海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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5.ウイスキーは薄めで(3)

 ────という一部始終を語ってレイジとの付き合い方をルリコに相談したところ、

 

「朝っパラからノロケてんじゃねーわよ」

 

 カナタは見事に彼女の機嫌を損ねることに成功した。

 

「ノロケてねーって。マジな相談だよ」

「もっと別のことでマジになったら? こちとら期末の勉強で必死こいてるのよ」

 

 ルリコの握ったペンがガリガリ音を立てて参考書を削る。

 近くの壁に寄りかかったカナタに一瞥もくれず、ひどい疲れと青黒いクマが浮かんだ顔で、彼女は数学の課題を解き続けている。

 空腹と寝不足とストレスで、前髪に隠れたルリコの額は悲惨なことになっていた。美人が台無しだ。

 

「どうせケンカして怒鳴りあって最後の最後は『でもやっぱ好き』ってヤツでしょ」

「だから、別にアタシとレイジはそういうのじゃ……」

「ハイハイ。あほくさい相談は野良犬にでも聞かせてなさい。んでもって、噛まれてヤバい病気でもうつされたらいいじゃない」

 

 あまりにテキトーな物言いに、カナタは少しむっとする。

 

「なあ、アタシは真剣に悩んでるんだぞ!?」

「みんなそう言ってしょーもない恋愛話持ち込んでくるのよ」

 

 どうあってもルリコは真剣になってくれないようだ。

 カナタはせめて、これ見よがしに肩をすくめてやってから、教室の窓際に視線を馳せた。彼女の席の上で、登校して放り投げたままの姿のカバンを、朝風で膨らんだカーテンが撫ぜている。

 冷たくて湿っぽい初夏の風に、ほんのり潮に似た香りが混ざっている。

 そしてその香りの正体は、一人の男が全身から発散する汗なのだった。

 

「フッ……フッ……ンンッ……」

 

 暑苦しい息遣いが、教室の反対側まで聞こえてくる。

 お盆みたいに大きな錘を取り付けたダンベルが上下するたび、リンゴ大の上腕二頭筋が風船のように膨らむ。

 シャツを脱いで、上半身タンクトップ一枚。

 全身に太い血管を浮かび上がらせたレイジが、ワークアウトに勤しんでいた。

 

「せめて笑ったらいいのにな。あんなんじゃ誰も寄りつかねえぞ」

 

 顎から汗が滴るほどキツい思いをしているのに、レイジの表情は荒行に耐える修行僧のようだ。目も口も半開き。世界には自分と、自分の肉体だけ。

 そんな様子を見たみんながちょっとずつ席を離していったので、彼の机の周りだけ、ぽっかりと開いた謎の空間が広がっている。

 

「ニコニコしてるレイジも、それはそれで怖いでしょ」

 

 いつのまにか、ルリコも手を休めて、レイジを見つめていた。

 彼の発散する熱で、窓際の空気が捻じ曲がっているように見える。無言で、無表情で、だがその肉体だけは怒り狂ったように、有り余るパワーを発散させている。

 

「フケンゼンだ。あいつ、あのままにしとくのはヤベえよ」

 

 シャーペンの芯を何本も折りながら、ルリコが皮肉マシマシで答えてくる。

 

「わーおスゴい。今更そんなコトに気付くなんて、アンタ天才かも」

 

 見つめるカナタの姿が見えたのか、レイジがふっと顔を上げて、視線を合わせてきた。陰口をたたくような雰囲気でルリコと相談していたことが気まずくなって、カナタは目を逸らしてしまう。

 

「……それに、人はみんなどこかしら壊れてるもんでしょ」

 

 そんな様子を面白くなさそうに見ていたルリコが言った。

 

「前にキリちゃんも似たこと言ってたよな」

「町内で一番ブッ壊れてる大人の言葉だものね。重みがパないわ」

 

 ドガラッと音を立て、引き戸が騒々しく開け放たれた。

 なんとなく予想がつきつつ二人が目をやると、まさに話題のポンコツ人間が登校してきたところだった。

 今日のキリエはいつにも増してボロボロだ。トレードマークのモジャ髪には落ち葉が引っかかっていて、ブラウスのボタンは掛け違え。フラつく足元は土足のままで、おまけにパンプスが片方迷子だ。

 泥酔した彼女がゴミ捨て場で夜を明かしたことは明白だった。

 まるで教室に野良犬が迷い込んできたような、妙な緊張感が走る。

 

「──あれえ? みなさん、奇遇ですねェ」

 

 ダラリと下がった前髪を掻き分けて、キリエが教室の中を見渡す。

 

「奇遇って。ガッコーなんだから、当たり前だろ」

「たぶん、半分気を失って歩いてたんじゃない。自動操縦みたいに……」

 

 カナタとルリコが好き放題言ってるが、完全に脳にアルコールが回ってアッパラパーになったキリエに聞こえるはずもない。

 

「せっかくみんないるんで、ホームルームでもやりますか。そんじゃ──あひゃっ」

 

 キリエの声が裏返った。

 酔っ払いの癖に足元不注意でヘナヘナ歩いていたせいで、その爪先が教壇に引っかかったのだ。

 傾く長身。迫る床──

 

「ふぐぉっ」

 

 くぐもった声を上げて、彼女は顔面から衝突した。

 だがケガの心配には及ばない。

 ここまでの長い付き合いですべてを見越した生徒たちが、当番制で体育のマットレスを敷いておくことになっている。

 いろいろな種類の液体が染み付いたマットレスに顔から突っ込んだキリエは、軽くバウンドして埃とチョークのカスを舞い上げた後、死んだマグロのように動かなくなった。

 

「なんであそこまで自堕落になれるのかしら……」

 

 神経質に何度もペンをノックしながら、ルリコがつぶやいた。

 

「キリちゃん買う酒の量、また増えたんだよな……」

 

『あのバカ女のおかげで(ウチ)が栄えてる』というブンタのボヤきを思い出しながら、カナタがつぶやいた。

 

「また!? もう食事より飲酒のが多いんじゃないの!?」

「ウチ来た時も塩辛い油モンしか食べないし。センセー、マジで死ぬかも」

 

 自分で言っておいて、カナタは少し心配になった。

 

「ちょっと様子見てくる」と言って席を立ち、彼女はいったん、自分の机へ。筋トレに励む汗くさ男の隣を抜けて、カバンからアルミ製の水筒を取り出す。

 

「……ンだよ」

 

 ふと、レイジと目が合った。

 

「いや……なんでもない。すまん」

 

 朝と同じ調子で、彼が謝ってきた。

 カナタは苦虫噛み潰した顔になる。レイジが謝る必要はない。悪いのは、無理やり料理をやらせて、彼に気を使わせた自分のほうなのだから──

 

「ッ、オマエ。すまんって言うの、クセになってんぞ」

 

 ──そう伝えようとして出てきた言葉は、カナタの思ったものからは遠くかけ離れていた。

 レイジが目を伏せ、わずかに唇を噛んだ。背を向けたカナタの口から、鋭い舌打ちが奔る。

 

「くそ……もうレイジの口下手バカにできねえじゃねえか……」

 

 眉間に深いしわを寄せて、カナタが歩いていく。

 席から離れれば離れるだけ汗の臭いも遠ざかっていくが、今度は熟成された酔っ払いの体臭がカナタの鼻をつく。

 真夏日に雑巾を放置したような、むわっとするアセトアルデヒド。

 マット上に転がされたキリエの前に立ったとき、カナタはむせそうだった。

 

「おはよ……ござます……」

 

 目だけ上げて、キリエが挨拶してくる。まるでノドの奥で解体工事でもしているようなガラガラ声だ。

 

「センセー、死なないでくれ。あんたが死ぬとアタシが困るんだ」

 

 ゴト。と音を立て、教卓に水筒が置かれる。

 カナタは冷たい麦茶をカップに注いで、キリエに差し出した。震える手が、そこに伸びてくる。

 

「カナタさん……ありが」

「せめてアタシに二次関数をマスターさせてから死んでくれ」

 

 気遣いに見せかけたトドメを食らって、キリエはグニャリと倒れた。

 そのままにしておくこともできないので、カナタは酒臭いキリエの脇の下に首を突っ込んで、ウンウン唸りながら彼女の体を持ち上げる。

 そして黒板側の壁に彼女をもたせかけたとき、カナタは汗をかいていた。ヒョロ長い体をしているはいえ、いくらなんでもキリエは重すぎる。まるで鉄の塊だ。

 

「センセー。とりあえず水とっとけよ。水」

 

 キリエはというと腕を持ち上げることすらおっくうがって、目の前に突き出された麦茶に、犬のように口をつけてすすり始める。

 

「冷たい麦茶って、奥歯に沁みますよね……」

「アタシ、若いからそういうのわかんね」

 

 キリエの顔がよりいっそう、ゲッソリした。

 

「……マジで昨日は飲みすぎました。昨日っつーか、もはや今朝だけど」

「おはようございます。調子よさそうですね、先生」

 

 マットが沈み込む感触にカナタが振り返ると、腕組みしてルリコが立っていた。

 油を差してない機械のようにぎこちなくキリエが顔を上げる。

 

「あ。会長さん。おは……」

「生徒会長として言いますけど。最近、ちょっと目に余りすぎ」

「……ですよね……」

 

 生徒会長モードのルリコが放つプレッシャーに気圧されて、キリエはデカい体をどんどん縮めていった。

 小さくなって小さくなって、やがて完全に消滅してしまうんじゃないかと思うほど彼女が恐縮しているのを見ていたルリコが、はあっとため息をついて、肩にこもった力を抜いた。

 

「──先生、何か悩みがあるなら言ってください。嫌ですけど。本当に嫌々ですけど、聞くくらいは私の仕事のうちですから」

「はい……しゅみません……」

「分かったらほら、立って。授業までに合宿所あたりで熱いシャワー浴びてきて。でもって、午前中くらいはもたせてください」

 

 ヨロリ。

 

 

 壁から離れたキリエがマットの上に膝立ちになると、クラス中から「おお」と驚きの声が上がった。

 二日酔いから自分の力で立ち上がろうと、天井を仰いでフラフラと揺れるキリエ。そんな姿、めったに見られるものではない。こういう日はたいてい、タンカの出番がくるはずなのだ。

 

「いいぞ、行けぇ、先生ッ!」

 

 ダメダメ教師の中で何かが変わろうとしている──と感じたとは思えないが、とにかく面白そうな気配を感じ取ったフミオが、拳を突き上げて応援した。

 

「アンタは立ち上がれる、アンタならやれる!」

 

 無責任に乗っかるヨシ。

 

「たまにはあたいらに教師らしい姿を見せてごらんよ!」

 

 今トイレから戻ってきたところだが、とりあえず言ってみるボタ子。

 

「頼むからマトモになってください」

 

 そしてザワちん。

 

「「「せーんせ! せーんせ!」」」

 

 まるで海を割るほどの奇跡を目にしたように沸き立つ生徒たちからの先生コールに後押しされて、教卓を掴むキリエの手に力が入る。

 それが見えると興奮のボルテージは更に高まった。

 

「こんなんだからヨソからバカ扱いされるのよ」

 

 カナタと共に席に戻ったルリコが、騒ぎに醒めた視線を送っている。実際、廊下側の窓から、中を伺う他クラスの生徒たちの視線は、冷たい笑いに満ちている。

 だが、何と言われようが2-Aはカナタの居場所だ。ここが好きだった。レイジ、フミオ、ヨシやザワちん、ボタ子にキリエ──

 

「アタシは嫌いじゃないぞ。ここのフンイキ」

 

 ──そして、ルリコのことが。

 

「だって言うでしょ。類は友を……」

 

 ルリコが言葉を切った。カナタがいつの間にか、ハンカチに包まれたものを机に置いていた。

 

「ほらね……アンタも、とんだバカじゃない……」

 

 桃色の小柄な包みを解いていくと、弁当箱が収められていた。

 ジョークのつもりかあてつけか、二段構えの弁当をまとめるゴムバンドに、一枚のチューインガムが挟まれている。

 

「カナタが思ってるよりも私……ないのよ、おカネ」

 

 ルリコが声を潜めて、恥ずかしそうに言う。

 

「アンタの思いやり、確かに嬉しいけど、でも私だけ特別扱いは──」

「おうみんな! 弁当今日からタダな!」

 

 目の前の生徒会長の声を、キリエの小奇跡に盛り上がる教室の騒ぎを、両方かき消すくらいの元気でカナタが大声を張り上げた。

 

「うう」

 

 水を打ったように静まり返った教室でキリエがうめき声を上げた。

 

 ガツッ

 

 糸が切れたように力尽きた彼女は、聞いてるほうがゾっとする音を立てて顔面を教卓のフチに思い切り叩き付けた。

 そのまま、キュキュキュ……と顔面を教卓にこすりつけ、ずり落ちていく。彼女の顔が通過した後には、ナメクジが這ったように、鼻血の筋が残されていく。

 

 が、そんなもの気にしている場合ではない。

 

「たったた、タダ!?」

 

 驚いたヨシの声と、

 

「ば、バッカじゃないの!?」

 

 我に返ったルリコの声が、教室が忘れていた騒々しさを呼び戻した。

 

「ちょっとアンタ、わかってんの!? ヘラヘラ笑ってんじゃないわよ!」

 

 カナタはしたり顔で見つめてくるだけだ。

 だが、冷静に考えるまでもなく、ぜんぜん『やってやったぜ』ではない。カナタの弁当サービスに頼っているのは2-A丸ごと二十人なのだ。

 それをまとめてタダにしたらどうなるか──たとえカナタが正負の数の計算すら怪しい成績優秀者であることを加味しても──明白だ。

 

「そんなことしたら破産まっしぐらよ! 死よッ!?」

 

 栄養失調で、気を抜けばぶっ倒れるほど衰弱しているはずのルリコが、信じられないくらいの大声を上げていた。

 

「レ──レイジ、コラ、アンタの居候、おかしくなっちゃったわよ! なんとかしなさいよ!」

 

 ルリコが振り向いた。

 レイジはダンベルを持ったまま、カナタをじっと見つめてくる。

 

「カナタ」

 

 レイジの様子はいつも通り。圧倒的な無表情で、じっと見つめてくるだけだ。だが、そんなことでカナタはひるんだりしない。

 彼は、周りが思っているよりもずっと他人思いで親切で、少しだけ繊細なふつうのヤツだと知っているからだ。

 

「ンだよ」

 

 あえて、挑発するようにカナタは鼻の下をこすった。

 

「まさかアタシを止めようってのか? マジで?」

 

 ゴトリ。重々しい音を立てて、ダンベルが床に下ろされる。

 想像以上に大きく響いた音に周囲のクラスメートたちがビクリと肩を震わせる。

 

「あ、おい、レイジ。乱暴は……」

 

 ヨシを押しのけてノソノソと歩いてきたレイジが、カナタの前に立つ。

 その巨体がゆっくり跪くと、あたりから、おお、と声が上がった。

 

「カナタのために、俺に何かやれることは?」

 

 まさにそれは、カナタが言ってほしかった言葉だった。

 

「じゃあ、アタシをもう一度信じてくれないか」

「俺はいつでも信じているよ」

 

 次の言葉は、驚くほどスルリとカナタの口から出てきた。朝のキッチンでレイジに怒ってからずっと心の中に垂れ込めていたモヤモヤがサッと消えていくのを感じる。

 

「ルリコがダイエットやめるってんで、一人分弁当が増えちまった。つーことで明日から大忙しだ。いやあ、困った」

「それは……大変だな」

 

 これから言うことは分かってるよ、とばかりにレイジが頷いた。

 イヤそうな顔ではない。相変わらずの無表情だが、カナタには分かる。そして、隣で唖然としていたルリコにも、彼の微妙な変化が感じ取れた。

 彼は期待している。カナタの言葉を。

 

「……だから、レイジが卵焼きを焼いてくれると、アタシ助かる。スッゴク、助かる。

 もちろん、いっしょうけんめい教えるし、もう二度と──なるべくキレたりしない。だから……」

 

 レイジは少しだけ、目を伏せて考えるそぶりを見せる。彼がそうしていた時間は一秒にも満たなかった。

 

「──分かった。料理はニガテだが、やってみよう」

 

 再び顔を上げた彼の表情には、まだ迷いが見える。それでも、彼のまなざしは真剣だった。一度は料理をブン投げて諦めたレイジがやる気を取り戻して、カナタは満足げに頷く。

 

「ちょっと! アンタたち結局仲良しじゃん! 私の言った通りじゃん!」

 

 一方でルリコは目の前のカナタの襟首を締め上げ、振り向いてレイジに大声を吐きかけてと大忙しだ。

 

 そんな様子を見て、カナタはニヤニヤ笑ってくる。

 

「みんな同じように、タダで弁当もらえれば不公平なんてなくなるだろ?」

「トンチやってんじゃないのよ! 取り消しなさい! 今すぐ! アンタのためよ!」

「アタマ使えって言ってたじゃ~ん?」

 

 カナタは目線でルリコの机の上を示した。

 そこにあるのは弁当だ。どういうわけか、出会ってまで数日しか経っていないカナタが、旅のための貯金を切り崩してまで彼女に食べさせようとしている弁当が。

 

「わりいな。アタシってバカだから。こういうやり方しか思いつかなくて」

「……なんで、ここまでしてくれるのよ」

 

 ルリコは、カナタの襟にかけた手から力が抜けていくのを感じた。

 もっと怒れ、イラつきなさいよ。いつもみたいに──と、いくら自分に凄んでみても、体は正直だった。

 

「私って実は、アンタの親戚だったりする?」

 

 弁当箱を見つめるルリコの腹が、くう、と鳴った。

 

「ルリコはアタシと握手してくれた。そんだけだよ」

 

 骨の形が分かるほど細いルリコの指が段重ねの弁当箱を慎重に開けていく。中身は、なんの変哲もない卵焼きとサラダだ。

 

「なによ、コレ」

 

 しかし、ルリコの胃袋を思いやってか、白米の下に隠すように限界まで唐揚げの塊が詰め込まれている。それを見つけて、彼女は口を覆った手の下で笑みを漏らした。

 

「食えよ。アタシのこと嫌いになってもいい。とにかくルリコは食わなきゃダメだ」

 

 そんな風にしているルリコを見て、少し照れくさそうに、カナタは席を立って教壇へと向かう。さっきからピクリともしないキリエのことがほんの少しだけ心配だ。

 

「その、カナタさん、弁当タダって……」

「いいんだよ。おいレイジ、オマエも手かせ」

 

 心配顔のザワちんの肩を軽くたたいて、教壇に戻った彼女は、レイジと一緒にキリエの体を起こす。

 彼女たちの担任の顔は白や青といった色の段階を超え、むしろ血色を取り戻して安らかになりつつあった。

 しかし、ぶつけた鼻の下にカピカピに乾いた血の跡をつけ、四つんばいになった彼女の体はガクガクと小刻みに震え始める。

 

「うわあ、センセー、それ猫がゲボする時のアレじゃん!」

「カナタ。俺を盾にしないでくれないか……」

 

 遠くで慌てているカナタのことを、ルリコはじっと見つめていた。

 

「ありがと……」

 

 意地を張って弁当を断っていたのが、思ったより大事になってしまった。

 とてつもなく強引な手段で丸め込まれてしまった気がするが──ルリコは決して、受けた恩を忘れたりはしない。

 何か少しでもカナタのために今すぐできることはないかと考えた彼女は、とりあえずモップとバケツを用意することにした。

 

 ■

 

 その日の夜も、カナタは一人で店を任された。

 ひとりでカウンターの内側に座って、天井を見上げて、ぼーっとする。

 

 ──これで、ちったあマシになるかね。

 

 たまに外を通り過ぎるクルマのライトが、黒光りする梁の上を走る。いったりきたりを繰り返す光を眺めながら、学校でのことを思い出していた。

 

 あのルリコが弁当を受け取ってくれた。これは大躍進だ。

 レイジがもう一度料理に挑戦する気になった。うれしかった。

 

 そして、我らがダメダメ教師のことも忘れてはいけない。

 

 教室をゲロまみれにした後倒れて搬送されていったのが最後に見た姿だが、ルリコにキツく言われて、さすがにヘコんだろう。

 キリエはアル中だ。カナタの目にも、他のみんなの目にも、それは明らかだ。

 とにかく彼女に必要なのは、一分一秒でも長く酒から離れて、何かほかの、内臓を痛めつけないタイプの楽しみを探す時間だ。

 あわよくば今日の一件をきっかけに、金輪際酒と手を切ってくれれば────

 

 ガチャリ。

 

 瓶の肌が擦れ合う音が、物思いにふけっていたカナタを現実に呼び戻した。

 

「は?」

 

 カウンターに置かれたプラスティックのカゴが、中身の重さでひしゃげている。

 ウイスキーとジンが二本ずつ。質より量で勝負よと紙パックのワインが四つ。そして、その隙間を埋めるように大量のワンカップ焼酎が突っ込まれていた。

 

「はァ!?」

 

 はじかれたような勢いで顔を上げるカナタ。

 そして、彼女が睨む先で、暮酒店の常連様が、ばつがわるそうに頭を掻くのだった。

 

「なんでそうなる!」

 

 そこにいたのは教室をゲロまみれにして保健室に運び込まれ、2-Aの午前の授業を丸々草むしりにした元凶──樋口キリエその人だった。

 

「あんなシュータイさらしてまだ酒飲むのかよ!?」

 

 カナタは頭をかきむしりたいのをガマンして、キリエを睨み付ける。

 なんとなく『どうせキリエセンセーだしこうなるんじゃないかなあ』と予想してはいた。いたが、それを見事に覆してくれるのを祈っていたのだ。

 

「センセー……アンタ、マジでサイアクだよ……ッ!」

 

 驚きだの怒りだのをこめてドン、とカナタがカウンターを叩く。

 その前で、うしろめたさなんて一ミリも感じていない顔をして、キリエがヘニャヘニャ笑っている。

 

「あ。ツケでお願いしま~す」

「キリちゃん!」

 

 キリエのブラウスは、朝見かけた時から着たままだ。

 ボタンは掛け違えたままだし、襟元には黄色いシミまで飛んでいる。ちゅうちょなく、そこに手を伸ばして、カナタは掴み上げた。

 

「禁酒する流れじゃねーのかよ!?」

「へへっ。しましたよ。三十分くらいはね……」

 

 それを振り払って、キリエは未会計のワンカップを拾って、フタを開けた。

 カナタが止める間もなく、まるで鵜が魚を呑むように真上を向いて、大口にそれを突っ込む。500mlの焼酎がガボンと音を立て、一瞬にして彼女の中に吸い込まれる。

 

「ッハァ~~~! でもね、カナタさん。私、はんせい、したんですよ、ちゃんろ」

 

 酒が入って、キリエのエンジンが回り始める。反比例するように回らなくなる、そのロレツ。

 

「でもねえ……シラフになると、ヒック、どうしてもねえ。思考がマトモになっちゃうの。アル中って人種はね、いっそう」

「ふざけんな! バカ教師!」

 

 もはや「センセー」でも「キリちゃん」でもない。

 目の前にいるのは、酒にふやかされて脳みそをトーフのようにしてしまった、ただのオトナコドモだ。

 酒臭い息をカナタに吐きかけ、キリエは何が面白いのか、ずっとクツクツ笑っている。

 

「そしたら生徒にまで気を遣わせるなんて、なんか自分がみじめになっちゃってええ……」

「いい加減、体壊すぞ!」

 

 キリエの笑い声が、弾けたように店内に反響した。

 

「センセーの体なんて、もうこれ以上壊せる所ありませんってえ」

 

 それからは地獄絵図だ。

 腕を後ろに回し会計断固拒否のカナタと、なんとしてもアルコールにありついてやろうとすがりつくキリエの綱引き。

 

「────なんでキリちゃんはいつもそんな感じなんだ」

 

 決まり手は、キリエ伝家の宝刀の往来での土下座連打だった。

 醜態に醜態を重ね、それでもケロリとしている彼女に根負けしたカナタが、レジに酒を通しながら聞く。

 

「こんなでも、昔はもう少しマシだったんですよ。こう言っちゃなんですが仕事もできた。部下もたくさんいた」

「で?」

 

 どうせ、酔いに任せてテキトーぶっこいてんだろ──二十本目のワンカップをスキャンしながらフト目を向けてカナタは軽口を叩くのを忘れてしまった。

 

「それが、デカいしくじりをしまして……」

 

 カウンターの端で、空いたビンを眺めるキリエの目にはただ憂いが漂っていた。白熱灯の揺らぎが映るその瞳は、見つめ続けるとウッカリ深淵に落ち込みそうになるほど暗く、深い闇が広がっている。

 

「ホンの気の迷いで一人、守れたはずの人間が目の前で消し飛んで……」

「なんのたわごとだよ」

 

 ウソをついているようには見えない。

 それが恐ろしくて、カナタはつい、茶化していた。

 

「はは。そうですね……ホントは民間人十八人と恋人一人……その、弟の人生……」

 

 そのままキリエはうにゃうにゃ言いながら、泥酔の中に沈んでいった。

 ちょうど最後のウイスキーをレジに通して、カナタはそっと、キリエのグラスにレシートを挟む。

 

「どっかで戦争でもしてたワケ?」

 

 ぐうぐうと、実家のようにくつろいだイビキを漏らすキリエは、答えない。

 高校に入学して、ようやく歴史を勉強しはじめたカナタにとって、戦争とは第二次世界大戦や、その後のアジアで起こった戦いのことだ。

 キリエの歳では、どう考えてもそれらに参加したようには見えない。

 

「センセー、何か、隠してるんだろ」

 

 サービスでミネラルウォーターのボトルをキリエの耳元に置いてやりながら、カナタは囁く。

 キリエは答えない。

 ふやけた笑顔でカウンターにもたれて、よだれをたらす担任のことを、カナタはじっと見つめた。

 

 チリリン。

 

 ドアベル代わりに取り付けられた風鈴が、六月最後の夜に澄み渡った音を響かせた。

 

「やーっ、ほーっ」

 

 そして、店の中に投げかけられる間延びした声。

 

「メイドさーん。お待ちかねのマリコさんっすよー」

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