海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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7.絶対的中天気予報(3)

「ダメだ。レイジが心配。助けにいこう」

 

 不死身不滅のトモダチのことを、カナタはそれなりに心配していた。縛られてるのも忘れて、勢いよく立ち上がろうとしてしまうくらいには。

 

「だあっ」

 

 ガシャア

 

 ハデな音を立てて、彼女はイスごと床に倒れる。

 

「イっ、てえ……!」

「いらっしゃい。好きな席にドーゾ」

 

 先にブっ倒れて、ホコリまみれになっていたルリコが呆れた様子でカナタを迎え入れた。

 

「やめとけやめとけ。あのゴリラなら自分で何とか脱出するだろ」

 

 ────でもって、俺のこともさっさと助けてくれないかね。と、フミオはイスを前後に揺すりながら呟いた。

 

「アイツをオトリにして脱出。その後のことは……海行ってから考えようぜ」

「サイテー」

 

 どこか軽口の調子が戻ってきたフミオに、冷ややかな声を浴びせたのはルリコだった。

 

「アンタ、レイジと仲いいクセに。こんな時くらい体張ってやろうとか思わないワケ?」

「ンだよいきなりフキゲンだな。またメシ抜いたのか?」

「私がハラペコなのはいつもでしょ。あちこちレイジのこと引っ張り回してるクセに、たまには自分一人で動きなさいって言ってんのよ」

「…………知るかよ。あとな、俺はいつでも自分の力でうまくやってる。逆なんだ。アイツが俺に付きまとってるだけだ」

 

 フミオには答えず、ルリコは手に嵌められたミトンの中で指を動かし続けた。

 

「……そういや、関節外して手錠抜くやつ、ドラマであったよな」

 

 不意にルリコとの間に漂ってしまった気まずさがイヤで、フミオは話題を振った。歯を食いしばってうっすら額に汗をかいた彼女が、首を左右に振る。

 

「あれってウソらしいわよ。親指引き千切るくらいしないと出来ないとかなんとか」

「ハ。そしたら、もっと大変なことになるな──」

 

 カシャリ。

 

 手錠が床に落ちた金属音に、ルリコとフミオが同時に目を向けた。

 

「じゃーん。どうだ。マジック」

 

 床から立ち上がって、ドヤ顔で両手を広げて見せるのは、それまで静かにしていたカナタだった。十本、きっちり揃った指が、勝ち誇るようにピンと伸びていた。

 

「どうやったんだ……?」

「一回手のひら溶かした。見る?」

「見ないわよ──カナタのグロい特技も、案外役に立つモンね」

 

 カナタの体は自由に変形できる。ヒレを変形させてドレスを出したり制服にしたり、足を変形させてスニーカーにする応用が可能なのだろう。

 

「よし……私の手袋外せるか見てもらっていい? フミオは入り口見張ってて」

 

 ルリコが顔を持ち上げて言った。

 二人とも、彼女の指示に素直に従う。

 フミオがぎこちなく首をひねって廊下を覗き見る前で、カナタはうんうん言いながらルリコのイスを立たせる。

 手袋より先に手錠に触れるが──映画やドラマで見る警察のものより、ずっと分厚く、チェーンではなく本体同士が蝶番のような構造で連結されている。簡単には外せそうにない。

 

「私に考えがある。さ、はやくして」

 

 ルリコに促されるまま、カナタは紐を解いて、手袋を脱がせる。

 

「うわ、どうしたんだよ、これ」

 

 現れた拳を見て、彼女は思わず声を上げた。

 ルリコの両手はひどくすりむけていた。関節があちこち破けて、真新しいかさぶたがへばりついている。

 ルリコはいやそうに首を振った。

 

「だから言ったでしょ。ホンキで戦って何人かブチのめしたって」

「ハハ、まだ言ってら。コケたって素直に言えよ」

 

 せせら笑うフミオを無視してルリコは指先の感覚を確かめるように何度か手を握ったり開いたりして見せた。

 

「よし……カナタ。アンタに最高の栄誉をあげるわ」

「エイヨ?」

「私の髪に触る権利をあげる。ヘアピン、二本取って」

「え? いいの?」

 

 ルリコはボディータッチが大嫌いだ。そんな彼女が「ん」と言って、驚くカナタの前に頭を差し出してくる。耳元にいくつか、ヘアピンが輝いていた。

 

「マジかお前。最近、判定ユルくなってんじゃねーの」

 

 視線を廊下に向けたまま、フミオが言った。

 

「大丈夫よ。友達思いのフミオが同じことしたら、真っ逆さまにして頭からゴミ箱にブチ込んでやるから」

「へえへえ……そうかよ」

「……取れたけど」

 

 爆発物でも解体するような手つきでおっかなびっくりカナタが引き抜いたのは、黒と銀、ひとそろいのヘアピンだった。

 曇りガラス越しに差し込む仄かな光に照らされて、鈍く輝いている。ルリコは目を細めた。

 

「うわ、それ選ぶか」

「え。マズかった? 別のにするか?」

 

 口を半端中途に開いたまま、彼女は少しだけ考え込んだ。

 

「ルリコ、どうした?」

 

 少し焦ったようなフミオの声も、ルリコの耳には届かない。

 彼女がじっと見つめていたのは一見地味でありふれた黒いヘアピンだった。

 

「────ううん。いい機会だし、捨てちゃおうかな」

 

 ルリコに促されて、カナタは彼女にピンを渡してやる。手首は縛られ、手は後ろ。そんな状態にも関わらず、ルリコはL字に開いたピンを器用に操って、鍵穴に突っ込む。

 

「それ、トクベツなんじゃないの」

「ママからもらった。もらったっていうか、化粧台から盗んだんだけど」

 

 なんで? どうして? 暗い会議室に響くカチャカチャという微かな金属音は、そんな問いを投げかけることを許さない。

 カナタも、フミオも、彼女の言葉に黙って耳を傾けるだけだ。

 

「感傷……みたいなモンかしらね」

 

 一方で、ルリコの顔に深刻さはない。

 どちらかというと笑ってしまいそうだった。

 こんな世界の果ての会議室みたいな場所で、どういうワケか全身拘束されて──その上、ピッキングの実演を見せられながら人生行き詰った生徒会長の身の上を聞かされている。

 そんな意味不明な状況で、妙に神妙な顔をしてる二人が、無性におかしかった。

 

「一応どこかでママと繋がってるって、思いたかったのかな」

 

 そんなことを二人に聞いても答えなんか出るわけがない。こんがらがった自分の先行きを、うまく解いて正しいレールに戻す方法なんて分からない。

 一方で、シリンダーの中を突き進む針金は皮肉なほどの順調さでピンを探り当てていく。

 傷にまみれたルリコの指が繊細な力加減でテンションレンチを操り、うかつにも居場所をバラしたピンをその場に縫いとめていく。

 

「よっ……と…………まあ。ブっ壊れた家庭が元通り、なんて。映画みたいにうまくいくコトなんて、そうそうないのにね……」

 

 一方で、彼女の後ろ手では『映画みたいなこと』が現在形で進行中だ。

 

「こっちがイカれてるのをはっきりイカれてるって言ってくれるヤツって、ホント大事だわ……」

 

 そこでルリコは、背後のカナタをチラリと見た。

 彼女はヘアピンを操る鮮やかな手付きに見入っていて、気づかない。ルリコはフっと笑って、作業を続けた。

 かたくなだったシリンダーはやがて、ルリコの説得に応じるように少しずつ回転していく。

 

「さあ……これで…………どうだ!」

 

 ルリコが会心の笑顔を浮かべた瞬間、乾いた音を立てて手錠が外れた。

 両手が自由になると、後は早い。閃光のようなスピードで残りの両足もはずして、彼女は解き放たれた。

 これで完全に自由だ。ルリコは伸び上がって、軽く肩をほぐした。

 

「さてお姫様。あとはアンタのツレを──」

「ちょ、俺、オレオレオレ! オレは!?」

 

 ルリコが朗らかに笑いながらカナタの手を取る。まるでいないもののように扱われたフミオが、イスをガタガタと揺らしてアピールした。

 

「フミオ、静かにして。人来る」

「なぁルリコ。こいつどうする?」

 

 冗談っぽく肩をすくめて、カナタが聞いた。それを受けて、ルリコも腕組み。重々しく「うーんそーねー」と唸る姿はモチロン演技だが、フミオは焦る。

 

「お、おい、俺ら付き合ってたろ……?」

 

 置いていかれたくない。

 

「でもなあ……さっきコケた私のこと笑ったしなあ…………うりゃっ!」

 

 ルリコが、思い切りフミオのイスを蹴り倒した。

 

「どわァーッ!?」

 

 ガッシャーン! ゴロゴロゴロ……

 

 ここ一番の派手な音が炸裂した。フミオもまた、ホコリにまみれて床に這いつくばるハメになった。

 

「こ、こ、こ──このやろう、焼肉オゴった恩を忘れたか!?」

「それだいぶ前のハナシでしょ。みみっちいわねえ」

 

 軽く爪を噛みながら、ルリコは部屋の中を見渡す。

 四人分の持ち物が置かれた机の上を撫でた視線は、会議室の隅へ。木目調のパネルが張り巡らされた一角にそれを見つけた彼女が「あ」と言って指を弾いた。

 

「助けてほしい? じゃあお願い、聞いてもらっちゃおうかなー」

「は?」 

 

 フミオが思わず素っ頓狂な声をあげたが、ルリコはすでに彼の背後で手錠を鳴らしている。

 

「カナタはあの映画、覚えてる?」

「ん!」

 

 白い髪を大きく揺らして、カナタが元気よく頷いた。

 ルリコとカナタ、二人の見つめる壁には、金属製のメッシュが張り巡らされている。その向こうにはダクトが続いている。

 ここはあくまで普通の会議室だ。本来、悪知恵の働く子供たちを何時間も閉じ込めておけるような場所ではない。

 

「いや、どうですかねェ……」

 

 二人の視線を追って、その意図を察したフミオがかすれ声を上げた。

 だが、懐かしのアクション映画の知識をたくわえたお嬢様がたは、意地悪く笑って「うふふ」と笑ってくるだけだ。

 

「……いやいやいやいや! マジかお前ら!? ぜってー冗談だよな、なァ!? 俺にバカ映画のマネさせようなんて思っちゃねえだろな!?」

 

 ブンブンとすごい勢いで首を横に振るフミオを尻目に、ルリコは彼の手錠を外し、ついでにダクトのカバーも取り外す。

 

「あーあ。じゃあね、ママ」

 

 キーピックとネジ回しの代役をさせられ、ヘタったヘアピンを投げ捨てる。

 部屋の隅の壁に当たって軽い音を立てるピンを見送る彼女の顔は、いっそせいせいとしていた。

 

「アンタのライター。はい」

「あわっ!?」

 

 持ち物を漁ったルリコが、無造作にオイルライターを放って寄越す。

 突然のことに、手元に飛んできたライターをお手玉したフミオが、なんとかそれをキャッチした。

 

「ムリだろ……」

 

 一息つけると、見えてくるのはダクトの先に広がる黒々とした闇だった。

 

「あの映画では通ってたよな」

「汚いおっさんがビルごと吹っ飛ぶやつね。ちょうどアンタと同じライター持ってたし、いいじゃん」

「俺も見たけど! 最近のダクトは対策されてんだってば!」

 

 三人、そろってダクトの中を覗き込む。

 フミオにとってはたいへん不幸なことに、そこにはなんの仕掛けも無い。奥に行くにしたがって傾いた金属のチューブが、天井に向かって緩やかなカーブを描いている。

 

「やったわね、古いやつみたいよ!」

「ふざけんなよ……」

 

 震えながらダクトを覗き込むフミオの前を、小さなものがサッと通り過ぎた。ネズミの一家だ。

 

「ぎゃあ!」と甲高い悲鳴を上げたフミオだが、退くことは許されない。後ろから、カナタとルリコがぐいぐいと押してくる。

 

「やだやだやだ! 俺、きちゃないの無理なの!」

「ホラ、アンタが好きな『夏の大冒険』ってヤツじゃん。しゃんとしなさい!」

「俺に選択肢ないのかよ!?」

「いつもギリギリまで選択しないからこうなってんのよ!」

「誰かあ! 助けてえ! こいつらに殺されるう!!」

 

 いっそ、さっきからの大騒ぎを聞きつけて見張りが乱入してくれないか──と思うが、曇りガラスに映る影は微動だにしない。

 これだけやりたい放題やってるのに不干渉。さっきまではありがたいと思っていた無関心っぷりが、急に憎たらしくなってくる。

 

「確認だけど、なんとかして部屋の前の見張り倒して、鍵と……あれば武器。ヨロシクね」

「そのナントカって部分をもっと詰めてから行動に移るべきだと思うんだがな!」

「アンタ、酒屋の息子でしょ。なんだってできるわよ」

 

 ルリコの無責任な言葉がフミオを直撃する。

 

「プロの兵隊と殴り合って勝てるのか!? 酒屋ってだけで!? なあ!」

「勝てないわね」

「だよな! 常識あるお嬢さんたちがいて俺は本当に助かってるよ!」

「早く行ってきて、フミオ。みんな待ってるんだから。ゴー」

 

 ルリコに何度も尻を蹴飛ばされながら、フミオはしぶしぶダクトの中に潜り込んでいった。

 ガタガタゴトゴト、バン! ガンッ! と内側を打ち鳴らす音が騒々しく響き始め、とてもじゃないが隠密作戦は初っ端からミッション・インポッシブルと化したように思われた。

 

「カナタ、あいつが気を引いてるうちに私たちだけで逃げましょ。オトリにされるツラさ、分かってもらわないと」

 

 フミオの尻が見えなくなったのを確認してルリコが耳打ちした。

 

「おい聞こえてるからなあ!」

 

 彼の怒鳴り声があちこちの空調や換気口を通じて拡散される。

 部屋の前に立つ見張りの人影が、やれやれと肩をすくめているのがカナタたちからもよく見えた。

 

 ■

 

「俺の──ッ」

 

 ガヅッ

 

 レイジが思い切り、頭を机に叩きつけた音だ。

 小部屋の空気がビリビリ震えるほどの一撃は、彼の額をきれいに切り裂いた。

 

「……オモトカナタじゃない」

 

 ベットリとした血でまみれた顔を上げたとき、すでに彼の震えはなくなっていた。

 その代わりに宿っていたのは、冷たく燃える決意だった。

 

 オモトカナタ。知らない町で知らないうちに死んだ、知らない女────激突の拍子に飛んだ鮮血が、死体の顔をきれいに覆い隠していた。

 

「俺の運命は青い瞳のカナタだ」

 

 傷の中で菌糸のように肉と皮が伸びて脈打ち、彼の怪我を瞬時にふさぐ。

 

 カナタの失った過去に何がある? 

 なぜ八年? 

 彼女が記憶を失ったというのは本当か? 

 オモトカナタはなぜ死んだ? 

 海の向こうに何がある? 

 

 ──問いは尽きない。

 

 だが、わからないのなら目を逸らせばいい。

 彼が今まで自分の体に刻んできた傷と同じだ。どんなに惨い傷も、どんなに苦しい病も、皮を引っ張ってきて覆ってしまえば無かったことになる。

 自分の負う歪みを、認識しなくて良くなる。

 

「カナタを海に連れて行く。俺はそれだけの存在でいい」

「ヒュウ……」

 

 ニンジャが、こっけいなほど芝居がかった口笛を吹いた。

 

「カナタちゃん、もしかすると、トンでもない爆弾かも知れないぞ」

「それは関係ない。カナタは俺に運命を、意味を与えてくれた。俺を人らしくしてくれるって言ったんだ」

「ブレないねえ」

 

 呆れ半分、感心半分といった様子で息をついて、ブンタがイスにふんぞりかえった。暗く、静かな部屋に、ブンタがハゲ頭をこするキュキュ……という摩擦音だけが響く。

 

「大好きな女の子が『海に行きたい』と言いました」

「あ──?」

 

 音もなく忍び寄ったニンジャが、レイジを見下ろしていた。

 その瞬間、レイジの視界が大きくブレた。ニンジャの目に点った緑色の光がとろけた残像の中に尾を引き──メギッ、と肉と骨が潰れる音と共に、視界が闇に閉ざされた。

 

「だからキミは海に連れて行く」

 

 ニンジャの獰猛なカギ爪が、レイジの頭を鷲掴みにしていた。

 

「おいバカ! 暴力は!」

 

 そこで誰よりも驚いたのは、ブンタだ。

 

「黙れハゲ。私は今から、こいつの生活指導をやってやろうってんだぞ」

 

 テーブルの上に、静かに血だまりが広がっていく。今ので口か鼻を潰したのか、レイジが自分の吐いた血で溺れるブクブクという音が聞こえる。

 彼はそれでも、もがいたり焦ったりはしない。

 しゃがみ込んで顔を覗くニンジャを見つめ返す目に、怒りも憎しみもない。

 

 穴。

 

 からっぽという言葉の意味さえ飲み込んで分解するほどの底知れぬ虚無と、金属の悪魔は対峙する。

 

「……次にその子が『あいさつをしろ』と言いました。だからキミはお向かいさんに愛想よくして、部屋を片付ける。それがキミの”願い”だから」

 

 ニンジャが手を離すと、レイジはゆらりと起き上がった。

 猛烈な勢いで流れ出ていた鼻血が、まるで蛇口をしめたようにピタリと止まる。

 

「それで?」

 

 平然と、レイジが先を促した。

 

「そして最後に女の子は『人間になって』と言う。そしてキミは人間になる。ハッピーエンドだと思う?」

「ああ」

 

 レイジはうなずく。そこに何の迷いも無い。

 周りが言うほど、馬鹿ではない──と、本人は思っている。ニンジャの言う女の子が誰なのかも、しっかり分かって話をしている。カナタだ。

 

「カナタの夢は、俺の夢だ。何があろうと、変わらない」

 

 その言葉は、とことんまでニンジャを失望させたようだった。

 

「ハ」

 

 ハハハ、と声を上げ、天を仰いで彼は笑った。

 ヘルメットの機能で変換された声は、錆の塊が歌うような異音となって、部屋中に響き渡った。

 不快そうに耳を押さえるブンタの前で、レイジは眉ひとつ動かさない。

 

「──ただのカカシだな」

 

 ニンジャはひとしきり笑った後、全身の力が抜けたようにダラリと肩を垂らした。

 レイジの語る”夢”を鼻で笑い飛ばしながら、彼の声に潜むのは嘲りではない。

 腸をこぼしながらも、それに気づかずに走り続ける動物を見つめるような……哀れみだった。

 

「キミの力は確かにどんな傷も治すだろう。その代償に、何を失ったか──」

「もういいだろ!」

 

 ブンタが声を張り上げた。

 

「たくさんだ! テメエみてえなクズがガキ殴って真人間ぶってんじゃねえ!」

「チッ……」

 

 舌打ちして、ニンジャがブンタの元に戻る。

 彼はもはやレイジには見向きもしない。レイジも彼のことは気にしない。口の中に残った血の塊をプっと吐き出して、目の前の、禿頭の大男を見据える。

 

「お前たちが何者でも、カナタがどういった存在でもかまわない。俺は海に行く。邪魔するなら、ここにいる全員とやりあってもいい」

「どっこい俺サマの護衛は強いよ。たぶん人類最強だ」

 

 ブンタがあごを軽くしゃくってサイボーグ忍者を指した。言われるまでもなく、レイジの体に力が入る──無限の再生能力とすべてを消し飛ばす『黒い光』をもってして完敗した相手だ。

 当のニンジャ本人は、所在無さげにタイルの隙間の埃をほじくっているだけだが。

 

「そんなに腕買ってんなら、ちっとは有給増やしてくれやしませんかね」

「こないだ夏休みやったら自殺未遂起こしたろ。もう金輪際、お前さんに休みはやらねえ」

 

 ヘルメットのスピーカーから、音割れしたため息が響いた。

 

「レイジくん――お前さんはこれから、全部『なかったこと』にして西町に帰るわけだが、最後に質問させてくれ」

 

 ブンタが身を乗り出した。

 

「ムナカタって名前の男を覚えているか?」

 

 ──覚えている? 

 レイジは怪訝な顔でブンタを見つめた。さっき彼の元にやってきた白衣の男も、同じ名前を口にしていた。

 ムナカタ。ムナカタ研究員。ムナカタの置き土産……特に、引っかかるような言葉はない。

 

「ひでえもんだな。ヤツに記憶の残りかすまで焼き尽くされたか」

「俺の、記憶?」

「ああ……あのクソは余計なモンばかりこの町に置いていきやがった」

 

 ブンタはそう言って、トレードマークの前掛けをごそごそとまさぐりはじめた。

 

「だが、ムナカタ式消失──こいつだけは、数少ない恩恵だな」

 

 ポケットから黒い太軸のペンを引っ張り出しながら、ブンタは不快そうに顔をしかめた。話している最中にゴキブリが口に飛び込んできたように、彼はうめく。

 

「オエッ、やっぱ何度も名前出すとダメだわ。あんにゃろのツラ思い出しちまう」

 

 まあとにかくだ──ブンタはペンをレイジに突きつけた。

 

「とにかく、コイツがなけりゃこの町はもたん。こっちのサジ加減次第で、半日から数年単位で記憶を消せる。死亡や後遺症のリスクも無い。

 ピカっと一瞬で終わり──その後はお前さん、九十年代の青春にまっしぐら、ってワケだ。いやあ、いいねえ。俺サマも自分に使いたいくらいだ」

「そんなに忘れたいなら、俺がやってやる」

 

 レイジの手首に掛けられた手錠が、耳障りな音を立てて軋む。それまでダラけていたニンジャが、静かに静かに壁から離れた。

 

「そんなもん使わずに、全部、この手で、吹き飛ばしてやる」

「ハハ、おっかねえなあ……」

 

 そう言って笑うブンタは、どこか寂しげだ。

 

「だがな。消せるならその逆もあるのさ。記憶補強──俺サマたちはその処置を受けてる。だからもう、忘れないんだ。逃げられないと言ってもいい」

 

 ブンタはペンを────ペン先に取り付けられたストロボをレイジに突きつけた。

 

「さて。楽しい海の思い出、どんなのがいい?」

「そうだな……バーベキューとスイカ割り、だ!」

 

 瞬間、レイジの巨体がイスごと傾いた。

 

「おっ、やべえ」

 

 ぐわん、と音を立ててテーブルが垂直にハネ飛んだ。

 四畳半も無い部屋の中に、チェーンとイスと、真っ赤な血糊が飛び散る。

 

 右手からとめどなく流れる血を尾のように引きながら、レイジがブンタめがけて突っ込む。

 手錠でつながれていたはずのその両手は、自由になっている。

 彼が右手を大きく振りかぶった瞬間、目の前にニンジャが躍り出てきた。

 しかし、それはレイジの計算のうちだ。

 彼は拳を放つ。しかし当てるのは血飛沫だ。

 真っ白な面頬に赤いスプレーが吹き散らされ、彼は反射的に顔をかばう。

 あくまでレイジの狙いは足止めだ。

 トドメに、落ちてきたテーブルをニンジャめがけて蹴り飛ばし、部屋の出口に駆け寄る。

 

 ──が。

 

 ズトン。

 

 鋭い金属音と共に、ニンジャのブレードがレイジの目の前の壁に突き立った。

 鏡のように研ぎ澄まされた表面に、すぐ後ろに立つ死神の姿が映りこむ。

 

「……部屋を壊されちゃ困るんだがなあ」

 

 マグカップを持ったまま、少し離れた壁際でハゲ頭を撫でているブンタの姿も。

 

「私がやんなきゃ、お前、こいつに殺されてたぞ」

「レイジくんはそんなことしねえよ。なあ?」

 

 ニンジャも、レイジも、彼の言葉を完全無視する。

 もはや逃げることはかなわない。となれば、全力で殴り合って、勝つしかない。

 レイジは覚悟を決めて、アップライトに構える。血にまみれた右手の親指が、妙に短い。

 

「おいおい、マジで自分を大事にしろよな……」

 

 床に転がった肉片を見つめて、ブンタが顔をしかめた。それは一分前までレイジの親指だったものだ。

 

「いや、いいね、若いって。怖いくらいだぜ」

 

 あくまで能天気な様子のブンタが気になったが、レイジにとって最大の危険は目の前にいるニンジャだ。

 愛用のブレードを手放したにも関わらず、彼はそれに頓着しない。

 不釣合いに巨大な左腕をブラブラと振って関節を馴染ませる。肘が、肩が、あらゆる指が──人間の稼動域を凌駕して動く。まるで、別の生き物を接着したようだ。

 

「よし。ブチかますかね」

 

 やがて、ニンジャが取った構えは奇妙なものだった。

 上半身をわずかに左前に傾ける。左足も出すのは、急所の集中する股間への攻撃を自在に行うためだ。

 左腕をダラリと垂らすのは、相手に蹴りの初動を悟られないため────

 彼の構えの持つ意味を次々と紐解きながら、レイジの顔に緊張が走る。

 それを見て、ニンジャがメットの中でほくそ笑んだ気配がした。

 

「なあ、知ってるよな。ギャラクティックテコンドー……皮肉なもんだ。同じ技を継いだ者同士で殴り合うことになるなんて」

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