1.ガラスの大砲(1)
乾いたアスファルトに斑模様がぽつぽつと現れ始めると、立ち上る土埃の香りに包まれ、町の空気は一瞬にして田舎道のような黄ばんだ風情をまとった。
六月二十日、気温二十二度。日中は快晴で、十九時ごろからは激しい雨が降り出す。
この町の天気予報は、まるで未来を予知するかのように驚くほど正確だ。
では、なぜ真っ暗なシャッター通りと化した夜の商店街を、ルリコは傘もささずにびしょ濡れで歩いているのか?
「犬のように濡れて帰りてえ時も、あるもんよね……」
八百屋のすぐ横の路地、積み重なった木箱の隙間から彼女をじっと見つめる野良犬に、そう呟く。犬はフイと顔を背けただけだった。
──今日遅くなっちゃったから、ママの機嫌悪くなるかな、とか。
──こんなに濡れて風邪引いたら、さすがに心配してくれるかな、とか。
「……なーに甘いこと考えてんでしょうね」
考えは尽きないが、酷使された脳は油の切れた機械のように、思考の歯車がうまく噛み合わない。
彼女にとって、今日の生徒会はタフだった。
本当に。
マジで。
うんざりするほどね。
■
「──んで、そいつら、どうしてグラウンドにガソリン撒いたわけ?」
「着火もしました」
「ああ、どおりで。朝来た時イイ匂いしたと思った」
ルリコの手から、二束のコピー用紙が長テーブルの上に放り出された。
どちらも「反省文」と題されている。
その文面と言ったらひどいものだ。一つは「ごめん」と「悪かった思います」を無限に羅列したもの。もう一つは字を覚えたての子供が書いたような、曲がりくねったウナギの行列だ。
下手人二人の誠意は、そこから一ミリも伝わってこない。
「あの2-Aのオスザルども、今回もナメ腐ってましたよ」
会計係は、前にあるキーボードを淡々と叩き続ける。薄暗い部屋で、ビン底メガネに液晶画面が強く反射し、その表情を窺い知ることができなかった。
「定期テスト対策でリンボーの練習だとか」
「ああ、そうね。毎年何人も赤点を取るわよね、ファイヤーダンスで……」
「なわけあるかい」──と、ツッコミたくなるのは、青筋立てた顔で相槌を打つルリコ自身だ。正直なところ、このまま書類をすべて薙ぎ倒し、テーブルの上でブレイクダンスでも始めたくなるほど心中は荒れていた。
が、生徒会長がさらに場を掻き乱すわけにはいかない。
ルリコはかわりに、水筒から注いだ白湯を一口すする。
まずい。浄水器でも腐っていたのか、錆の味が口いっぱいに広がる。この部屋には、どうしても飲み込めないものが多すぎる。
眉間に深い皺を寄せたまま、ルリコは静かに黙り込む。
「こっ……こないだはっ、フランベをやってみたかったって、言ってましたね」
必死にツッコミを押し殺すルリコに対し、そのプレッシャーを怒りと勘違いしたのか、一年生の書記が控えめな声で付け加えた。
「調理実習の予行演習かしら」
「そのまた前はアマチュア映画の爆発シーン撮るとか」
「マイムマイムもです。それとバーベキュー」
「男二人、具財も持たずに、バカ高いガソリン使ってバーベキューか。夏の思い出ねえ……」
「おい会長!」
ルリコが必死に怒りを抑えて脳の血管の耐久試験をしているところに、鋭い声が飛んできた。
「しっかりしてくれ。連中だけ特別扱いはできないって、アンタでも分かるだろ!」
副会長だ。
ルリコが叩きのめし、飼いならした生徒会のメンバーの中で、唯一彼女に逆らい続ける男。そんな根性もどこかで評価してはいるが──今日は、付き合ってやる余裕がなかった。
「なこと分かってるわよ、このマヌケ……」
ぼやきながらルリコは自分の頬に触れる。大丈夫、まだ引きつってはいない。なんとかカワイイが保てている。
深呼吸して顔を上げる。
キッと睨みつける小柄な生徒会長の姿が目に入った。戸惑いながら顔を見合わせ、控えめにルリコを見守る他の役員たちもいる。
『いつまでA組を野放しにするんだ』
全員声に出さずとも、思っていることは一緒だ。
学年集会で名前を呼ばれるのも、生活指導の教員に目をつけられるのも、いつもでAクラス。
「あいつら、面倒起こしたいだけなんだ」
どこかで誰かがポツリと漏らしたその一言を皮切りに、頷きや囁きが次々と同意を示し、部屋にゴソゴソという雑音が響き始めた。
「どうすんだ、会長さんよ。このままじゃ俺ら、忙殺されるぜ」
「と、とにかく!」
ルリコがテーブルをバンと叩いて立ち上がると、全員の視線が彼女に集まった。
「とにかく……犯人の二人は、放課後に全学年分のトイレ掃除を一ヶ月。プリントして掲示、よろしく」
彼女に舌打ちが浴びせかけられる。出所など見ずとも分かる。副会長の席だ。
「っ、甘ェ」
この決定が誰の納得も得られないことくらい、ルリコにも分かっている。現に彼女が一番イラついている。
「グラウンド燃やされてんだぞ。犯罪じゃねえか」
「今日、この後雨だってさ。相当強く降るらしいし、焦げた跡も流れて綺麗になるでしょ」
それはある意味、いつも通りの生徒会だ。いつもの劣等生たちが、いつも通り振りまいていく頭痛の種に、いつも通り頭を抱える。それを愚痴りながら、不平を言うメンバーたちの姿も変わらない。
「会長もA組だもんな」
ざわめきの中、ひと際大きく響いたその一言に、ルリコはゆっくりと顔を向ける。書記が顔を青ざめさせているのが見えた。
「そうよ。文句ある?」
ルリコはそれだけを残すと、窓の外を眺めた。大げさな安堵のため息を背中で聞きながら見つめる夕焼けは目にしみるほど眩しい。グラウンドに残る焦げ跡は校舎が落とした濃い影に溶け込み、輪郭すら曖昧になっていた。
手早く書類をまとめながら、今頃、職員室か警察で死ぬほど油を絞られているだろう二人組のことを思い馳せる。
(あのね、アンタら庇うのにも限界があるのよ)
行き場のない怒りをぶつけるとか、十七の夜だからとか、そんな理由じゃない。ボヤ騒ぎの主犯──レイジとフミオがムチャばかりするのは、もっとどうしようもない、浅はかな目的のためだ。
「マジ、どうしようもないわね。バカって……」
「えっ」
「なに?」
「いえ……」
ガリガリと音を立てて爪を噛むルリコの剣幕に圧されて、彼はすごすごと席に戻っていく。
バカはどうしようもない──レイジたちは、なるべく長い間ルリコが家に帰れなければ、その苦しみが和らぐと思っている。だから自分のたちの成績や内申とかを投げやってまでバカな脳みそで考えたバカなことばかりしている。
(……で。『私の家のこと知って気を遣ってくれるのね! ありがとう!』って? 私が一番どうしようもないバカでしょ。そんなの)
濡れて潰れた爪が痛む。不快だった。
「そ、そのう、会長……水泳部についての議題……というか、確認が、最後に……」
まるで敗北を認めた将軍が白旗を掲げるかのような顔で、副会長が一枚の藁半紙を振って見せた。
「あら」
そこで少しだけ、ルリコの顔に明るさが戻る。
「あら……あらあらあら! 水泳部のこと? ええ、いいわね。私もそろそろハッピーなニュースがほしかったのよ!」
何よ副会長ったら。気の利かないくせに、最後にいいニュースを持ってくるなんて──だが、ニコニコ笑顔を取り戻したルリコに書類を手渡す副会長は、今にもこの部屋から逃げ出しそうな様子で、イスから半分尻を浮かせていた。
「今年もスゴい一年が入ってきたって聞いてたわよ。ウチのハルマサも去年よりも記録が伸びるんじゃないかって、顧問も喜んでたんだから!」
ハルマサ――というのは2-Aの生徒だ。最近休みがちで、カナタがその机を使っている。カネの貸し借りばかりしているだらしない男だったが、とにかくよく笑う、明るい男だ。
「い、いや、でも……何事も、うまくいかないコトって、あるだろう……?」
「何言ってんのよ、副会長。もう生徒会の名前で合宿所の使用許可出してんだから。今からしっかり仕上げれば、七月の大会なんて—―——はあああッ!?」
ルリコの悲鳴と怒号のスペシャルミックスが響き渡った。彼女以外のほぼ全員が、直接鼓膜を殴りつけられたような顔でイスからズリ落ちる。
「す、水泳部……飲む打つ、オマケに買うまで、全部してるとの、タレ込みです……」
「ドコ情報」
打って変わって、ルリコの声は氷の冷たさを宿していた。だが、これは『溜め』だ。こういうときの生徒会長は、心の奥底で恐ろしいものを煮えたぎらせている。
「ねえ。アンタ」
「ひっ」
急にルリコ睨まれて、書記がしゃがれた悲鳴を上げた。
「誰がタレ込んだの。場合によっちゃリカバー効くかも」
「商店街のコンビニで……匿名なんですが、バッチリ写真付きで、あいつら部活のジャージで……」
「た、大会前にやってくれたわねえ!!」
書記が半泣きで言った言葉に、ルリコの怒声が重なった。イスを蹴倒して立ち上がった彼女が落ち着きなく室内を歩き回る。
「ハルマサ、あんにゃろう……ずっと休んでると思ったら、私から逃げ回ってやがったのね……教頭のあほんだらは?」
「いつも通り、我々にブン投げ決めこんだ形で……」
ルリコの舌打ちがムチ打ちのように空気をつんざいた。
「こんなことまで生徒会に丸投げしてんじゃねえわよ……!」
ただでさえ高い血圧を更に高めながら、ルリコは親指の爪を見る。嚙みすぎてギザギザの爪に血が滲んでピンク色に染まっている。
「策を考えましょ。大怪我は免れなくても、せめて致命傷は回避出来るような」
「もう脇腹に大穴開いてませんかね」
そこから二時間、さらに十分休憩を挟んで一時間。いくら話し合っても、最大のやらかしをかました水泳部をどうするか、結論は見えてこない。
「……で、水泳部の連中は。言い訳だけでも、部長にほざかせましょ」
いよいよもう学校には残れず、場所をファミレスにでも移してサタデーナイトフィーバーか、というタイミングで、ペンを噛みながらルリコが聞いた。
「だいたい一週間前から全員体調不良で実質休部です」
「そっ、そっち先に言ってよ!」
「なんでも、水に浸かってたら気分悪くなったとかで……」
結果、休部。
謹慎。
閉会。
■
「はー、ハンマー……」
疲れが全身にのしかかっていた。枝垂れ桜のように曲がった背で雨を受けながら、ルリコの体はフラフラ揺れる。
「ハンマー……そう、ハンマーを買うのよ私。ありえないくらいデカいやつ……」
不気味に呟くルリコに恐れをなして、塀の上の黒猫が逃げていく。
「あンの腐れ不良ども、復帰して学校に来たら、まとめて叩いて挽き肉にして、全校生徒の前でメンチカツにしてやる……」
「下向いて歩いてると、電柱に頭ブツけるぞ」
こんな時間に唯一開いている酒屋を過ぎたところで、ルリコは引き止められた。
「あー?」
足を止めたルリコが、ゾンビのような動きで振り返る。その額にひと房、濡れた前髪がべっちょり張り付いている。
「何。客引きってダメでしょ。法律で」
「フラフラしてっから、心配してやってんだよ」
見慣れない店員だった。店が投げかける明かりが逆光気味に差してるせいで顔がよく見えないが、夜雨の中で看板に寄りかかった彼女は、なぜか安っぽいメイド服を身に着けている。白いエプロンに”暮”の字がでかでかと印刷されていた。
「そんなんじゃ家に着く前にブッ倒れちまうよ。気付けに一杯、どう? ウチって未成年のアレソレとか、けっこうユルユルだぞ」
この店のことはルリコもいやというほど知っている。知り合いの実家だ。買った酒を店内で飲んでいけるイカれた仕組みのせいで、この時間は地域の酔っ払いが光に寄せられた蛾のように集ってくる。
「おことわりよ」
暗い通りに煌々と明かりを投げかける店内からは明るい笑い声が漏れ聞こえてくる。きっと、水泳部がコッソリ通っていたのも、こんな店なのだろう。何も知らぬ能天気な笑い声が、ルリコの心を逆撫でする。見ず知らずの店員の前で暴れて叫びだしたくなるのを、彼女はグっとこらえた。
「こっちは酒絡みのトラブル処理で飲んでもないのに二日酔いの気分なの」
「二日酔いには迎え酒って効くってテンチョーが言ってたぞ。アタシは試す気ない、けど……なッ……あ……」
「なによ人の顔見て黙り込むなんて。だいいち、学生捕まえて酒売ろうとす、す……!」
そこでルリコは初めて店員の顔を見た。向こうも暗闇に目が慣れたところらしい。
そして気づいてしまった。メイド服を着た白髪の店員──それは、カナタだった。
「アンタ……なんでこんな所……!」
「あーと、えーと。遅くまでお疲れ様~」
ルリコが呆気に取られているスキに、カナタはいそいそとカンバンを店内に引っ込め、シャッターを閉めはじめた。何もなかったことにしようとするつもりだ。
だが完全にシャッターが閉まる寸前に、わずかな隙間からルリコの手が差し込まれた。
「ルルルルリコ、危ない、危ないったら!」
「バイト! 禁止! 校則! 違反!」
シャッターがゆっくりと持ち上げられていく。広がった隙間から、髪を振り乱し、血走った目のルリコがぬうと顔を覗かせる。その様子に店内で固唾を呑んで見守っていた飲んだくれジェントルマンたちがキャアっと甲高い悲鳴を上げる。
「だああ、ルリコだって隠れてバイトやってんじゃん! ウワサ聞いたもん!」
「うるさいうるさい、私は生徒会長だからいいのよ!」
「そんなリクツが通るかってんだッ!」
「だいいち未成年が未成年に酒売りつけてんじゃないわよ!」
「ズルいぞルリコ! そうやって自分の問題流そうとするのよくねーって!」
必死に踏ん張るカナタの努力むなしく、ゴギギとすさまじい音を立ててシャッターが押し上げられていく。吹けば飛びそうなほどのルリコの細身からは想像できないパワーだ。
「いやホントそんな気はなかった! 間違った、アタシが悪うございました。ルリコとは思わなかったんだって!」
「どいつもこいつもおおおッ!! 西高は不良しかいねえのかよおおおォォォッ!!!」
■
第二章・1999からのラブレター