海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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4.その名は『焼失』(5)

 

 仲良く並んで映画を鑑賞するカナタとルリコ。

 その様子をやや後方の席から見守りつつ、腕組みしてウンウン頷いている怪しい観客がいた。

 

「……やはり映画はいい。特に”焼失”は」

 

 わざわざ言うまでもないことだが、レイジだ。

 

「今日は二人にその良さを伝えることができた。俺は……うれしい……」

 

 満足げに、誰に聞かせるでもなく呟いて、彼は座席に体を預けた。

 そこをカナタに見られたなら、即史上最大級の『きめえ!』が飛んでくるのが目に見えるようだったが、彼女の意識はジャックの駆る宇宙船スピードスター号に乗って”焼失”の世界を飛び回っている最中だ。

 

『うおっほん』

 

 ふと、隣からわざとらしい咳払いが聞こえた。

 そこはレイジが劇場に入ってきたときには間違いなく空席だったはずだ。

 振り返る。フミオが前の座席に足を乗せて居眠りしている。そして前の列にはルリコとカナタの頭が見える。

 

 ────誰? 

 

 ちらりと目を向けた。

 

『や』

 

 亀裂の入った灰色の瞳がすぐそばでレイジを見ていた。

 

「…………久しぶりだな」

 

 少女が座っていた。不思議と、驚きはなかった。

 

『へへ。なんだかそんな感じだよね』

 

 レイジの悪夢に現れ、何千回も入水自殺を繰り返した存在。そして彼をカナタの元に導いた『夢の少女』が、座席の上で三角座りをしていた。

 

『ずっと一緒にいたのに、何年も話せなかったみたい』

「ずっと?」

 

 小さな違和感に、レイジは首を傾げる。

 

『……言葉のアヤってやつ。私のことは、背後霊みたいなモノだと思って』

 

 少し歯切れ悪く言ってから、少女は指で髪を梳いた。劇場に空気の流れはない。それでも彼女の黒髪は、海中にあるかのように宙を漂う。

 レイジは改めて、彼女の姿を観察する。歳はどう見積もっても小学生くらい。灰色のワンピースのようなものを身につけている。衣擦れの音はしない。匂いもない。ついでに言うなら存在感すらない。

 ここにいるのに、ここにいない。まるで、一枚の模造紙を少女の形に切り抜いたものが動いているような非現実感があった。

 

『な、なんだよ。そんな見られると、て、てれるなあ……』

 

 黒髪の少女は、気まずそうに笑って視線を逸らした。その先にはスクリーンがある。

 ジャックの握る重レーザーブラスターが火を噴く。真っ赤な光線の雨が夜の町を切り裂き、砂漠のバザールを焦土に変えていく。

 

『うおっ、すごい迫力! やっぱり映画館で見ると迫力がダンチだね!』

 

 数十年前の映画とは思えないほどの派手な爆発と重爆音に小さく肩を震わせながら、彼女は顔を輝かせて、炎に包まれた世界に見入っている。

 

「分かるかい」

『ええ。レイジが好きになるのも分かる! 私、いっぱい爆発していっぱい全部なくなっちゃうのが好き!』

 

 こちらを向いて笑った少女の顔は劇場の闇の中で浮かび上がるほど眩しい。レイジの瞳の中で、その姿が輝く。

 

『ついでに、悪いヤツがいっぱいフッ飛ぶのも!』

「……そういうところは、子供っぽいんだな」

『ふふっ、レイジは子供はキライ?』

 

 少女は笑ったまま、再び炎に包まれた画面に目を向けた。まるで、あの燃える世界こそが、自分の居場所だと言わんばかりに。

 

『好きとか、キライとか……最初に言い出したのは、誰なんだろうね』

 

 前の座席の背に寄りかかって、彼女はジャックと砂漠王女のキスシーンをボンヤリと見つめる。

 彼女は子供のような姿で、子供のような振る舞いをするが、舌を絡め合う男女を前に照れるようなことはない。そういう場面を二人で見つめていることに若干の気恥ずかしさを覚えているのは、むしろレイジの方だ。

 

『レイジはさ、恋ってしたことある?』

「ない」

 

 即答すると、少女は苦笑した。

 

『じゃあちょっと考えてみようよ』

「考えるって、何をだ?」

『もしもってやつ。例えばルリコ……さん、とか……いいよね。気が強いけど意外とモロそうな美人って。どう?』

 

 レイジは黙ったまま、スクリーンを見つめていた。

 少女はくすっと笑うと、もう一度だけ言葉を投げかけた。

 

『……じゃあカナタちゃんは?』

「カナタは……」

 

 レイジは言葉を詰めた。

 

「その……俺は。どうだろう……」

 

 たしかに頭の中にあった言葉が、カナタの名前を出した途端に解けて崩れてしまった。彼が少ないボキャブラリーを尽くしてそれを元の形にまとめなおそうとしても、いっそう意味の分からない言葉の塊となって、胸の中にモヤモヤと漂うだけだった。

 

『カナタちゃんは、すごくいいよね』

 

 少し苦しげなレイジの様子を脇目で見ながら、少女は悲しそうに笑った。

 

『口は悪いけど素直だし、料理もできる……なにより、たぶんあの子……』

 

 ドサリ。

 

 彼女が最後まで言い終わる前に、その片腕が外れて床に転がった。

 

『あ』

 

 ぷうん、と異臭が漂う。

 半ば尻を浮かせたレイジの前にあるものは、腕ではなく、泥の塊だった。それを見つめる少女の目に、徐々に底知れぬ怒りが滲み出してきた。

 

『クソが……』

 

 形の歪んだ唇から吐き出されたのは、少女らしさなど微塵もない、ドギツい憎悪にまみれた低い声だった。

 

『あっ、あっ、違うの。今のはレイジに言ったんじゃないから。ただ、思ったよりも、こうなるのが早くて……あわっ』

 

 必死に弁解する少女の体の腰から下が完全に崩れた。驚愕の表情を浮かべた少女とともに、支えを失った上半身が床に叩き付けられ、陶器のように砕け散る──

 

「危ない!」

 

 ──その前に、レイジが飛び出して、彼女の体を抱き上げた。ちょうど、そのタイミングでスクリーンを爆発が埋め尽くす。崩壊しつつある宮殿の中に、顔を煤で黒く染めたジャックがヒロイックに登場する。

 

「大丈夫か……?」

『あっ……うん……おかげさまで……ぶじです……』

 

 レイジの腕の中にいる少女は、もはや頭と胴体だけしか残されていない。

 

『かっ、顔、顔近い。こういう距離、ちょっと緊張する……』

 

 とても無事とは言えない状態で、彼女は頬を赤らめて僅かに顔を逸らす。その体すら、端の方から汚泥に変わって床に流れ始めていた。

 

「教えてくれ」

 

 自分の体が泥にまみれるのもかまわず、レイジは必死に彼女を抱き留める。

 

「どうすれば助けられる。今もきみは、俺の夢の中で死に続けている。それどころか、どんどんひどい死に方をするようになっているんだ」

『私とレイジの結びつきが強くなったからだろうね。君が力に目覚めるほど、君の怒りも深くなる……海みたいに』

 

 映画、最後まで見たかったな──頬が泥となって削ぎ落ちる中、少女はじっとスクリーンを見つめて呟いた。

 

『……レイジの奥に、私がいるんだ。思い出せないほど深い場所に』

 

 □

 

『マルデロォーッ!』

 

 煙と炎に埋め尽くされた宮殿の中をジャックが進んでいく。

 彼のレーザー砲がうなりをあげて、行く手を阻むマルデロの手下たちをなぎ倒していく。

 

『俺とお前だ! もう俺にはお前だけなんだッ!』

 

 妹ローズ、そして相棒トリガーを失った彼は復讐の化身に成り果ててしまった。星を牛耳る麻薬王はもはや形無し。マントも王冠も投げ捨てて逃げ惑うことしかできない。

 

『俺はお前のすべてを燃やしてやりたい!』

 

 マルデロを追うジャック。そして彼をも飲み込もうとする業火が、その背後から迫る。

 

 □

 

 少女はレイジに目を戻し、そっと微笑みかけた。

 

『その怒りを否定しないで』

 

 そして、崩れかけた顔を劇場の入り口に向けた。

 

『向こうで待ってる。きて』

 

 ふわりと笑った少女から、耐え難い悪臭が漂った。レイジが引き留めるまもなく、彼女の体は一気に溶けて、黒い汚泥だけがレイジの指をすり抜けて劇場の床に広がっていった。

 

「……わかった」

 

 しばらく固まっていたレイジは立ち上がり、手の中に残されたものを見る。

 

「すぐ行く。きみを助けに」

 

 それは赤い魚の死骸だった。

 生臭い死骸の目がギョロリと動いて彼を捉えた瞬間、それもドロリと溶けて泥の塊になってしまう。

 床には点々と泥の跡が残され、スクリーンの輝きに照らされて光っていた。ヘンゼルとグレーテルのパンくずのように続く泥の跡は、劇場の外に向かって伸びていた。

 

 ■

 

 点々と続く汚泥の跡が男子便所へと彼を誘った。

 トイレは半地下にあり、その扉を開けた途端、蛍光灯の明かりに照らされた、不潔で湿った空間が彼を出迎えた。

 アンモニアの香りが彼を取り巻く。

 床に小便か何かの液体が乱暴に撒き散らされて、薄く広がった水溜りが排水口へとゆるゆる流れている。その中へ躊躇無く踏み込んで、レイジは泥を追った。

 

「来たぞ。俺はどうすればいい」

 

 便所は細長い構造で、壁際にズラリと並んだ小便器が、無機質な明かりの下で監視者のように佇んでいる。

 

「俺は何だってする。あの夢にケリをつけられるのなら、きみを助けられるなら、文字通り何でも」

 

 どれだけ呼びかけても、耳朶をくすぐるような甘い少女の声が返ってくることはない。

 天井の蛍光灯が点滅する中、その黄ばんだ光が届かない暗闇──突き当たりに一つだけ据え付けられた個室の僅かに開いたドアの隙間から見える闇が、レイジに手招きをしていた。

 

 ドプ。

 

 次の一歩を踏み出したレイジを、足首まで冷たいものが飲み込んだ。

 顔の近くまで跳ね飛んだ水滴の中に無数の赤い斑点が万華鏡のように踊っている。足元に目をやったレイジの周囲を、何千、何万という数の赤い魚の群れが、ぐるぐる、ぐるぐると渦を巻いて回っていた。

 

「出てきてくれ。きみを助けたい」

 

 明らかに異様となりつつあるトイレの中心で、レイジは至って冷静だった。これは予兆だ。あの焼肉屋で少女の声を聞いたときとまったく同じ。

 つまり、俺は今あの少女に近づいている──レイジは確信して前に進んでいく。骨まで凍えるような水の冷たさは、すでに膝頭まで登ってきていた。

 

『レイジ』

 

 魚たちが無数の声で語りかけてくる。レイジが水を掻き分けて便所の奥へと進む間、水かさと声の数は絶え間なく増え続けた。

 

「ああ」

『海へ』

 

 水面と耳との距離が近づいた分、魚たちの囁きがより鮮明に聞こえる。そして、それは少女とレイジとの距離でもある。

 

「聞こえてる、大丈夫だ」

 

 洗面台の蛇口から、壁の中を走る便器の給水管から、天井のダクトから。今やありとあらゆる場所から黒い輝きをたたえた水が噴出し、トイレを水底へと沈めつつある。

 

『海へ連れて行って』

 

 不潔な水が胸を浸すほどまで上り詰めても、レイジが止まることはない。

 ただ、彼は確かめたかった。少女が自分に何をさせたがっているのか。どうやったら、彼の見る夢を終わらせることができるのか。

 カナタと自分を結びつける運命が、いったいどこへ向かおうとしているのか。

 

「そこにいるのか」

 

 レイジは個室の前に立ち、水中でノブを握った。冷たい金属が手の熱を奪う。

 それまで彼に付きまとっていた幾万という声がシンと静まり返る。あれほどうるさくしていた魚たちは黙りこくって、次に起こることを期待するようにぐるぐると彼の周りを泳いでいる。

 

「開けるぞ」

 

 返事はない。天井から壁から、おびただしい水がこの瞬間も流れ込んで水面に激しい波を引き起こしているにも関わらず、レイジに聞こえるのは、レイジの声と、錆付いたノブがきしみをあげてゆっくり回る音だけだった。

 

 

 ギリギリとノブが回る。

 

 レイジの心臓も、知らずに高鳴る。

 

 

 そして────

 

 

 

 ドッ

 

 

「うおっ!?」

 

 ドアを僅かに開けた、その瞬間。

 

 闇の向こうから押し寄せてきたのは、怒り狂った海そのものだった。

 あきらかにおかしい量の水が、巨大な水の拳となってレイジを殴りつけた。

 ノブをしっかり握っていた手がもぎれるほどの水圧で吹き飛ばされた彼は、水切りのように二度水面で弾けた後に沈んで、ゆっくり浮き上がってくる。

 

『あはは』

 

 呆然と浮かんでいるレイジを取り巻く魚たちが笑い声を上げた。

 

『ぷっ……あは、あはははは!』

 

 そんな中で一際明るい声で笑っているものがいる。

 

 少女だ。

 

 開け放たれた個室から現れた彼女が、水面を歩いてくる。彼女を慕うように、赤い魚たちがその足元で跳ねているのが見える。

 

『ごめ、ごめん、ちょっと張り切りすぎちゃった!』

「きみは……え、今のって、その……悪ふざけ、のような?」

『……おっとと。はしたない』

 

 レイジの前までやってきた彼女は、彼の目線の高さに気づいてワンピースの裾を押さえた。軽くはにかみながら、しゃがみ込む。

 劇場で姿を現したときでさえ空気のようだった彼女の気配は、今やほとんど消えかかり、蛍光灯の光が透けるほど、その輪郭があいまいだ。

 レイジがため息を漏らしてしまえば、それで掻き消えてしまいそうに儚い。

 

『ちょっとね、水遊びしたかったの。ほら、あのプール、壊れちゃったじゃない?』

「俺は便所の水に浸かっているみたいだが……」

 

 少女はまた、声を上げて笑った。

 

『あとはね。レイジともうちょっとお話したかった。この水の近くなら、溶けるの少し遅くなるから』

 

 決してイヤミな笑い方ではない。無邪気で屈託のない表情で、白い喉を見せて声を上げる姿が、劇場でふと見せた陰鬱な雰囲気をレイジの中から払拭していく。

 

「は、はは……」

 

 気づけば彼も、かすかに声を漏らして笑っていた。

 

『私も夏の思い出ってやつ、作りたかったから。ただ、気合入りすぎたっていうか……』

「次は、前もって何か言ってくれ」

『へへ。そうだね』

 

 首元まで水に浸かったレイジに、少女は手を差し伸べた。

 

『夏は短い』

 

 その手を取って、少女は頬に触れさせた。

 レイジは彼女を感じない。手に触れた、といっても少女がそのように振舞っているだけで、空気と彼女との違いは、見えるかそうでないかに過ぎない。

 

 それでも彼は、ほのかな暖かさを感じる。まるで体の内側で火が燃えているようだった。

 

『終わったものは決して戻ってこない。じだんだ踏んでも、べそかいても、かわりなんてどこにもない』

「来年も夏はくる」

 

 少女は虚をつかれたように目を丸くした。

 深く考えた言葉ではなかった。同じことをフミオに言われたルリコが言い返したのを、そのまま口にしただけだった。

 

『でもそれは……よく似た別物だよ。レイジ』

 

 表情を曇らせた少女の体が、一瞬にして泥になって崩れ落ちる。

 

「あっ!?」

 

 彼女の体だったものが、黒いもやとなって水の中に広がっていく。レイジはとっさに掻き集めるが、そんなことをいくら続けても、少女は戻ってこない。

 レイジの手の中に残ったのは、水のぬるさだけだった。それでも彼は、いつまでも両手を水中に差し出したまま、ただ、何かを確かめるように拳を握り締めていた。

 

『レイジ!』

 

 呆然としていたレイジを、聞きなれた声が現実に引き戻した。

 

『何やってんだ、こんな所で……うわっ』

 

 カナタがトイレの入り口に立っていた。

 足を踏み入れるなりスニーカーの足首まで水に浸けてしまった彼女は、思いっきり顔をしかめる。

 

『なんだこの水、きたね……』

 

 カナタは濡れた足を見つめて、髪を指で梳く。レイジにとって見慣れた顔。聞きなれた声。なのにどこか、水の膜を通したようにぼやけて感じる。

 

「どうして、ここに?」

 

 些細な違和感を、とりあえずトイレの構造のせいだと自分に言い聞かせて、レイジは聞いた。

 

『あ? そりゃ、きみ……オマエが出て行くのが見えたから……とにかく、なんか、気になったんだよ。わっ、わりいか!?』

 

 こんな場所にまで平然と踏み込んでくるカナタに多少面食らいはしたが、そういう大胆なところがいかにも彼女らしい。

 

 らしい? 

 

 足にたかる無数の魚を蹴散らしながらやってくる彼女を見て抱いた違和感の正体がつかみきれないまま、レイジは歩き始める。これから、多くのことを彼女に話さなければいけない。

 

「実は今────」

 

 そこでレイジは押し黙った。

 カナタの背後で水面が一気に黒く濁ったと思うと、それが音もなく膨れ上がる。何か。よくないものが浮いてくる。

 

『レイジ、どうした?』

「こっちへ!」

『ッ、なん──うっ』

 

 カナタが振り向くよりも早く、真っ黒で筋張った腕が彼女の首を捕まえた。彼女には抵抗する隙もない。レイジの見ている前で、彼女が宙吊りにされる。

 

「やめろ!」

 

 レイジの怒号が飛ぶ先に、トイレの天井に頭がめり込みそうなほどの巨体が立っている。

 皮膚は棘だらけで、皮膚の継ぎ目からは黒い水が滴っている。首をかしげたその顔には目も鼻もないのに、中央に、無理やり『笑顔』にされたような歪な裂け目がある。

 

 ”つくり笑い”だ。

 

 どうしてヤツが? 潰されて死んだはずでは? 

 

 レイジの頭の中をパニックの嵐と共に駆け巡る問いに答えは出ない。

 

『がっ……あっ……』

 

 しかし”つくり笑い”に喉を締め上げられたカナタがしゃがれた悲鳴を上げた瞬間、レイジの中で爆発した怒りが、彼の殺意を研ぎ澄ませた。

 

「カナタを──離せ」

 

 飛び出したレイジの加速のあまり、水面が爆発したように弾ける。

 

 彼は抵抗の大きい水中ではなく、壁を蹴って”つくり笑い”に接近する。”つくり笑い”は構えない。ただ、レイジの反応を面白がるように、カナタの体をぶらぶらと揺らしながらそこに立っているだけだ。

 

 今のレイジがロケットなら、怒りが推進剤だ。

 真っ赤な怒りが真っ赤に爆発しながら、彼の全身を駆け巡る。

 

 ズドン、と踏みしめられた壁に亀裂が走る。

 彼の巨体を地面に縛りつけようとする重力を、パワーで無理やりねじ伏せる。レイジは壁から壁へ飛び移り、あっという間に”つくり笑い”に接近する。

 振り上げた右手の拳を固める。その顔には殺意が漲っている。

 目の前の怪物をこれからどうやって殺してやろうかという考えで頭の中を充満させながら、その片隅で、背を向けているカナタが今の自分の顔を見ないで済むことに感謝する。

 

「うせろ」

 

 トイレ全体が震えた。

 水面を引き裂くほどの衝撃が走る。

 

 必殺の威力がこめられた拳がとうとう自分の胴を貫通する瞬間まで”つくり笑い”は身構えることすらしなかった。

 今はただ、レイジの拳が突き刺さった胸を、不思議そうに眺めている。すぐその体から力が抜けた。ぐにゃりと折れて、二度と動かなくなる。

 

 あまりにもあっけなかった。

 

「カナタ、大丈──」

 

 レイジの放った一撃の衝撃で投げ出された彼女が、うつ伏せで汚水に浮いていた。

 

「は? ……あ……? なんで……?」

 

 彼女の首が不自然な角度で折れ曲がっていた。 

 妙な突起が浮き出た彼女の首が、レイジの作り出した水面の揺れに合わせてがくん、がくんと、緩やかに揺れている。

 震える手で、その背中に触れる。

 何も感じない。呼吸も、鼓動も。わずかに残った体温すら、便所を満たす汚水によってゆるやかに失われていくのが分かる。

 

「ウソだ」

 

 思わず後ずさろうとするレイジの腕を、突き刺さったままの”つくり笑い”の重みが引き留めた。

 反射的にそちらを見たレイジの顔が恐怖に引きつった。

 確かに”つくり笑い”を刺し殺したはずだった。しかし、今彼の腕に貫かれているのはカナタなのだ。海の色を映した青い瞳が、驚愕に見開かれている。

 カナタとカナタ。死体と死体。

 

『レイジ。ねえ。お願い、本当にこうなる前に海まで来て』

 

 いつの間にか現れた少女が血の色の唇を引き結んだ。

 

『私に会いにきて。この夏が終わる前に』

 

 水面を滑るようにしてやってきた少女が、水に浮いたカナタたちを跨いで歩いてくると、彼女はレイジの胸に軽く触れた。

 

『まだ終わってないよ、レイジ。きっと間に合う。だから、来て。今度こそ──』

 

 そして、押す。

 レイジの体は何の抵抗もなく、仰向けに倒れた。そのまま、水の中に沈んでいく。そこは、黒い汚水の海などではない。花と潮の香りがする青い青い深淵へと、彼の体は飲み込まれていった。

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