「オハヨ」
朝起きて居間に下りてきたフミオが適当な挨拶をすると、ブンタは甲高い屁で答える。フミオの眉間に深いしわが寄った。
「ゲヘヘ。おはよさん」
「……いい年こいてよお……」
フミオが寝起きで重い頭を揺らしながら顔を洗いに行く間、彼の父親はずっと下品な笑い声を彼の背中に浴びせかけてきていた。
「おら。最初の一枚はオッサンにやるよ」
「ン」
暮酒店の朝はトーストと決まっている。
というか、単純に二人は料理に趣向を凝らさない。学校帰りにフミオが適当にスーパーで見繕ってきた野菜や練り物をブンタがその日の気分で味付けしたものを、パンに挟んで食べる。
「マヨネーズいる?」
「おう。もらうわ」
お互いがテーブルに着くまでは手をつけない。それが、二人の間に存在する唯一のルールだった。
「クソ平和な町だよなぁ」
分厚い二十五インチのブラウン管に写る映像を眺めながら、フミオがコーヒーをすすった。今日も変わらず、天気や地元の特色についての話題ばかりだ。
「平和の何がいけねえんでい。ラブ・アンド・ピースだろうが」
「そりゃ構わないけど。海外のカネ持ちが不倫しただの、どっかで誰かが殺しただの殺されただのってニュース全然見なくなったろ」
血なまぐさいニュースに飢えているわけではない。ブンタの言うように、ラブ・アンド・ピースが末永く続いてくれるなら大歓迎だ。
だが、ブルーシートに覆われた七区の実態。そして、レイジとカナタの話に登場した黒い怪物と機械兵の暗躍を総合して考えると、目の前に広がる平和が、薄気味悪いまやかしに思えて仕方なかった。
「朝から難しい顔しやがって。どしたんだ」
「そうだな……七区のことはニュースにならねんだな。って」
「七区……? ああ、ずっと工事してるよなあ。何があったんだか」
フミオは上目遣いにブンタの様子を伺った。彼はパンの端からハミ出るほど山盛りにしたマヨネーズサンドに挑戦中だ。
「オッサンはさ」
「おう──やっぱ体に悪いんだろうな、これ」
「この町の平和が作りモンって言われたら、どう思う?」
「『じゃあこの調子で続けてくれや』って笑うね」
ブンタはいつも通りのペースでトーストをかじる。一方、ニュース番組もまた変わらず、次に放送されるのはフミオが予測していた通り、町内にあるフラワーガーデンの特集だ。ゆるい造形をした市のマスコットがハイテンションで手をバタバタ振る隣で、女子アナはどこか引き気味に対応している。
フミオは何度も同じ映像を目にしてきた気がした。
それが、退屈な日常でタルみきった脳が生み出すデジャヴュなのか、あるいは、ふとした気まぐれで唱えた陰謀論の裏付けなのか、彼には判断がつかなかった。
「お前さんはイヤかね」
「あ?」
半開きの口にトーストを突っ込んだままボンヤリしていたフミオは、ブンタの言葉で我に返った。
「お仕着せの日常ってヤツもいいんじゃないか。こうしてメシ食えて、住む家があって、ステキな父親もいる。何が問題だ」
「…………自分のことは自分で決めたい。どんな世界で、どんな風に生きるのかは。誰かにハイドウゾ、と押し付けられた場所でぬくぬくしてるなんて、ダサいじゃねーか」
「案外タイヘンなもんだぜ。大事なことを自分で選んで動くってのも」
「俺はもうオトナだ。甘く見んなよ、オッサン」
「はは──ガキがよ」
熱々のコーヒーでマヨネーズトーストを一気に流し込んで、ブンタはやれやれといった様子で苦笑した。フミオはムっとしたが、自分は落ち着きのあるオトナなのだと思い直して、沈黙しておくことにした。
決して、言い返すすべを持たなかったわけではない。
■
「じゃ、ガッコ行くわ」
「ン」
暮酒店のロゴが入ったガラス戸をピシャリと閉めて、フミオは朝日の下で伸びをする。爽やかな日だった。夜半の雨で洗われた空気は澄み渡っている。
振り返ると、ガラス戸越しに居間が見える。そこでは相変わらず、ブンタがこちらにケツを向けて寝ているところだ。
しばらくそれを見つめていたフミオが、店の中に向けて頭を下げる。適当な「オハヨ」とは比べ物にならないほど、深々と。時間にして十秒はそうしていた。
「行ってきます────父さん」
改めて告げて、フミオは顔を上げる。
何も変わらない朝が、今日も続いている。
相変わらずそこには洗いざらしのランニングを着た父親の背中があるだけだ。
この、毎朝の”儀式”を無事にやり遂げるたびにフミオはホッとするが、胸に小さなトゲが刺さったような気分にもなる。
十七歳。学生で夏でバカ。同時に複雑な時期だ。もし、ふと振り返ったブンタが、頭を下げる自分の姿を目撃したら、一体どうなるだろうか、とふと考えることもある。
──だが、特に、頭を深くひねることはしない。父との関係は今のままが一番居心地がいいから、変化はいらない。
片手でヘルメットをくるくると回しながら裏手の駐車場に向かうと、そこにはカーキ色の塗装が所々欠け始めた、旧式のミリタリーバイクが待っていた。
今日はハズレの日だった。昨日は、日が暮れるまで丁寧に機嫌を取ったのに、エンジンはウンともスンとも言わない。
「おいクソ、俺を遅刻させる気かよ!」
昔はバッテリーフル充電で三日走れたが、今では毎晩ケーブルを繋いでおかないとダメだ。それでもフミオはこのバイクを見捨てることができない。バッテリーを小突く手つきには、優しさすら見て取れる。
アルミと鉄の固まりでしかないバイクを叩いて小突いて、ほめてそやして――ったく、仕方ねえなあ――と言う様にようやくモニターに光が灯ると、ひとまずフミオは胸をなでおろす。
ようやくやる気を出した愛機に跨った彼がまず向かうのは、学校とは正反対だ。
先に、拾っていく相手がいる。
遠く中心街のビル群が霞む中、郊外へと続く並木道を走ると、朝の空を映してきらめく水田の只中に、死人の肌を思わせる灰色の建物がひっそりと建っていた。それは、レイジの住むマンションであった。
「よ」
灰色の建物に、灰色の駐車場。ところどころ欠けて砕けた植え込みのブロックに腰掛けたカナタは、遠巻きに大きな白い花に見えた。
「オス。わり、遅れた」
カナタがいると、こんな廃墟でもちょっとはマシに見えるんだなあと、寝起きの頭でフミオは思うのだった。
「ン。どした。アタシの顔ジロジロ見やがって」
「なんでもねえ」
カナタは褒めると天井知らずに調子に乗るタイプなので、直接口には出さない。
「あのゴリラはどうしたのよ」
「シャワー。あいつ汗くせーから、毎朝浴びるようにさせた」
「ハハ。そりゃいい。どんどんやらせろ。で、イイ匂いのゴリラ作ろうぜ」
「それはそれでキモいだろ」
呆れ笑いを浮かべた唇の端っこに、いつものクセでタバコを咥えようとしたフミオは、すぐ傍にカナタがいることを思い出して、やめた。
代わりに、近くに置いてあるいくつもの包みを指差す。
「ところで、コレ積めばいいんだっけ?」
「ん」
ズッシリ重たい弁当を受け取って、フミオはバイクのリアボックスに積み込んでいく。
カナタはそれを、じいっと見ていた。
「ンだよ……カナタ、やっぱバイクに興味あんの?」
「アタシもカッコイイの好きだもん。乗り方教えろよ。乗れたら、好きなときに海行けるようになるし」
「ハ。そのうちな」
積み込みが終わって、フミオはバイクにもたれてレイジを待つ。
「あー……ずっと気になってたんだけどさ」
しばらくして、やっぱタバコ吸っちゃおうかなー、とフミオが考え始めたあたりで、少しだけ言い辛そうな様子でカナタが口を開いた。
「あの気持ち悪いの、なんだか分かる?」
カナタの視線を、フミオが目で追う。その行き先は、なんとなく分かっていた。
鉄骨だ。
地面に突き立てられた一本の鉄骨。分厚い赤錆に覆われた鉄の塊は、巨大な生物の死骸か立ち枯れのように、朝のすがすがしい空気に異彩を添えている。その足元は赤茶けた色に地面が変色していた。原因は言うまでもない。
「…………アイツ、まだ話してねえの?」
「アイツってレイジのこと? なんか関係あるワケ?」
「どうだろ」
フミオは目を細めた。
レイジは、一種の精神疾患だ。彼が憤怒と呼ぶ物騒な衝動は、本人ですらコントロールできない。その発散の矛先である鉄骨。それを使う姿をカナタが見ていないと言うのなら、レイジなりに、気を使っているつもりなのだろう。
「あの野郎が女に嫌われたくなくてカッコつけてるとか……? はは、ナイナイ……」
「なんだなんだ。とにかく、アレが何なのかアタシにも教えろ」
「直接聞いてみろ。カナタが聞いたら、イヤなことでもあいつは答えるだろ」
「そういう風に言われちゃったら聞きにくいだろ」
「俺はあいつの親友……というほどでもねえが。あいつが言いたがらないなら、ダチの俺からバラすわけにゃいかねえだろ」
「言えったら」
「言わなーい」
まだ何かいいたそうなカナタの肩越しに、アパートの入り口にレイジが降りてくるのが見えた。冬眠から覚めた熊のようにのっそりと巨体を現して、彼はフミオに軽く手を上げた。
「その…………おはよう、フミオ。いい朝だな」
「あ?」
いつも「よ」とか「ああ」とか言うだけのレイジが妙にちゃんとした挨拶をしてきたもので、フミオは巨大な違和感の源を訪ねるように隣のカナタを見下ろす。
「アイサツって大事だろ?」
カナタが得意げに胸を張る。
「ああ、早くもカナタのケツに敷かれてるってワケ……」
「ものの道理を教わっているだけだ」
「だよな! 分かってるなあ、レイジ!」
「ウン」
「短い間にズイブン調教されちまって……」
風呂上りの短髪を風にそよがせて、レイジはストレッチを開始した。彼が軽く肩をほぐすだけで、太いワイヤーのような筋肉の束が傷だらけの上腕にクッキリと浮かび上がる。
「なあレイジ、競争しようぜ! フミオのバイクと!」
いつの間にかバイクに乗り込んだカナタが、ヘルメットを被って拳を振り上げた。
「ああ。別にかまわない」
「こいつマジでクルマに食らい付いてくるからな。今日は飛ばすぞ」
フミオが祈りながらスタートスイッチを押す。すると、さっきの不調がなんだったのかと思わせるほど素直にバイクが反応した。ルルルと独特な音を響かせて、モーターが始動する。
「じゃ、せいぜい頑張れ、マッチョマン」
「わかった。カナタを頼む」
「はいよ。お姫さまも。振り落とされんなよ」
「誰がオヒメサマだ」
ヘルメット越しに頭突きをしてくるカナタを無視して、フミオはスロットルを全開にした。
「うひゃ」
年代モノのバイクとは思えないほどの加速に驚いたカナタの声を置き去りにして、四方をコンクリートに囲まれた空間から彼のバイクは勢いよく飛び出す。とたんに、初夏の蒸し暑さが一気に押し寄せてきた。
「このポンコツ、かっこいいだろ」
モーターで走るバイクと、騒々しさは無縁のものだ。風の音も、フミオの声もよく聞こえる。ボディを軽く指ではじいて、彼はどこか得意げだ。
「古い電動バイクだが、まだまだ走る。たまに町外れに引っ張り出して、田んぼの中の道をカっ飛ばすのが好きでさ」
珍しく熱の篭った口調のフミオは、楽しそうにカナタの目に映る。
「クソ田舎のひでえ道で、風景なんかもゼンゼン変化がないんだけど……夏に
「気持ちよさそうだ」
「おう。途中で止まったりしない日はな!」
二人でひとしきり笑ってからフミオはポツリと言った。
「オッサンの宝物をもらったんだ」
彼の口調と同じくらい、穏やかなスピードでバイクが並木道を走っていく。ゆるいカーブを曲がっていくと、フミオとバイクと慣性の重みを、胴に回した手に感じる。
嫌いな重みではない、と、カナタは思った。
「もっと荒っぽい仕事をしてるときに、何度も何度も命を救われたんだと。あんないい加減なヤツだし、ただのフカシかも知れねえけどな」
口でそう言いながら、フミオの目は優しげだ。
「でも、そんなこと言われちゃ大事にするしかねえだろ?」
「なんだかんだで好きなんだな、テンチョーのこと」
それからフミオはしばらく静かになった。
「ハズいからやめろ!」
「へへ」
こころなしかスピードが増したバイクの後ろから、カナタは流れ行く水田の列と、遠ざかる灰色のマンションを眺めた。ヒョコヒョコ走ってくるのはレイジだろう。遠くから見ているせいであまり違和感を感じないが、実際はかなりのスピードでこちらへ向かっている。
「うお。フミオ、早くしないとレイジに追いつかれちまう!」
カナタの焦りに反して、バイクはどんどん減速して、やがて止まってしまう。空の青に雲の白。水田の照り映えの中に広がる淡い色彩の中で、彼らの頭上では毒々しいまでの赤色が輝いていた。
「ああ……でも赤信号だし……」
「こんな田んぼのド真ん中で、他にクルマなんて来ねえって」
実際カナタの言う通りで、フミオだって遵法意識がそこまであるワケではない。しかし彼はヘルメットの後頭をポコポコ殴られながら、ガラ空きの交差点から動こうとしなかった。
彼は水田の中の一点をじっと見つめていた。
この交差点から百メートルほど離れた場所に、地元で有名な幽霊屋敷がある。もともとは純白だった外壁にビッシリとツタをはばらせた和洋折衷の建築物が、何かのイタズラで田んぼの中に置かれたように、唐突にそこに現れる。
汚れて曇った窓に囲まれ、中の様子は知れない。
フミオはこの建物が気になっていた。正確には二階。この幽霊屋敷で唯一開いている窓の奥で揺れている白いものに。
「おお。今日もいるぜ……」
白い服を着た黒髪の乙女がそこに立って、彼に手を振っている。
「でへへ」
だらしなく鼻の下を伸ばしたフミオが、勢いよく両腕を振ってそれに応じた。
近くで見たことなんて一度もないから目鼻立ちはよく分からないが、間違いない。美人だ。そして信じられないほどの悲劇を背負った令嬢でもある。彼の股下で不機嫌にうなるモーターよりも鋭く回転する思春期の脳みそが、一瞬にして彼女との間に繰り広げられるほろ苦いラブストーリーを出力していく。
「やべえ……俺、責任とれっかな……まだ学生だし……」
「いきなりデレデレしやがって。どうしたんだよ」
そんなフミオを気味悪そうに見ながら、カナタが聞いた。
「アレだよ、あの子。お前も見ておけ。あれがお嬢様ってやつだぜ」
うさんくさそうな顔をしたカナタが、フミオの指差す先を追って目をすがめる。だが、彼女の目に映るのはボンヤリした白い像でしかない。
「見えねえよ……遠すぎだろ……」
「カナタを送ってくようになってから気づいたんだけどさ、あの子、いっつも手振ってくれんだよ。いいバイクに乗ってると、目立つんだろうなァ」
「誰にでも手を振る頭のおかしいやつだろ」
「なにい!? あの子の悪口は許さんぞ。降りろ降りろ!」
「やめろー!」
フミオが体をゆするが、カナタはセミのように背中に張り付いて離れない。
ふたりでじゃれあっているうちに、サイドミラーに映るレイジの姿は大分大きくなっていた。軽く勾配のある坂をものともせず、アスファルトの上にわだかまる陽炎を蹴散らしながら、彼らのほうに猛然と走ってくる。
「うあ! きたきた!」
鬼ごっこの鬼に見つかった子供のような黄色い声で、カナタが叫ぶ。
「俺に任せな! 地獄で会おうぜ! ベイビー! バン、バン!」
フミオがバイクに乗ったまま振り返り、銃を撃つふりをする。
なんのマネか分からずポカンとするカナタの見ている先で、十数メートルの距離に迫っていたレイジがピタリと動きを止めた。それが次の瞬間、見えないハンドルを両手で握り、胸の前で思い切り横に切ると、勢いよく近くの電柱に向かって突っ込んでいった。
「なんなんだ、それ」
バカ男子のやり取りを見せ付けられて、カナタは呆れ顔だ。
「レイジそっくりのマッチョなロボが未来からやってくる映画があって……」
「すげーバカっぽいからやめろ」
「うお。傷つくわあ」
と言って、フミオはわざとらしく胸元を押さえてアピールしてくる。
それはどこかの酒屋の店主のしぐさと瓜二つだったが、たぶん言わないほうがいいこともあると思い直したカナタは黙っておくことにした。
「ふう……ふう……どうだった、今日のは」
二人がわちゃわちゃやっているところに、息を切らしたレイジが追いついてきた。
「イマイチだな」
彼の迫真の演技は、フミオ的には赤点モノだったようだ。
「いつもならハデにコケてクラッシュしてくれるのによ。カナタが来てから丸くなっちまったんじゃねーの?」
「シャツ、下ろしたてなんだ。ここ数日で何枚も破ってしまって」
「あ? ズボンも破ったとか言ってなかったか? そんなに脱ぎたいなら、次はあの緑色のヤツとか――」
まだ映画ネタで盛り上がっているバカ二匹から目をそらして、カナタは何の気なしに例の幽霊屋敷を見てみる。やはり、窓際には誰もいない。白いカーテンが揺れているだけだった。