「ありがとな。先行ってるぞ」
「ちゃんと俺の分の肉団子、取っておいてくれよ」
「ハイハイ」
クラス全員分の弁当を重そうに抱え上げたカナタが歩いていく。彼女が何事もなく校舎に入っていったのを駐輪場の影から見届けてから、フミオはヘルメットを被りなおした。
「よし。じゃあ、ちょっくら……」
「あっ、オイ!」
校門に立つ生徒指導の教師の横を風のようにすり抜けると、フミオとバイクは通学路を逆走し始めた。
「見るだけ。行って、見て、戻ってくるだけ、さ」
ラッシュアワーは人の群れでごった返す中央街は、少し時間がズレただけでゴーストタウンのように人と車の姿が消える。彼はこれまでの遅れを取り戻すかのようにバイクをグングン飛ばし、五分とかからず例の交差点まで戻ってくることができた。
「マジな話、こんな場所で人って生活できるもんかね……」
水田の中の道を抜けて屋敷の前にやってきたフミオは、横付けしたバイクに脱いだジャケットをひっかけて、屋敷を見上げた。
今まで遠巻きに見ていた和洋折衷の屋敷は、実際近づいてみると家屋の形を保っただけのあばら家にすぎなかった。
壁は所々ひび割れ、じっとり水を吸った不潔なコケの中に埋もれている。やはり二階の窓に『お嬢さん』の姿はない。この薄汚れた建物の中で、気味が悪いほど白いカーテンが揺れているだけだ。
これは完全に死んだ建物だ。「ヘンなヤツじゃね?」とカナタが言っていたここの住人について、こうして眺めていると悔しいが少し納得できてしまう。
とはいえ、ここまで来て何もせずに帰りました、なんてのも癪だ。見るだけ見ていくつもりで、フミオはほどけたボロボロの靴紐を引きずりながら、軋む階段を上ってポーチへ向かう。
チャイムはない。信じられないことに、ドアに鉄製ドアノッカーが取り付けられている。錆び付いた金具に触れると冷たく、ざりざりとした錆が手を削る。
そのまま屋敷の周りを歩いたが、特に変わったところはなかった。ただ、おかしな廃墟が田んぼのド真ん中に建っている。それ以上でも、それ以下でもない。
屋敷は陰気でカビ臭いし、気持ちの悪いコケも生えてるし、おまけに目当ての『お嬢さん』はいない。とうとう屋敷を一周して戻ってきたフミオは、そこでため息をついた。
(────マジでカーテンを人と見間違えてたとか? だったらお笑いだぜ)
自分に呆れながらもう一度ドアノッカーに触れ、ふっと笑いを残してフミオは踵を返した。
ドスッ
「あ?」
階段の一段目に足をかけたフミオの後ろで大きな音がした。
驚いて軽く跳ねたフミオが振り返ると、もうもうと立ち込める土ぼこりの中に倒れた分厚いドアが見える。その奥ではポッカリ開いた黒い穴のような入り口が、彼を誘っていた。
「こ、壊しちゃった……?」
当然、答えるものはいない。ドアは外側に向かって倒れていた。
まるで誰かが内側から蹴破ったように。
フミオの足は自然と屋敷に戻っていた。
いまだに砂埃が立ちこめる中に、袖で口を覆いながらフミオは進んでいく。ぽっかりとした空洞にも似た屋敷の入り口が、彼を迎え入れた。
中は思っていたほど暗くない。破れた窓と、隙間だらけの板壁から差し込む光のお陰で、歩き回るには問題ない。
「あ」のー、と声を出そうとして、やめた。脳裏でカナタが力強く頷いている。『やべえだろ、やっぱ』と言っている気がする。フミオもそう思う。全力で同意する。
どう考えても異常だ。異常なのにすぐにここから逃げ出さないのは、やはり、毎朝自分に手を振ってくれる美女と、ワンチャンス何かあるんじゃないかと期待してしまう悲しい思春期の衝動のせいだ。
床に薄く積もった埃を光が照らすのを見て、フミオの喉がごくりと鳴った。
真新しい足跡が浮かび上がっている。フミオのスニーカーではない。ヒールの形がくっきり浮き出た、女物のシューズだ。
やはり、さっきまで誰かがここにいた。足跡は二階に向かって続いているようだ。
ぎしり。ぎしり。掠れた赤色のカーペットが敷かれた階段を上る。上のフロアを見上げて、フミオは息を呑む。吹き抜けの先の窓で、女が笑っていた。
「……ンだよ」
と思ったら、違う。白いカーテンが踊っているだけだ。
「実際に会ったらどうする、俺」
いつの間にか廃屋探検がメインになりつつあるが、それでも例の女のことを諦めたわけじゃない。問題は、今のフミオは不法侵入者で、相手はか弱い乙女。通報なんてされようものなら、社会からの一発退場は免れない。
「そうだ。ドアのことで謝っちゃうか」
ドアぶっ倒しちゃった。えへへ、ごめんなさい。俺、誠実で正直なちょっとイケてる男なんで、おねえさんのこと、わざわざ探しに来ちゃいました。弁償するんで、ちょっとそこのサ店で……
「ブン殴られても文句言えねえわ……」
いつも自分が足を止める交差点を、逆に見下ろす側になると妙な感じがした。窓際に立ったフミオは、風になぶられて横顔を叩いてくるカーテンを押さえながらあたりを見渡して──それを見つけた。
「なんだこれ」
小さなテーブルの上に、望遠レンズのついたフィルムカメラが置かれていた。それと写真。いかにも隠し撮りといった雰囲気の一枚だ。そこにはバイクにまたがったフミオたちが映っており、紫色のマーカーでマルがつけられている。
「は、はは……なんだ。ここに住んでるヤツ、マジで俺のファンなの……?」
彼の声はかすれていた。嬉しくもなんともない。ただただ、薄気味が悪い。
手にくっついた紫色が粘り気を持つことに気付いて、フミオは血の気が引くのを感じた。写真につけられたマーカーの正体は口紅だ。
指先にたっぷりこびりついたものを窓枠にこすりつけて落としていると、掴んだカーテンから漂ってくるバニラの香りも、女が毎日ここに立っていたことを示す無数の足跡も、とたんにおぞましく感じてきた。
写真のマルは、カナタの顔を囲むように付けられていた。あの交差点を通るようになったのは、そもそもカナタを毎朝迎えにいくようになってからだ。あの女は、フミオを見ていたのではない。カナタを見ていたのだ。
「カナタがお目当てか?」
──なぜ?
分からない。分からないが、フミオはしばらく、食い入るように写真を見つめていた。
ギイ……
遠くから聞こえる車の行き来する音に、屋敷の奥からの軋む音が混じった。
はっとフミオが顔を上げると、風のいたずらか、一室のドアが開いて、おいでおいでをするように揺れている。そして、最悪なことに足跡もその部屋に続いているのが見えた。
「……あいつが好みなら、止めはしないさ。ただ、こんなやり方は……」
よろしくない。フミオに言わせれば、それに尽きる。
「カナタには弁当食わせてもらってるし、ここはガツンと言っとかなきゃな……」
部屋に向かって歩きながら呟く。
その声がちょっと震えていた。
「すんません!」
もはや気配を殺すつもりはなかった。堂々と部屋の戸を開け放った瞬間、カーテンから漂っていたバニラの香りが、一瞬強く香った。
それだけだった。
部屋の中はもぬけの殻だ。
誰もいない。ただ、いやなものが壁に貼り付けられていた。
何百枚という写真が、マルを付けられたカナタの隠し撮りが、一枚一枚、几帳面に日付と場所をラベリングされて壁に貼り付けてある。交差点だけじゃない。学校のグラウンド、駐輪場、バイト中の姿、メイド服に紫のハート。
異常だ。カナタの言葉を信じるべきだった。
一枚、写真を剥がして見つめる。
教室でカナタがノート片手にクラスメートと何かを話し合っているところだ。
何も知らない彼女がニコニコと笑うそばで、周りの生徒たちの顔が紫色にぐるぐると塗りつぶされている。壁に寄りかかるようにして立っている細身の女子はルリコだろう。
そして、なぜか、レイジとフミオの顔はそのままだった。
クラスメート全員の顔を塗りつぶすほど執拗なのに、なぜか、彼らだけは見逃されている。その理由を考えるよりも早く、彼の中で再び恐怖が膨れ上がってきていた。
よろよろと後ずさっていくと、壁全体がよく見えた。
巨大な花マルが書いてあった。そして書き添えられた『A-6500』という謎めいた文字列。
「A-6500……何の番号だ……?」
じっくりと考える暇も与えず、また強くバニラが香った。いる。
弾かれたように振り返ったフミオの目に、さっきの窓際が映る。外の光が、そして白いカーテンがやけに眩しく見えた。それだけだった。
フミオは胸を撫で下ろす。
この屋敷はそんなのばっかりだ。起こりそうで、何も起こらない。ただ不気味なだけだ、と自分に言い聞かせる。とにかく、写真を何枚か持ち帰って、あとでカナタに
────ダメだ。
理性が呼びかけてくる。それを、見なかったことにするんじゃない、と。
壁に手を伸ばしかけたまま、ぎこちない動きで再び部屋の入り口を振り返る。廊下に面したドア枠に、何かが引っ掛かっているのが見えた。
小さく白い何かが、部屋の外からそっとはみ出している。
指だ。
女の細い指が四本、ドア枠にかかっている。今まさに部屋を覗こうとしているような配置に、それがある。
「か勘弁してくれ」
余裕ぶろうと出した声は完全に上ずっていた。
入り口を固められた。強行突破なんて考えるだけで恐ろしい。あれは見てはいけないものだ。ダセー町の、ダセー日常を、一撃で破壊する異物だ。
黒い髪の毛が見え始めたのを視界の端で捉えながらフミオは必死に別の出口を探す。となればもう、窓しかない。
普段なら絶対にありえないことだが、一瞬にして彼は決断し、行動に移った。
床に散らばった埃と写真のネガを蹴散らしながら窓へと一目散。そのまま、割れたガラスに頬を削られながら外に身を躍らせる。
「うおっ、やっば──」
二階からの着地の衝撃は、伸び放題の草むらがある程度和らげてくれた。
それでも痛いものは痛い。しびれる足を引きずりながら、彼は町のほうへ──いや、それはいけない。バイクで彼は来たのだ。父親から譲り受けた愛車でだ。
彼は屋敷を振り返る。あの部屋で彼を追い詰めたものの姿は見えない。
「くそっ、このポンコツ……俺に感謝しろよ」
これ幸いと駆け戻った彼は勢いよくバイクに跨った。
「マジか……そういうスリルは求めてねえんだよ……!」
最近快調だった反動だろうか。年季の入った電動バイクは、いくらスイッチを押しても、蹴っても叩いても反応がない。
フミオのシャツはもう、汗でビッショリだった。
屋敷の中から吹きつけた風が濡れた背中を撫で付けた瞬間、彼は、ひゅっと音を立てて息を呑んだ。
「いる」
あの女がいつもの窓からいつものように見下ろしている──そんな確信があった。
だから見上げてはいけない。それを確かめてはいけない。この屋敷で起こったことが、本当におかしなことだったと認めてしまうことになるから。
でも確かめたい。あれの正体を。あれが、いったいどんな怪物だったのか。
意を決して顔を上げたフミオの視線の先には、果たして、空っぽの窓枠と、風に膨らんだカーテンしかなかった。
「なんだ……」
ほっと胸を撫で下ろしてハンドルに手を置いたところで視界の端から伸びてきた白い手が、彼の頭を優しくなでた。
ぬくもりを感じる。何か、誰かが、すぐ横に、吐息を感じるほど近い場所にいる。
バニラが、今まで一番強く香った。
「ばあ」
甘い香りと共に、柔らかな声が耳元で囁かれた。
あの女が目の前にいた。
近くで見る彼女は誰かに似ていた気がしたが──思い至る前にフミオの視界が光に包まれ、まるで画面のスイッチを切ったようにブラックアウトした。
■
どこで何をしていたのか思い出せない。
こんな時間までどこにいたのか、何をしていたのか。とにかく、疲れていた。
途方もない倦怠感に包まれながら、フミオはバイクを押していた。
夜の商店街で営業している店は見えない。ほとんどの地方都市がそうである例にもれず、シャッター街と化した通りをトボトボ歩いてきた彼は、暮酒店の店内から漏れ出る光を見つけてようホッとした気持ちになった。
「おかえり、フミオ」
今日は珍しく、いつもは酔っ払い収容所になっている店の中がガランとしていた。
カウンターの中でグラスを拭いていたメイドが顔を上げるなり、その端正な顔立ちが、眉間にしわを寄せたしかめっ面になった。
「なあ~、オマエ、学校サボりやがって。もったいないから肉団子はオッサンにあげちゃったからな」
「ああ……わり」
彼女はじっと、フミオを見つめた。
「それ、どうした?」
カナタに言われて、フミオは自分の頬に触れてみる。何かでザックリ切ったような傷の上に、絆創膏が貼られていた。
「ケンカ?」
「いや……覚えてない」
カナタが作業に戻っても、フミオはその場に突っ立っていた。
「ん?」
不思議そうに小首をかしげる彼女を見ていて、彼はなぜか胸がザワつく。何か、彼女に聞いておかなければいけないことがあったような気がするのだが──とうとう、思い出せなかった。
「カナタって、きれいな顔してるよな」
何気なく口をついた一言に、カナタの顔が真っ赤に染まった。
「は──は!? ンだよ、いきなし」
カナタが背後でぎゃあぎゃあと何か喚いていたが、フミオはそれを無視してぼんやりした頭でカバンを下ろし、手を洗って、顔を洗って、ふと、鏡に映る自分自身を見つめる。
「きれいな顔してるんだよな……」
それはいい。だが、最近どこかでよく似た顔を見た。思い出せない。
「あ?」
首をひねったときに、鏡に映る自分の鎖骨あたりに視線が止まる。
紫色の、何かをこすりつけたような跡がついている。好きになれない甘い匂いが、フミオに顔をしかめさせた。
「なんだこれ。絵の具か?」
気味が悪い。ばしゃばしゃと乱暴に水をかけ、石鹸でこすっているうちに、紫色の跡は徐々に薄れていった。得体の知れない紫色がへばりついたシャツは気持ち悪いのでゴミ箱に突っ込んだ。
ひととおり片づけを済ませたフミオは、むすっとした顔でカウンターに頬杖をつくカナタの隣を抜けて座敷に上がる。そこにはいつものようにブンタが半ケツを出して寝転がっている。彼の枕元にはウイスキーの入ったグラスと、カラの弁当箱が置かれていた。
「ただいま。肉団子どうだっ──」
「おい、あのバイクそろそろ処分しちまわねえか」
「バイクを、処分する?」
出し抜けに耳を疑うようなことを言われて、フミオは思わず聞き返した。
そんな彼の前で酒屋の店主はごろりと寝返りを打って、蛍光灯の明かりを乱反射するハゲ頭をポリポリかいた。
「バッテリー交換してもダメになったろ。電気系統も騙し騙しやってるし、もうダメだな。ゴミだ」
「ゴ……」
会話は聞こえずともただならぬ雰囲気を感じたのか、カナタが心配そうに覗き込んでいるのが見えた。フミオは唇を噛み締めて必死に湧き上がる怒りをこらえる。なんだ、何を言ってんだ。オッサン。
「お前さんも使えなくなったモンは捨てるだろ?」
どん、と、ブンタはフミオの胸を突いた。
「何ボンヤリしてんだ。ヒマしてんならカナタちゃん手伝ってやれ」
「特別なバイクなんだろ?」
「まあ。一応な」
ブンタが肩をすくめた。
「アンタが命を預けたって愛車なんだろ? だから俺は、ずっとメンテナンスして乗ってきて、これからもがんばって大事にしていこうって」
「いいか、フミオ」
ブンタはあくまで穏やかに、聞き分けのない子供にするように、フミオの肩を何度も軽く叩きながら続けた。
「無理してポンコツに乗る必要はねえんだ。俺サマに気を使う必要はねえ。俺サマがお前さんに期待はしてねえようにな」
「なに言ってんだアンタ」
「しょせんアカの他人同士じゃねえか。過剰に縛るのはやめにしようやって言ってんの」
「なに言ってんだアンタ!」
フミオがブンタを突き飛ばした。衝動的だった。もう、目の前にいる男が、自分がひそかに尊敬していた父親だとは思えなかった。
「へへ、力、強くなったじゃねえか……」
しりもちをついたブンタを一瞥だけして、捨て台詞すら残さずにフミオは店の外に走り去っていった。彼の古びたバイクは鋭いキックに即座に反応し、電動エンジンを静かにうならせて西町の暗闇に連れ出していく。
「あっ、フミオ!?」
「行かせてやろうぜ」
何か言いたげなカナタを制して、ブンタはまた、何事も無かったように畳の上に寝転がった。
「やれやれ。マジで口下手だな、俺サマってやつァ」
「店長……」
「ちと早いが、あがっていいぞカナタちゃん。給料はいつも通りつけとく。おっちゃん、今日はちょっと飲みてえ気分」