「電話にカメラ付けただけかよ……」
気が抜けた顔でカナタがカウンターにへばりついている。ルリコのケータイをつまんで見つめる彼女の口は半開きだ。
「しょうじきガッカリだぞ。未来のケータイってさ、もっと薄くなったり、ボタンが無くなったり、空中に画面が飛び出してくるとか、そーいうヤツじゃねえのかよ」
「アンタねえ。ケータイはもういいから、ちょっとくらい悲壮感とか出さないの?」
「だってアタシ、ショック受けられるほど前の時代の記憶ねえし。八年経ってケータイがショボい方が落ち込むっつの」
「昔ながらのスタイルを大事にするのもいいことだぞう」
今は亡きポケベルを想って涙を滲ませるようなオトナはそれでいいのかもしれないが、ナウなヤングにとっては拍子抜けもいいところだ。はあ、とカナタがため息つくと、磨き上げられたカウンターが小さく曇った。
「アタシはもうちょっと未来感じたかったー」
「それはそうと、このオッサンのせいで余計に話がこんがらがったわね」
「お、俺サマのせいかよォ!?」
今や全員が店内に入ってカウンターを囲んでいた。フミオですらバイクいじりを中断して、過去からやってきた少女のことをしげしげと眺めている。
「なんか悪ィな。世間知らずとか言っちまって」
そんなフミオの言葉に、別にいいよ、と言いたげに突っ伏したままカナタがブラリと手を振ってよこす。その頭越しに見える壁のカレンダーを、レイジは改めて見つめた。2007年。
「カナタの作る卵焼きは、うまい」
おかしな語り出しをするレイジに、そこにいた全員の視線が集まった、
「ぜひみんなにも食べてほしい──というのはいったん置いておくとして、カナタは料理の仕方を覚えている。カネの使い方、洗濯物の干し方、シャツの畳み方。ここが日本で、誰が初めての総理大臣なのかも」
「ノブナガ!」
なんとなく褒められたような気がして、機嫌を取り戻したカナタが勢いよく手を挙げた。
「そうね。おまけにカナタはド級の天才よ」
「諦めんじゃねえよルリコ。カナタもそれ、間違ってるからな」
「生活するのには困らないけど、自分がどんな人間か忘れてる。自伝的記憶障害──ってやつだけど。この子がズレた感じはそれが原因じゃない」
「気がついたら八年分の時間をカッ飛んでこの町に来てた……ってことかよ。すげえな、カナタちゃん。ストリップバーじゃねえか」
パァン、と快音が響いた。ルリコが無造作にブンタの頭を引っぱたいた音だ。
「タイムスリップでしょ。わざと間違ってんじゃないわよエロオヤジ。まァ、記憶ウンヌンは抜きにして、この子の読み書き算数は、学校行ってないレベルでひどいけどね」
「うるへえなあ」
ほっぺを膨らませ、子供のようにむくれているカナタは見た目も自己申告も十七歳だ。だが彼女が失った八年間を加味すれば実質二十代半ば、ということになる。
「こんなんで私たちよりずっと年上なのねえ、一応」
「いちおーって何だよ。おら年長者だぞ大人だぞ、うやまえ」
「ちゃんとした大人の女……っていうと。どういう感じなんだろうな」
レイジにしてみれば、何気ない疑問を浮かべただけのつもりだった。
「ぐ」
それがカナタにクリティカルヒットした。彼女がカウンターの内側を思い切り蹴りつけた音が響く。
「ンだよお! アタシがちゃんとしてねえってのか、オマエのパンツ洗ってるのは一体誰だと思って」
「い、いや。今のはそういう意味ではなく……!」
ウロコ女と筋肉男が仲良くやっているのをBGMに、他の三人が腕組みする。全員、とある共通の知人を思い浮かべていた。
「いるわよね……オトナの女。一人。身近に」
「……いやいやいや!」
間髪いれずにフミオが顔の前で激しく手を振ってルリコの言葉を否定する。
「あれはちゃんとしてねえだろ!」
「あれじゃない。フミオ、年上で、私たちお世話になってるのよ」
「俺らがお世話してるの間違いだろうが。こないだもクラス前の廊下で吐きやがって──」
「あ……あー、なるほど、俺サマもピンと来ちゃった」
どうやらブンタまで心当たりがあるらしい。
耳を引き千切ろうとしてくるカナタと、必死の抵抗を試みていたレイジだったが、つかの間手を休めて顔を見合わせた。察しが悪いのは彼らだけのようだ。
「誰なんだ」「誰だよ」
「何を隠そう、俺サマ去年の忘年会でひでー目に遭わせられて……」
「ちょ、アンタ、あんなんと付き合いあるワケ?」
「お前もあれって言ってんじゃん」
「ま、仕事な、仕事の付き合い。思い出したらムカムカしてきた。吐き気の方で」
「なァ。何度アタシを仲間外れにすりゃ気が済むんだ? アレって一体ダレ──」
「きょくちょーう、奥、あいてます? あいてますよね。おじゃましまーす」
とうとうカナタが三人の間に割って入ったのと同時に、聞き慣れた気怠い声が投げかけられた。カウンターからは酒棚の陰になってよく見えないが、パンプスのヒールがコンクリートの床と奏でるウキウキの足音だけは聞こえてくる。
足音が近づくにつれ、異臭が漂う。まるで醸造所の内部のようなにおいだ。
「例の水泳部のポカ、やっと片付いたよ。まぁ同情はするけどね。大会目の前にして、奴らも災難だったろうに」
「おお、らっしゃい! ダメ教師!」
さすがに生徒一同の前で聞くに堪えないボヤきと思ったのか、半ばでブンタが遮った。
「アレだよ」
そして、カナタに向かってあごをしゃくる。
「ああ……アレね。ナルホド」
「もうマジで教師なんてクソ仕事、酒ねーとやってらんねーわ。ホイ、ホップ、ステップ、うげっ」
やがて、棚の向こう側から大きな猫背のシルエットが飛び出した。嗅いでいるだけで胃袋を打ちのめされそうになるアルコール臭を纏った来店者の正体は言うまでもない。
「おやおやこれは、皆さんお揃いで──」
まるでオモチャ屋にやってきた子供のように顔を輝かせてやってきたのは西高2-Aの担任教師、樋口キリエ。カウンターに集う教え子たちの姿を見るなり、彼女の顔は不快げに引きつった。
「うげって言ったぞ、俺らの担任。生徒見てうげって」
「だって、オフの日に見たいツラじゃないでしょ。お互い」
一転して仏頂面になったキリエが、レイジの隣にドッカと腰を下ろす。
「メイドさーん。今日もエエ乳してますなあ」
「ハイハイ。ジョッキ、冷えてるよ」
もはやキリエが来たら『これ』と決まっているようだ。カウンターの下から霜が降りた大きなジョッキが取り出される。カナタがそこに豪快に氷を突っ込み、これまた豪快に酒を注いでいく。その色は透明だ。
「ビールじゃねえんだぞ……」
ウォッカだった。
呆れを通り越して心配した目で見てくるフミオなど眼中にないキリエは、満ち足りた顔でジョッキの中の水かさが増えていくのを見守っている。
「キリエ先生は、よく来るのか?」
レイジがカナタに耳打ちする。
「オトクイサマだよ。ほぼ毎日だ」
二本目の瓶をひっくり返しながらカナタが頷く。
「ついでついで。アホのカナタさんに高校数学仕込むついでですよ」
「こないだ酔っ払ってアタシの顔にコーシキ書いたの忘れてないからな!」
「だって白いんだもん。なにそれ。ホワイトボードと間違っちゃった。私、いっつも会議でペン持たせてもらえないから。溜まってて」
ンフフと笑って酒で唇を湿らすなり、彼女の体はメトロノームのように左右に揺れ始めた。
「おらよ不良教師、これで間違いねえな」
そこに、ブンタが台車を押してやってきた。
その上にズラリと並んだ洋酒のビン──というと、字面はいいが実際はテキーラやウイスキーなど、とにかく度数が高い酒の混成軍だ。
既にデロデロに酔い始めたキリエが酒たちに注ぐ視線は慈愛に満ちている。自分が受け持つ劣等児に向ける軽蔑と無関心に満ちたものとは大違いだ。
「ありがとぉ~、組長~。ハグしたげよっか?」
キリエが諸手を広げた瞬間、いつも笑みを絶やさないブンタの顔にサッと青みが差したのが見て取れた。
「オエっ。勘弁してくれ。だれが組長だ。局長だの社長だのと、次から次へとヘンな呼び方しやがって」
「つれねェな。明日も来っから。ちゃんと用意しとけよなー」
「明日も?」
聞き流すにはあまりにメチャクチャなことが聞こえた気がして、レイジが聞いた。
「言ったろ、オトクイサマだって。センセー、この量を毎日買ってく」
「えへへうへへ」
キリエが九官鳥のような甲高い声で笑った。何をどう勘違いしたのか、おそらく自分が褒められていると受け取ったらしい。
メイド店員の手元からウォッカの瓶をぶんどって、ニヤニヤしながら一気にあおる。六十度の酒を一瞬にして地球上から消滅させる最悪のマジックを披露した彼女は、賞賛を求めるように一同を見回した。
当然、拍手などない。
「キリちゃん、あんた病んでんのか」
「大事なことを教えてあげましょう」
カナタを見つめ返すキリエの目は焦点が合ってない。
「ンだよ」
「壊れてないオトナなんていないんです……へへ……ふへへ……えひゃひゃ……ッだァ!?」
上機嫌に左右に振れていたキリエが大きく体を揺らした。バランスが崩れる。彼女はガシャンと音を立ててスツールごとひっくり返った。
ゴガッ
ビールケースに直撃した彼女の首が、一瞬直角に折れ曲がる。彼女の巨体がコンクリート打ちっぱなしの床で軽く跳ね、そして二度と動かない。
「うわ……」
ルリコの声が静まり返った店内にむなしく響いた。
床に転がったでくのぼうの表情は、不衛生なモジャ髪に覆われてまったく見えない。その隙間から、ジワ……と血だまりがコンクリートの上に広がっていく。
「お、おい、先生……」
恐る恐る近づいたフミオがその体を揺する。反応がない。今もなお固く握り締められたままのジョッキの中で、残った酒が水音を立てる。
「やべえ。めっちゃ死んでる!」
フミオは顔面蒼白だ。
「きゅ、救急車……おじさん、救急車!!」
流石のルリコも冷や汗ダラダラだ。キリエは、干からびたカエルのような格好で床に広がったままピクリともしない。
「ほっとけほっとけ。そのスクラップ女。殺す方が難しいんだ」
しかし、ブンタと──カウンターから動かない二人の反応は冷淡そのものだった。
「へっ……へへへ……へっへっへっ…………」
転がったままの死体が体を揺らして笑い始めた。
「キリエ先生……ホント、いい大人なんですから……」
あのレイジが、珍しく額を覆って呆れている。
「えへへへ……ひゃっひゃっひゃッ!!! ひ~っかかってやんのォ~、ブワァ~ッカ!! ドッキリ大成功ォーッ!」
ポカンと口を開いて固まったままのフミオの前でキリエが飛び上がった。
「は?」
ドッキリ。ドッキリ大成功──ということは、つまり──
「はああ!?」
担がれた。だまされた。その意味が頭の中で繋がった瞬間、ルリコの頭の中で何かがブチ切れた。ちょうど消防に繋がった壁掛けの受話器を叩き付けるように戻すと、手を叩いて笑うキリエに向かって突進していく。
「あ、あああ、アンタねえっ、ドッキリったってやっていいのと悪いのがあるでしょ!」
「オヤオヤ。鬼の生徒会長ともあろうものが、アル中のイタズラに引っかかったんでちゅかぁ~?」
ルリコが襟首を掴んで揺さぶると、それに合わせてキリエの頭がガックンガックン前後する。この瞬間も流れ出た血が滝のように女教師の顔を伝っている。元から顔色が悪いので失血だか二日酔いだか分からない。少なくとも命に別状なさそうだ。
「あんな流血してたらドッキリもクソもないだろ」
ルリコの代わりにツッコミを入れる息子を、ブンタがそっと手で制した。
「刺激すんなって。こっち来たら面倒だぞ」
「おやっさん。ししょ……キリエ先生とはどういう関係で?」
少しためらったように、レイジが聞いた。カウンターにもたれて女子プロレスを観戦していたブンタが、ハゲた頭をゆっくり掻いた。
「そうだなァ。腐れ縁ってヤツかね。前の職場っつーか、なんつーか」
彼はそう言ってキリエを見つめる。
その目はやはり遠いところに向けられていた。ポケベルやガソリン車なんかよりもずっと古く、ずっと暑かった時代を偲ぶようにして、彼は空いたウォッカのボトルを逆さにした。
「オッサンの昔のことは、俺もよう知らん」
カナタに目を向けられて、フミオは静かに首を振った。
「息子に昔話とか、照れ臭ぇんだよ……とにかく、キリエは昔の方がずっと
「あれ……より!?」
それまで聞きに徹していたカナタが声を裏返した。それを聞いてクツクツ笑ったブンタは、ようやくビンを伝って落ちてきた一滴の酒を舌でキャッチする。
「そだよ。ガワだけじゃねえ。中身も一級品だった。まァ今はあちこち錆付いて……」
「おい、ハゲ」
口の中でウォッカを転がすブンタを見つめていたレイジは、不意に首筋にヒヤリとしたものを感じた。
「お前のこと、まだ許してねえからな」
ルリコに組み付かれたまま、直立不動でキリエがブンタを見据えていた。
――許すって、何をですか?
そんな小さな問いを挟むことすら許されないほど張り詰めたものが二人のオトナの間にあった。レイジが振り返るとポカンとした顔のフミオの隣で、カナタが無言で頷いてくる。上腕を覆うウロコが逆立っている。彼女も感じていたのだろう。さっき体の中を通過していったものを。
「筋違いもイイトコだなあ。先公くずれがよ」
あれは間違いなく殺気だった。今や全身にそれを打ち付けられているブンタはというと、眩しそうに目を細めて笑っているだけだ。
「……あんま私に意地悪すると、もう助けてやんねーぞ」
「この先どこで、お前さんの手が必要になるってんだ? 寝てろ。あと俺サマはボウズだ。後ろのほうにちょっと生えてるのを泣きながら剃ってる。だからハゲじゃねえ」
「あっそ。早くハゲ上がって死ね」
それまでの熱が冷めたように、キリエがルリコの手を振り払った。
「あっ、ちょっと!」
生徒の静止もむなしく、その巨体が音を立てて倒れた。店全体が大きく揺れて、陳列されたビンの肌が擦れてビリビリと残響を奏でる。
「……店員さん。これ、どうするの?」
再度地面に転がったブツを指差してルリコが顔をしかめた。
彼女たちの教師は今度こそ動かなくなった。死んではいない。だらしなく開いた口から、時々ンガ、とかンゴ、という不健康ないびきが聞こえる。
「テンチョー、いくらセンセーでも、ここで寝かしとくのは商売のジャマだろ?」
「はしっこ寄せとこうや」
「じゃ、いっせーのでいくか。ルリコ、手、かして」
「なんで私がこんなクサいの触らなきゃ──」
「こんちわーっス」
そのとき投げかけられた、妙に間延びした声。
「お。らっしゃい!」
ハンパに持ち上げたキリエを投げ出して、カナタが入り口に駆けていく。
固い床の上に転がったキリエが目をゆっくり開けると、彼女の頭を受け止めたルリコと目が合った。狸寝入り決め込んでいたキリエに、彼女は何も言ってこない。ただ何かに耐えるかのように下唇をぎゅっと噛みしめていた。
「おや。気合の入ったコスプレっスね」
出迎えたカナタの前には西高のセーラーを着た生徒が立っていた。
小麦色に焼けた肌の、目の大きな生徒だった。
「ウチのおねえ、ここいるって聞いて来たンすけど?」
まるで猫を思わせるような顔つきの彼女は、口の両端を大きく吊り上げて笑う。銀のピアスにズタズタに切り刻まれた耳の形に、カナタはなぜか、見覚えがある。