差し出されるグラスに、気前よくウイスキーを注いでやる。
何杯目かわからないが、すべてカナタのオゴリだ。今日は大盤振る舞い、氷が溶けてきたなら、すぐに新しいのを入れてやる。
「うぐぐ……」
高い酒をヒトの金で飲めるのは最高だ。
にもかかわらず、グラスを傾けるたびにキリエは具合悪そうになっていく。
「もう一杯、いくか?」
常に、目の前にカナタの顔があるからだ。
カウンターの上で頬杖ついたカナタが、にこにこ微笑みかけながら、キリエを見つめているからだ。
それはまるで、死刑執行の猶予期間を待つ囚人を見守るように生暖かく、容赦のない目で。
「んじゃあ──そろそろおっぱじめるか」
とうとう観念してキリエがグラスを置いたとき、時刻はすでに夜九時を回っていた。
「キリエちゃんがタヌキ寝入りしてた間のハナシ、まとめてやろうか」
「いらないですよ……」
全部聞いていたからだ。
カナタはカウンターの隅に残されたビンを手にとって、残った酒をあおる。さっきマリコに開けてやって少しだけ残ったものだ。
ぬるいビールは鉄のような、血のような味がした。気付けにはちょうどいい。
「ルリコを助けたい」
「あっ!!!」
まじめな顔をしたカナタが切り出した瞬間、キリエが大声を上げてイスから飛び上がった。
「あっ、ちょ、ちょっと待ってもらえません!? スキっ腹にお酒はよくないので!」
カナタの拳がカウンターを打った。
キリエは悪びれもせず「ゲヒヒ」と笑って冷蔵庫を開けると、イワシの缶詰を取り出す。
「オツマミ……なんですけど。カナタさん、いかがです?」
七味を振った缶詰をトースターにブチ込んで、キリエは引きつった笑顔でカナタに振り返った。ビックリするほどの往生際だ。
二分……三分……カナタはその場で腕組みして、じっとキリエを見つめ続けた。
ジジジ……と、まるで時限爆弾のような音を立てて、トースターのタイマーが進む。魚を浸すオイルが、じわじわと泡立っていく。
「まだか?」
カナタの奥底にある何かも、同じように音を立てながら煮えたぎっているようだった。
キリエは思わず喉を鳴らした。
「ね──ねえ、カナタさん!? おいしいツマミ、たべます!?」
「いらねえよ」
沸騰寸前のマグマに蓋をして堪えるような、低い声だった。
「ダメ教師のクソみてーなハナシのすりかえもな」
「あっ、そう、ですか……」
キリエはデカい背を縮めて、煮え立った缶詰を素手で掴み出した。
地獄の底のように沸騰するオイルとイワシを口に流し込んで、ウイスキーで胃袋に送り込む。味がしない。カナタがずっと睨んでいる。
「す、すごいでしょ。キリちゃん一発芸……みたいな……」
「センセー」
冷たくハッキリ、カナタが言った。
「やだなあ。キリちゃんて呼んでくださいよお。いつもみたいに」
「センセー、どうしような、ルリコのこと」
少年のようなハスキーボイスが、見えない刃物を突き刺してくるようだった。
キリエは逃げ道を探すように、店の中を見渡す。
しかし、彼女にこれ以上の逃避を許すものは何もない。深夜の店には二人っきり。逃げ道はカナタが塞いでいる。
アル中ダメ教師に天国と地獄を見せてきた酒のビンたちも、今は処刑を見物する観衆のように、棚の上から静かに見下ろしてくるだけだった。
「なァ。
カナタが凄んだ瞬間、キリエの顔から表情が消えた。
「はァーッ……」
それまでの追い詰められた焦りも、アルコールの酩酊も、すべて押し流されて無になった。
彼女はカウンターの上にチラリと目をやる──ロックグラスの中に、溶けかけの氷。それを口に放り込んで、ゴリゴリと凄まじい音を立てて噛み砕く。
「…………チッ。観念しますよ」
カナタは目を細めた。
そういってキリエが浮かべた顔は、いつものオトナコドモのそれではない。
町に目を凝らせばどこにでも転がっている、無責任で自分勝手な本性を、分別という冷たい化粧で取り繕った、
ふやけたアル中のほうが、一兆倍マシだと思えるほどの。
「どうもしません。現状維持。卒業まではもつでしょ、あの子なら」
「ふざけんな。オマエ、先生だろうが!?」
マリコに感じたものとは別の種類の怒りを帯びて、カナタの言葉がほとばしる。自分でも驚くほどの感情が、声に乗っていた。
「ふざけてねーわ。埋まってる爆弾わざわざ掘り返して手を吹っ飛ばされるなんて、それこそフザけてんだろ」
クシャっと音を立てて、キリエは分厚い缶をちり紙でも丸めるように潰した。
その瞬間、カナタは静かに絶望した。本気で何かをする気のない人間が正論を語る恐ろしさを知った。
いつもの子供じみたおちゃらけたキリエではなく、ちゃんとしたことを言って、真面目な顔をしている彼女は、ひどく冷たく見える。
そして、死ぬほど面白くない。
「だ──だったら」
だがそんなキリエの『例外』を、カナタは覚えている。最後の望みにすがるような気持ちで、語りかけた。
「アタシがガッコー入るとき、世話焼いてくれたろ。アレなんだったんだよ」
返ってきたのは冷笑だった。
「なあに。特別扱いだと思いました? 違うね。間逆────私さ、キミのこと嫌いなんだ。しかも超個人的な理由で」
「は、はぁっ!?」
「ハハハ」
ゾブ。
そんな音を立てて、胸元に長い刃物が潜り込んできた。
思わずカナタは胸を押さえる──何もない。ないのに、心臓が死を覚悟して、一瞬止まるほどの殺気を感じた。
彼女には何も分からない。
なのに、ひとつだけ、本能で理解したことがある。
キリエは一瞬、
「オトナはね。勝手に好きになったり嫌いになったりだ」
脂汗をダラダラ垂らして荒い息をするカナタ。それを面白くなさそうに見ながら、キリエはグラスに酒を注いでいる。
「私の事情を抜きにしても──『ああまた問題のあるガキが入ってきやがった』と思った。問題のある生徒をどう扱うか──エサをやって、腹いっぱいにしてやることだ。ブタのように」
「なんでオマエみたいのが先生になれんだよ……!」
「餌付けはいくらでもしますよ。面倒を避けるためならね。私は面倒が嫌いなんだ」
飄々と言いながら、キリエがグラスを扱う手つきは荒かった。
震える指先でキャップを跳ね飛ばし、ジャバジャバと酒をOBさせてカウンターの上にこぼしながら、どんどんその震えが大きくなっていく。
「ああ──クソッ!」
乱暴にグラスを退かして、キリエはビンを引っつかんだ。
カナタが静かに見つめる前で、彼女は真上を向く。ビンの中で渦が巻き、恐ろしいほど度数の高い酒が、恐ろしい勢いで、体の中に吸い込まれていく。
「アタシのこと、キライなのか」
キリエが空になったビンを放った。
コンクリートの床に落ちて砕ける大きな音が響いたが、カナタは眉ひとつ動かさず、じっとキリエを睨んでいる。
「なあにガッカリしてるんですか。私に何を期待してたんです?」
口をぬぐってから、キリエは声を殺して笑った。錆付いた機械を無理して動かしているような、耳障りな声だった。
「いいよ、キライでも。別に。でも、頼む。ルリコのこと、お願いできないか」
「──ガキには感情移入しないことにしてるんですよ」
ハイ、これでおしまいね。
そう言うように、カウンターから体を逸らしたキリエの前に、カナタが回りこむ。
「キリちゃん」
「センセー。でしょ」
「……頼むよ、センセー」
「お断りです。こんなアル中に何ができるってんですか」
冷たく言い放って、キリエは空のグラスを傾けた。
彼女がさっき投げつけた酒瓶の破片の中に、カナタはじっと立っている。
皮膚同然のウロコとヒレで形作った見せ掛けだけのスニーカーで、それはさぞ痛むだろうに。彼女は唇をきゅっと結んで、目の前の、残骸のような大人を睨み続ける。
「頼む」
カナタが、深く頭を下げた。イスの上でキリエが身じろぎした。
「……ひとつだけイイコトを教えてあげましょう」
キリエは、もう笑わなかった。
「これからは友達を選んで、面倒から距離を取ることです」
「あ?」
肩をすくめるキリエを見つめて、カナタが声を絞り出した。
忘れていた怒りが、じわじわと彼女の中に湧き出てきていた。
「特に経験上、ああいう家からのは絶対触っちゃダメ」
────何を言っているんだ、コイツは。
さっきカナタの失望のドン底をノックしたはずのキリエは、岩盤すら掘り進む勢いで最低記憶を更新し続ける。
どうしようもないアル中。世話の焼けるアル中。それでも、なんだかんだで2-Aには欠かせなかったキリエの姿が、目の前でビリビリに引き裂かれていくようだった。
「ヘタに首突っ込んでドカンといったら、かえって面倒が増えますよ」
「おいこの、クソ教──!」
いい加減、カナタの怒りは限界だった。
ガラスの破片を蹴散らしてカナタがつかみかかる。
しかし、彼女の手が届くより早くキリエが立ち上がった。
その左腕が大きく振りかぶられる。
また、カナタは胸元に潜り込む刃物のような殺気を感じた。それはヘナチョコアル中のしおしおパンチではない。本気で殺す、本当のパンチだ。
が──
「ふんッ!」
その矛先が向かったのは、自分自身の頭だった。
衝撃波がカナタの頬を張り、戸棚のガラスがビリビリ震える。驚いた蛾がランプシェードから飛び立って、二人の頭上をくるくる惑う。
「私……」
ポタリ。
あまりの威力に面食らっているカナタの前で、赤い雫がカウンターに一滴、落ちる。
「私…………なんでこうなっちゃったんでしょう…………」
まるである朝起きた瞬間に知らない町の交差点のド真ん中で目覚めたような顔で、キリエは呟いた。顎先から滴る鮮血を、彼女は呆然と掌で受ける。
手のひらの上の赤い水溜りに浮いた彼女の顔は、ひどく疲れていた。
「あ……」
酒をあおろうとグラスに手を伸ばすが、それは既に空だ。
「いる?」
複雑な気持ちで、カナタが新しいウイスキーのビンを持ち上げて見せた。
キリエの言葉にはしょうじき傷ついたが、怒りは収まっていた。
「…………やめときます。ごめんなさい。何か拭くものありますか」
暮酒店の客層は今のところ全員店主よりもお上品で、諍いやケンカが起きたことは今まで一度もない。それでも用心に越したことは無いので、カウンターの下にはいつでも備えがある。
「こいつは店のおごりだから」
救急箱から一枚ガーゼを取って、カナタはキリエの額に当てた。
「い゛っ……」
「オトナぶる前に、まず自分の体を大事にしろよ。ホラ、押さえてろ」
「すんません……」
キリエの血が止まるまでカナタはカウンターと、床を片付ける。
その静けさを引き裂くように外のアーケードから甲高い笑い声が迸った。忘れるはずもない。マリコのものだ。
「近くで新しいオトコでも捕まえたんですかね」
声の感じからして、男女数人といったところか。あんなに痛い目に遭ったのに、もう笑っている。
──だからこそ、笑っているのかもしれない。
シャッター街の壁に反響してエコーのかかった笑い声は、やけっぱちで、むなしい。
「センセー」
「キリちゃんでいいですよ」
「アタシのこと……」
「……私に好かれても、面倒なだけですよ。面倒はイヤ。でしょ」
塩をブっ掛けた青菜のようになって、ガーゼについた血を見つめるキリエ。
被っていたアル中の皮を脱ぎ捨てた彼女を見ていると、カナタはマリコのことを考えてしまう。
どうあっても愛されない──そんな、他愛のない一言で彼女の冷笑が崩れたところ。スカスカというおかしな言い回しを忘れて、たった一人の弱った人間になってしまったところ。
カナタはホウキとチリトリを手にしゃがんだまま、暗い顔でガラスの海を見つめる。
「悔やんでも仕方ありません」
キリエが見かねて言った。
「後悔なんてしてねえよ。でも……」
マリコは、悪だ。
ただ、純粋100パーセント。頭の先から爪先まで余すことなく黒というわけではなかった。
ツギハギだらけのギャルの仮面を引っぺがして通りに放り出した相手は、理不尽な『ママ』からの暴力に苦しむ被害者だった。
それを因果応報だとぶった切るのはカンタンだ。しかし、カナタはやるせない。
「あんなんじゃ、何も変わらねえ」
「さんざ言い負かしてやったじゃないですか。あれ、私だったら一時間くらい引きずりますよ」
それで立ち直れるほど図太いのはキリちゃんだけだろ────カナタは口を挟みたくなったが、せっかくキリエが真面目に話をしている。
無粋なツッコミをそっと胸にしまって、かわりに床掃除にせいを出すことにする。
「マリコをやっつけても、意味なんてないだろ」
カナタの言葉に耳を傾けながら、キリエはグラスの中の氷を指で弄んだ。
抵抗を感じさせず、いっそ少し浮いてるんじゃないかと思うくらい滑らかに氷の塊が回転する。現実とは大違いだ。
こっちは何かを動かすたびあちこち引っかかって、キリエも、カナタも、ルリコも、そしてマリコでさえ──ツギハギが解けたズタ袋のようになって、中身をこぼしながら歩いていくしかない。
「……妹が金と男にだらしないくらいじゃ、ああはなりませんね」
「もっとデカい問題がある」
「ふつうは居心地が良くて暖かいものって言われるんですがね。家族って……ま、私も
キリエはグラスを覗き込んだ。
「カナタさん、そっちは家族とどうですか?」
「アタシ、記憶喪失だぞ。いじわるなこと聞くなよ」
「そうじゃなくって。新しい家族のほうですよ」
「新しい……?」
いつの間にか氷は大半融けきって、グラスの底には引き伸ばされた顔が映りこんでいる。作り物のように美しいが、生気を感じない顔。
そこに漂う陰影の濃さが薄暗い照明の加減でないことに、キリエは気づいている。
「レイジくんですよ。仲良くやれてるみたいじゃないですか」
「家族? あいつが? ハ。そんな大したもんじゃ──」
カナタはそこで自分の言葉を握りつぶした。冗談めかして鼻で笑ったりするのは、とてつもなく、レイジと、そして自分の本心に対して不義理なような気がした。
「さあ、な……アイツがアタシのこと家族って言うなら……それでいいんじゃねえの。物好きだなって、思うケド……」
「カナタさんがどうかってコト聞いてるんですけどねェ」
グラスの中に残った水を一気に飲み干してキリエはカナタを見つめた。生徒を見守る、優しい大人の表情だった。
「エラそーに。学校の先生みたいだぞ、キリちゃん」
「先生ですよ。これでも一応」
「くっ」
カナタが堪らず笑うと、キリエも大口を開けて、豪快に笑う。
こんな深夜に店の中がグラグラ揺れるほどバカ笑いをした後、示し合わせたように、二人はピタリと声を収めた。
「アタシさ、ルリコ好きだよ」
今も表から響く笑い声に耳をそばだてて、カナタが言う。細められたまぶたの下で輝く瞳は昼間とは違う。キャンドルの光を受けて、星を映した海のように静かに揺れている。
「先生もそうです」
「アタシと違って手、かからないもんな」
「ええ。おまけに、こんな私を叱ってくれた」
だが──キリエはオトナだ。だから『でも』と続けなければいけない。
「私たちにできる事には限界がある」
「スッキリしたいよな」
「そりゃあそうですけど……後味のいい結末なんて、ないもんですよ」
「マリコの野郎もトータルで見たら被害者だ。だが、それはそれ、これはこれ。ルリコを雑に扱われて、あんたをコケにされて、けっこうイラついてんだ、アタシは」
キリエは無意識に酒瓶に手を伸ばす。
「めっ」と、それに気づいて、自分で手を叩く。空虚な一人芝居を演じて笑いながらカナタを見つめて──その目には、自分自身への嫌悪感が浮かんでいた。
「……私は教師です。立場ってもんがあるんです」
「タチバか」
カナタはそう言って、しばらく考え込んだ。
午後8時の店の中にある音といえば、時折キリエが鼻をすする音と、奥の座敷から聞こえてくるぼやけたラジオの演歌。時計の秒針が文字盤を巡って時間を削り落とす。
赤ん坊が泣いているようにも聞こえる、マリコの笑い声。
助けを求めるような、そんな声だった。
「よし」
ポンと手を叩いたカナタがメイド服のボタンを外し始めた。
「えっ、ちょ!?」
唖然とするキリエに向かって、リボンが投げつけられる。
プチプチプチ、と勢いよくボタンを外し、カチューシャも放り捨て、絞れるほど汗を吸ったガーターベルトも、丸めてポン! と奥の座敷にブン投げる。
「──ちょちょちょちょちょっと!? カナタさん、いきなりヘンタイ!?」
「心配すんなよ……! 下にいつものクソみたいなドレスが……」
ドッサァ。
湿った、重い音がした。
「「は?」」
二人の声が重なった。丸い、白い塊がカナタの股の間から転げ落ちた。
ボウリング大のツルっとした球体がゴロゴロ……と床を転がっていく。丸めたウロコとヒレの塊が棚にぶつかって止まるまで、二人は呆然と、それを見送った。
「ウソでしょ……」
先に我に返ったのはキリエだった。
「ウッソでしょぉ!? カナタさん、こんなシリアスなタイミングで産卵しないでくれません!?」
前言撤回。尋常に取り乱していた。
「ちっ、ちがわい! あ、あ、アタシ産むようなコトした覚えないし!」
メイド服を半脱ぎにしたまま、カナタも必死に弁解する。
とはいえ、産卵なんて初体験だ。どんなものか分からない。さっきからスカートで隠れた股下が妙にスースーするのが気になって仕方ない。
……もしかして、本当に産んじゃった……?
そう思った瞬間、カナタの内腿に、じわっとイヤな汗がにじみはじめた。
「無精卵!? それって無精卵ってことなんじゃないの!? えっえっ、今まで魚系のなんかだと思ってたけど、もしかしてメンドリだったんです!?」
「ムセームセーってうるせえわ! そもそもアタシは魚でもねえよ!」
「とにかくここ酒屋! 食品扱う場所! 卵だとしたら、サルモネラ的な問題が……ッ!」
「だーかーら! 違ェつってんだろ!! アタシ人間だし、タマゴとか産まねえし! 菌とかないし──」
汗ダラダラになったカナタが、ドレスの襟をつかんで、あおぐ。
「あ」
襟が。というか、今までカナタの体の一部だったものが、音もなく千切れて取れた。天井から見下ろす扇風機の風にあおられて、ウロコの塊がはたはたと揺れる。
「キ、キリちゃあん……」
ギギギと音が聞こえるようなぎこちない動きで、カナタがキリエのほうを向く。そんな顔をされても、キリエにできることは後じさりくらいだ。
その間も、彼女のドレスはグズグズに崩れ、その体から剥がれ落ちていく。
「なっ、なんか……カユいんだけど……!?」
「うわわっ、なんかスゴいバイオでハザードな感じ! こないで!」
あんまりじゃねえか──と吐き捨てることもできないほど、体が熱い。
思わず床に手をついたカナタの腰から、メイド服がストンと落ちる。その動きに合わせて、ヒレで形作ったスカートも一緒に脱げていった。
さっきの『タマゴ』は、丸めて仕舞っていたヒレの塊だったのだ。
「きゅ、救急車呼びます……? それとも皮膚科? 水族館!?」
壁掛け電話に手を伸ばしながら、キリエも自分で何を言っているのか分からない。
この間もカナタの全身から、汗とウロコがとめどなく滴り落ちる。
「ま──待ってくれ。これ、いけるかも」
「いける、かも?」
カナタの口元に、笑みが浮かんだ。その首筋に赤い裂け目が走る。
エラだ。
肉の色をした裂け目が大きく開いて、新しいヒレが勢いよくせり出してくる。
それは、蝶の羽化を早回しで見るような、劇的で、幻想的な変化だった。
黄金色に輝くヒレとウロコの群れが、カナタの裸体を覆っていく。
「前にも、こんなことがあったんだ……」
時間にすればほんの数日のことなのに、もう何年も前の出来事のような気がする。
だが、あの日ここまで劇的な変化は起こらなかった。
──カナタはここまで自分が変われるなんて、思ってもみなかった。
「髪、さいしょは長くて。うっとうしくて……いらないなって思ったら、取れちまった。へへ……」
ぜいぜいと息をしながら、カナタは愉快そうだった。
やがて、せり出す皮膚の勢いが収まる。首に入ったエラが、何か忘れたことを思い出したようにモゴモゴと動く。
それが最後に吐き出したのは、青いスカーフだった。
「あ。それ……ウチの学校の……」
呆然と立ち尽くしているキリエのスーツのすそを掴み、カナタは立ち上がる。
白いブラウス。青いカラー。ラインの入ったスカート──見飽きるほど目にして、焦がれるほど着てみたかった、西高のセーラー服だ。
「ははっ、いいじゃん!」
戸棚のガラスに映る姿を見て、カナタは愉快そうに笑った。
本当に、彼女が始めてこの町の地を踏んだ日の再現のようだった。
ウロコとヒレで形作った制服は、ところどころ造形が甘かったり、カナタ風にアレンジされていたりする。
だが──そんなことは、重要ではない。
「ようやくアタシもみんなの仲間入りってワケだな!」
カナタの頬は急激な肉体の変化と「新しい肌」を見た興奮で上気している。
「どうキリちゃん、似合う?」
勢いよくくるりと一回転。彼女の体に纏わりついていた真珠色のウロコが舞い散って、照明の光を受けてスパンコールのようにキラキラと反射する。
「ええ、とっても……きれいですけど……」
握り締めた受話器のことすら忘れて、キリエが呆然と呟く。
「カナタさん、あなたは一体」
「知らねえ! でもアタシ、今なら何でもやれそうな気がするんだ!」
まだ何か言いたそうにしているキリエに汗とウロコまみれでジャリジャリするメイド服を押し付けて、カナタは大きく伸びをした。
「じゃ、早速ブン殴りいくわ」
「は?」
カナタが、おかしなことを言った。
「なぐ……え?」
「アタシ、学校でバカにされたことがあったんだ。ドレスが変とか、制服着てないとか言われて」
カナタが突然脈絡のないことを言い始めたので、キリエは少々面食らったが、件の騒動について彼女もとっくに聞き及んでいる。
「……レイジくんが廊下ひっくり返して学年丸ごと血の海にした。ってやつですか」
「ははっ、もうそんな尾ひれついてんの?」
カナタは天井を仰いで、声を上げて笑った。その額に浮いた玉の汗が、輝く。
彼女の脳裏に、あの日の夜のレイジの顔が浮かぶ。これから何年も何十年も経ったころ、ふと思い出す日が来るのだろう。
レイジには、忘れたくても忘れられない黒歴史として。
「レイジがアタシの代わりにキレて、シャツ破って凄んだんだよ。そんだけ。たった、そんだけのコトなんだけど……」
そしてカナタにとっては、輝かしい青春の一ページとして。
「……誰かがホンキで怒ってくれるのって、嬉しいんだな」
あの大暴れが。廊下を埋め尽くしたカオスが。カナタは誇らしい。
変異で上がった体温が元に戻っても、彼女の胸元は不思議な温かさが宿ったままだった。
熾火で爪先を暖めるような心地よさを感じながら、カナタは準備運動をする。体の中からヒレだのウロコだのを出したせいで少しだるさを感じるが、悪くない。
あの白いドレスより、セーラー服のほうがずっとずっと軽やかで、そして、夏だ。
どこまでも飛んでいけそうなほどに。
「────ああ。うらやましいな」
そんな彼女の姿に、束の間、キリエは真顔になって呟きかけた。
「え? なんか言った、キリちゃん」
「友達が出来たんですね。心を預けてもいいってくらいの、トモダチが」
自分の肩に乗せられた手を見つめてポカンとしていたカナタの顔に、徐々に笑みが浮かんでくる。
「……かもな。だからアタシも怒ってくる。ルリコやレイジ。それに、キリちゃんのために」
「だけどそれとこれとは話が別────あらっ!?」
キリエがその手に力を込めようとした瞬間にカナタの体はヌルンとすり抜けてしまった。服に見えているが、その正体はつやつやのよく滑るウロコだ。
「センセーにはタチバがあるが、アタシにそんなモンはねえ。だから失うモノもねえってこった!」
カナタの体が宙を躍り、カウンターを飛び越える。
しなやかに着地した彼女は、その場で振り返って、キリエに不器用なウインクをして見せた。それは眩しそうな顔でしかなかったが、まるで自分の全身を覆う鱗が纏った輝きに、目を細めたようでもあった。
「何もねえガキだからできる事があるってのを、今からキリちゃんに見せてやる! たまには面倒もいいモンだってな!」
「は?」
キリエがうまく言葉を飲み込めずポカンとしている前で、カナタが不敵に笑った。めちゃくちゃ悪くて、めちゃくちゃ大胆な笑顔だった。
「あ、ちょ、待って。タンマ!」
いやな予感を覚えて、カナタに向けて伸ばした手が再び空をつかんだ。彼女はすでに走り出し、酒屋の戸口に立って辺りを見渡した。
「いたぞお……! いたぞお……!」
肉食獣のような瞬発力で駆け出したカナタが、暗闇の中に姿を消した。足音が、ものすごい勢いで遠ざかっていく。
「ワケ……わかんないんです、ケド……」
いいや、深く考えないようにしているだけで、キリエはうすうす、カナタのやろうとしていることが分かっていた。
いや、それもウソだ。
うすうすどころじゃない。確信がある。
ガチガチにヤバいことを彼女がしでかす予感がある。
気づくと、キリエの首筋はびっちょりと嫌な汗に濡れていた。
汗をぬぐおうとする手が、震えている。
「なっなんだこのアマ! ぎゃああ!」
通りの向こうで、男の悲鳴が上がった。キリエの震えが激しくなる。
「うるせえ! どけ、ザコどもに用はねえ!」
カナタ『らしき』声。
重い塊が地面に倒れ付す音。
どよめき。ざわめき。
キリエはまだ諦めていない。
いくらなんでも。あのカナタでも、そこまでストレートにバカをやるはずがない。殴りに行く、というのは、あくまで何かの例えだ。
「せ、せ、せ、センパイ、いいんスか。呼びますよ、ケーサツざたっスよ。いいんスか!?」
引きつった、マリコに『よく似た』誰かの声。
「呼べるもんなら呼んでみやがれ! パトカーよりアタシのパンチの方が百万倍早いけどなーっ!」
遠くで何かが倒れて、ガラスの割れる音がした。
「この野郎!! 死ね────ッ!!」
「うわちょ、せんぱ、うげぇーっ!?」
ガシャアアアァァ
看板か何かが粉砕される音。「ふぎゃッ!」という悲鳴。地面を掻く音。
「なっ……ぶっ、何、するンすか、このバカ……!」
「オラ立てよマリコ! このカナタ様がオマエと殴り合ってやろうってんだ!」
ゴン。
キリエがカウンターに額を打ち付けた。
呼んだ。呼んでしまった。今まさに外の通りで暴力沙汰を起こしているのは、間違いなく彼女の教え子だ。
「マリコだってイラついてんだろ? スッキリしたいよなァ!?」
「なんも知らないクセに……」
「きこえねーよ」
「ウチのかわいいツラ、ブン殴りやがって……」
「ハっ。だったらどしたよ。ルリコに泣きついて代わりにボクシングさブッ」
ガッシャン。ガラガラガラ。
ゴミ箱か何かを派手に巻き込んでカナタが倒れる音を聞きながら、キリエの握りしめたグラスにゆっくりヒビが走っていく。
「あ、あ、あ……ンだよ。けっこういいパンチ持ってんじゃねえか……」
「……よ」
「あ!?」
「ウチが……黙って……聞いてりゃよーッ! うわーッ!!」
それまでボソボソしゃべっていたマリコが、甲高い声で絶叫した。
カナタの一発で何かが吹っ切れてしまったようだ。
「ウチが好きでこんなんやってると思ってんスかああ!?」
くぐもった打撃音。
二人分の足が地面の上でバタバタ暴れる音に、野太い男のすすり泣きが混ざる。それも数人分。
「いっこ上だからってチョーシこいてんじゃないスよ! この、この……うぎゃーッ!?」
バキーッ!
「うるせえバーカ! オマエのオゴーッ!!」
ボコーッ!
それからはもう、聞き取れない罵詈雑言とパンチの応酬だ。
きいきいとカナタとマリコが激しく罵り合う声をバックに、キリエはカウンターに向かったまま固まっていた。
──やったね、キリちゃん。明日は仕事が沢山だ!
「うおすっげ、すげえ! こんなんはじめて!」
そこに、油ギッシュな中年の声まで混ざってくる。
入り口のガラス戸を粉砕しそうな勢いで駆け込んできたのは、やっぱりブンタだった。
「おいアル中、そこでカナタちゃんとバカ女が殴り合いしてる! しかもスゲー見ごたえあるヤツ!」
「うああ、やっぱり……と、とりあえず、止めなきゃ。早く──」
げんなりするキリエの前で、ブンタは目を輝かせながら腕まくりした。
「あぁ!? 何寝ぼけたコト言ってんだ、おめえは!」
キリエを押しのけて、ブンタはカウンターに入っていく。
暮酒店の客層は基本的にお上品だ。しかし、カウンターの内側には、いつだって荒事のための準備がある。たとえば救急箱。ほかには──
ごろり。
カウンターの上に、年季の入った金属バットが転がった。
「わあスゴい使用感……」
ベコベコにヘコんだ表面に、茶色いものが乾いてこびりついてることに気づいて、キリエは意識が遠のくのを感じた。
「で、なに。これから素振りでもすんの?」
「加勢に決まってんだろ! 看板娘に何かあっちゃ暮酒店の名折れだぜ!」
「げええ、こいつ何考えてんだ!」
もはや言い逃れできないレベルの凶器を引っ掴んだブンタが猪のような勢いで飛び出していく。
キリエも一呼吸遅れて、ガタゴト慌しくカウンターのイスを蹴倒しながらその後を追う。なんかもう色々と手遅れのような気もするが、仲裁してやるのは一応大人の義務だ。