海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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8.はてしなく遠く、どうしようもないほど青い(1)

 

 レイジの顔に影が落ちた。

 太陽に被った楕円のシルエットはサンダルだ。キリエが蹴り上げた衝撃で今まで飛んでいたものが、ようやく落ちてきたのだ。

 

「ははっ」

 

 肉食恐竜のように牙をむき出しにしたキリエが笑ってサンダルをキャッチする。すでに彼女の体には捻りが加わり、あとは溜め込まれたパワーを解放するだけだ。

 

 ズパァンッ

 

 手首のスナップを利かせた分厚いゴムの靴底が、レイジのこめかみに半分くらいめり込んだ。

 

「ぐ」

 

 レイジには見えていた。防御もした。キリエのスピードと技巧が彼を圧倒しただけだ。堪らずたたらを踏んで大きく退()がる。ここまでの間にキリエが脱いでブン投げたもう片方のサンダルが、彼の鼻面にブチ当たって跳ねた。

 

「うんうん。やっぱ人間、ハダシが一番ですね」

 

 折れた鼻っ柱から赤い滝を垂れ流すレイジの前で、キリエが構えを取る。

 その上半身がわずかに左斜め前へ傾いでいった。

 奇妙だ。彼女が得意とするという流派──ギャラクティックテコンドー ――と対面するたび、レイジは構えの特異さを再確認する。

 前に出た左足は相手の急所を突き刺すようにまっすぐ構え、後ろ足はほぼ爪先立ちだ。左腕は体の前で、ダラリと振り子のように垂らす。

 さお竹のような使い手の長身と相まって不安定にしか見えない。が──

 

 大女の体が目の前で迫っていた。

 

「ッ!」

 

 気を抜いて瞬き一回。それが、今朝のレイジの命一個の重さだった。

 反射的に防御姿勢を取る。が、ダメージはない。

 触れられた。背後に通り過ぎていったタバコとアルコールの臭跡をかぎながら、レイジはみぞおちを確認する。

 あの一見アンバランスな爪先立ちの足をバネ代わりにバカげた瞬発力で文字通り『発射』されてきたキリエが、軽く膝頭をそこに当てていった。

 

 ──それだけだ。

 

「ハイ次、いきますよー」

「はい……」

 

 背後からダルさを極めたキリエの声が飛んできて、レイジはあわてて彼女に向き直り、構えなおす。彼女が力を抜いて彼の相手をしているのは明白だ。でなければ、今頃は中身をすべてアスファルトの上に吐き出して、のた打ち回っているところだろう。

 

「正直、キミを破門しようと思ってます」

 

 ダラリと垂れた左腕が視線を吸うせいでキリエのアクションの起こりが読みにくい。それでも二度目の激突に何とかクロスを合わせた瞬間、彼女の残像が囁いた。

 

「なぜ」

 

 捉えたと思えばすりぬけていくキリエは揮発するアルコールであり、必殺の間合いに相手を閉じ込めてまとわりつく姿は煙草の煙だ。

 

「キミには才能がある。戦士の才能だ。それは疑いようもない」

 

 足を止めたキリエめがけ、レイジは殺人ハイキックを見舞う。

 棘皮の怪物を二体同時に仕留めた実績のある技だ。当たれば良くて死亡、悪くて死亡の必殺技。

 それをキリエは、笑ったまま首で受ける。

 と、思えば、幻を打ったように手ごたえのないまま、彼の足首は空を切る。

 空中で惑うように泳いだ足首を、キリエが手の甲で叩き伏せる。レイジは大きくバランスを崩す。

 

「ま。この時代にカネになるようなモンじゃないですが。それでも私の下でよくぞここまで練り上げたものです」

「だったらなぜ」

 

 ガラ空きの背中を見せたレイジを、キリエがドンと突き飛ばす。

 おもわずつんのめった彼が受身を取って素早く立ち上がる──が、その眼前にはすでにキリエの爪先が迫っていた。

 彼女の不精さを物語るように伸びきった足の爪までよく見えるほどだ。

 その先端の鋭利さに意識がいった瞬間、レイジは思い切り目を閉じた。

 

「ぐ」

「そういうトコです」

 

 足の爪で、目蓋の皮一枚だけ裂かれた。

 ごろごろ転がって距離を取ったレイジのことを無感情に見据えたまま、キリエは決して追撃しようとしない。

 

「……ところで、最近なんか殴りました?」

 

 立て直したレイジが突っ込んできた。

 そのスピードはキリエの弾道ミサイルのような速度に比べるとハエがたかるようなものだ。

 だが迫力と破壊力に関して彼の右に出るものはない。二人を囲む廃墟同然のマンション程度なら、その威力で倒壊させられそうだ。

 

「ケンカってワケじゃないですね」

 

 ダッシュの衝撃で砕けた舗装を後方に散らしながら迫るレイジと交錯する瞬間、彼女の手がそっと彼の肩に添えられる。

 胃袋が浮く感覚。レイジの巨体が宙を舞う。相手のパワーを利用して反撃に転用する合気めいた技術だ。

 だが、長い付き合いで、このくらいレイジも読んでいる。

 

「人型だけど、人じゃない」

 

 転げながらレイジが放った足払いを、上から踏みつけるようにしてキリエが止める。

 レイジが腕を振り上げる。

 

「キミの攻撃が深いし、重すぎる」

 

 彼の拳は、キリエにピン留めされた己の膝関節目掛けて叩き付けられた。骨が砕ける。顔色ひとつ変えずに新しい『関節』を手に入れた彼が、真横に向かって体を跳ね上げる。

 

「私より少しでかいかな」

 

 キリエの腹めがけて槍のように突き出されたレイジの手刀を、キリエが片手で挟んで止めていた。

 

「すごい。まるで見てきたようだ」

 

 この瞬間もレイジの膝はあらぬ方向に曲がったままだ。痛々しい姿のまま真顔で聞いてくる教え子を見ていて、キリエは苦笑した。

 仕方なく、彼をその場に縫いつけた足をどけてやる。

 

「先生に何か、別の姿を被せて戦ってるでしょ」

 

 キリエが目を細めた。その瞬間、潰れたレイジの膝が一瞬で再生した。

 治ったばかりの関節を莫大な負荷でもって磨り潰しながらレイジが体を捻る。そこから繰り出されるのは、やはりハイキックだ。

 

「あーほらほら、まただ」

 

 それはキリエの頭上を掠めてしまう。

 

「想定してる相手がだいぶデカいですね。しかも姿勢が良すぎる。クマやゴリラじゃないか……あ、もしかして────直立二足歩行するナマコ人間、とか」

 

 レイジの呼吸が一瞬止まった。

 その隙を突いて、稲妻のように迫ったキリエが左腕でレイジの腕を掴んだだ。そのまま片手で、ボールでも放るようにレイジの肉体を投げ飛ばす。

 

「今の反応はアタリのやつですねえ! あはは、やったー」

 

 当然、レイジに答える余裕はない。レイジの目の前で世界がグルグル回転する。ばかげた勢いで風を切る音はほとんど悲鳴のようだった。

 くるくると手裏剣のように綺麗な横回転をして吹き飛んでいったレイジは、マンションの花壇に直撃する。

 ブロックは砕け、枯れ果てた草木の残骸が泥と一体となって飛び散る。彼の体が分厚い土ぼこりのスクリーンで覆い隠された。

 

「──ナマコ人間ってさすがにナイか。あほらし」

 

 インキの汚れが残る指先を顎に当てて、キリエがふと考えこんだ。

 レイジは──レイジはというと、体の上から土と破片を跳ね除けて、ヨロけて立ち上がっている最中だった。

 あれだけの衝撃を受けたが、辛うじて原形は保っていた。

 

「げほっ……げっ、いや、大正解ですよ」

 

 レイジは血と泥を吐きながら諸手を挙げる。さすがに降参だ。それを見たキリエが頷いた。

 彼女はもともと脱力したような構えだったが、力を抜いたことで、今では関節が外れたのではないかと思うほどの撫で肩だ。

 

「昨日、いや一昨日。バケモノの大群と会いました」

「オトナからかうもんじゃないです。ただでさえガキのお守りは疲れるのに」

「本当ですって。それで俺、機械のスーツを着たニンジャと会って」

「打ち所悪すぎでしょ。もう一回その鈍い頭ぶつけて直してきてください」

 

 キリエがシャツのポケットから古ぼけた車のキーを取り出す。無数のストラップに混じってレンタカーのタグがついていたような気がしたが、レイジは見なかったことにした。

 

「信じてください。俺、弟子じゃないですか」

「破門間近ですがね」

 

 隙だらけの背中をさらして歩いてくキリエをレイジが追う。

 

「……で。そのニンジャには勝てたんですか」

「師匠。俺、その──おわっ」

 

 今なら一撃くらい入れられるかな──と思った時にはレイジはコケていた。駐車場端に止まっていた年代物のバンのドアを開けた直後、振り返りざまにキリエが足を払ってきたのだ。

 支えを失った巨体があっけなく倒れる。

 汗ばんだ背で地面を打つ、どすっ、という重い音が四方を囲むコンクリートの壁に響いた。

 

「負けたんですね」

 

 息を詰まらせて、レイジはとっさに答えられない。彼の顔は相変わらずの無表情だが、それなりに苦悩していることは長い付き合いのキリエなら読み取れる。

 

「…………俺が弱いから……破門ですか?」

 

 空を仰いだままのレイジの視界から、キリエが消えた。

 

「違います。キミが本気で私に勝とうと思ってないからです」

「思ってますよ。これでも……」

 

 レイジの耳に悲鳴が聞こえた。

 それは実際のところキリエがバンのシートに思い切り尻を投げ出した音なのだが。

 ただ、彼の耳には比ゆでもなんでもなく、サスペンションの軋みに『なんでこんな女のケツを受けとめにゃならんのだ』──と、あちこちヘコみだらけのクルマが漏らしたボヤきが混じっていたように聞こえた。

 

「きみは何かにホンキになれない」

「なれますよ」

「そう言い聞かせてるだけでしょ」

 

 図星だ。

 

 ■

 

 一ヶ月ほど前のことだ。と、レイジは記憶している。

 

 消しゴムが飛んできて、レイジの後頭部で跳ねた。昼休みの廊下を横一列になって歩いていた三馬鹿が振り返った。

 

『この石ころやろう』

 

 言うが早いか、他クラスの口の悪い生徒が走り去って行った。

 悪名高い生徒会長と素行不良のお付の二人組み。ついでにアホとして知られるA組(サル山)相手に度胸試しのつもりだったのだろう。

 

『これ……もらっていいのか』

 

 消しゴムを拾い上げたレイジの言葉は無視される。

 

『ルリコ、どこまでやっていい?』

『一発でキメて』

『俺、このデカブツほど腕っ節強くねえよ。五回で』

『三発。ただし顔面以外』

『じゃ、会長が二発入れてよ。ああいうのいると、風紀に悪いぜ』

『仕方ないわね。全部アンタの仕業ってことなら』

『問題なし』

 

 ハンカチを拳に巻きつけて真っ先に飛び出したのはルリコだ。それを慌てて追ってフミオが走る。

 周囲の生徒たちが生徒会長とその取り巻きが動き出したのを見て、息を呑むように散っていく中で、レイジがぽつねんと見送った。

 

 彼らが何で怒っているのかも、何故怒れるのかも、分からない。彼らの怒りと自分の中にとぐろを巻く憤怒の質が違うことは、もう理解していた。

 それをどうとも思わない。

 それくらい、レイジは心が動かない。

 

 ■

 

「俺のこと、キリエ先生は何も知らないじゃないですか」

 

 ただしキリエと話している時は、グラつかないはずの心が少しだけグラつく。

 

「よーく知ってますよ。私とキミの間ですからね」

 

 どういうワケかキリエはレイジの後見人ということになっている。 

 

 だというのにレイジはこの酒びたりの数学教師のことをほとんど知らない。

 

 どうしてそこまで落ちぶれているのか。

 

 どうして面倒くさがりのくせに自分の世話を焼いてくれるのか。

 

 残飯以下のメシばかりむさぼってばかりのレイジに差し入れを持ってくるたび、どうして申し訳なさそうな顔をしているのか──レイジは七年間そばで暮らしていて、何も知らない。

 

 ただひとつ確かなことは、キリエがものすごく強いということだ。おそらく最強と呼んで差し支えない。地獄のような二日酔いに苦しんでいるところを無理やり引き止めて殴り合った時も、レイジは翻弄されるばかりだった。

 

 そんなハチャメチャで謎に包まれた女に接しているときは、少しだけレイジも年相応の反抗心を見せる。肉親のような――と呼ぶにはお互い他人行儀だが、レイジの中には七年かけて培ってきたキリエへの信頼がチャンとある。

 

「キミは夢を見れない。だから私に負ける。私はそこに失望し始めている」

「……たしかにもう、あの悪夢は見てませんが……?」

 

 その言葉を聞いたレイジの脳裏によぎったのは、彼の悪夢のことだ。

 七年うなされ続けた海の夢から解放されて二日が経ったが、今でも胸のどこかでそれがくすぶり続けているような気がする。

 しかし一体全体、悪夢を見ないことと自分の破門の間に一体どんな関係があるのか────と、彼は首を捻るが、どうやら別の話のようだ。

 

「あー、(ドリーム)じゃなくって」

 

 気の抜けたビールのように寝ぼけた表情でキリエが続ける。

 

(ウィッシュ)のほうです。ヤですね。日本語ってのはややこしくて」

 

 そこでふと、彼女は何かに気づいたようにレイジの顔を見た。

 

「そういえばキミの名前も」

 

 言いかけたところで、キリエは何かを思い出したように視線をそらす。

 

「なんですか」

「いえ……あなたの憤怒はどこから?」

 

 風邪薬のCMのようなことを言いながら、キリエはダッシュボードからスポーツドリンクのボトルを取り出した。温い液体の詰まったボトルは放られ、地面に転げたままのレイジの顔面に吸い込まれていく。

 

「わかりません」

 

 ボコリ、と音を立てて彼の額にぶつかったボトルが転がっていく。

 レイジは億劫そうに立ち上がって、ボロボロになった舗装の上を逃げていくボトルを追いかける。駐車場は隅にむかってひどく傾斜しているようだ。結局、片隅まで小走りに歩いていくハメになった。

 

「その怒りがなくなったら、キミはどうしたいですか」

 

 やがて、足を止めたレイジの背にキリエが問う。その指先は未だにダッシュボードの中を弄っている。

 

「自由になれたらレイジくんは何がしたいですか」

「分かりません」

「どこへ行って、どんな人たちと会いたいですか」

「考えたこともありません」

 

 錆びた鉄骨の足元にボトルが引っかかっていた。彼の血と肉と、そして憤怒を吸って膨れ上がった赤錆の怪物が、彼の行く手に硬く冷たく大きく立ちふさがっている。

 

「俺は、この憤怒をなんとかしたい。それだけです」

「対症療法で一生フイにする気ですかあー?」

 

 レイジはボトルを拾い上げる間、鉄骨が自分に覆いかぶさってくるような気がした。

 

「死に物狂いで食らいつくような夢がなきゃ、キミは私に勝てませんよ」

「そうだ…………海」

 

 そこでポツリと、レイジが言った。

 体の火照りが冷めるにつれて冷静な思考が戻ってきた。

 夢なら、願いなら確かにある。

 

「叶えたい夢はありません。ですが、叶えてあげたい夢ならあるんです。俺の中に、ちゃんと今」

 

 今まで何も持てなかった彼が暗い海の底から拾い上げた、たった一つの望みと呼べるものが。

 その言葉を口にするだけで、あの日初めて『黒い炎』を握った時に抱いていた胸の高鳴りが蘇ってくる。喜びのような恐れのような、胸の中が甘酸っぱくなる感覚だ。

 

「海、連れて行くってカナタと約束しました。そのために頑張るだけです。それが俺の夢です」

「あっそ……いいですね。お姫様の夢を叶える(タンデム)っての」

 

 相変わらず眠たげな声が返事した。輝かんばかりの宝物をそっと見せるような気持ちで放ったレイジの言葉は、キリエの求める答えではなかったようだ。

 

「よし……ハラが減った」

 

 レイジが両手で頬をパンと打った。鉄骨の影を振り切るようにして振り返ると、キリエは依然としてバンの内装の隙間に手を突っ込んでゴソゴソやっている最中だった。

 

「ウチで朝メシ食べていきませんか? パックの納豆くらいしか出せませんけど」

「納豆もいいけど、センセーにはコレがあるので」

 

 雑多な包み紙や督促状の山に埋もれていたものをようやく探し当て、キリエはそれを高々と掲げた。まるで、ここにはいない誰かに捧げるように。

 

「同じ発酵なら納豆より酒! あははははー!」

 

 いつの間にか霧は晴れ渡り、銀のスキットルに反射した陽光がレイジの目を焼く。六月十四日、土曜日。今日もいい天気になりそうだった。

 

 だらしない顔で口の端からよだれをたらす彼女から、さっきまでの恐ろしい闘志を感じることはできなかった。

 

 ■

 

 キリエからもらったスポーツドリンクは消費期限が二年前に切れていた。

 それを顔色一つ変えずに流し込んでから、レイジはとあることに思い至る。

 

「あ……カナタのメシ、どうするか」

 

 激闘の中で半ば剥がれ落ちたスニーカーの靴底を廊下にこすりつけながら、レイジが呟いた。

 レイジの食生活は終わっている。

 レトルトパックの直飲みなんて上品なほうで、あるものを適当にボウルにぶちこんで混ぜるのが彼の得意料理だ。時間がないときは生米を水と一緒に一気飲みすることすらある。

 そんな彼でも、こんなイカレた食卓にカナタを付き合わせるのがダメなことくらいは分かる。

 

「出前でも取るか……いや。こんな朝早くにはムリだ。コンビニまでひとっ走りして……」

 

 腕組みして歩いていくと、ふわりと芳香が漂ってレイジの鼻をくすぐった。

 いつもは湿ったカビの匂いと生活臭が充満する廃墟の中に、出汁と焼けた魚が香る。レイジは自然と口の中に唾液が湧き出すのを感じた。

 まず、驚いた。この干からびたマンションで常識的な朝食を用意している人間がいたことに。自分の部屋に近づけば近づくほど、その芳香が強くなっていくことに、彼は二度驚く。

 

「おかえ……うわっ、ボロボロ」

 

 そして三度目の衝撃。

 出迎えてくれたカナタはドレスの上にエプロンを着ていた。レイジが家庭科の授業でルリコにドツかれながら、ほぼ100パーセント彼女に縫わせたものだ。

 

「いないから探したぞ。何してたんだ、オマエ?」

 

 寝グセの残る白い髪がレイジの前で揺れた。

 

「朝のトレーニング……」

「ふうん。ずいぶんハードにやるんだな──ちょうどメシ出来たとこ。腹減ったろ?」

「メシ?」

 

 やはり、あたりに漂うにおいの源はこの部屋だった。

 ぐう、とレイジのお腹が鳴る。今までの食に無頓着なレイジだったら限界まで腹をすかせることに何も感じていなかった。

 だが今はどうしてか、空っぽの胃袋が切なくてたまらない。

 

「食べる?」

「食べる。食べたい」

 

 靴を適当に脱ぎ散らかし、匂いにひきつけられるように一直線にリビングを目指したレイジは、カナタに首根っこを掴まれた。

 

「コラ」

「あ」

「まずは手洗ってシャワー浴びてこい。せっかく換気したのに、また男くせえ部屋に逆戻りするつもりか」

「あ、ああ……すまない」

 

 力だけの話なら、レイジに叶うはずもないカナタにグイグイと押されるがままに、彼の巨体はUターンして脱衣所に向かう。

 

「まぶしい」

 

 カナタに叩き込まれた脱衣所がいつもより明るい。窓際に雑多に積み重ねていた洗剤の空き容器と生ゴミがゴッソリ片付けられてる。

 

「ん。これ」

 

 その窓自体が綺麗に拭かれていることに驚きを隠せないレイジの背後で戸が開いた。カナタが隙間から手だけ差し込んで、きれいに畳まれたタオルを渡してくる。

 

「こんなのウチにあったのか……?」

 

 膝までパンツを下ろしたままの状態で、レイジがそれを受け取った。

 

「マシなやつ探して畳んだの。お前が適当に干したり脱ぎ散らかした山から。ああそれと、そのイハイ────」

 

 レイジが洗面台の上を見ると、きれいに磨かれた位牌が朝日を受けて輝いていた。

 さっきまでの配慮はなんだったのか、背後でガラガラ音を立ててカナタが脱衣所の戸を開け放つ。腕組みする彼女の前でも、朝日の下でレイジの浅黒い尻がきらめいていた。

 

「誰かの思い出を床に置くな」

 

 少なくとも、寝ぼけた勢いで蹴り倒される心配はなくなった。しかし、歯磨き粉のチューブと並べるのが正しい作法だとは思えない。

 

「あの、その、何も思わないのか」

 

 だが、レイジは今、もっと別の大きな大きな問題について話し合う必要を感じていた。

 

「んだよ。ギャーって叫んでやろうか?」

 

 レイジの価値観では、尻が見えるのは辛うじてセーフだ。しかし、彼は洗面台の前に立ち、鏡越しにカナタと目を合わせながら話していることをすっかり忘れていた。こちらから見えるなら、向こうからも見えるはずだ。

 

「誰なんだ、その人」

 

 カナタの視線は、ちょうどレイジの下半身を隠す位置に置かれた位牌に止まる。

 

「両親と……姉さんかな」

「かな?」

 

 眉をひそめるカナタに、レイジはとっさにどう説明すればいいのか分からなかった。彼自身にも記憶がなかったのだ。

 

 彼はただ、黙って首を振るだけだった。

 

「ま……深入りはしねえよ。メシが冷める。ブラブラさせてねえで、さっさと入ってこいよ」

 

 

 

 

 

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