルリコは腹に手をやった。キツく、何重にもタオルが巻かれている。
「モツ、元にもどしただけ。だから……」
カナタは彼女と目を合わせない。合わせられない。
ルリコは内臓が飛び出ただけではない。そのすべてがひどく傷つき、激しく出血している。
戻したところで、いまさらどうかなるわけでもない──そう分かっていながら、ルリコの気持ちは穏やかだった。
レイジの肩に、頬を預ける。
「あ……らくちんね。アンタにおぶってもらうと視線高くて気分いいわ…………ね。重くない?」
「ぜんぜんだ」
まどろむような声で囁きかける彼女の前で、レイジが首を振る。彼の襟足が鼻の頭をくすぐって、ルリコはくすぐったそうに笑った。
死に瀕した彼女が楽しそうにしているのが、カナタとレイジの心を締め付ける。
「もっと……太ったほうがいい」
「じゃ、外行ったらまた焼肉いこ。一日中テレビの前で、ポテトカウチなんか……やってみたかったな」
何かが喉につまったように、レイジがぐっと言葉を呑んだ。
ルリコは長くない。本人含めて、みんな分かってる。捨て置けと言った彼女を連れ出してきたのは、レイジだった。
『そんなことできるわけがない。一緒に行こう。海に』
明らかにムリなことをとっさに言ってしまったのを、レイジはここまでの道でずっと後悔していた。
「海か……生臭いの好きじゃないけど……でもどうかな。潮風の下だと気持ちよく感じるのかな、そういうのも」
大量出血のせいで彼女は朦朧としはじめていた。そのせいで痛みを感じているようすはない。それだけが数少ない救いだった。
やがてリフトはかすかな振動と共に停止する。
ニンジャとフミオが残していった泥の足型が先へと続いている。ここから少し行った先にはレールがあり、レールはターミナルへと通じている。
中和剤、ルリコの仇、町の外──すべてがいっぺんに手に入るというのに、レイジの面持ちは明るくならない。
「ずっとずっと、町の外に逃げる計画してたの」
歩き出した彼の背中で、ルリコが口を開く。カナタの指を力なくなぞる動きが、妙にこそばゆい。
「青林一丁目。実は引越し先で考えててさ。レイジの家で地図広げたとき、アンタの口からその名前聞いて、ビックリしちゃった……」
「だからオマエ、あんなすぐ……」
「うん。でも、結局決断できなかった。うれしいな。それが、ようやく叶いそう」
ルリコはカナタを見る。彼女はずっと手で口元を隠している。
「で、どしたの、アンタ」
「前歯、折れてるから。はっかけ、レイジに見せたくない」
「たとえ歯が全部なくても、カナタは素敵だ」
「だってよ、オヒメサマ」
「ぐぬぬ」
カナタの怒りには、勢いがない。
あーあ。ルリコは思わず天を仰いで、妙にボヤける照明が後方に流れるのを見送る。私が死に掛けてなけりゃ、もっと楽しくお話できたのに。
ルリコは視線を下げる。レイジの背中がある。
「私がフミオ撃った時、どうしてジャマしたの」
「これ、は……ルリコの、旅立ちでもあるから」
最近よくしゃべるようになったミスター岩男も、口下手に逆戻りだ。
「誰かを傷つけるなんて、そんなスタートは切ってほしくなかった」
「そっか」
照明が点滅する。町の断末魔みたいだ。ルリコは思った。
「じつは私もね、あの時『よかった』って思った。アリガト」
地下道は、今となっては小刻みに震え続けていた。真っ白なプレーティングの隙間から黒いタールが染み出し、あちこちで泥だまりに突っ込んだメンテナンスドローンが弱々しいビープ音を発している。
規模の差はあれ、レイジの体も同じ状態だ。
カナタに心配させまいと普段どおり振舞っているが、彼と密着したルリコには、その不安定な脈打ちが伝わってくる。
少女と約束した30分の大半を、すでに使い果たした。彼の力はすでに衰え、勢いを取り戻したナノマシンが何億というナイフを躍らせ、彼の全身を切り刻んでいく。
戦えるのはよくて、後一回──そして、相手はおそらく最強のサイボーグ忍者だ。
「アンタらも、人を傷つけちゃダメ」
ルリコは、レイジの背中を抱きしめる。
人との接触を嫌がる彼女らしくない行動だった。暖かい、ほのかな炎のようなレイジの熱が、遠ざかっていく──あるいは、自分が遠くに行こうとしているのか。
こんなに傍にいるのに、寂しくて仕方がない。
「フミオのこと。殺さないで。できる範囲でいいから」
「フミオのせいで、ルリコは死に掛けている」
「かもね……だけど、ここまで悲しいことばっか。だったでしょ」
カナタはなるべく会話に混じらないようにして、道の先を見つめるようにした。
羽毛のように柔らかなルリコの声音が耳をくすぐるのが辛くて仕方がない。肺の隙間にビリっと電気が走ったようになって、切なくなる。彼女の甘やかな血液のにおいに包まれて、息ができなくなる。
これは、ルリコの旅立ちだから。
誰も傷つけちゃいけないのと同じくらい──泣いちゃいけない。
目を見開いて「はっ、は」と小刻みに息を吐くカナタは、ルリコが慈しむように見つめていることに気づけない。
「恨み、憎しみ。忘れるのも、たまにはいいことよ」
レイジの腕にそっと触れ、ルリコはそこに真っ赤な手形を残す。シャツを着た彼の体は、まるで巨大なキャンバスだ。
去り逝くものとして、ルリコはそこに、一滴の赤でもいいから残していきたい。
「アンタらしく、バカでアホなやり方で勝ちなさい。私、笑ってあげるから」
「それ、は──」
ブーッ────
レイジの声を掻き消す大音量で、アラームが鳴り響いた。
《通路 L-05にて、汚染の兆候を検知》
■
天井の照明が裏返り、非生物的な赤色の非常灯で通路内を照らし出す。
「ああっ!」
カナタが叫ぶ間に重厚な隔壁が目の前に降ってくる。その重さは数十トンに及ぶ。彼らの足が地面から浮き上がるほどの衝撃が通路に走り、ルリコが痛みにうめく。
彼らの通路は切り離された。
《通路 L-05にて、汚染の兆候を検知。隔離を開始します》
「ふ──ふざけるなッ!」
冷たく言い放つアナウンスに向かって、カナタが拳を振り上げる。
「もうすぐ外なんだぞ! どうして、どいつもこいつもアタシらのジャマするんだッ、何が楽しくてそうするんだッ!!」
「カナタ。気をつけろ!」
ゴポッ。
彼らの足元からタールが沸き立つ。
気が狂いそうな大音響と赤色の中で黒いヘドロが床いっぱいに満ち、夏場に放置された死体のようなにおいをあたりに広げていく。
彼らの前で死の液体は波打ち、脈打つ。そして、沸騰を開始した。
「うっ」
カナタが顔をしかめる。泡立つヘドロは、すぐ固形化を開始する。泡が密集し、その粒が大きく育っていく。
ギトリ──泡が人間の頭部大に膨らんだとき、そこにひとつの目が現れた。死人の目。死から生まれてすべてをヘドロに引きずり込む存在が這い出てくる。
棘皮人間だ。
大群をなして通路に満ちていく死の群れの中にヒョロリと背の高い怪物が現れる。
「あいつ……」
吐き気をこらえるように、カナタが手を口元にやる。
“つくり笑い”だ。しかし、様子がおかしい。
怪物は彼らの元に向かうことなく頭を抱えたかと思うと──その巨大な口を上下から掴んで、そのまま引き裂いた。
バリッ。カナタたちの元まで聞こえる生々しい音。
「何よアイツ。自殺?」
「いや──」
ルリコにレイジが答えるまもなく、べろりと剥がれた頭皮をフードのようにブラ下げた“つくり笑い”が立ち上がる。
そして、黄金に輝く一つ目が、彼らを見つめてきた。
“つくり笑い”の全身を覆うヘドロが剥がれ落ちていく。もとから細身だった彼の体は針のように研ぎ澄まされ、同時に、その姿に冷たい金属光沢を帯び始める。
「ヘンシンって、そんなアリかよ!?」
カナタの悲鳴がむなしく響く中、鋼鉄の床に、黒曜石の輝きを秘めた刃が突き立つ。銃弾のような音がした。
“つくり笑い”は大きく姿を変えていた。
漆黒の甲冑を着た騎士を、途方も無い力で雑巾しぼりにかけたような──ねじくれた姿を持った怪物は、三メートルを越す刃の切っ先を、三人に向ける。
床が震えた。彼の無言の合図とともに、棘皮人間たちが一斉に這い寄ってくる。
「────ねえ」
身構えるレイジの背中で、ルリコが顔を上げた。
「こういうのって、あるもんでしょ。ウラワザのひとつふたつ」
「うら、わざ……?」
素っ頓狂な声を上げるレイジの隣で、カナタは何かを思い出したようだった。彼女の視線はすぐさま背後の隔壁を走り──そして見つける。
黄色と黒のハザードストライプで区切られたパネルが、壁面に取り付けられている。
「あった……」
病院で、キリエと通路に閉じ込められたときのことを思い出す。
ムナカタ脱走をうけて、取り付けられたものだ。通路の端と端にパネルがあり、その中にはレバーが隠されている。
「パネル開けて、レバーをおろしてる間……トビラが開く、はずだぞ」
「なるほどバカ通路ね。おろして」
「は?」
「おろしてって言ったの。じゃないと走れないでしょ?」
「……は?」
イスルギレイジ、怒涛の二度聞きだった。
瀕死の重傷者から究極にワケの分からないことを言われて疑問符で埋め尽くされた彼の頭に、ルリコのチョップが振り下ろされる。
かなり力強く重い、本気のチョップだった。
「確認するわよ。通路の両側でレバーを下ろせば隔壁を開放できる」
押し寄せる怪物たちを前に、レイジがおずおずと腰を下ろす。彼の背中にかかっていたわずかな重みが離れていく。
ヘドロが張った床の上に、ルリコが立つ。
「私が向こうまでいって、レバーを下ろす。アンタたちは問題なくターミナルにたどり着く。解決」
「カイケツ、じゃねーだろ!?」
カナタが思わず叫ぶのも取り合わず、彼女はローファーを脱ぎ捨て、靴下を丸めて、思い切りブン投げる。
頭に靴下ボールが直撃しても怒りの声ひとつあげない棘皮人間を、彼女はつまらなそうに見つめた。
その素足はヘドロに漬かっており、じわじわと黒いものが血管を登っていく。アウトだ。彼女は汚染された。
「ルリコ、やめてくれ……」
レイジの懇願も、彼女には届かない。
霞む目をひっしにすがめ──そして、怪物たちの頭の向こうに、反対側の隔壁を見つける。そこにハッキリ刻まれたストライプが、彼女を呼んでいる。
「かけっこならアタシが早い! だから、だから──」
「で、どうすんの? レイジと死体がターミナルに辿り着いてアンタは置いてけぼりよ」
目が痛いほどの赤色の中で、ことさら深い赤を呈するタオルを彼女は示す。
彼女の終わりはすぐそこだ。
ルリコは理性が働く。どんなときでも、残酷なほどに、合理的に考えている。
「かして」
彼女はレイジがブラ下げていたフミオのバッグを覗き込む。食料に着替えに手榴弾──雑多な荷物に混じって、キリエから託されたハンドガンもそこに突っ込まれていた。
スライドを引き、チャンバーを確認。すべて正常。あとは『弾』を発射するだけ。
「これ、ちゃんとフミオに返しときなさいよ。キッチリ全部。頼んだからね」
ルリコは、立ち尽くすしかないレイジの胸をドンと突き、そしてカナタは──その頬をぬぐってやって、一度ハグする。
「ああ、いいね。アンタのにおい」
腐臭に満ち溢れた通路にいるせいか、腐敗したカナタの体の奥底から、すがすがしい香りを感じることができた。
花と、潮の香り。
あの夜、私はどんなにおいがしたのかな──レイジに聞こうとして、彼女はやめる。顔も見てやらない。もう終わる。未練になるようなことは、すべて連れていこう。
無数の足に打ちのめされて、通路がうめく。ルリコは銃を手に、雲霞となって押し寄せる怪物をにらむ。
その前髪に手を伸ばし、黄金のきらめきを抜き放つ。
「あげる。大事にして」
小さな金属片を、なんとかカナタはキャッチする。それは血に汚れた、ルリコのお気に入りだった。
「なんだよこれ」
「ヘアピン。アンタが持ってて」
「どういうつもりかって聞いてんだよ!」
「それが何だか、わかるでしょ。アンタらを助けてあげる。約束したから」
「ルリコ、やだ、やめてくれ……なんでも、するから……」
「じゃあちゃんと見てて。私の、大事な友達として」
ルリコは銃を自分のこめかみに向け、撃つふりをしておどけて見せる。
「これから私、過去になるのよ」
あ──とカナタたちに言わせるまもなく。
彼女という小さな小さな銃弾は『発射』された。黒く侵食された足が地を掻き、ヘドロを跳ね上げ、細った細った一人の少女が死の中に突っ込んでいく。
「──お」
その口が動く。意味のある言葉じゃない。それはもう、全部おいてきた。
怪物の群れは目と鼻の先だ。もはや黒い海のように通路を埋め尽くす彼らに向かって、ルリコは力強く地を踏みしめ、そのか弱い喉を何千倍にも押し広げ、
「おおおおおおおおッ!」
一匹の、『怪獣』になる。
■
人間は前に進むようにデザインされている。
黒く、ツヤのある髪の毛は血と腐臭の中で踊り狂う。怪物たちから見ると、ルリコは燃え盛る黒い火の玉のようだ。
が、炎の熱を恐れるものなど棘皮人間の中にはいない。
むしろルリコという生きた温度を欲するかのように、何百という手が彼女に伸ばされる。ふれてみたい。引き裂いて、ゼロに戻したい──
「バァカ」
火の塊が嘲笑し、その腕の間をすり抜けた。
バキュッ──撃ち抜かれた頭が砕け散り、一体の棘皮人間が仰向けに倒れる。傾ぎ行くその胸板をルリコの素足が踏みしめた。即席ジャンプ台だ。
彼女の傷を覆うタオルが解け、鮮血が空中に、彼女の軌跡を描く。
怪獣ルリゴンは怪物たちの頭から頭へ。銃火をひらめかせながら次々飛び移っていく。
ひときわ大きな怪物の肩を踏みしめるとその体は数メートル跳躍する。怪物たちは永遠にその体に触れられない。彼女は無敵の大怪獣だ。
ルリゴンが吼える。怪物たちはおびえ、頭に風穴を開けられて倒れる。
地響きを立てて着地した怪獣は、光り輝く瞳でキっと前方を見据えた。壁となって押し寄せた怪物たちを飛び越えてしまえば、後列はまばら。
そして──パネルが見える。30メートル前方。
「あら」
無謀なチャレンジャーの乱入だ。
彼女の突入に反応した五体の棘皮人間が、太い腕と凶悪なカギ爪を振りかざして駆け寄ってくる。
地球防衛隊気取りの怪物どもに、彼女は狙いを定める。さあルリゴン──火を吐こう。がおー!
ルリコは立ち上がりながら狙いを定め、遅い来る怪物の脳天を順番に撃ち抜いていく。
一匹の怪物が銃火をすり抜けて彼女に肉薄したが──彼女には尻尾がある。
校則規定をりちぎに守るスカートが大きく舞い上がり、放たれたのは怪物の喉笛めがけた見事なとび蹴り、ローリングソバットだ。
ぐげ。ひしゃげた悲鳴を上げて吹き飛んだ棘皮人間を尻目に、彼女は頬に飛んだヘドロをぬぐう。あと20メートル。
最後の関門をふさぐ番兵のように、ひときわ大柄な棘皮人間が待ち構えている。体の大きさではややひけをとるが──覚悟と声のデカさなら、ルリゴンに敵うものなどいない。
「い──く──わ──よ──ッ!」
彼女の咆哮に呼応するように、一つ目の怪物も雄たけびを上げる。
通路全体を揺るがすほどの迫力で床を踏みしめ、彼女の元に突っ込んでくる。ルリコもそうする。
正面衝突。モロに受け止めて粉々になる構えだ。
「はっ。やっぱデカいと頭に血が回らないのね!」
レイジで学習済みなので、よく知っていることだ。
激突の瞬間、怪物の視界に映ったのは残像となったルリコの「べろべろばあ」だった。直後、爽快な滑走音と共に、突き上げるような激痛が棘皮人間の股間を襲う。
スライディングしたルリコが、怪物の股下をスリ抜けていく。
同時にブっ放した拳銃から吐き出された薬きょうが額を打つが、彼女は気にも留めない。
股間にありったけを撃ち込まれた怪物が地響きを立てて倒れ──あと三メートル。目の前。
「もらっ……」
ブシュッ
光がひるがえり、ルリコの腹が、切開された。
「あ……」
まだこんなに残ってたのか、と思うほど激しい血飛沫の中に彼女の臓器が舞う。胃とか腸とか肝臓のかけらとか──それを見送るのはやめにして、モノクロになる視界で、彼女は目の前に降り立った怪物を見る。
黒曜の輝きを纏った怪物が、もう一度刀を振るう。
ルリコの右手が飛び、積み重なった臓器の上に、マネキンのパーツのように転がった。
「アンタ……早いのね……」
のっぺりとした仮面に覆われた頭部から、感情を読むことはできない。
レイジとカナタが“つくり笑い”と呼ぶ怪物は、もうルリコに対する興味を失ったようだった。
彼女の内臓を踏みにじって歩いてくると、そこにもうなにもいないと言うかのように、彼女を押しのけて背後に残した二人の下へ歩んでいく。
「あ……ぐう……」
中身がからっぽになってしまったルリコは、それでも倒れなかった。あと一メートル。たった一メートルで、レイジを先に進ませてやれる。
搾りかすの血で赤い模様をヘドロの上に描きながら、ルリコの膝が崩れる。もう汚染は末期段階だ。
立っていられないほど衰弱した体で彼女はパネルにすがりつき──レバーを見つける。
全体重をかけ、それを引く。ガッコン。
もう冷たくなって死体となった彼女の全身を、激しい振動が走る。力なく顔を上げた先で、隔壁が動いている。
床と隔壁の隙間が一センチも開かないうちに、向こう側からヘドロの波が打ち寄せてきた。
(ああ──)
もう声も出ないルリコは、白い太腿と、その間に垂れた小腸を洗う波を見つめる。
終わった。これで大怪獣ルリゴンも、アグリルリコもお役御免だ。
隔壁の隙間から現れたものはそれだけではない。黒い手だ。生者を死の世界にいざなう亡者のような黒い手が、いくつも這い出てくる。
ほんの数秒後、彼女が直面する運命を、残酷なまでに見せ付けられる。それでも悪い気分じゃない。やるべきことは全部やった。
悔いなんてなにも──
そうするべきではない。ルリコはそう思いつつ、振り返っていた。
向こう側の隔壁の前に、レイジの姿が見える。うすらデカい男だから、かろうじて顔だけ。残念だけど、カナタは身長制限でアウトだ。
ザアアアア……生暖かいヘドロを、今は冷たく感じる。海の冷たさと海の音に包まれながら、彼女は心の片隅に小さな針を刺されたような気持ちになる。
あった。あんな大事なコトなのに、どうして忘れたんだろう。
(挨拶って大事。だものね)
ルリコはせめて、残された左手を上げようとする。大仕事だ。怪物の群れをどうこうするより、ずっとずっと、大変だ。
なんたって、気づいてしまった。最後まで未練たっぷり。とてもじゃないが、穏やかに旅立つ気持ちにはなれない。
「最後に『おやすみ』って言えなかったな……」
悪夢を見ないで済む、おまじない。
「もし次があったら……はっ、『次』ですって?」
ルリコは、笑ってしまう。
「そんなもの、あるわけ──」
隔壁が上がりきる。濁流が押し寄せ、同時に、向こう側から現れた何百という棘皮人間たちが彼女に殺到する。
彼女の体は蹂躙される。からっぽの中身を覗かせる腹に手がかかり、そのまま引き裂かれる。
自慢の髪も、憂いを帯びた琥珀色の瞳も千切られ、引きずりだされ、バラバラに解体される。
それでも彼女の最後を見つめるレイジの目には、黒い波に消えていく左手が『ばいばい』を言うように振れていたように見えた。