「迷惑?」
カナタが聞いてきたので、レイジは慌てて首を横に振った。
「そ。ならよし」
目の前に湯気を立てる味噌汁がある。彼が見たこともないほど粒の立ったご飯。灰色の部屋の中で、小鉢に入ったおひたしの緑が目に眩しいほど鮮やかだ。
「こんなもの……いつ買ってきた?」
メインディッシュの卵焼きが朝日を受けて黄金色に輝いていた。その更に向こう、卓袱台に頬杖ついてレイジの様子を見守るカナタは、心なしか落ち着かないように見える。
「あ? そんなモンいちいち買うかよ。作ったんだよ」
「誰が?」
「アタシだよ。アタシ以外誰もいねえだろ」
ペチャンコの座布団に座ったレイジがおずおずと手を伸ばすのを、カナタはじいっと見つめていた。味噌汁の椀に触れるときの彼の手つきのおぼつかなさといったら、まるで夢の中で物に触るようだった。
「じゃ、じゃあもらうぞ、カナ──」
「オイ待て、レイジ!」
ハシを握り締めたままレイジが固まる。いきなり制止されて困惑する彼の向かいで、カナタが手を合わせる。白い手のひらが何かの花の蕾のように見えた。
「アイサツは大事。アタシ、そう言った」
「それ……なんのおまじないだ?」
「は? イタダキマスだよ ……なんなの、オマエ。ジョーシキないわけ」
イタダキマス──呪文のような言葉がレイジの頭の中で正しく変換されるまで数秒のラグがあった。いただきます。頂きます。最後にいつ口にしたのかも思い出せない、朝の挨拶。
「ン。ほら、やれよ」
カナタに顎で促されて、レイジも古傷まみれの両手を合わせた。
──ふたりの「いただきます」がちぐはぐに響き渡った。
「このおひたし、どうやって作ったんだ?」
鰹節の乗ったほうれん草を不器用にハシで掻き込みながらレイジが聞いた。
「食いながらしゃべるんじゃねえよ──冷蔵庫に腐りかけたヤサイあったから。それを茹でたの。マズくてもアタシのせいじゃねえからな」
カナタが喋るなと言ったので、レイジは返事しなかった。
そうするとテレビのない部屋には沈黙だけが満ちていく。近くの国道をたまに通りかかる車の音をBGMに、レイジの握り箸が食器を鳴らす音だけが響く。
カナタは片肘をついたまま、くすんだ窓の外をじっと見ている。と、思えばレイジのほうをチラリと見て、彼と目が合いそうになると慌てて目を伏せる。
レイジの目に映るカナタは、やはり居心地が悪そうだった。
彼と二人っきりの状態が気まずいというより、誰かが自分の作った食事を口に運んでいるということに違和感を覚えているようだ。
「うまい」
カナタの肩がピクリと動いた。
「アタシ、黙って食えって……」
「アイサツは大事、だろ?」
意趣返ししようという意図はレイジに無かったが、思わずカナタが目をぱちくりした。
「おいしい食事を作ってくれたカナタに、それだけはすぐに伝えたかった」
「……ン。わかった」
冷めるぞ、と。彼女が手で卓袱台の上を示す。
その頬がほんのり赤いことに気づいて、今度はレイジの方が居づらくなってくる。怒らせてしまっただろうか。また、無意識に気持ちの悪いことを言ってしまっただろうが────
「ありがと」
彼がはっとして顔を上げた時、やっぱりカナタは頬杖ついてあらぬ方を見つめていた。手のひらで、さっきより深く口元を覆い隠すようにしている。
青い瞳の中を、水影のような戸惑いが揺らいでいるのが見えた。
「……やっぱやめ。食いカス散らさなきゃ、しゃべっていいぞ」
「うますぎるッッ!!!」
おしゃべり解禁と同時にガラス戸をビリビリ鳴らせるほどの大声がカナタの鼓膜をつんざいた。
「うるせえ! オマエな、つくづく思ってたけど、いきなり声がデケえんだよッ!」
ほとんど脊髄反射でカナタが叫び返す。
「なんだ……なんなんだこれは。魔法か? カナタは魔法が使えるのか」
レイジの箸の先で、突き刺された卵焼きが彼の派手なモーションに合わせて踊る。
「きのう魔法使いカナタ様って言っていたのは、冗談じゃなかったのか!?」
「だああ、思い出したら恥ずかしくなるようなコト言うな! ただテキトーにでっちあげた朝メシに、オオゲサなんだよ!」
「俺は、ずっと一人でメシを食ってきた。こういうのをどう言ったら良いか分からないが……とにかく、カナタの作る料理は最高だ!」
「だから声がでけえ!」
それからはあっという間だった。レイジの体の大きさを見越して多めに取り分けたおひたしと卵焼きが、あっという間に消えていく。いつものレイジならとっくに腹八分目だ。それが、今日に限っていくらでも食べられそうな気がしてくる。
まるで、七年溜め込んだ食欲が一気に解き放たれたようだった。
「オマエの食欲、甘く見てたか」
──と、苦笑しながらリビングを出て行ったカナタが盆を手に戻ってくる。名残惜しそうに空の皿を見つめていたレイジの前に、控えめに盛られたおひたしと卵焼きが差し出される。
「やる」
それは、カナタが自分のために取り分けておいたものだ。
「いいのか!?」
申し訳なさそうだが、レイジの視線はすでに皿の上に釘付けだ。
「ん。あと声がでかいぞ」
「すまん。だ、だが、カナタのぶんが……」
「オマエがあんまりガツガツ食うから、食欲うせちまった」
ウソだ。朝から片付けだの料理だのでカナタの腹もペコペコだ。笑えてくるほどすさまじいレイジの食いっぷりに、空腹なんてどうでも良くなってしまっていた。
「す、すまない」
「こんなことで謝ンなって」
カナタが頷くなり「待て」から解き放たれた犬のように彼は一心不乱に目の前の皿を平らげ始めた。必死に箸をかき込む彼を、彼女はずっと見つめていた。
「そっか。作ったメシをウマいって言ってもらえるのって、うれしいんだ……な」
さっきまでの緊張した様子は、もう無い。カナタ自身が気づいていないことだが、その頬がゆっくりと緩んでいった。
「ああ、最高だ!」
しっかり呟きを聞いていたレイジが、真顔のまま大声を張った。
「聞こえてたのかよ。あとやっぱり声デケえって」
「すまない! うまい!」
「謝んな。声でけえ。やっぱ黙ってろ」
■
「──
しっかり味わって食べよう。そう思っていたはずなのに最後の方は夢中になっていて、ほとんど覚えていない。空っぽの皿を前に、別れを惜しむような気持ちでレイジは手を合わせた。
「おう。食器はここにぶち込んどいていいぞ」
レイジが我を忘れて食に集中している間に、カナタは台所に立っていた。食器片手にそこに踏み込んだレイジは言葉を失う。
「どした?」
少し目を離した隙にキッチンは見違えるように変わっていた。黒カビの温床になっていた古いスポンジも、すっぱい臭いを立ち上らせる汚れた皿も、跡形も無く片付けられている。
「こ、ここに……汚れたものを置いていいのか?」
「あ? 何言ってんだ」
シンクが鏡のように磨き上げられていた。額の汗をぬぐって怪訝そうにするカナタの姿が、そこに映りこんでいる。
「この狭い部屋の中で流しって言ったら、ここしかないだろ」
震える手で皿を置くときのレイジは、ほとんど犯罪に手を染めるような気持ちだった。それを見てカナタは最後まで首をかしげていたが、彼が台所を跡にすると、すぐに背後から皿を洗う水音が聞こえ始めた。
夢を見ているような気持ちでレイジはベランダに出た。
久しぶりにちゃんとしたものを食べたせいか、体の調子までいいような気がする。
どこまでも澄んだ青空の広がりを見つめてぼんやりしていると、静かな足音が背後から近づいてきた。
「いい天気だ」
レイジの前に出て、カナタはベランダの床に腰を下ろした。
「お。空が広く見える。レイジも座ってみろよ」
白くほっそりとした手で、自分の隣を軽く叩く。レイジはしばらく立ち尽くして、カナタを見下ろすことしかできない。
「女の子と一緒に座るのが恥ずかしいのかぁ? お子様ァ~」
カナタは小首をかしげて、笑う。
いったいどれくらいの距離を開けて座ったら、彼女は許してくれるだろうか──と悩むレイジのシャツの裾をカナタが引っ張る。
「でも、俺は」
「ンだよ。早くしろったら」
そうして落ち着けた尻の位置はカナタのすぐ隣。
干したばかりの洗濯物が風にはためく。白いタオルの群れを追って左右に体を揺する彼女の肩が、たまにレイジの体に触れる。
「いやじゃないのか」
「ないぞ。キモいけどな」
湿った布地に、清々しい洗剤の香り。二つが混ざり合って、爽やかな風に乗る。
「セミ、鳴きはじめたなァ」
たった一羽のセミが、近くの雑木林で鳴き始めた。翻る洗濯物の間から差し込む日差しにじわりとにじむ暑さが、夏の訪れを予感させる。
「うれしかったよ」
「何が」
「メシ。うまいって言ってもらったの」
頭上を吹き抜ける風に、カナタは美しい白髪を抑えて呟く。
「悪くねえな。こういうの」
そこで気恥ずかしくなったようで、カナタの視線は再びタオルを追いかけ始めた。青い海の色を宿した瞳の中で、白い布の群れが揺れている。
白い肌の女が穏やかな顔で目を細めている。整った顔立ちもあいまって、まるで大理石の繊細な彫刻だ。すぐそばで彼女を見つめるレイジは、美術館の立ち入り禁止ラインの中に踏み込んでしまったような気持ちになる。
触れるだけで簡単に壊せてしまいそうなほど繊細で美しい首筋を見つめていると、ぐう、と彼の腹が鳴った。
「おいおい食ったばかりだぞ。ハラペコじゃん」
カナタが白い歯を見せて笑う。美術品が、一瞬にして年相応の少女に変わる。
「……思い出したから、かな。カナタの作った食事は──本当にうまかったんだ」
こそばゆそうに笑ったカナタが、自分の肩を軽くレイジにぶつけてきた。
「何が一番だった?」
「そうだな……」
立てた膝を指先で叩きながらレイジは考える。
カナタの料理はどれも絶品だった。
彼女は大したことないと言ったが、それは嘘だ。途方もない努力の跡が、あの朝食には隠れていた。物心ついたころから荒んだ食生活を続けてきたレイジでさえ、それくらい感じ取れる。
「俺は国語の成績があまりよくない。というか全部よくない」
自嘲なのかジョークなのか分からないが、カナタが見つめる先でレイジは軽く顔を背ける。
「だから、一番いい褒め言葉が”うまい”しかないんだが」
「ンだよ。もったいぶった言い方しやがってー」
カナタが半目でレイジを見つめた。
「────卵焼きだ。あれは奇跡だ」
「そ、そんなに言うほどかぁ!?」
「甘くて、しょっぱくて……すごく、よかった」
「オオゲサ」
軽く固めたゲンコツが、とことん優しくレイジの肩を打った。
「アタシまで恥ずかしくなるからさ。もちょい考えてくれよ、ヒョーゲンってやつ」
「そうは言っても、カナタの作る卵焼きが気に入った。大好きだ」
「そういうトコだぞ」
白い頬を僅かに染めて、カナタがそっぽを向いた。
「…………ふへへ。じゃあ、卵。切らさないようにしねえと」
それからしばらく、言葉の要らない時間があった。
風に抱かれて二人。
目を瞑り、穏やかで心地よい流れに身を任せていると、ゆったりと空をゆく雲の音が聞こえるような気がした。
レイジのもとに隣のカナタの香りが届く。
花のような潮のような、爽やかで甘い香りだった。
「なァ」
ありもしない過去の記憶の中から香ってくるような、その香りに心を囚われていたレイジは、急にカナタから呼びかけられて声を裏返してしまう。
「な──なんだ?」
泡を食ったレイジを見て、カナタがおかしそうに笑った。
「そんなに卵焼きが気に入ったなら、今度作り方教えてやるよ」
「でも、俺はあんまり、料理とかは……」
「卵割って焼くだけだぞ」
殺す。
壊す。
それがレイジの得意だ。彼にはそれしかないと言い換えてもいい。
いくらでも再生する肉体と激しい自傷癖。内に秘めた途方も無い『憤怒』をこの先カナタに隠し通すことができるのかどうか──考えると、彼の心に薄雲がさっと立ち込める。
そんな彼の心模様をよそに、空は抜けるほどの青空だった。まだ六月も半ばというのに、空気に混ざる焼けた草の香りに夏の気配が色濃く漂う。
「海に行ったら、何があるんだろうなあ」
カナタが立ち上がってベランダの柵にもたれる。レイジも自然と彼女に並び立った。顔の横ではためく白いタオルに触れてみる。濡れた布地がひやりとして、心地よかった。
「俺はこの目で海を見たことがない。でも、たぶん、砂浜とか、船とか──」
「そういう話じゃねえったら。海に行きたいっていう気持ち、記憶が無いアタシに、いっこだけ残った願いなんだ」
カナタの目が、一羽の白い鳥を追う。それはすぐに、大きな入道雲のシルエットに溶け込んでいった。
「イミシンだろ。だから何か、すごいことが起こるんじゃないかって思うんだ」
「だったら俺たちで確かめればいい」
二人の目の前にあるのは向かいの棟の灰色の壁、そして青い夏空と白い雲だけ。カナタの瞳はその、ずっとずっと先にある何かを見据えて期待と興奮に輝いている。
「ん」
カナタは小指を差し出して、レイジの目の前でくりくりと回して見せた。
「アタシを海につれてけ」
その向こうに、少し照れくさそうに微笑むカナタの顔がある。
「そのかわり、レイジに人間らしい暮らしをさせてやる。約束だ」
「ああ────」
レイジは自分の指を絡め、そして、すぐに離す。
「アタシらだけじゃない。みんなで。フミオのあほは間違いないとして……ルリコは乗り気じゃねえみたいだが、ウマいこと乗せてやろう」
「ああ。ボーイミーツガールってこういうことか……」
「あ?」
聞きなれない言葉にカナタは小首をかしげた。
「男と女がいれば、映画が始まるって。それは魔法で、奇跡だって。フミオが」
ややあってから、カナタはグーで強めにレイジの肩を小突いた。
「ンだそりゃ。あんま調子に乗んなよ」
「す、すまん」
「……でもまァ…………人生を映画にしちまうような出会いってのは、マジであんのかもな……」
照れを隠すようにカナタは空を見上げ続けた。落ちてきそうなほどの青い空の下で眩い彼女の白肌を見つめながら、レイジは知らず知らず、微笑んでいた。