「ンだよお!」
スタッフロールが終わった瞬間、劇場にカナタの怒号が響き渡った。
「これ作ったヤツ、最後の十分でヤケ起こしやがったろ!?」
相変わらずカナタが騒々しいので、となりではルリコが耳をふさいでいる。だが同時に、呆れ笑いを浮かべてもいた。ふざけんなアホ──まともな観客なら、”焼失”を最後まで見たときに抱く感情は一緒だからだ。
途中までは気持ちよく見られたのに、最後の最後で脚立を外されたような気分だ。奥歯を軋ませながら、カナタはいつの間にかルリコの手元にあったバケツに手を伸ばす。
「ざーんねん。全部もらっちゃいました」
指先に当たってカサリと音を立てたのはルリコが手を拭いた紙ナプキンだった。そこに、甘くておいしいポップコーンは一粒たりとも残っていない。
「ルリコが腹いっぱいになってくれたなら……アタシ、嬉しいぞ……」
そう言いながら、カナタの表情はやるせなさ全開だ。
「くくく。カナタ、青筋浮いてる浮いてる」
「やっ、やめろって!」
ルリコが、しつこくこめかみをつついてくる。その手を払いのけながら、カナタは最後尾の座席を振り返った。
フミオが大口を開けていびきをかいている。
伝説的クソ映画のラストスパートはハリウッドの火薬庫をひっくり返したような怒涛の連続爆発シーンが詰め込まれていたにも関わらず、彼は今でも夢の中だ。
「あそこまで居眠りぶっこけるの、才能だよな」
背もたれにアゴを乗せたカナタが呆れて見せた。
「あいつのパパ、アレだし。うるさいのには慣れてんじゃない」
「まァとにかく。二人の言ってたコト、よーく分かった。ダメだこの映画」
「でしょ」
徐々に明るくなる劇場の中で、ルリコがケータイの電源を入れた。
「今まで見てきた中で一番アトアジ悪い」
「でしょでしょ」
できるなら、カナタは今すぐ家に帰って痛快なアクションを見て口直しがしたかった。カッコいい男が出てきて、カワイイ女とシッポリしけこんで、犬が死ななくてハッピーで終わるヤツ。
このクソ──”焼失”にそういう面白いところがないわけではない。だが、限りなくダメ映画に近い一作だ。
あの無口なレイジが長々と解説をたれ、祭壇まで作って御神体のようにディレクターズカット版のVHSを奉っている理由が、カナタには分からない。
「おいレイジ! ケッサクケッサクって抜かしといて、とんでもねえモン……あれ?」
カナタは、ヘンな映画を見てヘンな気持ちにさせられた怒りをぶつけようと、同居人を劇場の中に探す。が、いない。
「腹壊したんじゃない?」
どうでもよさそうにルリコが言った。彼女はすでに映画のことよりもカナタのことよりも、ケータイの画面をスクロールすることに意識をもっていかれていた。
「面倒だけど、様子見てくる」
カナタが勢いよく席を立った。
「過保護ねえ。すぐ戻るわよ」
「迷子になってるかもしれねえ」
「方向音痴はアンタの特技でしょ。誰も取ったりしないわよ」
「アタシはオンチじゃねえ!」
聞き捨てならずに振り向いたカナタに見向きもせず、ルリコがヒラヒラと手を振った。
「……けっ!」
肩をそびやかしたカナタが、レイジそっくりの大股で劇場の入り口に向かっていく。
その後姿に一瞥もくれずにルリコが睨むのは、液晶画面にズラリと並んだ着信記録。それは全て、母親からのものだ。
『あ』
──たった一文字の着信メッセージを見ただけで、彼女が何を言いたいのか分かる。早く帰って私の
そこまでのことが分かってしまうほど、ルリコの心は母親に毒され、縛られている。
「…………死ぬぞ、か」
彼女は履歴の消去を選択して、決定ボタンの上に震える指を乗せる。押すのも、押さないのも、自分の意思で決定できる。
そのはずだ。
少なくとも、そう思い込めるくらいには、まだ心が自由であると信じたい。
■
「オイ」
不快だった。
「ここ、オトコが小便たれる場所だぞ」
すっかり自分を棚上げして言い放つカナタの声は、ドスが利いていた。
それくらい、男子便所の中で見つけたものが彼女のカンに障った。
潮水に似た生臭さより、膝のあたりまで足を浸からせてチャパチャパと音を立てる水より、黄色い染みがついたタイルの目地を舐めて這い回る、ムカデのような細長い生き物よりも。
「レイジに触ってんじゃねェ」
カナタが睨む先には少女がいる。そして、溜まった水にはレイジが浮いている。
『ふうん。カナタちゃんも私が見えるようになったんだ』
レイジの胸板に触れていた手を離して、少女は振り返った。
灰色のワンピースのすそが、潮水の中でクラゲの触手のように揺れている。まるで手をこまねいてカナタを誘っているような動きだ。
『こういうこともあるんだねえ。レイジにいっぱい触ったからかな? どう思う?』
(同じだ)
レイジに向かって水の中を進みながら、カナタは思う。
あれはワンピースに見えるが、実際はうすよごれた何かのぼろきれをそれらしい形に巻き付けただけのものだ。
一見ドレスに見えるが、実際はウロコとヒレをグロテスクに縫い合わせたカナタの衣装とまったく同じもの。
むなしい──マネゴトだ。
それに気づいたとたんに、カナタは自分の体も同然のドレスがいとわしくなる。まるで、死体の皮を着ているようだ。
カナタの足はその間も動き続ける。レイジの体にまとわりついていたナマコやイソメが、水面の揺れに驚いて水の中に退散していく。
『どしたの? カナタちゃん?』
無言のカナタに少女が小首をかしげて見せた。
その動きで、はじめて彼女の黒髪が動く。気流でも、重力でもない。水中に毛先が漂うようだ。彼女の体は独自のルールで存在している。
それが『ここにいるのにここにいない』という少女の印象を、カナタの中で強く補強した。
「オマエ……レイジの言ってた『夢のオンナ』ってやつなのか」
冷たく見据えて、カナタは聞いた。質問ではない。確認だ。目の前の存在は、明らかにただの子供ではない。
『うん。そだよ!』
少女が、勢いよくうなずいた。
「ヘェ。オマエ、なんて名前」
どうやら、今カナタは他人の夢の中に登場する存在と話しているようだ。そんな幻想体験をしているというのに、彼女の態度はいっそう醒めていく。
『ないよ。まだね。レイジにつけてもらうって、ヤクソクしたの』
「ふゥン……」
『ヤクソクっていいよね。カナタちゃん』
「そうかもな……」
────こんなヤツのせいで?
少女の背後で水面を漂うレイジに、カナタは問いかける。
こんなワケのわからないガキが勝手に夢に出てきて、勝手に海に飛び込む姿を見せられて、オマエは辛くて仕方なくて何年も自分の腕を殴って潰して耐えてきたワケ?
「もう映画終わったからさ」
急にカナタの中に湧き上がってきた感情。それは怒りだ。
それを押し殺しながら、努力して言葉をつむぐ。
「そいつに自転車こいでもらえないと困るんだけど」
『カナタちゃん!』
少女がいきなり、手を差し出してきた。
『トモダチになろう。私たちも!』
カナタは不快だった。この場で一番、目の前の存在が。
「あ?」
カナタの眉間に深い深いしわが寄せられる。
取ってもらえなかった手を後ろで組んで、少女は上目遣いにカナタを見てくる。体をゆするしぐさからは、まったく悪意を感じない。
カナタはもう一度、少女の背後でプカプカ浮いたままのレイジを見据える。
自分と、レイジの間にこの少女がいる。それが、たまらなく気に障った。せっかく映画の中に入り込んでいる瞬間に、野暮な野郎が来て目の前で激しく手を振られているような気分だった。
「オイ。帰るぞ、レイジ」
カナタが水を蹴散らして、自分の真横を抜けていくのを、少女は不思議そうに見送った。
「こんなトコで寝てんじゃねえ。いくらオマエでもカゼひくぞ」
ぐっしょり濡れたシャツに手を掛けた瞬間に確かな体温を感じた。カナタは安心する。
「ほら早く立て。重いんだよ────」
「あ……カナタ?」
ようやく意識を取り戻したレイジが声をあげた。彼の図体からは想像もつかない、蚊の鳴くような声だった。
「そうだよ。オマエの帰りが遅いから、便所まで探しにきてやったんだぞ」
「夢で見た…………女の子がいた……」
レイジが立つのを手伝ってやりながら、カナタは背後を見る。そこに黒髪の少女はいない。黒い泥があぶくのように広がって、水面を漂っているだけだ。
「アタシも会っちまった」
なんか好きになれねーやつだったけどな、と心の中で付け足す。
「思い出したんだ。俺は海に行かなきゃならない」
「だろうな。アタシと約束したんだもんな」
重い重いレイジの体を引っ張り上げるカナタの額に汗が浮いている。
「アタシとレイジで、海に。初めて会った時に、言った、もんな」
「そうだけど。それだけじゃない」
「あ?」
半分ほどレイジを引き揚げたところで、カナタは動きを止めて、彼を見つめた。
「あの子ともヤクソクしてたんだ。海に一緒に────」
カナタは最後まで聞かず、レイジの手を離した。
急に支えを失った彼の体が、激しく飛沫を上げて沈む。
「バァカ」
ぶくぶくと泡を吹いてもがくそれを見下ろして、吐き捨てた。
カナタの肩には、いつの間にか一匹のヒトデがへばりついていた。それを引っぺがして、乱暴に投げ捨てる。
タイルに叩き付けられたヒトデは、ドロッとした黒い塊になって崩れ落ちる。その残骸は、触れたことを後悔させるほど、ぬめりと生臭さを放っていた。
ふん、と鼻を鳴らしてカナタはトイレの出口を睨んだ。
レイジは無事そうだが、トイレが水浸しだ。受付のケロイド男に何も言わずに出て行くわけにはいかない。
一応、浮かんできたレイジを浅瀬まで引っ張っていってから、カナタはふと、流しの鏡に目を留めた。
『またね。カナタちゃん。次は握手、しようね』
彼女の背後で少女が手を振っていた。
「はん。だーれが……オマエと握手なんかするもんかよ」
振り返らず、カナタはトイレを後にする。
「プールでも行ってたの、アンタ……」
受付で待っていたルリコたちが、全身ズブ濡れで歩いてくるカナタを見て呆気に取られていた。