海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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第三章「とびっきりの愛で、抱き絞めて。」
1.ささやかな毒(1)


 壁から生えたカナタを見つめたまま、さてどうしたものかとレイジは腕組みした。

 

「うげげ……やっべえ……ひっかかった……」

 

 レイジが立っている部屋はホームシアターだ。

 勢いに任せて日本酒をガバガバと飲みまくり、猛烈な勢いでそうめんと天ぷらを奪い合い。

 さあ、じゃあここらでイッパツ、食後の映画いっときますか──と、ポスターの裏に隠された穴に体を突っ込んだ瞬間、唐突にカナタが崩れた。

 

「レイジぃ。たすけてえぇ」

 

 彼女は穴のフチから上半身をダラリと下げたまま、揺れる海草のようなおぼつかない動きで手招きした。

 

「どうすれば……いいんだ」

 

 本当に「どうすりゃいいんだ」である。頼むから自分の足で立って、壁を乗り越えてくれ──とアドバイスするのが一番いいように思われたが、

 

「ひっぱってえ。酔いすぎてアタシの足死んだかも」

 

 と、本人がそう言っている以上、レイジは手を貸してやることにした。

 

「よおし……鍛えてきたかいがあった……な……」

 

 レイジが腕まくりした。

 もっとも、とっくの昔に衣替えは済んでいる。存在しない袖をまくろうと、彼は何度も何度も棍棒のような二の腕をこすった。

 こちらも脳ミソの芯まで酒が回りきって、ベロベロに酔っ払っている。

 

「オマエのばかぢからで、アタシの腕ブッコ抜くなよ……たのむぞ……」

 

 カナタが眉をピクリと動かした。

 

「ああ……まかせろ……」

 

 ドカン。

 

 千鳥足で不器用なタンゴを踊るレイジが、ホームシアターの壁に激突した。

 真っ黒な石版のように積み上げられたカセットの山が打ち震え、カナタがハマった壁のフチからコンクリートの破片が転がる。

 それを火照った顔で見上げるカナタは、すこし不安だ。

 

「ったく。マジで大丈夫かよ、オマエ」

 

 唐突に、レイジの手がカナタに届いた。

 それが真っ先に掴み上げたのは、彼女が差し出した二の腕ではなく──その白髪頭だ。

 

「おいおい。オマエいったいドコ掴んで……あいだだだだだだッ! ばっ、バカバカバカ! 髪引っ張るな!」

 

 ところがどっこい、レイジは大型トラックのような男だ。どれほどマズいところに手を滑らせたとしても、即座にブレーキがかかるようなことはない。

 

「おいやめ────」

 

 その太い指に無慈悲なほどの圧力がこめられた瞬間、カナタの頭皮からブチ、と音が聞こえた。

 

()()()()()()()

 

 爆発のようだった。

 それまでグッタリしていたカナタが猛烈な勢いで暴れだした。

 

「あ、すま……」

()()()()()()() ()()()()()()()()

 

 彼女の膝が、穴の向こうから何度も壁を打つ。

 彼女の叫びにあわせて、崩れかけの穴に走る亀裂はさらに広がっていく。

 

「す、すまん、ほんとうに!」

 

 パッと手を離して後ずさるレイジの指に、何本か銀色のものが絡み付いていた。

 息を荒げたまま、カナタはじっとレイジを見上げてくる。顔色が悪い。酒のせいか、それ以外の理由があるのか。

 つうう……と額から滑り落ちる冷や汗を手でぬぐって、カナタは目をつぶる。

 

「はーっ……はーっ……ちっ、アタシがハゲたら責任取れよ、マジで……」

 

 そう言ってしばらく首筋をこすっていたカナタは、いくらか普段の調子を取り戻していた。

 

「なんだろな。すごくイヤな感じした……」

 

 改めて、レイジに腕を掴ませながらカナタが呟いた。

 返事がない。彼女に触れる二の腕が、少し震えている。いつもならとっくの昔に彼女を引っ張り上げているはずの怪力が、冴えない。

 

「もういいったら……」

「よくない」

 

 レイジは下唇を噛み締めていた。

 背後のリビングから差し込む光に、彼の口の端から滴る赤いものがきらめく。

 

「その、何かあると自分を傷つけるクセ。ちょっとずつ治していかないとな」

「カナタを傷つけてしまった」

「ちょっと髪の毛抜けたくらいでガタガタ言ってんじゃねえよ」

 

 レイジの腕を通して、途方も無い震えがカナタに伝わってくる。見上げると、バカでかい大男が、まるで途方にくれた五歳児のような顔をしている。

 もうちょっとつっついたら、レイジったらマジで泣いちまうかもなあ──少しだけ意地悪な気持ちが鎌首をもたげたが、カナタは薄く笑ってその考えを頭から締め出した。

 

「アタシも騒ぎすぎたよ。オラ、早くしろったら」

 

 それでもレイジが困っている様子なので「いいから」と後押しして、カナタはあごをしゃくった。

 彼の表情はまだ引きつっていたが、確かにうなずいた。

 

「ところでさあ……おわあッ?!」

 

 レイジの豪腕に力がこもった瞬間、カナタの声が裏返った。

 

 ■

 

 

「海の彼方で、カナタを想う」

 第三章・とびっきりの愛で、抱き絞めて。

 

 

 ■

 

 もはや寿命だったのだ。

 

 汗っかきな部屋の主が七年にわたって染み付けた水分。

 そして度重なるカナタの殴打と、トドメの怪力。

 もともとガタのきていた薄い壁が、大きな音を立ててカナタもろとも隣室に倒れこんできた。

 

 それをとっさに、レイジが受け止める。

 

「けほっ、けほっ……ひでえホコリだ。けひっ」

 

 ブ厚い胸板に顔をくっつけたまま、カナタが咳き込む。ひどい砂埃だ。

 

「カナタが壊した……」

 

 レイジが呆然と呟いた。

 

「この野郎! 半分くらいオマエのせいだろが!」

 

 ぽこ、とカナタに頭を小突かれながら、レイジは瞬きひとつしない。

 こうしてレイジの部屋と隣室の開通工事が完全に終了してしまったわけだが、アルコールですべてがふやふやになった二人はコトの重大さに気付いていない。

 

「ん」

 

 床に転がったカナタが、レイジめがけて両手を差し伸べてくる。

 

「ところで話の続きだけど。今日、多くねえか?」

「何がだ? ──すまん。少し足に触れる」

 

 レイジに目配せされて、カナタがうなずく。

 彼は丁寧に丁寧に、壊れものを扱うようにカナタを抱き上げた。

 

「あのなあ。これお姫様だっこじゃ……いや。何でもねえ。

 ホラ。誰かがどこかに詰まっちまったり。引っかかったりさァ」

 

 ギシリ。カナタの体を受け止めた安いパイプイスが失礼な軋み方をした。

 レイジは彼女をおろした後、部屋の隅に向かって歩いていく。そこは彼のコレクションの中でもお気に入りたちが集められた場所だ。

 

「海でそんなに詰まったり引っかかったり? あっただろうか」

 

 レイジの腕が”VHS神殿”の中に入っていく。

 イスの背もたれにぐったり体を預けて、カナタはその背中を視線で撫ぜた。

 

「ほら、フミオだよ。フミオ。ダクトにケツ突っ込んだら抜けなくなりやがって──」

 

 そこでつと口をつぐんで、カナタは考え込んだ。

 

「ダクト、だ?」

「カナタ?」

「……いや。何かのカンチガイか? よく覚えてねえや……酔っ払ったせいかな」

 

 カナタは軽く肩をすくめて見せた。

 今日のチョイスはなかなか難航しているようだった。黒い壁の前で床にパッケージを並べてうんうん言っていたレイジが、ちらと視線をカナタに送る。

 

「アクション多め。ド派手で大爆発。マッチョがあんまり出なくて、犬が死なないヤツで頼む」

 

 カナタが、助け舟を出した。

 それからしばらくして、レイジが一本のテープを掲げて見せる。

 

「ンだよ、それ?」

 

 バタくさい絵柄のパッケージだった。

 男と女と馬ロボ。背景で燃え上がる星と並ぶように、いかにも悪そうなチョビヒゲ男の顔が描かれている。

 

()だ」

 

 赤字で印刷されたタイトルを見るなり、カナタが即答した。

 

「そんなクソ映画二度と見ねえぞ。しかもマッチョ大暴れだし」

 

 レイジのお気に入りオブお気に入り『焼失』だ。

 風変わりな賞金稼ぎたちが、砂の惑星でやりたい放題。わけのわからない登場人物。三日噛んだあと道端にはき捨てたガムのようなダルダルのストーリーライン。

 そして──

 

「好きじゃねえんだよ。バッドエンディングって」

「何でだ。俺は悲しい。カナタまでみんなと同じコト言うなんて」

 

 眉根を寄せるレイジは、アルコールの影響かいつもより感情豊かだ。

 いつもはロボットのような仏頂面でザンネンデス、ピピーと言うだけの彼が心底からガッカリした様子でいるのが面白くて、カナタの意地悪心に再び火がついた。

 

「暗い映画ばっか見てるから、オマエも暗くなっちまうんだよ」

「そんなことない。愉快痛快な娯楽映画だぞ……」

 

 しゃがんだままレイジはパッケージをまじまじと見つめる。そこに印刷された登場人物たちは何も言わず、ただ険しい顔で彼を見つめ返してくるだけだ。

 

「……じゃあ、これは?」

 

 断腸の思いで『焼失』を神殿に戻し、レイジは次の一本を映画山から取り出す。

 明かりはプロジェクターの発する光と、隣室から漏れる照明だけ。おまけに酔いどれて焦点の合わない目をどれだけ瞬かせても、パッケージの全容が掴めない。

 カナタの見るそれは、緑色にボヤけた塊でしかなかった。

 

「いーぞー」

 

 だが、とりあえず"焼失"でさえなければ、それでいい。彼女は鷹揚にうなずいてみる。

 

 

 暗転。

 

 

 レイジとカナタ。二人が肩を並べる真っ暗闇に、緑色の文字の羅列が現れる。雨のように降りしきる文字を、カナタは酔った瞳でぼんやり追った。

 

「レイジ」

 

 無限に続くかと思われた暗闇を切り裂いて、一条の光が投げかけられる。

 ライトを掲げた警官隊が、自分たちの下に向かってくる人物を迎え入れる。

 

『こちらは仕事をしてるだけだ──』

 

 車から降りてきたのは、全員同じ顔をした男たちだった。

 待ちうけていた警官たちに訝る様子はない。

 

「なあ。レイジったら」

 

 酩酊のもたらす非現実感もあってほとんどスクリーンの内側にいるように放心して見入っていたレイジの肩に、カナタの白い手が触れた。

 

「なあレイジ。なんか話してくれよ」

 

 カナタの視線はスクリーンをなぞるだけで、どこか遠くを見ているようだった。青い瞳に興味の光が薄く、酔いも相まって、どこか所在なさげだ。

 

『相手は小娘一人なんだぞ』

「映画見るんじゃなかったのか?」

「レイジの話、しろ。いいだろ。しろったら。急にオマエのことが知りたくなった」

 

 酔っ払っているせいなのだろう、いつもより距離の近いカナタは、ほとんどしなだれかかるようにしてレイジの肩をつかんで、ゆすってくる。

 

「面白い話かあ」

 

 いつもよりカナタの甘い香りを近くに感じる。

 それがとても良くない事のように感じて、レイジはつい顔を背けていた。

 

「顔、赤いぞ……」

「酔ってるからな」

「そうか。へへ……だったらアタシも赤くなってるかも」

 

 カナタは何の躊躇もなくレイジの頬を触ってくる。

 夏夜(カヤ)の空気と旧型のプロジェクターの吐き出す熱が篭った部屋で、彼女の手のひらだけがひんやり冷たい。

 眠たげに瞬きしてから、彼女はレイジの肩に体重を預けた。

 

「酔うとさ。やっぱ、昔話とか。したくなるもんだろ?」

 

 スクリーンではキャットスーツを着た女性と警官隊の激しい銃撃戦が繰り広げられている。二人が黙り込んだ刹那の静寂に、女エージェントのセリフが響き渡る。

 

「何を話せばいいんだ」

『まったく』

 

 ジャストタイミング。気の利かないレイジに呆れたようなセリフだった。

 レイジは頭を叩かれたような気持ちになる。

 

「俺には十歳から前の記憶がない。昔話なんて──」

 

「しせつ」

 

 隣室──つまり、レイジとカナタが普段過ごしている部屋──から漏れる光を見つめながら、カナタがぽつりと言った。

 

「俺がいた施設? 面白くもない話だ」

「いいよ。レイジのことならなんでも。トモダチのこと、よっく知っておきてえんだよ。おかしいか?」

「いや。ただ……気持ちのいい話じゃないかもしれん」

 

 首を傾げようとしたのかもしれない。カナタは、レイジの肩に自分の頬をぐり、とえぐりこむ様に押し付けてきた。

 

「半分は孤児院で、半分は病院。そういう場所だった」

 

 空のない場所だった。

 

「いろいろ薬を打たれたかな。悲しくなる薬とか、気持ち悪くなる薬とか……」

「は? なんだよそれ、ジドーギャクタイじゃねえか。ヒック」

 

 調子ッ外れに甲高いしゃっくりをして、カナタは遊んでいる方の手でイスの傍らを探った。

 持ち込んだ酒瓶を手に取り──グラスはどこかに置き忘れたので、迷うことなくラッパ飲みを決め込む。

 

「おら。飲めよ」

「間接キスは犯罪だ。捕まる」

 

 濡れた瓶の口を見つめてレイジが呟くと、カナタは鼻で笑った。

 

「アタシら、同じ部屋で暮らして同じメシ食って同じ空気吸って同じ床で寝てるじゃん。そっちのほうが、よっぽどヤらしい感じ」

 

 言い終わると、カナタも異常性に気づいたように、再びおかしそうに笑った。

 

「……キリちゃんにこういうダメなことやってるって知れたら、殺されるかな」

 

 レイジは少し考えて、酒瓶に口をつけた。

 

「そこの院長……っていうのかな。優しいおじさんがいたんだ」

 

 隣のカナタを見て、レイジはくらりと頭を揺らした。それをカナタが手で支えた。

 

「そいつ、なんてヤツ?」

「たしか……」

 

 レイジは顎に手を当て、しばらく考え込んだ。

 スクリーンからの照り返しが彼の彫り深い顔立ちをなでる様に、彼も少ない脳のひだのひとつひとつを意識の指でなぞる。

 やがて銃声と、肉が肉を打つ音がスピーカーから途絶えたとき、彼はひとつの名前を記憶の底から拾い上げた。

 

「……ムナカタ先生、だったかな」

 

 記憶を失ったのはもう七年前のことで、当時は人間らしさのかけらも無かった。だから施設での出来事はあいまいだ。

 それでも院長──ムナカタの名前が出てきたのは、レイジにとっても小さな驚きだった。

 一部記憶がよみがえると、それが呼び水になったように彼の幼少時代を掘り起こしてくる。

 

「ムナカタ、ゼンイチロー。そうだ。白髪で、いっつも白衣を着ている男の人だった」

「ふうん?」

 

 エメット・ブラ(ドク)ウンみてーな人かな……そう思いながら、カナタはレイジの語りに集中する。

 

「前にも話したかも知れないけど、俺は体が弱かったし、全部忘れてた。歩き方、話し方、トイレの仕方……イチから覚えなおしたんだ」

「便所のやり方? 忘れてたって?」

「したくなったらタレ流し」

「ウゲー、えんがちょ!」

 

 カナタが、レイジの頭に添えていた手をぱっと離す。

 酔いが回ったレイジは、普段は見せないようなおどけた表情で、首をすぼめた。

 

「ムナカタ先生は、俺を見捨てずにいろいろ試してくれたんだと思う……でも、ある日いきなり院長が変わった」

「いきなり?」

「何の説明も無く、一晩で。それからあそこは、拍子抜けするほど、普通の場所になった」

 

 レイジの目は束の間スクリーンを通り抜けて遠い過去をさ迷っていた。

 アルコールが脳の奥で固まった記憶を少しずつ溶かし出してくる。

 青白い照明に照らされた廊下、死者の皮のようにデロリと光るリノリウムが敷き詰められた床。

 肌に垂らされた消毒液が揮発する冷たさ。針を刺せる場所を探るゴムの指先。カラフルなお菓子のような錠剤。太股を伝う大便の生暖かさ。

 病院の裏庭。手の中でぐったりと首を折ったニワトリと、そんな自分の背後から聞こえてきた足音。

 

 ──そして、振り返った自分を包む、電柱のように巨大な影法師。

 

「それである日、キリエ先生が来た」

「は?」

 

 激しい銃撃戦の音など耳に入らないほどレイジの壮絶な過去に気を取られていたカナタは、意外すぎる登場人物のエントリーに思わず耳を疑った。

 

「やべ、やべやべ。アタシ、まじで酔ったかもしんね。今、キリエ先生って聞こえた」

「酔ってるとは思うがそれで間違いない」

 

 キリエ先生。

 アル中、自堕落、放任主義。電柱のようなひょろなが女。

 カナタは頭の中で、十歳のレイジとキリエを並べてみる。まるで小人とビッグフットの邂逅だ。

 考えれば考えるほどチグハグな取り合わせだった。

 

「……マジで?」

「マジだ」

 

 カナタはレイジの方に身を乗り出した。

 

「えっえっ、キリエ先生って、あのキリちゃんでイイの?」

「そうだ。そのキリちゃん」

 

 何度聞いても、レイジは赤らんだ顔で断固として頷いて見せる。

 もといた位置にスゴスゴ戻っていきながら、カナタはまだ疑いのこもった瞳で彼を見つめていた。だが、彼は揺るがない。

 

 ギシッ

 

 カナタがイスを軋ませて、軽く佇まいを正した。

 

「ん……まあ……そんじゃ、それがキリちゃんだとして。何のためにレイジのところに来たわけ?」

「たしか、姉さんの知り合いとか言ってた。かな」

 

 レイジの表情が僅かにかげる。

 こうしている間もどんどん当時の様子を思い出しているが、何もかもをカナタに語って聞かせることはできない。

 キリエが初めて彼の前に姿を現したとき──それは、レイジが施設の裏で唸り声をあげながらニワトリを追い回していたときだった。

 全裸で、四つんばいで、野人だった。

 手がつけられないのでほったらかしにされていた。

 汗と、垢と、口に出すのも憚られるような汚れにまみれた彼をただ抱きしめ、キリエは”姉さん”について話してくれた。

 

「姉さんって、洗面台の?」

 

 リビングのほうを見つめながら、カナタは脱衣所に置かれた位牌のことを思い出す。

 

「そうだ。明るくて、よく笑って、口がデカいヘンな人だったって……」

 

 カナタと話していて、レイジは今まで気にも留めなかった姉のことが急に恋しくなってきた。

 マトモだった頃のキリエにもう少しだけ詳しく聞いていればと思うが、それはもう、過ぎた話だ。

 記憶に残るキリエは髪が短かった。

 今よりずっともっと綺麗で、いい匂いがして、すべての動きがてきぱきしていた。

『ちゃんとした』キリエも姉も遠い過去の中に薄れて消えて、実感がない。今ではまるで、おとぎ話の住人のようなものだった。

 

「そのあと”焼失”を……キリエ先生が……もってきて……」

 

 途切れ途切れにレイジが呟く。

 

「あ? クソ映画が何だって?」

「施設の……たしかあれは……どこかの壁だったかな……穴だらけの……」

 

 レイジの声が止まった。

 

「おい──」

 

 不審に思ったカナタが視線を送ると、彼は大きな口をポッカリ開けたまま目を閉じていた。

 その頭が、ガックンと大きく揺れる。

 

「おっとと……あっぶねえなあ……」

 

 レイジが体ごと前のめりに倒れていく。床に落ちそうになる彼の頭をとっさに支えたカナタは、その重さにうめいた。

 

「ンだよ、この酔っ払いめ。アタシに感謝しろよ」

 

 カナタは席を立ち上がって、レイジの体をイスの上に横たえてやった。

 ターミネーターのような体つきをしているくせに、体を丸めて眠っている姿はまるで子供だ。

 カナタは、その頭をポンと撫でてやる。

 

「ガキンチョなのか……アタシが思ってたよりも、ずっと」

 

 レイジは七歳だ。

 十歳の体でいきなり放り出された赤ん坊が泣き声を上げることも許されず、わけも分からないまま今日まで生きてきた。

 クラスで孤立するのも当たり前だ。

 こんなデカい体の中に、いったいどれだけの孤独を封じ込めて生きてきたのか、カナタには想像もつかない。

 レイジの頭に置いた手を、なかなか離すことができなかった。

 

 ■

 

 カナタはスクリーンに目を戻す。

 黒コートの集団のシーンは終わったようだった。

 そこでは白い背景を背に、ぼろぼろのワンピースを着た少女が風に吹かれている。

 肩に力がない。こちらに向けた背には肩甲骨のシルエットが浮き、その影に色濃い疲れが吹き溜まって見える。

 歳にそぐわない、寂しさと絶望が彼女の背中にへばりついていた。

 

『あのねえ、きみらねえ』

 

 その少女が、カメラに向き直って口を開いた。

 

『酒飲んでドロドロになっちゃって。悲壮感なさすぎでしょ。どうなってんのさ……』

 

 違う──こいつは映画なんかじゃない。

 呆れ顔の少女はカメラでなく、カナタを見て喋っている。レイジの『悪夢の少女』。映画館のトイレで相対してから、遭うのはこれが二度目だ。

 

 そして、レイジの体に無遠慮にベタベタ触りながら、握手がどうのと一方的にカナタに持ちかけてきた相手だ。

 

 それを思い出した瞬間、瞬間湯沸かし器のようにカナタの血が煮えたぎった。

 

「うるせえ、バァカ!」

 

 イスの横に転がっていた酒瓶を手に取り、少女に向かって勢いよくブン投げる。

 

『お、おわわっ!』

 

 腰に手を当てていた少女の余裕が一瞬で崩れ去った。

 彼女はとっさに顔を手でかばったが、所詮は幻覚である。『親父(ゴッドファーザー)』のビンは飲み込まれるようにその体をすり抜け、反対側の網戸を突き破ってベランダの向こうの闇に消えた。

 

『なにんすんのさー!?』

「あぶねーっ!?」

 

 遥か階下でバシャンとビンが割れた音の直後、マンションの壁を怒声が駆け上がってきた。

 

「うおお、殺すつもりか、このクソバカ共ーっ!!」

 

 何かと話題の人物、キリエの声だ。

 その怒りっぷりは相当なもののようで、窓辺に立って外を覗き込んだ少女は派手に顔を引きつらせていた。

 

『あの人めっちゃ怒ってるんだけど、だいじょぶ?』

 

 この瞬間も、キリエの罵声が犬の遠吠えのように窓から流れ込んできている。

 

『アレ、絶対こっちくるよ。そういうタイプだよ。あの酔っ払い』

「アタシもしょうじき怖いが、まずはオマエだ、ガキ!」

 

 カナタに勢いよく指を突きつけられて、少女はイヤそうな顔をした。

 幼いレイジの元に現れたという”ミス・電柱”。

 カナタの中にキリエに聞きたいことは山ほどあるが、それよりも今は今は目の前のいけ好かない存在に全神経を集中させる。

 

「こんのクソガキ、なんの用でツラ出しやがっら……」

 

 酒に酔ったカナタは無敵だ。

 回らない舌で吐き捨てて、両方の中指をおっ立てる。フミオ直伝のダブル中指スペシャルだ。

 とことんやっかいな酔っ払いと化したカナタを前に、少女は骨ばった肩を落っことして見せた。

 

『なんだよう。いい雰囲気だから、邪魔しないようにしてたのに』

「マセガキ」

『カナタちゃんだってガキじゃん。いい、私は遊びにきたわけじゃ……うぶっ』

 

 触ればすり抜ける幻影のクセに、少女の顔は真っ青だった。

 

『うー……きもちわる。オトナって、こんなんがイイわけ……目がぐるぐる回って、溺れたときみたい……』

 

 目を回してうずくまる少女を前にしていると、カナタも少しだけ理性を取り戻した。

 

「なんなの。なんでオマエまで酔ってんの」

『いろいろ複雑でめんどうでステキなことになってるの。私の体』

 

 少女はちらりとレイジを見た。

 もともと飲み慣れない酒を、しかも日本酒のストレートを酔いのテンションに任せて水のように飲み続けたツケだ。彼はバッチリ完全に潰れて、ピクリとも動かない。

 

『今日来たのはね、こないだの続き』

 

 這うようにカナタの前までやってきた少女が、手を差し伸べた。真っ白で小さな、子供の手。

 

『握手しようよ。ダメ?』

 

 カナタはそれをじっと見るばかりだった。

 

『ダメかあ……』

 

 はっきりと落胆を顔に浮かべて、少女はその手をフローリングに投げ出した。

 そのまま、所在なさげに首をユラユラしている彼女に向かって、カナタは自分の膝を叩いて見せた。それが、最大級の妥協だった。

 

「ん」

『……ありがと』

 

 膝枕、ということだ。

 少女が頭をカナタに預ける。それにどんな意味があるのか、カナタには分からない。

 重みも、体温も感じない。当然だ、少女はあくまで幻覚だ。

 今こうして目の前にその顔があっても、それがどんな造作で、どこを見ているのかハッキリとしない。

 像としては存在するが、それを()()()()として認識するための要素が何か欠けていた。

 

『カナタちゃん、優しいね』

 

 少女は胸の上で手を組むと、うれしそうに、そして残念そうに微笑みながら目を瞑った。

 

『どうして私たち、トモダチになれないの?』

「オマエを信じられない。だから握手しないし、トモダチにもならない」

『う────ん……なんで?』

「レイジな、真夜中にすげえ声でうなされてンだよ。それも、ほとんど毎晩。オマエのせいなんだろ」

『違うよお。私だって、レイジが辛い目に遭うのはイヤだよ』

 

 少女が泣きそうな顔で言った。

 どれだけ無邪気に振舞って見せても、七年間毎晩、他人の夢の中で自分自身を殺し続けた異常者だ。ハイソウデスカ、と、信じるほどカナタは純真ではない。

 

『カナタちゃんは明日からどうするの』

「どうするもこうするもあるかよ。いつも通りやるしかねえ」

『記憶に……未練はない?』

 

 そんな風にとりとめなく思考を巡らせるカナタのことなどお構いなしに、暗闇に浮かび上がるスクリーンを見ながら少女は言った。

 

「あるに決まってる。それでも割り切るしかねえだろ」

 

 海へ行ったら、失われていた記憶が戻ってくる──そんな根拠のない直感に突き動かされ、レイジと、フミオと、そしてテコでも動かないほどガンコなルリコまで巻き込んで旅をした。

 

 それだけやっても記憶は戻らず、スゴスゴ町に帰ってきた。悔しくないはずがない。

 

「これからは毎日学校行って、バイトして、期末テストの勉強して……気長に、記憶が戻るのを待つ。それがアタシの次の作戦だ」

 

 そうして日常に埋没していけば、いずれ記憶を取り戻せなかったことも、一夏の思い出として諦めがつく日が来るに違いない──

 

『敗北宣言じゃん』

 

 カナタがあえて口にしなかったことを、すぐに少女は探り当ててきた。

 

「あ?」

 

 カチンときた。

 カナタが怒りをこめて見下ろす先で、少女がスクリーンの前に手をかざした。

 

『男の子と女の子の出会い。それはいつだって、運命が映画になる瞬間でなくちゃいけない』

 

 むっとする熱をもったプロジェクターの光は、幻覚の体をすり抜けてしまう。

 それでもカナタは、スクリーンに巨大でいびつな少女の影が落ちているような気がして仕方がない。

 

『エンドロールまで何も起こらない映画がある? そんなワケないよ』

「ンだよ、それ」

『ボーイ・ミーツ・ガールはまだ終わってない』

 

 

 少女の指が持ち上がる。

 その先はカナタの顔面──ではなく、肩越しの虚空へ。

 

「何言って……」

 

 違う。

 

 黒曜石のような幻影の瞳が、その姿を映し出していた。

 ぬるり。居心地が良いホームシアターの中に、いつしかおぞましい臭気が這い入ってきていた。

 積み重ねられたVHSカセットの表面から水が滴るほどの湿気を撒き散らしながら”それ”が身じろぎする。腐った沼をかき混ぜたような悪臭がむあっと強くなる。

 

「はっ!?」

 

 とっさにカナタは少女を抱きかかえ、飛び退いた。

 腕に重みを感じない。少女の幻影が腕をすっぽぬけたのを感じた瞬間、カナタの鼻先を鋭利な輝きがかすめた。

 プロジェクターが投げかける光の中に、切り落とされた白髪が舞う。

 

「あうっ」

 

 着地のことなど考えずに身を投げ出したカナタは、パイプイスの列をなぎ倒しながら倒れこんだ。

 

『そいつはずっとカナタちゃんを追ってる』

 

 残忍な三本爪の切れ味は相当だ。手をついて体を起こそうとするカナタの前で、鋼鉄製の支柱ごと切り刻まれたスクリーンが耳障りな音を立てて倒れていく。

 

『よっぽど、好きなんだろうね』

 

 怪物の爪は床に突き立っていた。

 それはエア膝枕のポーズで頭を浮かしたままの少女の腹を貫いているが、彼女は幻影。痛みも苦しみも感じない。

 だが、カナタは違う。

 

 水かきのある、扁平な足が目の前にある。

 黒く、ボコボコとしたイボに覆われた外皮を這い登るように視線を上げていくと、天井につかえさせた頭を直角に曲げて見下ろしてくる怪物と目が合った。

 

「おいおい。バケモンが家まで入ってくんなよな……」

 

 目、といっても、この怪物の頭部にそんな器官は見当たらない。

 じくじくと膿のように流れ落ちる黒い汚泥にまみれた、身長2メーターは下らない、棘皮の怪物。

 その顔に当たる部分には、乱暴にナイフで刻み込んだような笑顔の口があるだけだ。

 

 ──”つくり笑い”だ。

 

 その口から乱杭歯を覗かせる侵入者は、確実にカナタの存在を認識している。

 

 いつ? どこから? さまざまな問いがカナタの頭を駆け巡る。少女とカナタの間のもっとも大きな点。それは肉体があるということだ。

 ヤル気マンマンの怪物と、部屋の中に二人っきり。

 

『レイジ。やばいよ』

 

 壁に背をつけて三角座りしながら、少女が平坦な声で言った。

 イスが倒れた衝撃で床に放り出されたレイジは、まつ毛すら動かさずにいびきをかいている。

 未成年者飲酒のバチが当たったということか。あんまりな因果応報に、ついカナタは笑いそうになる。

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