海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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9.灰色のドームの下で(2)

 

 

「乾杯……って、何に?」

 

 親子がカウンターを挟んでいた。

 ブンタに促されるままグラスを軽く合わせてから、フミオが首をかしげた。

 

「この素晴らしき人類の終末期に、父と子としてあれたことに……かな」

 

 閉店後の暮酒店の中で、聞こえてくるのはブンタの笑い声と豆電球のうなりだけ。

 実際に滅びの一歩手前まで迫ったこの世界は、どういうわけか、いまも崖の縁に指一本でぶら下がっている──彼の言葉を信じるなら、そんな時代だ。

 フミオは、どうして自分の父が楽しそうに笑えるのか理解できない。

 

「昼間言ってた、オッサンの線香花火の続きなんだけどさあ」

「ブフォッ」

 

 フミオが話を切り出すと、ブンタは口に含んだ酒を噴き出した。

 

「うわァ、きったねえ!」

「げほっ、がはっ、ハナの中入っちゃった……おめえ、俺サマの頭見て思い出したろ!?」

 

 カウンターの上から降り注ぐ光が、彼の脂ぎったハゲ頭をオレンジ色に染めている。

 確かに、ぷっくり膨らんだ線香花火の火球そっくりだった。

 

「ち、違ぇよ。俺は真剣にダチのこと考えてたの!」

 

 電球の──本物の電球が放つ光が時折陰る。

 こないだカナタのやつが背伸びして、うんうん言いながら交換したんじゃなかったか? と、フミオが顔を上げると、彼の視界を一匹の蛾がかすめた。

 翅の端を炎に焼かれたような、茶色の蛾だった。

 明かりに吸い寄せられるように飛ぶ一匹の虫が、時折ランプシェードにぶつかってはたたと音を立てる。

 フミオが軽く息を吹きかけると、それは頼りなくよろめいた。

 

「やれやれ。逃がしてやっか」

「ほっといてやれ。無理して捕まえると、かえって弱る」

 

 おっくそうに腰を浮かせたフミオを、ブンタが引き止めた。

 彼は、さっき吐き出してカウンターに飛び散ったウイスキーを拭いているところだ。

 

「ハイヨ。”局長”さん」

「店長って呼んでくれ。おめえさんまでそう呼んでくると、なんだか脇の下がゾワゾワしやがる」

 

 気を取り直したように蛾が羽ばたき始めた下で、フミオはカウンターに肘をついた。

 彼が指先で転がすグラスが涼しい音を奏でる。

 消毒液のような、少し腐った床板のような──独特な香りを、彼は受け付けない。融けていく氷のせいで、グラスの水かさは増える一方だった。

 

「レイジは……世界が終わりそうになると出てくる、超能力者、だっけ?」

「そだよ」

 

 一方、ブンタのペースは早い。ウイスキーグラスの中身が減るそばから、手酌でガンガン注ぎ足していく。

 フミオの目に映る彼の飲み方は、少しやけっぱちなほどだ。

 

終結因子(シュウケツインシ)……あの野郎はそう呼んでたっけな」

 

 ブンタにひねりつぶされて、レモンの果汁がグラスに滴る。

 指先で味を感じるわけでもないだろうに、彼の顔はひどいしかめつらだ。その原因が、フミオにはなんとなく分かる。

 

「今出てきた『野郎』って。例の『研究員』ってヤツ?」

 

 問いに、ブンタは答えない。

 搾りかすになったレモンを口に含んで、噛み潰して、呑む。それだけだ。

 

「終わらせる因子……因子ってどういうの?」

「トリガー……」

 

 ソーセージのように太いブンタの人差し指が、フミオの眉間に向けて伸ばされる。それは(ガン)の形だ。

 いい歳で、相当にアルコールも回っているだろうに、彼の指先が震えることは無い。彼が引き金(トリガー)を引けば、その瞬間見えない何かが発射され、フミオを打ち砕く──そんな気がするほどに。

 

「終わらせる、キッカケつーこと? ンだよ。人類守って長生きさせるんじゃねえの? やる気ねえ名前だな」

 

 フン。息子の言葉に鼻を鳴らしたブンタの顔に、僅かながら笑みが戻った。

 

「俺サマも、あんにゃろうのネーミングは好きじゃないねェ」

 

 わんこそばのようにグラスを干したブンタの手からウイスキーのボトルを奪い取ったのは、フミオにとってみればただの気まぐれだった。

 

「あん?」

 

 不思議そうにするブンタの前で、キャップを回す。

 カナタが店にいないとき──そんなのめったに無いことだが──気まぐれを起こして父がカウンターに立つときのしぐさを思い出しながら、彼はボトルを傾ける。

 特に、気を使うような所作は無い。

 

 ──カラン。

 

 かき混ぜるものが無いので、フミオは自分の小指で仕上げた。

 イカれた作法だ。チビチビ飲んでいた酒が少しだけ彼を大胆にさせていた。

 

「おらよ、オッサン。俺サマ特製クソ終末ハイボールだ。とくと味わえ」

「おお……ありがとよ……」

 

 世界の終わりで飲むにはうってつけの、飾り気もクソもない一杯。

 それを両手で持ったまま、ブンタは遠い目をしていた。さっきまでのペースがうそのようだ。

 

「それ、どんな感情の顔?」

 

 キャップを閉めながら、フミオが訝しむ。

 

「これは……そうだな。うれしい時の父親の優しい目だ」

「なんだ、そりゃ」

「炭酸が目にしみる」

「入ってねーよ。勢いでハイボールつった俺が悪いけど」

 

 ブンタが軽く涙ぐむ理由が、フミオには分からない。

 そんなもったいぶって飲むこともないだろうが──と、彼も口の中を湿らす程度に酒を含んでみた。

 やはり何度味わっても、それは舌がピリピリする液体でしかない。

 子供のころに消毒液を「おしゃけー」と言って顔面に吹きかけ、地獄を見た時からなにも変わっていない。

 酒も、タバコも、フミオにとっては全部同じだ。味が分からない。

 自分はコドモを卒業していて、もうオトナ。そんな風に、自分を納得させるために体に入れるものでしかない。

 

「線香花火ってな、綺麗ではかねーものだろ」

 

 口の中に残るアルコールを飛ばすように、フミオはそこで一旦言葉を区切った。

 

「レイジの『炎』はそんなんじゃねえだろ。そもそも、ありゃ本当に燃えてんのか?」

 

 追い詰められた瞬間、レイジの右腕から、陽炎のように立ち上った黒い何か。

 そのあり方は闇夜に火花を散らす一輪の花、というよりは生きてうごめく闇そのものだった。

 闇は、燃えない。熱も光も、放たない。

 だからアレは貪るのだろう──そう感じた。からっぽな腹を抱え、満たされない飢えを必死に補おうとするかのように。

 一心に、切ないほどの必死さであたりのすべてを食い散らかす。

 アレが炎に見えるのは、フチが輝いて見えるからだ。そしてその輝きは、無限の闇に取り込まれる光が最後に上げる断末魔に過ぎない。

 

「ま。アイツにゃお似合いかもな……だってレイジって……」

「フミオ」

 

 ついうっかり口走った瞬間、ブンタの声の温度が僅かに下がった。

 

「……何かを混ぜるってのはな。正しくやれば素敵で、イイモンを作れるんだ」

 

 ブンタの持ったウイスキーグラスの厚い底が、カウンターの上で鈍い音を立てた。

 

「たとえば……おっ?」

 

 開けた冷蔵庫の中の光景を見て、ブンタは軽くほくそ笑む。

 一ヶ月前とは大違いだ。保冷財やらおすそわけのイチゴやらが雑多に突っ込まれていたカオスは、青眼の看板娘に店を任せてからずいぶん片付いた。

 

「ありがとな、カナタちゃん……」

 

 お目当ての赤い缶をすぐ見つけて、ブンタはご満悦だ。

 

「フミオ。コークハイって知ってるか?」

 

 二つ並んだグラスに、ブンタはウイスキーを注いでいく。

 

「まあな。飲んだことはねえけど」

「ガキにゃお似合いの酒よ。さっきのお礼に、俺サマが一杯つくってやる」

「だから、俺はガキじゃ──」

 

 ステンレスの包丁が、みずみずしいレモンの肌に滑り込む。

 すっと刃が通って爽やかな香りが広がった瞬間、フミオは言葉を切った。

 父が酒を作るところをはじめて見た。

 ガキが飲むための、駄菓子みたいなカクテル──口ずさむように言いながら、彼の手つきは丁寧だった。

 防衛局で部下に指示を出すときよりも鋭く包丁が冴え渡り、グラスに新しい氷を放り込む手つきでさえ口を挟む余地の無い緊張に満ちていた。

 

「こればっか飲んで、最初の彼女に呆れられたっけなあ」

 

 ウイスキーの黄金が、コーラの黒に沈んでいく。

 彼の右肩にとまった蛾が興味深げにそれを見守っているが、彼は気づきもしない。フミオも同じだ。

 彼が仕上げに軽くレモンを絞って氷に振りかけるまで、瞬きも忘れて見入っていた。

 

「ほらよ」

 

 目の前に滑り込んだコークハイを、フミオはおずおずと受け取った。

 鼻を近づける。粘膜の上で炭酸が弾けるのを感じた。古びた床板の臭いは退場し、花のような香りとなって彼の周りに漂い始めた。

 

「はは……笑うなよ? これ作ってる時のオッサンさあ……」

 

 なんだかもったいなくて、フミオはすぐに口をつけられなかった。

 シンクで包丁を流すブンタが、上目遣いに彼を見てくる。

 

「ヘンかもしれないけど……なんかスゲー、カッコよかったよ」

「そうかよ」

 

 父が照れくさそうに笑った。

 

「……大仕事だからな。コーラとウイスキー混ぜるのはな」

 

 親と子は、照れを隠すようにグラスをあおった。

 花の香りの酒は、思っていた以上にすんなりと喉を滑り落ちていく。

 あのバスの中でカナタに嘘をついてからこのかた、ずっと感じていたどうしようもない渇きが少しずつ癒えていくようだった。

 

「うめえか?」

「ン。悪くない。いいぜ」

 

 誰が作っても同じような味になるはずの酒の感想を聞くブンタは、少し恐れているようだった。

 そのときの顔は、鉄と鉛のドームの中に偽りの九十年代を作り、嘘と武力で塗り固めた”現実”を押し付ける強大な為政者のものではない。

 

「よかったぜえ」

 

 ただの、父親の顔だった。しかし──

 

「だがな。一度混ざったコーラとウイスキーを分かつ方法はない」

 

 その顔が、気さくな商店街のオヤジから防衛局のリーダーに様変わりするのは一瞬だった。

 

「おめえさんの言うとおりだ。あいつ(レイジくん)の炎はな、本当ならもっとキレイな色で燃えるはずだったんだ」

 

 ブンタは指先で回していたグラスを止め、音を立てて置いた。

 彼はここにないレイジの炎を見ていた。コークハイを透かしてカウンターの木目に落ちる黒い光が、淀んだ泥沼のように漂っている。

 

「綺麗な蝶になるはずだったサナギを切り開いて、面白半分で引っ掻き回して──ヘドぶちまけて、台無しにしたのさ。アイツと、防衛局と、俺サマの怠慢が、な」

 

 ブンタが渋い顔をして語る相手のことなら、フミオの心当たりは一人しかいない。

 

「は? ……例の『研究員(アイツ)』って。レイジとなんか関係あんの?」

「どれだけ壊してもすぐ治る体だ。都合よかったんだろ」

 

 過去に起こったことを察するにはそれで十分だった。

 強い酒が体にじわじわ染み込んでいくように。ブンタに突きつけられた事実が、ゆっくりとフミオの頭を熱くしていく。

 

「…………間違いだったら言ってくれよ」

 

 コークハイの味は、もう感じられなかった。

 

「オッサンの話を聞いてると、クソみたいなイカレポンチが、レイジの体好き放題切り刻んで実験したみてえじゃねえか」

 

 カラン。ブンタの代わりに、グラスの中の氷が答えた。

 父はフミオと目を合わせようとはしない。レイジがあんなポンコツになってしまった原因が自分にあると思っているのか、それともこの話自体避けたいのか。

 

「話せよ。アイツに何したんだ。何をしたらあんなになるんだ」

「そりゃ、記憶消去への耐性だってあるだろうさ。なんせ、あの技術は彼の──」

「いいから。そのクソ野郎、今どこにいやがる」

 

 フミオの声は、怒りに震えていた。

 ブンタは眉間にしわを寄せ、答えた。

 

「もうここにはいない」

「死んだのか」

「いや。町の外に逃げやがった」

 

 町の外。

 凄まじく遠くて、驚くほど近い場所。

 十八メートルの外殻と、それを守備する堅牢な警備網。それだけの守りをすり抜けてドームの外に出るなんて、人間業ではない。

 少なくとも、フミオには思いつかない。

 

「そいつの名前は?」

 

 フミオの声は、怒りに満ちていた。

 

「……ンなこと知ってどうする」

「この先、俺の目の前にツラ出しやがったらブン殴ってやる。二度と歩けねえくらいにな」

 

 カウンターに置かれたフミオの手が強ばっていた。

 

「お前さん、ムカつくのか?」

「決まってんだろ……レイジがあんなふうになってるのは、全部そいつのせいってことだろ?」

「は。そうだな。全部、アイツと俺サマのせいだ」

 

 怒りに震えるフミオは、どうして父親がほくそ笑んでるのかと思う。

 ブンタは──友達のためにここまで怒りに打ち震える息子が頼もしかった。いっそ、危うさを覚えるほどに。

 

「クズ以下のゲロ野郎にはくたばってほしいところだが──もう、七年も前のことだ。ヤツは去った。過ぎて、終わった。もう忘れて先に進むころあいだ」

「レイジは今でも苦しんでる。だとすると、あいつの字がヘタなのも、ハシも持てねえってバカにされてんのも……!」

 

 ブンタは黙って、注いだ。

 息子のグラスには、溢れんばかりのコーラを。

 自分のグラスには、溺れるほどの酒を。

 

乾杯(チアーズ)

 

 フミオはそれに、応じない。

 カウンターの上に投げ出されたコークハイのグラスと軽く打ち合わせてから、ブンタは安いウイスキーを煽った。

 それは、飲むには辛すぎる。癒えない心の傷を麻痺させるには、度数が低すぎる。

 

「おい」

 

 フミオの目の前で、野太い首が動いて、ゆっくりと酒を飲み込んでいく。

 ゆっくり、ゆっくり。

 すべての答えを持つはずの男のはぐらかすような態度が、フミオの我慢に亀裂を入れていく。

 

「おい……おい、オッサン!」

 

 ついに痺れを切らし、フミオが声を荒げた。

 

「そいつの名はムナカタ────宗方善一郎(ムナカタゼンイチロー)だよ」

 

 ぽつり。

 

 カウンターパンチのように飛んできた言葉。

 ブンタの口から放たれた声は小さかったが、フミオはそれだけで、雷に打たれたように立ち尽くす。

 

「なん──だと──?」

「お前さんも辛い思いのある名前だろ。だから黙ってようと」

「ンだよ……うぜえな。その野郎、まだ俺を苦しめるのかよ……」

 

 自分の手からボトルを奪い取るフミオを、ブンタは止めようとしなかった。

 天井を見上げた彼は、うつろな目でボトルを逆さにする。勢いよく流れ出るウイスキーは、口元から溢れてシャツに茶色い染みを広げていく。

 それを、ブンタはただ痛ましげに見守ることしかできなかった。

 

 どん。

 

 カウンターの上に空のボトルを叩きつけたとき、フミオは自分の頭がからっぽになってしまったような気がした。

 ヘリウムが充填されたような頭をフラリと振って──そのまま、ドサリと床に座り込む。

 

「悪かったな……オッサン。毎日、大嫌いなクソ野郎と同じツラ見せちまって」

「お前さんは何も悪くねえ」

 

 フミオからブンタの顔は見えない。彼はカウンターに背中を預けて、次のボトルを干している最中だ。

 

「どうかな……」

 

 明日からどうレイジに顔を合わせればいいのか、フミオには分からなかった。

 

 ■

 

 やりたくもない残業、不愉快な業務内容、おまけに備品を壊して始末書三枚。

 解放されたのは夜中だった。

 さっさと買うもん買って家帰って酒で潰れて寝よう──と、バンに大量の酒とつまみを積み込んでいたキリエは、西高の制服を身に着けた女生徒に呼び止められた。

 

「こんなツラの美少女、見てねーッスか?」

「ねース」

 

 疲労困憊のところを邪魔されて、キリエは投げやりに答えた。

 

「えーと……アナタちゃんは……」

 

 そういってバリバリとキリエが頭をかきむしると、季節はずれの雪が降りしきる──実際には、彼女の髪からフケが舞っただけだが。

 マリコは半歩、アル中教師から遠ざかった。

 

「マリコ。おね……あいや、ルリコちゃんの妹っス」

 

 引きつった笑みを浮かべて、マリコが首を傾けた。

 人気のないアーケードで寂しく灯る看板に、その顔が照らされている。

 かつては健康的に見えた褐色の肌に粘ついた黄色の光が這って、どことなく病んだ土気色に映る。

 

「アンタ、担任でしょ。マジに隠し立てとかしてねえッスかあ?」

 

 マリコがどれだけ挑発しても、キリエは眉ひとつ動かさない。

 彼女の眼は、常にマリコの胸元に向かっていた。ピアスまみれの不良少女は、笑っているが、それは形だけだ。

 制服の胸元を掻きむしる手は、自分の体の中に巣食ったおぞましい虫を追い出そうとしているように見えた。

 

「ね。先生……」

「あいにく、クソガキの事情に深入りしないことにしてるんですよ」

 

 冷淡に言い放ちつつ、キリエの瞳の中で光が揺れる。

 僅かに緑の残光を残す彼女の視線は、迷っているようにも、誰かに対する怒りに震えているようにも見える。

 

「あのカタブツ会長さんなら、家帰ったらスグ会えるでしょ。キミのお姉さんなんだから」

「いつもはそうなんスけどね。いつつ……」

 

 小馬鹿にしたマリコの笑みは、すぐに崩れ去った。彼女が脇腹を押さえて顔をしかめると、今まで薄暗闇に紛れてよく見えなかった彼女の衣服が目に入る。

 

「あらあら。ずいぶんおしゃれな水玉模様ですね」

 

 キリエが指差すものに気づいて、マリコがあわてて胸元を隠した。

 本来真っ白なブラウスに、いくつもの茶色い斑点が浮き出ていた。その色は滲み出した体液と血が混ざって乾くと出来るものだ。

 

「それ、ほっとくとヤバいですよ。早く病院で見てもらいなさい」

「……うるさいスね。行くカネがあったら、とっくに行ってるス」

「私、ひでー怪我負うことに関してはプロなんで」

 

 キリエは再び、頭を掻いた。

 少女に名前を聞いたのは確認のようなものだった。

 マリコ。生徒会長ルリコの妹。たとえ職員会議でつまはじきにされていても、机に突っ伏して居眠りのフリをしているだけで耳に入ってくる名前だ。

 

 ────最近、様子のおかしい生徒がいる。

 

「そんな体で、見向きしてもらえるもんですか? 

「だからなんスか。アンタはウチに聞かれたことに答えてりゃいいんスよ」

 

 ────駅前で、他校の生徒と腕や体を絡めていた頃はまだマシだった。今では来るもの拒まずだ。

 

「自分を安く見積もっていくのって、辛くなりませんか?」

「……それが?」

 

 ────そこまでして、欲しいものでもあるのだろうか。

 

 酒でぼやかされていても、キリエの感覚は鋭い。

 マリコがドぎつく纏う香水の奥から漂うすえた臭いを、すぐに嗅ぎ分けていた。

 口の中にアンモニアとアルコールが常駐している彼女でも、顔をしかめるほどの強さと、どうしようもなさで。

 

 そのブラウスが、今のマリコのすべてを表している。

 ロクに洗濯されずに体液の痕が乾いて染み込んだ衣服は、弱りきった彼女の体に追い討ちをかけるだけだ。

 

「感染症って、ユカイなもんですよ」

「だ・か・ら?」

「熱と寒気が止まらなくなるし、きたねー汁はドバドバ出るし……マジでゲロゲロ、って感じ。私も七年前──まあ、いいか」

 

 キリエは抱えていた紙袋をバンの中に乱暴に放り込んで、ダッシュボードから合皮製の財布を取り出した。

 それを、何の躊躇もなく、マリコに放ってよこす。

 

「あげます」

 

 キャッチした瞬間、予想外の重みを感じてマリコはよろけそうになった。

 サイフは安物なのに乱雑に突っ込まれた札束の厚みは相当なものだ。

 明らかに一介の教師の、それも素行不良が散々に給与に響いているだろうキリエが持ち歩いていていいような金額ではなかった。

 

「……なんスか。センセー、裏で殺し屋でもしてるンすか」

「いいでしょオトナって。夢と希望って、売るとけっこういいカネになるんです」

「アル中がいきなり聖人みたいなマネして……」

「聖なる酔っ払いの伝説ってのが……ああ、いいです。ジェネギャってやつですね。最近よくあるなあ。ヘコむなあ」

「いらねッス」

 

 マリコの行動には迷いが無かった。

 

「あら」

 

 胸元に押し付けられた財布を見て、キリエは意外そうに声を首をかしげた。

 強がりでもなんでもなく、マリコはカネなどいらないのだ。自分の肌がぐちゃぐちゃになっても。それが際限なく悪化するリスクを孕んでいても。

 

「実はプライド、高かったんですか? そうは見えませんが」

「失礼な先公スね」

「カネならいっつもお姉さんにタカってるでしょ。入用じゃないの?」

 

 目の前でキリエがサイフをブラブラと揺らしてみても、マリコは見向きもしなかった。

 

「そういうんじゃ、ねえッスよ……」

「お姉さんのおカネじゃないといけない理由がある、とか?」

「うるさいッスね」

「それとも、お姉さんがいっそ憎んでくれたら、あなたは楽になれますか」

 

 もうほとんどキリエに背を向けて歩き出していたマリコの足が、まるでいきなり足の甲に太い釘を打ち付けられたようにビタリとその場に立ち止まった。

 ほとんどつんのめるように止まった彼女は、口の中で、錆びた刃を研ぐような歯軋りの音を鳴らす。

 

「なんスか、アンタ。だらしねえ教師のフリして、実はメンタリティとかメンタリストとか、そういうヤツすか」

 

 よく見えてんじゃないスか、本当に。痙攣するノドを絞り上げたようなか細い声で彼女は付け加えて、近くの電柱に片手をついた。

 明滅する街灯が、彼女の姿を宵闇の懐に出し入れする。パッと明かりがつくと頼りない背中が現れ、スッと光が消えると、彼女は闇に溶ける。

 

「なんでアンタみたいな鋭いのが、クソアル中になってんスか?」

 

 ダルそうに顔半分だけ向けてよこしたマリコの、猫のように大きな瞳が見開かれ、その奥の、やはり猫のように巨大な瞳孔がキリエの姿を捉えていた。

 

「鋭かったからでしょ」

 

 マリコの瞳にうずくまる闇は、キリエでさえ覗き込むのを躊躇するほど深い。

 

「なるほど。ウチ、あんたのこと前にダメ大人って言ったけど。でも」

「撤回しますか。ぜんぜん気にしてませんが。マジで全くこれッぽちも気にしてませんけど。一応のケジメってことで」

「はん……めっちゃ気にしてんじゃないスか」

 

 マリコはキリエを鋭く見据えたまま、親指の爪を噛んだ。

 姉であるルリコと同様に形のいい唇が、その隙間に詰まった薄汚れと、どうしようもない閉塞感を咀嚼する。

 

 キュッ。

 

 ややあってから。アーケードのタイルにスニーカーのゴムが擦れる音を響かせたマリコは、真っ向からキリエを見据えて、頭を下げた。

 

「あやまんねー方がウチらしいから、こうしておくス。でも、オトナってキツいもんなんスね。ナマ言ってました」

 

 そう言い残して面を上げたマリコの引き締まった表情を見て、キリエはいつも見ている教え子の顔を思い出す。

 と、マリコはすでにきびすを返して、闇に包まれたアーケードの奥に向かって歩き始めていた。

 

「診察費くらい抜いてきませんか」

 

 よそのガキはよそに任せる。そんな主義のキリエが、つい引き止めてしまうほどに、マリコの背中は頼りなかった。

 どことなく湿ったようなアーケードのタイルに足音を刻むスニーカーが、ふと、止まった。

 

「ありがとス。気遣ってくれて。いちおー」

 

 もう一度ペコリと頭を下げて、今度こそマリコは振り返らずに去っていった。

 果たしてどこにいるのか分からないルリコを彼女に見つけることが出来るのか、今夜、あの家で何が待っているのかを、キリエは想像しないようにした。

 

「ガンコですねえ」

 

 キリエはあくびをしながら、フラつくマリコの後姿を見送る。

 先ほど彼女が見せた意固地さと、その頭を下げたときのしぐさに、やはり、ルリコに通じるものを感じながら。

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