海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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5.ウイスキーは薄めで(4)

「ん」

 

 マリコの突き出したグラスを、カナタは黙ってにらんだ。

 

「何ぼっとしてんスか。お客がこうしたらお酒じゃないスか。お酌、してくださいッス」

「…………ビール?」

「ウス。茶色い瓶のやつ。飲んでみたいス」

 

 緊張と不快感が漂う重苦しい沈黙の中で、カナタが栓抜きを手に取った。

 栓が外れるポンという音だけが軽い。薄暗いカウンターに腰掛けた女によく冷えたビールをついでやるカナタを、マリコは動物でも観察するように眺めていた。

 居心地の悪い思いをしながらカナタがカウンターの端を見ると、打ち上げられた海草のようになって突っ伏しているキリエの姿が目に入る。

 

「ダメなオトナってどんな町にもいるもんスねえ」

 

 グラスから氷をひとつ取り出してマリコはカウンターの上に置いた。

 ネイルが光る彼女の指がそれを弾くと、スルスルと一直線に滑っていった氷が、キリエの頭に当たって小さく跳ねた。

 

「そいつ、ウチの学校のセンセー」

「知ってるスよ」

 

 学校、先生。そういうワードを出せば、この面倒な客が多少ひるむとカナタは踏んでいたが、マリコは小馬鹿にした下品な笑みを浮かべるだけだった。

 

「キリエって人。こんなでロクに仕事しないってんで、問題児集めたクラス押し付けられてんスよね。でしょ? 2-Aのカナタ先輩」

 

 何もかもお見通しッスよ。といったところか。

 

「まあ、どういうイキサツでウチに転校したかは知らんスけど。初っ(パナ)からA組入りとか、前いたトコで悪いことしたんスか?」

「ベラベラ喋りやがって」

「人のウワサを集めるのが好きなんス。じじょー……何だっけ。事情通? ってやつスかね」

 

 空いたグラスにビールを注いでやろうとして、カナタはいつの間にか、ビール瓶を握る手に力が篭っていることに気付いた。

 この蕩けた顔で見つめてくる女の吐く一言一句が、ヤスリのようにカナタの神経を毛羽立たせてくる。

 深呼吸して、ビンをカウンターに置く。これ以上手元に凶器を置いておくと、衝動的に何かとんでもないことをしでかしてしまいそうだった。

 

「センパイも、どーぞ」

 

 卑猥に笑ったマリコが酒臭い息を吐きかけてきて、カナタは露骨に顔をしかめた。しかめながら、マリコのグラスを手にとって、一気に中身を飲み干す。

 

「ン……」

「おお、いい飲みっぷり!」

 

 パッチンパッチンと癪に障る拍手を鳴らすマリコをにらみながらカナタは口元の泡を拭う。

 

「よし。いいぞ。今日はとことんまで付き合ってやるよ」

「メイドさん、いっつも飲んでるでしょ。本当にワルっすね」

 

 それを知るのは、記憶をなくす前のカナタだけだ。とにかく、二日酔いの覚悟を決める。

 

「全部吐かせてやるからな……」

 

 そこで一瞬、彼女の脳裏をレイジの顔がチラついた。

 いつもの、何を考えているのかいまひとつよく分からない顔。

 

 ────まあそれでも、きっとアタシは大事にしてもらってんだろうな。

 

 こんな所でバカみたいな意地を張ってるより、隣の部屋から聞こえてくる映画の音を聞きながら、キッチンで卵焼きでも巻いていたい。それが正直な気持ちだった。

 今、レイジは家で何をしてるんだろうか――カナタは、リップの跡がついたグラスに目を落としたまま、そんなことを考える。

 いつの間にか思いつめていたカナタを見て、くすくすとマリコが笑った。

 

「こないだのおっきい人、一緒に住んでるんスよね」

 

 事情通を自称するだけあって、そんなことまで知っているらしい。部屋を覗き見されたようで、気持ちが悪かった。

 

「…………あの、無表情ゴリラ野郎のことか?」

「うんうん。でかくて表情変わんない筋肉モリモリの人。友達スか?」

 

 カナタは顔をしかめる。

 

「あ。そうだそうだ、レイジさんでしたね。アッチもアッチで有名スよね。もしかして、付き合う男のネームバリューにこだわるタイプとか?」

「あ?」

 

 マリコがコップを傾ける。

 ルージュの光る唇を、蛇のような舌がチロリと舐める。そこから、なにかイヤな言葉が出てくるのが、カナタには予想できた。

 

「ウチの学年であの人、バイク(フミオ)先輩の金魚のフンって言われてるの、知ってるスか?」

「知るかよ」

 

 実際、初耳だ。

 2-Aと外は、最初にカナタが思っていたよりもハッキリと断絶している。

 世界滅亡級のニュースでもなければ、教師ですら寄り付かないのだ。他のクラスでレイジがどう呼ばれているかなんて、知りようがない。

 

「何考えてるか分からない。いっつも一人で、筋トレばっかして──でも、悪いことするときはいっつもあの人たちセット」

 

 コン。コップの底がカウンターを叩く。

 

「弱みでも握られてるんスかね? トモダチ代としてパシらされてるとか?」

 

 意地悪く笑ったマリコが、カナタに向かってそれを傾ける。おかわりのサインだ。

 

「ウチの学年でもさんざ言われてるッスよ。気持ち悪いセンパイがいるって」

「マジで下らねーウワサだな。アイツとフミオとはいいダチ同士だ」

「でも()()()()()っつーことは、事実()()()()()()ってコトなんじゃないスかね?」

 

 カナタは冷静で落ち着いたメイドさんの顔を装いながら、カウンターの下では地獄だ。

 怒りをこらえるためにぎゅっと丸めた爪先が痛い。

 レイジは無感情なワケではない。ただ、ほかの事でいっぱいいっぱいで、人間らしく振舞う余裕がないだけだ────彼がどんな声でうなされているか知らないクセに。

 

「ムカツク」

 

 自分のことを言われるよりも、レイジやフミオを悪し様に言う連中の話を聞くほうが、よっぽど堪える。

 必死に感情を押し殺したつもりでも、彼女の腹の中で煮えくりかえるものは、その声の低さとして現れていた。

 小刻みに肩を震わせるメイドのことを、マリコは面白そうに見つめていた。

 

「センパイって、怒ると声低くなるんスね。うちのパパそっくり」

「オマエの父さんのことなんて……!」

 

 それも、知っている。マリコの家は、ルリコの家だ。

 

「ん? どったんスか?」

 

 唇の端に形だけの笑みを浮かべたマリコが、これ見よがしにセーラーの襟を広げて、絆創膏を見せ付けてくる。

 限界だ。

 カナタはビンを手に持って、勢いよくあおった。ごぼごぼごぼ、と音を立てて流れ落ちるビールが体の芯を冷やす。

「おお」と声を上げるマリコの前で口元を拭ったカナタは「けぷ」と小さなげっぷを漏らした。

 

「……続きどーぞ。店員は、客の話を聞くのが仕事だ。どんな客で、どんな話だろうが」

 

 マリコというよりは、自分に言い聞かせるような言葉だった。

 カナタは冷蔵庫から銘柄の違うビールを取り出して、軽くマリコにラベルを見せる。寸胴なビンで、遠い国の修道院で作られたという一品だ。

 値段はやや高く、相応に度数も強い。

 オマエをブッ潰してやるぞというカナタの魂胆すら飲み干すようなニンマリ顔で、マリコは鷹揚に頷いて見せた。

 

「こないだのオモチャみたいな酒とはワケが違うぞ。後輩ちゃん」

「ふふ。そっちがゲロっても介抱しないスよ」

 

 手際よくカナタが栓を抜いて、マリコのコップに注ぐ。憎たらしいので、表面張力限界ギリギリまで。

 

「でもま、下らねーウワサって意見には完全同意ッスね」

 

 カナタはマリコがいきなりこちらの肩を持つようなことを言ってきたので、その意図を測りかねる。

 

「だって、そんなんどうでもいいくらい、レイジさんってカッコいいでしょ」

 

「────は?」

 

 カナタの頭が真っ白になった。

 ビールがコップから静かに溢れ、マリコの手元を濡らしているのにも気づかない。

 ただ茫然と、目の前の小麦肌の少女を見つめ続けた。

 

「なにが良くて、ばーちゃんちの池のコイみたいにデカい図体してるかは知らないスけどね」

 

 ビールで濡れた指を、マリコがしゃぶった。

 

「ウチ、大好物なんスよ。ソース顔のイケメンって」

 

 カラン。コップと一緒にマリコの顔が傾いた。

 ルリコよりも肉付きのいい、日焼けして一見健康な肌がキャンドルの明かりで艶かしく輝く。だが、その胸元におぞましいものが蠢いているのが見えるようだった。

 口元を、とびっきりの悪意と愉悦で捻じ曲げて、彼女は上目遣いにカナタを見つめた。

 

 カナタはまだ、凍りついたままだった。

 レイジがカッコいいとかブサイクとか、気にしたことなんて一度もない。

 

「で、実際どうなんスか。ああいう人に守られてるのって。気持ちいいんスか?」

 

 ルリコもマリコも勘違いしているようだが、カナタがレイジと一緒にいるのは『なんとなく放っておけない』からだ。

 男と女の関係とか、決してそういうものではない。

 

「そもそもレイジが誰かと付き合うなんて、ムリだろ。あんなん」

「じゃあ、ウチが最初の一人になったげるッスよ。面白くないスか? それでタガ外れて、別人みたいにイケイケのヤリヤリになっちゃったら」

 

 目を離したら部屋をゴミ溜めにして、四六時中鉄骨を殴って血を出して、夢にうなされて悲鳴を上げる姿を知っておいて、無責任に投げ出せなくなっただけだ。

 

「アイツ、自分のパンツだって畳めねえんだぞ!?」

「へえ。大変そうスねえ」

「そ、そうだ。だいいち、メシだって作れねえ。ムリなんだよ。ムリムリ。手がかかる。お子様かっつー……」

「でも、そんなんとセンパイは一緒にいるんスよね?」

 

 ──そのはずだった。

 

 廃墟の一室。

 ぼんやりしたマッチョの大男。

 積み上がったゴミと洗濯物の山──そして、秘密のホームシアター。

 カナタがこの町で手に入れた居場所に、マリコがズカズカ踏み込もうとしている。

 そう気づいた瞬間に湧き上がった怒りが、カナタの声に無自覚に滲んでいた。

 

「…………それ全部、アタシへのイヤガラセで言ってんの?」

「カンパイ」

 

 一方でマリコはカナタの憤怒にコップを掲げ、それを肴にビールを飲む。

 カナタはフキンを固く絞って、カウンターを拭き始める。

 

 幸い、掃除する場所はいくらでもある。今こうしてマリコとやりあっている間も爆睡こいているダメ教師が、ビンやらカンやら、大量に撒き散らしてくれたからだ。

 

「分かりやすいッスね。センパイは」

 

 傷が痒いのだろう。マリコの指先は、常に胸元の絆創膏をいじっている。

 

「アタシの何が分かんだよ」

 

 背筋が熱かった。カウンターを拭く手に力がこもり、つんのめりそうだった。

 

「レイジはただの、トモダチだ」

 

 カナタはギロリと、マリコを睨み付ける。

 

「アタシはアイツの世話をして、アイツはアタシを海につれてく。ただそれだけの約束だ。それまでの関係だ」

「海」

 

 アルコールが回ってきたのか、少し陶酔したような表情で、マリコは頭上で回るファンを見つめた。

 

「海か……メイドさん、やっぱ女のコなんスね。そんな、ロマンチックな約束しちゃうなんて」

「ロマン……?」

 

 ロマンチック。ロマン。

 カナタの耳に馴染みはあっても、意味までは知らない。

 つい手を止めてポカンと立ち尽くすメイドに向かって、マリコはゆっくり身を乗り出した。

 組んだ手の上にアゴを乗せて、ニヤニヤ笑う。

 

「叶うかどうかも分からない、デカいだけの、でたらめな夢ってことスよ」

 

 まあ、デカいのは結構スけどね──そう続けて、マリコは空いたグラスをカナタの前に置いた。

 

「ん」

 

 顎をしゃくられるが、カナタは動こうとしない。

 

「なんスか。ほら、ぼさっとしてないで、お代わりくださいス。カネの心配してんなら、おねえからせしめたカネが──」

「言うな」

「あ?」

「叶うはずないとか、言うな」

「叶えればいいじゃないスか。できるモンなら」

「……アタシは絶対に海へ行く。レイジと約束したんだ!」

「行けばいいんじゃないスか?」

 

 カナタの声が震えていた。

 海に行く。それは、カナタにとって自分と過去との間に結ばれた、たった一つのつながりだ。

 それを半笑いで否定された瞬間、これまで溜め込んできた怒りが一気に沸騰したのを感じた。

 

「それに、レイジはアタシのもんだ。オマエなんかにくれてたまるか!」

「あっはあ!」

 

 待ってました。とばかりにマリコが歯を剥いて笑った。

 その小麦色の肌が店の中に忍び込んだ夜の闇の中で黒く沈む。真っ白な歯を引き立てる。犬歯の鋭さも、いっそう。

 

「くれてやるゥ? アタシのモン?」

 

 マリコの纏う香水がふわっとあたりに漂った後――まるで抜いた刃を鞘に戻すように、彼女は席に座り直し、人が変わったように、柔らかい笑みを見せてきた。

 

「さんざトモダチって言っといて。割り切ったカンケイだって抜かしておいて、まるで自分のモノみてーに扱うんスねえ」

「ッ! ……それ、は……」

 

 まるで言葉の塊が詰まったように、カナタの喉が、ぎゅっと鳴った。

 彼女は首筋を押さえて、立ち尽くす。

 

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