海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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9.灰色のドームの下で(1)

 

 足の指の股で、湿った柔らかな砂を感じる。

 目の前で砕けた波が、白く泡立った海水でレイジの足首を洗った。

 彼が沖合いに向かって泳ぎだしたフミオを見ているうちに、波が引く。

 自分が後ろ向きに進んでいくような、地球の自転に置いて行かれたような──おそらく地球上、ここでしか味わえない不思議な慣性を味わう。

 

 血によく似た、潮の香り。

 

「せっかく海来たのよ。オッサンみたいにボサっと突っ立ってたそがれてんじゃないわよ」

 

 声を追って視線を動かすと、水着を着たルリコが波打ち際に立っていた。

 

「……なによ」

 

 大きな麦藁帽子を被ったルリコは、居心地が悪そうに腕を抱いた。

 

「その、赤なんだなって」

「いいでしょ。結構好きなのよ、赤」

 

 ルリコは強がるように腰に手を当てる。薄っすらと腹筋の浮いた白い腹が眩しかった。

 彼女の水着はレースの赤いビキニだった。

 

「似合う」

 

 そう告げた瞬間、不意打ちを食らったようにルリコが仰け反った。頬がわずかに赤らんでいるのは日焼けか、それとも照れか。

 

「ふ──ふんっ。何よ。アンタに褒められたって、ぜんぜん──」

 

 ルリコが肩をいからせて歩いてくる。

 波で暖かく湿った砂浜は、彼女の大股な足取りに合わせてカツンカツンと硬質で冷たい響きをあたりに広げる。

 上目遣いにレイジを見上げるその顔が、妙に骨ばって白い。

 

「ぜんぜん──全ッ然、嬉しく、ないわよッ!」

 

 目の前までやってきたルリコが、親しみをこめてレイジの胸板をトン、と叩いた。

 

 

 ガッシャアアアァァァ

 

 

 レイジの体が弾け飛んだ。

 ケーブル──モルタル──そして尋問室の灰色がかったタイルが舞い飛ぶのが、スローモーションで彼の視界に飛び込んでくる。

 交通事故で見る走馬灯のようだった。

 

「ゲホッ……がっ、うえっ……!」

 

 鳴り響くベル。あたりを赤色に染める回転灯。

 緑色のリノリウムの上に、レイジのひしゃげた巨体がちり紙のように転がる。

 カツン……カツン……硬質で冷たい足音が立ち込めた塵と埃をかきわけ、彼の元へと向かってくる。

 

「その体と魂に何度でも刻み込んでやろう」

 

 サイボーグ忍者が、無感情に彼を見下ろしていた。

 

(ロマン)を持てない怪物に、私を倒すことなどできない」

 

 悪魔のような左腕が、彼の首を掴んで宙吊りにする。

 

「イスルギレイジ。きっと何も守れない。過去のない人間は、何者にもなれないからだ」

 

 その手が、ぱっと離れる。

 レイジの体は床に吸い込まれていき──ぬめるような輝きを投げかけるリノリウムは、泥のように溶け出して彼を飲み込んだ。

 

「た、たすけてくれェいッ!」

 

 フミオの、情けない悲鳴が聞こえた。

 生臭く塩辛いリノリウムの海に浮いて、レイジは彼の姿を探す。

 

「俺が食われちまうッ!!」

 

 いた。

 

 そんな速度で泳げたのか、と驚くほどのスピードで波を掻き分けるフミオの背後に、黒い三角形がヌウっと姿を現す。

 ジョン・ウィリアムズの楽曲「ジョーズ」が聞こえてきそうな光景だ。

 ジェットボートのように水柱をあげて泳ぎ続けるフミオの奮戦は大したものだが、巨大なサメはちゃくちゃくと彼の太股ににじりよってきている。

 

「レイジ!」

 

 浜からルリコが声を張る。

 彼女の服装はいつの間にか、鮮やかな赤ビキニから雨に濡れて薄汚れたセーラー服に変わっていた。

 

「大丈夫だ。今行く!」

 

 なぜ、こんな場所にサメが? 

 そんな海がどうして遊泳禁止にならないのか? 

 

 いろいろな疑問がレイジの脳裏をよぎったが、それよりも今はフミオの身の安全だ。

 リノリウムの海に泳ぎだすと、波間に浮かぶ残骸やホコリが体に絡み付いてくる。友人のもとへ向かうレイジのスピードは、もどかしいほど遅い。

 

「レイジ! そろそろやべえ!」

「わかってる!」

 

 あと五メートル──三メートル──間に合う。

 水をかくレイジの右腕が黒い輪郭を帯び始める。黒い光だ。

 それに、彼には無限の再生力もある。守れる。勝てる。たとえ夢が持てなくとも、過去を失った空っぽな人間だろうと、誰かを救える。

 

「フミオ、今──」

 

 ザンブと音を立てて、二匹目のサメが身をくねらせて彼の目の前に躍り出た。

 黒く、ポッカリと開いた洞窟のような口。ズラリと並ぶのは牙ではなく半ばで破断したボルトとナットの群れだった。

 狂おしいほどの夏の日差しの下に現れたその体は銀。

 千切れて折れたエアダクトが、彼に覆いかぶさってくる。その口の端にはフミオのライダーブーツがヒモで引っかかっているのが見えた。

 

 ダクト──もはや会議室の天井そのものが彼の上に降り注いでくる。

 レイジはとっさに自分の顔を腕で守った。

 

「はああ……ちょっぴりチビったぜ……」

 

 レイジが再び目を開けたとき、急に風向きが変わって煙が流れてきた。

 顔を覆って咳き込むレイジの前で、フミオとルリコがバーベキューグリルを囲んでいる。

 

「さんざん戻って来いって言われたでしょ」

「マジでサメ出るとは思わねえじゃん。ったく。最近どこ行ってもサメサメサメって。ここはアミティ(アイランド)かっての」

「はァ? なにそれ? どこの島?」

 

 肉が焼けるまでは、まだ時間がかかりそうだ。

 顔面にまとわりついてくる煙を追い払いながら、レイジはリュックサックを探した。準備のいいカナタが、年中ハラペコのレイジのために弁当を用意したはずだ。

 フミオとルリコには悪いと思ったが、彼はバーベキューよりもカナタの作った卵焼きのほうが楽しみだった。

 

 うすぼけた古いリュックがパラソルの作る影の下で待っていた。

 黒いワッペンの貼られたリュックの口を開けようとして、レイジはふと動きを止めた。

 

「そういえば……カナタは?」

 

 その姿はすぐに見つかった。

 彼女は波打ち際に立って、水平線をじっと見つめていた。

 服装はお気に入りのセーラーでも、水着でもない。出会った時の白いドレスだ。

 

「レイジ。こっち来いよ」

 

 そう言って手を振るカナタは、いつもよりも少しだけ大人びて見えた。

 彼女の纏う不思議な雰囲気に誘われるようにしてレイジが歩いていく。

 

「レイジ!」

 

 頭の奥で、耳鳴りが爆ぜた。

 砂浜が血で真っ赤に染まり、顔に血糊を張り付かせたカナタが叫ぶ。

 

「レイジ」

 

 穏やかな砂浜。地獄のようなビーチ。レイジは一歩ごとに二つの世界を行き来し、やがてカナタの隣にたどり着いた。

 海のほうを指さす彼女の腕にはウロコが無い。

 さんさんと降り注ぐ日光を受けて、沖合いが輝いている。幾万という波に日が反射して、ウロコのようだ。ゆっくりとうねる海そのものが、巨大な生き物のように見えた。

 

「初めて見るんだろ? これが海ってやつだ」

 

 カナタは笑っているが、レイジはそんな気分になれなかった。

 その色も、輝きも、一枚の平らなノイズを見ているようだった。青、白、波──そんな記号的な情報はあっても「海を見た」という実感が全く沸かない。

 

 全ての記憶がめちゃくちゃだった。

 

 他人に自分の脳みそを踏み荒らされたようだった。

 

 ■

 

 マンションに帰ってきた後、レイジの頭の中でずっと嵐が渦巻いていた。

 感覚が、記憶が、チャンネルを連続で切り替えるように激しく入れ替わる。

 

 自分は、自分たちは確かに海に行った。

 サメを追っ払って、バーベキューをして、カナタの笑顔を見た。

 

 そのはずなのに──

 

「ギョーギ悪いぞ」

 

 卓袱台にひじをついて思いにふけっていたレイジは、はっと顔を上げた。

 セーラー服の上からエプロンをかけたカナタが立っていた。手にしたお盆の上には大皿と、いくつかの小鉢が載っている。

 

「並べるの手伝え。今日、そうめんな」

 

 どんちゃん騒ぎの後だから、おなかに優しくしてやらねえと──どかんと音を立てて、そうめんと天ぷらの皿がレイジの前に並べられていく。

 胃袋に気を遣って、という言葉が怪しくなるほどの大盛りだ。

 カナタはなんでも自分の手で作りたがるので、ツユもさっき鰹節を煮出して取ったものだ。ふわりと漂うダシの匂いを嗅いでいると不思議な安らぎを感じる。

 かぼちゃの天ぷらも揚げたてで、まだ音を立てる衣は見るからにサクサクだ。

 

 だが、レイジの食欲は萎えたままだった。

 

「具合……悪ィの?」

 

 こんなご馳走、いつものレイジだったら「いただきます」も忘れてハシを手に取るところだ。それを見越してたしなめる準備をしていたカナタが首を傾げる。

 

「いただきます」

 

 必要以上にカナタに気を遣わせたくないので、レイジは無理して笑顔を作る。もともと笑い慣れていない男がバッドコンディションで笑っても、その結果は知れたものだ。

 

「ンだよ、その顔……いただきます」

 

 胃腸炎を起こしたパグのように引きつった顔をするレイジの前で、カナタが軽く手を合わせる。

 と、今度は彼女にも元気がない。

 そうめんの山にズボっとハシを突っ込んだまま、彼女は動かなくなった。

 レイジも一口つけたカボチャをハシからブラ下げて、そこから先に進めない。

 

 行儀悪いぞ──お互いに同じことを思っているが、それを口に出すこともできないほど、二人の間に漂う空気が重い。

 

「早く食えよ。さめちまう」

「カナタも。そうめんがでろでろだ」

 

 そうめんが乾き始めた頃にようやく言い合って、二口目をつけた。

 お互いが、お互いらしく振舞えない。二人の間には妙な違和感が漂っていて、せっかくの料理も、舌を上滑りしていく。

 

 その原因は、明白だった。

 

「今日のバーベキューさあ」「海のことなんだが」

 

 同時に口火を切って、同時に黙り込んだ。

 

 沈黙がより深くなる。

 黙れば黙るほど「ちゃんとしたことを言わなきゃいけない」という圧が強まり、さらにヘビーな沈黙が覆いかぶさる。

 

 この部屋の重苦しい空気と、郊外の自然とを隔てるのは網戸一枚。

 外から流れ込むヌルくけだるい空気を、必死にうなる扇風機がかき混ぜている。回転する青いファンのうなりに乗って、鈴虫とカエルの声がささやかに響いた。

 

「ダメだったなあ……」

 

 やがて、カナタが口を開いた。

 おずおずと。見せたくもないものをレイジの前に開陳するように、途切れ途切れの言葉が続く。

 

「アタシ、あんなエラそうなこと言ってたのに。海に行ったのに。昔のことなんてなーんも分からなかった。ダメダメだ。ダメダメのダメ子だ」

 

 上目遣いにレイジを見やるカナタを前に、彼の沈黙はずっと長く、重苦しい。

 ヘタなことは言えない。自分の過去が丸ごとからっぽになって、それでも取り繕わなければいけない辛さ──風が吹くたび左右によろめくハリボテのようになって生きていく辛さは、彼もよく分かるつもりだ。

 

 ちるちる。カナタがそうめんをすする音に、勢いがない。

 

 何か言ってやりたい。だが、何を言ったらカナタが元気を出してくれるのか、レイジは分からない。

 

「へえ。ハシ……ちょっと上手くなったじゃん」

 

 間を持つように褒めてくれるカナタを見ていると、レイジは辛くなる。

 

「カナタのおかげだ。ハシを握らなくなったのも。部屋が片付いたのも」

「シミついてないパンツ履くようになったのも、な?」

 

 意地悪く言い放ったカナタは白い歯を見せて、体をゆすって笑う。

 無理をしている──レイジはすぐに見抜いた。ケラケラと笑う透き通った声が、いつもよりずっと弱々しく感じる。

 

「ほんとうに、カナタはすごい……」

「よせったら。だいたいはオマエが自分でやったことだぞ。だいたいは」

 

 レイジは、過去を持たない自分の空虚さを憎む。

 カナタの「人間らしくしてやる作戦」は今もなお、進行中だ。部屋はどんどん片付いていって、レイジが鉄骨を使って自傷する時間はどんどん減っていった。

 だが、それでもまだ足りない。

 カナタからいろいろ貰った後でも、レイジの中には依然として巨大な空洞がある。

 

「カナタ……俺、思うんだ」

 

 全てを失って七年と少し。文庫本一冊にも満たないボキャブラリーをひねり出す。

 

「記憶が…………過去が、全部じゃない」

 

 その数少ない言葉の中にカナタを励ませるものがあるか、レイジは不安だ。

 

「カナタは、素敵だ。何があっても、どんなときでも。記憶が、あってもなくても。それだけは知っておいてくれ」

「だけど」

 

 心を尽くした言葉は届かなかった。

 

「アタシはそうは思えねえ」

 

 テーブルの木目を視線でなぞるカナタは、顎の動きが重い。胃のためと言って用意したそうめんが、まるで鉛の塊のようだった。

 

 再び、沈黙の帳が下りる。

 

 カナタの料理を粛々と食べるだけなんてレイジには耐え難い。

 彼女がどう感じているかは分からないが、彼にとってはいつも騒々しく、暖かで、いつも最後は「ごちそうさま」と「うまい」を伝えるためのものだった。

 

「まずいな」

 

 ついに、カナタが吐き捨てた。

 

「……そんなことはない。俺は好きだ」

「うるせえ。アタシに気ィつかうな。ちょっと待ってろ」

 

 それから、レイジにとって信じられないことが起こった。

 カナタが席を立って、フローリングにズタズタと音を立てて台所に向かったのだ。

 ささいなことだ。だが、カナタは異常なまでにマナーに厳しい。一度レイジが食事中トイレに向かった時など、茶碗を振りかぶって投げる寸前までいった。

 その後すぐ我に返って「わり」と気まずそうに謝ってきたわけだが──そのカナタが床下収納を覗き込んでガサゴソ漁っている。

 

 レイジは黙って見守ることにした。

 

「あったぞ! テンチョーに押し付けられたヤツが!」

 

 やがて、収納の扉が荒々しく閉められる音が響いた。

 リビングに戻ってきたカナタの手には、大きなビンが握られている。

 

 ────大吟醸『親父(ゴッドファーザー)

 

 黒い肌のビンに、白茶けた和紙のラベル。彼女がドカンと音を立ててビンを置いた後、しばらく鈴虫の声だけが大きく聞こえた。

 

「そ、それは酒じゃないか」

「こいつで勢いをつける」

 

 指に引っ掛けて持ってきたウイスキーグラスをテーブルの上にガチャンコと置いて、カナタは黙ったままビンの蓋に手をかける。

 

「ふんッ────!」

 

 平べったい蓋を引っこ抜こうとして、カナタは力む。だが、微動だにしない。

 カブのように顔を真っ赤にして奮闘するが、それでもやっぱり、蓋は抜けません。

 

「……おう」

 

 しばらく悪戦苦闘を繰り広げた後、カナタはレイジに向かって無造作にビンの口を突き出した。キラリと光る銀のキャップが、彼女の指紋にまみれている。

 

「お、俺に開けろと? 酒の入ったビンの蓋を?」

「おう!」

 

 おずおずと受け取ったレイジは、体温で温まった蓋を握る。

 その動きがぎこちないのは、有り余るパワーでビンを粉砕しないよう注意を払っているからだ。

 

 彼が蓋の隙間に爪を差し込み、わずかに力を入れると────キュポッ。

 ガスの抜ける軽い音と共に、あたりに甘い香りが広がった。

 

「おう、よこせ!」

 

 ドスの効いた声でカナタが手を出してくるが、レイジは彼女からビンをかばうようにして、きゅっと抱える。

 

「のむのか!?」

「当ッたり前だ! 開けちまったら飲むしかねえ。酒に対する礼儀だろが!」

「キリエ先生みたいなことを言わないでくれ」

 

 カナタの白い手がヒラヒラと手招きする。レイジはいっそうかたくなになった。

 

「それに俺たちは未成年だ」

「そうだぞぉ。ミセイネンだぞお」

 

 これから「よくないこと」がおッ(パジ)まろうとしている。

 レイジが焦って、声をうわずらせているのが余程面白いのだろう。じりじりと詰めてくるカナタの口元に浮かぶ笑みは、心底楽しそうだ。

 

 レイジはそこに少しだけ安心するが……今はそんな場合ではない! 

 

「アタシたちみたいなガキんちょは、面白おかしくセーシュンするケンリがあるんだ」

 

 つまりカナタは、楽しくないならアタシらの手で愉快ツーカイにしちゃえばいいじゃん──という、ハチャメチャな理屈を唱えるつもりのようだ。

 

「だ、ダメだ……こんな歳で酒なんて飲んでたら、脳みそスカスカのばかになる。き、キリエ先生みたいになってしまうぞ!」

 

 キリエ先生。キリエ先生みたいに。ばか、ダメ。スカスカのメチャクチャ。

 ここぞとばかりに言われていることを本人が知ったら、釘バット片手にドア蹴破ってくること間違いなし。

 だが、レイジはガラにもなく必死だ。

 タガの外れきった周囲が喫煙や飲酒やバイクの二ケツに明け暮れる中、彼は放火以上の悪事に手を染めたことがない。真性のピュアボーイでやってきている。

 花嫁のように守り通した彼の純潔が、今奪われようとしている。

 あろうことか、カナタの手によって。

 

「いいじゃねえかよォ。今日は一緒にばかになっちゃおうぜえ」

「よくない」

 

 もはやレイジにのしかかるようにして酒を奪いにきていたカナタの手から、ふっと力が抜けた。

 

「アタシさ……たまーに、仕事(バイト)で客と酒飲むんだ」

 

 あからさまにトーンを落としてきたカナタを警戒しながら、レイジは彼女を見つめ返す。しょげたように眉を八の字にして、彼女は爪の先をいじった。

 

「飲ませてくるのはしょうもない飲んだくれとか、ナンパしてくるガクセーとかばっか。そんなヤツらと散々やってきたのに、レイジとは一度もしてないなんて。アタシ寂しいぞ」

「そ、そんなこと言って……おああっ!?」

 

 それが作戦だと分かっていても、レイジの体は正直だった。

 レイジはカナタに甘い。

 酒瓶を握る力が自然と緩んだのを見逃さず、カナタが酒瓶をかっさらっていた。

 レイジがガックリうなだれる前で、彼女はケケケと笑ってグラスに中身を注いでいく。フチから零れるほどなみなみと注がれた酒を、彼は何とも言えない顔で見つめた。

 

「カナタは……だいぶ楽しそうじゃないか?」

「へへ、お酒の力って偉大だよなあ?」

「まだ一口も飲んでないみたいだが」

「うけけけっ」

 

 そうめん、天ぷら、そして日本酒。

 完全にオトナの晩飯だ。

 硬い面持ちのレイジがグラスを握ってじっとしていると、彼の高い体温で暖められた酒がフルーツのような香りを立ち昇らせる。

 

「中学生の頃、キリエ先生に『笑え』って無理やり一升飲まされたことを思い出した」

「あのアル中マジでサイテーじゃねえか」

「あの時の酒は、こんなに甘い香りはしなかった……」

 

 キリエとの一件もあって、レイジの中にはまだ飲酒への抵抗が残ってる。

 それを差し引いても、いい香りだった。

 

 酒が高いからそうなのか、それとも飲む相手が違うからそう感じるのか。

 レイジはいつの間にか、震える水面に口元を近づけていった。

 

「かんぱい」

 

 カナタはグラスを掲げる。レイジも慌てて彼女のマネをする。

 

 グラスが触れ合う音が小さく響いた。にわかに、部屋の外で鳴いていた虫の声さえ消えて、世界が静まり返ったようだった。

 

 

 

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