市民プールのゲートには、「点検のため臨時閉鎖」と書かれた紙が貼られていた。
それでも、プールの前にはまだ人が残っていた。子どもも大人も、足を止めて職員の説明に耳を傾けている。レイジたちと同じく、ここにやってきて初めて閉鎖を知ったのか、その中には水着の人の姿も見える。
ときおり小さくうなずきながら説明を聞き、なかには静かに帰り支度を始める者もいた。みんな、名残惜しそうではある。しかし、特に騒ぐものはいない。
「なァ~! ここもダメとか、ふざけてんのかよッ!?」
──カナタを除いては。
飛んでる鳥ですらボトリと落ちてきそうな炎天下にもかかわらず、カナタは元気だ。張り紙を引き千切らんばかりの勢いで地団駄を踏む彼女を、フミオが呆れたように指差した。
「なんであいつ、あんなにキレてんの?」
「プールやってないからでしょ。お子様だもん」
その声は、近くのベンチから聞こえた。
さんさんと降り注ぐ日差しの下、ルリコはベンチにもたれかかり、まるで溶けかけたアイスのようになっている。機嫌も体調も悪そうだ。だったら日陰に入ればいいものを、その気力さえ湧かないらしい。
「違ェな。あれはそういう怒り方じゃねえ。俺サマの勘がそう言ってる……レイジ、お前、ここに来る途中でなんかやらかしたろ」
レイジは重く頷くだけだ。自分がカナタを怒らせたことだけは分かるが、怒らせた原因となると、思い当たるフシがありすぎて、軽率に謝れない。
彼は憂いたっぷりの面持ちで、この瞬間でさえぎゃあぎゃあとわめき続けている彼女の背中を見つめることしかできない。
「……最初は、うまくいってた気がするんだが……」
「ま、仲がもつれたときは、時間が解決することもあるさ」
そう言って、フミオはレイジの肩に手を回すと、そのままどこかへ連れて行こうとした。
「どこ行くの」
ベンチと一体化したままのルリコが、ぼそりと尋ねる。
「ちょっと、プールの件を聞きに。ついでに何か食いモン買ってくるわ」
男たちが、こんな時でもそれなりに賑わっているプール前の屋台の方へと駆けていく。あとには、溶けかけたルリコが残された。
「はあ、はあ……くそ……ずっと文句言ってたら怖い人が出てきた……」
彼らが雑踏に消えた直後、カナタはぶつぶつ言いながら戻ってきた。
「あれ、アホのレイジとフミオは?」
「なにか食べ物、買ってくるって」
「そっか」
ルリコの隣に、カナタが腰を下ろす。
近くの街路樹でアブラゼミが鳴き始めた。夏の風物詩だなんだのと言っても、こんな暑苦しい状況では耳障りなノイズでしかない。
頭の中にシイシイと響き渡る鳴き声を聞いていると、カナタの頭には、合宿所裏の山から降り注いできた蝉時雨が否応なく蘇ってきた。
酷暑の下の草むしりで繰り広げられた光景は、ほとんど戦争映画だった。
体の弱いザワちんが開始三分でブっ倒れたのを皮切りに、バタバタと脱落者が続出。カナタ自身何度も意識が飛びかける中、『これが終わればプール』と言い聞かせて乗り切った結末がコレだ。
「くそあついわ……」
流石のルリコも心が折れかけている。自慢の黒髪は肩いっぱいに広がって、周囲の可視光線を丸ごと吸収している。辛そうだ。
「海はいいぞォ。点検とか閉鎖とか、ねえし」
「うっさい」
あえて軽口を叩きながらカナタが伸ばした手を、ルリコが気だるそうに振り払った。
「もっと素直になった方がいいんじゃねえの?」
「お黙りなさーい」
その言葉に素直に従うほど、カナタは従順ではない。けれど、ルリコとは、取り立てて語るべき共通の話題もなかった。
ふと、会話が途切れたまま、続きをどう繋げばいいのか分からずに、カナタは口をつぐむと、本当に言葉が途絶えてしまった。
そっと視線を横にずらすと、ルリコが空にかざした手の下で、浅く呼吸を繰り返していた。ぐったりした彼女の額には、汗ひとつ浮かんでいない。それがかえって、カナタを不安にさせる。
「ルリコってさ」
「ん」
ルリコの生命活動を確認するように放った一言だったが、返事をもらってから先のことを何も考えていなかった。
「……ルリコってさ。フミオと付き合ってたんだろ?」
「ハハ。今そういうこと聞くの?」
苦し紛れでひねり出した一言に、ルリコは笑った。
「そうよ。入学一週間で付き合い始めた」
「で、すぐ別れたって?」
「そうねえ……」
ルリコは、なおも笑う。水分の最後の一滴まで搾り出したのではないかと思ってしまうほど、乾いた笑いだった。
「破局だのなんだの、アイツが勝手に言ってるだけなんだけど」
「あ?」
「塩水だってさ!」
聞き返す間もなく、フミオが戻ってきた。
「なんか、水道水に塩水が混ざったんだって。んで機械が壊れたとかなんとか……」
「あら。それなら街中で海水浴が楽しめそうなのにね。残念。ところでそれ、何?」
「腹減ってんだろ。俺がメシ奢ってやる。ほれ」
言いながら、フミオがまず、カナタの手にスチロール製の容器を渡してくる。じんわりと熱が伝わってきて、すぐにウロコの下から汗がにじみ出てきた。
「フミオ、マジかよ……」
出来たてで湯気を立てるホットドッグだった。
「こんなバカ暑い日に!? 狂ってんのアンタは!!」
まったく同じものを手渡されたルリコが、ここまででだいぶすり減らされた命を更に削るような勢いでツッコミを入れた。
「しゃあないだろ、アイスキャンデーとかはプール目当てだったやつがしこたま並んでたんだよ」
「まあ食べるけど」
ルリコが勢いよく、ホットドッグを口に突っ込んだ。
「食べるのか……」
汗をだらだらと流しながら一心不乱にホットドッグにかじりつくルリコを見て、カナタが半歩後ずさった。周囲の雑踏も彼女の鬼気迫る様子に恐れをなしてか、近づいてこない。
「モグ……あのね、フミオ。おいしくいただいてますけどね。最悪のチョイスよ。レイジでも、もうちょっとはマトモなもん持ってくるからね」
「お前なあ。あのボンクラに何を期待してるんだよ」
「待たせたな」
狙い済ましたかのようなタイミングでレイジが戻ってきた。ぷうん、と独特な香りを漂わせるドンブリが、彼の両手に握られている。
全員の視線がそこに注がれたスープに集まる。湯気を立てるスープの中にぶつ切りの茶色いものがいくつも浮いている。それはどう見てもモツ煮だった。
「なんで?」
煮えたぎるモツ煮を前に、もはや自分のツッコミ役すら放棄して純粋な疑問を投げかけるルリコ。その背後でカナタとフミオが黙って俯いた。肩が小刻みに震えている。
しばらく彼らがこらえていると、ズルズルとモツ煮をすする音が聞こえてきた。
「まあこれも食べるんだけど……」
「ブッ」
フミオがとうとう噴き出した。
「だってもったいないでしょ! 私の前で食べ物粗末にしたら殺すわよ!」
「アタシの作った弁当は食わないくせに……」
勢いよくモツ煮を胃袋に流し込んでいたルリコの手が、ピタリと止まった。
どんぶりに口をつけたまま、彼女はレイジに向かって上目遣いに鋭い視線を放ってよこす。
「私、ちゃんと伝えてって言ったわよね。コイツに、少しは頭使えって」
「は? ルリコに何言われたんだよ?」
「待ってくれ二人とも。待ってくれ、本当」
まるで狂犬のように牙を剥く二人に挟まれておろおろするレイジ。
正直面白い光景なので、フミオはしばらく見ていたかったが──いい加減どこか、涼しい場所に避難したいという気持ちも強い。
ニンニクと味噌の強烈な匂いが鼻をくすぐるなか、彼は避暑地を探して周囲を見回した。そして目に留まったのは、市民プールに負けず劣らず古びた建物だった。
「おい! 映画はどうだよ、映画館。エアコン効いてるし、きっと涼しいぜ!」
「あー?」
完全に目が据わったルリコが熱気の向こうに目を凝らす。そこには確かに、灰色の箱のような建物がある。
映画館だった。スクランブル交差点に面しているという好立地ながら客入りは芳しくなさそうだ。外壁に糊でポスターが貼り付けられている他は飾り気のない建物で、入り口をくぐった先の薄暗いロビーでは、ガラスのカウンターの向こうで受付の男が暇そうにあくびをしているのが見えた。
「私が映画嫌いって、知ってた?」
「なんでだよ、いいじゃん映画。行くぞ、おまえら」
「ああもう、なんで私がこんな目に……」
ただでさえ低いテンションが急転直下のルリコをグイグイ押して、カナタが建物へと向かっていく。男どもは、肩をすくめてついていくことしかできない。
■
重たい扉を押し開け、がらんとしたロビーに足を踏み入れる。
「いらっしゃせー」
スタッフのだるそうな挨拶が響いた。
古びたエアコンが湿ったカビ臭い冷気を吐き出し、壁に画鋲止めされたポスターの群れが、黄ばんだ端を風に揺らしている。
元が何色だったかも分からないほど色褪せた灰色のカーペットを四人が踏みしめて進むと、受付が見えてきた。
ホコリをかぶったパンフレットのケースに片肘をつき、こちらを見ている男の姿を認めた瞬間、カナタとレイジは「あ」と声を上げていた。
「ここで何やってんだよ」
忘れたくても忘れられないほど、特徴のある顔だった。
カナタは三人を置いて男のもとへと向かい、カウンターに手をつく。彼女は目に浮かぶ警戒心を、隠そうともしない。
「おっさん、ヒマなの?」
「オ、ニ、イ、サ、ン、な? ──ここのバイトって穴場なんだよ。人、滅多にこないから」
お前らみたいな物好き以外はな、と続ける彼の目元には、特徴的なケロイド。数日前、レイジの財布をスッカラカンにしようとした、ホームセンターの園芸担当だ。
「なあ、レイジさんよ」
フミオが、脇をつついてきた。
”ケロイド男”の白シャツから伸びるたくましい腕には、筋肉の束がクッキリ浮き出ている。アームレスリングなら、レイジとだっていい勝負ができそうだ。
「あれ、どう見てもカタギじゃねえだろ」
「ホームセンターで見かけた。親切でいい人だぞ」
「どうかしら。レイジの人物評って、アテにならない感じ」
ルリコにそうツッコまれて、レイジは心外そうに眉根を寄せた。
実際、彼女の言い分はもっともだ。
あの日カナタが止めなければ、今ごろ彼のマンションの植え込みでは、花ひとつ咲いてないのに五十万円のスプリンクラーシステムが元気に稼働していたに違いない。
「オススメ教えてよ。パンジーの押し売り以外で、たのむな」
背後のやり取りなんて聞こえていない様子で、カナタが聞いた。
「そうねぇ」
ケロイド男は一ミクロンも悪びれる様子もなく、営業スマイルを浮かべたままカナタを見下ろす。
「古い映画はだいたいなんでもやってるよ。ただ──」
「出た。リバイバル地獄」
ルリコが薄い胸を押さえて、吐き気を堪えるようなしぐさをする。
「そこの黒髪のきれいなお嬢さんは映画嫌いかい?」
「どっちかというと映画についてくるモロモロが嫌いなの、ほっといて。あと髪褒めてくれてありがと」
「髪、自慢なのかよ。俺知らなかったぜ」
「元カレ名乗るならそのくらい知っとけ、バカ」
あくびをかみ殺しながら、辛抱強く学生たちのやり取りを見守っていたケロイド男は、改めて目の前のカナタに向き直る。
「最近アチコチ浸水被害があってな。ウチもやられちまって、機材がオシャカ。今やってんのはこの一本だけだ」
そう言って、頭上を指さす男。その指先につられるように、全員の視線が自然と上を向く。
「マジかよォ……」
閑散としたロビーに、フミオの弱々しい悲鳴が木霊した。
その映画は『焼失』という邦題が付けられている。
原色ギラギラの巨大なポスター。バタくさいキャラクターたちと、古臭いデザインのタイトルがでかでかと踊る。三人の男女が劇画調で描かれ、背後には燃え盛る星と、火照りに照らされた顔で睨みをきかせるチョビ髭の悪党の顔が大きく描かれている。
「は? 帰る」
ルリコのローファーのかかとが、床に鋭い音を立てて180度ターンした。
「そう言うな。カネの心配ならしなくていい」
しかし、撤退は許されない。彼女の背後から音速で伸びてきた逞しい手が、ガッとその肩を掴むと、さらに180度回転させた。
「これは俺の原点だ。ルリコが好きになってくれるまで、いくらでもおごってやる」
いつになく熱の篭った声で語りかけたのはレイジだ。
「うがあああ! さわんな! 離せ! 私がこの映画どれだけ嫌ってるかアンタ知って──」
「これで。四人分」
「ハイまいど」
「イヤだあああああッ!」
大人びて落ち着き払っていたはずのルリコが、まるで子どものように足をばたつかせて全力で拒否する。
だが、レイジはその願いを一切無視し、チケットを彼女の手に押し付けた上から、ぎゅっと握る。ゲームセットだ。
「やめて! やだ! アンタらも見てるだけじゃなくて、助けなさいよおおおぉぉぉぉ……!」
そう叫ぶ彼女の声を背に、レイジはそのままルリコを引きずって廊下を突き進む。擦り切れたカーペットには、彼女のローファーが刻んだワダチのような跡が伸びていった。
「どうすんの、これ?」
カナタが改めて聞くと、目を離した隙にだいぶゲッソリしたフミオが肩を落とした。
「行くしかねーだろ。あとで見捨てたって、ルリコに一生恨まれたくねーし。ホイ」
「……ん。あんがと」
フミオはチケットをカナタに手渡してレイジたちを追いかけた。
彼らの足音が遠ざかっていくと、ロビーは元の静けさを取り戻す。
「やれやれ」
受付の男はイスにどかっと腰を下ろし、雑誌を手に取る。
ついでに灰皿から半端に残ったシケモクを拾い上げる。火をつけようとした時、ふと視線を上げると、白髪の少女が一人だけ残って、ケースに収められたパンフレットをしげしげと眺めていた。
「……何。まだなんかあんの?」
「うーん」
カナタはカウンターを覗き込んだり、ポスターを見上げたりと、落ち着かない様子だ。
「映画館って、どうやって楽しむモンなんだ?」
「なによ。お嬢ちゃん、映画初めて?」
興味をそそられた様子で、ケロイド男がカウンターから身を乗り出す。
「そういうわけじゃないけど。映画なら家ではよく見るよ。ドラゴンのやつとか、カンフーのやつとか。でも、ここって……いろいろ大きいだろ?」
「深いこたあ考えず、ただ座ってりゃいいんだよ。ぶっちゃけると、どこで映画見るかってより、誰と一緒に見るかよ」
「誰と、いっしょか……」
カナタはその言葉を反芻する。
「ああ。頑なに認めたがらないヤツもいるが、こいつは映画だけじゃねえ、この世界の唯一絶対のルールだよ。俺が保障する────いけねえ、こいつを忘れてた!」
男の言葉が分かったような分からないような顔で、カナタがその場を離れようとしたとき、小さなバケツほどもある紙容器が彼女の前に差し出された。
「こいつがなきゃ映画館に来た意味がない」
それは、てんこ盛りのキャラメルポップコーンだった。うっとりするほど甘く、ふんわりとした香りが漂う。ケロイドが刻まれた頬をほんの少し緩め、男は名も知らぬ少女に向けて、驚くほど清々しい笑顔を見せた。
「それ八百円ね」
「金取るのかよ。そして高ェな」