海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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7.歪んだピースをはめ込んで(4)

 

 

 悪夢は────見なかった。

 

 ■

 

 ほとんど眠りに落ちたという実感もないままに夜が過ぎ、次に目を開けたとき、レイジはカーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日を浴びていた。

 一晩フローリングの上で横になっていたせいで体はひどく軋んだが、気分は悪くない。

 彼はベッドに目を向ける。そこには昨夜のまま寝かせておいたはずのカナタが──いない。

 

「カナ、あれっ?」

 

 体を起こしてみると、昨日カナタにかけたはずのタオルケットが、いつの間にか自分の腹に乗っていた。

 花のような、潮風のような──摩訶不思議な彼女の残り香が染みついたケットを手にしたまま、彼は部屋の中を見回す。

 

 いた。

 

 リビングの角だ。まるで吹きだまったホコリのように、白い塊が丸まっているのが見える。

 

「……そんなにイヤだったのか?」

 

 七年分の汗が染み込んだマットレスが原因だろうか。それとも、まだそこまで信用されていないのか。

 少し不安になりながらも、レイジは彼女の寝顔を覗き込む。しかし、どうやらそこが好きでそうしているだけのようだった。

 穏やかな寝息を漏らす彼女のまぶたの上で、まつげの影がかすかに揺れている。

 思えば、この部屋で誰かが無防備に寝ている姿を見るのは初めてだ。レイジはここでずっと一人だったから、何百回も悪夢にうなされ飛び起きたものの、その時の自分がどんな顔をしていたのかまでは分からない。

 ただ、少なくとも目の前の少女が苦しんでいるようには見えない。

 

「むにゃ……へへ……ざまあみろカイチョー…………なァ。いいもんだろ。海って……」

 

 口の端でうにゃうにゃと寝言を漏らしながらカナタは──どこか遠く、レイジの想像も及ばないような海の果てを、夢の中で旅しているのかもしれない。

 幸せそうに微笑んで眠れているのなら、わざわざ起こすことはない。レイジは彼女のことを、ほんの少しだけ羨ましいと思った。

 

 ■

 素足でベランダに出る。

 その瞬間、しっとりと肌を濡らす霧がレイジを取り巻いた。まるで町に薄絹の幕が下りたような朝だ。

 もやを透かしてくる太陽が、あたりをオレンジ色に染め上げている。

 ゆるやかな微風に頬を撫でられながら向かいの棟をぼんやり見つめる。ひとつのベランダに、ぽつりと橙色の点が揺れている。まるで線香に灯るような、小さな小さな灯だ。

 欄干にもたれてそれを握る人物の背は高い。

 ちょうど向こうもレイジに気づいたらしく、けだるげに身を乗り出して手を振ってくる。レイジも振り返した。

 もじゃもじゃとした髪が、朝風の中でワカメか昆布のように流れているのを見ながら、

 

(あんな髪の毛で、タバコが燃え移ったりしないんだろうか……)

 

 と、レイジは考える。

 すると「そんなの余計な心配ですよ」とでも言うかのように、向こうの人影は煙をバフウと吐いて、タバコを握った手でこめかみを叩いている。

 飲酒と喫煙は、彼女にとって人生の息継ぎだという。

 おおかた、徹夜明けの肺に磨きをかける煙が、頭のほうまで染みたのだろう。

 彼女は、何度か煙幕のように煙を吐き出したあと、レイジに軽く手招きをしてから部屋へ引っ込んだ。

 

 カナタを起こさないように静かに着替えを済ませたレイジは、今日は包帯を腕に巻かない。

 三階分の階段を下りていくあいだ、部屋に一人残したカナタへの心配と、これから始まることへの静かな胸の高鳴りが入り混じっている。

 そして、辿り着いた中庭兼駐車場。片隅に突き立つ錆の塊を眺めながら待っていると、向かいの棟からタバコを咥えた女がのっそりと出てきた。

 

昨夜(ゆうべ)はお楽しみでしたねえ」

 

 窮屈そうに長身を折り曲げて出口から現れた女性が言う。レイジが首をかしげた。

 

「なんですか、それ。へんな言い方をしますね。先生」

「えっ、知らないんですか」

 

 とことんダル絡みだが、レイジは律儀に相手をして、うなずいてみせる。彼女は彼の教師であり、武術の師でもある。そして何より、放っておくとかえって面倒くさいタイプの大人だ。

 

「うっわ。うわうわ、ジェネレーションギャップ。センセー、ショックなんですけど」

 

 そう言って顔をしかめながら、彼女はモジャ頭をボリボリ掻いた。その格好は、襟ぐりの伸びきったシャツに、下着なんだか部屋着なんだか死に装束なんだかよく分からないレギンス一枚。

 

 だらしない女だ。

 

「だらしないですよ」

 

 レイジは心の声をそのまま口に出す。

 

「生活感ある女ってよくないですか」

「先生のは生活感というより、単に雑なだけです。俺も人のことは言えませんが」

「うわー、レイジくんにそこまで言われるなんてショック」

 

 女──キリエは、突っかけた便所サンダルの爪先でもう片方のふくらはぎを掻いていた。シャツのポケットからは長いレシートが、一反木綿のようにヒョロリとはみ出している。

 

「今日もおきれいですね」

 

 また、心に思ったままをレイジが口にした。

 

「ああそう。はいはい。いいでしょ、くたびれた残業明けの三十路女って。線香花火、最後の輝きって感じ」

 

 周りの目など気にせず、シャツの裾から豪快に手を突っ込んで脇を掻きながら、キリエが答えた。

 レイジは世辞など言わないし、そもそも言い方を知らない。ただ彼の師はとことんだらしなく、それでいてあり得ないほどの美貌に恵まれている。

 薄いシャツ越しに体のラインを浮かせ、切れ長の目を細めてあくびをするキリエを見ていると、そこだけ朝の時間が止まったかのように見えるほどだ。

 

「……ところで、誤魔化そうったってそうはいきません。見てましたよ。昨日、レイジ君が部屋に女ども連れ込んでシコシコやってんの」

 

「は?」

 

 間の抜けた声を上げ、レイジはアパートを振り仰ぐ。彼の部屋の灰色のカーテンが風に揺れている。そこでは、まだカナタが眠っているはずだ。

 視線を戻すと、キリエは実に意地の悪い笑みを浮かべていた。

 

「あ、いや、彼女はちょっとそういうのではなく……説明していいですか。師匠」

「責任持てないのに女の子とズンドコするのは重罪ですよ。あと“師匠”は恥ずかしいからやめてくださいったら」

「ズンドコって何ですか。それに、フミオもいました」

「入ったのは四人……出てきたのが二人……おかしいですねえ。私、数学の教師なんですがねえ」

「というか、向かいの部屋から俺の私生活を観察してるんですか……」

 

 なんだかトンでもない事実が発覚してしまったような気がする。

 キリエは目を細め、背伸びをした。

 

「あー、いてて……やっぱ徹夜するとバキバキすんな……」

 

 いったい彼女の背骨はどう折りたたまれていたのか。そう想像しただけでレイジの背筋が寒くなるほど、ゴキゴキと恐ろしい音を立てながら、猫背がぐんと伸びた。

 

「さて──今日はどこの骨を折られたいですか」

 

 キリエは手足をブラブラと振ってほぐしながら、咥えていたタバコを吐き捨てた。

 そのタバコの火を無意識に目で追った瞬間、レイジの視界からキリエの姿が霞んで消える。

 折れたタバコがアスファルトの上でワンバウンドし、火花を散らして消えた。キリエの動きはまさに石火。

 

「くっ」

 

 心臓が内側からレイジの胸を殴りつける。これは警鐘だ。

 彼がいちかばちかで顎を引いた刹那、稲妻が鼻先をかすめた。

 灰色と肌色が渾然一体となった残像の正体は、振り上げられたキリエの右脚。その勢いで焦げてとろけた空気の熱が鼻腔を突き、粘膜を焼く。

 

「────グッド」

 

 甘いゴムのような香りをまとい、キリエが耳元まで口角を吊り上げる。

 普段のふにゃけた笑顔とはまるで違う。犬歯の先に冷たい殺気を光らせる、血の温度に飢えた獣の狩りの仕草だ。

 キリエはレイジの再生体質を熟知している。しかもエンジョイ派の享楽主義者で、自暴自棄までこじらせている。ブン殴った拍子にレイジの鼻が頭の反対側までめり込もうが、すべての歯がポップコーンみたいに弾けようが容赦しないだろう。

 薄い酸を垂らしたように全身がチクチクする。溢れ出すアドレナリンが、鼻の奥で炭酸のように弾ける。

 振り上げられたキリエの脚が太陽を覆い隠す。

 間髪いれず肩口を直撃した踵落とし。堅牢な骨格を軋ませるほどの衝撃を受けながら、レイジは目の前の数学教師を睨み返した。

 

「は」

 

 大きく踏み込んだ後ろ足がアスファルトを削る。僅かにレイジの口の端が歪んだ。朝の運動としては悪くない。

 

「ようやく楽しそうになりましたねえ!」

「……楽しそうなのはどっちですか」

 

 住めば都──レイジがこの廃墟に根を下ろした理由が、そういえばもう一つあった。

 

 樋口キリエ。彼女は最強だ

 

 二日酔いで眠たい顔をしながら、眠たい内容の授業をしているときの気怠い雰囲気など、今は微塵もない。目の前にいるのは、酒浸りの落ちぶれ教師でも、人生をぶん投げたダメ大人でもない。

 おそらく宇宙で唯一の猎户星跆拳道(ギャラクティックテコンドー)の伝承者が、そこにいた。

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