海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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1.クソ田舎モンどもに捧ぐ(1)

「っかしいなあ。オッサン、また店サボって遊んでンのか?」

 

 まだらに染まった金髪を換気扇の風にそよがせながら、どこか気の抜けた雰囲気を漂わせる優男が耳から携帯電話を離してボヤいた。

 彼に愛想を尽かしたように天井の扇風機がそっぽを向くと、彼の周りはとたんに白煙に包まれる。

 フミオ──暮文雄(クレフミオ)は勢いよくむせながら学ランの(えり)を緩め、胸元を扇いだ。

 

「ゲホッ……店番も立たせねえでほっつき歩きやがって……あんなクソいい加減な店から俺を高校に通わせるカネ出てんだぜ。不思議でたまらねえよ」

 

 軽く肩をすくめてケータイを仕舞ってから、フミオは網の上に並べられた肉を眺めた。

 

「急ぎじゃないの?」

 

 彼の隣に座っていたセーラー服の女が短く聞いた。

 

「いーよいーよ。大した用でもねえ。バイト、サボらしてって話だし」

 

 ごくごく自然な動作で、フミオが彼女の肩に腕を回した。女は肉をひっくり返すのに使っていたトングを使って、その手を挟み込んだ。炭火でたっぷり熱せられたトングが、ジュッ、と音を立てる。

 

「ぎゃああっ」

 

 悶絶するフミオ。無表情のままの女。

 

「……私、触られンの好きじゃないのよね」

 

 しばらくしてから離してやって、女は金網の上に目を戻す。声にわずかな苛立ちが混ざっていたが、それだけだ。フミオを睨み付ける冷たい目に、何の感情もない。

 

「私とアンタはもう他人。ただのオトコとオンナ。それ以上でもそれ以下でもないから。お触り、厳禁で……ワカった?」

「相変わらず、イラついてるな」

 

 彼女とフミオの前に立ち込める煙の向こうで、ぼんやりと浮かぶ大きな影が神妙にうなずいた。

 

「アンタらバカとツルんでれば、お釈迦(シャカ)様だってブチ切れるでしょうよ」

 

 セーラー服の女、阿宮梨 瑠璃子(アグリ ルリコ)は、ため息を交えながらトングを操って、炎の中で身をよじるカルビを拾い上げる。

 すっかり脂が溶けきって、木の皮のようになった肉をフミオの取り皿に放り込む手つきは、ただただ、無造作だ。

 

「せっかく美人なのに、台無しだ」

 

 再び、網と煙を挟んだところから声が放たれた。

 

「へえ。アンタみたいなロボット野郎も、ホメ言葉の一つくらい知ってるのね。この最強無双天下無敵の生徒会長サマおだてて、何してほしいワケ?」

 

 ルリコは鼻で笑う。少しほつれたブラウスの袖口をいじりながら、彼女の苛立ちはますます深まるばかり。仏像のように感情を見せない男も、少しばかりあせったように弁解する。

 

「何も。無い。思ったままを言っただけだ。俺は」

「分かってんなあ。そうだよなあ。ルリコはたいした美人だぜ。な?」

「あっそ。んで、なんの話をしてたっけ」

 

 ウェーブがかった艶のある黒髪は彼女の自慢だ。煙が染み付くと言って、駅前の雑居ビルの、この激安焼肉屋に入ると言った時は相当渋ったものだった。

 自分めがけて白煙が吹き付けてきたので、ルリコは手近にあったメニュー表を拾い上げて、強く扇いだ。

 

「俺がずっと見ている夢のこと、だ」

 

 テーブルの上の煙が晴れわたって、向かいに座る男の全容が明らかになった。

 

 圧迫感。

 

 その男を一言で表すなら、それで十分だ。

 

「毎日毎晩、ガキが夢に出てきてお前の見てる前で海に飛び込む──だっけ?」

 

 鼻筋のよく通った男は、どこを見ているか分からない、木のうろのように暗く底の見えない目でわずかに頷いた。それだけで、大木が自分めがけて傾いでくるがごとく錯覚をフミオは覚えてしまう。

 

「それビョーキだぜ」

 

 フミオの握る金属製の箸の先端が、向かいに座る男の顔面を突き刺すように向けられる。

 

「お行儀悪いわよ」

「レイジおめえ、最近クマひでえぞ。さっさと医者行って、薬もらって、飲んで寝ろ」

 

 天井の扇風機が首を回して、風向きが変わった。

 煙と脂で黄色く染まったメニューの群れが壁でパタパタと音を立てる下で、レイジの短く切り揃えられた髪は、一切なびかない。彼の性格と同く、彼の体もまた、毛の一本に至るまで石のようだ。

 

「なん……なんだっけ……? こういうの……ノ、ノノ……ノイ、ノイ……」

 

 フミオは急に自身をなくしたようになって、隣のルリコに視線で助けを求める。

 

「ノイローゼ、ね。レイジが疲れて見えるってのには激しく同意」

「俺は病気ではないと思う。ただ、よくない夢を見ているだけだ」

「ビョーキよ。それ立派なビョーキ。ほら、安い肉食って元気出せ」

 

 ルリコは、焼きあがった薄いカルビをまとめて一塊にして、悪夢の主の茶碗へと放り込んだ。

 石動 黎時(イスルギ レイジ)は精悍な顔つきと、頭の大きさに比べてアンバランスなほどに大きな体の持ち主であった。その茶碗を持つのはギリシャ神殿の柱のように太く、ごつごつした指。たおやかでスラリとしたルリコのものとは対照的だ。

 

「……ンで、さ。カワイイの?」

「そりゃ私はカワイイでしょ。完全無欠ってヤツ」

 

 底意地悪い笑みを浮かべたルリコがすぐに茶々を入れてくる。

 

「うっせ。俺ァレイジに聞いてンだ。お前の夢の女ってやつのことよ。その女ってのは、カワイイのか?」

「うむ」

 

 肉を半端中途にハシで持ち上げたままレイジは考え込む。

 テーブルを挟んでフミオと向かい合って座るレイジの背丈は、実際はフミオと大差なかった。しかし、シャツのボタンがはちきれそうなほどに押し上げる大胸筋のうねりが、彼を一回りも二回りも大きく見せていた。生半可な鍛え方で作れる体ではない。

 

「たとえば目の前に子犬がいるとしよう」

 

 熟考の末、レイジがトンチンカンなことを言い出した。

 

「こ、子犬……だ?」

 

「そう。かわいい子犬。この手のひらに乗るくらいの柴犬の」

「お前の手なら成犬でも乗るだろうが……」

「ねえパグは。パグじゃダメなの?」

「パグはかわいくねェだろ」

「は? アンタ…………まあいいわ。私オトナだから話の腰折らないであげる……それで、レイジの夢の女と子犬と、どう関わりがあるワケ?」

 

 レイジはまた、黙り込む。フミオたちの神経を自分に集中させるためにこうした間をわざわざ取っているのだとしたら、たいしたスピーチの才能だ。

 

「それは確かにカワイイだろう。だが子犬がメスだったとして、果たして俺たちは”うひょーいい女”とか思うだろうか」

 

 沈黙の後に突拍子もないことをレイジが言ってくれたので、同じテーブルに着く二人は、急に羽虫が口の中に飛び込んできたような顔を見合わせるハメになった。

 

「夢の女は、子供だ。十歳くらいで、服は灰色の……格の落ちるドレスみたいな……スカートの長い……」

「ワンピースっていうのよ」

「そうか。ボロボロのワンピースを着ている。そこから俺が感じるのは、助けてあげたいという気持ちだけだ。いい女とか、そういうのじゃない」

「何……? 俺は今、何を何に例えた話をされたの?」

「とても大事なことをフミオに伝えたつもりだ」

「そうか……そうなのか……えほっ! おほっ!」

 

 思わずフミオが天井を仰いで、激しく咳き込みはじめる。

 この店の肉の安さは、いろいろな基準を無視して実現したマジックだ。

 天井は低く、明らかに素人の突貫工事で取り付けられた換気扇が激しくうなって空気をかき混ぜているが、煙は絶え間なく立ち込め、三人は半年前に参加した火災現場からの避難訓練を思い出す。

 

「げほっ、この店やべえわ……煙集まってるトコに顔突っ込んでると、リアルに一酸化炭素中毒起こすぞ」

 

 数卓のテーブルを挟んだところにあるカウンター。そこに腰掛けてタバコ片手に新聞を読んでいた店主がギヌロとフミオを睨んできた。

 

「げっ。あっ、お世話ンなってまーす……」

 

 おそらくこの町で最も恐ろしいオバちゃんに睨まれて、フミオは何も言い返せずに背中を丸めた。その様子を見ていたルリコがため息をつく。

 

「で、よ。アンタは毎晩毎晩、女児が夢に出てきて死ぬところを見てるってわけでいーい?」

「うむ。そうだ」

「気持ちワリー」

「俺は気持ち悪くない!」

「いきなり大きな声出すのやめてくんないかしら」

「客観視してみろよ。お前、毎晩子供が死ぬ夢見てんだぞ。狂ってるだろ」

「ちょっと待ちなさい」

 

 トングを握る人間がフミオからルリコに変わるだけで、焦げ付きだらけの網の上の様子はガラリと変わる。

 

「客観視ついでに、科学的にこのうすらデカ男の夢を分析してみようじゃない」

「……そのうすらデカ男ってのは……」

「アンタに決まってるでしょ、ゴリラマッチョ」

 

 話す間もルリコは手際よく網の上に肉を敷き詰めていく。赤味もロースもカルビもアイロンがけするようにシワを伸ばして、それはそれは丁寧に。それは神経質なタイル職人の仕事だ。

 

「こんなこと言いたくないけど、マジでお前もヤバい病気なんじゃねえか?」

「夢の内容ってのはね」

 

 わりとかなり本気で心配している様子のフミオを無視して、ルリコはトングの先端をカチカチ軽く打ち鳴らした。

 

「寝る前に考えてることがよく出てくる。って研究があんの。実際は研究だか学者の肌感覚だか知らないけど、とにかく、そういうこと。アンタの夢の材料はあんたの妄想そのもの、ってワケよ」

「えらいアバウトだなァ。いいかげん過ぎるだろォ」

 

 煙に巻かれて目をしょぼしょぼさせながら、フミオが言った。

 

「夢なんて人間の脳みその一番ミステリアスな領域の話だから、多少いいかげんになっても仕方ないのよ。つまり、レイジは寝る前に…………いつも……」

 

 得意そうに語っていたルリコだったが、結論に近づくにつれて歯切れ悪くなっていく。

 

「ガキが目の前で死ぬことを考えてる。と?」

 

 その後をフミオが引き継いだ。

 

「…………考えれば考えるほど、改めて気持ち悪いやつね。オエー」

 

 そう言ってピンク色の舌を突き出して見せるルリコはちょっとした有名人だ。

 

「お前が一番キツいこと言ってるって自覚ある?」

「無駄だフミオ。西高の生徒会長サマに、俺たち下々(シモジモ)が意見する権利などない」

 

 心底呆れた様子で返してみせるフミオとレイジもそこそこ名の知れた問題児で通っているが、ルリコの知名度とは比べるまでもない。

 

「もう一度病院にブチ込んであげよっか?」

 

 ”西高の生徒会長サマ”が邪悪な笑みを浮かべて見せると、男どもは首をすくめて、彼女と目を合わせないようにした。

 西高の生徒会長の話をするとき、誰もが二の句に優秀という言葉を継ごうとするが、ルリコの有名っぷりは、そのズバズバとした物言いと行動力が生み出しているワケではない。

 彼女の価値を証明しているのは、過激すぎる伝説(いつわ)の数々だ。

 

「なあんてね。ジョーダンよ、ジョーダン。トモダチに、そんな非道(ヒド)いことするワケないじゃん」

 

 全校集会で教師を言い負かしただの、ダメな教員に首を切らせまくって浮いた金で合宿所を建てさせただの、入学式の最中にゴリラを殴り殺しただの……しかし、あくまでその大半は強権を振るう彼女を良く思わない生徒や教師が流した噂でしかない。

 

「さ、食べて食べて。お肉、どんどん焼けてくるんだから」

「おっかねー女……」

「あらフミオさん。焼かれ足りないなら指出してよ。骨まで火を通してあげるから」

 

 ルリコがトングを構えると、フミオは慌てて箸を握りしめた。

 

 彼女について、広がっているウワサの数々は、あくまでウワサだ。大半は、であるが。

 

「ところでよぉ」

 

 フミオは、レイジの飯に生け花のように骨付きカルビを突き刺している最中のルリコを見つめた。

 

「細い」

「なにが」

「腕が細いんだよな。お前、ちゃんと食えてる?」

 

 フミオが、彼女の皿を箸で引き寄せた。

 

「ちょっ……うーわ、それ、もう使わないからね」

 

 青筋を立てるルリコを気にせず、フミオは皿の中がテーブルの全員に見えるように持つ。食べ放題の白米の上に、脂身の切れ端が一枚乗っているだけだ。

 

「ルリコぉ、育ちざかりだぞ、お前。 鳥人間コンテストにでも参加すんのかぁ?」

 

 フミオが皿のフチをカチカチと箸で鳴らす。

 

「うるさいわねえ。今月、財布がヤバいのよ。こんな汚い店の汚い肉でも、カケラでも口に入れたら割り勘するハメになっちゃうじゃん」

 

 すすけたカウンターの向こうからおばばが怖い顔で睨んでくるが、ルリコは意に介さずトングを取って、ほとんど炭の塊になってしまったカボチャを網の上から拾い上げた。

 

「そんな小細工しなくても、俺とレイジでおごるから食えよ」

「そういうのが嫌なのよ、私は……」

 

 ルリコは眉を寄せた。

 

「今月ピンチって、ルリコの財布に千円以上入ってたことあったか?」

「るさい」

 

 ルリコのおなかが、ぐう、と鳴る。

 

「あっ……くそ、恥ずかしいわね」

「何だよー。勘定なら気にするなって……おごご」

 

 ルリコを励ましながらさりげなく肩に手を置こうとするフミオの口に、ルリコはカボチャごとトングを突っ込んだ。

 

「オゴゴーッ!」

「オバさん!」

 

 くぐもった悲鳴を上げるフミオ。それにバトンタッチされたように、レイジが大声を張り上げた。

 

「この特選ってついてるヤツ、全部持ってきてください。あと、ご飯。大盛りで三人分」

 

 

 静寂。

 

 

 

 ポカンとしているルリコの横で、口にトングを突っ込んだまま、フミオがガッツポーズを作った。

 

「ちょっと! 聞いてたでしょ、私はね」

「ルリコはもっと食べないとダメだ。また、倒れられては困る」

「よし貸せ。俺様のヨダレまみれのトングで焼いてやる」

「わ、 私はねえ、そんな施しみたいなのいらないって」

「ルリコ。俺もフミオも、心配してるんだ」

 

 目の前に運ばれた山盛りの白米から必死に目を逸らそうとしていたルリコは、二人から見つめられて、ぐっと言葉に詰まった。

 

「うす……ご馳走サマです。せめて焼かせてもらいます」

「ム……」

 

 ピクリ。レイジがはじかれたように振り返った。

 

「どした?」

 

 自分の唾液でベロベロに汚れたトングをルリコと取り合っていたフミオが、すぐに異変に気づいて聞いた。

 

「今、後ろで誰か俺の名前を呼ばなかったか?」

「名前ェ?」

 

 怪訝そうな顔をしたルリコが身を乗り出して、レイジの背後のテーブルを眺めた。そこでは頬に火傷の痕がある男が、真昼間から焼き鳥でチビチビとビールを飲んでいるだけだ。他に客はいない。ここは、市内で穴場中の穴場のような店だ。

 

「気のせい、なのか……?」

「アンタやっぱり疲れてるんじゃない?」

 

 

『レイジ』

 

 

 岩のようなレイジの顔が、岩のように固くなっていく。

 確かに聞こえる。

 鈴の玉を転がすような少女の声が、すぐ横から。

 彼にだけ、語りかけるように。

 

 ■

 

「便所に……行ってくる」

 

 戸惑いの表情を浮かべながらフラリと立ち上がったレイジを、テーブルに残された二人は不思議そうに見上げた。

 

「ねえ本当に大丈夫? ついてってあげよっか?」

 

 席から腰を浮かしたルリコは別に、茶化そうとしているわけではない。彼女なりに真剣に心配しているのだ。それが分かっているから、レイジも、なるべく平気なフリをして首を横にふって見せた。

 

「本当になんでもない。ただ、入れる前に出そうと思っただけで」

「ならいいけどさ……気がかりだから。アンタ、シモネタとか、あんま言わないタイプじゃん」

「ま、漏らす前にさっさといっトイレ」

 

 一方でまったくの平常運転を続けるフミオの背中を、ルリコが思い切りブッ叩く音を聞きながら、レイジはもう一度店の中を見渡した。

 

「あ──」

 

 長年染み込んだ脂と煤で鈍い輝きを放つ床の上に黒い染みが残されている。ただの水溜りにも見えたが、じっと観察すると、踵と、土踏まずと、指の形まではっきりと見て取れる足跡だった。

 それは大きさからして、間違いなく子供のものだ。

 ここにレイジが来た時には気づかなかった。あるいは、たった今、ここに出来たものなのかもしれない。

 黒い液体の正体は分からないが、とにかく濡れた素足を、床に向かって──

 

 べちゃ。

 

 ちょうど頭の中で再生していた音が、現実のものとして耳に響いた。

 

 べちゃ。

 

 さらにもう一度。目の前の光景を見つめるレイジの背筋を、冷たい汗が伝う。

 

 べちゃ、べちゃ、べちゃ、べちゃ────まるで、見えない何かがそこにいるかのように、彼が見ている前で、床に足跡が増えていく。

 

「なにやってんだ?」

 

 怪訝そうなフミオの声が、まるで深海の音のように遠く、ぼやけていた。

 排気の不十分な店の中に渦巻く一酸化炭素と二酸化炭素のカーテンの向こうに目を凝らして、足跡の行く先を見守る。

 足跡はどんどん、どんどん、テーブルから遠ざかっていく。

 そしてそれは、トイレの前まで続いていくと、もう増えることは無かった。

 

「……入ったのか? 中に?」

「ね、しっかりしてよ。大丈夫?」

 

 信じられないものを次々に見せられてレイジが立ち尽くしていると、さすがに見かねたルリコが、彼の腕を引いた。

 

「いつものアレ?」

 

 やはり彼女は心配そうだった。

 

「いや、たぶん違う。これは」

「抑えられそう?」

 

 口の前で手を組んだまま、フミオは何も言わない。ただ、無数の傷痕に覆われてゴツゴツとしたレイジの拳を見つめているだけだ。

 

「今日は出る前にキチンと発散してきたから。大丈夫」

「またあの鉄の柱で?」

 

 ルリコに聞かれて、レイジはその左拳をさすった。

 

「そうだ」

「いつも思ってたけど……あれって、痛くないわけ?」

「俺は、そういのを、よく分かってない」

 

 彼女は、まだ何か言いたげだったが、結局黙ったまま、レイジを離した。

 今度こそレイジは床をきしませて歩き始める。反政府ゲリラの集会所のように暗くて天井の低い店の中を、さらに低く、身を屈めていく。

 

「息が詰まるな……」

 

 呟いてから、レイジはすぐ傍に店のオバちゃんがいることに気づいた。

 

「ご挨拶だねェ」

 

 レイジは答えず、ただ会釈した。

 

『レイジ』

 

 はっとして視線を上げる。そこにはなにもいない。

 

『レイジ』

 

 今度の声は背後から聞こえた。振り返るも、怪訝そうな顔のオババがいるだけだ。

 くい、とシャツの袖を引かれたような気がする。だが、そこにはテラテラ光る足跡のほかに、何もない。よろめきながらトイレのドアを押し開けたレイジは、崩れるように陶器製のシンクに両手をついた。

 目の前には白い水垢まみれの鏡が一枚ある。

 がっしりした体で、疲れた顔をした大男が一人そこに映りこんでいた。

 寝不足に始まる不健康な生活が祟ったのだろう。不安になるほど顔色が悪い。青黒いくまの浮いた目元をした男に睨まれてレイジはたじろいだが、それは他でもない、自分自身の顔だ。

 錆付いた蛇口を全開にすると、老人のいびきのような音を立てて、シンクの上に鉄臭い水が広がっていった。それを、叩きつけるようにして顔を洗う。

 

『レイジ』

 

 声は聞こえ続けた。

 力ない動きでレイジは振り返る。

 そこには何もない。分かっている。ここは個室だ。汚れたタイルに、天井からぶらりと吊るされた裸電球が病的なオレンジ色の光を投げかけているだけの、湿って不潔な空間でしかない。

 

『レイジ、こっちだってば』

 

 もう一度鏡を見る。鏡の中心。ちょうど鏡に映ったレイジの首の位置に、小さな黒い手形がべっとりとついていた。さっきまでこんなものは無かった。はずだ。

 

「なんなんだ」

 

 しかし、問いかけても返事はない。ただ静寂だけが漂っていた。

 手形からタール状の黒い汚れが滲み出し、蛇口を伝って洗面台へとぬらぬらと伸びていく。薄暗い照明の下で、その汚れは不気味に輝いていた。

 それは大きくない。子供の手形だ。小柄な中学生か、発育のいい小学生といったところだ。

 

『レイジ』

 

「教えてくれ」

 

 関節が白く染まるほど、拳を握り締める。

 

「教えてくれ!」

 

 レイジは叫びながら、歪んだ自分の像を映し続ける鏡に拳を叩き込んだ。

 

「俺はどうすればいい!」

 

 鏡が砕けた瞬間、レイジの中で何かが完全に弾けた。

 視界が真っ赤に染まる中、気づけば自分は砕けた陶器のシンクを抱え込むようにしていた。砕けた鏡がキラキラと輝くシンクの上で、錆付いた蛇口が咳のような音を立てている。

 じゃぼ、と音を立てて、水ではないものがシンクの上に吐き出された。

 魚だ。小指の先ほどの赤い魚。

 ガラス片の浮かぶ水の中を泳ぎだしたそれが、ふとヒレの動きを止めて、レイジを見上げてきた。その目は黒い穴のような魚のものではない。赤黒い虹彩に囲まれた洞のような瞳孔をもつ、人間の目だった。

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