海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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3.まぶたの裏で蝶が羽ばたく(4)

 メイド服を着たまま、カナタは夜の商店街を黙々と歩いていた。

 

「ねーちゃん、どこの店の子!?」

「うるせえ」

 

 すれ違いざまに声をかけてきた酔っ払いの学生たちに、フミオ直伝の“ダブル中指スペシャル”をお見舞いする。

 背中越しに飛んでくる下品な罵声も気に留めず、彼女はスニーカーのつま先を見つめたまま、足を止めることなく進んだ。

 

 くぐもった、言葉にならない叫び声が聞こえる。近くの雑居ビルの一室から、壁を激しくゴンゴン叩く音が響いていた。中心街から流れてきた酔客たちが、ホコリと排ガスと吐瀉物の臭いを、この通りに持ち込んでくる。

 

 日中は平穏な地方都市の顔を装っている西町だが、夜が訪れれば、路地の闇が生々しく息をし始める。

 

「父さん、かぁ」

 

 アタシらしくねえなあ──道のど真ん中で足を止め、カナタは腕を組んだ。

 

 記憶をなくした彼女にとって、水の壁の中でレイジと言葉を交わした瞬間こそ「物心がついた瞬間」と呼べるものだった。

 

 彼も妙な顔をしていたが、実はカナタ自身も少し驚いていた。

 自分の言葉遣いが、年頃の女の子にしてはずいぶん荒っぽかったのだ。

 

『きっと育ちが悪いんだろうさ──』

 

 そんな軽口を叩いたのを、今でも覚えている。

 だというのに、カナタにとっての父親はオヤジでも、オッサンでも、オトンでもてめえなく、『父さん』なのだ。

 

「とうさん」

 

 口に馴染んだ言葉のクセに、それを発音するたび、奥歯でアルミホイルを噛んだように背筋がザワつく。

 

 チクリ。

 

 カナタは痛みに顔をしかめる。無意識に、自分のノド元を覆うウロコの隙間をこじっていた。突き立てていた指の力をゆっくり緩めて、振り返る。

 

 夜中の商店街に灯る明かりは暮酒店のものだけだ。アーケードに投げかけられる煌々としたオレンジの明かりの中に、店から出てきたブンタの影が重なる。

 

 彼は腰をさすりながら夜空を見上げて──カナタに気づくと、少しばつが悪そうに片手を上げて見せた。筋肉隆々の偉丈夫といった風体の彼が、しぼんだように見えた。

 

「テンチョー!」

 

 思わず、カナタは叫んでいた。

 

「なんだよー! オッサンけっこうヘコんでんだけどー!」

 

 ブンタが叫び返してくる。声だけは元気だ。

 

「今度お酌くらいしてやっからなー!!」

 

 店側の明かりが逆光になって、彼の表情がよく見えない。それでも彼が軽く笑い声を漏らしながら、鼻の下をこすったのが分かった。

 

「やさしいなー! いっそウチの子にならねえかー!」

「フミオと兄妹になるのはカンベンだー!」

 

 前掛けのポッケに両手を突っ込み、肩をすくめて『ヘッヘ、ザンネン』と笑ったブンタは、名残惜しそうにシャッターを下ろした。

 

 それを見届けて、カナタは再びマンションに向かって歩き出す。

 

 明滅し、うなる外灯に見下ろされながら考えるのはフミオのことだ。

 

 さっきはわけもわからず実の親のブンタを突き飛ばしていたが、普段の仲は悪くない──と。少なくとも、カナタの目にはそう見えた。

 

 不器用なりに楽しくやってるようだし、ちょっと優柔不断なところはあっても、キチンと揺らがない自分を持っている──そういう奴だと思い込んでた。

 

 曲者と落ちこぼれの生徒ばかりを集めた2-Aでは、かなり珍しい──と、いうのは、勝手な決め付けだった。

 

 すべて、カナタの思い込みだった。みんな事情を抱えている。それは、フミオも例外ではない。

 

「はー、オマエも苦労してんのな……」

 

 本人に聞こえるはずもないことを呟く。胸の内側からこんこんと湧き出てくる恥ずかしさを、冷えた夜風のせいにして肩をすくめた。

 

「そういえば、レイジの親ってどんなんだったんだろ……アタシの父さんは?」

 

 最後の息のようにひときわ明るく輝いた外灯が、パっと光を失う。カナタも目を閉じる。水田の緑が強く香り、カエルたちが、さっきよりずっと近くで鳴いている気がした。

 

 暗闇の中で目をつぶると、光のちょうちょうが飛ぶ。

 

 網膜に焼きついた強烈な光が残滓を残すように、記憶をなくしても、過去に起こったことはどこかにこびり付く。

 彼女のまぶたの裏の暗闇に、蝶は飛ばない。そこにあったのは、薄暗い部屋で揺れていた蛍光灯のスイッチのヒモ。それだけが記憶の底に残っていた。

 

 それは、カナタの失った記憶へと繋がる残り香だ。

 

 ──そのヒモに、手を伸ばしかける。

 

 あとはぐっと引いて明かりをつけるようなものだ。

 そうすれば闇に閉ざされた部屋の様子が照らし出されるように、彼女の過去の風景が、あっけないほど生々しく蘇るはずだ。

 

「うぷ」

 

 記憶の奥に踏み入る寸前、いきなり腹の中に手を突っ込まれた。

 実際にそうなったわけではない。幻覚だ。だが、彼女は自分の胃袋を下から掴んでいやらしくまさぐる、見えない大きな手を感じていた。

 傷だらけの指が胃の内壁のひだをなぞるたび、彼女の脳をつんざくような激痛が走る。

 うずくまった彼女の視界はモノクロだ。ドクドクと痛いほど脈打つこめかみを押さえながら見るものは、目の前にある湿ったアスファルトではない。

 

 ──レイジの顔だ。

 

 いつもどおりの、ぼんやりとした顔。

 

 それが、カナタの脳裏で歪められていく。固く結ばれた彼の口の両方に見えない指を添えて、ぎゅっと引っ掛けたように、彼の顔が無理やり笑顔に加工されていく。

 受け月のように吊り上がった口の中に黄色い乱杭歯が覗く。

 

「なんだ……これ」

 

 深夜の田園地帯をゆくものはない。滴るほどの脂汗を流しながら、喘鳴(ゼンメイ)を漏らす彼女は、助けも得られぬまま、ガードレールにもたれて座り込んでいた。

 だが今の彼女が必要としているのは助けではない。答えだ。

 

 どうして、アタシの過去はここまでアタシを傷つけようとするんだろう。

 そしてなぜ、レイジの顔が、あの“つくり笑い”と重なって見えるのか。

 

 父さん──

 

「クソッタレが……」

 

 吐き出したその言葉に、意味も理由もなかった。ゼイゼイと荒く息を吐きながら、彼女はしゃがみ込み、その場でしばらく震える。

 やがて、金輪で頭を締めつけられるような激しい痛みが、ようやく収まりはじめる。

 カナタは口の中に残った生臭い唾を吐き捨て、よろめきながら立ち上がった。

 

「あー……やめやめ。なんか、変な感じになってきた……」

 

 掴みかけた記憶の残滓を振り払うように頭を振る。

 見下ろした自分の両手から、ぽろりとウロコが剥がれ落ちる。

 どうしてそこまで無意識に強く拳を握っていたのか、なぜ父親のことを思い出そうとした瞬間にあんな言葉が飛び出したのか──何一つ、わからない。

 ただ、不穏な予感が頭の片隅に残っていた。

 

 少し歩いたあと、ふとカナタは顔を上げる。

 再び、自分の父さんという存在に、ゆっくりと意識を向けてみる。

 

 ヒモが──まだ、目の前で揺れている気がした。

 

 それは、あまりに分かりやすい罠のようだった。

 そして、罠だと知っていても、いつか自分はそこに引っかかることになる。

 そんな確信めいた予感とともに、彼女は家路を急いだ。

 

 ■

 

 季節の変わり目にしては、穏やかな夜だった。

 けれどカナタの周りだけ、空気が糊のように重たく粘っていた。息を吸うたび、喉笛がひゅうひゅうと音を立てる。彼女は汗ばんだ首筋をしきりにこすりながら、レイジのマンションを目指して歩いていた。

 

 コンクリートに囲まれた空間に、カナタの足音が反響する。

 だが、それだけではない。どこか別の音が紛れている。

 カナタは足を止め、耳を澄ませた。

 

 それは、遠くで鋼鉄がぶつかり合うような音。

 まるで工事現場のような、硬質な響き。そして、それに混じって、湿った何かを繰り返し叩きつける音──

 

 やわらかい塊を、何度も、何度も、何度も。

 

 中庭の駐車場に続く通路を進みながら、カナタは自然と足音を殺していた。

 ここは、レイジとキリエが住むマンション──市内でも特に“ブッ飛んだ”住人が集まるエリアだという認識はある。

 

 カナタのまだ知らない住人が飛び出てきて頭のおかしなことをしでかしても不思議ではない。

 息の音すら潜めておっかなびっくり中庭を覗き込んだカナタの視線の先には頼りない外灯の明かりの下に佇む大きな影。それはレイジだ。

 

 彼が、例の鉄骨の前に立っている。アパートの頼りない照明の下に照らし出されたのは、血に濡れてぬらぬらと光る鉄骨と、両腕を真っ赤に染めたレイジの姿だった。

 

「なにやってんだお前……なにやってんだお前!」

 

 その瞬間、抱えていた弁当容器も、着替えも、すべてがどうでもよくなった。

 荷物を放り出して駆け寄りながら、カナタはここ数日の断片を繋ぎ合わせていた。

 

 ──鉄骨について言葉を濁したフミオ。

 ──意味深な目でレイジを見ていたキリエ。

 

 あれは、全部このことだった。

 

「カナタ……」

 

 彼女に気づいたレイジは、少し驚いたように目を見開き、とっさに両腕を背中に隠そうとした。

 だが、上腕の辺りから腕はめちゃくちゃに砕け、デタラメな方向に折れ曲がっていた。ムダな抵抗だ。

 

「とにかく…………おかえり。いつもと違う時間だな」

「おかえりじゃねえよ馬鹿! ただいま! 今日は早上がりだった!」

 

 勢いのまま言葉を返しながら、カナタの頭の中は真っ白だった。

 ミンチ機に突っ込んだのか? と疑いたくなるほど、レイジの両腕は原型を留めていなかった。

 理由はともかく、血を止めなければ──

 

「やめろ、手が汚れるぞ」

 

 レイジに手を振り払われたカナタは一瞬ひるんだが、すぐに彼の腕を掴み返した。

 

「うるせえ。そんな場合じゃねえ!」

 

 潰れた筋肉、裂けた皮膚。破れたゴム手袋のような手から、折れた骨が突き出ていた。

 見ているだけで、口の中に酸っぱいものがこみ上げてくる。

 

「なんだよ。死んじまうよ、オマエ……」

 

 手にしたハンカチで止血しようとしたまま、カナタは途方に暮れた。こんなにひどい怪我では、何もしてやれない。

 

「大丈夫だ」

 

 レイジがそう言うと同時に、彼の腕が再生を始めた。

 裂けた皮膚がヒクヒクと蠢きながら寄り合い、ツギハギされた骨膜の中で砕けた骨が組み上がっていく。血で膨らんだ水風船のようだった腕が、時間を巻き戻すように、元の形を取り戻していく。

 

「俺の体は昔からこうなんだ」

 

 彼は淡々とした口調で語りかけながら、腕の様子を見守り続ける。

 

「じゃあ、あの時、切り落とされたレイジの腕も……」

 

 ガラスまみれの床を転がってきた腕の映像が、ふいにカナタの脳裏をよぎる。忘れようとしても、気を抜いた瞬間に戻ってくるその光景。あれは、幻想なんかじゃなかった。現実だった。

 

「どんな傷も、どんな病気も、すぐ治る」

「痛みとか、感じないのか?」

「……しっかり痛い」

 

 そう言うレイジだったが、破裂した果実のように垂れ下がる指を無表情に見下ろすだけだった。もとから『痛い』なんて表情をアウトプットする機能を持たない機械のようだった。

 

「だから少しの間忘れられる」

「忘れるって、何を?」

 

 どちらからともなく、錆の塊のような鉄骨を見つめた。

 

「俺はずっと怒っている」

 

 彼が、数日前にも言ったことだ。

 

「だが、何に対して怒っているのか分からない。俺が感じている冷たい熱のようなものが、本当に怒りという気持ちなのかも」

 

 カナタが手の甲に巻きつけてくれたハンカチに、じわりと血で染まっていく様子をレイジは見つめた。

 

「毎朝、何もかも壊してしまいたくなる。だから俺は、自分を切り刻んで──そうすると、少しの間楽になる。少し違うかな。何も感じなくなる」

「……前にブタの血がどうのって、お前言ってたろ。あれ、ウソだったんだな」

 

 カナタが初めて家にやってきた日のことだ。あのときはフミオがとっさに機転を利かせて自傷の証拠を有耶無耶(ウヤムヤ)にしてくれたのだが、

 

「ウソがバレれると……気まずいな」

「だろうな。アタシのこと騙してたんだから」

 

 びょう、と音を立てて強い風が吹いた。

 

「フミオもルリコも、レイジの体のことは知ってんの?」

「ああ」

「…………へえ。いいトモダチってやつなんだな、あいつらは」

 

 レイジには、マンションの間を吹き抜ける夜風が、ずっとずっと冷たくなったように感じる。

 傍らの白い女は、肌と同じ色の髪をその風に揺らがせている。

 彼女はレイジを見ようともしない。薄暗い外灯の明滅で不気味にライトアップされた鉄骨を、ただじっと見つめていた。

 

「で、アタシだけノケ者かよ」

 

 レイジにはカナタが、今までに無いほど怒っているのが分かった。

 

「なんでだよ。なんでアタシに打ち明けてくれなかったんだ」

「……気持ち悪いって思われたくなかったんだ。すまない」

「アタシがレイジのことキモいって言うのは、そういうことじゃなくて……」

 

 苛立ちをあらわに、カナタは足元の石を蹴った。思いの外よく飛んだ石が、鉄骨に当たってカツーンと反響をあたりに広げる。

 

「明日、フミオに相談しよう」

 

 再生したばかりの拳が砕けるほど強く握り締め、レイジが呟いた。その顔がどれほど口惜しげで、悲しげなのか、彼は気づいていない。

 

「あいつはカナタが言うように、本当にイイやつだ。隠し事もめったにしないし、何より冗談だって言えるし、ちょっとアレだけどマトモな父親もいる。だから────」

「バカ! アタシがこんなしょうもないコトで愛想尽かすかよ!」

 

 カナタの大声が、自暴自棄になりかけていたレイジをぴしゃりと叩いた。

 

「しょ、しょうもない……?」

 

 血まみれの両手を見下ろして、困ったようにレイジが言う。

 

「アタシにレイジのダメなとこを伝えるのが不安だったのか? それでアタシが茶化したり、バカにしたり、離れてくと思ったのか!?」

「それは……」

「そう思わせたんなら悪かった。反省する」

 

 すさまじい剣幕でまくし立てたカナタに圧倒されていたレイジは、思わず面食らった。真剣な表情を浮かべた彼女が、深々と頭を下げてきたのだ。

 

「アタシはレイジを信じたい──なにより、オマエにも信じて欲しいんだよ。アタシのことも、トモダチと思ってほしいんだ。フミオやルリコみたいにさ」

 

 再び顔を上げたカナタのまっすぐな視線に、レイジは言葉を詰まらせた。

 カナタは鉄骨に向き直ると、軽く息を落ち着ける。返事なんか、いらなかった。ただ、自分のやり方で示すつもりだった。

 

「よし。アタシもやってみる」

 

 錆だらけで赤くなった鉄骨を見据え、そして、大きく拳を振りかぶる。これから始まることを予想するのは難しくない。

 

「おい、よすんだ、やめ──!」

 

 レイジの制止もむなしく、おそらくこの町で一番柔らかなげんこつが鉄の塊を打った。

 

 一瞬、カナタが彫像のように固まった。鉄骨から伝わった痺れが、彼女の全身に伝播していく様子が見えるようだった。

 

「──ぎええええ」

 

 とてつもなくいい所に当たってしまったらしい。見る見る赤く腫れていく右手を押さえて転げまわるカナタと、手を貸したいが肝心の両手が血まみれで、どうしていいか分からずオタオタとするレイジ。

 

「こんなん七年毎日やってたのか! こんな、こんなクソ痛いことを!?」

 

 飛び跳ねながらカナタが叫んだ。涙目だ。

 

「せめて……あークソったれ! おっ、同じ痛みを味わってみれば、少しはレイジの気持ちが、分かると思ったけど……ッ!」

 

 心配して近寄ってきたレイジのみぞおちに思い切りカナタは頭突きをかました。

 

「ぐほお」

「なーんも分からねえわ。痛いだけじゃねえか、このヤローッ!」

 

 全身鍛えていても、痛みに慣れていても。人間の体には『それとこれとは話が別』という部分が何箇所か存在する。たとえばみぞおち。そして──しりもちついたレイジの上に覆いかぶさったカナタの膝が、不運にも押し潰した場所。

 

「アォ」

 

 急所にダンプカーが突っ込んできたような衝撃を感じた瞬間、レイジの口から甲高い悲鳴が漏れた。 

 

「オラッ、気絶してんじゃねーよ! まだ話、終わってねえだろが!!」

 

 

 パンッ

 

 

 白目を剥いて意識を飛ばしかけたレイジの頬を、思い切りカナタが張り飛ばす。深夜の時間帯には似つかわしくないほど気持ちのいい音が建物に反響する。

 

「り、理不尽……」

 

 頬をえぐれさせたままレイジが呻いた。

 

「ああそうさ。理不尽だよバカ!」

 

 そこでようやくゴロリと転がって、カナタはレイジの上からどいてやった。

 カナタは目尻に涙が滲んだまま、レイジは両手で股間を押さえたまま、郊外の夜空を見上げる。連日の雨に現れて澄んだ夜空では、無数の星が眩しいほどに輝いていた。

 

「アタシがレイジにしたことも、レイジが苦しんでるっていう、怒りってやつも……クソ理不尽だろ……」

「カナタ」

「なんかいい手を考えよう。このままじゃ、面白くねえ」

 

 そろそろ散らばった荷物を拾おうと、身を起こしかけたカナタが、ふとレイジを見つめた。

 

「だからもう、一人で自分を傷つけるなんて寂しいマネすんなよ。アタシそういうの嫌いなんだよ」

 

 静かなカナタの言葉が、闇の中に不思議なほどよく響いた。数秒の沈黙が続いた。レイジが低く呟いた。

 

「分かった……やってみよう」

「こんなんだけど。制服だって着れないけど」

 

 体と一体化して脱げないドレスの袖をひらひらと振って、カナタは言う。

 

「隠し事されてアタシだけ仲間はずれとか、悲しくなっちまうだろ……」

 

 レイジには、もう何も言えなかった。

 カナタが、ここまで自分のことを案じてくれていたという事実。

 そして──そんな彼女を信じきれず、これまで嘘をついていたこと。

 それでもなお、自分を受け入れようとしてくれる彼女への、どうしようもないほどの感謝。

 

「あん?」

 

 何気なく、ネットのかけられた花壇に視線を落としたカナタが声を上げた。

 

「おい、レイジ……こっち来いよ……」

 

 信じられないものを見たような表情で、彼女がそっと袖を引っ張る。

 何事かとその後をついていったレイジは、次の瞬間、言葉を失った。

 

「咲いてるよ……オマエの植えたパンジー……生き残りがいたんだ……」

 

 そこには、少しくたびれながらも──闇に浮かび上がるように鮮やかな黄色のパンジーが一輪。倒れ重なった仲間たちの亡骸の上に、確かに咲き誇っていた。

 

「ほらどうだ」

 

 振り返ったカナタの微笑みも、どこか誇らしげだ。

 

「お前はブッ壊すだけじゃなくて、こうして花を育てることもできるんだ」

「ああ……」

 

 感極まったレイジが何か言おうとした時、もはや聞き慣れたエンジン音が近づいてくるのが分かった。しかし、こんな夜中に、こんな場所に来るのは珍しい。

 

「フミオのバイクだ」

 

 ピクリと顔を上げたカナタが、耳をそばだてた。

 甲高く、そして不安定でカラ回りするような音を立てているのは、間違いなく彼のオンボロバイクだ。それにしてもかつてないほどの高回転だ。先のブンタとのこともある。彼女はフミオの様子が心配だった。

 マンション外の国道を飛ばしてきた車体で敷地に突っ込んでくるときも、彼はほとんど減速しなかった。

 鋭く、荒々しく、ドリフト気味に横滑りしてきたヘッドライトが闇を切り裂く。

 

「おーいフミ……」

 

 カナタが手を上げかけたその瞬間。何かを察したようにレイジが一歩前に出て、彼女を庇って立ちはだかり、静かに後ろへ下がらせた。

 

「ぬあああああああ、クソッタレが────!」

 

 ノーヘルメットのフミオは、ほとんど狂気の形相だ。

 雄たけびを上げながら走ってきた彼は二人の前を走りぬけ、バイクを鉄骨に突撃させる。

 

「死ねクソオヤジーッ!!」

 

 激突寸前、フミオが飛び降りた。

 彼の体はアクション映画さながらに地面を転げ、あっけに取られて見守る二人の足元に滑り込んでくる。

 だが問題はフミオではない。バイクの行き先だ。

 

「あ」

 

 カナタが声を上げた。

 鉄骨にぶつかった瞬間、金属が潰れる嫌な音と火花が四方に飛び散った。バイクは、止まらない。傾いた鉄骨をジャンプ台のようにして空高く飛んだ。

 真っ二つにひしゃげたバイクは、空中でバッテリーが発火。燃え盛る火の玉となって、レイジが世話した花壇に突き刺さる。

 

「お花が──ッ!!」

 

 あのレイジが絶叫した。百年に一度あるかないかの出来事だったが、カナタは驚くというよりは、彼とパンジーへの同情が勝る。

 

「はあ……はあ……ふへへ……今日はやけに星空がきれいじゃねえか……」

 

 大の字になって、地面に伸びたままフミオが言った。

 ボンと音を立てて小爆発を起こしたバイクなど目もくれず、フミオは切れた唇に血と、不敵な笑みを浮かばせる。

 

「お花が」

 

 レイジが膝から崩れ落ちる。

 

「もうキレたもんね。俺らみんなで海いこうや」

「頭打っておかしくなっちゃったのか?」

「お花が……」

「冗談じゃねえよ。今が一番、正気の瞬間だぜ」

 

 吹き飛んできたバッテリーの破片が、火花を散らして燃えている。

 フミオは胸ポケットからくしゃくしゃになったタバコを取り出し、その炎で火をつけた。煙を吸い込んだ途端、激しく咳き込む。

 

「ダサいバイク、ダサい家業、ダサい親……もう全部、うんざりなんだよ。どうにかして、あの頑固者(ルリコ)を説得してさ。このダサい町、抜け出そうぜ。みんなで青春、やり遂げてやろうじゃん」

 

 そう言い残すと、フミオはどこか晴れやかな顔で、夜空へ向けて一筋の煙を吐き上げた。

 

「セーシュンか。いいな」

 

 火照りを映して、カナタの瞳もどこか眩しく輝いている。

 

「吹っ切れないクソみたいな青春の思い出引きずって、この先ずっと生きていくなんてゴメンだぜ。せっかくなら無茶しなきゃだろ。なあ、レイジ? ……おーい、しおれちゃって、どうした? 早く火、消さないとヤバいぞ」

 

 あまりに理不尽な出来事が続いたせいで思考停止してしまったレイジの背中をぽんぽんと叩きながら──フミオは、まるで憑き物が落ちたみたいに、笑っていた。

 

 ■

 

 翌朝、いつもに増して清々しい気持ちでフミオが起きてくると、ブンタが、いつもの場所にいつもの角度で寝転がっていた。

 

「バイクどした?」

 

 テレビを見ている彼は、背中を向けたまま聞いてくる。l

 

「ぶつけて飛ばしてブっ壊した。どうせ捨てるつもりだったろ?」

「ふうん」

 

 かなり思い切った返事をしたが、リアクションは淡白だった。

 

「そんだけ?」

「次は気ぃ付けろよ」

「次?」

 

 フミオが店の外に出て行くと、そこには同型の真新しい電動バイクが静かな駆動音を立てて彼を待っていた。

 呆然と、振り返る。ガラス越しに見えるのは、やはりいつもの背中でしかない。

 さすがに今日は頭を下げる気にはならなかった。

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