海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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OL-4

 マットレスの上で、黒いサナギがうごめいていた。

 体育倉庫の片端に転がった人間の名残。その動きはあまりに弱々しい。死にかけの、虫の動きだった。

 

「『それ』はもう終わりだ。キミだって分かってんだろ」

 

 湿った体育倉庫に、キリエのため息が反響する。

 

「ち、ちがう……」

 

 少女が、ふるふると首を横に振る。

 いかにもインキさを漂わせる前髪がさらさら揺れた。

 キリエはため息をもう一発。マジで「あーあ」って感じだ。分かっているくせに現実認めないヤツを説得するのは重労働だ。

 ビクビク動くサナギは、ニンゲンの形をほとんど残していない。

 黒い汁の腐食を逃れてわずかに溶け残った右手の一部が、時折、藻掻くように宙を彷徨う。

 

「えっとー、レイジくん、だっけ? これ」

「これじゃ、ない……」

「あの怪獣がタレ流す黒い水ね。触ると人をダメにするんだ。チャンとした病院行けば話は違うだろうけど、もう」

「違う……違う違う。レイジはまだ、生きてる! 息だって、ホラ!」

 

 と、少女は強引にキリエの手を取って、『レイジ』の顔のあたりにかざす。

 冷血無情のサイボーグ戦士は、数少ない生身の右手の平に弱々しい呼吸を感じた。だが、それだけだ。

 顔の一部に、まだ人間らしい面影が残っている。瞳孔が溶けたようになった琥珀色の瞳だけが、黒い殻の隙間から天井を見つめていた。

 まるで見えない虫が飛び交うのを追うようにギョロギョロ動いているのは──ありとあらゆる内臓がひっくり返され、かき混ぜられる苦痛を現在進行形で味わっているからだろう。

 

「前に、ヒドい目に遭わせてオッケーな人使って黒い水の効き目を試した。てきめんだ。弟くん、すぐに『かいぶつ産み出し機』になっちまうぞ」

 

 スラリ──キリエが腿のベルトからダガーナイフを抜き放った。

 

「だったらラクにしてあげんのも、優しさっつーヤツじゃん?」

 

 頼りない電灯の下で、ナイフの刃が濡れたように光る。それを前にした少女は一瞬たじろいだ。だが、すぐにキリエの行く手に立ちはだかる。

 

「だ、だ、だ、ダメ、よ」

「ダメって言われてもね」

 

 キリエが頭をかく。

 

「こっちは……税金、払ってる……だったら私とレイジを連れていくべき。アナタ、政府の人、でしょ」

「つっても私サイボーグで、人っつーか戦車みたいな扱いだし。安月給だしなあ」

 

 ポンコツサイボーグを見上げる少女の目に、さっと絶望の影が差す。彼女がキリエという人間に愛想尽かし始めているのは明白だ。

 それでも最後の望みに縋り付くように、彼女は懇願してくる。

 

「……もう三日も、このままなの。お願い、よ」

「三日だァ?」

 

 キリエが大声を響かせると、少女がかすかにうなずいた。

 

「三日前、ここに避難する途中……私がドンくさいから、怪物に見つかった」

 

 サナギからハミ出た右手を、少女が包み込む。

 手入れという言葉から縁遠い彼女の髪に、ぽろぽろと零れる雫があった。

 長く重い前髪の隙間から覗いた瞳は涙で濡れて、そこに深く沈んだ苦悩と後悔の色を滲ませている。

 

「ラッキーが……ラッキーって犬、飼ってたんだけど……レイジと一緒に怪物から私守ろうとして……ひどいケガして……」

「ふうん」

 

 倉庫の端に落ちた、茶色い毛皮にキリエの目が留まる。

 ゴールデンレトリバー、だったのかもしれない。かつては。

 今では中身が抜かれた袋のようにしぼんで、黒い液体で汚れている。濡れた犬の臭いの中に、鉄と膿が濃く香る。

 乾いたヘドロで周囲はまみれ、赤い血の手形が壁になすられている。

 

「イヌにやれたことを、弟クンにはできなかった?」

 

 跳び箱のマットに突き刺さった裁ちばさみが、外からの冷たい光でギラリと光っている。その刃は根元まで血にまみれ、数本の金色の毛が絡まってこびりついていた。

 

「ら、ラッキーは、ほんとうに、どうしようもなかったから……」

 

 少女の肩が小刻みに震えだす。

 

「……苦しんでたから。私が、楽にしてあげた。わ」

「へえ、初めて? 初めてヤって、あんな動脈ザックリいけたんだ?」

 

 オドオドしっぱなしの少女からは想像できない。

 キリエが見る限り、犬が暴れた様子はない。きっと、楽にいけたはずだ。

 

「もしかしてどっかで……イヌ殺す練習でもしてた?」

 

 目の前に漂ってきたホコリをふっと吹いて、キリエは少女を見やった。

 こころない軽口を浴びせられ、睨み返す目には覇気がない。家族を手にかけて憔悴している様子だ。

 

「ちがう……私……」

 

 皆まで言わずに、彼女の目は足元に落ちた。薄汚れたリュックがそこに転がっている。きちょうめんに背表紙を並べて納められた教科書に混じって、数冊の医学、解剖学の本が顔をのぞかせている。

 

「なに、キミ、医者とか目指してんの」

 

 キリエの問いかけに、少女はうなだれたままだった。

 

(もっとも……こうなったら、手の施しようはなかったか)

 

 そして、キリエの視線はマットの上に戻った。

 溶けかけの『レイジ』が、モゾ……と動く。

 

 

(で──三日。だったっけ?)

 

 

 装甲頭蓋(シェル)に収まったキリエの脳裏に、さっき少女が口にした言葉がリフレインする。

 あたりにまき散らされたヘドロの効力は、ドラム缶に死刑囚を突っ込む実験で吐き気がするほど思い知らされている。

 穴という穴からタールが噴き出て人間として生き物としての機能を全て失う。一時間もしないうちに全身火が通った角煮のようにトロトロに溶け、それでおしまいだ。

 

 それを、この『レイジ』は三日持ち堪えている。らしい。

 

(もっともコイツが恐怖でイカれてないなら、だけどな……)

 

 ドサリと音を立てて、少女がその場にへたり込んだ。

 

「もう、救助なんて来ない。って思ってた」

 

 少女の口調は落ち着いていた。しかし、彼女が持ち上げた指先は今も、小刻みに震え続けている。それをギュッと握りしめて胸に抱く姿を見下ろすキリエの目に、これといった感情はない。

 

「私は別に。ただ、殺しまくってたら偶然キミを見つけただけだ」

 

 本当に、それだけ。キリエはただ、それだけの存在だ。

 

(おおかた、恐怖でアタマおかしくなった小娘のたわごとか)

 

 倉庫の闇は重く、湿って、底知れない。

 オマケに外はバケモノが徘徊していて、助けも来ない。そういう状況に取り残された人間は、たとえ鍛え上げられた兵士だろうと時間の間隔を喪失することがある。

 サナギの膜を透かして確かに自分を見つめる『レイジ』から目を逸らし──キリエは、体育倉庫の天井を仰いだ。

 

「…………ほら。来たみたいだぞ。ほんとうの、救助ってヤツ」

 

 つられて少女がハッと見上げた先で、窓枠がビリビリ鳴り始めた。

 鉄筋コンクリートの体育館を揺らすほどの振動、そしてバタバタバタ……という巨大な鳥の羽ばたきのようなものが幾重にも連なって、彼女たちの元に届いてくる。

 

 それの正体を悟って、少女の顔にも僅かに安堵の色が浮かび始める。

 

 軍用ヘリのローター音だった。

 

 □

 

 体育館の外に出たキリエの頭上を、編隊を組んだヘリが飛んでいく。

 潮水で溺れた町にあまりに騒々しい音が響き渡り、かき乱された気流が濡れたアスファルトをかすめ、少女の前髪がフワリと浮き上がる。

 

「わあ……すごい。レイジ。見える?」

 

 灰色の空で、カラスの大群が飛び回るようだった。

 戦いの中心地となった浜を目指すヘリたちは、実際のところ、死体あさりの動物たちと大差なくキリエの目に映る。

 死にたてホカホカの怪獣の死骸のかおりを嗅ぎ付け群がる、カラスの群れ。

 

「死体に何の価値があんだかね」

「レイジは死体じゃない。よ」

 

 キリエが「およ」と見下ろすと、タールまみれの地面に仁王立ちして、少女が鋭い目で見上げてきていた。彼女がどこかから見つけてきたロープで背中にゆわえた黒いサナギが、ぐんにゃりと首関節を傾がせる。

 

「まだこの子は諦めてない。息をしてるなら私、絶対、見捨てないから」

 

 キリエは何も言い返さない。

 この、いかにもトモダチいなさそーなクラい少女は勘違いを起こしたようだ。

 キリエの指す死体は、沖合数キロにプカプカ浮いてる大怪獣のこと。それを聞いた少女がすかさず連想したものは……弟だ。

 

 それが意味する事実を、キリエはあえて、突きつけないでおく。

 

「ねえ、キミ、それ持って来ちゃったの?」

「レイジと、ラッキーは……家族、だから」

 

 黒いワッペンが目立つリュックの上には、中身の流れ出た犬の皮が広げられている。がらんどうの眼窩が、探るような視線をキリエに向けていた。

 

「あっそ」

 

 心底どうでもよさそうに返事して、キリエの目は再び空に向く。

 煙と血のにおいが風に濃く、くゆる。

 アフガニスタンでもイラクでもそうだった。殺せと言われた敵を片っ端から叩き潰していると、いつの間にか茫漠と空を見上げる自分になっている。

 まだまだ動けるのに運動会終了のおしらせのサイレンが響いて、それでおしまい。回収のヘリがやってきて、キリエはまた、からっぽの備品に戻らなければいけない。

 

 ──キュ、ポンッ

 

 気の抜けるような音がした。

 

「んぐっ」

 

 少女が、勢いよく天を仰ぐ。

 音の出所を追って彼女に行きついたキリエは、現実離れした光景に言葉を失う。

 少女の華奢な指が握りしめているものは水筒だった。小さなキャップが住宅街を吹く湿り風に揺られ、銀色のスキットルの表面でカチカチ音を立てる。

 

「あのさそれ、もしかして、なんだけど」

 

 ポッカリ開いた水筒の口から流れ出す液体の色は茶色だ。

 信じられない勢いで流れ出し、少女はクジラのように大口を開けてすべてを飲み込む。

 

「んぐ、んぐ…………」

 

 安くて強い酒のにおいが、あたりに漂い始めた。

 

「んぐっ……ぷは。そうだよ。もしかしなくてもサケだよ。アルコールだよ。悪い?」

 

 瞬時に燃料補給を済ませた少女は、手の甲で口を拭った。

 陶器のように白く、キメ細かな頬に赤みが走り始めている。常に伏し目がちだった少女の瞳が、はじめて真っすぐ、キリエを見据えた。

 

「あのなあ。アナタさあ。さっきから、人さまの家族を死ぬ死ぬ死んだって……うるせえんだよ……ひっく」

 

 その目が、据わっている。

 背負った弟とカバンの重みでタレ下がるように背筋が曲がっていく。出来上がったのは、かなり気合の入った猫背だ。

 

「あーもう。ジャマなんだよな。これ」

 

 少女は長く垂れた前髪をグッシャリと掻き上げ──キリエの目があることを思い出して、すぐそっぽを向いた。

 だが、それだけの間で、キリエには十分だった。

 束の間見えたものは、切れ味の悪い刃物で額を真横に引き裂いたような、大きく、グロテスクな傷だった。

 

「ガクセーが酒飲んでんじゃないよ。つかキャラ変わりすぎ」

「うっさいなあ。他人の顔見てツバ吐くために、コッチも頑張ってんのよ」

 

 キリエの言葉尻にかぶせるように、少女がまくしたてる。

 

「要るのよ、酒。私がオトナとやり合うためには。どうせ、どんな世界のどんな学校にもいる、非リアの非モテ女だよ……弁当箱のはしっこにへばりついたヒジキみたいな、じめじめネクラだよ」

「被害妄想ヤバすぎだろ」

「でも近いコト考えたでしょ。分かんだからな、そういうの──やる?」

 

 くたびれたベテラン兵士のようなしぐさでスキットルを差し出して、少女が顎をしゃくる。水筒の底にわずかに残ったウイスキーが、チャップと水音を立てた。

 

「いんね。私、酒とかよく分かんないから」

「ふゥン」

「たしなむのは殺しだけ」

「あっそ。おもんない殺人マシーンってわけ」

「くそつまらねーアル中のガキが何かほざいてんな」

「はん。ポンコツロボ」

 

 酔って気の大きくなった少女が鼻を鳴らした。

 

「シラフで生きてるとか。そっちのほうが頭オカシーじゃん……」

 

 一機のヘリが体育館の屋上ギリギリをかすめて、町の方に飛び出していく。雨粒がわっと舞い、風にあおられてブラブラ揺れる電線を二人並んで見つめる。

 どこかの屋根から滑り落ちた瓦が、バシャリと音を立てて割れたのが聞こえた。

 

「レイジ。ヘリが来たよ。助かるよ。大丈夫。大丈夫、お姉ちゃんが守ってあげるからね……」

 

 顔の横に垂れてきたサナギの頭を、少女は慈しみの籠った手で撫でる。

 

 彼女たちが見上げる先を、要人輸送用のヘリが飛んでいく。数機の戦闘ヘリに護衛された機体は白く、大量のカラスに埋め尽くされた空の中でひどく目立つ。

 

「んで、そっからの見晴らしはどうだよ。さぞやうめえ空気吸ってんだろうな、てめえ」

 

 そこに乗っているだろう腐れ縁のクソッタレ政治家の顔を思い描きながら、キリエは呟いていた。

 

「なあ……暮防衛参与」

 

 キリエはちらりと、隣に目をやる。

 

『レイジ』をおぶるためのヒモをぎゅっと握りしめたまま、少女が歩きだす。これだけボロボロのグズグズになった弟の命を、彼女は諦めてない。

 親も兄弟も投げ捨てて、軍の備品になったキリエには理解不能な感情。

 

 どうせムダな努力に終わるのによ──と笑おうとして、彼女は、ふと、ビルの隙間に目を馳せた。

 

 黒い山が。

 

「……おんや」

 

 動いた。

 

 確かに。

 

 山が──いや、さっき彼女が引導を渡したはずの『アクル』の背が、モゾリと動いて、数十メートルほど隆起した。

 

「なに……?」

 

 死んだ怪獣の身じろぎは、たちまち数メートルの高波を引き起こした。

 その体表を滑って砕ける水が波とまじりあい、白い壁のようになって高々と宙に舞い上がる。

 それを避けるように慌てて回避機動に移るヘリの群れは、まるで、自転車が突っ込んできて蹴散らされる蚊柱の虫たちのようだった。

 

「閉じこもってる間、ラジオで……聞いたのよ……」

 

 あとじさる少女は、自然とキリエの背後に隠れるようにしていた。

 

「怪獣は、死んだって」

「ああ……私がブッ殺した」

 

 キリエが舌なめずりする。

 

「でもまだ、楽しめるみたいだな」

 

 怪獣『アクル』の復活によって天高く舞い上げられた海水は、雨と混じって彼女たちの頭上に降り注ぐ。キリエは自らの唇に、潮の味を感じる。

 

 オ、オ、オオオ、オオオオオ──―

 

 これまで一度たりとも鳴くことのなかった怪獣が、不可思議な音色を、雨の町の大大気に響かせる。

 霧の海の上で聞くクジラの鳴き声のような。どこか、暗い部屋の片隅ですすり泣く女の声のような。

 寂しく、おそろしげな空気の振動が、音という暴力となってあらゆるものを打ち据える。

 鼓膜を直接殴りつけられるような音の壁を叩き付けられ、少女は、弟の体をぎゅっと抱きしめて耐える。

 

「ハ──ハハ──」

 

 彼女たちのことなど、キリエはもう、どうでもいい。

 生物というよりは地形と呼ぶ方が似つかわしい存在スケールの大怪獣は、その巨身を仰がせ雨の曇天高く、塔のように突き挙げる。

 

「ハハ、ハハハッ! そうだ! いいぞ立ち上がれ。そうこなくっちゃあ!」

 

 ズンッ──キリエの狂笑を引き裂いて、世界が揺れる。

 再始動した怪獣の心臓の脈打ちが、莫大なエネルギーを秘めた衝撃波として迸ったのだ。

 それは見えない巨大な獣のように海を駆け抜け浜をよじ登り、その先に広がる死んだ町の路地という路地を引き裂きながらキリエたちのもとに届く。

 骨格を補強するチタンが鳴る。セラミックの補強材が歓喜の悲鳴を上げる。サイボーグは巨大な義手で顔半分覆ったまま、笑い続ける。

 

「アナタ。こんな時に何を……」

「おいおいキミには分かんないのか!? サイコーの瞬間が始まったんだぞ!」

 

 キリエは降りかかる雨を全身で受けるように両手を広げ、唄う。

 海に怪獣。目の前には二メートルを越す狂ったサイボーグ女。少女にとっては、どっちもどっちだ。全部同時に等しく、世界はイカれはじめてる。

 レイジを私が守らなきゃ──その覚悟が、サナギを抱きしめる手に力を籠らせる。

 

「ありゃ『ほんもの』だ! 私がここまで体切り刻んで探してきた、私だけの『ほんもの』なんだッ!」

 

 全身から黒い体液を滝のように流しながら、怪獣はほぼ、垂直に立ち上がる。

 その首がやがて傾ぎ、まるで海を舐めるように下がっていく。しかし、クジラを思わせる巨大で強靭な下顎が、海面に触れることはない。

 

「ウソでしょ。あんな、おおきなものが……」

 

 少女が愕然と呟く。

 怪獣の──アクルの体がふわりと浮き上がるのが見えた。

 

 二キロ弱の体は、あっという間に高空へと舞い上がった。戸惑ったように町の上空を旋回するヘリよりも高く。まるで地べたに這いつくばる全てを見下すように、高く高く。

 

 

 オ──オオ──ザッ──オオオ────ザザッ、たー、の……かり……──

 

 

 世界の反対側に届くほどの唸り声に、どこか耳になじみがあるような、ノスタルジックな旋律が浮かび上がる。

 まるで、異国からの無線が、いきなりラジオに混線してきたようだった。

 

 

 ま──どーの、ゆーき──

 

 

 生臭い風が吹く。

 怪獣は全身がスピーカーのようになっている。黒く、ぬめった皮膚を震わせて、迸る旋律をより鮮明にしていく。

 

 

 ──ほた──蛍の光、窓の雪──

 

 

「これ……卒業式の……」

 

 それは間違いなく、幾万幾億という声で斉唱される『蛍の光』であった。

 

 

 ──文読む月日、重ねつつ

 

 

 なんで怪獣がそんなものを歌ってるの? 少女の疑問に答えられるものはいない。今、目の前で起ころうとしていることを説明できるものなど、この惑星上には存在しない。

 小学校の校舎と住宅街に囲まれて立つキリエたちの元からも、今ではアクルの全容が見られる。グロテスクな無数のフジツボと海洋性甲殻類に覆われた腹が水を滴らせる。

 

 ──いつしか年もすぎのとを、明けてぞ今日は 忘れゆく

 

 ズドンッ。

 

 先よりもはるかに巨大な衝撃が放たれ、大気がつんざかれるのが目で見えた。空気は揺らぎ、束の間固い壁となって打ち付ける。

 

「うっ」

 

 強い風に叩かれたようによろめいた少女は、鉄の柱のようなキリエめがけ、とっさに手を伸ばす。

 しかし彼女の指は濡れたサイボーグスーツの上を滑って嫌な音を立てただけだった。そのままうっすら海水が張った地面の上に尻もちをつく。

 だが、それはまだマシな方だった。空をゆくヘリに、逃げ場はない。

 

 

 ──とまるも行くも限りとて

 

 

 穏やかなコーラスと共に放たれた衝撃波にブン殴られて、ヘリが一機、また一機と姿勢を御し損ねる。

 重厚なグリーンに塗装された軍用輸送ヘリが、キュンとローターの悲鳴を立てながら住宅街に突っ込んだ。

 たちまち燃料に引火し火の玉になった金属の塊は、燃え上がる人の形をしたものをバラバラこぼしながら町を引き裂く。

 瓦屋根をクラッカーのように砕き、壁を引き裂き塀をブチ破り──

 

「ひいっ」

 

 ──腰を抜かした少女は、直撃コースに自分たちがいることに気付いて悲鳴を上げた。立てない。体が言うことを聞かない。

 まだ十七なのに。弟を守るって誓ったのに。こんなワケの分からないところで、ワケがわかんないままビショビショになって、ヘリの爆発に巻き込まれて死ぬ。

 

「いやだ」

 

 赤い炎と黒煙を尾のように引いたヘリが、アスファルトを砕きながら迫る。

 

「いやだ。やだやだ。私、何も。まだ何も夢、かなえられてないのにッ!」

 

 ギィンッ──彼女がキツく目を瞑った瞬間、甲高い音が鼓膜をつんざいた。

 しとしと肌を濡らしていた雨が突風と共に遠ざかり、焦げるような炎の熱さが背後に遠ざかっていくのを感じる。

 

「…………あ」

 

 おそるおそる、少女は目を開ける。

 目の前に、何食わぬ顔でキリエが立っていた。唯一違う点と言えば、その左手に握られているものだ。

 たった一度の瞬きの間に彼女はそれまで背負っていたブレードを引き抜き、ヘリを両断したのだった。

 

「あ、あり、がと……」

 

 少女の言葉に、返事はない。

 己の長身を越す長大なブレードをダラリと構えたまま、キリエは怪獣を見上げていた。背後の家屋に突き刺さったヘリが爆発したのに気を取られる様子はない。

 

 ──かたみに想う ちよろずの

 

 

 たちまち黒煙に覆われた町の上空に『蛍の光』がただ響く。

 神速の抜刀によって舞い起こった剣風が遠ざけていた雨が、思い出したように振り出す。キリエのブレードに刻まれた溝を伝う雨粒が、刃先から滴っている。

 

 

 ──心のはしを ひとことに

 

 

 やがて怪獣の背に、光が点る。

 まるで夜空が燃え上がったような銀色の炎は、ゆっくりゆっくり虚空に舞い上がる。

 衝撃波に翻弄されるヘリたちと、地上からそれを見守るキリエたちの前で、その光はおもむろに形を変えていく。

 

 銀の炎はうねり、くねり。山脈より巨大な怪獣の体長を超えて広がる。

 怪獣アクルの胎動が空気を打ち据え、衝撃波に襲われたヘリが、次々火の玉となって墜ちていく。

 雨の中、無数の流星が降りしきるような終末的光景の中、キリエは黒い煙の隙間から、確かにそれを見た。

 この光景を見守るすべての『人間』が固唾をのんで見守る先で、人類共通理解的な、とある『見解』に見えるマークを、アクルは空に記す。

 

 

 

 

 

 

 ──さきくとばかり うたうなり

 

 □

 

「あぁ!? 復活とか、そンなのアリかよ!」

 

 機内にブンタの怒声が満ちた。

 再生したアクルの『怪獣リサイタル』が巻き起こす衝撃波にもまれて、彼と総理を乗せたヘリは洗濯機の中の靴下のように空中を翻弄される。

 そして内部はもっとヒドい。けたたましいアラートが響き渡り、安全ベルトでシートにくくりつけられた政治屋たちは慌てふためく。

 機体が大きく傾いた拍子に、誰かのポケットから抜け出て飛んできた名刺入れが頬をかすめ、ブンタは拳を振り上げる。

 

「パイロット! 逃げろ逃げろ! 俺サマこんなトコで死にたかねェぞ!」

「く、暮さァん、これ、大丈夫かね……」

「俺サマにワカるわけないでしょ、こんなこと!」

 

 ブンタは、ジャケットの裾に縋り付いてくる原田首相を邪険に振り払って、考える。一度殺したんだからオトナしく死んでいればいいものを、この怪獣はとんだトラブルメーカーだ。

 脊髄に数トンの爆薬を埋め込んで吹っ飛ばしてやったというのに、今では元気に背伸びまでして、どこで知ったか人間サマの懐メロを歌い上げている。

 

 響き渡る『蛍の光』は何のシャレのつもりか。人間の歴史の閉店時間でもお知らせしているのか──と

 

「クソ。さっすが米軍、動きが早いな……」

 

 窓にかじりついた姿のまま、ブンタは爪を噛んで、潰す。

 怪獣が空に浮かべた「×」マークの向こう側に、相模湾と太平洋が広がっている。灰色の、魚の群れのようなもの──怪獣対策として米国が事前に派遣した空母打撃軍が荒れた海面を滑るようにやってくるのが分かる。

 ジョージワシントンの甲板上では既に戦闘機がタキシング中だ。

 

 本当に気が早ェ連中だな──ブンタはイヤな汗がシャツを濡らすのを感じた。しかし、それも仕方ない。殺したはずの怪獣が、立ち上がってワケの分からないことをし始めたのだ。

『灯台作戦』の失敗はだれの目にも明らか。だとすれば、米国は事前の取り決め通り、やるべきことをやるだけ。今頃永田町では電話という電話が一斉に鳴り響いているはずだ。

 

「マジでやんのかよ、なあ、アメちゃん……もう時代は平成で……ここ日本なんだぜえ……!」

 

 アメリカはブッ放すだろう。

「それでいいぜ」と言って相手と握手を交わしたのはブンタ本人だ。だが、総理をそそのかして米国との間に『やくそく』を取り付けた彼自身、ここまで事態が悪化するとは思ってなかった。

 窓越しに、バランスを崩した戦闘ヘリがこちらに突っ込んでくるのが見える。パイロットが回避機動を取ると、機内はより一層かき回された。

 

 ぐちゃぐちゃのごちゃごちゃ。

 

 今のブンタの脳内と同じだ。

 

「お──おお。おお、なんという……!」

 

 シートに圧しつけられたブンタの耳に、場違いな声が届いてくる。

 今まさに墜落して粉々になるかもしれないヘリの機内に歓喜のことばを響かせるのは、それまでニコリともせず座り込んでいた科学者──ムナカタゼンイチローその人だ。

 

「おい、あんた! アブねえから座ってろってッ!」

 

 白髪交じりの研究員は、ブンタに視線すらよこさない。

 

「あなたも……見るべきだ。アレはすごい。不死……いや、不滅だ……」

 

 窓に映るのは薄気味の悪い笑みだった。

 彼は窓にへばりつくようにして、アクルの様子を見守っている。その一挙手一投足、空中にそよぐアンテナのような突起のひとつひとつの動きすら見逃すまいとするかのようだ。

 

「あれが……そうか……あの不死の怪物が、きっと私を、終わりの先に……」

「イカれてんのか。あんた一体何言って──」

「うぎゃあ! 暮さん、暮さあん!」

 

 ほとんど泣きわめくような声で、原田がグイグイとブンタの袖を引っ張る。

 

「だからなんスか! あんたもいいトシなんだから、ガキみたいに……」

 

 ブ厚い鋼鉄の床を巨人が殴りつけたような衝撃が走った。

 ブンタは舌を噛み、彼が見つめる先で原田の体がシートを離れ、後部の方へ飛んで行った。血まみれの口を開いて「そうり」と声を発する前に、ヒョウと強風が機内に流れ込む。

 先程まで感じることがなかった潮風が強く香ったのと、明らかにヘリの高度が落ち始めたことに気付いたのは、ほぼ同時だった。

 

「おい、なにが」

 

 ブンタが振り返ってパイロットに声を張る。

 返事はない。だが、それで十分だった。

 

「……は?」

 

 無い。

 さっきまで座っていたパイロットはいなかった。

 あるのは大穴。

 風。潮の匂い。壁にへばりついた肉片。

 

 彼らのヘリのすぐそばで爆発が起き、散弾のように飛び散った破片が甲高い音を立てて機体に突き刺さる。

 衝撃波で隊列が乱れたヘリは、今や空中で玉突き事故を起こしていた。

 ギロチンの刃のようなプロペラが飛んで行ったのを見送って、ブンタは顔を引きつらせる。

 

(空がめちゃくちゃだ……パイロットは災難だったな……)

 

 螺旋を描いて墜ちゆくヘリから見える景色は最悪の万華鏡だ。

 

 息を吹き返した怪獣。羽虫のように落ちていくヘリと、攻撃態勢に入った艦隊の姿。ロクなものが何一つとしてない。

 

「クソ……マジかよ」

 

 死ぬんじゃねえか、コレ……ブンタは血がにじむほど強く、安全ベルトを握りしめる。だんだんと大きくなり始めた振動が不安をつのる。

 しかし耐えることしかできない。ここは高度500メートルで、下は住宅街だ。祈る以外の自由は存在しない。

 

 だが、怪獣が空に描いた十字架に祈るつもりなど、彼にさらさらない。

 無数の悲鳴と恐怖の悲鳴が響く空で、怪獣が背負った光の模様は輝きを徐々に増していった。

 

(まるで『お前らここでオシマイね』つってるみてえだな)

 

 凄まじいGとローターの轟音に耐えながら、ブンタは必死に目を凝らす。銀色の光の正体を見極めなければ。

 雷ではない。無人機の群れを飛ばしている様子もない。光を象る輪郭の周囲で、花火が弾けるようなパチパチという音を立てて、空間そのものが弾けている。

 乾いたボロ切れの中にマッチを落とすように──この場に存在するだけで、世界を燃やし尽くしてしまう炎。

 

(あるモン全部燃やして……あとには何が残る?)

 

 空間の燃えカスなど、彼は聞いたこともない。

 だとすれば、そこに生まれるのはただ「かつてそこに何かがあった」という虚無だけだろう。

 

 がらんどうの、穴のような、からっぽの虚無だけが。

 

「『灯台作戦』で戦った部隊は、ただアクルの巨大さに翻弄されただけ。そう聞いています」

 

 この世に存在するあらゆる騒音で埋め尽くされたヘリの機内に、ムナカタの声がよく響いた。

 

「ならばこの光こそがアクルの本領発揮なのでしょう。究極の破壊を引き起こす。この世のあらゆるものを拒絶する、マイナスの質量体。ご存知ですか」

 

 ヘリは高層ビルのガラスを削って墜ちゆく。ミラービルの表面に映る怪獣の頭上で、光の十字がゆっくり開く。

 そしてようやくブンタは気付いた。あれはただのバッテンではない。裂け目だ。途方もない力で空間を切り裂き、向こう側から何かを呼び込むための門なのだ。

 

 

「反物質ですよ」

 

 

 ムナカタの目は、ヘリの後部へ向けられる。

 視線は血を流してうつぶせに倒れた首相を素通りし、ベルトで何重にも固定された、金属製の『棺』に留まる。

 

「さあ。ひとつギャンブルと行きませんか。我々は生きて再び地を踏みしめられるのか。はたまた──」

 

 ムナカタの言葉が終わるのを待たずして、裂け目の向こうから、ねばつく炎がどろっと流れ落ちる。

 

 エンジン、アラート、装甲のきしみ──それまであたりを席巻していた音が、息をひそめたように聞こえなくなる。黒い海目掛けて降り注いだ光の腕が、相模湾に優しくタッチする。

 

 瞬間、すべての色彩を塗り潰すほど強烈な白い閃光が、世界を焼き尽くした。

 

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