海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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1.ささやかな毒(3)

 病んだ磯のような臭気が部屋に満ちていた。

 とっさに床の上を探ったカナタの指先に、ひやりとしたものが触った。

 彼女が拾い上げたのは”つくり笑い”によって切断されたスクリーンの支柱だ。手槍ほどの長さがあり、切断面は鋭利に尖っている。

 

『うっわ。そんなでこのバケモノとやりあうつもり?』

 

 ホームシアターの薄暗さの中で少女が目を細めた。

 

「おうよ!」

『ムリムリ。逃げなって。強がってもいいことないよ』

 

 幻覚だから当然なのだが──鋭い爪で腹を貫かれて平然としていた少女も、さすがに呆れを顔に浮かべた。

 カナタの前に立ちはだかる”つくり笑い”の身長は軽く二メートル越え。

 鉄パイプも、そしてカナタも、棘皮の怪物にとっては爪楊枝のようなものだ。やたらと先が尖っているようだが、それは見掛け倒しだ。

 その気になったら簡単に手折(タオ)れる。

 

 ひょろ長い怪物は、黒いタールが滴る頭を天井に擦り付ける。カナタに向き直る動きに合わせて、不気味な模様がそこに描かれる。

 

 その足元にはレイジがいた。

 

 さっきのドタバタでイスから転げ落ちたまま、彼はノン気にいびきをかいている。まるで何も知らずに眠る子どものような顔だった。

 

『レイジを置いて。そして逃げたらいいよ。レイジなら、何があっても死んだりしないから』

「ハ……そんなん、できるわけねェだろが!」

 

 白い犬歯を剥き出しにして、カナタは笑っている。

 だが、それこそムリにムリをして塗り固めた虚勢だ。同じく表情を偽る怪物──”つくり笑い”の胸元に向けられた鉄のスパイクの先端が小刻みに震えている。

 

「クソッ……カッコ悪いとこ見せんなよ……!」

 

 カナタは、情けなく震える己の手を叱り付ける。

 自分のことは、もっとしっかりして、もっと強い人間だと思っていた。

 レイジの手を初めて握った日はシッカリ、ドッシリ構えていられた。地面を埋め尽くすほどの黒い怪物が押し寄せてくる最中だって、腰を抜かさなかった。

 今日と一月前の違いはいやらしいほどにシンプルだ。レイジが──カナタに寄り添う巨人のような戦士が、今は傍にいない。

 

 ────大丈夫だ。大丈夫。アタシはダイジョブ。

 

 ひゅうっ。

 カナタの喉から、およそ『大丈夫』ではない音がした。

 レイジに守られてばかりはダメだ。アタシも自分を守れなきゃ、レイジが傷だらけになっていくばっかりじゃないか──そうやって自分を奮い立たせるために使う『大丈夫』ですらレイジの言葉であることに、彼女は気づいていない。

 

 首筋を押さえつけ、カナタは「ふうう」と深く息をつく。

 頭がクラクラする。まだ”つくり笑い”が何をしたというわけでもないのに、この部屋に満ちる生臭さを吸い込んでいるだけで肺が痙攣しそうだった。

 

『くるしそうだね』

 

 ”つくり笑い”を見上げたまま、少女が言った。

 

『ぜったい。ぜったいムリだよ。こいつに、カナタちゃんは絶対勝てない』

「うる──せえ──ッ」

 

 幻影を振り払うようにカナタが腕を振る。

 

「やってみなきゃわかんねえだろうが!」

 

 その瞬間、”つくり笑い”が身をかがめた。

 まるで闇夜に向かって僅かに開け放たれたドアが、夜風でゆっくりと隙間を広げていくような気配のなさで。その隙間から何かおぞましいものが這い入るような恐ろしさで。

 怪物の動きが滑らかすぎたせいで、カナタのリアクションがワンテンポ遅れる。

 

「うっ」

 

 やべえ──そう思った時には、耐え難い生臭さがカナタの口に、鼻に押し付けられていた。

 

「う……ぐっ!」

 

 ネッチリと陰湿な粘りを残す表皮が、カナタの顔下半分を覆っていた。

 怪物の片手で口をふさがれ、息が、呼吸ができない。

 これまでも悪臭でさんざん痛めつけられていたカナタの意識が遠のく。その体は怪物がそっと力を込めるだけで、簡単に屈した。

 汚泥が撒き散らされたフローリングの上に、カナタの白い膝が落ちる。

 

(──やめ──ろ)

 

 カラン。

 

 彼女が手にした儚い最終兵器が、あっけなくその手を滑り落ち、むなしい音を立てる。

 怪物がぐっと顔を近づけてきた。押し寄せる腐臭がぐわんとカナタの頭を揺らす。

 ”つくり笑い”がその顔に刻まれた笑顔をぐにゃぐにゃに捻じ曲げて笑う。ガラガラとうがいをするような、声ともつかない音がカナタの耳朶を擦る。

 真っ黒な口の中で、腐肉に沸く蛆のように白い乱杭歯が踊る。

 

 そして怪物はもう一方の手を伸ばし──本当の地獄の時間が始まった。

 

 捩れた指先が軽くカナタの乳房をかすめ、その喉笛に届く。ビッシリと生えたイボが首筋をなぞった直後、ゆっくりと締め付け始めたのだ。

 

「がっ、あっ……」

 

 その力は抗えぬほど強力で、卑猥さを感じるほどに緩慢(カンマン)に彼女の首をなぶる。

 ”つくり笑い”の皮膚から滲み出るヘドロが、純白の鱗の隙間を舐めさするように広がり、その奥に染み込んでいく。

 

 ────きっしょ……コイツ、楽しんでんじゃん……

 

 爪先が床から離れる感覚を味わいながら、カナタは確信する。

 ヒトらしい感情がないとしても、この執拗な愛撫を受ければ嫌でもわかる。

 目の前の”つくり笑い”は、自分を殺したいわけじゃない──それがかえって、最悪だった。

 なにがそこまで”つくり笑い”の興味を惹いてしまったのか。この怪物は()()()()()()()()なのだ。足元に転がるレイジという、特大の獲物すら目に入らないほどに。

 

 カナタの視界は脈打ち、ぼやけ、すべての音が遠のいていく。

 

『……まずいね。すごくまずい』

 

 それでも不思議と聞こえる少女の声を聞きながら、カナタは手を伸ばす。

 届くはずがない──それでもカナタは、どんな時でもあきらめない。はるか遠く、床に転がって冷たい光を放つスパイクを拾い上げようとする。

 

 が。

 

 その指先は、無意識に別のものに救いを求めた。

 

『レイジ。起きてよ』

 

 カナタの手は、レイジに向かって伸びていた。

 無表情で座ったままの少女が、床に転がったままのレイジを見て、静かに告げる。

 

『きみのお姫様が、ダメになっちゃうよ』

 

 ぎちり。

 

「あ」

 

 折れる──

 

 体の内側。耳の裏の方から響いた音を聞いて、カナタはそう感じた。

 痙攣する彼女の指先をすりぬけて、少女がレイジのもとへと歩いていく。

 

『おもいだしてよ。カナタちゃんって、きみのなんなのさ』

 

 大ピンチの天井を突き抜けた最大級のピンチに直面したカナタをよそに、少女の小さな手がレイジの頬を軽く打つ。

 

『きみが守って、海を見せてあげるんでしょ』

 

 ギュギッ。カナタの耳に届く骨の軋みが、よりいっそう破滅的なものに変わる。

 

『ね。レイジ……』

 

 ────あー、やっぱダメか。

 

 ついに幻覚の声まで聞こえなくなってきて、カナタはあきらめムードに包まれる。

 酔っ払ってるところを襲われて、わけがわからないままオモチャにされて捻り殺される。あきらめ、なんて軽い言葉で片付けていいようなモンではないかもしれない。

 ただ、この絶望感を。

 冷たい水が徐々に肌を浸していくような絶望感を、カナタは知っている。そして慣れている。

 

 だからこそ、こうして手放すことに、さほど未練がないのだろう。「あーあ」と。

 

 

『じゃあ特別────起こしてあげる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 浮遊感。圧迫からの開放。

 

 そして──闇をも切り裂く『黒い光』が、カナタの目の前をかすめ、怪物に炸裂した。

 

『あはっ!』

 

 

 ゴウッ

 

 

 手を叩いて嬉しそうに笑う少女の姿が霞むほどの豪風が室内に吹き荒れた。

 

「──俺の」

 

 まさに爆風。

 その原因となったのは、突如として部屋の壁に穿たれた大小の穴だ。

 目を覚ましたレイジが早撃ちめいて繰り出した拳と共に、彼の体から自然に溢れ出た『黒い光』が分厚いコンクリートの外壁を蒸発させたのだ。

 

「ひゅっ──がっ、げほっ、げほっ……!」

 

 すべてを食らう光が空間ごと消滅させた大気。

 真空と化した部屋が深呼吸をするように勢いよく空気を取り込むのと同様に、カナタの肺も、それ自体が意思を持ったように必死で酸素を取り込もうとする。

 

 へしゃげた空咳を繰り返しながら、カナタはレイジを見上げる。

 

「俺の運命に、カナタに汚い手で触れるな」

 

 穴から差し込む月の光が、絡み合った二体の怪物を黒々と浮かび上がらせる。

 レイジの右腕が、”つくり笑い”の土手っ腹に突き立っていた。

 胴体のド真ん中をきれいに打ち抜いたその拳は反対側まで突き抜けている。怪物の体に隠れて見えないが、彼は手のひらに拍動を感じる。

 掴みだした臓器が定期的なリズムで液体を噴き出すたび、壁の大穴から吹き込む風が体液に塗れた彼の手を冷やしていった。

 

「げっ、がっ、くそ、ひゅー……」

『すごいね。レイジは』

 

 床にへたりこんで激しく咳込むカナタの傍に、少女がしゃがみ込む。

 

『どきどき、しちゃうね』

 

 そうして、少女は上気した両頬を包むようにして微笑んだ。あどけないのに、ぞっとするほど妖艶な仕草だった。

 

「勝手にしてろ……ばか」

 

 少女の幻影を振り払うようにカナタは手を振ったが、自分の体の中をすり抜ける手を、少女は見向きもしない。

 

「レイジ。げほっ、わりい……」

 

 レイジに貫かれたままの”つくり笑い”が、ぐにゃりと体を折った。

 カナタの前に二度現れて二度殺された怪物にこんな表現を使うのはおかしいかもしれないが──それは死んだ。この場は、とりあえず。

 ドロドロに溶け出し、一気に形を失った”つくり笑い”が床に広がっていく。

 怪物に踏みしめられ、レイジの大パンチで吹き荒れた風に吹かれ、そこはもう、素敵なホームシアターとは呼べない姿にリフォームされていた。

 

「ごほ……」

 

 砕けたカセットと、スパゲッティのように引きずり出された磁気テープに囲まれて、レイジは立ち続けていた。

 月下にそびえる(イワオ)のような、静かで頼もしい背中だった。だがカナタは、そこにやるせなさが漂っているように見える。

 

「レイジ……」

 

 カナタは、最後に小さく咳をした。

 記憶を失って、孤独とともに過ごした彼の七年。気の遠くなるような歳月を支えたのは、間違いなくこの小さな映画館だったのだろう。

 ここは彼の聖域だった。それを無遠慮に踏み荒らされて、粉々にされたのだ。

 かける言葉が、見つからない。

 

「カナタ!?」

 

 だが違う。

 カナタの声で我に返ったレイジが浮かべた顔は、ひたすらな心配だった。

 

「レイジ……ほんとに……それ、わりい……」

 

 まだ酸欠気味で、腕が重い。

 それでも必死にカナタが指差す先にあるものをレイジは確かめる。

 力尽きた”つくり笑い”が広げた汚泥の中に、一本のVHSカセットが漂っていた。

 

「レイジの好きだった映画……」

 

 ”焼失”だった。カセットは一見無事に見えるが、デッキから引きずり出された衝撃でテープがぐちゃぐちゃに絡まり、トドメとばかりに怪物の足跡までついている。

 

「ダメになっちゃって……すま、なっ、げほっ、げほっ」

 

 レイジに残されたのは、汚泥に塗れたテープの山だけだ。

 その落胆ぶりを想像するだけで、カナタの喉の奥から忘れていたように咳が転がり出てきた。

 

「こんなものはいくらでも替えがきく」

 

 レイジの大きな体が、動いた。

 

「あっ」

 

 ぎこちない男が、ぎこちない手つきで、カナタの体に触れる。

 

「カナタを守れてよかった。苦しい思いをさせて、すまない」

 

 たくましい両腕がヘドロにまみれたカナタの体を抱きしめていた。

 そうとうに加減しているだろうに、その力はかなり強い。

 

「けほっ」

 

 カナタが軽く咳き込むと、レイジが慌ててその手を離そうとする。

 それを「いい」と言って、彼女は掴んだ。絞め付けられるのは嫌いだ。さっきの怪物にされるがままに散々ぐちゃぐちゃにされたのでトラウマ寸前だ。

 だが、レイジだけは別でいい。カナタはおかしく思いながら、小さく頷いて自分を納得させる。

 夏夜の熱気が渦巻く部屋で、ごつごつした汗臭い男に腕を回しながら、脇の下の臭いをかいでるような状況だが──それでもいい。今だけは。

 

 夜空を覗かせた壁の穴から、ヒュウ、と風が吹いた。

 

「なあ……レイジ。はずいんだけど」

 

 カナタは急に気まずくなってきた。

 汗ばんだ腕を邪険に引き剥がしながら、レイジを軽く睨む。

 

「アタシたち一緒にいすぎて感覚がマヒしてんだ。オトコとオンナだぞ。一応」

「ま、前に俺は同じことを言ったが……カナタは気にするなと」

「うるせ。ヨケーなことばっか覚えてンじゃねえよ」

 

 どん、と。レイジの分厚い背をカナタの腕が打った。

 

『うおほん。ごほん。えへんえへーん』

 

 そこで、とてつもなくさりげなく、自然この上ない咳払いが響いた。

 二人が同時に目を向けると、幻の少女が二人のすぐ傍でニヨニヨ笑っているところだ。

 

『カナタちゃん。かわいーね』

「うっ……せえ!」

 

 カナタが振った腕は少女をすり抜け、穴だらけになったVHSの山にぶつかる。

 小さく悲鳴を上げて、痛めた拳をさする彼女のことを、少女は面白そうに見つめていた。

 

「驚いた……カナタにも見えるのか」

「そうだよ。これでアタシもレイジと同じ、イカレポンチの仲間入り。ってワケ」

『レイジ。かんちがいしないでね。おちこまないでね』

 

 立ち上がった少女が、カナタの頭をさすさすしながら小刻みにうなずいてみせる。

 

『これ、次に“あたしもレイジと同じですー。よかったなあ、あたしといっしょだぞ。フコーチューのサイワイだぞー”って言い出すヤツだから。きっと』

「ぎっ」

 

 カナタが奥歯を鳴らした。しかし、それ以上に出来ることは無い。

 元からツリ目気味の目元をさらに吊り上げて唸り声を上げるカナタは、もはやゲートから解き放たれる寸前の闘牛だ。

 そして少女は、フローリングに爪を立ててバリバリ言わせるカナタを前に涼しい顔。

 マボロシの存在はこういうときに気楽に構えられる。触れないから、殴られない。

 

『へへーん。握手してくれないイジワルガールには私もいぢわるしちゃうもんねー』

「こンのクソガキ!」

 

 そんなふうにカナタを挑発するのも、ノーリスクだ。

 ムダと分かって手を振り回すカナタと、当たるはずがないと分かっているのにキャアキャア言いながら頭を押さえる笑顔の少女。

 それを見守るレイジの顔はいつもどおりのポカン顔にもかかわらず、どこか柔らかい。

 

「ンだよ」

『なあにい?』

 

 二人が同時にクルっと顔を向けてきて、レイジは少しだけ後ずさった。

 

「悪く思わないでほしいんだが……」

『レイジのことを? 私がそんなふうに? ナイナイ』

「いいからさっさと話せよな」

 

 少女は興味津々に身を乗り出してくる。その幻影を押さえ込んで、押しのけるように、カナタがレイジのすぐ目の前に顔を突き出してくる。

 

「あー……二人が。知り合いみたいに話してると……俺は嬉しい」

 

 少女とカナタが、顔を見合わせた。

 

「カナタ。この子はずっと、俺の頭の中で死ぬばかりだったんだ。だから、カナタが仲良く話しているのを見て、安心した」

 

 一呼吸置いて、レイジはゆっくりと、仏頂面を取り払う。とてつもなく長い間地中に埋もれていたものが顔を出すように──そこに浮かぶのは、見ている方の心が温かくなるような、微笑だった。

 

「ありがとう」

 

 七年間、少女と二人で分かち合った孤独。それを解き放ってくれたカナタに、彼は礼を言う。

 

「はァ?! 仲いい? どこが──」

 

 カナタが背後に目をやると、少女が目を輝かせて見つめ返してくる。その右手は、いつでも握手オッケーだよん──という風にフラフラ揺れているが、無視する。全力スルーだ。

 

『おい、こらあ。ダチんこじゃんかあ。仲良くせよぉ』

「るせえ」

 

 ホガラカな雰囲気でも、カナタは断固拒否の構えを崩さない。

「あっそ」と面白くなさそうにもらしながら、少女は床の上に座り込んだ。このメンツの中で一番騒がしい彼女がたたずまいを正すと、レイジもカナタも、自然と様子を伺ってしまう。

 

『じゃあ──ちょっと雰囲気変えて。ここからちょっくら気分引き締めて聞いてね。大事なハナシするよ』

 

 じゃら。少女のワンピースが音を立てた。

 壁に開いた大小の丸穴から差し込む月の光が、レイジとカナタが共有する幻の輪郭を妖しく染め上げる。

 フジツボに顔半分覆われた少女は、灰色の衣服を身に着けている。そして、それは何かのぼろきれをワンピースのような形に巻きつけたもの。

 蟻の腰のように細ったウェストのラインを浮かび上がらせるのは、幾重にも巻きついた鎖だった。

 

『またつながりが強くなったね。うれしいね』

 

 口を半開きにしてそのさまを見つめるレイジに、少女は意味ありげな笑みを向けるのだった。

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