『海……楽しかった?』
まただ。
どいつもこいつも、カナタにおんなじことを聞いてくる。
実体がないのだから壁などすり抜ければいいものを、少女はわざわざ崩れた穴のフチに手をついて瓦礫の山を乗り越えていく。
それを後ろから支えようとするワタワタするレイジも、カナタの目にはこっけいに映る。
『きぶん。大事でしょ?』
見透かしたように、振り向いた少女が語りかけてきた。
「知るかよ」
カナタは肩をすぼめて二人の後に続く。
ホームシアターから去り際、彼女は一度だけ振り返った。
イスはなぎ倒され、黒い壁と化していた無数のVHSやDVDは汚泥と湿気でもうダメだ。暗幕は千切れて垂れ下がり、スクリーンも、壁もズタズタだ。
楽しい別世界だったような部屋は、魔法が解けてしまったようだった。もう、ただの廃墟の一室でしかない。
「オマエ、ちょっとは落ち込んだりしても──」
「それで。きみがどうして俺たちのところに来たか、ということだが……」
そこで部屋の持ち主レイジはというと、ままごとの最中だった。
後ろ髪引かれる気持ちで部屋を後にしたカナタの目に、卓袱台を挟んで向き合う二人の姿が映る。
レイジから差し出された湯飲みを前に、少女はニッコリ笑っていた。
『ありがとー!』
ちらり。少女がカナタを見やる。
彼女が、すぐ隣のクッションをポンと叩いた。その動きに合わせて、白く細い腕に根付いたフジツボが擦れ合い、かけらを落とす。
芸の細かい幻だ──少女の誘いを完全無視して、カナタは二人の間に座った。
『ええー! つれなすぎだよう!』
「いいだろ。アタシとオマエはトモダチじゃない」
唇を尖らす少女と目を合わす気すら持たず、カナタは卓袱台にヒジをついた。彼女の見つめる先にあるものはただひとつ。困惑の色を濃く顔に浮かべて、二人の様子を見守るレイジの姿だけだ。
「アタシはここに偶然座ってるだけ」
顔のすぐ横から小さな手が出てきて、目の前で振られているが──カナタはそれを無視した。
「マボロシとおしゃべりしてえなら、オマエがやれよ、レイジ」
「せっかく仲がよくなったじゃないか」
『そうだよ! でもって、わたしと握手しろー!』
LEDが投げかける冷たい光の下で、リビングに立ち込める空気も徐々に気まずく、温度を失っていく。
『え……そんなにイヤ……? カナタちゃ……う! ……うーッ!』
「カナタ……」
もちろんカナタだって、少しは悪いと思ってる。
どうしてここまで素直になれないのか。ほっぺをパンパンに膨らませた少女とベランダのガラス越しに睨み合いながら、カナタは自分で不思議になる。
レイジと自分の間に、少女がいるのがイヤ。抱えたモヤモヤの正体を突き詰めてしまえば、そういうことになってしまう。
カナタがレイジに触れるとき、間に少女って膜があるみたいで──それが、ちょっと気持ち悪い。
ガキっぽいのは重々承知だ。意識して、それをやめられないのも。
『ふん。いいよ。お水おいし』
湯飲みを持つジェスチャーをしながら、少女も負けじとそっぽを向いた。
『……じゃあ、大事なことだけ教えて、今日は帰る。帰りますよーだ。つーん』
少女が、右手を高く差し伸べた。
もう片方の腕に比べ、こちらはフジツボの侵食が控え目だ。本人も動かしやすいようで、ピンと伸ばした人差し指を、空中でくるくると滑らかに回す。
ゴボ。
くぐもった音が聞こえた。
その出所は少女の背後。リビングから見える、台所だ。
『”つくり笑い”が入ってきたの、あそこだね』
「カナタ。ここにいてくれ」
「うっせ。アタシにサシズすんなっつうの」
腰を浮かせるレイジ。そして、カナタは彼の命令を無視して先に立つ。
台所は彼女の領分だ。目の前のクソガキがそこに悪さしようってんなら──まあ、できることはほぼないが、大声上げて魔よけの粗塩をブチまけるくらいの覚悟はある。
一歩、また一歩。
さっきの修羅場のせいで、カナタの体力は限界が近い。
その足取りはおぼつかない。
彼女を気遣ってか、自分の体に掴まらせようとするレイジを何度も肩で押しのけながら、それでもキッチンに歩いていく。
ウロコの生えた素足がペタリと踏み出すたび、悪臭がツンと強くなる。
忘れるはずもない。今でも彼女の首筋にこびりつく汚泥と、まったく同じにおいだ。
「……ンだよ。こりゃ……」
シンクを覗き込んで、カナタが眉間にしわを寄せた。
そこには、夕食のそうめんを準備したときの汚れ物が雑多に突っ込んだままになっている。それだけでもゲンナリなのに──問題は、そこの一切合財が黒い汚泥にまみれていることだ。
出所は排水口。
逆流防止の黒いゴムを引き裂いて溢れ出したタール状の泥は、シンクの底に溜まって静かにさざめいていた。
『黒い怪物──きみら、棘皮人間って呼んでたっけ。あいつらゴキブリだよ。この町の水場なら、どこからでもわいて出る』
背伸びしてシンクを覗き込みながら、少女がふっと息を吹きかける。
そこに溜まった汚泥はモゾ……とうごめいて、シンクのフチを登ってくる。無数のナメクジが這うようにして少女の手元までやってくると、それは一塊になった。
『さて』
黒い汚泥の玉を軽く撫でて、少女は二人に笑いかける。
「さて、じゃねーよ。どう見てもおかしいだろ」
これから大事なこといいますよー……という雰囲気の少女に、カナタが待ったをかけた。彼女の隣で、レイジも同じく怪訝顔だ。
「おい。そのくせえヘドロ、オマエの言うこときいたよな?」
『んー……そうだねえ……』
少女は二人のことを交互に見つめた。
眉間にしわを寄せたカナタと、石像のように微動だにしないレイジ。二人に見下ろされて、少女は動じない。
ただ、唇に人差し指を当ててみせる。「しー」のジェスチャーだ。
『わたしの正体は秘密にしとこうかな。ミステリアスな方がステキでしょ?』
「どうせあの怪物の仲間とか、そんなんだろ」
『あははー、そうかもねー』
少女は笑う。
笑うばかりで、答えはよこさない。
『だとしても……わたし、カナタちゃんの味方だよ。何が起こっても。それは確か』
「…………あっそ」
『さて』
眉根を寄せるカナタの前で、汚泥の塊が宙に浮く。
いまさらそれで驚くような人物はこの部屋にいない。
『きみたちの冒険は終わっていない。始まってすらいない』
「「は?」」
レイジとカナタの声がダブったが、少女はお構いなしに汚泥の塊をいじり続ける。
意思を持った泥の塊は、彼女に従うように空中でねじれ、形を変えていく。
『この西町の外側にはね。おっきなドームがあるんだ。まともな方法で、その外に出ることはできないよ』
塊がとった姿は、半球だった。
スノードームのような外殻が砕け落ち、現れたのは西町のミニチュアだ。広大な水田地帯と、その中央に聳え立つビル群。
呆気に取られる二人の前でくたびれた商店街と西高を泥で再現しながら「わたしってけっこう凝り性かもー」などと少女はうそぶいている。
「は? 外? ドーム? そんなん、なかったよな?」
頭の中で今日の行程を辿り直しながら、カナタが隣のレイジに言った。
「うむ……」レイジも、ゆっくりうなずく。
西町のはずれのバス停からオンボロバスに揺られて約五十キロの旅路。
『青林一丁目』を抜け、ギリギリシーズン前で閑散とした砂浜を歩いたことを覚えている。そこで泳いだこと、サメと戦ったこと。ルリコの水着が赤かったこと。
そして────カナタが何も思い出せなかったこと。
『ひでえハナシだよね』
ワケも分からず顔を見合わせる二人を前に、少女は遠い目をしていた。
『二人とも、落ち着いてきいてくれるかな。実はこの町、ユルい管理社会でね──』
滔々と語りだす前フリを口にしてから少女は黙り込んだ。
あどけない口からいきなり吐き出された、むつかしい言葉。もはやその処理で脳みその大半を使ってしまっている。
『あそっか、きみたちって頭よくなかったもんねえ!?』
胸の前でポンと手を打って、少女が目を丸くした。そこに皮肉や悪気がないのが、さらにタチ悪い。
「レイジ、こいつ、殴れ。ちからいっぱい、オマエの全力みせろ!」
「いや……」
カナタが猛烈な勢いでレイジの背中を叩いているが、彼にそんなことはできない。
『養豚場、みたいなモンだよ』
漫才めいた二人のやり取りをニコニコ見つめたまま、少女が言った。
『自由に見えるけど、自由なんてない。ここはおエラい人たちが作った世界だ。ここは作られた
うぞうぞと動き続ける泥のミニチュアを見つめたまま、少女は笑った。
はじけるようだった笑い声が、唐突に、沈んだ。まるで別人のように、低く。
『やつらは町の外に広がる現実ときみたちを向き合わせるつもりがない』
「待ってくれ」
そこでレイジが、静かに割って入った。
『なあにぃ?』
少女が小首をかしげたとき、その様子はいつもどおり、見た目相応の女の子に戻っていた。
「俺たちは海に行った。それは間違いじゃない。カナタ──そうだよな?」
「……ああ。そうだ」
カナタは腕組みした。
『ふうん』
少女は少し醒めたようになって、部屋の中を見渡した。その目がキッチンのシンクを飛び越え、リビングの端に投げ出されたリュックサックに留まる。
『ところであれ、なに?』
レイジがこの町にある”施設”で目を覚ましたとき、彼の傍にあったもの。記憶とともに失われた肉親──姉との唯一のつながりだった。
「これがなんだって?」
カナタはそれを手にとって、首をかしげた。
少女の言うことはワケがわからない。だが、かすかな違和感があるのは確かだ。
少なくとも七年モノというわりには真新しく感じる。見た目はそっくりしているし、縫い目もほつれていない。
「ワッペン……」
レイジが、はっとした。
「ワッペンがない。姉さんのだって、キリエ先生が言っていたやつ……」
『中を見て』
七年も使い込まれたものとは思えない。見た目は同じでも、縫い目も生地も不気味なほど完璧だ。
少女に指摘されるまで、レイジは。そしてカナタも、『真新しい七年前のリュック』について違和感をもてなかった。
ジジジ……と音を立ててあらわになっていくのはリュックの中身だけではない。何者かによって覆い隠された、巨大な違和感だ。
「これ……」
レイジが取り出したのは銀色の輝きだった。
何のことは無い。二段重ねの弁当箱だ。ズッシリした重みを感じる。中身がまだ入ったままだ。
フタを開けると、きちょうめんに整列した卵焼きが彼の前に現れた。
『食べなよ。レイジの好きなやつだよね、カナタちゃんの──卵焼き』
一気に温度を失った少女の声が、レイジの背を押した。
カナタも唇を噛んで、彼の一挙手一投足を見守っている。レイジが彼女の弁当を食べずに一日過ごしたなんて、今まで無かった。
そして、彼女の脳裏にはビーチでの記憶がある。
バーベキューの待ち時間に耐えられず、パラソルの下でカナタの作った卵焼きを一心不乱に口に運ぶ彼の姿が。
「ああ、うまいよ」──そう言って笑うレイジの笑顔を、彼女は思い出せない。弁当の感想を言われた時、いつも感じてきた暖かいこそばゆさを、思い出せない。
彼女と少女が見つめる前で、レイジの指が卵焼きを掴み取る。
均一で美しく焼き目がついた、まるで工業製品のような一切れが、彼の口に運ばれていく。
ぽっかり空いた空洞のような口に、卵焼きが吸い込まれていった。
「レイジ……」
ピタリと。
スイッチを切ったように動きを止めたレイジを見た瞬間、途方も無い不安がカナタの中に溢れ出した。
半開きになった彼の口から、ボロ、と卵焼きのかけらが落ちる。
「カナタ」
むぐ。レイジの口が動き、残った卵焼きをなんとか飲み込む。
「海へいっしょに行こう」──そう約束した相手に向き直る彼の顔は、見たことがないほど固い。
「俺たちは海になんか行ってない。だまされた。全部、ウソだったんだ」