重々しく、しかしどこかありきたりな言葉の群れ。
体育館の壁に掲げられたポリシー碑文はうっすら埃を纏い、ぽやぽやと眠たげな光を帯びている。
壇上では校長が──後にやり手生徒会長に追放される──更に強烈な催眠音波を放っており、五月の朝方の柔らかで涼しい風も相まって、生徒の半数は既に夢の世界に旅立っていた。
「ふっ……ふうっ……くうっ……」
その静寂の中で、一人。暑苦しい掛け声を上げつつ、パイプいすの上でダンベルを握り締めている怪人が存在した。
「ふっ……ふうっ……」
ダンベルを持った腕の肘を固定して、そこから先だけを股の間で上げ下げする。コンセントレーションカールだ。
上腕二頭筋にキクし、なにより座ったままできる。
ギシィッ──そうして金属質の軋みを上げたのは、パイプ椅子か、はたまた彼の体か。周りに無視できない汗臭さを振りまきながら、その肉体が練り上げられていく。
入学式の最中にもかかわらず。
「フー……」
日課の50回×3セットを早々に終わらせた彼は、巨大なダンベルをそっと床に下ろす。高い負荷で彼の上腕はパンパンだ。
破裂しそうなほど張り詰めたワイシャツと、そこにクッキリ浮かんだ筋肉の束は、壇上の校長よりも多くの視線を彼の元に集めていた。
彼は、そんなこと気にも掛けない。
学校の歴史、大人たちの言葉、周りの人間──それらすべてとの間に、彼は壁を作っていたからだ。
「もっと重いダンベルを買うころあいか……」
石動レイジ、16歳。春。
西区高等学校の体育館には新入生が集められ、入学式が執り行われていた。
そこに厳粛なムードなんてこじゃれたものは存在しない。体ばっかり大きくなった子供たちは窓の外の葉桜に目を馳せ、あるいはうつむいて舟を漕ぐ。
小声であの新入生代表、カワイくね? という会話を交わすものたち。
「よし。もうワンセット」
そして、ボストンバッグに詰め込まれたトレーニング器具の山から、子供の頭ほどもある持ち手つき鉄球──ケトルベルを取り出すもの。
「では新入生を代表して、阿宮梨 瑠璃子さんからスピーチです」
そんなダメダメ学園に、一人の美少女が降り立つ瞬間が訪れた。
「はじめまして。みなさん」
壇上に登った女子生徒の目に、冷ややかな灯がともる。
後に本人が語ったところによると、この時点で既に西高がハイスクールウォーズ並みに荒れた学校であることを見抜いていたというが──軽蔑の光は一瞬にして、完全無欠の笑顔の下に覆い隠される。
レイジはふと手を止めて、彼女の姿に見入った。
全身から満ち溢れる自信のオーラ。私が世界の中心と言わんばかり。
軽い咳払いをかまして話し始めた彼女を見て、レイジは理解する。別の世界の生き物だ。
輝いていて、楽しそうで。きっと、悩みなんてその人生に一ミリも存在しない。
レイジは眩い光から目を逸らすように、己の肉体との対話に舞い戻る。指の関節を軋ませ、筋繊維を絞り上げ、破壊する。彼の胸の中で燃える憤怒の炎を押さえ込むためには、強固な檻が必要だ。
10……20……その名が表す空の
いつしか周りの生徒たちがスピーチそっちのけで彼のサーカスに注目し始めたころ──レイジは急に、隣からの視線を感じて、振り向いた。
「ふうん。おたく、鍛えんの好きなん?」
腿に頬杖ついた金髪男が、彼の傍にパイプイスを引きずって寄せてくる。
ギッ──ギギギッ、ギイイイッ
彼のイスが体育館の床にこすれて、耳障りな音を発する。
更に多くの生徒たちの目が二人の下に向かう中、それまで立て板に水のようにつらつらと流れていた新入生代表のスピーチが、ぷつりと途切れる。
色も感情もない瞳を、ルリコが向けてきていた。
しかし金髪男──後にレイジと同じ病室に搬入されて自己紹介した際、フミオと判明する──は、手のひらを垂直に立て「めんご」と謝って見せただけだ。
それで、ルリコの顔に作り物の笑顔が戻る。
フミオは安心する。それが、とんでもない勘違いで、命取りとも知らずに。
「かしてー」
フミオは返事も聞かずに、レイジのバッグから大きめのダンベルを一つ、取り出した。
「……ふっ……ふっ……へへ。どうだい。俺だって鍛えてんだぜ……ふっ」
あろうことか、彼は見せ付けるようにダンベルカールを始めたのだった。
「ほう」
レイジが、声を上げる。それをどう取ったのか、フミオは調子に乗り始めた。
「ついてこれるかよ、
この頃のレイジは挑発を理解して、乗れるほど『にんげん』が完成していない。
しかし、淡々とダンベルを上げ下げすることに少し飽きがやってきていたところだ。いい競争相手が、できたかもしれない。
レイジは今ブラ下げていた八キロのケトルベルを床に置き、倍の重さ──十六キロのものを掴み上げる。
「ン、だとお……?」
あいにくだったな。レイジの瞳が、うろたえるフミオに物語る。
今日の彼はキレがよかった。錘をひっかけたその手から、一本ずつ指が離れる。人差し指、中指……おお、と周りから声が上がる。
薬指にベルを引っ掛けて持ち上げるレイジを見て、フミオの顔から小馬鹿にした笑みが消える。
「鍛えるのが、好きだ。きみと同じで」
相手を数少ない筋肉の理解者だと思い込んだレイジが、フミオにぎこちない笑みを向ける。
それは相手の目に、完全に「おうケンカ買ったるわ」のサインとして映った。暮フミオ。彼もまた、十六歳。バリバリ反抗期で、バリバリの不良少年。
彼の頭の中でパチーンと輪ゴムのような音を立てて何かがはじけた。
「おンもしれぇ。やってやるよ!」
彼の怒号が体育館に響き渡った。
「なんだ、なんか始まったぞ」
「バカ二人が体力勝負してる」
壇上からは、二人の周りに生徒があつまる様子がよく見える。
つい数日前までハナタレ中学生だった連中が、制服を着替えただけでオトナになるはずもない。
彼らの溢れ出る元気と退屈きわまるシチュエーションが悪魔的化学反応を引き起こし、事態は明らかによくない方向に転げ落ちていく。
最初教師とルリコに気を使って軽くイスを向ける程度だったのが、もはや無秩序状態が完成しつつあった。
「ですから私たちは、『おにいさん・おねえさん』の自覚を持って──」
変わらぬ笑顔でスピーチを続けるルリコ。
しかし体育館の端のほうからわざわざ駆けてきた生徒がバカの力比べの見物人に加わる姿が見えた瞬間、クシャっと音を立てて原稿用紙の束が潰れる。
「あ、あー、君たち、始業式の最中だぞ!」
思わず声を張り上げた老教師の指摘はごもっともである。
だが一度ついた火は、そんな正論をブっかけたくらいでは消えない。
「いけ、金髪男! お前なら20いけるだろ20! 小指でいけ!」
「おいマッチョ! 倍だ! お前が勝てる! まけんな! 気張れ!」
騒動の中心の二人が負荷を増やすたびに群集のボルテージは上がり、学ランやスカートの裾の合間で、小銭がやり取りされているのも見える。それが興奮の正体だった。
だがレイジもフミオも、そんなことには興味がない。
「どうだ……くううっ……さすがに、ツレーだろ」
「いいや。俺はまだいける……ぬうっ……そっちも大丈夫だろ?」
「ナメやがって……!」
二人の頭にあるのは相手を倒して自らの強さを証明することだけだ。こうなると怒鳴られようが水をぶっ掛けられようが止まらない。これ以上ないほど厄介だった。
「せ、先生」
「ハァイ。なんですか~?」
既に泣きそうな教頭が、隣にいた長身の女教師に救いを求める。
樋口ナントカ、という、酒飲んで問題起こしてばかりの鼻つまみ者だが、その経歴はかなり異色だ。
「先生って軍にいたんですよね!?」
「いましたあ」
「収めてくださいよ、これ、どうにか!」
「はァ? それが私の元職場と何の関係あるんですか……」
心底面倒くさそうに言って、女はゲップをかました。
今日は教頭にとって厄日だ。入学式で暴れまわっている不良の始末を、アル中に頼まなければならない。
「元自衛官でしょ!? 慣れてるんでしょ、こういう荒いの!?」
「グリーンカラーがどいつもコイツも体育会系って。差別ですかんね、それ……あのねえ。私、こう見えても現役の兵士なの。あんたは忘れてるだろうけど、国連軍と自衛隊の生き残りが統合されて、今はぼうえっ、ぼうっ、うぼぼぼぼおろろろろろろろろろ」
わけのわからないことを抜かす口から、黄土色の滝がほとばしった。
「ウギョアーっ!? ヒグチ先生ー!?」
ヒグチ先生――改めて言う必要もなさそうだがキリエだ――を睨んでいた教頭は、見事に滝壺としての役を果たすハメになった。
「うわっ、すっぺえーッ!?」
「なんだなんだ、どうして教師が真昼間から酔っ払ってゲボ吐いてんだ!」
顔面をキリエの一番絞りまみれにした教頭がイスごと床に倒れる音が響くなり、職員たちの席の間にも混沌が満ち始める。
「えへへ」
モンスターパニックムービーのように教師たちが逃げ惑う中で、当事者の癖になーにも状況を理解していないキリエだけが照れ笑いをしている。
歓声・悲鳴・嘔吐─―あたりに居酒屋の便所のようなにおいがみちみち、もはや事態の収拾は不能。
かと思われたその時、
「喧嘩と酔っ払いは宴の華と言いますよ」
ゲロまみれで床にへたりこんだ教頭の下に、一人の生徒がやってきた。
「お困りなら、私にお任せを」
メガネの汚れを拭って見上げた彼の前で、校則通り膝頭に合わせられた紺のスカートが春風に舞う。
ルリコだった。
あたりの騒ぎを見るなり早々にスピーチを打ち切った彼女の顔にあるものは――優雅ささえ漂う、余裕の色。
あたりに立ち込める臭気を嗅ぎ取ってわずかに眉間にしわを寄せつつ、彼女は一礼して見せた。
「おお。頼もしい! なんとかしてくれるかね!」
発狂寸前だった教頭の目に、理性の光が戻る。
相手は十六歳。いい歳こいた大人がすがりつくのはどうなのよ、という気取りなんてもはや彼にはない。頼れるものには何でも頼りたい。そしてさっさと着替えて今日のことを忘れたい。
「その代わりコトが済んだら私の内申書になにとぞよろしく、という感じで」
ルリコがスリッパの底をスッペタスッペタと鳴らして歩き始めると、モーセの十戒のように生徒たちが割れて、その先に問題児二人の姿を現す、
じっくりじっくり、余裕のウォーキングを見せ付けてやってきたルリコは、彼らの前に立って、柔らかな笑みで見下ろした。
「こんにちは。
自然に自分たちの名前が出てきて、二人の視線がようやく彼女に向く。
ルリコは何も言わずニコニコしているが、ようするに『アンタたちのキンタマ握ってるからね』ということだ。
柔和な口元から、無視できない圧が滲み出てきている。
「ね……退屈よね、始業式なんて。私もホンネ言ったら早く帰りたい。代表なんてやるもんじゃないわね、本当に」
さっきまでマジメ一辺倒でここまでコツコツやってきました、というスピーチかましていた代表の口からそんな言葉が聞こえて、みんなが顔を見合わせる。
「だからさ、今は大人しくして、さっさとこれを終わらせない?」
大事なのは理解。
面倒なヤツと取っ組み合っても、話が面倒になるだけ。イカれた家庭でもまれてきたルリコなれではの処世術が発揮される。
『ああ、なーんだ。あの子も俺らと同じでタイクツしてんだあ』というような呟きが周りから聞こえて、彼女は内心ほくそ笑む。
バカどもが。見てなさいよ。これからたっぷり手玉に取ってコロコロ転がして──
「俺はどうでもいい。続けてくれ」
「俺らは静かにやってるだけだ。こいつらギャラリーに注意しろよ、優等生」
あら……ルリコは猛烈なカウンターパンチを食らった気分だった。
ただのガキなら簡単に絆せると思ったのに、それが効かない。下唇を噛む彼女の前で、バカの中でもとりわけのバカたちは、既に試合を再開している。
ルリコは、背中に大人たちの視線を感じる。なあんだ、口ほどにも無いですね、という類の──じゃあオマエがやってみろやという叫びをぐっとこらえて、彼女は笑顔を引きつらせた。
「ケ……ケガしてからじゃ遅いわよ。やめなさいったら」
「どうせすぐ終わる」
レイジがダンベルをつまみ上げる。20キロ。もはや歓声というか、どよめきが走る。
「俺が勝つだろう。残念だが」
「あァ!?」
レイジは決して挑発しているわけではない。
脳みそと記憶といっしょに心が粉々になった彼には珍しく、勝負を楽しんでいた。彼が『残念』と言ったら、それは心の底からの言葉で、フミオに対する敬意なのだが、相手の受け取り方まで考えていない。
頭に熱湯を注がれたように、フミオの顔面が赤くなっていく。
もはや彼は退けない。いくら優柔不断といっても、売られた(と一方的に思ってる)ケンカはキチンと買う。
「おう運動部──の先輩方! もっと重いヤツもってこ──きてください!」
「後でちゃんと勝負の場を設けてあげるから、今だけはおとなしくして」
無謀な戦いに身を投じるフミオの肩に、ルリコの手がかかる。ボディータッチだ。ルリコは人に触られることも触ることも嫌う。気づけば彼女は必死になっていた。
「うるせえ、優等生ちゃんが。黙って見てろ。おら、誰か、次のダンベルだかバーベルだか持って来い!」
彼女の心はフミオに通じない。
彼は今まで持っていた十六キロのダンベルを投げやりにほうり捨てる。重さタップリ。これで遊ぼうモンなら翌日の筋肉痛は覚悟しなきゃいけないブツが、落ちる先は──
ゴッ。
と。マイクが地面を打った音が何倍にも増幅されて、体育館を打つ。
レイジ、フミオ、そして集まった生徒と教師全員、凍りついたように動かない。水を打ったような静寂の中で、彼ら全員の視線は一点に注がれていた。
フミオが乱暴に下ろしたダンベルが、ルリコの爪先に食い込んでいた。それでも彼女は張り付いた笑顔のまま、微動だにしない。
恐る恐る顔を上げて彼女と向き合って、フミオはようやく理解する。彼女は一瞬たりとも笑っていなかった。
この体育館に姿を現した瞬間から今まで、ずっとキレ続けていた。
「あ……あー……あの、これは、べつに悪気があぶべ」
このとき近くで閃光のパンチを目撃した当時一年生、Y君は後にこう語る。
『いやァ、驚いたね。人間の顔って結構ブ厚い骨があるって聞いたんだけどさ。インパクトの瞬間に──こう』
と、彼は左手首から先をもう一方の手で覆って見せる。
『……このヘンまで顔の中に入ったように見えたんですよ、拳。後で会長も骨イってたって聞いて納得したけど。マジで……女の子があんなパンチ打つなんてねェ……』
『何やってんですか、ヨシ』
『ん。インタビューごっこ』
『いいからテキスト進めなよお。ルリコちゃんに殺されちゃうよお』
そんな力でブン殴られて、無事で済むはずがない。
ルリコの渾身パンチを鼻面に食らったフミオは、イスごと真後ろに倒れこむ。後頭部から硬い体育館の床に落ちて、バウンド。
まるで人形のような倒れ方だった。
ジワ……と血の染みを広げる彼を見て、だれもしゃべらない。というか、口をあけることすらできない。
ルリコは、己の左拳を見やる。こちらも血を滴らせていた。
フミオに打ち込んだ衝撃で薬指があらぬ方向に折れ曲がり、脱いだゴム手袋のようになった指の根元から、白い骨が皮膚を裂いて突き出している。
それでも顔ひとつ変えぬ彼女が放つ異様な迫力が、皆の口を縫い付けているのだった。
ペタッ、ペタッ──
その静寂に響くのはたった一つ。スリッパを履いたルリコがバッグの上にしゃがみこみ、中を物色する音。
鉄錆の匂いが広がっていく。誰かがえずく声が聞こえた。
「よいしょ」
ちり紙でも拾うような軽さで彼女はダンベルを拾い上げる。側面に書かれた数字は四〇キロ。本日の最高記録だ。
彼女はイスにかけたままのレイジに向き直り、ニっと笑いかける。
「弁解していいか。俺はただ、ヒマだったから」
「私が午前三時までかけて書いたスピーチがヒマってか」
ダンベルごと、ルリコの腕が残像の塊と化す。
ドゴっ──と重い衝突音が響いた刹那、誰の目にも、レイジの首がほとんど直角に真横に折れたように見えた。
ゴンッ
床に転がって、こめかみがえぐれたレイジが痙攣する。殺虫剤を吹きかけられた虫みたいだった。確実に脳にダメージが入っている、そんな動きだった。
ルリコはやはり顔色を変えず「かーっ」と言って、「ぺっ」。レイジの頭に唾を吐き捨てたついでに、彼の胸めがけてダンベルを投げ捨てる。
ごぼっと咳のような音を発したレイジが体を折り曲げ、そして今度こそ、動かなくなる。
「……ね? 言ったでしょ。ケガするって」
ルリコはマイクを拾い、次に骨折した指を握る。遠くからやってくる救急車のサイレンに、彼女が強引に指を戻す音が重なった。
■
「……なに?」
ボサボサになったカナタの銀髪が、猛烈な風にあおられている。
「アタシこんなときに……悪ィ夢のハナシでも聞かされてんの?」
「夢じゃない。入学式で、俺たちはこうして出会った」
レイジとカナタは四両編成の最後尾で、一台のコンテナに体を預けていた。この貨物車はとにかく巨大だ。
車両はすべて荷物を満載しており、その大半は兵器だ。
列車が揺れるたび、ハンガーに吊られたウエットスーツのような状態で垂れたパワードスーツの手足が触れて、甲高い音を立てる。
鉄とオイルの香りが風に乗って二人のもとに漂ってくる。
列車の足元を走るレールは四本。カナタに昔話をしている間、レイジはずっと、自分が倉庫ごと移動しているような錯覚を覚えていた。
「マジで思うんだけど、どうしてソコからトモダチ付き合い始まったワケ?
「どうしてだろうな……」
上下左右を流れるコンクリート壁を見つめながら、レイジは首をひねる。
どうして、ルリコが月の下で微笑む姿を思い出すと、目頭が熱くなるのか。カナタの背中に残ったフミオの足跡を見るだけで、果てしない憎悪がこみ上げるのか。
彼らは同じ空間にいて、偶然血みどろの暴力沙汰を起こしただけなのに──
■
フミオはシーツを握り締めていた。手が、小刻みに震えている。
「ガッコーに戻ったらマジで殺されるぞ。俺ら」
「俺は死なないが……なるべく頭は殴らないでほしい」
「つーかお前の体! どうなってんだよ、脳挫傷だぞ!?」
白い部屋、消毒の香り。蛍光灯の明るさが目に痛い。
血まみれの入学式という華々しいスタートを切った彼らの高校生活は、いきなり病院での絶対安静という形で始まった。
フミオは形のいい鼻が潰れて大惨事。レイジはもちまえの再生力でその日のうちに潰れた脳を修復したが、「なんかキミ、怖いから」という医者の言葉でとりあえず入院させられた形だ。
「俺の体はこういうものだ。切ったら生えてくる。それだけだ」
「トカゲのしっぽじゃねえんだぞ……」
そして、どういうわけか二人は大部屋で隣同士のベッド。
あんな激戦を繰り広げた筋肉ヤローとの入院生活がどうなるモンかと気持ちを引き締めたフミオだったが、よく話してみると、レイジは静か過ぎるほど静かで、穏やかな男だった。
「脳みそハミ出たんだろ?」
「新しく生えたみたいだ。もう問題ない」
そう言うレイジは既にベッドを抜け出し、フミオの隣でダンベルを握っている。頭蓋骨の破片を体育館の床に並べたというのに、その痕跡は、こめかみに僅かに残る傷跡だけだ。
「問題アリアリだろ。ほかの問題が、イロイロとよ……」
三日。
三日、同じ病室でレイジと過ごして、理解した。コイツはおかしい。
イカれてるとかじゃない。何か根本的な部分で、フミオは彼のズレを認識していた。
レイジは常識がないとかじゃなくて……何かが、欠落しているのだ。
そしてフミオは、彼の傍にいると不思議と安心する。彼が欠けて空っぽで何も無いからだと、既にこのとき、薄々感づいていた。
「ま……とにかく。このままじゃ俺らは串刺しで校門前のオブジェ確定だ」
フミオは大きな白い枕の上に、頭を投げ出す。まだたんこぶが治ってない。彼は僅かに顔をしかめる。
「あのバケモンルリコのゴキゲン取る方法、今のうちに──」
「だれがバケモンですって?」
ゴトッ……レイジの手からダンベルが滑り落ちた音で、フミオは思わず飛び上がる。この音は、彼にとってもはやトラウマだ。
「いいわよ。ホラ、おだてておだてて。今すっごく機嫌悪いから」
だがそれ以上のトラウマが、病室に歩いて入ってきた。
真新しいセーラー服を着たルリコが、コンビニ袋片手に二人を睨んでいる。彼女はフミオの傍までやってくると、おもむろにベッドに腰掛けた。
「ああほらイスルギく……めんどくせえな。レイジ。やめなさい。殺さないから。ひとまず」
レイジの手がとっさにナースコールに伸びたのを、彼女が睨んで止める。
「アンタらのせいで、初日から化けの皮はげて大変なのよ」
「あ、あの、その、俺ら……」
「でも感謝するわ。ずっと着てられる皮でもないし。アンタらが私に暴れさせてくれなかったら、窒息死してたかもだし」
そう言って、ルリコは袋から駄菓子を取り出す。チョコにクッキーの棒をつけて食べる物が、一個だけ。
「はいこれ。仲直りおやつ。三人で食べましょ」
チョコといっしょに突き出されたルリコの手は、あかぎれで真っ赤だった。
スピーチのときのケガではない。おそらく、生活の厳しさが刻んだ傷──レイジとフミオは、それを前に顔を見合わせた。
彼らの心情を見て取ってか、ルリコが困ったように笑う。つけっぱなしのテレビの音が、いやに遠く感じた。
■
コンテナの上ではがれかかったシートがはためいている。
レイジの視線は、カナタの膝に貼られたガーゼに落ちていた。黒い滲み。風で乾いたはずなのに、まだじわじわと広がっていく。
「オマエって殴ってくる女と仲良くなるよな」
レイジは何も言わない。
初対面のとき、カナタが見せた膝蹴り。その膝はもう、原型をとどめていない。立って歩けているのが不思議なほど、壊れてしまった。
「おかげでアタシたちも家族になれた──おっと」
カナタの腕からシュルリと包帯がはがれて、風に乗って飛んでいく。
「あーあ。また巻き直しかよ」
傷を押さえていた手を、カナタがゆっくり離す。
彼女の体は、ヘドロの塊だ。包帯の下にあるものは、黒い肉と、砕けかけた骨だけ。彼女の願いに応じて変化する体は、彼女の願いが死んだ瞬間死んだのだ。
その体でカナタは立ち上がって、前に進んでいこうとしている。
「アタシ、ちょっと前の
ぱっと。はじけるように彼女は立ち上がった。彼女がもたれていたコンテナに、黒い痕がついている。
「あ、危ないぞ……」
「オマエに心配されるほどじゃねーよ。なのま、しん……? まだ治ってねーんだから、じっとしてろって」
言うが早いか、カナタはすたすたと歩いていってしまう。
「でかいロボに……さっきフミオのバイクと似たやつ見えたんだよ。あと銃! すげーの、『マトリックス』のシーンみたいでさ──」
彼女の声が遠ざかっていき、やがて、風切り音の中にまぎれて消えた。
しばらくレイジは胸を押さえて座っていたが、彼も立ち上がる。先刻注入された『中和剤』で症状は和らいでいたが、まだ足りない。
彼は立ち尽くし、天井を猛スピードで流れていく照明の列を見上げ続けた。ああ、お星様みたいできれいだな……と、考えたところで、ハっとなる。
ボーッとしていた。ワケの分からないことを考えて、ほうけていた。
「まずい……」
彼は、コンテナの壁面に手を突く。
息を吸い込んだ拍子に、鼻の粘膜を突くような鋭い痛みを覚える。脳がナノマシンに侵され、神経が壊れているのだろう。オイルのにおいを知覚できない。
代わりに焦げ臭い。すべてが。何もかも。
脳が壊れている。
彼はヨロヨロ歩いていって、最後部の手すりに触れる。
ザラつき、はがれかかった塗装の感覚と、冷え切った金属バーの感覚が彼の焦りを冷やしていく。
焼け付く息を吐く。
凍てつく息を吸う。
『憎悪』にも『忘却』にも囚われない中間にいるのだと、自分に言い聞かせる。
吹き付ける風の中で途方も無い時間をかけて、レイジは理性を取り戻していった。
「フミオ……」
宿敵の名を呼ぶ。
キリエは彼が最後の『中和剤』を持っていると教えてくれた。間違いなく、彼はそれを手に現れる、とも。
人生で初めて出来た友人。そして、敵。
途方も無い力で握り締められた手すりが鳴く。猛スピードで流れ行くレールの先に、レイジは目を凝らす。そこにはただの闇しかない。
だが、レイジの中にキリエを、そしてフミオを信じる心が確かにある。
フミオは行儀のいい男じゃない。言われっぱなし、やられっぱなしで済まさない。きっと来る。この脱出劇が一本の映画なら──
カサッ──
ポケットに入れたままだった封筒が『決断の時だ』と囁きかけてきた。
レイジは鈍重な動きでスラックスに手を伸ばし、ブンタから渡された茶封筒を引っ張り出す。ここまでの激闘のおかげで、あちこち焦げて、しわくちゃだ。
キリエの攻撃で燃え破れた封筒の端から、一枚の写真がハミ出ている。
カメラに向けて満面の笑みで少年がピースしている。一匹のゴールデン・レトリバーが彼に寄り添っており、赤い舌を覗かせていた。一人と一匹の背景は眩しい砂浜の白と、抜けるような二層の青。
「海……」
日に焼けた写真をなぞるレイジが、ふっと笑みを漏らした。
「たいしたこと無いなあ」と思ったからだ。本物の空と本物の海の青は、カナタの瞳に比べれば、プールの底に塗られた眠たいブルーだ。
「俺はもしかしたら、とっくの昔に海に着いてたのかもな……」
振り返ると、コンテナの向こうで白髪が揺れていた。
カナタは積まれた電動バイクのシートにまたがり、ハンドルを握って「ぶおんぶおん!」とやっている。古き良きガソリン時代のエンジン音だ。
その姿を胸に刻み、レイジは再び写真を見る。
封筒の端に隠れた女の顔を、彼は確かめたくなった。水着から伸びたスラリとしたその足と、肩に掛けたミリタリージャケットを見て、静かに息を吐く。
次の瞬間、彼は封筒を引き裂き、すべてを風に投げ出した。
古傷にまみれた大きな手から、白い群れが飛び立っていく。それはトンネルの壁に取り付けられた照明の中で焼け付くように輝き、そして流れ去る。
自分の記憶を葬って、レイジは手すりにもたれた。
レイジには七年間がある。
素敵な人たちと出会って、いろんなことを経験した。そして、彼の『今』はこれからも果てしなく続く──それで十分だった。
彼の足元で車輪がスパークする。レールのたわみに差し掛かると鋭く鳴き、車体が軽く揺れる。
すっかりボロボロになったシャツの右袖に、レイジの目が留まる。
『恨み、憎しみ。忘れるのも、たまにはいいことよ』
ルリコの赤い手形をなぜた瞬間、彼の脳裏に彼女の言葉がよみがえった。たまらなくなって、彼女の血液に鼻を寄せ、吸う。
鉄の花の中に、確かに彼女を感じる。安物の香水しか買えないとボヤいていたが、レイジは彼女の漂わせる石鹸の香りが好きだった。
「ルリコ……俺、寂しいよ……」
彼が漏らした弱音を、風が優しくかき消していく。
あまりに多くを手に入れて、あまりに多くを失ってしまった。
大事な友人たちと焼肉に行って、その帰りに『海に行こう』と、かなうはずもない夢を語るように話したのがすべての始まりだった。
一ヶ月前のことだ。十七歳。夏。一番バカで、一番どうしようもない季節──
「何、見てんだ?」
レイジが手のひらを見つめているところに、カナタが帰ってきた。
あちこち黒い斑点が浮いた白いスニーカーが目に入った瞬間、悲しみに満ちたレイジの顔が、和らぐ。
カナタも口元をほころばせながら歩いてきて、レイジの隣で手すりに体を預けた。
「町を……」
レイジがつぶやくと、頬が剥がれてむき出しになったカナタの歯列が、ぐっと噛み締められた。
「そうか」
としか、言ってやれない。
カナタは自分の腕を撫ぜる。ヘドロの中にウロコの欠片が浮かぶ、グロテスクな腕だった。
鏡を見たくないほど顔は崩れ、口にはしないが、トイレだって行く度に激痛と惨めさに苛まれるはめになる。
カナタは変わった。いいことはたくさんあったけど……そればっかりじゃない。綺麗ごとばかり並べていられる時間は、もう終わった。
「後悔、してっか?」
ためらいがちにカナタが問うた瞬間、列車が軽く揺れた。
「アタシと出会ったこと。こうなっちまったこと」
水面のように研ぎ澄まされたレールがどこまでもどこまでも伸びていくように見え──実際はそうでない。終わりはきっと来る。
カナタは気づかないフリをしたが、背中に暖かさを感じていた。レイジの手が触るかやめるか決めかねて、すぐ後ろを彷徨っている。
その迷いにも、彼女はレイジの優しさを感じてしまう。
「レイジはいっぱい無くして、たくさん傷ついた。アタシのために。アタシのせいで」
やがてその手を、カナタから取った。彼をそっと導いて、自分の首に触れさせる。やはり、何も怖くない。レイジはレイジだ。
「カナタのせいじゃない」
カナタから酸素を奪い、自由を奪い、無意識にサカナの姿を取らせるほど苦しめてきた父親とは、何もかもが違う。
「前に進むっていうのは、変わるっていうのは、そういうことだ」
「変わることができて……幸せだったか?」
「ああ。もちろん」
冷え切った鉄の列車の上で、レイジの言葉は何よりカナタの救いになった。彼女はそっと手を組み、その意味を噛み締めるように頷く。
しかし、優しい静寂はいつまでも続かない。
ピ──ピピピ、ピピピ、ピピピ──
列車の手すりに備え付けられた受話器が、コンテナの間に緑の光を飛ばし始めた。二人とも、同じように実感する。
終わりのカウントダウンだ。あの電話を取ったとき、すべての決着が始まる。
「カナタはどうだった」
最後の時間を惜しむように、レイジが切り出した。すっかり伸び放題になって目にかかるほどになった黒髪と、無精ひげの奥で、彼の口元が楽しげに笑っている。
「カナタにとって、この町はきっとちょっと歪んでいたに違いない」
「ちょっとで済ませられるかァ!?」
冗談交じりにカナタが張り上げた大声で、レイジはついに肩を揺らして笑い始める。彼女と笑い合える時間が、いつまでも続いてほしかった。
「笑えることも、辛いことも、同じだけあったはずだ。それでも来て良かっただろうか。『海』に並ぶような美しいものは、見つけられただろうか」
そうであってくれたら。レイジはそう願う。レイジの
だが包帯の端をいじり、風と髪を遊ばせる彼女を見ていると、だんだん不安になってくる。果たして自分は、カナタのよき家族であれたのだろうか、と。
「西町で過ごした一ヶ月は、少しでも楽しかったか?」
「アタシ……」
カナタは視線を落とし、手すりをぎゅっと握りしめた。
「アタシにとって、この夏に起こったことは、もう楽しいとか辛いとか、そういうのじゃねえ……」
その指先が白くなるほど力が込められている。
「過去って、なくならないからさ。どんなに楽しいことがあっても、どれほど辛いことがあっても。起きたことは、全部取り返しつかないから」
手のひらにシンとした冷たさを伝えてくる金属のバーごと自分が潰れてしまいそうな錯覚を覚えながら、カナタは続けた。
「それでも、みんなに会えて──」
吹き付ける風に、白い髪が大きく舞う。貨物車両の軋む音がトンネルに反響する。
終末のカウントをするように、徐々に電話のコール音が大きくなる。
だが、余計な音は全て遠いていった。
花弁のようにほころぶカナタの唇を、レイジはただただ、見守る。
「──サイコーだった。ぜんぶアタシの宝物だ!」
レイジの世界に、光が満ちた。
カナタは手首を掲げる。ビーズのブレスレットが、彼女の瞳と呼応したかのように青く深い色を漂わせる。
「オマエと会えてほんとうによかった。アタシをイスルギカナタにしてくれて、嬉しかった」
「うん。うん……」
カナタの言葉に合わせて、レイジは何度もうなずく。
心が温かい。たとえ『憎悪』をこねて作ったかりそめの優しさだとしても、彼はこの温度が『にんげん』なのだと信じる。
「だからレイジ、アタシらで、とことんまで行こう」
「海に」
「ああ。その先までだって。だからレイジ──」
《あっ──あー、あー。テステス。いるか? 聞こえるかー? おーい》
キイイイインというハウリングと、その後に迸った声で、二人の会話は打ち切られた。
二人が顔を向けた先で、受話器が赤色のランプを点灯させている。いつの間にかコール音は止んで、強制通話モードに入っていた。
おまけにスピーカー。大音量で。
《いるだろ。こっちからは見えてんだよ》
トンネルの奥で、キラリと赤い光が瞬く。
車両の立てる軋み音に混じって、ジェットエンジンの轟音が、徐々に大きく聞こえ始める。
何か巨大で、強大なものが、列車に急接近してくる。
《今の俺、けっこう目がいいんだ。俺っつーか、この
彼らの前で振舞っていたようにしようと、声の主はノー天気な声を装っている。しかしレイジとカナタには、その裏に漂う緊張と、確かな決意が伝わってくる。
シャフトの底で潰れ、折れた男が立ち直った。
父と町と、仲間と──そして自分にケジメをつけるため。選び取るために。赤い機体を駆り、一筋の流れ星となって。