海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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2.打って、叩いて、壊れたままで(2)

 

 シャコシャコシャコと、そこらじゅうから音が聞こえる。

 

「クソ……人間バーベキューかよ。なんで俺がこんな目に……」

 

 汗が玉となって、フミオの広い額から落ちていく。

 それは鉄板のように熱されたプールサイドのコンクリートに水玉模様を描くのだった。

 

 朝の曇り模様はどこへやら、六月初旬のくせに殺人的なカンカン照り。

 

「フミオちゃあん、あたいら全員だよ。全員強制労働さァ」

「っせえなあボタ子! 文句くらい好きにタレさせてくれよ!」

 

 彼は背後に立つ長身の女子生徒が体を曲げるたびに尻をドスドスとぶつけられながら、必死になってブラシを掛ける。

 西高二年、A組。今日は授業なし──代わりにプール掃除。

 冬の間に吹き溜まった落ち葉だのちり紙だの虫の死骸だのをきれいに片付けるまで、勉強なんかしなくてイイヨとのお達しだ。

 それならそれで面倒から開放されたぜと悪ノリし始めるのが健康的な学生の姿であろうが、天日に干されたプールの周りに広がる光景は、異様だ。

 さきの女子生徒──ボタ子の言葉が、この状況を的確に表している。

 誰もふざけることもなく、ただ無言でブラシを動かす。まさしく、刑務作業を言い渡された囚人のように。

 他のクラスは通常運転。体育でグラウンドに出ていた数人の生徒たちが、背伸びしてプールを覗き込んでくる。

 

「ンだ。この野郎」

 

 フミオはジトッとした目で睨み返した。暑さとイライラで、もはや焦点が合っていない。

 彼らは何かを囁き合って、足早に走っていった。去り際に残した耳障りな潜み笑いが、いつまでも彼の鼓膜にへばりついた。

 

「わり、ボタ子。俺ちょっと足いてえ」

「なんだいジジ臭い。さっさと戻っておいでよ」

「へいへい」

 

 太腿をさすりながらフミオがフェンスにもたれかかると、そこに、デッキブラシを杖にしたルリコが立っている。

 

「ねえ、見てよ」

 

 

 彼女は水着にジャージの上着だけを身に着けていた。

 スラリと伸びた脚に、フミオの視線が自然と引き寄せられる。気づけば口元が緩んでいた。

 

 その瞬間、みぞおちに鋭い一撃が突き刺さった。

 

「私じゃないわよエロガキが」

「げほっ、おえっ……なに、が……?」

 

 今日も不機嫌クイーンは健在だ。

 

「ん」

 

 彼女が小さく顎をしゃくる。

 その先に視線を送ったフミオは、思わず「やべえな」と呟いた。

 プールサイドに、奇妙な影が横たわっていた。

 レイジだ。腹ばいになり、両腕を濁った水にどぷりと突っ込んでいる。

 

「レイジちゃん……保健室、行ったらどうだい?」

 

 さっきの女子生徒が、彼の(ソバ)に立って声をかける。

 

 無反応。

 

 彼は、金魚の水槽のように緑色に濁った水をゆっくりと(スク)い上げた。

 指の間から滴る水をじっと見つめる。

 何かを探しているように、そこに、彼にしか見えない何かが確かにいるように。

 次の瞬間、そっと鼻を寄せて、水の匂いを嗅いだ。

 

「もう声は聞こえないか……」

 

 意味不明なことを繰り返しながら、意味不明なことを呟く。

 

 いつもニコニコしている姉貴分であるボタ子の口元が、明らかにヒクついた。

 

 

「そんじゃあ、あのう……がんばってねえ」

 

 彼女の声は震えていた。

 

「なんか、よく分かんないけどさァ……」

 

 半歩、後ずさる。

 レイジは、水を掬い続ける。

 完全に困惑した様子でボタ子が歩き去るまで、レイジはずっとそうしていた。

 

「マジでそろそろ、あいつの友達やめたくなってきたぜ」

 

 フミオが、風船がしぼむようなため息をつく。

 

「本当にやめちゃおっか」

「でもよ、俺らまでいなくなったら、アイツとうとう完全ボッチじゃん」

「少ない友人として、レイジの抱えてる問題と向き合ってやりましょうか」

 

 2-Aはおかしな生徒ばかりが集められた場所だ。

 他ではもてあますエキセントリック(ふうがわり)な生徒たちの中にいても、レイジの存在はちょっと浮いている。

 このデカくて何を考えているか分からない男に近づくものはほとんどいないし、だれかが「そういやレイジがさあ」と話題にすることはあっても、それ以上話が広がることはない。

 広げるのほどのことを、誰も知らない。レイジも、語らない。

 この日もクラスメートの大半は、レイジを無視して黙々と作業を続けるだけだった。

 

「ありゃ確実にストレスからくるやつね」

「アイツがストレスだって? ルリコは心当たりあるか」

「こないだ妹に押し付けられた生ゴミ全部あいつんちの前に置いてきたんだけど」

「俺なんか、遊びに行ったときDVDデッキ壊して、黙って帰った」

「アンタ最悪でしょ」

「いや、でもあれ最初から調子悪かったし。お前も相当最低だぞ。生ゴミって」

「……真面目なハナシすると、アレでしょ」

「昨日言ってた、海の女の夢ってやつか」

 

 ルリコはうなずいて、レイジに視線を戻した。

 炎天に焼かれたプールサイドは、絶好のコンディションだ。そこに上半身裸で寝そべるのは相当キツいはずだが、レイジは身動き一つしない。

 その動かざること、瞬きすらしてないのかと思わせるほどだ。

 そこにタイミング悪くボウズ頭の男子生徒が通りかかった。

 

 足元が見えなくなるほどのビート板を抱えて。当然両手も塞がっている。

 となると、行き着く先は最悪の結果だ。

 

「ぎゃあっ!」

 

 桜吹雪のように空に舞い上がったビート板。

 それを見て、ルリコが他人事のように呟いた。

 

「あらら」

 

 悲鳴を上げて、ボウズ頭の生徒──”ヨシ”という名がジャージに縫い付けてある──は、レイジに蹴躓(ケツマズ)いたままのポーズでフライハイ。

 十点満点中ゼロ点の着水を決めた先は当然、泥と落ち葉と、虫の残骸が渦巻くプールの中だ。

 

 

「レ、レイジ、てめえ!」

 

 あぷあぷ言いながらヨシが浮かんできた。

 頭からカエルの卵塊をブラ下げたまま、レイジに掴み掛かるが──無反応。

 

 ゴッ

 

 振ってきたビート板が彼の頭に当たって乾いた音を立てたが、彼は別の世界にいるかのように、じっと水面を見つめたままだった。

 

「お前シカトこいてんじゃねえぞ、おい…………おいったら……ごめん、なんか具合でも悪かっ…………げェっ?!」

「うわあ」

 

 レイジの体が、何かに呼び込まれるように水面に傾いた。

 さすがにレイジのおかしな様子に気づいたヨシと、ルリコが同時に声を上げる。

 

「ドブ川とドッコイだぞ、ここ……」

 

 水に顔を沈めたレイジの口元から、ブクブクブク、と泡が浮かび上がる。異常事態には慣れっこのAクラスたちも、さすがにドン引きだ。

 

「なんですか、ありゃ。新型の土下座ですか」

 

 ただただ戦慄するばかりのルリコとフミオ。その背後から、不意に、大きな影法師が伸びてきて、二人を包み込んだ。

 

「今日の三馬鹿は楽しそうな感じでイイですねえ。混ぜてくださいよ」

 

 入道雲のような、大きな大きな影の中。厳しい日差しが和らぐが、代わりにツンとしたアルコール臭が鼻を突き刺す。

 

「三馬鹿じゃないから」

「そうそう。俺らをひと括りにしないでくれよ」

「ンですって。それ、アンタが一番言う資格──」

「にしても、あのレイジくんが体調不良ですか。いやあ、世も末」

「あの頑丈さだけが取り柄のミスター野獣が? ナイナイ。あいつインフルになっても半日で治すのよ」

「じゃ、頭の方ですかね」

「俺らもそう思ってた。もしかして栄養足りないのかもな」

「筋肉に全部持っていかれて、脳みそスポンジみたいにスカスカなのかも、ね」

 

 電柱と見紛うほどの巨大な女が、二人の背後に落とした影をフラフラ揺らした。

 自然な流れで会話に突入してきた彼女とルリコたちのやり取りを尻目に、レイジは泡を吐かなくなった。

 だが、空気が尽きても息継ぎはしない。呼吸の必要性を忘れているかのように。

 

「おいおいレイジちゃん。アンタの肺活量、どうなってんだい」

「ボタ子、アイザワぁ、耳に水入れてみようぜえ」

「この馬鹿たれは頭空っぽなんだから。入れても鼻から出てくるだけですよ」

 

 だんだん面白くなってきたのか、クラスメートたちはレイジの巨体をつついて、頭にカエルの卵を乗っけてやりたい放題しているが、彼は決して反応しない。

 

「ルリコもたまに、ああなってるよな」

「私は普通に気絶してるだけだから。あれと一緒にしないでください」

 

 ルリコに睨みつけられて、フミオが肩をすくめた。

 

「と、こ、ろ、で……!」

 

 そこでようやくルリコが振り返る。

 

「お、ようやく構ってくれますかあ?」

 

 電柱かと見紛うような長身の女教師が、彼女を見降ろしてエヘラと笑って見せた。その瞬間酒臭い息が吹き付け、ルリコは気が遠くなる。

 

「ぐえっ……せ、先生、また大酒飲んでから学校来ましたね!?」

「でへへ。仕事が終わらなくってヤケ酒でぇす」

 

 樋口霧江(ヒグチキリエ)。2-Aの担任は、不気味に笑いながら、相変わらず手入れがされていないモジャモジャの黒髪をかきむしった。

「いい大人の笑い方じゃねえ!」

「おんやあ、フミオくんには私がいいオトナに見えるんですねえ~?」

「酒くせえんですよ! マジであんた、ハミガキとかしてるんスか!?」

 

 ナナフシのように体を折り曲げてフミオを覗き込んでいたキリエが、不意に「うぷ」と言って口を押さえた。

 そのままドタバタ走っていって、さっきフミオが丹精こめて掃除した排水溝の上に屈み込む。

 

「うっ……うええええええ! おえええええええっ!!」

「先生……たまには禁酒とか、どうよ……」

 

 げんなり顔のフミオは、けっこう本気でキリエの健康を心配していた。

 しかし、返ってきたのは中指二本立て。恐ろしく汚いハンドサインで答えた彼女は、同じくらい汚い声で胃袋をひっくり返す。

 

「ああはなりたくないわ……」

 

 クソをひる子犬のようにプルプル震えるキリエの背中を見て、忌々しげにルリコが吐き捨てる。

 

「ふう。デトックス完了……」

 

 千鳥足で歩いてくるキリエ。

 ブラウスの襟元には数日前にこぼしたウイスキーの染みがまだ残っており、彼女の優れた生活力を雄弁に物語る。

 ただ、それでも彼女は美しい。

 今こうしてだらしなく笑っているだけの女は、理不尽なまでの美人なのだった。

 割れて片方のレンズが落ちた丸メガネの向こうで、切れ長の目が瞬く。白くて繊細な指が反吐を拭う所作ですら洗練されて見える。

 このイカレポンチのアル中に更正してほしいのはクラスの総意だ。しかし、下手に磨きを掛ければ、こんなしょうもない女に人生狂わされる生徒が続出する。

 だから風紀のために放置。それが、クラスで出した結論であった。

 

「というか先生ェ、どうして俺らだけプール掃除だの地域のゴミ拾いだの、面倒ごとにフル出動なんだよ」

「おや。不服ですかあ?」

「ほかのクラスはヒマすぎて、テスト対策の時間までもらってるじゃないスか。こんなんじゃ、よけいウチがバカの寄せ集めになるだけじゃん」

「……フミオ、うちのクラスのこと、忘れた?」

「掃き溜め」

 

 キリエがプールの水で口をゆすぐ。見ていた誰かが「プールがかわいそうだ」と呟いた。

 

「生徒会長、正解~。うちのクラスは体でご奉仕するって決まってるんで」

 

 あははははー。ヤケクソなキリエの笑い声がプールサイドに響き渡った。

 

「あと、勉強したくらいでA組がマシになるとか、ぜんっぜん期待されてないんで。悪しからず」

 

 彼らのクラス、2-Aは、通称A()ホのAクラスとして他の生徒たちから敬遠されていた。

 そして問題児は生徒ばかりではない。

 ここまで振る舞いの数々を見れば疑うべくも無いが、クラスを預かる樋口キリエもあらゆる面で終わっていた。

 公私問わず年中フラフラしているので他の教員たちからの覚えがすこぶる悪く、落ちこぼれたちの最終処分場の番人という名誉ある職に配された形だ。

 

「はいそこ、適当にやれ~。頑張るやつは一番に潰れるんだわ」

 

 と、頭を左右にフラフラ揺りながら、手に持ったスキットルを掲げて彼女が叫ぶ。その言葉に誰も反応しない。ただ歯を食いしばって汗をにじませて、ブラシで床をこするだけだ。

 

「ンだよ、ガキのくせに面白くねえ……なんか言い返してこいってんだ……」

 

 教師として楽々とライン越えのセリフをぶちかますキリエのことを、ルリコたちは心底面倒そうに見つめていた。

 

「んで、夢の女ってなんです……? 酔生夢死(スイセイムシ)ってこと? 先生のことですかね。困っちゃうな。生徒の夢に出てくるドエロ女教師だなんて。これ教育委員会にバラしたら免職してもらえるかな」

「なあルリコ、スイセームシってなんだ?」

 

 フミオがルリコに耳打ちする。

 

「ああいう人間のこと」

「おわ!? なんだ先生! やめろよ! バカ!」

「へへへ……上がれるもんなら上がってきてみてくださいよ……」

 

 ヘドロにまみれてプールサイドに這い上がろうとするヨシを、キリエが蹴り落として遊んでいる。

 

「ダメ人間」

「そう。しかも笑えないタイプの」

「フミオくんに朗報持ってきてやったのに、ダメダメ人間とは心外ですねェ!」

「朗報ゥ?」

 

 生徒をオモチャにするのに飽きて戻ってきたキリエに、フミオは露骨に疑いの目を向ける。その背後では、精も根も尽き果てたヨシが、他のクラスメートたちに引き揚げられている最中だ。

 

「フミオくんのお父さんが電話くれやがったんですよ」

 

 キリエが顔の横で親指と小指で電話のサインを作って見せる。

 誰も気にしていなかったレイジの口元から、ボコ、と泡が浮かぶ。

 

「後で適当に折り返しといてください。ほんじゃ伝えましたから」

「ンだよ、やっぱ面倒ゴトじゃん。どうせ『さっさと帰って家の仕事しろ』とかだよ」

「私もあのオッサン苦手なんですよねー。だから渋らないでさっさと電話して。もっと面倒なことになるから」

「知らないみたいだから教えてあげるけど、先生も相当面倒くさい大人よ」

 

 とても教師と生徒のものとは思えない会話を繰り広げながら、ルリコは何気なくプールの水面に視線を落とした。

 空の青とは交わることのない、濁った深緑。その中で、ゆらりと動いたものがある。

 ルリコは目を凝らす。

 それは鋭いヒレだった。ヌッと現れた黒い影が、尾ビレをひるがえし──次の瞬間、バシャリと水面を打って、ルリコの顔に水をぶっかけた。

 

「サ」

 

 現れた時と同じように、深緑の底へと沈んでいく、黒い巨体。それを見送るルリコの全身に、じわじわとイヤな汗が浮かんできた。

 

「どした?」

 

 フミオは、急にしがみ付いてきたルリコの唇がわなないていることに気づいた。

 

「今……いた。サメ……サメが、いた……!」

「生徒会長さん。酔っ払ってんですか?」

「あ、あ、アンタに言われたくないわよアル中! ほ、ほんとうにいたの。サメよ、サメ。ジョーズみたいな大きいやつ!」

「頭大丈夫か。ここプールだぞ」

「実験で突然変異したサメよ! どこかの研究所で飼えなくなって、プールに逃がしたんだわ……」

 

 

 ドポムッ

 

 

 背後から聞こえたのは、何かが爆発したんじゃないかというほどの音だった。

 衝撃で空に舞い上がった水が雨のように降りしきる。三人が勢いよく振り返った先では、水面がボコボコ泡を吹いていた。

 

「マジで、サメ……?」

 

 呆然とするフミオを盾にして、ルリコがコクコクと頷く。

 ポカリと大きな泡が弾けたきり、またプールは静かになった。

 

「あれ。レイジくんどうしました?」

 

 いない。

 つい数秒前までトドのように寝そべっていた巨体が、濡れた跡だけを残して忽然と消えていた。

 

「……いや、まさか、サメに……引きずり込まれた?」

 

 全員の視線が水中に集まる。

 

「フミオ隊員、出動命令」

 

 われらが破戒教師から、あまりにも無慈悲な出撃命令がくだされた。

 

「ちょ、ちょっと待てよ!? サメいるかもなんスよ!?」

 

 ”フミオ隊員”が千切れそうな勢いで首を横に振る。

 

「さっき『サメなんているわけない』って言ってたよね?」

「黙れルリコ! いいですか先生。そもそも、俺はこんなきちゃないトコ泳ぎたくないんですよ。それにレイジのやつなら、どうせ放っておけ──ばああ!?」

 

 ルリコの蹴りが炸裂。フミオの体は『く』の字に折れ曲がり、空中で美しく三回転──そして盛大な水飛沫と共にプールにダイブした。

 

「ごばあ!」

 

 フミオが全身に水草を絡めて水面に顔を出した。どんな異常発達の末にそうなったのか、一本一本の水草がワイヤーのように太く、強靭だ。もがけばもがくほど食い込み、彼の体はタイタニックのようにゆるやかに、ドラマチックに沈んでいく。

 

「フミオたいいーん」

 

 バシャバシャと水をかくフミオを、プールサイドからルリコが見下ろした。

 

「サメ、いた?」

「だっ、てめえ、ルリコ、せんせ、たすけっ、あばっ、あっあっ」

 

 クラス全員が注目している先で激しく水を散らしていたフミオ。

 やがて彼の頭がトプン……と音を立てて完全に沈没したとき、誰も、何も言わなかった。

 フェンスの向こう、グラウンドから聞こえてくる短距離走の掛け声が、いやに遠くかすれて聞こえた。

 波紋がゆっくり大きく広がっていく新緑の水面を見て、のんきに酒を飲む女が一人。

 

「もう遅いかもですが、フミオくんって泳ぎ得意でしたっけ」

 

 キリエだ。

 

「さあ。知りませんけど、死んでも誰も困らないでしょ」

 

 さすがにその場の全員、プールの淵から中を覗き込んでいる。

 緑色のもやもやが漂う水の底には、一体何が待ち構えているというのか。

 

「ルリコさん、行きますよね」

「ええ……私ですかあ……?」

「モツとか血が浮かんでないし、少なくとも人食いザメじゃないでしょ」

 

 心底いやそうな顔をして、ルリコが走り出す。そしてプールのへりに指をかけ、さあ今飛び込むぞ──となった瞬間、彼女は動きを止めた。

 

「せんせーい!」

「はい。人命がかかってるんで、さっさと頼みますよ」

「これ、絶対私も巻き添えで沈むやつじゃないですか!?」

 

 キリエがスキットルをあおり、まあやってみればいいじゃないのと陽気に親指を突き上げた。それが彼女からのアドバイスだった。

 

「ああもう、クソ教師が……」

 

 毒づいて、ルリコは潔くジャージの上着を脱いだ。

 

「おや、会長ちゃんの水着とかレアなんじゃないかい」

「意外とスレンダーなんですね。へえ、ぐあっ!?」

 

 すぐ傍にいたヨシたちの方に丸めたジャージを投げつけて、一度だけルリコは深呼吸してから、完璧なフォームでプールに飛び込んだ。

 さした水飛沫も波紋も起こさず、彼女の黒茶の髪が緑色の水に溶け込んで、プールサイドから見えなくなる。そして予言どおり、二度と彼女が浮いてくることは無かった。 

 

「あらま、たいへんだあ」

 

 キリエはスキットルから口を離して、少し考えて、あたりで見ている全員を見渡した。

 

「何ぼさっとしてんですか。みんなプール入りたかったでしょ」

「はァ!? ふざけんな、この──」

「ヨシ」

 

 いくらなんでもムチャクチャを言いまくるキリエに向かって腕まくりしながら向かっていこうとしたヨシのことを、後ろからがっちりとした腕が引き止めた。

 

「やめなやめな。あたいらの先生(ボス)が行けっつーんだ。するこたァひとつさ」

「ボタ子、でもよお」

「俺も行きますよ……楽しいこと、始まりそうですし」

 

 ボタ子の背後から更に、女と見まごうような、美形で細身の男子生徒が顔を出す。

 コホコホと彼が胸の悪そうな咳をするにしたがって、吊りあがった目でヨシが睨む先は、キリエから水面へと移り変わる。

 

「……があああ!」

 

 ヨシが助走をつけて飛び上がった。

 

「おっ、一番槍ってヤツですねえ。皆も続いた続いた。お待ちかねのセーシュンですよ、セーシュン。いいなあ、オラさっさと行け」

 

 膝を抱えた彼が水面を割って飛び込むと、それがきっかけになって、2-A全員がどんどん汚水に突入していく。

 緑色の毒沼は、一瞬にして阿鼻叫喚のイモ洗い状態。

 にごった水は激しく踏み荒らされかき混ぜられ、もはやレイジもフミオもルリコも、サメのことすら何がなんだか分からない混沌が渦巻き始めた。

 

「おいおいAクラス、仕事もしねえでバカやってるぜ」

「いつものことだろ。放っておけよ。目、合わせたやつが噛まれたって聞いたぜ」

 

 体育の帰りだろう。タオルを首にかけて通りかかった他のクラスの生徒たちが、騒々しい問題児たちの様子に一瞥をくれて無表情に呟いた。

 ひととおり笑って、転げてから、キリエはスキットルに口をつけた。度数の高い酒で、貼り付けた笑顔を流し込むようにして、そして──

 

「あーあ。満足に反抗も出来ねえのかよ、この劣等児どもは……」

 

 残されたのは疲れ果てた、虚無だけだった。

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