海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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10.ロマンチックを止めないで(1)

「未練こそが──」

 

 キリエが自らを覆うスーツの胸元を握り締める。

 相対するレイジが「あ」と言う間もなく合成繊維の黒衣はビリビリに引き裂けた。舞い散る繊維の切れ端の向こうから、彼女の本性が顕れる。

 

「未練こそが、私の浪漫(ロマン)だッ!」

 

 現れたものは人間の肉体とは言い難い。

 手術室にレイジが運び込まれて新たな改造技術が生み出されるたび、キリエは罪滅ぼしで同じ処置を自分に取り入れた。おかげで今はクーロン城の様相を呈している。

 彼女の皮膚は合成のものと自前のものがモザイク状に入り乱れ、補強のためにボルト打ちされたプレーティングは雑に突き刺されたホッチキスを思わせる。

 乳房の間に、心臓が見える。改造されつくした彼女の体に、もはや表裏の概念は無い。莫大な量の血流と薬剤を全身に循環させる機械のポンプは、体外に露出していた。

 

「私は過去に生きる亡霊だ。人間としての樋口キリエは、もうとっくに死んでいる」

「あんたは生きてる。逃げるなよ、先生」

 

 キリエの部下たちに見送られて第三ラウンドに進み出たレイジは、唇についた消火剤をぬぐう。

 終わりが近いのが分かる。残された猶予はもうわずかだ。

 しょうじき立って話している最中にもクラっときて自分が誰で何をしているのか忘れそうになるが──ここで終わるわけにはいかない。

 言葉だけでも、暴力だけでも、この戦いに決着をつけることはできない。

 

「先生は俺と同じなんだ。昔の俺と。未来と向き合うのが怖いから、死んだように生きてごまかしてるだけだ」

「いっちょ前の口きくじゃないか……ああ、お前の姉貴もそうだった。自分が死ぬって時に、お前を託して私を走らせた……ぐっ!?」

 

 再び、キリエの全身を高電圧が襲う。カナタの狙撃だ。

 しかし今度はキリエも黙っちゃいない。通電したままのワイヤーを握り締め、彼女は強く引っ張る。

 

「このクソガキ、ヒトが話してる、最中だろうがッ!」

「うあっ!」

 

 カナタの手から銃がすっぽ抜ける。キリエの動きに迷いは無かった。

 腰に纏っていた数本の大型ナイフ。そのうちの一つを手に取ると、百メートル以上離れた場所にいるカナタめがけ、全力で投擲する。

 どれだけ距離があろうと、キリエは狙いをはずさない。

 ドカッ──と音がして、カナタの肩口からナイフのグリップが生えた。

 声も無く、瓦礫の合間に倒れていった彼女を見て、レイジと隊員たちが声を上げる。

 

《お嬢ちゃん!》

「カナタ!」

「私から目を逸らすなイスルギレイジ!」

 

 今すぐきびすを返して安否を確かめたくなるレイジを、キリエの怒号が引き止めた。

 

「私を……一人にするな」

 

 打って変わって弱々しく呟いた彼女の、上体が折れて下がっていく。

 片足を大きく前に出し、もう一方は後方で爪先立ち。腕をダラリと垂らす独特の構え──ギャラクティック・テコンドーの基本姿勢だ。

 

「ほら、遊んでやるよ。昔みたいに……だから」

 

 レイジは分からなくなる。どうしてこんなに大事な戦いの場面で、キリエがおふざけの拳法ごっこを始めようというのか。

 レイジが大好きな映画『焼失』に登場する拳法を彼女なりに再現したもの。幼い日、心が死んでいたレイジが目を輝かせた、数少ない対象。

 

「だからどこにも行かないでくれ。私と一緒になつかしさの中にいよう、レイジ」

 

 彼の暗闇に差した、一筋の流星。

 

「なんだか、懐かしいですね。師匠」

 

 レイジも構えを変える。ギャラクティック・テコンドーだ。

 そこに、彼なりのアレンジを加える。

 前傾はなしだ。リラックスして両手を前に、軽く腰を引いて構える。それはどこか、ディスコ・ダンスの基本スタンスに似ている。

 主人公──ジャック・ブレイザーの構えだ。

 

「燃えて死ぬ男を気取ろうってんですか」

「始める前に一つだけ──先生、俺たちはいなくなりません。あんたを寂しくすることもない。それでも俺たちを遠くに感じるなら……それは、あんたが原因だ」

 

 キリエの姿勢がいっそう低くなり、レイジも片足を軽く前に進める。

 ギャラクティック・テコンドーは徹頭徹尾キックを主体とした宇宙格闘術だ。キックにはキックで。力押しでキリエに勝てないと分かっていても、だ。

 あらゆるものと向き合うと、レイジは決めたのだ。キリエの全力だって、例外ではない。

 

「私が原因?」

「先生が動かないで足踏みしてるんです。先生が逃げようとしてるんです。俺たちから」

 

 今やまさに張り詰め必殺の一撃を繰り出すという人間兵器目掛けて、レイジの言葉が泣け掛けられれる。

 急にみぞおちを殴りつけられたようにキリエの目が見開かれ……数秒の間もなく、それが真っ赤な怒りに染まって燃え上がった。

 

 ■

 

「俺が生きて戻れたら、店を── 一日だけ、任せてくれねーかな」

 

 サマナの顔の前でメカニックが指を立てて見せる。二本。

 二分か、二十秒かは彼にはわからないが、もう、時間が無い。『サマナ』となったフミオは自分の体ではなく機体の首を頷かせる。

 そして、考える。

 ……電話して、父と向き合う決断をした。だから今度は、この通話を終わらせる決断もしなければいけない。

 最後に、何を伝えるべきか。

 

「俺はここにきて、やっぱりいくじなしのままだ」

 

 この録音記録は一生ブンタの耳に届くことはないかもしれない。『それはそれでいいな』と考えてしまうのは、まだオトナになりきれてない証拠なんだろうと彼は思う。

 

「恥ずかしいのはイヤだからオトナになろうと頑張ったが──ムリなんだな。ダサいことしねえと、そもそもオトナになれない」

「坊ちゃん。いけるよォ。残り六十秒。出口はアッチね」

 

 やっぱり三分だったか──フミオ/サマナは小刻みに頷きを返す。

 格納庫の隔壁が開き、その先に延びる二本のレールがフミオに選択を迫る。一つは地上に向かうもの。

 そしてもう一つは地下施設を経由してターミナルに向かうもの。フミオが向かうのはこちらの、深々とした闇の中だ。

 

 ガキョッ──サマナの足首を掴んで固定していた器具が解除される。

 鋭い装甲板の積み重ねで鳥人のような姿を呈するサマナの足首は、やはり鳥のように細く、そして蹴爪を思わせる凶悪なスパイクが生えている。

 そのスパイクの隙間を縫って、この試験機を真に鳥たらしめるブースターへと燃料供給ケーブルが伸びていた。

 サマナは数か月ぶりに腹いっぱいになる。

 自動的にボルトが外れ、ケーブルの先端が宙に舞う。この機体はついに自由を手に入れた。神経接続によってフミオの網膜に投影されるステータス──完璧。

 彼の接続はあくまで運動伝達で感覚的なものは含まれていないが……フミオもまた、心臓に流れ込んだ燃料が、熱くとろけて渦巻くのを感覚していた。

 

《04、出ます》

《了解。進路クリア、オールグリーン》

 

 管制の声が響き渡り、回転灯がオレンジの光を投げかける。

 病的で、毒々しい光にさまざまな顔が照らし出される。パイロットはほとんど任務中で、ここに残っているのはフミオにオペを施した老婆と同様、技術者ばかりだ。

 彼の搭乗には一切手を貸さず、黙って見送る彼らの顔には、あきれの色が浮かんでいる。

 

 その感情をあえて言葉に表すのなら、『あーあ』だ。

 

 誰も口には出さないが、彼らの目はそう語っていた。

 

『局長のバカ息子、ついに壊れたか』と。

(それでいい)

 

 フミオ/サマナは認める。その通りだ。

 彼は町のために出る。作戦も戦略もヘッタクレもなく、ただのモンスターマシンで突っ込んでぐちゃぐちゃにしてアトハナントカナレ、だ。

 これが壊れてない人間の判断だというなら、そいつの方がどうかしている。

 

《サマナ、発進急げ》

 

 進路はとっくにクリアだ。隔壁は開ききり、その先から生臭く、湿った風が吹き込んでくる。

 サマナの鋭い装甲が風を切り裂く音が、コックピットの中にまで聞こえてくる。

 彼はサマナの中で守られていて、今の彼はサマナそのもので──だから孤独だ。彼が最後に留守電に吹き込むメッセージを聞くのは彼自身と、そして冷たい保護パネルだけだ。

 

「オヤジ、俺は今から恥ずかしいコトをしにいく……見ていてくれ。じゃあな。最後かもしれないから。これで。一応は」

 

 フミオは通話を切った。

 長い長いツ──……という音がフミオの耳に残った。とっくの昔に録音の許容時間を過ぎていたのか、それとも元から、録音に失敗していたのか。

 

 ともあれ、これでフミオは後ろ髪引かれることもなく、最後の戦場に向かえる。

 

 サマナは大仰なブースターを揺さぶりながら通路に一歩踏み出し──そこで、ふと動きを止めた。

 

《サマナ、急げ。どうした、異常か》

「ガキ……いるか」

 

 コックピットの中で、フミオは呼びかける。

 聞こえてくるのはサマナの駆動系が発する僅かなうなり音だけだ。彼は肩をすくめ、視覚を外部モードに切り替えようとする。

 

 と、

 

『よ』

 

 にゅっと。コックピットの中に少女の頭が生えてきた。顔半分出した彼女の真横の壁面から、チョップのような形で平手が突き出る。

 

「よう」

『どしたん。巣立ち前に寂しくなっちゃった?』

 

 訝るような、威嚇するような。それでいて憎みきれないでいるような、そんな目をしていた。

 フミオには今、三本の脊髄がある。自前のもの、サマナと彼を繋ぐソケット、そして胸に埋め込んだ彼女のもの。

 

『なんだよ。私の顔、じっと見てるとフジツボきもちわるいでしょ』

「そうでもない。ただのガキの顔だ」

『ホントに……そう?』

 

 おかしな三人四脚になったもんだとほくそ笑むフミオの前で、彼女はずっと首を傾げていた。

 

「俺はこれから、ターミナルへ向かう。先延ばしに続けた選択。傷付けた人、殺してしまった女、裏切った友達──オヤジに言えなかった『ありがとう』。すべてにケジメをつける」

《繰り返す。04、不調なら今すぐ──》

 

 発進を急かす声が、どこか遠く聞こえた。

 世界でただ一人になったフミオの独白を、この少女の形を取る幻影は、辛抱強く聞いてくれる。

 すべてが壊れた日にエレベーターで彼女と初めて言葉を交わしたとき、こんな関係になるなんて、思ってもいなかった。

 

「約束のことは忘れろ。俺は今から、お前たちの敵だ」

『私は……』

 

 少女と交わした約束。

 フミオが己の選択と向き合うことができたなら、一度だけ力を貸す──たとえ彼がどちら側に立っていても。今度こそ、必ず。

 フミオは自分が決して、優しい人間ではないと思う。

 それでも少女は、やはり少女で、歳のいかないガキだ。そんな過酷な決断をさせるのは、あまりに酷だと思っていた。

 

『私はそれでも、やくそくを守りたい』

 

 しかし少女は割れて砕けた虹彩を僅かに輝かせると、フミオを見つめてくる。

 彼女には彼女なりの意地と、願望(ロマン)があるのだ。

 

『やくそくを守ることは……とても『にんげん』だと思う。だから、このままでいさせて』

 

 そこまで言わせて、フミオはもう、断る言葉を吐けない。

 

「好きにしな……お前だって、どっちにつくかは選べるんだろ。人間なんだから」

『私は……人間じゃないよ』

 

 フミオの目の前で、少女の姿が霧散する。

 彼女の抱いたかすかな苛立ち、ためらい、そして、途方も無い憎悪が、残響となってフミオに流れ込んでくる。

 生まれることすらなかった女が──生まれられなかったからこそなのかもしれないが──ここまでの憎しみを抱ける理由を、彼は知らない。

 

(もっと話す時間があれば、背骨子との関係も違ってたかもな)

 

 だが、それは意味のない後悔だ。

 フミオには、ブンタと。レイジと。ルリコと──カナタと。彼らとの時間は、たっぷりあったのだから。

 何気なく過ぎ去った後で急に惜しくなるのは『にんげん』の悪いクセだ。

 戦車砲のように長大なライフルを担ぎ、歩いて格納庫を出て行くカーマインの巨人。彼を見送るものは少ない。

 壮年の、女性メカニックが控えめな投げキッスで彼らを送り出す。誰かが軽く敬礼したが、フミオには見えていなかった。

 サマナが胸の前で拳を握り締める。中のフミオがポケットを漁り、『中和剤』の入った注射器の位置を確かめた。その動きをなぞったのだ。

 

 コックピットは暗闇だ。それでも注射器を傾けると、中で液体が動くのが分かる。これがあるところに、必ずレイジはやってくる。

 だがフミオは、相手が歩いてくるのを待つようなことはしない。彼から届けに行く。史上最大の覚悟と、約束と、選択をひっさげて。

 

「……さて、行くかね」

 

 ここからは二人と一機。賑やかで孤独な戦いだ。

 格納庫を出たサマナの爪先がふわりと浮き上がる。四基のブースターが青白い噴射炎を吹き上げ、洋紅の装甲板が陽炎の中で生きたように揺らめく。

 深緑のバイザーの中でサマナの鋭い目がギラリと輝き──発進。

 

 白い火球と化して、サマナは通路の闇を切り裂き飛び去る。

 突風が吹き荒れた格納庫にはすぐに隔壁が降りる。出撃前の慌しさはすでにそこに無く、みな、淡々と自分の作業に戻っていった。

 

 ■

 

「誰がオトナにしてくれと頼んだッ!」

 

 蹴り飛ばされ、果てしなく吹き飛ぶレイジにキリエの声が纏わりついてくる。

 風景のすべてが加速しボヤけた残像に見える彼の視界で、キリエの姿だけがよく見える。彼女は自分で蹴ったレイジに走って追いついてきた。

 彼女は軽くサイドに跳び──そこから衛星軌道を描くような蹴りが、レイジの脇を襲う。

 

「誰が託してくれと頼んだッ!」

「ぐっ──う!」

 

 レイジは真横に弾き飛ばされ、タンクを満載した貨物車の列をなぎ倒す。

 人間離れした。というか、90パーセントくらい人間やめちゃったキリエの怪力と体力で、列車もレールも壁も床も、おもちゃのように吹き飛んで、散らばっていく。

 ここはキリエのおもちゃ箱だ。

 

「は──はははッ、はははははッ!! どうだ、レイジくん。そろそろお脳にナノマシンが染みてきたんじゃないか!?」

 

 そして、瓦礫の山のてっぺんに登って勝ち誇るキリエは、子供だ。

 ターミナルも自宅も、ついでに心の中ですら何一つ片付けられず、散らかして叫んで暴れる。それだけの、寂しい子供だった。

 

「…………だから。さあ、レイジくん。もういいだろ」

 

 そんな彼女の前に、レイジは立ちふさがる。

 キリエを見上げる彼は血まみれのボロぞうきんだ。

 少女がくれたミラクルの時間は既に過ぎ去った。三十分というリミットを使い切って、体は既に壊れていくだけだ。

 キリエと同じく、彼は死体だった。

 ただし限りない意地と果てしない夢(ロマン)で地獄を這い進む、最強の死体だ。

 

「どこにも行くなよ。全部忘れて私やカナタさんと楽しく過ごすのも、いいと思うぜ……」

「お断りだ」

 

 そこで彼は激しくむせこんで、手のひらに吐き出された固形物を見る。

 喉の壁か、肺のかけらか。もしかすると脳の一部──かもしれない。彼はそれを握り締め、飲む。

 ムダだろうと思う。それでも、この一ヶ月の記憶のすべてが彼の宝物だ。ひとかけらでさえ、失いたくない。

 

「ロマンチックを止めるなと、先生が言ったんだ」

 

 残り少ない力で『終結因子』の光を手繰り寄せる。レイジの手元に白い光が凝集し、周りの空間そのものを歪めながら火花を散らす。

 彼は震える手で、それを己の顔の高さに掲げた。

 

「俺たちは歩いていく。ふたりで歩いていけるんだ。大丈夫なんだ。だから先生……どうか俺たちを、笑って送り出してください」

 

 キリエを傷つけるためではない。彼の意思。浪漫。自分の人格が消える瀬戸際にあっても燃え続けていることを示すためだ。

 それを握り締め、構えを取る。最強無敵のキリエの体に、心に、その拳が届くまで、何度でも打つだけだ。

 鉄骨を殴って血を流すばかりだった彼の拳が、彼の意思でキリエに向けられた。七年掛けて、ついに。

 

「この、わからず屋のでくのぼうが……!」

 

 その喜びを押さえつけて、キリエが拳を振りかぶる。こっちもホンキだ。

 もう、子供が傷つくところなんて見たくない。レイジの心が折れるまで。その崇高な覚悟が──キリエの目が滲むほどの眩しさが擦り切れるまで、何度でも殴る。

 二人の体に極限のひねりが加わり、まさに魂の衝突が起こる、その寸前……

 

 

 

 

 

「おおおおおッ、センセーっ、アタシを忘れてんじゃねェーッ!」

 

 

 

 

 

 しゅたたたたた。素足がすばやく床を駆ける音がキリエの背後から向かってくる。

 カナタだ。キリエは直感する。彼女の体越しにいち早くその接近に気づいたレイジが、おかしな顔をしている。

 彼の鳶色の瞳の中で何か小さな──銀色のものが、天井の照明にキラリと反射したのが見えた。

 

「肩に穴開けられて、まだメゲねえか。この……!」

 

 いい。こうなったらトコトン痛めつけてやる。レイジを突き飛ばし、キリエの体は背後に向く。

 撒き散らされた残骸と瓦礫の合間を傷だらけの足で、タールの足型を刻みながら向かってくる、白髪の少女がいる。

 そして彼女が高く掲げた手には。手には──

 

「は?」

 

 驚きのあまり、キリエのアゴが地面にピットリくっついた。

 

「あんたに預かった水筒、返すぞッ、今ッ!」

 

 スキットルが、包帯ぐるぐるの手に握られている。

 キリエが酒を飲むのに使ってきたスキットル。七年前の後悔と悲しみと憎しみと初恋やらムカつきやらあれやこれや──とにかくタプタプに詰まった、彼女の分身。

 

 未練の、象徴。

 

「……なん、ぶえーッ!?」

 

 戦場での気の抜かりは命取り。

 つかの間放心したキリエの後頭部にレイジの拳が一撃した。

 巨大なサイボーグが前のめりになる。いつも雲の上にある彼女の頭が下がってきて、カナタの前に差し出される。

 

「カナタ、いけーっ!」

 

 固いセラミックの頭蓋骨を殴りつけた反動で、レイジの拳は粉々だ。

 赤い水をまき散らすスプリンクラーとなった手首を押さえてレイジが叫ぶ。

 

「まっかせろ!」

 

 カナタが呼応する。壊れた体でよくもそこまで、というスピードでかけてきた彼女が、そこから更にグンと加速する。

 そのハチ切れんばかりの元気とスピードに全身の皮膚が耐え切れず、黒い液体が噴いている。こちらもレイジと同じく限界ボロボロだ。

 

「こんの……クソガキ……あ!?」

 

 ホップ・ステップ・ジャンプでわれらがカナタちゃんが空高く飛び上がった。

 西高の高跳び学年記録更新モノの大ジャンプだが、高さで勝負が決まるほど甘くない。すぐさま蹴り落してやろうとキリエが構えた瞬間だった。

 

 キラリ。カナタの手に握られたスキットルの輝きがキリエの目を刺す。

 

(あ……落としたら、ヘコむかな……)

 

 その一瞬の懸念が、キリエの足さばきを狂わせる。それも致命的なレベルで。

 鋭いツメのついたヒールはカナタの足元をかすめ、彼女はその上を越して向かってくる。折りたたまれた彼女の脚が空中でピンと伸び──きれいに揃った足裏が、

 

「グエーッ!?」

 

 カナタの足の形に顔をエグレさせて、キリエがのけぞる。

 美しい、顔面ドロップキックだった。

 

「がああああ……」

 

 キリエとカナタはもつれて、一緒に地面に吸い込まれていく。

 スローモーションになったキリエの視界の中で、カナタは蹴りのポーズのまま、両手を上げて『ばんざい』していた。

 誰もがチビり上がる地上最強の女の顔面を土足で踏みにじっておきながら、その顔はニッコニコ。輝くような満面の笑みが、一瞬キリエから怒りを払拭する。

 

「っ、ぶねェーッ!?」

 

 300キロのサイボーグボディがついに倒れる……前に、キリエは今日一番のスピードで体をひねり、地面に手をつく。

 機体が軋み、キックで潰れた鼻から血が滴り落ちる。

 

「は……アタシ殺すんじゃねーのかよ、キリちゃ──いでっ」

 

 おかげで下敷きを免れたカナタが、彼女の脇の下から微笑みかけてくる。キリエはその額に音速のデコぴんをかまし、スキットルをもぎ取る。

 イスルギ、ヒトミ──銀のボディに刻み込まれた名前を指でなぞって、キリエはそっと抱きしめた。

 彼女にとって忘れられない名前。キリエが、捨てられない女であり続ける理由。立ち上がることも忘れて、彼女は目を閉じる。

 

「ほらカンショー入りやがったぞ、トドメさせーッ!」

「応ッ!」

 

 そんなシンミリムードに配慮するほど、彼女の教え子たちは甘くない。

 うっかり過去回想に突入しかけたキリエの鼓膜をカナタの大声がグラグラ揺さぶる。それに呼応するレイジの、遠雷のように野太い掛け声。

 キリエが我に返った時、彼女は巨人の足元に居た。

 

「は!?」

 

 カナタに痛めつけられた彼女の顔面目掛け、容赦なく迫りくるレイジの全力キック。

 

 ──よけられない。

 

 キリエは悟る。

 ここからどうしても、避けられない。片手にはスキットル、重たい体の下には大事な教え子。どちらも手放さず、この場面を切り抜けるには──

 

 

 

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