海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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2.うつろな窓で手を振るものは(2)

「いいですかー、公式ですよー」

 

 その日、午前最後の授業はキリエの教える数学だった。梅雨と夏の境の涼しい風、そして程よい空腹──気だるく、眠たい時間だ。

 実際、クラスの大半は夢の世界に旅立っていた。そして、教師はそれを注意しない。なぜなら彼女が一番眠いからだ。

 

「式の意味も覚えずグラフ描こうとするおたんちんは、絶対にヘマしますから。とにかく期末で赤点取りたくなきゃ、まずは式をガチガチに覚えてくださーい」

 

 黒板を叩くキリエの目元には青黒いクマが浮き出ていた。おそらく昨日は寝ていないか、睡眠の用を成さないほど劣悪な眠りしか摂れなかったのだろう。

 

 「じゃ、先生がすばらしいお手本を……」

 

 片手でチョークを握り、もう片方の手で二日酔いでズキズキする頭を押さえながら、不良教師は振り返って黒板と向き合った──

 

「は?」

 

 が、そこにはすでにグラフが書きこまれていた。

 

「……だれですか、二元一次方程式のグラフを日経平均にしたのは!?」

 

 恐ろしく、トンチンカンなグラフが。

 

「十分前にセンセーが自分で書いたんですよ」

「それとこのやり取り、三度目な」

 

 ザワちんとカナタが指摘すると、起きているクラスメート全員が同時に頷いて見せた。

 

「ウッソぉ……」

 

 キリエは呆然としながらチョークの粉にまみれた手、株式相場、そして哀れみと悲しみが入り混じった眼差しでこちらを見つめる生徒たちを見てから、

 

「……へへ」

 

 とりあえず、儚げに微笑んでみるのだった。

 

「センセー、もしかして酒飲んだ?」

「飲んでないからフラフラしてんじゃないかねえ」

 

 みんな知っているから誰も今更指摘はしないが、キリエは重度のアルコール中毒だ。脳みそが年中ふやけているから、彼女自身が理解できるレベルの授業しかしない。それがかえって分かりやすいと皮肉な評判が立っていたりするが、日中はいつも離脱症状で手が震えているので、正確なグラフや図が絶対書けない。

 

「しょせんポンコツね」

 

 何が面白いのかいきなり天井を仰いで爆笑を始めたキリエを見ていて、ルリコが呟いた。

 

「……なんでキリちゃんの授業が一番頭に残るんだろうな」

 

 カナタが隣の席に声を放った。

 

「ああ……そうだな……」

 

 レイジは生返事をかますだけだった。

 

「面白くねェの」

 

 そう呟き、中学生用のドリルと睨めっこに戻ったカナタも、懲りずにスターリン暴落を黒板に再現し始めたキリエも、レイジの意識には届かない。

 

 窓の外に放たれた彼の視線は、プールに向けられている。

 

 梅雨前線最後の抵抗か、最近はコロコロ天気が変わる。ぼんやり太陽の光を透かした薄曇りの空の下、その水面は水銀の膜を張ったように、重たい反射を校舎の壁に投げかけていた。

 そろそろプール開きの授業があってもおかしくないが、今年は静かなものだった。入り口のゲートに何重にも巻かれた黄色いチェーンが静かに揺れているのが見える。

 

 ■

 

 一週間ほど前のこと。プールサイドでの『サメ騒動』をレイジはよく覚えていない。

 何の疑問も抱かずプールに飛び込んで、気がついたらクラス総出で引き揚げられて、プールサイドで水を吐いていた。

 

 あの日から彼の日常は激しく変化した。

 

 壁の中の音、黒い津波、現実感のない町、いきなり現れた水の壁。そして──

 

「あ? ンだよ」

 

 いつのまにかレイジはカナタを見つめていた。

 どうやら難問にぶつかっていたらしいカナタは、その苛立ちも上乗せした鋭い目でレイジを睨みかえして来る。

 

(あの出来事のおかげで、俺はカナタと出会った。だが──)

 

 誰がそれを仕組んだのか? それともすべては運命で、偶然だったのか。この問いに答えてくれそうな存在に彼は心当たりがある。だが、あの日からその姿はおろか、声も、夢も見ていない。

 

(あの夢の女の子は、消えてしまったのだろうか……?)

 

「あっ、あっ、なんだ……お前……!」

 

 じっと見つめてきたかと思えば、何も言わずにフイと視線を逸らしてしまう。そんなレイジに振り回されるカナタを、キリエの咳払いがたしなめた。

 

「えへんえへん」

「だってさ、キリちゃ……うあー、くっそ……おぼえてろよ、レイジ……」

 

 軽くレイジの机の脚を蹴ったカナタは、教科書を立ててレイジとの間に壁を作り、完全に『オマエの攻撃は効かないぞモード』に入ってしまう。

 

 壁。

 

 水の壁。

 

 レイジの肉体を崩壊させるような液体の中から現れたカナタと、それを追うように沸いて出たイボ皮の黒い人型生物──棘皮人間。

 

 そこからのレイジの記憶は鮮烈な赤と黒のツートンで塗り潰されている。

 思うさまに傷つけて、壊して、殺した。棘皮人間の正体が町の人間のなれのはてかも、なんて。殺戮の最中は頭に無かった。

 

 怪物の頭をもぎ取って、別の怪物の心臓に突っ込んでやった。

 

 蹴りを叩き込んで、頭蓋骨と脊髄を引きずり出してやった。

 正体不明の”黒い光”を使って、この世に存在した痕跡すら残さず吹き飛ばしてやった。

 

 そして、機動兵器の集団と、サイボーグ忍者が彼の前に舞い降りた。

 

 ────あれは、よかったな。

 

 あれだけの痛みと憤怒をブチまけて許されたのは、覚えている限りで初めてのことだっだ。

 腕を切断された瞬間、ガラスの床を顔面で雑巾がけした瞬間、脊髄をへし折られた瞬間──血まみれの宝物を陳列して眺めるように、彼はあの日公民館の中で味わった痛みのリバイバル上映をする。

 

 あのスチールカーボンの死神はレイジが手合わせした中で最高の相手だった。痛みと怒りの塊でしかない彼に、代謝できないほどの苦痛と憤怒を流し込んで、どこまでも連れて行ってくれるような気がした。

 

(もう一度あれに会えたら、そのとき俺は──)

 

「ニヤニヤ笑ってんじゃねえよ……」

「え?」

 

 聞き返した時には、頬を膨らませたカナタが顔を背けていた。

 

「けっこうイジワルするんだな。レイジは」

 

 彼が傷だらけの手のひらを自分の顔に伸ばす間、ずっとイヤな予感がした。

 そして、それは的中する。まるで死体に触れたような違和感だ。彼の口角はぐっと吊りあがり、ひん曲がったいやらしい笑みに彩られていた。

 

「カナタ、これはその──」

「ふんだ」

 

 カナタは、自分の醜態をレイジが笑っていると思っているようだが、実際は血生臭い妄想に囚われた末、自然と笑みが滲んでいたのだった。

 口元を押さえたまま、レイジは静かに戦慄した。

 

 ────俺は今、笑ったのか? 殺し合いをする妄想で? 

 

「あっ、あっ、頼む。話を」

 

 今すぐにでも彼女に謝りたかったが、もう完全にそっぽを向いて、レイジのことは視界にも入れたくないと言わんばかりだ。

 

「レイジくーん。さっさと板書してください。先生今日の昼メシだけが楽しみで学校来てんだから。カナタさんもむくれないで」

 

 相変わらず具合の悪そうなキリエがのたくった文字で埋め尽くされた黒板を叩いた。

 

「むくれてんのはコイツのせいでーす」

 

 カナタが丸めて飛ばした消しカスが、レイジの肩に当たって跳ねる。

 

「仲良くしてくださいよ。マジで。痴話ゲンカの仲裁なんて給料に含まれてねーんですから」

「実際、キリエセンセーってどんくらい貰ってんですか?」

 

 ヨシの相棒であり、カナタが”ザワちん”と呼んでからそれが定着した細身の美男子アイザワが、鼻にかかるほど長い黒髪を手で払いのけながら律儀に手を挙げた。

 

「副業しないと生きていけないレベル」

「ダメでしょ。公務員の副業って」

 

 冷静にルリコが突っ込んだ。

 

「──どっちかというと教師が副業なので。それならセーフでしょ。法の抜け穴ってやつ」

「ただの屁理屈でしょ! ぜんぜんセーフじゃないんですケド」

「はい、はい! センセーって本業何やってンすか?」

 

 ちらちらと黒板上の時計を見ながらフミオが手を挙げた。昼休みまでの残り数分間、うまいこと雑談を繋げてタイムアウトを狙おうという魂胆だろう。

 

「女の子に答えにくいこと聞きますねえ。フミオくん、さてはモテませんね!」

「あ?! やめてくださいよ、マジで心に来るやつは!」

 

 どっ、と沸いたクラスの中で、レイジだけは首筋に冷たい汗をかいている。シャープペンシルを握り締めたまま固まっているレイジを、カナタが怪訝そうに覗き込む。

 

「なあ……具合わりーのか?」

「大丈夫。だ……」

 

 ほとんど自分に言い聞かせるようにしてレイジは目を瞑る。そこには逃げ場などなかった。まぶたの裏に、まるで暗闇に火花が散るように、凄惨な光景が浮かんでくる。

 

 自分が引き起こした果てしない破壊と殺戮。内臓をかき混ぜた臭い──

 

『ね。レイジ。ダメだよ、授業に集中しなきゃ』

 

 その瞬間、もう聞こえないと思っていた少女の声が彼の耳をくすぐった。

 すぐ近くで何かがバキリと音を立てて弾けた。

 

「おい、レイジ。レイジったら!」

 

 カナタに怒鳴られてレイジは我に返った。

 

 気づくと、クラスは静まり返っていた。視線が彼に集まっていた。皆が見ているのはレイジの手元だ。

 ノートの純白のページに、いくつもの滴血が赤い水玉を描いている。いつの間にか砕けたペンの破片が彼の皮膚を食い破り、指を串刺しにしている。

 

 ■

 

 カナタの反応は早かった。

 レイジの傷の様子がクラス全体に知れ渡る前に、彼女は引っ張り出したハンカチで彼の手元を覆い隠した。

 

「このパワーバカが!」

 

 一瞬の間。ややって、クラス中が笑いに包まれた。

 

「はやくガムテープでも貼ってきてくださーい」

 

 相変わらず眠たい声音でキリエが言い放った。だがその目つきは鋭い。レイジの異常に気づいて、気を利かせてくれたようだ。

 

「すんません、キリエ先生」

 

 レイジが背を丸めて立ち上がる。

 

「ゴリラが脱走するとやべーから、アタシ見張っとく。一応」

 

 一層大きくなる笑い声を浴びながら、二人は廊下に出て行く。

 

「あのさあ、オマエさあ」

 

 カナタが何か続けようとする前に、昼休みのチャイムが響き渡る。真っ赤に染まったハンカチを指に巻いたまま、レイジは立ち尽くしていた。

 

「見せろ。ひでーケガだったぞ」

「大丈夫だ」

「オマエそればっかりじゃねえか! 血出て平気なヤツなんかいねえよ!」

 

 カナタがぐいぐい手を引っ張り、それに力なく抵抗するレイジの姿を、近くを通りかかる生徒たちが不思議そうに見つめている。

 諦める気配が一向に見えてこないので、やがてレイジは彼女に自分の手を委ねた。ハンカチを解く時に、突き刺さった破片を彼女に見えないように引き抜いてポケットに突っ込む。

 

「やっぱりな。会ったときからレイジはやせ我慢……あれ?」

 

 その手は血まみれだった。だが、傷口が見当たらない。

 

「あ、あれ? さっきは確かに」

「俺は何があっても大丈夫なんだ。心配しなくていい」

 

 そんな言葉で納得できるはずがない。カナタはレイジの手を引いて、昼休みでごった返す廊下を駆ける。仕方なくレイジも、その広い肩幅で生徒たちを押しのけながらついていく。

 

「しみるだろうけど、モンク言うなよ」

 

 流しに辿り着いたカナタはレイジの真っ赤な手を水で流していく。すでにゲル上に固まった血が剥がれていくと、彼女の混乱はいよいよ強まった。

 

 なにも、ない。

 

 鋭い爪で切り刻まれた時も、ナパームで焼かれた時もそうだった。

 しきりに首をひねるカナタのことを、レイジはなんとも言えない顔で見つめている。

 

 ここまで心配してくれる彼女に自分の異常体質を隠し、自傷については嘘をついてまでやりすごそうとしていることに、彼は無表情の下で激しく苦悩していた。

 

 

「ねえ、見て。アレでしょ、例のAクラスの」

 

 雑踏にまぎれて聞こえてきた話し声は、自分たちを指したものだった。レイジの手を握り締めて愕然としていたカナタがはっとした。

 

「ウロコ生えてるって噂の? 病気?」

「今度近く行って見てみようぜ」

「つーかマジで私服登校オーケーなんだな……」

「でもさあ、あんな背中開いたやつで学校とか、いいって言われてもやらねっしょ」

 

 白いドレスの裾が廊下を吹き渡る風に揺れている。

 

「あそこって酒屋のバイク野郎とか犯罪者の息子もいるんでしょ」

「あとは……ほら、問題起こした水泳部と元バレー部とか。治外法権だな」

「普通こんなトコで手握るかね」

 

 カナタが投げ出すようにレイジの手を離した。うっすらと赤くなった顔で、見知らぬ生徒たちのほうを睨む。

 

「おい、オマエら」

 

 低い声で言い放つ。

 

「カンジ悪いぞ。アタシのトモダチのことを悪く言うな」

「あ? ああ──俺らに言ってんだ?」

 

 カナタの声で足を止めた数人の生徒たちはお互いに顔を見合わせて肩をすくめた後、大袈裟に笑い始めた。

 

「ヤッバ。めっちゃ見てきてんじゃん」

「いいから握手してろよ。マジ、変わりモン同士でお似合いだし」

 

 教室の中で和気藹々とやっていても、一歩外に出ればA組の扱いはこんなものだ。奥歯を軋ませて睨みを効かせるカナタの隣で、レイジは手をビショ濡れにしたまま、無表情で突っ立っている。

 

「このク……」

 

 彼らに向かってカナタは何かを言い返そうとしたが──やがて、かわりに深く息を吐き出す。

 

「はあ。行こうぜレイジ。あんなんに関わると人生損する」

 

 笑い声を背に、きびすを返したカナタはレイジの腕を引っ張った。しかし、逆にグンと後ろに引っ張られてしまう。彼は根が生えたようにその場を動かない。

 

「おい、レイ──」

 

 とうとう業を煮やしたカナタが声を荒げたとき、ムチを張ったような破裂音とともに一陣の風が吹き抜けた。カナタの目の前を白いものがひとひら、通り過ぎていく。

 

 布地だった。何かの切れ端だ。

 

「──いつ脱いだ?」

 

 カナタが振り返ったとき、誰も笑っていなかった。いや、笑えないことになっていた。

 

 廊下の音が死んでいた。

 

「あ……え…………?」

 

 誰もかもが面食らう中、ギリシャ彫刻のような肉体を(サラ)け出した男が一人、カナタを侮辱した生徒の一団を見据えて立っている。

 

 カナタからはレイジの背中しか見えない。

 

 大きすぎる裸の背中しか。

 

 冗談みたいに盛り上がった肩の僧帽筋。山脈と渓谷を思わせる広背筋の隆起に、もはや節足動物の甲殻と見間違うほどクッキリ浮き出た最長筋、上腕三頭筋。

 そして、あたりに紙ふぶきのように散らばったワイシャツ──だったものの破片を目にしてカナタは全てを理解した。

 

 筋肉の漲りだけでシャツを引き裂いたのだ、この男は。

 

「こわ……」

 

 千切れてだらしなくスラックスからぶら下がるベルトを目にしたとき、カナタの口から素直な感想がこぼれた。

 

 レイジは何も言わずに首をほぐし、拳を固める。正直、順番にはこだわらないので、立ちすくむ集団の中で一番背の高い男子生徒をじっと見つめることにした。

 

 じっと……じっと見つめながら、彼はゆっくりと歩き始める。

 相手の肩が小さく跳ねる。

 彼の大仰なまでに膨張した体は、無気味なほど音を立てなかった。

 まるで、何かの手違いで街中に解き放たれたライオンが、最初の犠牲者に狙いを定めるかのような、無感情でしなやかな殺傷力だけがそこにあった。

 

「来い。死ぬまでやろう」

 

 レイジが首をほぐしながら短く冷たく言い放つと、その殺気に突き刺された男子生徒がストンと腰を落とした。

 取り巻きの一人が必死に笑い声を絞り出そうとしたような音は、喉の奥で潰れてひしゃげ、しゃっくりにしか聞こえなかった。

 周囲に居合わせた何十人もの生徒たちも、顔を引きつらせていた。

 

「にげろ」

 

 蚊の鳴くような声を発したのはカナタだ。

 それでも静まり返った廊下に彼女の声はしっかりと響いた。

 

「──なにしてんだ、逃げろお前ら! マジでこいつに殺されっちまう!!」

 

 目を見開いて叫んだ彼女の目の前でレイジが重々しく一歩踏み出したのが、ダメ押しになった。

 

「う──うああああっ!」

 

 一瞬で廊下は混乱の坩堝に変わった。

 

「おい、押すなって!」

「誰か男の先生呼んできて!」

「たすけて死にたくない」

 

 誰かが叫び、廊下は一瞬でバタバタと響く足音と、ぶつかり合う生徒たちの怒号と悲鳴で満たされた。

 

「──ぶあははは! おい見たかヨシ、あいつらサイコーだぜ!」

「ンだよお、やるなあ!」

「ひい……ひい……あたい腹ツった……助けておくれ……」

 

 それまで殴りこむタイミングを見計らっていた2-Aの”酒屋のバイク野郎”や”犯罪者の息子”たちの大爆笑が悲鳴と怒号で溢れた廊下に合流してくると、本格的に収拾がつかなくなってくる。

 

「おい、ザワちん、ケータイで動画……あ、やべ、フミオ、ザワちん笑いすぎて泡吹いてる!」

「ぎゃははは、こいつどんだけ体弱ぇんだよ!」

「笑ってる場合じゃないよ。ルリコちゃん、担架、担架持ってきて!」

「アンタらねえ……こんなんだからウチは……」

 

 ある者は笑い転げ、ある者は卒倒し、ある者は床に座り込んで泣き叫び、ある者は押し合いへしあいから同時多発的な殴り合いに発展した。

 もはやピンボール台の中のようなカオスと化した廊下で冷静に立っているのは、この状況を作り出した当事者二人だけだ。

 

「よし。戻るか、レイジ」

「昼食が楽しみだ」

「ん」

 

 レイジを見つめて、カナタが静かに手を差し伸べる。

 

「くやしいから手繋いで帰ってやろ。変わりモン同士、仲良くな」

 

 彼は少しだけ迷うそぶりを見せたが、カナタの手を取る。傷だらけで硬く、温かい掌に、カナタの白い手がすっぽり収まった。

 

 それを、カナタはじっと見つめる。

 

「な。前にも、お前の腕が斬り落とされて……」

 

 言いかけて、カナタは首を振った。

 

「いや。バカみたいなこと言いそうになった。さっさとメシ食おう」

 

 カナタの後をついて、レイジは教室に戻っていく。今のレイジからカナタの背中しか見えないように、さっきのカナタも、彼の顔は見えていなかった。

 

 レイジは本気で殺すつもりだった。

 

 いつも感じている、じわじわと熱が心臓を侵すような感情とは、何もかもが違う、ほんものの怒りを感じていた。

 

「俺は怖い」

 

 レイジが呟くと、カナタは前を見たまま肩をすくめた。

 

「レイジに怖いモンなんかあるかよ」

 

 彼は心底恐れていた。

 無数の怪物を殺戮しながら充足を感じていたこと、最近はその満足感が少しずつ失われてきたこと。

 

 そして、あの少女の声が聞こえたこと。悪夢に怯え続ける日々がすぐそこまで迫っている。

 

「……アタシだって、セーラー服着たいっつーの……なあ?」

 

 振り返ったカナタは少し笑って、白いドレスのすそをつまんで見せる。

 

「似合ってる。カナタはどんな格好でも、素敵だ」

「そーいうコト言ってんじゃねえの。でも……まあ。ホメ言葉だな。キモいけど」

 

 自分にここまで屈託の無い笑みを見せてくれる彼女に、苦痛と憤怒に埋め尽くされた本性を悟られてしまうかもしれない。

 

 彼女を──この手で傷つけてしまうかもしれない。

 

 そう考えるたびに、レイジの胸の奥でもぞりと炎がうずくのだ。

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