海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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5.ウイスキーは薄めで(1)

 それから数日間は、特に事件らしいことは起きなかった。

 

 レイジの「ヤクソク」発言のせいでカナタは機嫌を悪くしていたが、相変わらず吸汗性の悪いメイド服に袖を通して働くうちに、どうでもよくなっていった。

 

 床を磨き、品出しをして、レジ打ちの合間に酔っ払いどものくだに付き合う。そんなルーティンを繰り返すうちに、六月も末になった。

 

 ある日、ホウキを片手にカナタが店の軒先に出ると、空気は熱く日差しはキツい。顔の前にかざした手のひら越しに見える入道雲と共に、去り行く雨の季節が手を振っている気がした。

 

「カナタァ! なんかさあ!」

 

 風鈴の音に変わりゆく季節を感じているヒマもなく、酒屋のせがれは年がら年中騒がしい。数日前にオシャカにしたポンコツバイクを新品に換えたばかりだというのに、さっそく不調が連発しているようだ。

 

「俺の新しいバイク、やたらシートに鳥がうんこしてくんだけど!」

「鳥にまでナメられてるんじゃねえの」

 

 そんな風に二人でぐだぐだやっていると、ロードワーク中のレイジがふらりとやってきて、ポケットでよくシェイクされた温いラムネを差し入れてくれたこともあった。

 

「──そりゃ走って持って来たらこうなるわな」

「すまん。二人とも」

「オマエらデカいんだから、天井に飛び散ったの拭けよ」

 

 酒屋の仕事に慣れてくると、時間に余裕が出来る。

 

「カワイイ看板娘がメイド服で立ってりゃ、それでいいし。客いないときは自由してていいからな」

 

 そんなテキトー極まるブンタの言葉に甘えて、みんなでカウンターに集まって期末テストの勉強をした。

 どうせ日中はそれほど客がこないし、来たとしても、どうしようもないアル中くらいだ。

 

「……ほんっと。オフの時に会うの、気まずいんですけどね……」

 

 そして彼女たちにとって幸運なことに、馴染みのアル中は、クラスの担任でもある。

 仕方なさそうに酒箱を引っ張ってきて座った彼女が、ウイスキーで酩酊するまでの数十分間、それなりに分かりやすく数学を教えてくれた。

 

「やっほ。あいにく、まだ生きてるわよ」

 

 ルリコも平常運転だ。相変わらずカラ元気を振るってはいたが、話しているとたまに、ぐったりカウンターにもたれたまま反応が無くなる。

 彼女の肩をゆすった時、その細さにドキリとした。皮膚の下で骨が浮いていて、まるで人形の関節みたいだった。

 

「気安く触ンじゃないわよ」

「あ……悪ィ……」

 

 元気のない声で言い放ってから彼女は改めて突っ伏した。

 そして彼女は今度こそ、完全なる無反応になった。

 

「ルリコ……」

 

 おずおず手を伸ばし、噛み付かれるのを承知の上で、肩をゆする。

 

「おい……おいったら」

 

 強めに押されたルリコの体がグニャリと崩れた。居眠りではないと気づいた瞬間、血の気が引いた。

 

 カナタは慌てて救急車を呼んだ……栄養失調らしかった。

 

 救急隊員が彼女を担架に乗せて去っていったあと、カナタは寸前までルリコが座っていたイスに腰を下ろした。

 残された体温を感じながら、どうしようもない絶壁が目の前に聳えているような気持ちになる。

 

 ■

 

 そんな、変わり映えのない『いつも』と、どうしようもなく続いていく暗い『いつも』が重なり合って過ぎていった、ある日のことだった。

 

「どうすっかな……」

 

 ルリコのことを考えているだけでグッタリする。

 手にしたホウキによりかかりながら、カナタはため息を吐いた。

 意固地でガンコで。だが、映画館の闇の中でほんの少しだけ自分に心を通じ合わせてくれた生徒会長に何かしてやりたかった。

 しかし、カナタにできることは現状目の前の床を掃くことだけだ。

 それがもどかしく、悔しい。

 

「センセー。あんたの生徒が困ってるぞ」

 

 カナタはカウンターの方に語りかける。

 そこでさっきまでひとり酒を楽しんでいたキリエはブッ潰れて、イビキをかいている。教え子が家庭問題で苦しんでいるのに、肝心の教師はこのザマだ。

 

 その日、時刻はすでに夜七時を過ぎていた。

 

「ほんじゃ、カナタちゃん、俺サマちょっくら出てくるわね」

「またかよ。サイコーセキニンシャだろ」

 

 暮酒店でしばらく仕事をして分かったことだが、ブンタはだいたい店を空けている。大方どこかで遊び歩いているのだろう。息子のフミオとはそういうところでよく似ている。

 

「テンチョーって、いつもどこ行ってんの?」

「グフフ、とってもとってもイ・イ・ト・コ・ロ」

「てや」

 

 なんかムカついたので、カナタはとりあえずチョップした。

 

「おいおい、冗談だってえ!」

 

 ブンタがハゲ上がった頭を抑えながら軽トラに飛び乗った。

 最初は接客だけという話しだった気がするが、今ではレジから陳列から発注まで、なんでもござれだ。

 店長がおらずフミオが跡継ぎから逃げ回っている以上、店を預かるカナタが全部やるほかない。

 

「うまく使われてる……」

 

 夜道を遠ざかっていくテールランプを見送りながら、カナタが呟く。

 しかし、ここ以外でウロコとヒレの生えた女を雇ってくれるアテはないし、なにより暮酒店のカネ払いは最高だ。

 最近ではメイド服の半魚人女子高生の接客を目当てに通ってくれる客が増えて店も賑わっており、奇しくもブンタの唱える『古酒屋と萌えの融合』が見事に当たっちゃった形だ。

 いっそ、いい加減なテンチョーには引退してもらって、アタシが店乗っ取っちゃったほうがウマく行くんじゃないか──と、下克上に可能性を見出しはじめた、そのとき。

 カナタの頭めがけて、ポツリと温かい粒が落ちてきた。

 

「雨か……」

 

 しとしと、という表現がまさしく当てはまるような、細い雨が降り始めた。曇った夜空に滲むような光を投げかけはじめた町を背に、カナタは店内に引っ込むことにした。

 とにかく、今夜も一人で楽しい店番だ。

 

「キリちゃん、生きてっか」

 

 厳密には二人だが。

 もはや店のインテリアと化したような女教師の肩に、いつもの調子で手をかけた瞬間──

 

 バツン。

 

「お」

 

 停電だ。

 

「あーあ、またかよぉ」

 

 特に焦った様子もなく、カナタは壁にかけられた懐中電灯を手にした。

 季節柄なのだろうか。ここ一週間、ほとんど毎日、朝も夜もなく停電祭りだ。頼りない光を頼りに保冷財を取り出し、買い物カゴに詰めていく動きは淀みない。

 ライトに予備電池、保冷材フル装備のカナタが床のハッチを開けると、ハシゴの先に地下倉庫が広がっている。そこにうずくまる黒々とした闇が、じっと彼女を見上げてきていた。

 慣れたとは言っても、真っ暗闇の地下室に飛び込んでいくのは少し心細い。

 地下にはセラーがあり、目が飛び出るほど高い酒が保管されている。それが、この地底大冒険の理由だ。保管庫の電源が復活するまで面倒を見てやるのは、店長代理の大事な仕事だった。

 

「ここだいぶ散らかってんな。今度掃除でもしてやるか……な?」

 

 地下に降りたカナタは、ガラスケースの中に次々と保冷財を放り込んでいく。

 最後にセラーの温度計を確認しようとしたとき、ふと目に入ったのは、壁に走る奇妙な継ぎ目だった。

 そこは一見してただのコンクリートの壁のようだったが、触れるとその質感は明らかに違う。よくできているが、壁紙か何かだ。

 

「テンチョー、中年男のヒミツの地下室とか笑えねえぞ……」

 

 好奇心がカナタを突き動かす。カモフラージュされた壁は、軽く触れただけで静かなモーターの響きを上げて、自動的にスライドした。

 

「おー」

 

 つい声を上げてしまうカナタの前に、隠されていたもうひとつの扉が姿を現した。

 

「おいおい、銀行か? スゲー金目の酒があるとか?」

 

 電灯の明かりを反射してギラリと光る重厚な金属の扉は、フミオのバイク程度なら乗り入れそうなほど巨大だ。表面に取っ手はない。ためしにノックしてみたが、返事などあるはずもない。

 カナタが気まぐれに振り回した明かりが、扉の横に据え付けられたパネルを照らし出す。

 彼女は、これとよく似たものを見たことがある。レイジと一緒に見た映画だ。

 その映画では山奥の丸太小屋で引退生活を営む軍人が、武器を貯蔵する秘密の倉庫をロックするために用いていたのだが──要するに、暗証番号を打ち込むことで開くタイプの扉だろう。

 

 町の酒屋にマシンガンとかあったら笑えるよな──と、よこしまな笑みを浮かべて、カナタがパネルに手を伸ばす。

 

 その瞬間、また映画の知識がよみがえって、彼女に待ったを掛けた。

 

 詮索好きなメイドが、コッソリ忍び込んだ先で好奇心に駆られるなど、なんてありきたりなスリラーだろうか。

 

 そうしてこういう時、必ず背後から凶器を手にしたシルエットが迫って────

 

 不意に背筋に殺気を感じた気がした。

 バッと振り向くカナタ。だが、そこには何もない。懐中電灯が投げかける光の中で、かすかにホコリの粒子が舞っているだけだ。

 

「……ハ。バカなこと考えたな」

 

 ズリ落ちそうになったメイドカチューシャの位置を整えながら、カナタは独り言を呟く。

 これは現実だ。闇の中に殺人者なんていないし、安心した直後にドーンと来るジャンプスケアだって、ここにはない。

 

 壁の扉は──おそらく、ただの金庫だろう。

 

 映画の『オヤクソク』を否定するうちにすっかりシニカルな気分になって、カナタがハシゴを上っていく。

 

「センセー、落ちてんぞ……」

 

 カナタがいない間に少し立ち上がったのだろうか。いつの間にか床に落ちてたキリエのジャケットを、近くのカゴに無造作に放り込む。

 

 カウンターに戻ったカナタの手の中で、シュッと音を立てて火花が舞った。

 懐古主義のブンタらしく、たとえ停電の日だろうが、この古酒屋には無愛想で無機質なLEDライトの居場所はない。

 カナタがマッチの火をキャンドルに移していくと、熱気と暗がりばかりだった店の中を、柔らかな光が照らし始めた。

 

「ほら。明るくなったろ」

 

 カナタは世界史だか日本史だかの資料集で読んだ記憶のあるセリフを口にしつつ、突っ伏したキリエの横にキャンドルを置いてやる。

 脂っぽいキリエの髪が、キャンドルの火に照らされて右側だけ異様に輝いている。なんだかバランスが悪いような気がした。

 カナタはキャンドルをもう一つ持ってきて、キリエの頭を両側から照らすようにセットしてみる。

 

「これ、店のオゴリだから……」

 

 物足りなかったので、ピーナッツの皿をおそなえしてみた。

 祭壇が完成してしまった。

 

 酔い潰れて意識を失ってる教師で遊ぶのはどうなのよと、良心が語りかけてくる気がした。

 だが、せっかくなので、カナタは手を合わせて拝むことにする。

 

「レイジとアタシの頭がよくなりますように……ついでにテンチョーがもう少し真面目になりますように」

 

 手を合わせたまま、カナタは鼻で笑った。

 

「なるわけねえか」

「やっほース!」

 

 忘れたくても忘れられない声が店先から飛んできたので、カナタは「げ」と声を上げた。

 キャンドルを手に、カナタは棚の影からそっと顔を出した。

 その瞬間、ネコのように大きな目が光の先できらめいた。

 首をかしげるそのしぐさに合わせて、耳を象ったピアスの群れが、シャランと音を立てる。キャンドルの光に反射する銀の輝きも、あの日のままだ。

 

「また来やがった」

 

 ルリコの妹。マリコがそこに立っていた。

 ニヨニヨ笑う顔を見ていると、初めて出くわした時のことを思い出してしまう。

 レイジの腕に胸を押し付けてこちらを挑発するマリコの姿。入り口から吹き込む湿った風に乗せて香水の香りが店内に満ちていくにつれ、カナタは、この空間が彼女に侵されていくように感じる。

 

「うん。改めてお邪魔するって言ったじゃないスか。何かお酒、くださいス」

 

 ルリコにどこまでも似ているのに、どこまでも異質な少女は、返事を待つそぶりも見せずにズカズカと入ってきて、カウンターの端に当たり前のように座り込む。

 

 ■

 

「ここ、未成年に酒は……」

「出してるんスよね」

 

 そのとおりだった。厄介な客にまともに応じてたらキリがない。カナタは言われたとおりにしてやることにした。

 

「酒、よく飲むのか?」

 

 マリコとなるべく顔を合わせたくないので、カナタはバックバーの酒を整理するフリをする。その間、舐め回すような彼女の視線を背中に感じる。

 

「どうスかね。飲むっつーか。飲まされたっつーか……」

 

 クリスタルカットされた酒ビンに、カウンターに肘をついたマリコの姿が反射している。万華鏡のように映りこんだ彼女たちがいっせいに笑いかけてきたので、カナタはギョっとしてしまった。

 

「付き合ってたオトコに勧められたのは安い缶のヤツだったかな。こういうところで飲むのは初めてッス」

「……そんな飲み方してたら、ロクな大人になんねーぞ」

 

 カナタがカウンターにグラスを静かに置いた瞬間、マリコがぐいっと身を乗り出してきた。

 

「へえ。なんか、エラそうなこと言うんスねえ」

 

 そのしぐさは、映画館で覆いかぶさってきたときのルリコとそっくりだ。ふと、マリコが姉との繋がりを見せ付けてくるたびに、カナタは複雑な気持ちになる。

 

「ふふ……そういえばウチが通ってるガッコーの水泳部が酒でやらかしたんスよ」

 

 再びバックバーを睨み始めたカナタの背後で、マリコは空のグラスのフチをなぞる。

 

「酔っ払って乱痴気騒ぎやりやがって。流石のおねえもモミ消せなくて、休部っスよ。んで謹慎」

「水泳部……」

 

 ふと、カナタは『水泳部のハルマサ』のことを思い出す。

 顔も声も知らない相手だが、学校で彼の机と教科書を使わせてもらっている。いずれ会ったときに何かの形でお礼をしたいと思っていたが──謹慎とあっては、難しそうだ。

 

「この店みたいに、もっと上手くやればいいのに……ねえ?」

「何が飲みたい?」

 

 正直、水泳部のことはもっと聞きたかった。けれどカナタは、あくまで店員を演じ続ける。

 

「ウイスキー、ロックで……いけるっスかね。ウチ」

「おいおい、大丈夫かよ」

「それを確かめたいンすよ」

 

 フラフラしているマリコにため息ついてみせてから、カナタは棚の一番上に向かって軽く爪先立ちした。

 

「……こんなところでどうだ?」

 

 そうやって取り出したボトルをカウンターに置きながら、カナタはマリコに目配せする。

 

「なんて酒スか?」

「さあ……難しい漢字だからよく読めねえ」

 

 やたらと画数の多い一文字を、カナタとマリコは神妙な面持ちで見つめた。

 

「アタシは勝手に”ようじんぼう”って呼んでる」

「へえ」

 

 ここに来るまでにどこかで一杯ひっかけてきたのだろう。マリコは、たまに焦点の合わなくなる瞳でカナタの輪郭をなぞるだけで、字が読めないことを突ついたりはしなかった。

 

「なんでそんなアダ名なんスか?」

「ビンはカッコいいし、香りもドッシリ。でもアルコールは全然大したことない。テキトーに酔った気にさせて、歩けるうちに帰してやりたい時の酒」

 

 ついでに言えばこれは香りを付けた名ばかりの商品で、度数もウイスキーの最低条件を満たしていない、ほとんどジョークグッズだ。要は、厄介な客用。

 ようじんぼうは守ってくれない。ただ、静かに突き放すだけ。──酔いも、情も、期待も。

 

「へえ。なんか……バーテンさんみたいっスね……」

 

 カナタは、少し感心しているようなマリコに、その事実をわざわざ伝えようとは思わなかった。

 

「最初は、ただのレジ打ちのはずだったんだがな」

 

 二つのロックグラスにウイスキーを注ぐ。愛想程度にウイスキーを垂らした方のグラスを持ち上げて、カナタは涼やかな氷の音を鳴らした。

 

「ほら。カンパイ」

「あはは……かんぺーっス……」

 

 氷水のようなグラスの中身を口に運び、カナタは顔をしかめた。

 味わうほどに、それがただの安酒でしかないことが際立つ。

 

 カナタを口説きにやってくる大学生や、酒癖の悪い向かいの八百屋のオヤジに同じものを出してやって、同じ作法でグラスを持ち上げるたびに、失われたはずの記憶の中で何かがくすぶる。

 

 安い酒の香り。

 

 飲みたくもない酒。

 

 見たくもない顔────

 

「こないだの彼氏なんスけどねー」

 

 マリコは一口つけて、両手で持ったグラスをぼんやり見つめた。

 

「散々ゴハンおごって、プレゼントも渡して……でも、すぐフられちゃったス」

 

 カラリ。彼女の体温で融けた氷が、あまりにも軽やかな音を立てた。

 

「見る目ないっスよねー。ったく、あんだけカネ使ってやったのに。女子高生(ジェーケー)と付き合えるだけでもありがたく思えっつーの……」

「で」

 

 グラスをすすぎながら、カナタはぼそりと口を開いた。

 

「いつ返すんだ?」

「何をスか?」

 

 マリコがきょとんとした。心の底から、相手が何のことを言っているのかまるで分からない──その表情が演技か本気か。カナタには判別がつかなかった。

 

「ルリコから借りてんだろ、おカネ。さっさと返してやれよ」

 

 ただ、どちらにしろ平然としているのがムカつく。自然と鋭くなっていく口調と目つきを、カナタは隠そうともしない。

 

「え。返す必要なくないスか」

「なワケあるかよ。あいつ自分で使えねえ金稼ぐためにバイトしてんだぞ」

「仕方ないッスよお。だっておねえ、ウチのこと大好きだもん」

 

 それまで首をかしげるばかりだったマリコの顔に、見覚えのあるニヤニヤ笑いが浮かんできた。笑っている。だが、全部無意味という嘲笑だ。

 カナタはそれを見ていると胸がざわつく。ムカついているのに不安になる。

 

「おねえだけじゃない。ママも、パパも、みーんなウチのことが好き。だったら、お小遣い渡すのも、毎日大事にしてあげるのも当然ッス」

 

 だけど──そう続けながら、マリコはカナタの顔に手を伸ばしてくる。

 

 カナタはあえて、振り払ったりしない。ただ、指の先でも触れてみろ、テメーの指を噛み落としてやるぞ、という静かな敵意を込めて睨み付けるだけだ。

 

「だけど、メイドさんは違うッスよね」

 

 触れる寸前で手を止めて、マリコはチェシャ猫のようにニンマリ笑った。

 

「ウチのこと、嫌いっしょ」

「ハナシが早くて助かる」

「嫌いってことは、ウチのこと、一番見てくれてるってことスもんね」

 

 カナタは耳を疑う。

 愛されてる、と言いながら、嫌悪されたいと願ってるようにも聞こえる。矛盾どころじゃない。もう、めちゃくちゃだ。マリコが自分のことをどう認識しているのか、その口から吐いた言葉の歪さに気付いているのか――

 

「ね。ウチ、けっこう愉快なやつスよ。やり直さないスか」

 

 考え込んでいたカナタの目の前で、小麦色の手が振られる。

 

「ほらあ。握手。あ、く、しゅ」

 

 カナタがマリコに寄越すのは右手ではない。刺すような、氷のような視線だけだった。

 

「アタシたちは赤の他人だ。何があろうと」

 

 それを聞いてマリコが落胆したり、激昂を見せることはない。

 

「赤の他人のクセに、本気で嫌ってくれるなんて。ウチ、こんな風に見えて、今本当にうれしいんス」

「酒が足りてないみたいだな」

 

 カナタはマリコのグラスにウイスキーを注ぐ。

 

「メイドさんも」

 

 マリコもカナタのグラスにウイスキーを注ぐ。

 

 二人は向き合ってグラスを傾ける。

 

「目、きれいスね。お人形さんみたい」

「オッサンのナンパかよ」

 

 もう店員の皮を被ってやるのも限界だ。

 カナタが率直な敵意を突き刺してくるのも涼しい顔で受け止めて、マリコはスツールの上で体を揺すり始める。

 

「アハハ。メイドさんの話し方って見た目とギャップあっていいスよね」

 

 ギシ、ギシ、というイスの軋みに合わせて彼女の猫の瞳が揺れる。

 

「そういうトコ、好きスよ」

 

 言って、マリコは天井を仰いでケラケラ笑った。

 天井の明かりを受けて彼女の鎖骨の下にベッタリ張りついた絆創膏の群れが油っぽく光を反射している。尋常な数ではない。

 カナタはそれを睨む。

 

「オマエ……」

 

 その視線に気づいたマリコは、微かに震えた声で笑った。

 

「ウチ、パパとママから愛されてるって言ったッスよね」

「そ」

 

 ────それは。そんなんじゃねえだろ。

 

 吐き出そうとした言葉が、カラカラに乾いた喉につかえてひしゃげた呼吸音に変わる。

 ぷうん、と。マリコのセーラー服の胸元から立ち上ったのはドギツい香水と消毒液と、濃密な暴力の香りだった。

 

「アイ。それが?」

「ふふふ。分からないスかね、メイドさんには」

 

 何か言おうとして唇を開いた瞬間に、あの安酒の味が口いっぱいに広がって、カナタは思わずカウンターの上に手をついた。

 

「なんか具合悪そうスねえ」

 

 呼吸を荒げたカナタの前で、マリコの顔に、あの、小馬鹿にした暗い笑みが戻った。

 

「また来るっス。メイドさんとのおしゃべり、楽しかったスから」

 

 酒二杯にしては気前が良すぎる金額をグラスの底に挟むと、彼女はふらふらとした足取りで店を出て行く。

 

「また来るのかよ」

「ハイ、また!」

 

 カウンターの中に立ち尽くすカナタが呆然と呟いた瞬間、もう姿も見えないマリコから、全力の返事が飛んできた。

 

「地獄耳が……」

 

 たった十数分で、彼女は死ぬほど疲弊した。

 いまだに見えないマリコがのしかかっているかのように背中を丸めて、肩を落としたカナタが、ダルそうにレジを操作して、開ける。

 そして止まる。

 カナタの手には数枚の千円札があった。

 レジに突っ込もうとしても、なかなか手が動かない。これを稼いだのはルリコだ。働くことがどれだけ大変なのかは、たった今カナタも、身をもって知ったところだ。

 

「なあ、ナツメのオッサン……アタシ、どうすりゃいいんだ……?」

 

 

 いくら悲痛に呟いてみても、紙幣に描かれた大文豪が気の利いたアドバイスを差し入れてくれることは永遠になかった。

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