新入生代表として登壇した彼女が口を開いて早々、式に参加していた数人の男子生徒の間で乱闘が勃発。とっさに止めに入った彼女もそれに巻き込まれる形となった。
結果は大惨事で大流血。
騒ぎの中でルリコは左薬指を開放骨折。スピーチもほどほどに、駆けつけた救急車に乗せられ血の海と化した体育館を後にした。
いったいどのような経緯で始まった乱闘だったのか?
いったいなぜ、ルリコはそんな大怪我を負うことになったのか?
この事件のことになると西高では生徒も教師もへだてなく、緘口令が敷かれたように話をはぐらかす。
それからのルリコからは入学式で見せたしとやかな態度が消えうせ、不機嫌クイーンはめきめきと頭角と本性を露にしていった。そんな彼女が生徒会に深く食い込み、そこでの地位を確固たるものにするまで、半年とかからなかった。
『これ、絶対いい記事になりますよォ!』
翌年に入ってきた新聞部の一年生は、新しい環境で与えられた自分の役職に誇りを持っていた。
周りがやめろと言うのに、彼は聞かなかった。
新聞部──今では元新聞部だが──の学内での地位を上げるため。そして、輝かしい躍進の立役者として名を売るため。ぶっちゃけると内申を稼ぐため、事件について方々嗅ぎまわりはじめた。
■
『──命が惜しけりゃ、やめときな。それと帰る前にスパナ取って……違うそれじゃない。隣のやつ。それも違う。それでもねえ、クソ、もういい』
バイク好きで知られるA組のFくんは生徒会長と交友関係がある。しかし、放課後の駐輪場で行った突撃インタビューへの対応は冷淡そのものだった。
『俺の口からは話せない。過去を掘り返されるのを、嫌うひともいる』
同クラスのクールなロンリーウルフ、R君も生徒会長との親交が知られていた。
余裕のないタイミングを狙えば本音が引き出せるのではないか──という考えから、野球部が整地に使うコンダラを半ばまでリフトアップしている彼に直撃したが、反応はFくんと同じだった。
バイク野郎と筋肉野郎は役に立たなかった。調査は難航に難航を極め、諦めムードが濃厚に漂う。
『いいッスよ! なんでも教えてやるっス』
そんな時にコンタクトを取ってきた一年女子がいた。
小麦色の肌に銀のピアス。校則に真っ向から中指を立てている彼女の名前をミス・Mとする。それはまるで、雨乞いに天が応えるが如く使わされた情報提供者のように思われたが──
『──ウチ、あいつの悪いウワサ言いふらすの、好きなんで!』
あまりに胡散臭いので、丁寧に断って退散した。
こうして野心に燃える(元)新聞部員の熱くも短い直撃取材は失敗に終わり、阿宮梨瑠璃子流血事件の真相は再び闇の中に──
『ねえ。どうしてそんな顔して突っ立ってるのかしら』
■
『私のことが知りたいんですってねえ』
当時の新聞部室──今では跡形もなく片付けられて物置として使われている──に帰ってきた彼を待ち受けていたのは、生徒会長本人だった。
ルリコが夕暮れ時の校舎を映す窓を背負って仁王立ちしている。その前には、すでに下校したはずのメンバー含め、部員一同が正座させられ、うつむいていた。
『そんなに気になるなら、今からイヤってほどアンタに教え込んでやるわ。ほら、入ってきてドア閉めなさい。早く。さっさと。これ以上イライラさせるな』
机の上に投げ出されていた模造紙をクルクルと巻いて棒にしながら、どういうわけか彼女は笑っていた。それから密室の中で何が起こったのかは、当事者の男子生徒含めて誰も語りたがらない。語りたがらないというか、パニックを起こすようになってしまったので、聞けない。
確かなことは三つ。
ひとつ、この一件で新聞部は廃部になった。
ふたつ、入学式の出来事を絶対に掘り返してはいけない。
そして──細身で顔色が悪く、時々スイッチが切れたようにブっ倒れる生徒会長は、たしかに頼りなく見えるかもしれない。だが、絶対に彼女の機嫌を損ねてはならないということだ。
■
「アンタらバカ同士で盛り上がってるトコ悪いけど──私を巻き込まないでちょうだい」
そいうわけで、ルリコが睨みを利かせれば、だいたいの生徒は萎縮する。
「あ? 今バカッつったか?」
カナタにはそれが通じない。
「それにさ──なんかスゲー迷惑みたいな言い方すんじゃん?」
逸話を知らないからか、それとも、元から恐れ知らずなのか。自分が放つプレッシャーをはねのけて勢いよく立ち上がってきた彼女のことを、ルリコは愉快そうに、そして悪そうに笑って迎えた。
「は? 今ので分かんなかったわけ?」
今まで餌ばかり食んでいた大型捕食者が、自分のテリトリーを侵すものを見つけた時の笑みだった。
「わっかんねえ。ハッキリ言えよ、アタシ、バカだから」
「じゃ言ってあげる。迷惑ですー、お断りです~~」
「お?」
「あ?」
二人の舌打ちが重なった。
「おーい、これヤベえぞ」
そこはすでに一触即発の間合い。
いつ大爆発してもおかしくないルリコと、とにかく沸点が低いカナタからなるべく距離をとるように部屋の隅に避難してきたフミオは、いち早くそこで陣取っていたレイジに耳打ちする。
「その……ヤバいな」
「再確認したってどうにもなんねえよ。何か手を打たなきゃ」
何か文句のひとつでもぶつけてやりたいが、レイジ相手に気遣いを要求するのはナンセンスもいいところだ。フミオは脂汗で濡れた両手をスラックスでぬぐいながら口を開いた。
「あ、あのー、いいかな。お嬢さんがた」
瞬間、刺すような目でルリコに睨まれて、フミオはたじろいだ。どういうわけか、同盟国のはずのカナタまで鋭い視線を送ってくる。
「あー、……朝早く出るってのは? それなら半日で帰れる。定期テスト近いしさ、思い切って息抜きが必要だよ。そしてルリコ……さんにも、リラックスタイムが必要。だろ? だよな?」
「却下」
巨大な手裏剣のように回転しながら飛んできたぺたんこの座布団が、フミオの顔面に直撃した。レイジの家の湿気をぞんぶんに吸ったカビの塊を顔面に貼り付けたまま、フガモガ言いながら激しく倒れこむ。
「教えてくれよ、セイトカイチョー。アタシと海行くの、そんなイヤかよ」
「私、命がけで学生やってんの。夏だのイベントだの、そんなモンにヘラヘラウツツ抜かしてる場合じゃないのよ」
「ルリコ、覚えてるか……」
ブっ倒れたフミオが煙幕のように舞いあげたホコリの中から、レイジの腕が上がった。
「海に行くって話をしたろ。焼肉を食いに行ったすぐ後だ」
彼が大きな体をゆすって立ち上がると、今度は彼のターンだ。
「それからすぐカナタと俺が出会ったのはきっと偶然じゃない。運命なんだ」
レイジの目はまっすぐだった。しらふではとても言えないようなことを、大真面目に言っている。
「だから何。アンタらのラブシーンに私を巻き込むな」
「きめえ野郎のきめえリクツで女同士がナシつけてるとこに割り込むんじゃねえ」
なので、女性陣の不興を買いまくることになった。同時に二枚の座布団がレイジに向かって飛んできた。
彼は反射的に体をひねり、一枚をかろうじてかわしたが、もう一枚は見事に頭に命中。避けた一枚はそのまま弧を描き、すでにダウンしていたフミオの顔面に直撃した。
「ぎゅう」
おまけに倒れこんできたレイジの下敷きになって断末魔を上げたフミオのことなどお構いなしに、睨みあう二人がヒートアップしていく。
「……決めたぞ」
カナタが、牙を剥くようにして笑った。
「海なんて、どうせいつでも行けるんだ。でもそんなの味気ねえよなァ?」
「いいじゃん。そこの気の抜けた男ドモと、気の抜けた旅行してきなさいよ」
ルリコも笑顔のまま、薄いこめかみに太い青筋を浮かせていた。
「アタシはルリコを巻き込んでやる。何があってもだ」
二人のレディースの間で空間が捻じ曲がって見える。レイジの引き起こした重力空間異常と同格か、それ以上の規模だった。
「海に行くメンツは絶対に、アタシとレイジとフミオと、そんでもってオマエだ……ふあ……」
あくびで目尻に浮いた涙を拭いながら、カナタの目つきは依然鋭いままだ。
「四人で海でパーティーするまで、一歩もこの町出てやらねえ。覚悟しとけよ」
「ヘェ。じゃ、生徒会長全力の意固地を見せてやるわよ。アンタの思い通りになるなんて絶対ご免だもの!」
カナタは、まぶたをこする。いい感じに温まってきたところだ。ルリコがその気になるまで、バチバチにやり合ってやる。
やるつもりだ。
つもりだが、まぶたが重くて仕方ない。ルリコの顔が、はっきり見えない。
「ふふふ……アンタ、とんでもないヤツにケンカ売ったわね」
「へ……へへへへ、覚悟しとけよ、この、石、あた────」
不自然なところで言葉を区切ったまま、カナタが棒立ちになった。
「ちょっと?」
さっきまで肩にみなぎっていた力が抜けている。目はうつろで口は半開き。不敵な笑みを浮かべたままの唇の端から、つう、とヨダレが床に垂れる。
カナタの首がガックリと大きく揺れた瞬間、ルリコがすべてを理解して、言った。
「支えてあげて」
言うやいなやでレイジが飛び出して、糸が切れたように崩れ落ちるカナタの体を抱き留めた。
「ぐー」
ウソみたいに安らかな顔で寝息を立てるカナタを抱いて、彼はベッドまで歩いていく。長年の酷使でレイジの形に黄ばみが浮いた汗臭いマットレスに横たえられた瞬間、明らかに眉間にしわが寄ったように見えたが、彼女はすぐ落ち着いた。
「寝てる」
ルリコと火花を散らせていたときの形相がうそのように、カナタの表情は穏やかだ。
「……分かってる。よく考えたら、昨日の夜から歩きっぱなしだものね」
「ガキっていきなり電池切れたみたいに眠るよなあ」
「ガキのことはガキが一番よく分かるのねえ」
肩をすくめるフミオを尻目に、ルリコはケータイを取り出した──液晶に表示された何十件もの不在着信の表示が視界に飛び込み、レイジは思わず眉をひそめた。
「見んな。悪趣味」
ちら、とレイジを見やって、ルリコが呟いた。
「すまん」
「謝るんだ。じゃ、やっぱ見てたわけね」
「その……すまない」
「分かってんでしょ。アンタもそろそろオトナになるんだから。見て見ぬフリ、覚えときなさい」
彼女もまた、カナタと言い合っていたときの剣呑な雰囲気はどこにも残っていない。ただただ、重苦しいものが渦巻く暗い瞳で、レイジを見据えていた。
「海の冒険ねえ。確かに面白そうではあるんだけど……」
それを隠すように微笑して、ルリコはベッドの上のカナタに向き直る。
「でも、ダメなものはダメ────おやすみ、カナタ」
静かな寝息を立てるカナタにタオルケットをかけてやると、彼女は「帰る」と告げて、玄関へ向かった。それをあわてて男たちが追う。
■
「ルリコぉ、ホント海行かねえのぉ? マジでェ?」
「しつこーい。行かないって決めたらビックリするくらいガンコだからね、私」
コンクリートの外廊下には、映画を見ている間に通り過ぎたにわか雨の湿気と熱気が濃く残されていた。
廃墟同然のマンションにはロクな照明がない。のっそり大きなレイジが、足の生えた電灯のようにLEDランタンを掲げて、先をゆく二人の足元を照らして歩く。
「レイジもなんか言ってやれって。お前の一押しがありゃあ、さすがの不機嫌クイーンも──っとぉ!?」
へらへら笑っていたフミオが声を上げた。足を止めてケータイを見つめていたルリコにぶつかりそうになったのだ。
「ごめん。耳に指突っ込んどいて」
ルリコの顔をケータイ液晶が放つ光が白く照らしている。妙に顔色悪く見えるのが、ライトの質によるものなのか、それとも別の理由のためか──は分からない。
とにかく、キーを操作する彼女の指は、小刻みに震えていた。
男たちが静かに見守る先で、液晶に表示されるアイコンが通話中を示すグリーンに変化する。その瞬間、ルリコが思いっきり、ケータイを耳元から遠ざけた。
──廃墟の闇をつんざく、ヒステリックな女の声が炸裂した。
「ご」
それを聞いたルリコがひねり出したのは、まるで大きな飴玉を飲み込んでしまったような、しゃっくりのような声だった。
「ご──ごめん、ごめんね。ごめんなさいっ!」
相手に見えるはずもなかろうに、ルリコが腰を深々と折って頭を下げた。
「ごめん──ごめん、ママ。今日は転校生が来て、手続きが長引いちゃっ…………うっウン。すぐ、帰るから。大きな声出さないでったら…………」
フミオが、立ち尽くすレイジの脇を小突く。彼に促される形でルリコから距離を取り始めるのと同時に、ルリコも共用階段に向けて歩き始めた。
生徒会のメンバーを率いて廊下を闊歩している姿からは想像もつかない。軽く風が吹けばそれでパタリと倒れてしまうのではないかと思うほど、フラついて頼りない足取りだった。
「……ウソウソウソ!!!! ちがうって! そんなコト思ってないよゴメン…………私も好きだよママのこと……大好き…………」
震える声が遠ざかっていく。
「……愛してる…………うん……うんママ………………」
背中を丸めて階下へと向かうルリコを、レイジとフミオが見送った。彼女の姿が消えても受話器越しの怒声がコンクリートの壁に反響してしばらく聞こえていた。
「……気まずいよな。こういうのってさ」
じっと、ルリコが消えた階段の先を見つめているレイジにフミオが告げた。
「そろそろ俺たちは問題を起こすべきだと思う」
レイジがぽつりと呟く。我慢していたタバコを早速口に咥えながら、フミオが小さく頷いた。
「前さあ──ガラス割ったっけ」
「バットでな。全部やった。たいへんだった」
「バァカ。お前が軍手忘れたせいで、ケーサツが来る頃には二人とも血まみれだったろうが」
──あっはっは。
月の光に両手の古傷を透かして見せて、フミオが高らかに笑った。ホンキでレイジを責めてるわけじゃない。こういう悪い経験を共有する悪友として、軽く茶化してみせただけ。
「本当に……すまない」
たとえ傍らのレイジが心底申し訳なさそうに謝ってきても、フミオが笑い声を途絶えさせることはなかった。
レイジという男が、声を上げて笑うことが出来ないのは承知している。
笑うような人間性が、そもそもないのだ。空っぽだ。そんな生きて歩くブラックホールのような男を、いつも隣に置いているのには理由がある。
「ハ」
打って変わって、フミオは冷たく笑う。
友情にはいろいろある。言えることも、言えないことも。隣の男に傷ついたりするような心がないと知っていても、言ってはいけないことも。
フミオは──レイジを見ていると──
(くだらねえこと考えたな)
軽く頭を振って彼が物思いを振り払うのを、レイジは不思議そうに眺めていた。
「で。かわりばんこに頭を捻るって約束だ。次はどんな手で、女王様を生徒会に縛り付ける?」
「ガソリンを買ってある。たんまりと」
フミオがヒュウと口笛を吹いた。
「豪勢だな。今朝見たときにリッター三千行きそうだったぞ」
「ガソリンは高いがよく燃えるからな」
「だな」
唾液で湿ったタバコのフィルターをしゃぶりながら、フミオはあたりを見渡した。ちょうど、どこかの住人か廃墟探索家が忘れていった灰皿が、手すりに引っかかって月光を冷たく反射している。
灰皿の中身をぶちまけると、古びた吸殻の間から細長い足を蠢かせる黒い虫が現れ、素早く排水溝へ逃げていった。
「ん。頼む」
受け取ったジッポーを灯したとき、レイジの目はタバコより、共同廊下の手すりから望む駐車場へと向いていた。
ここがかろうじて人の住む場所であることを主張するかのように、そこでは一本の外灯が明滅している。
頼りなくチラつく光の帳の中、ルリコが外灯に寄りかかって立っていた。
虫嫌いの彼女が知ったら怒るだろうが──ぽつねんと立ち尽くす彼女の姿は、暗い世闇の中で明かりにすがりつく孤独な蛾のようにレイジの目に映る。
指先で、火の熱さを感じる。香ばしい煙が吹き付けられる。
「ルリコ……」
この火は彼女から見えるだろうか──そう思った瞬間にルリコが顔を上げたのが分かった。
プルプルと頭を振った彼女がレイジを見据えて、ヤケクソじみた派手なアクションで大きく手を振ってよこす。
どうしてもそれに応じることができずに、レイジは顔を伏せていた。
「カッコつけてガソリン車なんて買うんじゃねえぞ」
フミオが、レイジの視線を追っていた。
「クルマ買うなら、俺みたいなモーター駆動にしとけよ。安いし、足並み合わせてツーリングしようぜ」
「俺は走る方がいい」
「はは。確かにな」
フミオの笑い声がもう一度廊下に反響し、それからしばらく沈黙の時間が訪れた。
「…………こんなムチャが、永遠に続くはずがねえ」
フミオが重々しく煙を吐き出した。
さっと開いた雲の隙間から差し込む月を目指して煙が昇ったが、やがて夜風に吹かれて薄れ消える。
「カナタには……」
「わあってるよ。しばらく、いや、できるならずっと秘密にしておこう。アイツには楽しいガッコーで過ごして欲しい。それは俺も一緒だ」
何を秘密にするのか? ────ルリコと、その家庭のことだ。
「……つくづく、やっぱガキなんだろうな。俺ら」
フミオの脳裏に焼きついたルリコの姿は永遠に消えてくれない。電話片手に背中を丸め、ごめんごめんと壊れたラジオのように繰り返す『西高最強の生徒会長』の姿なんて、想像するだけでも辛いというのに。
「何をすれば……俺たちはマシになれるだろうか」
月を見上げて、レイジは立ち尽くす。
「知るかよクソ。ガキくせえこと抜かすんじゃねえ」
フミオは煙のニオイが染み付いた手のひらで乱暴に顔を揉みこする。
問題は見えている。だが、見えるだけで手が届かない。ここから見上げる月のように、そして、五十キロ先で静かに波打つ海のように。
そして自分の位置に立ち返って見えるのはフミオという存在のちっぽけさだった。
タバコを吸って、バイクに乗って、オトナになったつもりだ。それでも、できることはあまりに少ない。彼は、静かに焦れ続ける。
「さっきは、カナタを動揺させたくないから言わなかったけどな」
友人を助けるための快刀乱麻のアイディアは、今日も思い浮かばなかった。
フミオはタバコを叩いて灰を落とした。
「七区、住民が丸ごと消えてたぜ」
「消えてた?」
そのまま聞き返したレイジに、ああ、と呻くようにフミオは頷いた。
「千二百人が一晩でだ。別に、起こったことを考えればおかしい被害じゃねえ。でも普通、それだけの奴らが避難したり入院したり……死んだりしたらニュースで大騒ぎだろ」
だが、そうならなかった。今日の西町は静かなものだった。
だから、消えた。
そう表現するしかない。
「お前、心当たりは?」
心当たりなら、ある。
「分からない。俺には、なにも」
レイジはウソが下手だ。それが分かっていても、フミオは突っ込んで聞いたりしてこなかった。それを少しだけありがたく思いながら、レイジは顔を逸らす。
彼は黒い怪物の群れを虐殺した。
引き裂き、抉り出し、もぎ取ってブン投げて、ブッ潰すことに熱中した。カナタの声が聞こえなくなるほどに。怒りを忘れるほどの快感に打ち震えながら。
そしてその出所は、あの黒い汚泥を被ってサナギのようになった、町の住民そのものだ。
口が裂けても、この事実を語ることはできない。とくに、数少ない友人であるフミオやルリコ──それに、彼の運命であるカナタには。
完全に黙ってしまったレイジの隣で、フミオは中途半端に燃えたタバコをしばらく見つめた後、廊下の外に放った。赤い火がホタルのように揺らめきながら闇に呑まれていく。
「うらやましいなあ。考えるだけでワクワクしてくるぜ」
「うらやましい? 何が?」
駐車場で、ルリコが飛び跳ねているのが見えた。
いい加減に降りてこないとバスいっちまうぞ、のサインだろう。
「ついにボーイとガールが出会っちまったじゃねえか」
「またそれか……」
暗闇の中で薄ら笑うフミオの顔に、あの少女が浮かべた微笑が重なって見えた。
『ボーイミーツガールはもう始まってるんだ』
少女の言葉がリフレインした瞬間、レイジは視界の端で灰色のワンピースが揺れた気がした。はっとして顔を向けるが、そこには何もない。経年劣化で割れ砕け、配管がむき出しになった壁面で、月光が踊っているだけだ。
「ずっと思ってたんだが。ボーイミーツガールってどういう意味なんだ?」
レイジが聞いた。
「魔法……いや。映画かな」
暗闇の中でジッポーの乾いた金属音が響き渡る。手の中に灯った火を弄びながら、フミオはきびすを返していった。
「早い話がお前とカナタのことだよ。魔法で、奇跡で、映画の始まりみたいな」
「やっぱり俺にはよく分からない」
「考えるな、感じろ──ってやつだよ。要するに、ちゃんとカナタを海に連れてけよってこと。俺も混ぜてくれるなら、いい感じに協力してやっからさ」
親しみを浮かべた調子で笑いかけたフミオが、頼りなく揺れる火と一緒に闇に消えていく。
「フミオ」
その背中を見ていて、レイジは引き止めていた。
「あ?」
フミオは怪訝そうだった。レイジも、実のところ、自分がどうしてそんなことをしたのか、よく分からない。
ただ、今日の昼のことを思い出していた。自分を暗い海の底から救い出してくれた少女が、彼と再会した場で言ったことを。
「こういう時、なんか言ったほうがいいんだろうか」
「なんかって、何を?」
「挨拶はだいじだ。カナタがそう言ってたから」
それを聞いたフミオは少し驚いた顔をする。が、すぐに小馬鹿にした笑みを浮かべた。
「手を握ってサヨナラ言うか? 俺とお前が? きめえよ」
コンクリートマンションの湿った闇の中に、くつくつという笑い声を響かせながら、フミオの姿が溶けていく。やがて外灯の下に現れた二人が手を振って去っていくまで、レイジはずっと、夜に目を凝らしていた。