レイジはカナタを抱き上げたまま、炎上する車両をずっと見つめていた。
三人と、ある少女の脊髄が繰り広げる激闘を乗せて爆進し続けた貨物車は、ゴール手前にして無念のクラッシュアウトを迎える結果となった。
ごうごうと燃え盛る車両が、ボンっ……と音を立てて小爆発する。破片でカナタが傷つかぬよう、レイジはそっと、背を向ける。
『フミちゃん……』
少女が、瓦礫の前にしゃがみこんでいた。灰色の鋼材の山から血の気の失せた左腕が突き出て、力なく垂れている。爪先にバイクのオイル汚れを黒く詰めたその腕は、少女が触れようとしても触れられず、その呼びかけに、応えてくれることもない。
爆発の衝撃で飛んできたサマナのコックピット部分が、瓦礫の山に、彼の墓標のように突き立っていた。
「バカだよ、オマエ……」
カナタの声は震えていた。もはや彼への崇敬にも近い感情が、そこに含まれている。
暮フミオ。ロマンに生き、ロマンと共に爆死した男。
最期の十分間『父が誇れる俺になる』という彼の志は本物になり、銀の輝きを放っていた。間違いなく、これまでで最強の敵。レイジとカナタが立っていられるのは単に二人がかりだったからであり────それが、決定的な差になった。
「さらばだ、フミオ」
ギュッ──握り締められるレイジの太い指が、カナタのライダースーツに音を立てる。
すぐさま大量のドローンが駆けつけて、燃え盛る列車に消化剤をブチ撒ける。
白い泡の中で炎はすぐに勢いをなくす。
『あ』
とろとろと流れてくる泡にフミオもろとも飲み込まれる寸前、少女が声を上げた。彼の指先が力を取り戻し、軽く床を引っかいたように見えた。
だが、すぐ、すべては白い泡に埋まる。振り返って何か言いたそうに口をパクパクさせる彼女の姿は、すぐ消えた。
天井に一本の黒槍が突き刺さったままだ。
鋼鉄のドームはそこで引き裂かれ、茜色のカーテンが静かに降りている。その中でカナタは抱き上げられたままだった。
そして二人は見つめあったまま。
誰も、何も邪魔されない。外から流れ込むヒグラシの声の中に訪れた久しぶりの『ふたりっきり』で、彼らは汗ばんだ肌を寄せた。
「あの……さ……」
レイジの太腕の中で、カナタが居心地悪そうに身をよじった。
「もう、はなしていいぞ。アタシ、歩けるから……さっき体治ったし。服もパーフェクトバージョンにお着替えしたし……」
レイジは、言うことをきかない。
「ケガは」
「あるわけねえだろ……オマエの後ろいたんだぞ……」
「カナ、タ?」
それでも手を離さず、レイジが顔を覗き込んでくる。
カナタはなぜか、急に彼を見られなくなった。黙ってそっぽを向いた彼女が具合悪いのと勘違いして、ますます彼が顔を寄せてくる。
彼の汗のにおいを心地よく、そして気まずく思いながら、カナタはようやく、搾り出すように一言だけ付け加える。
「アリガト……カッコよかったぞ、アタシのヒーロー」
「そっか。すまん、ちょっとだけ」
言うが早いか、レイジはカナタの胸元に顔を埋めた。
「あ……」
悲鳴を上げて暴れようとしたカナタだったが、レイジの様子を察して、すぐに落ち着いて、彼を抱きしめてやった。
「仕方ねえな……今だけだからな。ホント、トクベツのトクベツの特別だかんな」
彼の黒髪に指を通しながら、その半身であるカナタには痛いほど気持ちが分かる。
町最強のサイボーグをブッ倒し、脱出路の出口を塞ぐ正真正銘のラスボスを倒したって、気分はぜんぜん晴れない。晴れるわけが無い。
レイジの手が、震えていた。
どこまでも優しく温和な憎悪の化身は、カナタと己のために壊して殺して失った。フミオの死は──間違いなく、彼らで背負っていかなければいけない。
「ほら、レイジ。見上げてごらんよ。マジもんの夕日だ────」
カナタが天井を指差したとき、鎮火したかと思われた輸送列車が突如大爆発を起こした。
灰色の光で固められた倉庫内を爆炎が吹き荒れ、離れた二人のもとまで衝撃と、熱風が流れてくる。
爆風に叩き据えられたドローンが、燃え上がりながら次々落ちてくる。
巨大なキノコ雲を背負い、真っ二つに裂けた車両。その中から立ち上がった、黒々としたシルエットは────
「ハァ──ッ!」
狂気の笑みを浮かべた、フミオだった。
くすぶる体から吹き上がる煙を引きながら、彼は前進を開始する。
全身血にまみれ、右腕右目はなくなっている。ハリネズミのように全身貫く槍を掴み、彼は引き抜く。
カランッ
乾いた音と共に、彼の狂笑が広がっていく。その口からとめどなく血が迸る。
「ハ……ハハハハッ、げぼっ、ゲッ、はははは! てめえら、最後の最後で気ィ抜きやがって!」
レイジがとっさに槍を構える前に、早打ちのスピードでフミオの右腕が持ち上がった。
弱々しい光がその先に腕の輪郭を形作り──これまでにない怖気を二人が感じた瞬間、思い切り足首をとられ、床に引きずり倒される。
「があっ」「うあっ」
光の触手がフミオから伸びて、彼らの脚に巻きついている。
「後悔しろよッ、イスルギレイジッ! てめえのせいでカナタは死ぬんだ!」
フミオの叫びなどには取り合わず、レイジは黙々と触手を引きちぎる。だが、ダメだ。次から次へと触手が伸びてきて、より強固に絡めとられる。
ぐん、と力が加わり、二人は宙吊りにされる。
「フミオ──もう、ごほっ、ううっ」
逆さ吊りにされて雑巾絞りされるカナタが激しく咳き込む中、レイジの目に、恐るべき光景が映る。
フミオを中心に、光る触手が倉庫全体に伸びていく。光の線虫が地面を這い、植物の根のように倉庫全体へ食い込んでいく──やがて、触手に絡まった一機のパワードスーツの目に、灯がともる。
ウロコのように並んだ菱形戦闘機の群れ、戦闘ヘリ、そして大破したサマナまで。瞬く間にエンジン駆動音で埋め尽くされる倉庫の中に、排煙と、フミオの殺意が満ち溢れていく。
死に瀕したフミオは、ずっと倉庫の天井を睨み付けていた。破れた天井のその彼方、茜色の空と、その先に広がる宇宙空間を。
その姿に、レイジは彼の恐るべき作戦を読み取る。
「フミオ、お前ェッ!」
「遅ェんだよ、バカが!」
ゴウッ──
一塊になった飛行兵器がいっせいにエンジン全開し、すさまじい轟音と振動が床を打ちのめす。
レイジとカナタはフミオに弄ばれるおもちゃのように、その上を引きずりまわされる。
無数のジェットエンジンに火が点き、煮えたぎるような気流を吐き出す。全てが一点を向いている──空だ!
「このまま成層圏まで浪漫飛行とシャレ込もうぜ、俺らでなあ!」
暴風で吹き飛んできた鉄柱がレイジの額をかすめ、鈍い音を立てる。
煙が渦を巻き、炎が視界を赤く染める。耳をつんざく笑い声。その混沌の中で、レイジは必死にカナタの姿を探した。
「レイジ!」
必死に伸ばした手を握り返された瞬間、カナタの声が聞こえ────飛翔。
彼女の安堵の表情を確かめる間もなく、彼らはギュンと慣性に引っ張られ、内臓が飛び出そうになる。
震える床は遠ざかり、燃え盛る塊からブラ下がった姿で、彼らは空中に舞い上がる。
風切り。
エンジンの轟音。
フミオの爆笑。
ばりばりっ。と音を立てて、倉庫の天井が破壊される。
レイジはカナタを抱き寄せ、傘のようにフジツボ装甲を展開する。激しく炎を吹き上げるパワードスーツが空の彼方に飛んでいき、無数の鉄骨と破片が彼らを打ち付ける。
そして──
「夕方……」
呆然とカナタが呟きをもらして、レイジは、はっとした。
彼らは、本物の空を飛んでいた。むわっとした夏の熱気の中を飛んでいると、地下都市には存在しなかった気流──風を強く感じることができる。
におい……少し、土っぽい。
音……セミの数が段違いだ。雲のうなりを感じる。
手触り……カナタを強く抱きしめる。鼓動が早い。汗が熱い。
一つ一つは些細な違いだというのに、レイジに圧倒的な世界のリアルさを感じさせる。
ドームの天井に映った映像ではない。長い長い戦いを経てついに外の世界に出た。
カナタの行きたがっていた海に、手が届くところまで来た。
だというのに。
「だと──言うのに。貴様、邪魔をッ!」
彼らは本物の茜空の中で、一筋の流れ星だった。
フミオにひとまとめにされた兵器群は推進剤を最後の一滴まで燃やし尽くすだろう。後数分もすれば彼らは、本当に星になる運命が待っている。
「フジツボを構成する炭酸カルシウムはせいぜい硬度三だ! 宇宙からの落下に耐えられるのか!? 見ものだな!? アァ~~!?」
「離せ、フミオ!」
「お前だったら離すのか!? こんな大チャンスでよォー!」
どんどん、どんどん、高度が上がっていく。
夏の暑さはすぐ遠ざかり、高空の冷たさ、空気の薄さが彼らを浸していく。鼓膜が悲鳴を上げ、置き去りにされる息が白く色づく。
「ハハハハハッ!!! レイジいいいいぃぃぃ!!!!」
「フミオおおおおお!!!!!!!!」
レイジはカナタを抱きかかえたまま、片腕と両足で触手をつかむ。口の端から白い泡を吹きながら宿敵目指して登りだす姿は、もはや狂気だ。
ナノマシン汚染で彼の体は容易に傷つく。フミオが団子にした戦闘機のハッチに手を掛けて登り始めたとき、彼の片腕はほとんど皮が剥げていた。
痛みなどどうでもいいのか、痛みを感じる機能もナノマシンに食い破られたのか、彼はフミオの名を叫ぶばかりだ。
■
耳の先が冷たい。指先が取れそうだ。
バタバタとスカーフの先を鳴らす強風の中で兵器の山を上り詰め、空をにらむような形で埋め込まれた、カーマインに塗装されたパワードスーツが見えてくる。
その瞬間、レイジの手がカナタを離れた。
「うあっ」
レイジの体が遠ざかったとたん、彼女は高空の恐怖に苛まれる。
足元からハミ出たコードに腕を絡めるカナタを尻目に、レイジはノシノシ歩いていって、サマナのハッチに手を掛ける。
ゴギュッ
装甲厚200ミリを誇る胸部ハッチは、いともたやすくねじれて、外れた。彼はそれをチリ紙でも扱うようにポイ捨てする。
風圧で吹き飛んだハッチはカナタの近くにブチ当たって火花を上げると、そのまま枯葉のように宙を舞った。
カナタの見つめる先で、それは数百メートル下の密林めがけて落ち、ゴマ粒のように小さくなり──消える。
「ハっ……ようこ……ぐあっ!」
ハッチの奥からフミオの顔が現れた瞬間、レイジが強烈に殴りつけた。右目を失った彼の顔がひしゃげ、黒っぽい血が鼻から吹く。
膿と鉄の異様なミックスが広がるコックピットからフミオが見上げる先で、レイジもまた、同じ色の体液を口から漏らしていた。
「ふん……限界だな。俺ら、どっちも」
フミオが血を吐くと、レイジは笑った。
頬が凍りつくほどの高空で胃が裂けるほど笑う。
ひとしきり笑ってから、彼は真顔に戻ってフミオを殴りつける。何度も、何度も。その首が糸の切れた人形のようになっても、殴るのをやめない。
「レイジもう、いいって──」
カナタから見えるのは凶悪なまでに筋肉が隆起したレイジの背中が絶え間なく動くのと、コックピットの奥から飛んで、宙に舞う血飛沫だけだ。
そして風鳴りの中でハッキリ聞こえる打撃音とフミオのうめき声。
レイジにやめる選択は無い。
カナタの体が戻っても心に傷が残る。それに──ルリコ。
「ルリコが向こうで待ってる」
レイジはフミオが憎かった。
あの『脊髄』が急におかしなことをしなければ。
だが『脊髄』を持ち出したのは、そもそもフミオだ。
「死ねよ」
『や……やめてっ!』
いつしか、レイジの前に幻影がいた。
顔面ボコボコに腫らして荒く息をつくだけになったフミオに覆いかぶさるようにして、彼女は睨んでくる。
「あ?」
レイジに見据えられた瞬間、幻影の足元が竦んだ。今のレイジは解き放たれた猛獣だ。だが少女は退かない。
『フミちゃんは……ブンちゃんのために……みんなに酷いこと言われても立ち直って……すごく痛い思いして……』
「ああ」
『フミちゃんはレイジと向き合いたかったんだ。本当に本当にヒドいやつだけど、でも苦しんで悩んでがんばる『にんげん』だったんだ』
「で?」
『私がお願いするのはおかしいけど、土下座でもなんでもする。だから、フミちゃんの『にんげん』を殺さないで──あああっ!?』
その指が少女の幻影を貫き、フミオの胸に突っ込まれた。
ブチ、ブチ、ズルリ──
フミオが小刻みに痙攣する。レイジは胸郭を押し上げ、内臓を掻き分け、その奥を探る。
最後の抵抗とばかりに傷口から反物質の炎が吹き上がり、レイジを焼く。グズグズに腕を溶かしながら、彼は止まらない。
フミオの口から嗚咽とも笑いともつかぬ声が漏れたが、レイジには届かない。
そして、一本の脊髄が冷たく濡れて、彼の手にぶら下がった。
「うるさいな」
少女の姿は掻き消え、かわって、レイジの中で細い脊髄がヘビのように身をよじっている。
かつて彼女の肉体の一部であった背骨を興味なさげに一瞥した後、レイジは改めてフミオを睨み付ける。彼は握り締めた脊髄を軋ませながら、拳を振りかぶる。
■
ゴキッ──
フミオの顎か、あるいはレイジの拳の骨か。判別できない音が空気を裂いた。
ただ、ひどくいやな音だった。
まずい。
カナタは、ケーブルを握る指が白く染まるほど握り締める。
このままでは、全部ダメになる。
今自分が高度数千メートルまで打ち上げられていることよりも、
その先に確実に待ち受けている落下と、死という絶対的なゲームオーバーよりも、
「どうしたフミオ。俺ともっと、命を憎もう」
目がはちきれそうなほど血走らせてフミオを殺しにかかるレイジを見て、カナタは理屈ではなく本能でまずい、と思った。
「し……『焼失』!」
まるで火の中から彼を引き戻す呪文のように、カナタは叫んだ。
レイジの動きが、ピタリと止まった。
振り返った彼の、その恐ろしい目つきに、カナタは気が遠くなりそうになる。だが、絶対に彼を映画“焼失”の主人公のように終わらせてはいけない。
憤怒と憎悪に身を焼かれる怪物にしては。
「あの映画思い出せ! 復讐したってなんも残らねえ。もう終わりだ。終わったんだ!」
「映画は映画だ」
「ちがう! アタシはオマエをジャックのようにしたくない!」
カナタは這っていって、レイジの背中にしがみつく。
「何言ってんだ……ルリコの仇だぞ?」
そう聞いてくる彼は、恐ろしいほど無表情だった。『こんなこともわからないんだ』とカナタに水ブっかけて冬空の下に放り出した父さんと同──
──ふざけんな。もうお前の出番じゃねえんだよ。
カナタは、遠くにバイバイした『オモトカナタ』が舞い戻って心に影を落とそうとするのを、必死に押しとどめる。
レイジはレイジだ。彼女の家族で……今はちょっと、頭に血が昇っているだけだ。
カナタは自分を奮い立たせ、レイジの体にすがった。
「それはもういいんだ。いやよくねえ。でも──だけど──だから! オマエはフミオを許さなきゃダメなんだ!」
「なぜだ。ルリコのことが悔しくないのか!」
「ホンネ言ったら悔しいに決まってんだろ、バカ!」
気づけばうな垂れたフミオをよそに、レイジと同等の剣幕で怒鳴りあっていた。
「どれだけ憎くても、憎悪がなんでも、許してやれ! じゃないとオマエはもっと傷だらけになる! ずっとうなされ続ける!」
カナタは血にまみれたレイジの腕を握り、自分に抱き寄せる。白いライダースーツを汚す自分の拳を見て、彼がわずかにひるむ。
そうだ。その顔こそ、カナタが望むレイジだ。
血まみれスタートで海に行っても、きっと幸せにはなれない。レイジは、カナタと海に行くことを望んで笑っていた彼のままでなければいけない。
フミオを殺せば──彼は戻ってこれなくなる。
「どの道こいつは死ぬ」
レイジは、フミオをあごでしゃくる。
「なら今俺が殺しても、なにも違いはない」
茜色を過ぎ去り、もはや黒味すら感じるほどの高空の下、フミオはヒュウヒュウと息をしている。
コックピットの底に、『中和剤』のボトルが転がっている。
「アタシと海に行くんだろ!」
「コイツにトドメを刺したら、行く」
そう言って、レイジはカナタの腕を払った。
「レイジ!」
悲鳴のような声でカナタが叫ぶが、彼はもう、答えない。片手から白い背骨をブラ下げたまま、フミオの胸倉を掴み上げる。
近くで爆発が起こり、カナタは地面にしがみついた。その地面は、爆発物の塊だ。フミオの能力は本人の意思と離れて動き続け、限界を越えたエンジンが次々自爆を始めている。
血が飛んだコックピットのパネルに表示された
絶望か。
あれだけ必死こいて西町を脱出したのに、ここまでなのか。
カナタの心を暗い影がひたひた満たし、締め上げていく。ダメだと、あきらめるなと自分を叱り付けても、彼女の精神が歪み、軋む。
ああそうだ、どうせ高いトコロだ。最後に海でも──
息を呑んだ。
そこに、あった。
「あ」
ふと、地獄の外に目をやったカナタの瞳を、茜色が染め上げた。
今まで必死にかじりついていたおかげで気づかなかったが、時刻は夕暮れ。もっとも美しく、もっとも儚く、『それ』が輝くころあいだった。
まばゆい光が世界を一色に塗りつぶそうとしている。
「な、見ろよ、レイジ」
遠く遠く。遥か彼方に見えるそれは、
「こんな場所で殺し合いなんて、馬鹿馬鹿しいじゃんか」
レイジの拳が、空中で止まった。
フミオもまた、虫の息のまま視線だけをそちらに向けた。
みな、彼女の指し示す方角を見る。
海だった。
オレンジ色に染まった海が、雲の切れ間からまぶしい光を放ちながら広がっていた。
水平線に沈む太陽は陽炎のように揺らいで、そのゆらぎが、カナタの瞳の中にある青い海に波を立てる。
茜と青、二つの海が静かに触れ合い、交じり合う。
その美しさ、温もりこそが──カナタが海を目指し、生き続けてきた理由そのものだった。
レイジはずっと、ずっと。海の果てに沈む夕日を見つめていた。
ある時ふと我に返り、血まみれになった両手を見つめる。その赤さも命の赤さだが、永遠に、この茜色には馴染めない色だった。
彼はそれからじっと見上げてくるフミオを見、また自分の拳を見つめる。
□
外に出て、想うのは西町のバス停だった。
トタン作りのバス停にはベタベタとポスターが貼られ、疲れたルリコがレイジたちのジャケットをベンチに敷いて、寝息を立てている。
フミオとレイジは並んで夕陽を眺めていた。
いつになくフミオは言葉少なく。その理由は、直前に彼が叩いた軽口だった。
『……わり。クソ失言だったわ』
レイジは別に気にしていなかった。
だが、フミオはかなり気に病んだようで、ずっと顔をしかめていたことを思い出す。
あの時見せた彼の顔と、死に掛けたフミオの顔が、どうにも被る。たしか、あの時、フミオは「仲直りのサインだ」と言って──
□
やがて決心したように、レイジが口を開いた。
「フミオ」
レイジは彼の胸からそっと手を離し、彼の左手を握る。もはや拳を作る力すらない彼の手の甲に、レイジは自分の拳をコツンと当てた。
仲直りのサインだ。
あの時言えなかったことを。ずっとずっと言えなかったことを、口にする。
「許すよ」
レイジは『中和剤』を拾い上げると、固唾を呑んで見守るカナタが「あっ」という間もなくフミオの胸に突き刺した。ナノマシンの動きを抑制し、排出する薬剤が彼の血流に乗って全身を流れていく。
あとは彼の運次第。
少なくとも彼は、この先に希望がある。
レイジの太い腕がコックピットの中を探り、黄色いレバーを探り当てる。エジェクション──放出と書かれたそれを彼が引いた瞬間、フミオの体が勢いよく射出された。
最後の最後で自分に『中和剤』を譲った友の行動が信じられないフミオは、驚愕の顔を張り付かせたまま宙に投げ出される。
レイジの視界の中、彼はあっという間にオレンジの空の中で小さな小さな点になって……小さく黒いパラシュートの花が咲いた。
彼を見送って、レイジは黒い血を吐く。
今までとは質が違う。未練がましく粘って、途方もなく匂って、そして、吐けば吐くほど自分の中身がからっぽになっていくような──とめどない血の流れの中に、レイジはこれまで自分が過ごした人生の、きらめきを見る。
彼の七年間。かけがえの無い思い出と、つながりと、絆が交じり合った液体。記憶は失われ、もう、戻ってくることはない。
レイジはもう終わる。
タイムリミットを迎えた体で、レイジは振り返る。カナタが、いた。
彼女がどんな顔で、何を言っているのか、彼にはもう分からない。
ただ白と青のぼんやりした塊にしか見えない彼女だったが、そこがかえっていいと思った。まるで、夏日の中に躍り出た彼女の姿が霞んでいるみたいで────レイジは笑いかけた。
■
「レイジッ!!」
叫ぶカナタの前で、レイジの体がフラリと揺れる。
彼は最後の最後に泣き笑いのような顔を見せた後、そのまま兵器たちの作る斜面を転げ落ちていった。
あちこちぶつかってゴンッ、ガンッ、と鈍い音を響かせながら落ちる動きに力は感じられない。そして彼は虚空に投げ出される。
イスルギレイジが、墜ちていく。
いまや夕陽は地上世界を席巻し、地球は燃えるように赤かった。
心にまで届く赤色が、それを見つめるカナタの脳裏にとあるシーンを描き出す。それは映画『焼失』のラストシーン。主人公ジャックが、燃える星に自らの体を投げ出す瞬間だ。
「──まってろ!」
カナタはそれまでの恐怖が吹き飛ぶようだった。
「アタシが、行く!」
ケーブルを手放し、飛ぶ。
もはや火の塊となった兵器の群れを掠めて、彼女も落下を始める。
煙の向こうから姿を現した戦闘機の鋭いアンテナが霞め、彼女の頬を引き裂いたが、それでもひるまない。
目標は数百メートル下、彼女の家族がそこで助けを待ってる。
とうとう限界に達した兵器玉が爆発する。
彼女の背中を、衝撃波が打ち据える。
雷鳴のような爆音が鼓膜を裂き、灼熱が襟足をなでていった。それすら勢いに変えて、彼女はレイジを目指して落ち続ける。
背後から飛んできた破片が体を掠める。鋼板、砲身、弾薬箱──黒煙を吹いて迫り来る落下物の中を、カナタは青い彗星となって縫う。
レイジにどうやって追いつくか。追いついたところでどうやって生き延びるか。そんなしゃらくさい考えは、ハナからカナタにはない。
彼女とレイジは一心同体。彼が落ちる時、カナタもまた落ちる。ひとりぼっちはありえない。それだけだ。
「くっ……!」
目を閉じて落ちるレイジに、カナタは必死に手を差し伸べるが、遠い。
二人はとっくに終端速度(ターミナルベロシティ)に到達し、これ以上の加速も接近を見込めない。
(もう、一押し……)
せめて後一押し。カナタは自分がただのウロコ人間であることに、心底いやけがさす。レイジの『ロマンの力』みたいな爆発的なモノじゃなくていい。暗闇に星を見るような、ほんの一瞬の光でいい。
徐々に迫る地表を見てカナタが歯噛みした瞬間、レイジの手が緩み、そこに握られていた脊髄が抜け落ちる。
『あ……ああ……』
泣いている少女の声が聞こえた気がして、気づけばカナタは動いていた。
風に煽られ宙を翻弄される脊髄めがけて手を伸ばす。
『お……か……カ……カナタ……さん!』
そこに勢いよく飛んできた鉄片が、カナタの手の甲を切り裂いた。深く深く突き刺さったかけらが彼女から血を絞り出す。
顔に跳ねた血で目を片方閉ざしながら、彼女は宙を掻くのをやめない。
『やめてっ! もういいよ。もう、私のことはいいから!』
「うる……せえっ!」
自分で不思議なほど、カナタは必死だった。
ただ「今度こそ手放しちゃいけない」という気持ちだけが彼女の中で渦巻いて、その体を、空中の脊髄めがけて強力に推進する。
叫びともうなりともつかない声を上げながら手を伸ばして──ついに、届く。
「だいじょうぶ……だい、じょうぶだ!」
それをすぐさま両手で掴んで、胸に抱きしめる。安堵があった。もうすぐ落ちてトマトのように弾けるというのに、家出娘に「おかえり」と言いたくなるような気持ちが、カナタの胸に広がっていく。
『ごめんなさい……』
抱きしめた腕の中から少女の白い手が伸びてきて、カナタにしがみつく。
二人の近くでまた爆発が起こり、二人は木の葉のように吹き飛ぶ。レイジの体がどんどん離れていく。
『ごめん。ごめん。もうダメ。私がかかわると全部ダメになる』
「オマエはちゃんとワガママ通して『にんげん』見たんだろ。フミオと一緒に。それだけだ。それでいいじゃねえか」
風が冷たい。雲がどんどん下がってきて、薄い水の膜を突き破りながらカナタが落ちていく。
胸の隙間からハミ出た少女の頭を、カナタは撫でる。フジツボをホチキス代わりに繋ぎ合わせた額の隙間から頭蓋骨の中身が見える。からっぽだ。中には何も無い。
『私は『にんげん』じゃないから。『にんげん』らしさが知りたかった。フミちゃんがそれを分けてくれて……でも、すぐなくしちゃった』
不完全だった。
カナタの目にも、そう映る。この少女はレイジを支え、そして、レイジから人としての振る舞いを学び取ってきたのだろう。だから『にんげん』を求めるし、自分の『にんげん』じゃなさが心に突き刺さっている。
形は
「いいか、ガキんちょ」
遠くに、レイジを見据えながら、カナタは囁く。
「こんなキレイなトコで泣いてんじゃねえよ……夕日でも見て指しゃぶってろ」
そして、手足を使って泳ぎ始めた。
片腕に少女を抱いたまま、彼女は空中を掻き、レイジに向かって進んでいく。裂けた手の平から噴き出す血があっという間にスーツを真紅に染め、彼女の命を薄めていく。
もどかしく、むなしい加速を試みながら、彼女は自分のエラもウロコも、この瞬間のためにあったのだと悟った。
どこまでも泳いでいくため。彼がかつてそうしてくれたように、今度は彼を助け出すため。
『私が身勝手して、レイジを壊しちゃった』
「まだ壊れてない。壊れても叩けば直せる。アイツはがんじょうだ」
『レイジに……産んでほしかったんだ』
カナタをかすめて落ちていった金属箱が、レイジの体に直撃した。彼は箱を抱えるようにして、軌道を変えて落ちていく。
フミオのやろう、厄介な置き土産してくれやがって──と、カナタは内心舌打ちする。
「男が産む、だあ? おえっ。シュワちゃんじゃねえんだぞ」
『名前つけてもらえれば……こんな私でも、生まれて来られる、と思った』
「名前」
視界の端に映る少女が『ばかみたいでしょ』と泣き笑いした気がする。
カナタはただ、地面を睨む。残り数千メートル。空気の質が変わった。夏の暑さの中を、彼女たちは落下していく。
夏に抱きとめられ、夏の腕の中で死ぬ。ロマンチックだが、カナタはごめんこうむる。まだ、先が見たい。
海を。遥か、彼方の──
「そうだ──ハルカにしよう」
『へ』
カナタがヒレをはためかせ、空中で体をひねる。
燃える欠片を見事にかわして、彼女は空を見つめる。そして、両手で握った脊髄を、赤ん坊をあやすように高々と抱き上げた。
目を泣き腫らした少女の幻影が重なるようにして、黒髪をはためかせ、カナタの手を掴む。
『私……ハルカ?』
震える声が、空に溶けて消えそうになる。
少女の胸が、かすかに膨らんだ。
まるで生まれて初めて息を吸ったように、彼女の喉が動く。
『くれるの……カナタちゃんが、私に……ハルカ、って』
「こんなトコで悪ィけどな。でも、いい名前だろ。
カナタは照れくさそうに目をそらして、水平線を見やる。そこでは夕日が半分まで沈み、徐々に夜の色を漂わせている。
なんてキレイなんだ。カナタは落ちているに、恐怖を忘れる。
浜に広がる白砂の上で、一日中海がうつろうのを見ていたい。だから、こんなところで死んでいたくない。
レイジと──そして、ハルカが隣にいてくれたら、もっと楽しいと思う。
「好きに生きろ。オマエは今、この空の中で生まれた。ハッピーバースデー、ハルカ」
『ああ……か……さん……!』
カナタの腕に、ズンと重みがかかる。
彼女の目の前で信じられないことが起こっていた。少女の腕に、自分の指が沈む感触がある。風で冷えて切り裂かれた指先に、温度が宿る。
驚く間も与えず、少女の肉体が成長し始める。シャフトの底で七年眠った時間を取り返すように、背が伸び、胸が膨らみ、髪はある時点で切りそろえ、短くなっていく。
頼りなく、自信なく垂れていた目尻が上がって、カナタに少しだけ似た鋭さを宿す。
深淵の虚無を映す黒が色づき──高空で彼女たちを待ち受けた宇宙の色を持ち帰ったような、深い青を映す。
「なんだよ。美人だな、オマエ」
カナタは怖くない。なぜか、むしょうに誇らしい。
『ほんとに好きに生きていいの、かな』
ぼろきれのようなワンピースが殻のように剥がれ落ち、彼女の裸身が現れる。
その体は、少年と少女、二つの特徴を兼ねそろえていた。
『わたし、ぼく。まだ、死んでないのに。生まれちゃってもいいのかな』
彼女は、彼は、なんにでもなれるし、どこにでもいける。しかし、選択肢の上に立ち止まったりすることは無い。
覚悟し、選び、決めたらエイヤと突っ込む──フミオから受け継いだ選択と、その重みが、彼女の新たな輪郭を形作っている。
「ああ。オマエの人生だ。好きに選んで楽しめばいい」
実体を持った「ハルカ」が、カナタを抱きしめる。
カナタもハグで応じる。不可思議な潮騒と、アジサイの香りがする。レイジが自分に感じたにおいとはこんなもんだったのかな、と、彼女は思った。
「私がカナタで」
『私は──いや。もう違う。ボクはハルカ」
ハルカの体から、フジツボが剥がれ落ちていく。
彼女は今まで自分を繋ぎとめ、象ってくれた深海の使者を、労うように弔うように目をつぶる。
那由他のような一瞬の後、開かれた彼女の双眸には新たなる色彩が宿りはじめていた。
「お願いだ。ボクを──イスルギハルカにしてください」
歪んで壊れていた瞳孔が修復され、彼女の瞳に燃えるものは、橙だ。燃え上がるタンジェリンが、カナタのアズールと見詰め合って、お互いの深みを増す。
「いいとも。アタシとレイジは、オマエの家族だ」
カナタの手が、ハルカをそっと離す。ハルカは両手を広げて鳥のように気流に乗って飛び、二人は並んで落ちる。
やがて、彼女たちは下方を見据える。
地表まで残り1000。埋め尽くす密林の様子がよく見える。緑の中から顔を出す灰色は、古いビル群だ。
人類が地表を去って七年。長い歳月で樹木に飲み込まれた都市の上に、レイジが落下していく。
「聞いてくれ、ハルカ。アタシはレイジを助けたい」
「うん、ボクもだ。レイジが好きだ、から」
「だったら力を貸してくれ。そんなツゴーのいいモンがあれば。だけどな」
ふっと、ハルカが微笑んだ。
「まっかせて。今のボクにはそれができる!」
メキメキと音を立て、ハルカの背中に二つの裂け目が現れる。
「トビウオって知ってる? おさかなのクセして、すっごい飛ぶんだよ」
一瞬の後、ハルカの背中から飛び出したものは、二対の翅だった。濡れたガラス細工のように夕日の赤を透かし、虹色の光を縁取って、彼女の鼓動に合わせるようにかすかに震えている。
「ちょっとゴメンネ」と、彼女がカナタの胴に腕を回した瞬間、翅の周りに夕日が凝集し──ぎゅんと加速。
「おああっ」
「ははっ」
カナタの楽しげな悲鳴を尾のように引いて、二人は直滑降する。
カナタとハルカ。この世界で最新の命たちは、降りかかる破片をものともせずに飛んでいく。命を燃やすような速度で、まっすぐに。目指す先はもちろん──
「──レイジ!!」
「はっ」
目の前まで迫ったカナタの叫びが、彼の意識を揺り起こした。
死んだように閉ざされていたまぶたが、ゆっくり、しかし確かに、ぱちりと開いた。
彼の腕が宙を掻き、そしてこわばる。
「え、あ、カナタと……ど、どちらさま、だ?」
「そんなのアトアト。さ、ボクの手掴んで。思いっきりでいいよ、ボク、こう見えてすっごく頑丈だから!」
レイジがハルカの腕を掴んだ瞬間、彼女がうれしそうに目を細める。
がくん。
「あ、あれェーッ!?」
彼女の驚愕の声を残して、三人が一気に落下していく。
仕方ない。レイジは全身筋肉の筋肉男。それがトップスピードで落ちているのを受け止めて、タダで済ませるのはムシがよすぎる。
「ぎええええっ!?」
再び内臓を浮かすような落下感が襲ってきて、カナタが間抜けな悲鳴を上げる。
地面はもうすぐ目の前だ。感動の誕生と、感動の再会からすぐ、落ちて粉々に砕けてしまうのか──身を引きつらせる二人をよそに、レイジは切り立つビルの屋上を見据えている。
そして、
レイジの足がビルのコンクリートに食い込み、亀裂が一瞬で蜘蛛の巣のように広がった。
「ふんッ!」
ズドン──レイジの気合が炸裂した瞬間、にわかに激震が走り、気づけば三人は、再び空中にいた。
落ちたもうだめだと思った直後、百メートルほど、垂直に飛び上がっていた。
「「やべー……」」
レイジが踏みしめた衝撃で陥没し、バラバラに砕け散ったビルを見下ろして、カナタとハルカの感想が完全にシンクロする。
乱暴すぎるジャンプで驚いた鳥たちがあたりの木々から飛び立ち、茜で飾られた白い翼が、彼女たちのすぐそばを掠めていく。ハルカに持ち上げられながら、カナタは自分も、一羽の鳥となって飛んでいるような感覚を覚えた。
「ふふ……実は『カッコつけて落ちてるだけ』ってやつ……」
不思議そうに見つめるレイジに気づいて、ハルカが困ったように頬をかいた。
「あ、えと、ボクはハルカ。どこから説明していいやら……」
「こいつ、お前の夢に出てきてたヤツ。生後一分だから、優しくな」
「ちょっ、そんなザツなアイサツでボクのことが──」
「そうか」
ぽつり。間髪いれず超速理解をかましたレイジに、女の子たちの視線が集まる。
「俺と七年一緒にいたろ。詳しいことは知らんが、分かる。ずっと傍にいてくれてありがとう、ハルカ」
「う……うん」
「そして、誕生おめでとう」
「うん……まさかボクも、レイジに触れる日がくるなんて、思わなかった……」
顔を赤らめるハルカを見て、カナタが笑う。つられてレイジが笑うと、彼女たちの笑い声に、一抹の寂しさが混じった。
レイジが視線を下げ、それを見る。
「すまない」
ビルを踏みしめた拍子に折れて砕けた足が、そのままの姿でブラブラ揺れている。
レイジの再生能力は限界だった。そして最後の『中和剤』まで使い果たした。近いうち、彼の体は『総とっかえ』を図る。その後に、レイジの人格は残らない。
「謝ンなよ」
カナタはふっと笑って、前を見た。ずっと先に、オレンジ色の水平線が広がっている。
「オマエは踏みとどまって、フミオを許して、助けた。アタシはそれを誇りに思うよ」
カナタは腕を伸ばして、思い切り、彼のことを抱きしめた。
「大好きだ。人として、『にんげん』として、レイジのことが」
無言のままハルカがそこに手を伸ばして、二人に触れる。
レイジが、消える。
二人の人生で一番輝いて暑かった一ヶ月が、忘れ去られて、なかったことになる。それが悲しくないといえばカナタの嘘になるが──
「オマエが記憶を失ったってかまわない。アタシが何度でも、思い出させてやる」
キスをした。
カナタはレイジの頬を両手で支え、唇を合わせる。
今度は人工呼吸とは少し違う。お互いがそこにいて、お互いの息遣いを確かめるための、純粋な愛情表現だった。
唇を離した後、塗れた皮膚が冷えるのを嫌がったように、もう一度カナタが口付ける。忘れないように。思い出せるように。何度も、何度も。
やがてカナタがゆっくり離れた時、夕陽の中に、レイジの唾液に血の色を落とした糸が走った。
「……ありがとう。俺も、カナタが好きだ」
そうしてレイジの側から一度。
人生初のキスに挑む彼の手は酷く震えている。もう最強無敵バージョンの体に乗り換えて、体も心もずっと頑丈になったというのに、カナタを扱うレイジの手は、最初会ったときから変わらず、ガラスを扱うようだ。
長い長いキスの後に、レイジはゆっくりと体を離す。
「愛してる。俺を助けてくれてありがとう」
「うん。アタシも。愛してる」
えぐえぐと、泣きすする声が聞こえる。ついでに雨のようにぽつぽつと、塩辛い液体がとめどなく降り注いでくる。
その出所を探ったレイジとカナタは、顔を見合わせて笑ってしまう。
「なんだよ。よかったなって、思って、何が悪いんだよお……!」
ハルカが号泣していた。
顔をヨダレと鼻水と涙でべちょべちょにして、しかし手は、二人を支えているので離せない。
二人はほとんど同時に手を伸ばして、彼女に触れてやる。
「悪くねェよ。泣けるのは『にんげん』の特権だろ」
泣き声がいっそう大きくなって、笑い声も大きくなる。
「『にんげん』って……こんなに、すてきなんだね……」
涙が鼻の奥に流れ込んでツンとする感じも、喉が詰まって熱くなるのも、彼女にとって初めての経験だ。
恥ずかしさも、照れくささも──ほとばしる生理的反応に身を委ねていた彼女は、ふと手を止めて、二人には聞こえないほどの声でつぶやいた。
「じゃあ誰がこんな苦しみを……」
名残惜しいこの穏やかな時をもっと過ごしていたいが、カナタは過去にとどまれない。どこまでもどこまでも進んでいくと決めたのだ。
レイジと共に。
「さあ──レイジがアタシら忘れる前に、このまま海まで飛んでいっちまおう!」
カナタは燃え上がる水平線を見据え、拳を振り上げた。
■
「ああ……結局飛び続けたのはお前らか……」
フミオは生きていた。辛うじて、では、あるが。
大樹の傍にはパラシュートが引っかかり、長くへその緒のように垂れたコードの先の根に、彼が力なくもたれている。
ちょうど今、緊急用の薬品を打ち終わった彼の頭上を、カナタたちが飛んでいく。
フミオを、西町という大敵を退けて、彼女たちはとうとう旅立ったのだ。
彼は自分の体を見下ろす。右目はえぐり出され、右腕はない。片足は二度と立てないほど折れ曲がり、火傷と刺し傷が全身を覆っている。
それでも彼は生きている。ハルカが餞別代りによこした再生能力が、辛うじて彼の命を繋いでいる状態だ。
彼が助かるかどうか。すべては運にゆだねられた。
まァそれも、全部先延ばしにして選び取らなかったツケのいっこかねえ──と、フミオは笑って、むき出しの胸をさぐる。
そこにライターはない。
せっかく外に出たのだ。星月夜に変わりつつある茜空の下で、プカアと一発煙を浮かべたい気分だった。
あれほど『わからない』と言ったタバコの煙を、彼はこれ以上なく欲していた。
父のにおいが、こいしい。
「……いいじゃねえか、お前ら。行けよ。お前らならきっと、海まで行ける」
フミオはずっと一人で戦っていた。
ハルカを味方につけたときの一言を反芻する。
「俺を見てろ、か」
短い時間で彼女と心を通わしたが、並び立って戦うことはなかった。
レイジはずっとカナタと一緒に戦っていた。最後まで孤軍奮闘の自分が負けてしかるべき、といったところか。
木の枝でも咥えてエアタバコとしゃれこみますかねえ──そう彼が思った時、緊急キットに取り付けられた端末が着信していることに気づいた。
あまりノらない気持ちで枝を使って、端末を引き寄せる。
《よォ》
父、ブンタだった。
《お前さんすげえな。全部見てたぜェ》
「でも負けたぜ」
あれほど話したかった相手なのに、気が重くって仕方がない。
フミオはいろんなものを裏切りすぎた。今回は、おそらくブンタの期待をも。
「背骨移植してもらったのに。でもってパワードスーツ使って、オヤジの銃使って……」
そういえばあの銃はどこだろうか、とフミオはあちこち見回した。それらしいものは何も見えない。
木立の中にあるのは濃い闇と、ヒグラシの声だけだ。
《勝った負けたはでけえ問題じゃねェよ。つか、俺らの間に問題なんてなにもねぇ》
ブンタの背景がうるさかった。
当然だ。町は汚染水びたし。怪物が溢れて、おそらく今でも先頭は続いている。自分のロマンである西町が滅ぶ瀬戸際だというのに、彼はしっかり父親として、フミオと対話してくれる。
フミオはありがたく、そして申し訳なくなる。
《いいか。お前さんがどんなエラくなっても。なんもしなくても、やらかしても。俺らがサイコーのダチで、親子なのは変わらねぇんだぜ》
どん、と胸の奥を突かれたようだった。
《でも……あのポンコツに跨って飛び回るお前サンはカッコよかったなあ。誇るぜ。さすがは俺サマの息子だよ》
「……なんだよ、それ。泣かせること言うなよ、クソオヤジ」
口から出た声は、ひどくかすれていた。熱くなった目頭を押さえて、フミオは耐えた。
《だから……そろそろ俺サマもしっかりしなくちゃいけねえな。空が見られるなら、よっく見ておけ》
その言葉を聞いて、フミオは涙で滲んだ空を必死に見上げる。
もう夜だった。オレンジから群青へと鮮やかに衣替えする空の中に、いくつもの銀色の星がまたたく。
遠ざかりゆく三人組のシルエットに目を凝らしたフミオの耳に、バキバキと森が割れる音と、地鳴りが届いた。
「なんだ……?」
西町のほうだった。
フミオが見ている前で森そのものが真っ二つに割れ、姿を現した大型投光機が放つ白光が空を焼き、そこに漂う静謐さを追い出していく。
突如として現れた巨大ゲート。トドメとばかりに、その中央から細く、あまりにも長いものが姿を現した。
数百メートルにも及ぶレール。黒光りするレールは二股に分かれている。その姿は剣。いや──
「……レールガン」
見覚えのある兵器の再登場に面食らったフミオだが、すぐさま意味するところを理解する。
バっと空を振り仰いだ彼の目に、孤鳥一匹。それは希望を胸に、海を目指して飛んでいく、カナタたちの姿だった。
折れた足が悲鳴を上げたが、フミオは無理やり立ち上がろうとした。
「よせ──やめろっ!」
通信機は沈黙していた。
レールガン発射にかかる大電圧が一時的に町の電力を吸い取ったのか、はたまた、フミオのリアクションを見越したブンタが自ら通信を切ったのか──
「やめろ、やめろやめろクソオヤジ! それをやっちまったら」
射撃。閃光。爆音。裂空。
呆然と立ち尽くすフミオが見上げる空に、衝撃波が描いた弾道が刻まれている。
遅れてやってきた衝撃波が木の葉をフミオの元に運んでくる。空は静かになった。そこにもう、何もいない。
カナタ、レイジ、そしてハルカの姿は、消えてしまった。
パラリと音を立てて、折れて砕けた翅がフミオの周りに降り注ぐ。
誰かの、太い足首。節くれだった指。天空の青を映した髪が燃えながら落ちてきて、わななくフミオの前で灰になる。
ドサリ。
翼の破片にまぎれて重いものが落ちる音が響いた。それは肘のあたりで千切れた白い腕。青い、不恰好なビーズのブレスレットが光る。
「それやっちまったら、本当に俺たちには何も残らないじゃねえか!!!」
燃える翼の破片が降り注ぐ中で、フミオは絶叫する。声は森に吸い込まれ、誰も答えない。
……
そして、静寂が訪れた。
フミオは空に差し伸べていた手を、バタリと投げ出した。
「俺は……俺はなんてことを……」
俺は何を守りたかった? 何を壊した?
カナタの腕を見て、ようやく自分がしでかしてきたことをフミオは自覚してきた。
それでも、寒さに震えていたフミオは、自分に向かって近づいてくる足音に気づくことができた。
「誰、だ……」
「この声忘れたワケ? 私、さっきアンタのために死んでやったんだケド?」
フミオの──
鼓動が一拍飛んだ。
それはどう聞いても、彼女の声だったからだ。頭が回らない。体が動かない。姿が見えないのが、逆に恐ろしかった。
木の葉を踏む足音はなおも近づいてきて、白い腕が木立の中からそっと伸びた。
彼女はブレスレットを拾い上げて、満月に透かして眺める。
「──このまま楽に死ねるなんて思ってないわよね。フミオ」
そして。
そして月明かりの下でフミオを見下ろすのは、あの女だった。変わり果てた姿になっても、その声、顔、すべてが彼女だということを叫んでいる。
だが、ウェーブがかった自慢の髪は髪は白い。その肌も、カナタを彷彿とする、純白だ。
彼女には尻尾があった。怪獣を連想させる白く、たくましい尻尾が、夜風の中でぬらぬらとうろこを光らせる。
「……ルリコ……」
その白の中で、瞳だけが夕暮れのように赤い。燃えているようだった。
『海の彼方で、カナタを想う』 第一部 おわり