一筋の煙が上がっていた。
「作りモンの月でも、こうやって見てっときれいだな……」
水田に、炎が反射している。
用水路に突き刺さったバイクが赤い炎を上げて燃え盛る。泥と草が蒸れた夏の匂いの中に、爆ぜるバッテリーパックのケミカルな悪臭が混じっていた。
何も無ければ、心地のよい夜だったかもしれない。
あぜ道のド真ん中で仰向けに寝転がったフミオの背がじんわりと汗ばむ。昼間暖められたアスファルトの熱がまだ生きていた。
太腿の中ほどで折れた彼の右足は、信じられない方向にねじ曲がっていた。
「クソ痛ェ……死ぬわ……」
折れた骨が血管やら神経やらを突き刺さなかったのが幸いだが、とにかく激痛だ。炎の照り映えの中、額に浮いた無数の脂汗を光らせながら、それでもフミオの顔は醒めていた。
夜闇に紛れて飛んできた一機のドローンが、彼の頭上を旋回している。
赤いセンサーを光らせる機体が奏でる甲高い羽音は、慌てているようにも聞こえた。だというのに事故当事者のフミオは落ち着き払ってズボンのポッケにタバコを探すだけだ。
「一服やらしてくれよ。ちょうど火もあるし……」
あれは、防衛局のドローンだ。
そして半日前知ったことだが、フミオの父は防衛局のVIP。フミオは問題山積みの息子だったが、御曹司サマである彼が朝まで放置されるとは考えにくい。
おそらくすぐに、助けが来る。
ブンタと酒を酌み交わして、もう思い出したくも無い相手の名前が飛び出てきて────
”オッサン”が悪いわけでもないのにキレてしばらく不貞寝をキメ込んで────深夜に起き上がったときには、やるせなさはすっかり熟成されて、ぐらぐら煮え立つような怒りに置き換わっていた。
でもって、酔いもそこそこ残っているのにバイクをかっ飛ばしていたらハンドルを誤った。
それだけの話だ。
未成年飲酒。アウト。
ノーヘル酔いどれ運転。アウト。
そして防衛局が管轄する区内で見事にクラッシュ。スリーアウト。
「めっちゃ怒られそ……」
ドーム内に再現された天の川めがけ、フミオの口から二筋目の煙が昇っていく。
いったいどれだけお叱りを食らうのか。説教程度で済むのか。彼には想像つかないし、同時に、果てしなくどうでもいい。
小さく呻いて、フミオは動き始める。
手のひらに突き刺さる砂利の感触が腿の痛みを程よくごまかしてくれる。
バイクから離れるように路肩まで這っていった彼は、炎の中に沈んでいくミラーを見つめた。
目元涼しげな、端麗な顔立ちの美男子がそこに映っている。
最近その顔が、憎々しくて仕方がない。
フミオが小石を握り締めたのは衝動的だったし、それをバイクのフレームめがけて投げつけたのは、どうしようもない苛立ちを発散したかったからだ。
カンッ
あまりに軽い音を立てて小石がはねた瞬間、パンパンに膨らませたポリ袋を破ったような音を立ててバッテリーが爆発した。
いっそう激しく炎が燃え盛り、離れたところにいるフミオの頬にも熱が伝わってくる。
フミオは養子だ。
そして彼の実父は宗像善一郎という。
十歳のフミオをブンタに押し付けて姿をくらました──としか聞かされてこなかったが、七年越しに最悪な形で答え合わせをされてしまった。
ムナカタは元防衛局の研究員で、レイジの体を好き放題弄んだクズ野郎。
フミオは顎をなぞる。割れた鏡の中で、頬の切れた美青年がそれをマネする。
目、鼻──耳の形や、自分でも気づかないようないろいろな場所に、ムナカタの遺伝子が息づいている。
事故物件みてえだ。フミオはそう思った。
この顔は殺人や自殺が起こった部屋に現れる怨念のこもった染みだ。フミオが立ち上がって過去と決別しようとするたび、実父の残響がそれを邪魔する。
「あの野郎。どんだけ俺に付きまとえば気が済むんだ」
鏡を見ていても気がめいるだけだった。
フミオは空に目を移す。集まってきた防衛局のドローンたちが、わんわん羽音を立てて旋回している。
まるで目のように光るセンサーライトが、フっと消えた。
前触れもなく。それも一斉に。
カツリ。
フミオの近くに何かが落ちてきて、舗装の上に火花を散らした。
四つのプロペラを持つ黒い機体……ドローンだ。あれほど騒がしくやっていたのが、今はピクリとも動かず、虫の死骸のように転がっている。
カツリ……カツリ……
それは死の雨だった。
機能停止したドローンが次々落下してくる。フミオの手元に、バイクの吹き上げる業火の中に。黒い水が渦巻く田の中に。
カツリ……
ヒールの立てる硬質な足音は、ドローンの断末魔にまぎれてしまう。
だからフミオは、その女が間近に迫ってくるまで気づけなかった。
「あ……?」
そいつは、フミオのすぐ傍に立っていた。
彼の目が真っ先に惹かれたのは、その口元だ。
「あんた……どこかで……?」
薄紫の口紅が、闇と炎の中で艶かしく照っている。
そして、それはカナタだった。
ハネぐせのある黒髪を肩まで伸ばしていようが、肌にウロコもヒレもなく、それが常識的な範囲の色をしていようが、フミオが間違うはずがない。
他人のそら似とか、そういうレベルのものではない。
唯一違うものがあるとすれば──その香り。
機能を失ったドローン達が次々と降ってくる中で、バニラの香りがする女が亡霊のように立ち尽くしていた。
「────幽霊屋敷の。ね?」
紫色のラインが暗闇の中で品の良い笑いを形作る。
その鮮烈な色と単語が、フミオの脳に封じられた記憶を呼び起こした。
「ああ、あの……」
「毎日手を振ってくれた。何か困ってる?」
フミオは折れた足を視線で示して、肩をすぼめた。
相変わらず骨折は焼け付くように痛いが、憧れの『お嬢さん』の前でカッコ悪いところを見せるわけにはいかない。
「お困りっつーか。救急車待ってるトコロっつーか……」
────いや待て。いつまでバカのフリしてんだ、暮フミオ。
「……てめえ。俺の記憶消したろ」
フミオの声が一気に低くなる。
そんな風に凄まれても、女は気にしない。
彼はフミオの目の前にしゃがみこんで、黒いロングスカートの裾と一緒にバニラの香りをフワリと広げた。
フミオはレースのタイツの膝小僧を見つめながら、あの日、閃光によって消し飛ばされた記憶を蘇らせる。
田んぼの中にあるのに、誰も気にしない幽霊屋敷。
部屋一面に貼られた無数のカナタの写真と、口紅で塗りつぶされたクラスメートたちの顔。
そして──壁に大きく書かれた『A-6500』の文字列。
「アンタ、ヤバいやつなんだろ」
女の首が横に大きく傾いだ。フミオの心臓が一拍飛んだ。
そのまま頭が外れてゴロゴロと転げていくのではないかというほど、人間味の無い動きだった。
「一度記憶を焼き払ったのに。たいしたものだ」
顔を引きつらせるフミオのことを、カナタの顔をした女は面白そうに見ている。
「やっぱり小規模な記憶消去装置は効果が不安定だな。加えて、きみには元々耐性があるみたいだが……?」
「知るかよ」
柔らかに笑う顔はカナタのはずなのに、フミオはまるで、拳銃を突きつけられている気分だった。
転入生の女の子に酷似した怪物から目を離さないようにしながら、彼は視界の端で傍に落ちたドローンの姿を捉える。
これだけの数の機材が墜落しているのだ。この異常事態を、防衛局が放っておくはずが無い。
「ふむ。助けを待ってるようだね」
心を見透かされたような気がして、フミオは背筋が冷えるのを感じた。
「そう警戒しないで。今日は提案をしにきただけだ」
目つきを鋭くするフミオに、女が恐ろしいほど柔和な声音で語りかける。
「私がこうして君の前に現れたのは──」
「なんでカナタと同じ顔をしている。なんでカナタを追っている」
カナタそのもの……というフミオの第一印象は、見れば見るほど誤解だったと気づかされる。
彼女はカナタよりもカナタらしい。
もっと人間らしい見た目で、もっと洗練された振る舞いで、そして遥かに大人びている。あと数年経てば、あちらもこんなオトナの女になるのかもしれないが──
同時に、どうしようもなくちぐはぐな印象を受ける。
まるで、カナタという存在を一度バラバラにして繋ぎなおしたフランケンシュタインの怪物だ。
「町の秘密の一端を知ったのか。うれしいよ。どんな生き物も、最初の一歩を踏み出す瞬間はいつだって感動的だ」
フミオは顔を背ける。女が怖い。そっぽを向いたまま、その様子をチラチラ伺ってしまう。
「でも、もっと深い秘密がある。知りたい? 知りたいだろ?」
女の柔らかな態度はうわべだけのものだ。
彼女にとってフミオは“言葉を喋れるうさぎ”だから話しているだけだ。
その目に宿る支配の色は、腹立たしいほど傲慢だった。
「なんで、俺のダチと、同じ顔、してやがんだ?」
だからフミオもマトモなコミュニケーションを拒絶する。
「カナタが二人とか。勘弁しちゃくれないかね。勝手に増えてんじゃねえやい」
ドンッ
笑みを浮かべる女の背後でバイクが小爆発した瞬間、彼女の体が軽くのけぞった。フミオは思わず、動く腕で顔をかばった。
生ぬるいものを腕で受け止める。
あたりに立ち込める異臭の中に、鉄が強く香り始めた。
「……おやおや」
ごぼごぼと耳障りな泡音が混じった声だった。
尖ったフレームの破片が、女の首を貫いている。
フミオの眼前にまで迫った先端からとめどなく落ちる液体の色は言うまでもない、赤だ。どこからどう見ても致命傷だった。
「わだじ……ンンっ。私がここに立っていて、命拾いした……ね」
にもかかわらず、女は平然と動いた。
紫色のルージュの端から真紅のラインを垂らしながら、その手でのど笛を貫通したパイプを握り、力任せに引っこ抜く。
ぶちぶちぶちと音を立て、周りの組織が絡みついた破片を引きずり出すのを見ていると、さすがのフミオも気が遠くなりそうだった。
だが──本当に奇妙なことが、それから始まった。
「あ!?」
フミオが見ている前で、女の傷口が大きくうごめく。
向こう側が見えるくらいポッカリ開いた大穴の中で、千切れた肉と皮膚が絡み合って超高速で再生していく。
「なにを驚いているんだい。きみの身近にも、似た力を持つものがいただろう」
言われるまでもない。
彼女の体に宿る力は、あのおぞましい鉄骨に打ちつけられたレイジの体に起こる”あれ”と全く同じだったからだ。
「
女は口の両端に指を当て、笑顔を形作った。急に表情筋の動かし方を忘れてしまったようだ。それが余計に冷たく、得体のしれない印象をフミオに刻み込む。
「お父さんのこと、好きかい?」
「ンだとォ?」
「酒屋の店主。防衛局の親玉。自立して、自分で自分の人生の舵を切れる、偉大な男。かなしいかな、きみとの間にあるのは戸籍という繋がりだけだ」
「────ケンカ売ってんのか、テメェ!」
「キミは人のこと、けっこう見下すタイプだろう」
フミオは足が折れていたことを、心底感謝した。
そうでなければ相手が華奢な女とはいえ、掴み掛かって膝の一つでも入れていたかもしれない。
悔しいことに女の言葉は全てがフミオの触れられたくないところを的確に突いてくる。痛みも忘れて青筋浮かべているのが、その最たる証拠だ。
「オッサ……
「とことん下らない。だけど今のその目はよかった。目だけ、だが」
黒いドレスの胸元に女の手が伸びる。
思わずそこに視線が吸い寄せられてしまうのが、悲しい思春期の
しかし、フミオには、火照りを受けて濡れたように輝く乳房と乳房の奥に、無限の闇が広がっているように感じた。
「
「勝手に決め付けんな。帰れクソ女」
「そして、
受け取り断固拒否を貫くフミオの前で、ヒラヒラとカードが振られる。
それが今しがた出てきた場所をほのめかすように、バニラの香りが彼の鼻をくすぐる。
「うるせえ。ごちゃごちゃと。局の連中が来たら、お前なんて────なんて────」
つい、カードに視線を向けてしまった。その瞬間フミオは呆けたように固まった。
「そして、ヒーローは伝説の武器を手に入れる。そうだろう」
「────なんで?」
女の体温がまだ残る、生暖かいカードがフミオの手に押し付けられた。
カードは擦り切れ、赤黒いもので汚れている。偏屈そうなメガネの男性の顔写真が、彼の脳ミソを思い切りブン殴っていった。
じとりとした、ネズミのような印象を受ける灰色の髪の白衣の男。
そしてかろうじて読み取れる文字列。
「町の奥深く。貯水槽のさらに先……A-6500シャフトの底を目指しなさい。そこにきみのための武器が眠ってる」
「これ……こいつの名前……! おま、なんで……!」
「私はカギを手渡し、道を示すだけ。
ひやりとした女の指が、火照りに暖められたフミオの頬を撫でてくる。
ズカズカと心の敷居を越えてくるような、なれなれしいその手つきから彼が顔を背けると、女は夜の闇に溶けそうなほど甘い声でフフフと笑って、彼の額に口付けた。
「やめろクソ女! 俺に触ンじゃねえッ!」
ほとんど半狂乱になってフミオが手を振り回すが、その頃には女は身を退いて、畦道の上を歩き始めたところだった。
「また会おう。雑草なりの意地を、私に見せてくれ」
女は軽く礼をすると宵闇の中に向かって歩き去っていった。