海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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2.打って、叩いて、壊れたままで(1)

 

また夢を見た。

 また女が死んだ。

 俺は真夜中に飛び起きた。

 

 

 たいてい、安さには何らかの代償がついて回る。

 町のはずれに幽霊のように(たたず)むそのマンションの場合、新しさと、快適さと、ムードと、まともな管理会社の存在がそれに該当した。

 もともとの色がわからないほど腐食した壁はジットリ濡れたネズミ色。ひび割れた外壁からはたくましい草が緑色の顔を覗かせ、建物から染み出す謎の水分が、ひび割れて劣化した中庭兼駐車場の片隅に小さな池を作っている。

 そういうところに、レイジは住んでいた。

 

『ンだこりゃ。殺人鬼の隠れ家か』

 

 そう言って、フミオは笑顔を引きつらせていた。

 

『廃墟って住んでいいんだっけ?』

 

 家を訪れたルリコが呆れて見せたことがある。

 だがレイジに言わせれば、住めば都だ。

 八十キロのバーベルを床に放り投げようが、秘密のホームシアターでお気に入りのSFアドベンチャーを爆音で上映しようが、誰も文句を言ってこない。それだけでも十分すぎるほどだが、レイジにはもう一つ、この家が気に入っている理由がある。

 

 焼肉屋の便所をめちゃくちゃにした。あの、破壊衝動だ。それをどれだけ発散しようが、誰も巻き込まれない。

 

 だからいい。

 

 ここは、どこにもうまく馴染めない彼の、唯一の居場所だった。

 

 そんな孤独な男がムクリと起き上がったのは午前4時。

 この部屋で目覚まし時計がベルを鳴らしたことは一度も無い。

 安眠なんて言葉と無縁のレイジは、真夜中に目を覚ましてからカーテンの向こうが明らむまで、毛布のなかでじっと息を潜めていただけだけに過ぎなかった。

 

「蹴っ飛ばしたか……」

 

 窓辺のフローリングに直置きされた位牌が、倒れていた。

 石動(イスルギ)何々霊位と彫られた木材を立て直す彼の顔に、特別な感情が浮かんでくることは無い。

 

 レイジには記憶がない。

 

 過去七年より前はバッサリ失われていて、交通事故とか災害とかで死んだと言われた自分の親の名前も、顔も、思い出すことは無い。一度、彼の姉に会ったという人物が長い時間を使って思い出を語ってくれことがあったが、

 

『ああ、そういう人がいたんですか』

 

 と返した時の相手の悲痛極まる顔と、未発達な心ながら感じた申し訳なさが、家族に関する思い出の中で一番鮮烈なものだ。

 それでも形だけ、手を合わせる。

 

「元気か?」

 

 実感のない相手に、実感のない言葉を掛けてから、レイジは台所に向かう。

 

 部屋が荒れ放題なのと同じく、そこにある冷蔵庫もマトモな状態ではない。それが生み出す食生活もまた、ひどい荒れ模様だ。床に転がった金属ボウルを拾い上げ、中に卵と米と納豆を突っ込んで混ぜる。そうすると泥沼のようなものができるので、飲む。これが彼の食事だ。

 

 

 洗顔と歯磨きも同じように、家畜の世話のように無造作に終わらせる。

 

 

 戸棚から包帯をひと巻き取り出したら、カギを閉めずに外へ。前髪から滴る水を外階段にポツポツと落としながら両手に巻き付け、階下へ降りていく。

 

 曇天。四方をボロボロの鉄筋コンクリートの壁に囲まれた駐車場。

 その片隅に、異様なものが突き刺さっていた。

 

 鉄骨だ。

 

 レイジがどこかの解体現場から豪快に引き抜いてきて、ここに豪快に突き刺した代物だ。

 

 大男は固く包帯を巻きつけた手を伸ばし、指先でそっと触れた。鉄骨を覆う分厚い錆が、ザリリと音を立てる。

 

 

 レイジの肩から力が抜ける。深呼吸をする。朝の空気はアパートの外に広がる水田の湿気を帯びている。肩、腕、腰、そして足と。全身をほぐしているうちに、空気の味も、鳥の鳴き声も、彼の意識から遠ざかっていく。

 

 スイッチを一つ一つ切るように。

 

 ただでさえ薄い人間性を削ぎ落とすように。

 

 鉄骨を前に、レイジは構える。ボクシングの構えだ。

 

「ふっ」

 

 そしていきなり打った。

 

 

 ゴオオオオオォォン。

 

 

 大木のように太い鉄骨が鳴り響くほどの力で。

 全力で。

 レイジの右拳は今の一撃で粉砕した。包帯に包まれた指が全部バラバラの方向に曲がっている。白い包帯にじわじわ染み出す赤いものに頓着する様子も無く、同じ手でもう一度鉄骨を叩く。

 

 鉄骨が歌う。

 

 骨が叫ぶ。

 

 腕が弾ける。

 

 血飛沫が舞う。

 

 腕だけではない。すべてがどうしようもなく壊れていく。

 

 それを全く意に介さず、レイジは鉄骨を殴り続ける。

 

 ただ打つのではない。野晒しで風化したボルトやエッジの部分、特に深刻なダメージを受けそうな部分を狙って、血袋のような拳を鋭く叩き込む。

 破壊不能な鉄筋に。破壊可能な己の肉体を、渾身の力で衝突させる。

 

 コンビネーションに蹴りを織り交ぜ始める。

 あるいは肘、膝、そして脛に至るまで。一切の手加減なく打ち出す。

 そんなレイジの額にはびっしりと脂汗が浮かんでいる。

 

 

 痛い。 

 

 

 痛いが、止まることはない。

 

 皮膚が裂けても、血が噴いても。

 肉体の破損を防ぐための痛覚というセーフティが、もとから機能しないのだ。彼は。

 包帯は、拳を保護するためのものではない。潰れて膨らんで裂けていく肉の塊を、なんとか拳として使える形に留めておくためのものでしかない。

 いくつかの打撃の衝撃は皮膚を引き裂き、骨まで達する。

 指の骨の破片が舗装の上に転がっても、レイジは止まらない。

 

 百か、二百か、何度打ち込んだか分からなくなってきた頃。彼のファイトスタイルが徐々に変化し始めた。

 高度なコンビネーションや、決まったスタイルを殴り捨てた、野獣のような腕力と体力に任せた乱打へと。

 今の彼は事実、一個の獣だ。

 何日も何日も灼熱のサバンナを歩き続けた末に水場を見つけた、あばらの浮いた肉食獣だ。泥水に頭を突っ込み枯れた喉を潤すように、彼はただただ生きるために苦痛を排泄し、苦痛を飲み干す。

 なるべくたくさん。なるべく悲惨な方法で。

 

 潰れた関節が焼けるような痛み。砕けた骨が軋む痛み。

 

 飛んだ血が目に入り、視界が赤く染まる。それでも、瞼は閉じない。

 体が悲鳴を上げるたびに、どこかが壊れるのを感じるたびに、煮えたぎる鉛のような破壊衝動がわずかに薄れる。

 

 彼は猛烈な蹴りを繰り出した。

 鉄柱に彼の爪先が突き刺さった瞬間、足首の中程まで柱がめり込んだ。

 鐘を打ち鳴らしたような低い唸りが収まらないうちに、今の一撃で捻挫した足首を軸にして一回転。さらにもう一発。既に両足とも膝から下が赤く染まっている。

 そして、もはや全身を破壊し尽くした彼が大きく仰け反った。

 

「ふんっ」

 

 頭突きだ。

 

 杭のように尖ったボルトに頭を叩き付けた瞬間、切れた額から噴き出した血が放射状に鉄骨を汚した。

 

 最後の一撃は、鉄骨ではなく、自分の頭の奥の奥で鳴ったような気がした。

 赤茶色に錆びた鉄骨に新鮮な赤を上塗りしながら、彼は動かない体をずるずると擦りつけて膝から崩れていった。

 廃墟の駐車場で、ぐったりと鉄骨にもたれたレイジは、まるで墓標にすがりつく幽霊だ。

 彼の荒い息が、建物で囲まれた空間に反響する。

 

「マシにはなったが……」

 

 破壊され尽くし、もうただの塊と化した手の残骸を、レイジは胸の辺りに置いた。

 

 拍動を感じる。

 熱は――よく分からない。 

 

 

 指先にこもる力は徐々に徐々に強くなり、やがて、皮膚を裂いて突き出した骨の切っ先が、胸の中にもぐりこむ。

 そしてようやく触れることができるのは熱ではなく、冷たさだ。

 

 それは確かにそこにあって、彼の心臓を覆うように、一緒に脈打っている。

 

 氷のように冷たい黒を感じる。

 ぐぽ、と湿った音を立てて引き抜かれた指は、あくまで温い赤の色でしかない。だが、自分にしか感じることのできないこの冷たさを、まぶたの裏側よりも色濃い黒の正体に、レイジはとうの昔に気づいている。

 

 

 憤怒。

 

 

 そう、憤怒だ。

 レイジは難しい言葉をほとんど知らない。

 この機械的で無機質な破壊衝動が本当に怒りという気持ちなのかも、確かめるすべを持たない。

 

 確かなことは、何かを傷つけたり、壊したりしなければ”憤怒”は収まらないということだけだ。

 

 だから彼は、レイジは自分を壊す。

 自分を傷つけていれば、他人を傷つけなくて済むからだ。

 あまりにも頼りない「ふつう」という痛んだ足場のフチに指先を引っ掛けて、足元にポッカリ開いた薄暖かい闇に呑まれずにいられる気がするからだ。

 

 

 だが衝動は決して消えない。

 だから毎朝こうして”儀式”を執行する。

 

『自傷癖のマッチョなんて……冗談にもならないわよ』

 

 

 それを打ち明けてなお、友人をやめないでいてくれたルリコとフミオに感謝している。

 

「少し休んだら……シャワーを浴びて、着替えようか」

 

 そんな二人にすら言っていないことがある。

 

 恐ろしいことに、レイジはこれが、嫌いじゃないのだ。

 

 レイジは刻まれた岩のような、そり立つ鉄の壁のような、圧倒的だが茫漠(ボウバク)とした男だ。

 

 何を考えているか分からないとよく言われるし、事実、彼も大半の時間は起きながら眠る植物のように過ごしている自覚がある。どうしてそうなのかは分からない。ただ、物心ついた時からそうだった。

 

 それでもすべてを焼いて焦がして、なかったことにしてしまいそうになるこの衝動だけは、憤怒という激情だけは、レイジが唯一リアルに触れることのできる感情だった。

 

 繰り返しになるが、これが本当に憤怒というものなのか、彼には分からない。

 

 ただ熱く、たぎり続けるこの激しさを、彼は憤怒と呼ぶことにしたのだ。

 

 錆の塊にすがりついたまま、レイジは曇天を見上げた。

 朝の済ました冷たい雲の形は崩れて、金色に染まった輪郭の向うからゆるゆると朝の光が透けてきていた。

 

「着替えたら、包帯を巻いて、学校へ行って……そうしたらきっと、今日もなんとか、うまくやれるさ……」

 

 

 ■

 

 朽ちたタオルと黒かびが折り重なるような浴室に湯気が充満する。

 タイルの網目を流れる濃厚な血の色は、彼がシャンプー代わりに使うボディソープの泡を流し終わるころには透明になっていた。

 

 だいぶ前に洗濯した気のするタオルを引き出して水気を拭う彼の体に、もう傷口は存在しない。

 

 ズタズタに引き裂かれた肉体に残された無数の古傷が、小さな窓から差し込む朝日を受けテラテラ光るだけだ。

 

 乱暴に髪の水気を拭いながら人差し指を見つめる。

 一回転して、まるでドリルのように引き()れた皮膚が、ひとりでに元の位置に戻ろうと(ウゴメ)いている。

 

 その下では既に肉も、筋も再生を遂げ、砕けた骨が転がる感触がある。

 

 決して心地のよいものではない。

 再生するのは神経も同じだからだ。だが、やはりレイジは眉ひとつ動かさない。

 

 彼の体はずっとこうだ。どんな病気も、負傷も、たちどころに回復する。

 全身を破壊するまで止まらない破壊衝動に焼け苛まれる彼にとって、それは神からの贈り物にも等しい。

 

 

 あるいは呪いか──など、深く考えることは、無い。

 

 この力でレイジは救われている。それで十分だった。

 

 血に染まったガーゼと包帯を袋に詰め込んで脱衣所に放り投げる。

 彼は時計を見やる。始業まで一時間と少し。まだ余裕がある。

 

 

 レイジは2280回、夢の中で少女を見殺しにしてきた。それは夢を見始めてからの日数と同じだ。

 

 

 異常なのは分かっている。それでも、やめられない。

 

 

 動くようになった指の感触を確かめながら玄関を出ると、頭上は一面の青空だ。朝方の雲は、手品で吹き消したように晴れ渡っている。

 荒地のような駐車場に降りた彼は、夜露で濡れたプランターが放つ土の香りを感じながら敷地の外へ。

 

 遠くの山まで目いっぱいに広がる水田の輝きは、今日も褪せずにそこにある。

 

 黒ずんだスニーカーで駆け出したレイジは水田のただなかを突っ切るように走る道を通って学校へ向う。

 目的地までは、ここからほとんど一直線。

 

 遠くに霞んで並び立つ西区のビル街を見ながら、走る。

 

 西区――なんて名前がつけられているが、レイジは東区や北区があるのかどうか、知らない。

 

 マンションの郵便受けに溜まりっぱなしの配達物にはいつでも区域以下にゴッチャゴチャとアルファベットと番号が記されているだけだ。そんなだから地名というものを目にしたことはない。

 

 みんなが言うから、ここは西区。

 

 みんなが困らないから、ここは西町。

 

 レイジもそれで、別にいいと考える。

 

 そんな西町の西区には高校がある。やっぱり名前は西高という。偏差値も校風も、特にこれといって特別なところが何もない。

 平々凡々(ヘイヘイボンボン)という言葉を、コンクリートでコーティングしたような、灰色の建物だ。

 

 まだ目覚めきらない様子の町に入ったレイジは、高架の下のひんやりした影の中を通り抜ける。行き交う車のエンジン音も、まるで欠伸を噛み殺したように鈍い。

 

 ぐあんおあんと鼓膜を揺する反響の中を走るレイジを一台のバイクが追い越した。

 立ち込めるもやを切り裂く赤いテールランプが、彼の十数メートル手前で停まる。

 

「よォ」

 

 ライダーが軽く手を振って寄越す。

 そのヘルメットの色は、ジャケットと同じ黒色。バイザーを上げて金髪を朝風にそよがせて見せたのは、フミオだった。

 

「ああ、よう──」

 

 せっかちなもので、彼は、せっかく歩調を緩めたレイジが挨拶を返すのも待たずに、重いエンジンの音を響かせて走り去ってしまう。

 

「そうだ」

 

 その後姿を見送っていたレイジはあることを思い出す。

 ばっとレイジが走り出した瞬間、路上の砂利が宙を舞った。一歩、また一歩。スニーカーの底がアスファルトに食らいつくたびに、その歩幅が爆発的に伸びていく。

 

 最後のほうはほとんど飛ぶようなスピードで、彼はフミオのバイクに追いついた。しかし、バイザーの向こうで前方を見据えたまま、彼がレイジに気づく気配は無い。

 

 なので、バイクの横へ並びかけ、メットを軽くノックしてやった。

 

「お前の言っていた話だが――」

「げっ」

 

 併走してくるレイジを見て、フミオがハンドルの操作を誤った。

 ぐりん、とハンドルを切り、彼の乗ったバイクは悲鳴のようなスリップ音を立てて対向車線へ。

 十トントラックがうなりを上げて彼の真正面に突っ込んでくる。

 あわやペチャンコにされるという寸前で、フミオは必死にバイクを操ってクラクションから逃れてくる。そうすると、今度は彼の目の前に路肩の、放置自転車の列。

 

 

 声にならない悲鳴を上げて歩道に勢いよくバイクが乗り上げる。

 

「おっと、あぶない」

 

 その荷台に、太い指がかかった。

 大惨事一歩手前でバイクの暴走を強引に止めたのは、この事態を引き起こしたレイジ自身だった。

 

「はあ……はあ……し、死ぬ、コイツといたら、いつか死んでしまう……」

 

 ウイリー状態のままとまったバイクの上では、真っ青な顔をして、フミオが弾む心臓と胸元を押さえている。

 

「運転するなら、気を付けるべきだ」

「誰のせいで!!」

 

 と、拳を振り上げかけて、フミオはため息をついた。

 

「……ずっと言おうか迷ってたが、走ってバイクに追いつけるのは異常だから」

 

 バイクを路肩に寄せ、ヘルメットを脱いで抱えたフミオの目が「で、何さ」と問うてくる。

 ここまでハチャメチャやってくれたからには、相応の理由があんだろな、と。

 

「町の外に行きたいかって話のことだ」

「へえ?」

 

 打って変わって、興味深そうにフミオはレイジを見つめる。

 

「わざわざこの話蒸し返してくるってコトはよ、お前……」

「行くとも。フミオの誘いだ。それに――」

「へェ、そりゃいい!」

 

 フミオが片手を掲げる。

 遅れて気づいたレイジも手を掲げて、軽く打ち合わせる。乾いた音が響いた。ハイタッチだ。

 

「いてて……まあ嬉しいけどさ、正直お前が乗ってきたのは意外だったよ。俺ァ最悪、一人で海に行く覚悟してたからな」

 

 こいつで、と、フミオはバイクのバッテリー部分を軽く蹴って見せた。

 

「そのオンボロで?」

「おう、最高のオンボロバイクだぜ」

 

 さっきのわちゃわちゃで止まってしまったエンジンを、フミオは再始動する。

 しかし、彼らの言うとおりのヴィンテージ品、悪く言えばスクラップ同然のオンボロは、うなってヘッドライトをチカチカさせるだけで、なかなか動かない。

 

「クソが……なあ、レイジ、もしかしてなんだけどさ」

 

 始動スイッチを連打しながら、フミオは聞いてきた。

 

「昨日話してた夢が、海に関係しているから?」

 

 ストンと、自分でも気づかない胸の隙間に棒を刺されたようだった。

 フミオにしてみれば、単なる好奇心で聞いたに違いない。それでもレイジは、とっさに答えが思い浮かばなかった。

 

「おっ、動いた……せめて学校まではもってくれよ……」

 

 黙りこんでしまったレイジを一瞥するだけで、フミオはそれ以上問い詰めようとはしなかった。

 フミオの推測は正しかった。

 

 女が死ぬ夢。それは、いつも海辺だった。

 

 それを相談した日にフミオが海に誘ったのは当然の理屈かもしれないし、いつもどおりの気まぐれかもしれない。

 

 レイジ自身もただの思い付きだ。

 

 七年間苦しんできた悪夢から逃れるヒントが海に行っただけで都合よく拾えるなんて、ハナから期待してはいない。

 

 しかしそこは、溺れるものはなんとやら、だ。

 

「そうだなー、じゃあ今週末とか? 俺たち帰宅部だし、家の手伝いもバっくれっからさ……」

 

 

『レイジ』

 

 

 フミオと一緒に手帳を眺めていて、唐突に何かが囁いた。

 いや、囁きではない。

 どこか遠くから、引っ張られるような感覚。

 

 

『こっち』

 

 呼ばれていた。何か、得体のしれない存在に。

 

「なあ、汗やべーぞ。走ってばっかで、心臓とか弱ってんじゃねえか」

「この先……」

 

 額から首筋まで冷や汗にまみれたレイジが背後の細い路地の奥を指さすと、フミオは首を伸ばしてそこを覗き込んだ。

 

「この先? 大して面白くもねェドブ川しかねえよ。それより」

 

 

『レイジ。私に会いに来て』

 

 

 民家の板塀と、雑居ビルの壁に挟まれた、万年影が落ちているような、不潔で湿った路地。そのせいか、レイジの目に、その出口から差し込む光の白が、目に痛いほど眩しい。

 その光の中に、風もないのに、ほつれた灰色のワンピースの裾が泳いでいる。

 それが、夢に現れる女のものだと気づいた瞬間、レイジの体が反射的に動いた。

 

「おいちょっと、レイジ?!」

 

 置いて行かれたフミオが声を張り上げる。しかしレイジの耳に入ってこない。

 浅い水たまりを蹴散らして走る。目指す先は路地の先だ。はっきり分かる。空気の質が違う。嗅ぎ慣れない、花のような香りが漂っているのが分かる。

 

 

『レイジ』

「そこか!」

 

 路地を抜け、光の中へ。

 

「バカお前、そこか、じゃねえよ!」

 

 その瞬間花の香りが一瞬でドブ川の腐臭に変わった。

 

「その先アブねえんだって!」

 

 すぐ目の前にはガードレール。

 車にも追いつくスピードで走ってきたレイジの勢いは簡単には落ちず、スニーカーの底がキュッと擦れるブレーキ音を残して、彼はその向こう側に転がり込んだ。

 ガードレールを超えた瞬間、空気が一気に変わる。身体が浮く。

 護岸のブロックに何度も体を打ち付けながら、ボテボテと転がり落ちる。

 引き伸ばされたような時間の中で、彼を見て指をさす登校中の小学生が見える。フミオの間延びした声が聞こえる。

 

 そして── 一本の水柱が上がった。

 

「そりゃ、俺様もプール開きは楽しみだけどよォ……」

 

 全身にヘドロをへばりつかせて、呆然と空を見上げていたレイジの視界にフミオが現れる。彼はガードレールにもたれて、あきれた様子で見降ろしてくる。

 

「こんなところで水浴びは、ちょっと気が早すぎるんじゃねえか?」

 

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