海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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5.ウイスキーは薄めで(5)

 

「そんなんじゃ……別に。アイツがどうとかじゃなくて……オマエに……」

「ハーイハイ」

 

 カナタが苦し紛れに吐く言葉では、マリコを楽しませるだけだった。

 

「んじゃ。うまくいったらレイジさんの寝心地くらい教えてやりましょっか?」

 

 そんなことは絶対にない──そう頭で分かっていても、カナタはどうしようもなく頭に血が昇るのを感じた。

 それと同じくらい、とっさにレイジを『アタシのモン』なんて言ってしまった自分が気持ち悪くて仕方なかった。

 血が昇ったり血の気が引いたり。乱高下する感情のせいで、クラクラする。

 

「はん。それで? 終わりスか?」

 

 カウンターに手をついたカナタのことを見て、マリコは鼻を鳴らした。

 それ以上レイジのことを、彼女が突っついてくることはなかった。代わりに、空になったコップを軽く指ではじく。

 カナタは黙って素直に、残りのビールを注いでやった。

 

「ウチ、今ではこんなスけど。高校入るまではマジで優秀だったんスよ」

 

 マリコはカウンターの上に伏せ、コップの中を満たしていくビールと、底から湧き上がる細かな泡を目で追っていた。

 

「成績はいつでも学年トップ。絵だろうが作文だろうが、欲しい賞ならなんでも貰えた……」

「だったらどうして、コギャルなんてやってんだよ」

 

 カナタは、ちらりとマリコの顔を見た。泡をじっと見つめる彼女の目は、自慢というよりも、どこかうつろだった。

 

「ばかばかしくなっちまったんスよねー」

 

 半開きになった戸口から一匹の蛾が迷い込んできた。

 音もなく飛んできた大きな蛾は、店員に会釈でもするようようにカナタの目の前をヒラリと回って、電灯のカバーに降り立った。

 頭上で羽を休める虫に、マリコは気付かない。

 

「ばかばかしく?」

「おねえっスよ。身内にあんなパーフェクト超人がいたら、どうあがいても霞んで見えるんスよ」

 

 ──そうだろうか? 

 

 マリコが奇妙なことを言ったような気がして、カナタは思わず、注ぎ口を宙に浮かせたまま固まってしまう。

 

「ルリコって、いっつもグッタリしてるだけだろ」

 

 セルフ断食をして四六時中イラついて、目を離すとブッ倒れている。

 決して本人の耳に入れられないことだが、それが、カナタの見てきたルリコのすべてだ。

 

「分かってないスねえ」

 

 そして、マリコの表情だ。

 素人は黙っとれ──とばかりに肩をすくめて見せる彼女は、どこか誇らしげだった。あれほど粗末に扱って見せた姉のことを語っているにも関わらず。

 それが、ますますカナタを困惑を加速する。

 

「ありゃ栄養(エーヨー)余裕(ヨユー)が足りてないだけっス。ガチったおねえはマジですごいんだから。でもまあ──」

 

 そこで、マリコはコップを手に取って中身を一気に飲み干した。

 唇にうっすら泡を纏った彼女がカウンターに肘をついた時、すでに、その顔からは姉への尊敬も憧れも消え失せていた。

 

「もうおしまいッスね。バカっすよねえ。ママに好かれたいって、愛されたいって。ムダだもん。だってママ、おねえに嫉妬してるんだから」

「シット?」

「ママ、おねえバージョン0.5って感じの人スから……似てるけど、全部劣化してるんスよ」

 

 最後の最後に本当に愛されるのはウチ──そう続けて、マリコは自分の肩を抱いた。

 

「うれしいなあ。ママも、おねえも。結局最後はウチに行き着くんス。ウチをめちゃめちゃに愛してくれるんだ」

「ルリコが、オマエを愛してる?」

「ははん」

 

何を教えても飲み込まない、ダメな生徒を見ているような目でマリコがカナタに笑いかけた。

 

「あんなキツい思いしてるのに、ウチにカネくれるんス。これが愛じゃなきゃ、なんだっつーんスか」

「違うぞ」

 

 もう気取る必要はない。カナタは冷蔵庫からビールを取り出し、カウンターのフチを使って栓を抜いた。ブンタに禁じられた技だが、今はそんなのどうでもいい。

 中身を一気にあおる。

 

「…………違うんだ。『ママ』にも『おねえ』にも。オマエが愛されることなんて、ないんだ」

 

 鈍った舌が滑りを取り戻していく。あまりに鋭すぎるほどに。

 

「は?」

「教えてやるよ。どうしてルリコがオマエにスネかじられて涼しい顔してるか」

 

 言葉の応酬は、ここまでイヤというほどしてきた。

 だが、この瞬間のマリコは、玄関を出た瞬間に顔面に剛速球の野球ボールを食らったような顔をしてカナタの言葉を聞いていた。

 

「だから、ウチのことが好きだから」

「わけねーだろ。ホントは、オマエだって分かってるハズだ」

 

 汗を吸ったメイド服が心底煩わしかった。ヒールの高いパンプスも、ソックスでさえぐっちょりと湿っているような感じがする。

 

()()()()()()からだ。オマエがぎゃあぎゃあわめくのが、メンドウで仕方ないからだ」

 

 シン……と店の中が静まり返った。

 分厚いコップの底が、カウンターを打つ。愉悦に歪んでいたマリコの表情が、ほんのわずかな間だけ凪ぎ──そして、

 

「……少し、仲良くしすぎたかもしれないスね」

 

 今まで見せなかった彼女の怒りが、そこに現れた。

 

「こっち、お客だって忘れてないスか」

 

 その声は静かだったが、笑っていない目がすべてを語っていた。

 カナタがパッと身を乗り出した。

 

「な──」

 

 マリコが退くより早く、カナタの手がセーラーの襟を捕まえた。

 白い指が、隠されていた胸元をあらわにする。

 見えたものは、赤黒い痕を覆い隠すように貼り付けられた無数の絆創膏だった。

 その数は以前よりも増え、染み出した体液で濡れて、揺れる明かりの下で、まるで虫の大群がうごめいているように見えた。

 

「これやったの『ママ』か? それとも『パパ』の方か……?」

「失礼なヤツっスね!」

 

 マリコが、カナタの手を振り払った。

 

「前に、キリエ先生がカエルで煮物を作るハナシをしてたんだ」

 

 いきなりわけの分からないことを言い出したカナタに、マリコが鋭い視線を浴びせかける。

 

「あ? なんスか、それ」

「正直よく分からないハナシだったけど──イカれた場所にいるやつは、知らんうちにイカれてく、ってコトだったんだろうな」

 

 アルコール中毒という毒沼にズッポリとはまり込んだキリエが、バケツを抱えながら自虐で振りかざした『茹でガエル理論』のことを、カナタは話半分に聞いていた。

 それが、今なら痛いほどよく分かる。

 なぜかは、知らない。ルリコの窮状を知って、マリコの傷を見て──それだけではない。

 

「殴られたり蹴られたりするのが当たり前になると、そのうちイイトコ探しが始まるんだ。それすら見つからないと、自分を曲げ始める」

 

 失われた記憶が耳元で囁きかけてくるように、彼女は淀みなく語る。

 

「『ウチはおねえよりマシ』、『ウチは愛されてる』、『これは愛のアカシ』。だろ」

「知ったふうに言ってんじゃないスよ……」

 

 そう言って返したマリコの声は、震えている。

 

「強がってねえで、ルリコに謝れ」

 

 マリコは、そこでキョトンとした。

 

「アイツはちゃんとしたヤツだ。オマエがマジに心入れ替えて相談したら、話を聞いてくれる。そんで」

 

 それまで傷口をほじくられるようにしかめていた彼女の顔に、また、じわじわと小ばかにした笑みが戻ってくる。

 

「あー、そうっスか。じゃあウチから一つ、教えてあげましょうか?」

 

 まるで映画の悪党が保安官の顔面に銃口を突きつけるシーンような、とびっきりの、悪意の笑みだ。

 

「……おねえ、ママの前じゃメソメソ泣いてばっかなんスよお」

 

 マリコが体を揺すって笑うと、胸元の虫の群れがさざめいた。

 

「こないだセンパイ方とツルんでるトコ見て、笑っちまいそうになったスよ。

 強くて一人でやってけるオトナ演じてるくせに、あの歳になって毎晩おねしょしてるんスよ。そんなしょうべん臭いオンナに、何を頼れっつーんスかあ?」

「オマエ……」

 

 カナタの知らないルリコの姿。

 毎朝シーツを汚し、理不尽に詰めてくる母親に土下座して、ごめんねごめんねと子供のように泣きじゃくる姿。

 それを突きつけるのが、マリコにとっては強烈なカウンターパンチのつもりだったのだろう。

 だがもう、カナタは挑発に動じない。ただ真顔でマリコに向き合うだけだ。

 

「なんスかそのツラ」

 

 心底興ざめッスね、という顔でマリコが睨み返した。

 

「アタシはただ、ルリコが好きなんだ。死んでほしくない」

 

 カナタだけじゃない。

 レイジだって、フミオだって、真剣に彼女の身を案じている。

 ルリコにあってマリコにないものは、そういう繋がりだ。

 

「アカの他人が、人の家庭の事情にぐちゃぐちゃ口出しするンすか」

「いいだろ。アカの他人のマリコを嫌いになれるんだ。ルリコを好きにもなるさ」

「気持ち悪いッスね。そういうの……!」

 

 カナタはぎゅっと目を瞑る。

 

「好きにほざけばいい。アタシはトモダチを大事にする主義なんだ」

 

 今夜はまぶたの裏の過去(ヒモ)が良く見える。そして自問する。

 

 ────そこまで、手ひどくマリコをやっつける必要あんのか? 

 

 答えなら、ある。

 カナタは自分の喉笛を掴んで、痛いくらいに締め上げた。そこで押し留められた黒く燃える言葉が──ほら、俺を解き放ってみろよ──と囁いてくる。

 どうして自分の中にあるのか。

 どうして自分は、そんな残酷でおぞましいものをマリコに振り下ろそうとしているのか──必死に自分を抑えながら、カナタは目を開ける。

 

 怪訝そうにするマリコの顔を、じっと見つめた。

 

「なんスか? てっきり泣くかと思ったっスよ」

 

 彼女はただ、孤独なのだ。男をとっかえひっかえするのも、カナタを分かりやすく挑発するのも。

 そして、ルリコを見下して利用しながら、決して離れられないのも。

 

「ルリコに謝れ」

 

 ただ、かわいそうなヤツなんだと思った。

 

「だから。どうして」

「だってオマエ、ルリコがいなくなったら、一人ぼっちじゃねえか」

 

 マリコはカナタのほうに身を乗り出そうとして──やめた。

 何か、とてつもなく強い光を出し抜けに浴びせられてしまったように、彼女は目をパチクリさせた。

 まるで、子供のような顔をしていた。

 

「ルリコが死んだら、オマエ、本当に何も残らないんだぞ」

「そんなことないわよ!」

 

 はっと、何かに気づいたように、マリコは口を押さえた。

 

「私、は愛されてる……ス。何があったって、姉さんがいなくなったって、最後には愛してもらえるん、だ」

「愛される? オマエが? なんで?」

 

 倒れたコップがゴロンゴロンと転がり、カウンターの端から落ちる。

 

「オマエの体で灰皿にできる場所がなくなったら、次はドコ差し出すんだ? これからオマエがオトナになって、シラフになった時にそれを誰かに見せて──愛だったって、本当にムネ張って言えんのかよ」

 

 落ちたコップは孤独に割れた。

 カナタもマリコも、床に散らばったガラス片には目もくれない。

 一枚の写真のように、ピクリとも動かず見つめ合う。外を通りかかったバイクのモーター音。柱時計の歯車の軋み。時間は動き続けているのに、二人だけが固まったように、ずっと。

 

 ゆっくり、深く、カナタは呼吸を繰り返す。

 マリコの唇のわななきが次第に大きくなっていくのが、よくわかった。

 

「──あ」

 

 やがてその唇からこぼれ出たのは、老人のようにしゃがれた声だった。

 マリコはカウンターの上に視線を走らせ、カナタのグラスをひったくるように掴んだ。物言わぬ彼女の前で、数滴のビールを、舌を伸ばして懸命に舐め取ろうとする。

 砂漠のド真ん中に何時間も放置されて、とっくに空だと分かって水筒をひっくり返すような、そんなどうしようもない顔をしていた。

 

「あ、あ──愛されてる……スよ……私、こんなにしてるんだから……! こんなに傷ついてるんだから……!」

 

 マリコは制服の上から胸元をかきむしった。黄色い体液の染みた絆創膏がブラウスの裾からはらはらと舞い落ちた。

 

 カナタは黙って、メイド服のスカートを握り締める。

 気持ちは恐ろしく落ち着いているはずなのに、なぜか、どうしようもなく手が震えている。

 

(────何、楽しくないことをやってんだ、アタシ)

 

 それを彼女に悟られたくなかった。

 同時に、もう十分だとも感じていた。

 マリコは、カナタの言葉でこれ以上無いほど内側を抉り出された。いまさら、彼女の足元を突き崩すような、本当に決定的な一言を浴びせかける必要はない。

 

「姉さんに、言いつけてやるんだから……!」

 

 その言葉さえなかったら。

 マリコが、土足で何年も何年も踏みにじり続けたルリコの名前を、最悪な形で利用することがなければ。

 

「ムダだ。どうあっても愛なんて、もらえねえよ」

 

 とうとうカナタが、押し留めていた言葉を口にした。

 レイジが殺戮に使ったものと同じ黒い炎だ。何もかも、跡形もなく壊すだけのものだ。

 それを結局マリコに突きつけることに計り知れない嫌悪感を覚えながら、カナタは吐き気をこらえて必死に冷静な顔をつくろった。

 

「それ、痛かったろ。よくがんばったな。でも、ムイミだぞ」

「無意味じゃない! 私の何を知ってるんだ──」

「がんばったとか、ガマンしたとか、()()()()()()()じゃないんだ」

 

 マリコの体がグラグラと揺れているのと同じくらい、今のカナタも喉の奥が熱くてたまらない。

 こんなに言葉がスルスル出てくるのは、カナタの中に『ある』からだ。

 デッキに突っ込んだVHSテープが何万回も同じ筋書きの映画を再生できるように、カナタは、焼きついた過去を吐き出しているに過ぎない。

 それは彼女の失った過去が象る言葉だ。むき出しの刃を素手で握って振るうように、マリコを痛めつけるだけ、カナタの心も切り刻まれていく。

 

「オマエは愛されないところに愛されない人間で生まれちまったんだ!」

 

 自分の言葉で血まみれになりながら、カナタは叫ぶ。

 

「理由なんかない。何やっても、もうオマエはダメなんだ!」

「うるさい、知ったような口きくな! ばか!」

「オマエは愛してもらえないから、歪みの大きさを愛の深さに置き換えてんだろ!?」

「黙れ!」

「憎まれたいって言ってた気持ち、今はよく分かる。そうすればオマエの歪みの一部にできるから。少なくとも、オマエは見てもらえるから。だから、ルリコにも」

「黙れよッ!!」

 

 その挑発がよほど効いたのか、完全に頭に血が昇ったマリコが椅子を蹴り倒して立ち上がった。派手な音が響き、寝ていたはずのキリエの肩がわずかに跳ねる。

 

「お、わ」

 

 驚いたカナタは、自分でも呆れるオーバーリアクションでその場にしりもちをついてしまった。

 

「あ……くっそ……」

「ダッサ。いきなりスっ転んで、なんなんスか……」

 

 カウンターの中に座り込んだカナタをルリコは冷ややかに見下した。

 そのまま唾を吐きかけられるくらいのことをカナタは覚悟していたが、しばらく荒い呼吸でそこに立ち尽くしていたマリコは、不意に踵を返した。

 

「…………お会計、ここ置いておくっス。そんじゃ。これっきり。で」

 

 厚底のスニーカーを履いたマリコの、特徴的な足音が遠ざかっていく。

 カナタはしばらく立ち上がることもできず呆然とマリコを見送った。

 

「あーあ、最後の最後で……」

 

 カナタはコンクリートの床で擦りむいて赤くなった手のひらを見つめた。もう震えていない。

 

「カッコつかねえな」

 

 マリコから漂った絶望の匂いも、暴力の臭いも……誰かの怒鳴り声や、倒れたイスの音も。膝から力が抜ける感覚も。床の冷たさも──記憶になくとも、彼女の体に染み付いた、懐かしい感覚だった。

 鼻の奥にこびりついてくるような安酒の香りを手で追い払いながらカウンターを見上げると、突っ伏していたはずのキリエとバッチリ目があった。寝たふりをしていたのだ。

 

「センセー、起きてるか。起きてるよな。目合ったもん」

 

「眠ってまあす」

 

 キリエがまた伏せた。この上でまだ、狸寝入りを決め込もうと言う算段らしい。

 

「……トボけやがって」 

 

 カナタは少し考えて、ウイスキーのボトルを持ってきた。

 それをドカンと音を立ててカウンターに置く。この時点でキリエの肩がピクリと動いたが、まだ屈しない。カナタはキリエの前にグラスを置いた。

 

「ほらセンセー、大好きな酒だぞー」

 

 カナタがボトルを傾けると、琥珀色の液体が、からっぽのグラスを満たしていく。一オンス、二オンス……やがてグラスが酒で一杯になっても、カナタはやめない。こぼれた酒がカウンターの上に水溜りを作っても、まだやめない。

 

「あーあー、もったいないなー、こぼれちまった。なんか拭くものもってこなくちゃあ」

 

 溢れた酒は、カウンターの縁を越えて床へと滴っていっても、まだやめない。

 

「やや、やめてください!」

 

 布巾を取り出したカナタの手を、飛び起きたキリエが白刃取りの要領で阻止した。

 

「……センセー、ちょっくら人生相談ノってよ」

 

 カナタがキリエの肩を叩く。

 マリコとのやりとりの余韻を残すように、少し声が震えていたが──徐々に、いつもの彼女の調子を取り戻しつつあった。

 

「分かりました! 分かりましたから! それ以上お酒をムダにするのはやめてください!」

 

 叫びながら、キリエは勢いよく身を乗り出し、酒たまりに口をつけた。

 それが、クソ映画『焼失』でジャックが必死に泥水をすする姿に良く似ているのに気づいて、カナタはニンマリ笑ってしまうのだった。

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